2017年5月30日火曜日


2017528日 宣教



創世記1章1~5

「闇に輝く神の光」

 

初めに神は天地を“そうぞう”された。

この文章をそのまま、例えば小学校低学年ぐらいのこどもに語ったとしたら、その子はその言葉からどのような状況を思い浮かべるでしょうか。

 “そうぞう”(SouZou)

もしもこどもであれば、または大人であっても聖書物語に馴染みのない人であれば、“創造”をもう一つ別の意味の日本語の“そうぞう”に理解する可能性はないでしょうか。神は天地を “そうぞう(想像:imagine)”された。

実はこれは私が考えたことではなく、ジョナサン・マゴネットというユダヤ教のラビ(rabbi)から聞いた話です。マゴネット先生は西南学院大学の神学部の客員教授として、毎年来日され、神学部の学生たちに旧約聖書についての講義や講演をしてくださっています。ちなみに、このマゴネット先生は「キング・ダビデ」という映画でリチャード・ギアと一緒に映画にも出ているそうです。私はまだその映画を見ていませんが、リチャード・ギアが演じるダビデの結婚式の司式役で少しだけ出ているそうです。そしてその映画で、聖書の知識に関するアドバイザー役も務めたと言っていました。マゴネット先生はイギリスのユダヤ人家庭に生まれ、ご自身のことを“自分はイギリス人”だと認識しておられますが、20歳ごろからヘブライ語を学び直し、正式にユダヤ教のラビの資格を取り、ロンドンにあるレオ・ベック大学Leo Baeck Collegeというユダヤ教の神学校の学長も務められました。先生は日本語も学ばれており、“そうぞう”という日本語が、“創造”と“想像”と両方の意味があることを知り、創世記の冒頭部分を「神は天地を“想像”された」と読めば、それはまた別の面白い意味を持つ、とおっしゃっておられました。

 確かにそれは面白い“想像”ではありますが、しかし、神はこの世界をただ“想像”されたのではありません。イエス・キリストの神は、この世界をお造りになりました。神は世界を“創造”されたのです。この「創造する」を意味するヘブライ語の動詞“バーラー”(ba-la)は、神にしか使われない動詞です。人が何かを作ったりするときには使われません。このことからも、聖書は、世界の創造は神にしかできない業である、と伝えているのです。私たち人間は、すでにある物を利用して何かを作ることはできます。

 しかし、何もない状態から何かを生み出し、それらに生命を与えて生かすことは神にしかできないことです。 この世界を無から創造することは神にしかできない、世界は神によって造られた。そのような信仰が創世記11節、聖書の冒頭の言葉には込められています。

 
そして、「初めに神は天地を創造された」というこの言葉は、私たちに、“あなたは何を信じて生きるのか?”と、人としての生き方の根本を問う言葉でもあると思います。それは、この世界は神によって造られたのであり、私たち生きる者はその生きる命の根拠を神に拠っていることを信じて、それを受け入れて生きるのかどうか、という呼びかけです。
世界の始まりがどうであったか、そういうことは一切考えないという生き方もあります。神様なんて信じない、もしくはいくら考えても確かには分からないのだから、分からないことはそもそも考えないという生き方もあるでしょう。または、この世は所詮ただの夢(想像?)のようなもの、少しでも楽しく生きていけばそれでいいんじゃないか、という生き方。そこまで刹那的ではなくても、世界の始まりとか、人生の目的とかそういうことは真剣には考えないという生き方です。そのような生き方ではなく、この世界と私たちの命をお造りになった創造主を認めて、そしてその創造主は何らかの目的をもってこの世界とそしてこの私をも造られたはず、そう信じて生きるかどうかを決断するように迫る言葉が創世記の最初の言葉です。


 もう最初から結論ですが、聖書は“あなたの造り主を覚えなさい”、この世界と私たちの命は神がおつくりになった、その創造主を知って生きていくようにと、よびかけます。

 コヘレトの言葉の121節にこうあります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」

創世記一章はそれにしても不思議な物語です。クリスチャンでない人には、クリスチャンがこんな非科学的なことを信じていることが、とても不思議に思えるかもしれません。見てもいないのになぜこんなことが分かるのか?そうです、誰もこの世界の始まりの様子を見た人はいないのです。この創世記を書いた著者も、神がこのように世界を造った様子を傍にいて見ていたわけではありません。しかし、創世記を書いた著者は、(それはおそらく一人ではありません。創世記は、長い年月をかけて、一人ではなく多くの信仰者達によって伝えられ、徐々に完成された物語です)彼らが与えられた信仰の目を通して(見た)、理解した世界の創造を記したのです。目には見えなくても、信仰者にとって確実なことは、この世界は神によって造られた、ということです。私たちクリスチャンがすべきことは、たとえこの創造の物語が、非科学的であり証拠を示して確認することが難しいとしても、“世界は神によって造られた”という信仰に生かされることが、そしてその神とはどのようなお方であるのかを知って生きることこそが、人を真に人らしく生かすのだということを、自らの生き方で表すことです。

 

 2節に「地は混沌(formless and empty)であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」と書かれています。地は混沌である、むなしい(formless and empty)。私たちの周りの世界が、また私自身の心がこのように形がなく不安定で、目的もなくむなしい、そのように思える時がないでしょうか。これは神のいない状態です。または私たちが神を受け入れない場合、世界がどのように感じられるのかを表している言葉です。土台がないので不安定です。どこに立っているのかの確信がありません。すべてに目的も何もないのですから、空虚です。イエス・キリストを知らずに生きていたころの私は、自分を支える土台が何であるかがはっきりとしない、不安定な生き方をしていたと思います。いや、不安定であることにさえ気づいていなかったかもしれません。


