2017年6月27日火曜日


625日(日)宣教
マタイ福音書51316
「地の塩、世の光」

皆さんは料理することがお好きでしょうか?
 
私は料理をすることが嫌いではないのですが、あまり上手には出来ません。料理の本を見ながら、その通りに何かを作ることはできると思います。しかし、自分で作れる料理の数はとても限られています。ハンバーグ、カレーライス、肉じゃが??
 “自分で料理が色々できるようになるといいな”、“料理ができると格好いいな”とは思います。今までに何度か“料理が上手になりたい”と思って、努力はしたのですが、なかなか一人で色々な料理が作れるようなレベルにはなりません。
料理の話をしたのは、今日の箇所の“地の塩”という言葉から、塩といえば料理に欠かせないもの、ということを思ったからです。
 塩は料理にとても重要なものです。
実は私は自分で料理していて、塩と砂糖を見事に間違えてしまったことが二回あります。
玉子丼とあともう一つ何か他の料理を作ったときに砂糖の代わりに塩を入れてしまい、ものすごくしょっぱくなったことがあります。その時は本当に塩の威力を思い知らされました。
 また逆に、料理をしていて、ほんの少しの塩が、その食材を本当においしくする、劇的にその味を変える、いや味を変えるのではなくて、その食材の味をより一層引き立たせて美味しくすることも実感してきました。
 
 イエス様は言います。「あなたがたは地の塩である」。この言葉をイエス様はマタイ5章の「山上の説教」(Sermon on the mount)の中で言っています。
51節から12節で、イエス様は集まった群衆と近くに来た弟子たちに向かって“幸いな人”とは、どういう人であるかを繰り返し言います。
「心の貧しい人」(3節)、「悲しむ人」(4節)など、普通なら幸せとは言えない人たちが「そういう人たちは幸せだ!」とイエス様は言うのです。
イエス様の話を聞いていた人の中には、苦しい生活をしていた人、悲しみの中にいた人たちがいたのでしょう。そんな人たちはこのイエス様の言葉を聞いて、慰められ、力を受けたはずです。
 イエス様は弱い人たち、周りから罪人と言われていた娼婦や取税人、病人(当時は重い病にかかった人も、それはその人の罪が原因で病気にかかっているのだ、だから“罪人”だと、言われていました)と交わって、そのような人たちと共に歩みました。
 イエス様がここで語りかけていた人たちの多くは、おそらくそれまで他人から自分の価値を認めてもらったことがないような人たちではなかったかと思います。
どこに自分の価値があるのか分からない。いや、自分には何の価値もない、ずっとそう思って生きてきた人たちです。
その人たちに向かってイエス様は言うのです。5章の1節から、「あなたがたは幸いだ!」とイエス様は宣言するのです。とても幸せには思えないような人たちに向かって「あなたたちは幸せなんだ!」と。
 
そして今日の箇所ではイエス様は「あなたたちは地の塩だ」と言うのです。
「地の塩」、これは人を評価する最大限の賛辞です。人の価値を認めるのにこれ以上の表現はないと言われます。ローマ人は「太陽と塩ほど役に立つものはない」と言ったそうです。
 そして14節では「あなたがたは世の光だ」と断言します。これもこれ以上ないほどの賛辞です。
ヨハネによる福音書で、イエス様はご自身のことを“世の光”と言います。ヨハネ812節「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ですから、本来イエス様こそが“世の光”なのです。しかし、イエス様はその“世の光”というご自身の栄光さえも、人々に、私たちに、与えて下さったということです。
 ここでイエス様がおっしゃる“地の塩”、“世の光”とは、“たった一つのかけがえのない塩”、“たった一つのかけがえのない光”という意味でもあります。ギリシア語とまた英語には“塩”と“光”に定冠詞(英語で言えば”the”)がついているからです。
 ここでの定冠詞の意味は「唯一の」という意味と理解してよいと思います。
 イエス様は私たち一人ひとりを、たった一人のかけがえのない存在として、そしてこの世界になくてはならない存在として、“地の塩”であり“世の光”だと認めてくださるのです。
 
