2018年4月15日日曜日

2019721日 
マルコによる福音書41020
「神の国の秘密」
 
先々週(77)の宣教の中で、今日の箇所の直前の部分であるマルコ419節の「種を蒔く人のたとえ」を私たちは読みました。今日の箇所は、イエス様がその譬えを話した後に続く場面です。
イエス様は今日の箇所で、「種を蒔く人のたとえ」の説明もしています。何とイエス様ご自身が御言葉を解き明かしてくださっているのです。聖書の御言葉から、今日もまた私たち共に神のメッセージを聞きましょう。
イエス様がひとりになられた時、12人(イエス様の12人の弟子たち)と、彼ら12人と一緒にイエス様の周りにいた人たちが、たとえ(the parables)についてイエス様に尋ねました(質問しました)。
 
「たとえについて尋ねた。(asked him about the parables)」(10節)の“たとえthe parables”は、元の言葉(ギリシア語)では複数形で書かれています。ですから、人々は“種を蒔く人のたとえ”だけではなくて、それ以外にイエス様が話した他の譬(たと)えについても、イエス様に尋ねたのです。
“それらの譬え(those parables)(複数形)は、一体どういう意味なのですか?”または“なぜ、先生は譬えを使って話すのですか?”という質問を彼らはイエス様にしたのでしょう。
  質問することは良いことです。質問すること、また疑問を持つことは、私たちにとって大切なことです。私たちは質問をして、その質問に対して答えをもらうことによって、それまで理解できなかったことが、理解できるようになることがあります。
牧師という今の私の立場からお話しさせて頂きます。祈祷会やその他の時に、皆さんから聖書や信仰に関する質問を頂くことが私はあります。実は、そのように質問をして頂くのは、私にとっても、とても良い機会なのです。
 なぜなら、質問をされることで、私自身では気づかなかったことに気づかされたり、新しい問題意識を持つことができるからです。また質問をして頂くことで、そのことについて自分なりに考えたり、祈って調べたりして、私自身の信仰の学びと成長にも繋がるからです。
ですから、聖書や信仰に関して疑問に思うことがあれば、何でも皆さん、どんどん質問してください。(私では、すぐには答えられないことのほうが、多いと思いますが)
そして牧師の私にだけでなく、教会の兄弟姉妹同士で、特に信仰に関することについては、どんな素朴なことであっても、お互いに分かち合って、皆で祈って考えることができる教会でありたいと、私は願っています。
信仰に関しては“誰もが教師”として、互いに教え合うことができる教会、“誰からも学ぶことができる(we can learn something from everybody)”という気持ちを持って、私たちがお互いを尊敬する教会でありたいと、私たちは願います。
 
 イエス様はこう言われます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 11節)
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」の「あなたがた(you)」とは、その質問をした人たちであり、イエス様を信じてイエス様に従っていた人たちです。今でいえば、イエス・キリストを信じるクリスチャンのことでしょう。
クリスチャンには神の国の秘密が打ち明けられている(与えられている)のです。“神の国の秘密”とは、“イエス・キリストを信じる信仰”であり、また“イエス・キリストご自身”のことでもあります。
 
パウロは、コロサイの信徒への手紙22(Colossians 2:2)で、“神の秘められた計画であるイエス・キリスト”(mystery of God, namely, Christ)と言っています。イエス・キリストは神の国の秘密であり、またイエス・キリストは神ご自身なのです。
イエス・キリストは、神が人となって生きられたお方です。イエス・キリストを通して、私たちに“神とはどのようなお方であるか”が示されました。そしてイエス・キリストを通して“神ご自身”が、はっきりと私たちに示されたのです。
イエス・キリストがそのように私たちに与えられたのは、完全に神様からの賜物(贈り物)です。イエス・キリストは神様から私たちへのプレゼントなのです。
そのように与えられたイエス・キリストの恵みによって私たちは救われて、こうしてキリストの教会に連なる私たちが一つとされているのです。それは、どれほど感謝なことでしょうか。
しかし、このこと(イエス・キリスト)は全ての人に示された(与えられた)のではありません。イエス様は続けてこう言っています。
 
外の人々には、すべてがたとえで示される。
12それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
 
   
“外の人”(those on the outside)とは、“イエス・キリストを信じていない人たち”のことでしょう。キリスト信者の立場から言えば、“外の人”とは“未信者”(non-believers)の人たちを指しています。
この“外の人”という表現には、少し抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。正直私も、最初はこの表現に違和感を覚えました。“外の人”と言うと、同じ信仰を持たない人を疎外(そがい)しているような(排他的な)感じがするからです。
私たちは“内と外”という考え方をすることがあります。
自分の家族とか友達、親しい者同士、または同じ信仰を持つ者があつまる自分の教会は“内”。そして、それ以外の場所にいる人たちは“外”という考え方です。
 
