2018年4月15日日曜日

2019年1月13日(日)主日礼拝 
ローマ13:1~7
「支配者への従順」
今日の聖書箇所、ローマの信徒への手紙13章1~7節で書かれている事は「支配者への従順(支配者に従う)」です。ここを読んで、私たちは最初に“え?本当に?”と思わなかったでしょうか?
1~2節
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」
 聖書は私たちの信仰の唯一の基準です。ですから、ここに書かれていることを私たちが文字通りに守らなくてはならないとしたら、例えば、教会のリーダーである牧師が言う事には、教会の皆さんは何でも従わなくてはいけないのでしょうか?
 会社などの組織で仕事をしている人は、自分よりも上の権限を持った上司の言うことであれば、たとえどんなに理不尽で無茶なことであっても従わなくてはならないのでしょうか?
 あるいは、政府の中で権限や権力を持った人達の言う事には、私たち国民(市民)は何でも従わなくてはいけないのでしょうか?
 かつてペトロとヨハネは、イエス・キリストの福音を宣教し始めた時、ユダヤ教の権威者たち(律法学者や議員たち)から“イエスの名前によって教えたり、話したりすることをやめるように”と言われたことがありました。(使途言行録4章)
しかしそう言われてもペトロとヨハネは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」“Which is right in God’s eyes: to listen to you, or to him (God)?”と答えました。それはつまり、“私たち(信仰者)はこの世の権力者ではなく神に従うべきだ”という事です。(使途言行録4章19節)。
 しかし今日の箇所で、このローマの信徒への手紙を書いたパウロは、“上に立つ権威(それは当時の状況の中では“国家の中で権限や権威を持った指導的な立場にある人達”のことです)に従え”と言うのです。
これは「人よりは神に従うべき」という私たちの信仰と矛盾するのではないでしょうか?
この箇所が書かれた当時、イスラエル・ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれていました。そして実はそのような中で、ユダヤ教徒またはイエス・キリストを信じたキリスト者の中にも、神を信じる信仰と思いがあまりに強くて、自分たちを支配する“国家”という政治体制そのものを完全に否定する人たちがいました。
“自分たちは、唯一の神様にだけ従うのだから、この世が定めた権威や制度などには一切従わない”とか“社会とは関わりもしない。社会など必要ない”というように、非常に過激で極端な考えを持ち、そのような生き方を実践していた人たちがいたようです。
 今日の箇所は、そのように極端な主張をする人達に向けてパウロが語った言葉であると、考えられています。パウロは“国家や政府など必要ない”という人に対して、“そうではない。私たちは社会の一員として、キリスト者であろうとなかろうと、社会の中で一緒に生きていくのだ”と言いたかったのです。
しかし、パウロはなぜ、“神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの” for there is no authority except that which God has established. The authorities that exist have been established by God.とまで言うことができたのでしょうか?彼はなぜそう信じることができたのでしょうか?
恐らくパウロは“ローマ皇帝を頂点とする国や社会の制度の中にも、唯一の神の守りと導きが働いている”と、聖霊の導きによって信じたのだと私は思います。“神が世界を支配しておられる”という神への信頼と信仰がパウロにはあったのです。
人間が作る制度ですから、どのような政治体制であっても、完全なものではありません。どんなに偉大で優れた王や指導者であっても人間ですから、いつでも間違いを犯す可能性があります。
しかし、たとえどのような社会体制であっても、そこには神の支配が及んでおり、たとえ彼らが自覚していないとしても、そのような神の支配の下に王やその他のローマの権力者たちも服しているのだ、ということがパウロに示されたのだと、私は思います。
 それでもやはり、“人に与えられた権限(力)が、本当に神に由来するものかどうか”―そのことは慎重にしっかりと吟味されなくてはなりません。
 ヨハネによる福音書19章10節からの場面では、イエス様が十字架につけられる前にピラトからの尋問を受けます。そこで「わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」Don’t you realize I have power either to free you or to crucify you?”というピラトに対して、イエス様は「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」“You would have no power over me if it were not given to you from above (God).と言います。
ここでのピラトの間違いは「権限を自分自身の中に持っている」と考えたことです。本当の権威や権限は、“自分の外から”与えられるもの、つまり神から与えられて、そしてそれが他の人たちからも認められてこそ、本当の権威と権限になるのです。
ですから今日の聖書の箇所を根拠にして、権威を持つ人が自分から“私の言うことには何でも従え”などと言うのは明らかに間違いです。
そのように自分で強く言わなくてはならないような権威であれば、本当に神様から与えられた権威であるかどうか疑わしいと思ったほうがよいでしょう。
  牧師としての私に、神から与えられた権威があるとすれば、それは私を牧師として立ててくださる教会の皆さんの祈りと信頼、そして私が神から受けた召命(calling)が一致しなくてはなりません。
