2018年4月15日日曜日

2018年11月11日(日)主日礼拝宣教


ローマの信徒への手紙12章1~8節
「あなたがたのなすべき礼拝」


今日もこうして、私たちが共に礼拝できることを、私はとても嬉しく思います。私たちが毎週礼拝を一緒に守ることのできるこの特別な恵み、そして皆さんが礼拝に参加してくださることを、私は皆さん一人一人に、そして私たちの主である神に感謝を致します。
私たちはどのようにして礼拝を捧げているでしょうか?一体、礼拝とは何でしょうか?礼拝で、最も大切なことは何でしょうか?
礼拝で一番大切なことは宣教を聞くことでしょうか?または讃美歌を歌うことでしょうか?祈ることでしょうか?または、イエス様の命じられた主の晩餐を守ることでしょうか?これらはいずれも、私たちの礼拝を構成する大切な要素の一つ一つです。
 私たちはどのように礼拝すべきなのか?クリスチャンにとって、非常に大切で本質的なこのテーマについて、今日はローマの信徒への手紙12章から、私たちは共に考え、学んでまいりましょう。
1節に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と記されています。
「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げること」―それがわたしたちキリスト者の“なすべき”礼拝であると、この箇所は伝えます。
この“なすべき礼拝”と言う言葉は、私たちが読んでいる英語の聖書(NIV)では”true and proper worship”(“真で適切な礼拝”)と訳されています。
少し細かい翻訳の話になりますが、同じ言葉が別の英語訳聖書では、”spiritual service”(霊的な礼拝)と訳されており、また別の英語訳では “reasonable service(理性的な礼拝)”とか”intelligent service(知的な礼拝)”とも訳されています。
別の日本語訳(口語訳聖書)では、ここは“あなたがたのなすべき霊的な礼拝”と訳されています。
これはどういうことでしょうか?Spiritual(霊的)なのか、reasonable(理性的)なのか?一体どっちなのでしょうか?
実は、この箇所で使われている元のギリシア語の単語の“ロギコス(logikos)”に、“霊的”、“精神的”という意味と共に、“理性的(reasonable)”という意味もあるのです。
普通私たちは、霊的なものと理性的(知的)なものは別のものと考えないでしょうか?例えば“信仰とか礼拝は霊的なものであり、私たちの普段の生活や、この世の実際的な事柄は理性的なものとして扱う”というように。
しかし今日の聖書の箇所では(色々な訳を比べると)、礼拝は“霊的”、“精神的”なものだけではなく、理性的(知的)なものでもあると言うのです。理性的ということは、“神の言葉に根拠を置く”ということです。
私たちは、自分の感情とか気持ちに基づいて神を礼拝するのではなくて、聖書の御言葉を中心にして、聖書の御言葉に根拠を置きながら礼拝をする、という意味で、私たちは“理性的”な礼拝を捧げるのです。
そのことは、聖霊に導かれながら“霊的”に礼拝することと矛盾はしないのです。聖書の御言葉に導かれ、聖書に書かれていることが真実だ、と信じること自体が既に“霊的”なことであるからです。
そしてさらにこの箇所は、私たちが“自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい”と勧めています。
 “いけにえ”の本来の意味を考えてみましょう。旧約聖書の律法で定められた生贄(いけにえ)は、自分の犯した罪の身代わりとして、または自分の身を清めるために動物を神にささげる、というものです。
動物の命、その動物の死によって、私たち人間の罪を償い、神の前に自分を清いものとして頂く、ということです。
 旧約聖書の律法に従って捧げられた動物のいけにえは死にますから、当然もう生き返ることはありません。いけにえは一回献げられたら、それで終わりです。
しかし、私たちキリスト者はこの自分の体を“生けるいけにえとして、捧げなさい”と今日の箇所では言われています。
 私たち自身が、生きながら自分自身の体を神に捧げる、捧げ続けるのです。これはつまり、“私たちの生活そのもの、生活すべてを通して神を礼拝する”ということです。
礼拝というと、通常は、教会でのこの1~2時間の“礼拝式”の時間のことを意味します。しかし、教会で礼拝しているこの時間だけが、キリスト者にとっての礼拝ではありません。
 私たちの生活の中で“これは霊的・信仰的なこと”、“これは世俗的なこと、世の中のこと”という区別がされるのではなく、キリスト者にとっては、生きること全てが神を礼拝することにつながるのです。
私たちの日々の生活すべてが神を礼拝することになるのです。私たちが自分の体を献げるということは、私たちが、いつも神の御心に従って“生きる”、“生き続ける”ということを意味します。
 キリスト者は、信仰告白をしてバプテスマを受けます。バプテスマは、罪ある古い自分に一度“死ぬ”ことです。そしてそこから新しい自分に生まれ変わることです。復活のイエス・キリストと共に生まれ変わるのです。
バプテスト教会は“古い罪ある自分に一度完全に死んで、キリストと共に生まれ変わることの象徴”として、全身を水に浸(しず)めるバプテスマの形を、特に大切にしてきました。
古い自分に完全に死んだ私たちは、生まれ変わって、復活のイエス・キリストと共に日々を新しく生きる者とされました。
コロサイ3:10
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
生まれ変わって、イエス・キリストによって生かされているキリスト者にとっては、毎日が新しいので、私たちには希望があります。
そして今日の2節にあるように、私たちは心を新たにして、自分を(神に)変えて頂くことができるのです。私たちは、変ることができる。神に変えて頂けるのです。昨日より今日、今日より明日、信仰者として私たちは日々成長していくことができるのです。
    私たちは信仰者として、自分の体を献げて礼拝をします。日々の生活で実際に何をするか、どんな行動を取るのか、人とどう交わるのか、どのように生きるのか全てが、わたしたちにとっての“礼拝”となるのです。
 私たちの日頃の生き方と行いが、神の栄光を表すものとなるように、私たちは祈って、そして御言葉に導かれながら、日々を歩みたいと願います。