 あなたがたは地の塩である(13節)と、あなたがたは世の光である(14節)はいずれも現在形です。
“あなた方は地の塩になるだろう”とか、“あなたがたは世の光になるだろう”ではなく、“あなた方は地の塩だ”、“あなたがたは世の光だ”と事実としてイエス様は言い切っているのです。
 “地の塩のようになりなさい”、“世の光のようになりなさい”という命令形でもありません。あなたがたは既に地の塩であり、世の光だと、イエス様はおっしゃるのです。
このように“あなたがたは地の塩だ”“あなたがたは世の光だ”とイエス様が認めて下さっているのですから、私たちは自分自身の価値に自信を持っていいのです。イエス・キリストの言葉に基づいてです。
 それでも、自分は本当にそれほどの存在だろうか?そんな疑問がわきませんか。一体自分に何が出来るのだろう。自分には大した信仰もないと。。。
 しかし、信仰の大きい小さいは関係ありません。
ほんの少しの塩でも、それによって料理はとてもおいしくなります。地の塩と言われる私たちも、それと同じです。
ほんの少しの信仰でも、ほんの少ししかいないクリスチャンでも、塩が料理の中で調味料として決して目立たない存在であっても大きな効果を発揮するように、私たちの存在により、世の中が味のあるものになるのです。
 
 さて、13節の続きを読んでみましょう。
「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
これはとても厳しい言葉です。
 塩に塩気がなくなれば、とはどういう意味でしょうか。
塩は料理に使われてこそ、食べ物と混ぜられてこそ、その価値を発揮します。塩はただ単独で存在するだけでは、そこにあるだけではせっかくの価値が無駄になってしまうのです。
“塩”のように価値がある私たちも、ただ私たち一人だけで存在していては、その価値は発揮されないのです。
私たちキリスト者は、そして教会は、私たちの周りの人と関わり、社会と関わり、交わりを持って生きるのです。そうでなければ、塩の価値が活かされないからです。
このイエス様の厳しい言葉の中には、イエス・キリストによって私たちは価値あるものとされているという恵みと、その恵みを受けた者に課せられた大きな責任、の両方が含まれています。
 今までの宣教でも何度か述べましたが、当時のユダヤ人たちは、「自分たちはイスラエルの民だ」、「自分たちはアブラハムの子だ」という意識で、それが救いの条件である、と特権意識を持っていました。
 私たちも、イエス・キリストを信じているから救われている、と心のどこかで安心しきって、イエス様の御言葉が本当に自分の生き方になっているかをいつも真剣に吟味することを怠らないように、ここで促されているのです。
 
 14節を読みましょう。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とあります。
 私たちは、自分の信仰を自分たちの内だけに、この教会の中だけにとどめておくことはできないのです。山の上にある町のように、信仰は隠しておけないものです。
 先々週の礼拝では、第一礼拝と第二礼拝でも、ずっと玄関の扉が開いていました。
 実は、第一礼拝の始まる前に、少し風を通そうかと思って、私が開けたままにしておいたのですが、それがそのまま第二礼拝の終わりまで、開いたままでした。
 講壇から宣教をしながら、玄関が開いた様子が見えましたが、外を歩く人が、少しこちらを見て、中で何が行われているのかが外から見えるのもいいな、と思いました。
 いつも物理的に扉を開けているかどうかは別として、私たちの教会の扉が常に外に向けて開かれているかどうかは大変重要です。
 