 意識的に、または無意識的に、何かを自分の拠り所にしようとしていたと思います。それは自分の持っている能力、経験、自分で建てた将来への計画や夢、お金?または自分自身?そういったものだったと思います。聖書の中で、キリストの故にそれ以前の生き方を完全に変えられ、それまで持っていた人間的には良いと思えるものを、神のすばらしさの前に完全に放棄した人物がいます。


それはパウロです。



フィリピ356

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」ユダヤ教徒として、生まれも育ちも知識も教養も、熱心さにおいても非のうちどころがなかったパウロ。今風に言えば完全な「勝ち組」だったはずのパウロも、つづく7節でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」。パウロは、どれほど熱心に律法を学び、それを守っても、それらによっては本当の平安を得ることができないと思っていたのでしょう。自分にとって確固とした土台となるようなものを感じられなかったのだと思います。しかし、彼は復活の主イエス・キリストと出会い、最後はおそらくローマで殉教しただろうと言われますが、イエス・キリストのゆえに、彼は、困難は多くとも、確実でそして幸福な人生を生きました。神のない状態、土台がなく目的のない状態の中に、神の光が差し込みます。3節「神は言われた “光あれ”。こうして光があった」神の言葉によって闇の中に光が起こされました。「深淵」(deep)という不気味な状態も、神の造られた光に照らされてはっきりとその姿(正体)を現します。闇の中に光を起こされた神の言葉は、私たちの心の中の闇にも大いなる光をともされます。闇の中で先の見えないような状態であっても、神の言葉によってその中に光が差し込むのです。

この創世記が書かれたのは、バビロン捕囚の時代であったと言われます。イスラエルの民が強国バビロンに捕囚として捕らえられていた時代です。故郷から遠く離れた異国での捕囚生活のなか、ユダヤ人たちは厳しく希望のない生活をしていました。しかし彼らは、そのような苦しい境遇の中にも、神の“光あれ”という声を聞いたのです。信仰の耳によってその声を聞いたのです。闇の中に神が一声を発してくださいました。神の慈愛に満ちた力強いこの一言を、今の私たちはどのように聞くことができるでしょうか。


今は、神の言葉、そして神の光はイエス・キリストを通して私たちに与えられています。私たちの心の中の闇も、または私たちの周りの闇と思えるような状況も、神の言葉であり光であるイエス・キリストを私たちが受け入れていれば、それがどんなに深い闇であっても私たちを支配すること決してない。聖書はそう伝えています。


新約聖書のヨハネによる福音書は「初めに言があった。」で始まります。この「初めに言があった」と、創世記の神の「光あれ」という言葉は、同じ一つの真実を指し示しています。神であるイエス・キリストは世の初めから存在しており、イエス・キリストの言葉によりこの世界は創造されて、始まったという真実です。

 創世記145

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である

神の言葉によってできた光に照らされたその日から、私たちの本当の命の日は始まる。それが「第一の日」という意味です。今日は日曜日です。一週間の最初の日です。先週一週間それぞれの重荷を背負って、重い気持ちで今の礼拝の時を迎えておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちは神を礼拝することによって、神の言葉を頂いて、神が見て“良し”と言われた光の中に生きていく思いを新たにさせられます。神が“良し”とされた光が私たちに注がれている。光とは、即ち、み言葉です。

「あなたの御言葉は私の道の光」と詩編の著者は述べています。(詩編119105

 聖書の御言葉が闇を照らし、そして私たちの進む道を照らしだすのです。 
今日の最後の5節には「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。

ユダヤの時間では、一日は日没から始まります。例えばクリスマス・イブというのは、クリスマスのイブニング(晩)という意味です。1224日の日没の時点で、すでに1225日が始まっていると考えるからです。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神がこのように一日の秩序を定められました。夕方という時間をみなさんはお好きですか?皆さんは一日のうち、どの時間が一番お好きですか。季節によっても違うかもしれませんが、一日の業を終えて、ほっとする時間。家に帰る時間。夜にもまだ仕事はあるかもしれませんが、昼と夜の間の時間は、つかの間の休息の時間ではないでしょうか。そして夜に人は休みます。夜は私たちが休むときであり眠る時です。そのような生活時間の秩序を神が定めてくださったのです。

 創世記は神の創造の業が6日間で完成されたと伝えているでしょうか?

 違います。

創世記2章の初めに「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」と書かれます。神が7日目に休まれたことを含めて「天地万物は完成」されたのです。私たち人間も、ただ活動的であるだけではなく、働きを止めて休むこと、憩う(いこう)ことが必要であり、それも生きる目的の一部であるのです。皆さん、一週間の生活の中で、ほんとうに忙しく自分の時間の無い方、余裕の無い方もいらっしゃると思います。それでも、私たちの生きる時間も主がお造りになって、私たちはいつも主の許で休むことができるのだということを、しっかりと覚えたいと思います。

私たちは日曜日に礼拝を捧げ、この礼拝から私たちは新しい一週間を始めます。この礼拝から、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。そして一週間の生活を終え、来週また教会へ神を礼拝するために戻ってきます。それはなんの意味もないただの繰り返しではありません。見た目には同じことの繰り返しで変化のないような生活に見えたとしても、神の言葉に生かされ、礼拝を中心に生きる生活は、土台のしっかりとした意味のある生き方となります。

最後に創世記131節をお読みします。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」

神はご自分のお造りになったものをすべて “極めて良し”と見られました。その世界の中に私たちは生きています。この世界を作られた神を認めて、神が造られた秩序の中に、神様の意志と慈しみを覚えながら、今週の日々もまた一日一日を歩んでまいりましょう。混沌とした世界に見えても、先の見えない不安に駆られるとしても、この世界を創造され、闇の中に光を起こされた、神の絶大な力と深い愛に委ねて、生きていきたいと思います。(酒井朋宏)