2018年4月15日日曜日

9月16日(日)主日敬老礼拝
詩編146篇1~10節
「命のある限り、わたしは主を賛美する」
        

 私たちは今日の礼拝を“敬老礼拝”として、守っています。明日9月17日(月)は、“敬老の日”と言って日本では国民の祝日です。
 礼拝の後には、70歳以上の方々を対象にお祝いの時を私たちは持ちます。年齢を重ねた方々が、今までの人生を主なる神に守られて生きてこられたこと、そして今日私たちがこうして共に礼拝することの恵みも感謝しながら、主なる神に感謝と讃美を捧げてまいりましょう。
今日の詩編146篇の前の詩編145篇から150篇までの詩編は“ハレルヤ詩編”と呼ばれます。それは、それらの詩編がいずれも“ハレルヤ”という言葉で始まり、“ハレルヤ”という言葉で終わっているからです。
日本語の口語訳聖書では「主をほめたたえよ」と訳されています。英語訳(New International Version)でも“Praise the Lord”です。
ハレルヤの“ハレルHallelu”はヘブライ語で“讃えなさい。賛美しなさい”という意味で、“ヤーYah”は、旧約聖書に出てくる神を表す文字“ヤハウェYHWH”の短縮形です。ですから“ハレルヤ”はヘブライ語で“主をたたえよ”という意味になります。
 “アーメン”と同じように、元のヘブライ語の言葉そのままに“ハレルヤ!”(主を賛美せよ)と叫び祈ると、何だかとても心が燃えるような、信仰が燃やされるような気が私はいたします。皆さんはいかがでしょうか?
 
5節次のように書かれています。
5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
旧約聖書のヤコブが賛美したのと同じ言葉で“ハレルヤ!”と讃美をすると“私たちの信仰は、昔から代々受け継がれて来たものだ”、そして“私たちも、昔の信仰者たちとつながっているのだ”という思いが強くなります。
私たちが知らされた神は、私たちがただ想像して作り出したような偶像ではないということです。聖書に書いてある通り、モーセやヤコブにそのお姿を現して彼らを救った神を、天地を創造された神を、私たちは信じているのです。
2節で“命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう”とこの詩人(詩編146篇の著者)は言います。
“自分は何をやりたいのか?”、“人は何のためにこの世に生まれてくるのか?”そのような疑問を私たち誰もが持つ時があると思います。特に若い方は、職業を選択する時などに“自分が本当にやりたいことは何か?”ということに悩むことがあると私は思います。
自分が好きな、情熱を傾けてできることを見つけて、それに打ち込むことができる人生は、大変に幸福な人生であると言えます。
 その点で、今日のこのハレルヤ詩編は、私たちに大きな希望を与えてくれています。それは、私たち誰もが、そのような“生涯をかけて打ち込むことのできるもの”、“生涯をかけて、情熱をこめて、し続けることができるもの”を持つことができる、ということを伝えているからです。
それは“主をたたえること”です。私たちの主なる神を賛美し、主を礼拝することは、命のある限り私たち誰もができることなのです。そしてそれこそが、人がこの世界に生まれてくる目的であると、聖書は教えているのです。
私たちは、どんな時にも主を賛美することができます。主を賛美する恵みを私たちから取り去るものは何もありません。私たちが、心を開いて、私たちの思いを主に向ければ、主なる神は常にそこにおられます。神はいつも、私たちの賛美を聞いてくださるお方です。
 