もしそのような祈りと信頼関係、そして神から私への召命―それらの一致が無いならば、もしくは私が自分から“権威”を振りかざすようならば、“それは神から与えられた権威ではない”と、断言してよいと私は思います。
3節
3:実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
ここでは“権威者を恐れずに善を行うこと”が勧められます。“善を行う”とは、普通の“善い行いをする”ということ以上に、“私たち信仰者が神の御心を求めて、イエス・キリストへの信仰を実践して生きる”、“イエス様に従って生きる”ということを意味します。
私たちがイエス・キリストを信じ、そしてイエス様への信仰を実際の生き方で実践しながら生きるならば、“この世の権威や支配者と言われる人たちを私たちは怖れなくなる”と言うのです。
イエス様も「人を恐れるな」と言いました。
マタイによる福音書10章26節からの箇所で、
「人々を恐れてはならない。。(中略)。。。。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とイエス様はおっしゃっています。
“魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい”という言葉は、厳しい言い方に聞こえますが、イエス様が一番おっしゃりたいことは、“私たちは人を恐れなくよい”ということです。なぜなら、本当に恐れるべきお方は誰かということを、私たちは知らされているからです。
 私たちは人の目を気にしたり、人の力や人からの脅威、人からの影響を恐れたりします。しかし、最も恐るべき力を持つお方である神を私たちは知らされて、しかも“その神にこの私は愛されて守られている”ということが分かれば、私たちは人を恐れなくなるのです。
 私たちがイエス様に従って生き、歩み続けるならば、どんな人をも恐れないどころか、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われたイエス様の教えさえも、私たちの生き方の中で実践することができるのだと思います。
 私たちの中にはそのような愛はありませんが、私たちはイエス様の愛を頂くことができます。イエス様から頂く愛によって、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という、信じられないようなことさえも可能になる、と聖書は私たちに教えているのです。
6~7節を見てみましょう。
6:あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
7:すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
今日の箇所は元々、“神だけを信じる”と言って、社会との関わりや社会や国家の存在さえも否定した信仰者へ向けられたパウロの言葉だった、と最初に私は申し上げました。
その締めくくりとして、“社会の一員としての義務を信仰者も果たすこと”の例としての“納税”と“権威ある者へ敬意を示すこと”をパウロは挙げます。
 “税を納めて、そして敬うべき人は敬いなさい”とは、ただ表面的な行いとして社会の義務を果たすのではなくて、“心から行いなさい。人には尊敬の念をもって行いなさい”、“信仰(心)と行いを一致させなさい”ということだと思います。
今日の前の章の12章10節には“兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい”と書かれています。
誰かに対して何かをするのならば、“愛と敬意をもって行いなさい”、つまり信仰と行いを一致させて生きることが、私たちには求められているのです。
  今年度の私たちの教会の目標は“互いを尊敬する”です。この信仰の目標を、行動と心と両方で実践するならば、そして教会の中だけでなく、私たちが普段生きている社会の現場、生活の場においても実践していければ、私たち一人一人の信仰は、きっと成長していきます。そして福音も前進していくと私は信じます。
 最後に“私たちは社会の一員である”ということを、私たちの教会のこととして少し考えてみて、宣教を終りたいと思います。
私たちはこの別府市中須賀東町(Nakasuka-Higashimachi)という地に20年以上立てられています(別の場所にあった集会時代も含めればもっと長い年月です)。私たちの教会はこの地域の救いと福音伝道のために働き続けてきましたし、これからもその働きに仕えていきます。
 そして実は私たちが仕えるだけではなくて、私たちの教会は、地域の皆さんによっても支えられています。
私たちの教会も、この周りの地区の皆さんの理解と好意によって支えられて、信仰生活を送り礼拝を守ることが許されているのです。そのことを私たちは感謝したいと思います。
 この地に立てられた教会として、この地域で共に生きる一員として私たちが果たすべき役割・義務があります。それは何でしょうか?私たちは教会ですから、イエス・キリストの福音を地域へ伝えていくことが最も大切な務めです。教会の役割、そして使命はこれ以外にはあり得ません。
 教会として最も大切な宣教の務めを果たしつつ、出来る限りのこの地域への関わりと貢献も、これからぜひ考えていければと私は願っています。
 私たちの信仰の良心、信仰の根幹に関わることで私たちが決して社会とは妥協できないこともあります。イエス・キリストへの私たちの信仰を守ることが脅かされるような世の力には、私たちは対抗せねばなりません。
しかし、どのような時にも私たちは、“イエス・キリストの神は今も生きて、私たちの救いのために働いておられる。主が世を支配しておられ、そして主は既に世に勝っておられる”と信じることができるのです。
私たちが生きる地域の中で、イエス・キリストの福音が前進することを期待し願っていきましょう。そして私たちが他者を敬いながら、福音宣教のための働きを日々の生活の中で喜んで担っていくことができるようにと祈りつつ、今日もここから遣わされていきましょう。