クリスチャンでない方から時々“教会って誰が行ってもいいのですか?”と聞かれる時があります。私たちは当然“もちろん、教会には誰でも来ることができますよ”と思いますし、そう答えます。しかし実際には、一般にはなかなかそのようには思われていない現実があります。
教会は、イエス・キリストを信じる者が集まって神を礼拝する場所です。私たちが信仰を守る場所です。しかし同時に教会は、クリスチャンでない方も含めて、誰に対しても開かれていなくてはなりません。
“内と外”という感覚を、私たちが、自分でも知らない間に強く持ってしまって、私たちの教会が“閉じて”しまっているということは、ないでしょうか。
クリスチャン以外の人や地域の人、初めて来る人にとって教会が“入りにくい”場所になっていないかどうかも、私たちは信仰を通して考えていきたいと思います。私たちの信仰を大切に守りつつ、教会を開かれたものにしていければと、私たちは願います。
 
 12節の言葉はイザヤ書6910節の言葉です。
『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』
 旧約聖書『イザヤ書』のイザヤは、神様に呼びかけられて、神の言葉を人々に伝える預言者として仕えました。
 イザヤ書6810節を、少し長いですが、引用します。
 8そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
9主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。
10この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」
 
 
ここで私たちが知らされるのは、私たち誰もが持つ“頑なさ(hardness, stubbornness?)”です。神の恵みを見ても見ることができず、聞いても聞くことができず、心で理解できず、悔い改めようとしない、私たち自身の頑なさです。
それは“外の人”、“クリスチャンでない人”のことだけではないのです。私たちクリスチャンも含めた、全ての者の頑なさです。
しかし、そのような心の頑なさにも関わらず、クリスチャンにはイエス・キリストを信じる信仰が、ただ神の恵みと憐れみによって与えられたのです。
その大きな恵みを与えられた私たちキリスト者にできることは、その恵みにただ感謝することだけです。そして私たち人間の心の頑なさを、嘆き悲しんでおられる神のお気持ちを、少しでも理解しようと私たちは努力し、常に悔い改める(神の方向へ向きなおす)ことです。
神は悔い改めようとする私たちを、いつも優しく待っていてくださいます。神の愛と憐みを私たちが知るために必要な御言葉を、神は既に私たちに与えてくださっていますから、御言葉を通して、主の御心をいつも私たちは知ることができるように、努力していきましょう。
 
 13節以降では、イエス様ご自身による「種を蒔く人のたとえ」の説明が書かれています。
 道端に落ちた種とは、御言葉を聞いてもすぐにサタンが来て御言葉を奪い取ってしまう人のことです。石だらけの土地に蒔かれた種は、御言葉を聞くと喜んで受け入れる人です。しかし、自分には根がないので、艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人です。
茨の中に蒔かれた種は、この世の思い煩いや富の誘惑、色々な欲望が心に入り込んで、御言葉を覆ってしまう人のことです。
 私たちは、今日このお言葉(イエス様ご自身による譬えの説明)をどのように聞くでしょうか。イエス様は、今私たちに何を語りかけておられるでしょうか?
“自分はどの種類の種かな?”と想像した方もおられるでしょうか?
この譬え(そしてイエス様による説明)は、“この世界では、私たちには信仰の試練がある”、“御言葉が実を結ぶことを妨げる力がこの世界にはある”という現実を私たちに伝えていると思います。
 
世には、私たちを誘惑して、神の言葉から私たちを引き離そうとする色々な(悪い)力があるのです。しかし主は私たちと共におられ、私たちが世の試練に打ち勝つことができるように、助けてくださっているのです。
イエス・キリストへの信仰と、与えられた御言葉によって、私たちは世の試練や誘惑、悪の力に対して打ち勝つことができるのです。わたしたちの主イエス・キリストは“勝利の神”だからです。
ヨハネによる福音書1633
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
 “わたしは既に世に勝っている”=イエス様の世に対する勝利は既に実現しているのです。“これから私は世に勝つだろう”ではなくて、“わたし(イエス様は)は既に世に勝っている”のです。私たちが世に打ち勝つための御言葉も既に私たちに与えられているのです。
ですから、勝利のイエス・キリストに信頼し、イエス様に頼って、私たちも信仰の勝利と成長を目指していきましょう。
弱い私たちは、“イエス・キリストの神を信じる”と言いながらも、そしてイエス様の恵みを、いつも沢山いただきながらも、イエス様から頂いた愛のほんの少しさえも、他の人に伝えて、分け与えることもできない。。。そんな自分の愛のなさと弱さに私たちは失望する時もあるかもしれません。
 しかし、わたしたちは御言葉の持つ力、“良い土地に落ちて、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ”御言葉の持つ大きな力に希望を持つことができるのです。
  神の御言葉はそれほどまでに力強いのです。神の御言葉がイエス・キリストを通して私たちに与えられている。イエス・キリストは既に世に勝利しているーこの恵みに感謝をし、今週も主の御言葉によって力づけられ、生かされていきましょう。