“ハレルヤ 私の魂よ、主を賛美せよ”(1節)-この詩人は自分の魂に向かって命令しています。“口だけで賛美するのではなくて、魂から主を賛美せよ”と自分で自分を奮い立たせようとしているかのようです。
 “わたしの魂よ、主をたたえよ”、“わたしは主をたたえるんだ!”と、彼が自分自身に言い聞かせて、強く決意をさせようとしているようです。
しかし、このようにこの詩人が言うのは、実は(さきほど、“私たちはいつでも賛美できる”と申し上げましたが)、“主を賛美できない”、“主を賛美したくても、出来ない時がある、、、”そのような経験や思いもこの詩人が持っていたからではないか、と私は想像します。
 “主をたたえよ!ハレルヤ!”と言えば言うほど、実はそうできない自分がいる、、、この詩人はそのような自分の信仰の限界、自分の弱さにも、彼の生涯の中で向き合わされたのではないでしょうか。
私たちも、辛い時とか、落ち込む時、気力も無くなり“神を賛美できない”、“祈ることもできない”という時もあるでしょう。そのような時、私たちはどうすればよいのでしょうか?
その疑問への答えと言いますか、ヒントが3節に記されています。
3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
 私たちは、讃美や祈りを、自分自身の力や自分の感情(嬉しさ、悲しさ)に依り頼んでするのではありません。そうしようとすれば、私たちは必ず行き詰まります。
賛美できない時、祈れない時は、そのような思いも全て、“主に任せて、主に解決していただく”ことが大切です。それは人間では解決できないことなのです。
 たとえ私たちが賛美することも、祈ることもできない時にも、主なる神は私たちの心の思いを全てご存じであり、言葉にならない私たちの声を聞いてくださっているお方であると、私たちは信じるのです。
 新約聖書ローマの信徒への手紙8章26~27節にはこう記されています。
 26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
27:人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
これは、イエス・キリストの霊が私たちのどのような心の思いもご存知であり、私たちの声にならない祈りも、“讃美ができない”という思いをも全て受け止めて、その思いをイエス・キリストが天の父なる神に届けてくださっている、ということです。
 賛美することも祈ることも、そもそも私たちが自分の力や思いでできることではありません。私たちを救ってくださったのは神であり、神を賛美する心、神に祈る心を与えてくださったのも神です。
そして祈れない時、讃美できないような時には、そのような思いも全て主に委ねて、主に慰めて頂きましょう。そして同じ教会の信仰の兄弟姉妹に自分の思いを打ち明けて、一緒に祈ってもらう、ということも大変私たちの力になります。
 “私は祈れないから、祈ってほしい”と言える信仰の兄弟姉妹がいることは、私たちにとって、どれほど大きな力でしょうか。
 “そのような信仰の場である教会と信仰の仲間”が私たちに与えられていることを本当に感謝したいと思います。私たちがもっともっと、お互いのために祈り合える信仰の仲間になれたらよいと、私は希望しています。
 今日は敬老礼拝です。今日の宣教を準備しながら、“老いる”ということ、“年を重ねる”ということに対して私たちはどう考えるべきなのか、と私は祈って、思いを巡らせました。
私たちは“敬老(老いを敬う)”と言いますが、本当は一体何を敬うのでしょうか?年を重ねてこられた方々、私たちより長く生きてこられた方々の存在とお働きに私たちは支えられています。ですから私たちは年長者の今までのご苦労を覚えて、敬意を表します。
しかしキリスト者はやはり、“命の主であるイエス・キリストの神が、年長者の方々お一人お一人の命を今まで守り導いてくださってきたこと”に、一番の感謝と敬意を表すのだと、私は考えます。
そして、“老い”とは、結局は1日1日の積み重ねの結果です。長い年月のようであっても、それは私たちが生きる1日1日、また1日の中の一瞬一瞬という時の積み重ねでしかない、と私は思います。
私たちは一瞬一瞬を、その日その日を主なる神に生かされていることを感謝して、今向き合うべきことに誠実に取り組んでいきたいと願います。実際私たちは、一つ一つのことを順番にするしかありません。あらゆることを一度にすることはできないのです。
私たちの日々の中では、思いがけないことが色々と起こったり、またやらなくてはならないことに追われたりもします。その中でも、するべきことにできるだけ優先順位を付けながら、与えられた時間の中で、日々を歩んでいきたいと願います。
 今日の7節から9節までには、主がどのようなお方であるのか、についての、この詩人の告白が記されています。
そこでは、主は虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになるお方です。
捕らわれている人を解放し、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こしてくださるお方です。ご自分に従う者を愛してくださるお方です。寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされるお方です。
しかし私たちの現実はどうでしょうか?今世界には十分な食料がなくて飢えている人が数多くいます。寄留の民、特に今、難民となって住むところを奪われている人々も数多く言います。
病気に苦しんでいる人も多くいます。そのような現実の世界で、この詩編の言葉が、特に7節から9節までの言葉が真実だと、どうして私たちは言えるのでしょうか?
 私は、重い病気で死を間近にした信仰者が、主への信仰によってご自分の終わりの時に向き合っている姿に接する機会を頂いたことがあります。
大変な悲しみの中にも、そこに主の愛と憐みと喜びを見いだされた、信仰の証をお聞きしたこともあります。
私たちの周りには、辛く悲しい現実もあります。しかし神の言葉と、イエス・キリストの十字架と復活により与えられた確かな希望も私たちには与えられているのです。
私たちが聖書の御言葉を読み、聖霊によってその御言葉が私たちに語りかける時、そして御言葉に力づけられて私たちが現実に向き合う時、“主はどんなことでもお出来になるお方だ”、“主は私たちを愛してくださるお方だ”という確信が私たちに与えられるのです。
聖書の言葉は“信仰はただの言葉や私たちの頭の中だけの理想ではないこと”を教えてくれます。聖書の言葉は、“私たちの身の回りの現実に向き合うように”と、私たちを促します。
イエス・キリストへの信仰を持つということは、私たちがイエス様と人格的な親しい関係を持つということであり、そしてそれによって私たちの生き方が変えられる、ということです。それは私たちの身の回りの現実を直視し、他者と関わる、という生き方です。
神が人となって人と共に生きてくださいました。神がイエス・キリストとなって、私たちの隣人となり友となってくださったのです。
神は人となって私たちの苦しみと悲しみを担い、人間の持つ限界さえもご自分のこととして全て引き受けてくださいました。私たち人間の、そのままでは死すべき命を、ご自分の持つ永遠の命と交換してくださったのです。
敬老とは、わたしたちの命を敬い、私たちの命の日々を大切にする、ということです。そして私たちに命を与えてくださった主なる神を敬うことです。
私たちに命を与えてくださり、そして主を賛美する心と言葉とを与えてくださった主なる神に感謝をし、これからも共に主を賛美し続ける教会であり続けましょう。
 今日“敬老”の礼拝で、私たちは、年配者も若者も、子どもも一緒になって“ハレルヤ!”と心から、私たちの魂から主を讃えましょう。そして同じ教会の兄弟姉妹同士でこれからもお互いに励まし合って、祈り合っていこうではありませんか。