そして今日の箇所では、“体”を一人の人だけのものとしてでなく、信仰者の群れである教会全体を一つの“体”に例えています。
3~5節をもう一度お読みしましょう。
3:わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4:というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5:わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
 私たちが、バプテスマを受けるということは、キリストの体である教会に繋がることをも意味します。一つの体につながるのですから、それは自分がキリストの体の一部となることを意味します。
そして体の一部分として、神様から与えられた賜物を私たちは、喜びをもって全体のために献げていくことが勧められています。
私たちは、自分に与えられた賜物を感謝して頂いているでしょうか?自分の頂いた賜物を誰か他の人の賜物と比較したりせずに、ただ感謝を持って全体の益のために、私たちは喜んで献げているでしょうか?
わたしたちの教会は特に“多様性”にあふれた教会です。国や言語、また豊かな賜物を皆さんが持っています。そして私たちの多様性の中には確かな“一致”があります。私たちはバラバラではないのです。
なぜなら、イエス・キリストが私たちを一つに結びつけてくださっているからです。体の部分は色々あっても、頭は一つです。教会の頭はイエス様だからです。キリストによる確かな一致が、私たちの教会にはあるのです。
一人の牧師によってではなくて、また何かの人間的な理想によってではなくて、十字架の上で私たちのために命をすててくださったイエス・キリスト、墓の中からよみがえった復活によって、私たちに生きる確かな希望を与えてくださったイエス・キリストによって私たちは結び付けられています。
エフェソ4:1~6 をお読みします。
1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
2:一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
3:平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4:体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5:主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
6:すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 
私たちは多様性のある群れであり、また個性を持った一人一人でありながら、キリストによって結ばれて、同じ霊を頂いた一つの体です。一つの体ですから、体の一部分である自分だけ、誰か一人だけが成長する、ということはあり得ません。
それぞれが頂いた賜物を、体全体、教会全体の成長のために、是非私たちは献げていこうではありませんか。
しかし、あまり“献げる”、“献げる”というと、キリスト者としての奉仕というものは、ただ自分を献げて“自分を犠牲にして我慢をする”というような、滅私奉公のようなことなのでしょうか。
今日の箇所の最後の8節を読んで、そのことを考えて今日の宣教を終わりたいと思います。
8:勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
私たちが注目したいのは最後の“快く行いなさい” do it cheerfully.です。キリスト者の働きと生き方、私たちが自分を献げるということは、ただ我慢して嫌々、無理やり人に仕える、、、、そういう生き方ではないことが、ここから分かります。
キリスト者としての私たちの奉仕、働き、そして生き方は、自発的なものであって、しかもそれは“快い”ものなのです。これは“楽しい”と言ってもいいと私は思います。
先日、Friday Family Fellowshipでのディスカッションで「なぜ私たちは仕事するのか?」、「なぜ私たちは勉強するのか?」ということを話し合いました。
キリスト者として私は、私たちは何をするにも、やはりそれは“神の栄光を表すため”、“そして自分の信仰を高めるため”にする、と考えました。
その話し合いの中で、クリスチャンではない、ある参加者の方が「なぜ仕事をするのか?仕事をするのが楽しいから」とおっしゃいました。「楽しいから!」とその方は、繰り返して非常にはっきりとおっしゃいました。
それをお聞きして私は、“楽しい”というのは、確かに非常に大切なことだと考えさせられました。仕事には大変で、辛い側面もあります。“楽しい”とは思えないことも沢山あるでしょう。
しかしそれでも、私たちは与えられた仕事の中に“楽しい”部分、“意味のある”部分を見つけ、そこに喜びを見いだすことができるのではないでしょうか。
私たちが、全体の一部分として、しかも神に愛されたかけがえのない一部分として、この世界に存在しており、今いるところに遣わされていることを知る時、私たちは仕事も、それを“楽しい”と受け止めることができるのではないでしょうか?
教会でも、自分に与えられた賜物を“喜んで”捧げることにより、信仰の一致が強まり、教会というキリストの体が共に成長していくのならば、それは喜びであり、とても“楽しい”ことではないでしょうか?
“私たちの生活のあらゆることが、この体を捧げて行う礼拝”、“毎日の生活を通して神様を賛美することができる礼拝”だと、そう信じることができれば、私たちは日々生きることを“楽しい”と受け止めることができると私は信じます。
 神様との生きた交わり、霊的で理性的な礼拝、そして神様の言葉、聖書の御言葉によって導かれる私たちの生き方を通して、日曜日の礼拝の時間だけではなくて、生きる日々の全てが神を礼拝することにつながれば、私たちにとって本当に幸いだと思います。
 世の中には一見楽しいこと、面白いものがあふれています。心身をリフレッシュさせてくれる、適度なレジャーや楽しみ、趣味を持つことは大切だと思います。
しかし、世の中が提供する楽しみというものは一過性です。しかし、神から頂く信仰の“楽しみ”は永遠のものであり、私たちを常に生かします。その永遠の楽しみと喜びの中で私たちは生きることができるのです。
私たちは神からそれぞれに与えられた豊かな賜物を惜しまずに、熱心に、快く捧げていきましょう。そして、私たちを生きた生贄(いけにえ)として主にお捧げして、新しい週の日々を神を礼拝しながら、歩んでまいりましょう。