 別府国際教会は、いつも扉を外に対して開いています。色々な背景や文化を持つ人たちが集まっています。私たちは私たちの多様性を喜びます。私たちは、これからも私たちの教会の扉を外に向けて開けていたいと思います。
そしてクリスチャン同士も、お互いの心の扉を外に向けて開けていたいと思います。他の兄弟姉妹同士との交わりを大事にし、お互いを認め合い、教え合って、励まし合うことを、これからも是非大切にしていきましょう。
 私たちの教会の塔の部分にはステンドグラスと十字架の形の窓があり、夜になると照明で光っています。とてもきれいです。
私たちがイエス様の教えに従って生き、イエス様から愛されているという平安で日々を生きるとき、そんな私たちの様子はきっと、夜に輝く十字架のように見えるのだと思います。
 自分にそんな光なんてあるだろうか、と思われるでしょうか。
あるのです。なぜならその光は、それは私たち自身の中から輝く光ではなく、イエス様からいただく光だからです。
 2コリント4:6(2 Corinthians 4:6)
「闇から光が輝き出よ。と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」
神が、神の栄光を悟る光を私たちの内に与えてくださいました。
神の光が私たちの中に宿っています。この光によって私たちは神を知り、この光によってどうやって日々生きるのか、どの道へ進むのかを示されるのです。
 
そして今日の箇所の最後のマタイ516節です。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
私たちの立派な行い(good deeds)を見て、それを見た人々が私たちをあがめるのではなく、天の父をあがめるのです。
神の栄光を表すこと、これはわたしたちの人生の目的です。
私たちが持っている光を私たち自身のために輝かすのではなく、神のために輝かすのです。
 さて、ここで“立派な行い”とはどういうことでしょうか。道徳的に立派な行いということでしょうか?
 私はこの“立派な行い”(good deeds)とは、人が賞賛するような素晴らしい行動のその外見的なことよりも、キリスト者として、イエス・キリストを信じて、イエス様の御言葉に従って幸せに生きる、という人間の内面のことではないかと思います。
 水曜日の祈り会では、今ヨハネ福音書を最初から学んでいます。どうぞ皆さん、水曜日の聖書の学びと祈り会にもお時間がある時に、いらしてください。ともに聖書を学び、お互いの祈りの課題を分かち合うことは私たちの信仰の絆を強くします。
 ヨハネ福音書の最初から学んでいると、まずバプテスマのヨハネ(John the Baptist)の存在の大きさに気づかされます。イエス様はヨハネからバプテスマを受けたのです。元々地上のイエス様は、ヨハネから色々と教えを受けたのではないかと思います。
それでもバプテスマのヨハネの言葉から一貫して分かるのは、彼がいかに栄光を自分ではなく、イエス・キリストに帰そうとしているかということです。
ヨハネによる福音書330節では「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。
 私たちの中で、イエス・キリストこそが栄えて、“わたし”(self)は衰える。そうすると、“私が、私が”という自己中心的な思いから私たちは自由になれるのです。
 神と他人に喜んで仕えることができるようになるのです。
神の栄光を喜ぶことこそが、私たちが最も平和に、人間らしく、生きる道である、と聖書は伝えています。
 
 さて、今日の言葉はすべて“あなたがた”に向けられて語られています。この“あなたがた”とは今日この言葉を聞く“あなたがた”、今ここに集う私たちです。すなわち私たち教会です。
 別府国際バプテスト教会が地の塩であり、世の光なのです。
 イエス・キリストを頭とするこの教会に連なり、イエス様に価値あるものと認められていることをますます知っていきましょう。
 私たちの教会は、地の塩、世の光として、この世に大きな影響を及ぼすことができるのです。世界を変えることができます。大げさだと思われますか?決して大げさではありません。
私たちが神を信じ、イエス・キリストとの親密な関係の中に自分を置いて、地の塩、世の光としての責任を喜びを以て果たしていくとき、世の中は変わっていくのです。
例えば、私たちの働きによって、新たにイエス・キリストを信じる人が一人でも起こされるのならば、それだけでも世界は大きく変わったことになるのです。
 ですから私たちは自信と喜びを持ってよいのです。
今週も、イエス・キリストが私たちを「地の塩、世の光」だと認めてくれているのだと自信を持って、希望の光を携えて、それぞれの場へと遣わされて行きましょう。
そして私たちの日々の行いが、主がますますあがめられるために用いられますように、祈りつつ歩んでまいりましょう。(酒井朋宏)