2018年4月15日日曜日

2018年7月15日(日)主日礼拝宣教
創世記9章18~29節
「ノアと息子たち」

今日の聖書の箇所は、大洪水を生き延びて箱舟から出た後に、ノアと彼の三人の息子たちに起こった、ある出来事の話です。そこでは“ノアがぶどう酒に酔って裸になっていた”と書かれています。
ノアは「神に従う無垢な人」(創世記6章9節)と言われたほどの人でした。彼は神に認められ選ばれて、神の言葉(命令)に従って箱舟を作り、自分の家族と、自分の家族だけでなく他の多くの生き物を洪水による滅亡から救った人でした。
そのような意味で、ノアは一人の英雄的な人物であった、と言うことができます。そのノアが、何とも“格好悪い”、“みっともない”と思えるような姿を見せているのが、今日の箇所です。
このノアの姿、そしてそのノアに対して彼の息子たちが取った態度、またそこでノアが言った言葉などを通して、私たちは主なる神様のメッセージを今日も共に聞いていきたいと思います。
18~19節をもう一度読んでみましょう。
18:箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。 19:この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。
 今日の箇所の次の章である創世記10章には、セム、ハム、ヤフェトの子孫たちの名前が記されていて、今日の聖書の箇所で言われている通りに、彼ら三人から、多くの民族が増え広がっていったことが書かれています。
  “ノアの三人の息子たちから、全世界に人々が広がっていった”というこの描写は、“今を生きる私たち一人一人の存在も、色々な形で未来へと繋がっていき、将来に渡って広がっていくもの”であることを、私たちに教えてくれます。
私たちが今を生きているということには(たとえ私たちには、自分自身の存在が小さく感じられ、自分は誰に対しても、何に対しても大した影響力や意味を持った存在ではない、と思えるとしても)、大きな意味があるのです。
それは、私たちは、神が造られたこの世界の中で、未来へと続いていく“時の流れ”の中で、命を頂きながら生かされている存在であるからです。
たとえ私たち一人の存在は小さいとしても、私たちが今を生きているという事実は、主なる神によって計画された未来に向かって続いていくもの、大きく広がっていくものであり、大いに意味のあることなのです。
ですから私たちは、今自分が生かされている場所で、未来へと続いていく大きな希望、神の御言葉から頂くそのような希望をいつも持ちながら、日々を送ることができるのです。
20節に「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った」と記されています。“農夫”と日本語の聖書では訳されていますが、旧約聖書が書かれたヘブライ語の言葉を直訳すれば、それは英語聖書の訳のように“a man of the soil”、つまり”土の人”となります。
 洪水が起こって彼らが箱舟に乗っている間は、ノアと家族たちは、(そして他の生き物たちも)、水の上を漂う非常に不安定で不安な生活を送っていました。
やがて洪水が止んでノアたちは箱舟を出ることができました。彼らは地上に降りて再び大地に立って、“土の上”で生きることができるようになったのです。
ノアが“土の人になった”ということには、人間に“大地で生きる新しい命が与えられた”という意味も込められています。
そしてノアは、与えられた大地を耕してぶどう畑を作りました。さて、ここからが問題の場面となります。ノアはぶどう酒を飲んで酔って、天幕の中で裸になって寝てしまいます。それだけ聞けば、随分と“だらしない姿”に思えます。
ノアが裸になって寝てしまうほどに酔ってしまった理由としては次のような解釈があります。
ノアは箱舟の中での生活の間ずっと、リーダー(指導者)としての大変な重圧(プレッシャー)を精神的に受けていたので、そのプレッシャーから解放された今、過度の緊張から疲れ切っていた心身を休める必要があった、というのです。
私たちも、日々の生活や仕事などから、大きなプレッシャーを感じる時があると思います。仕事や生活上のストレスを解消するために、ストレスを発散する何か効果的な方法を持っておくことは、私たちの心身の健康のために、よいことです。
私たちは、何よりも主なる神の御言葉によって励まされて、信仰からくる平安と慰めによって、日々のプレッシャーにも向き合うことができれば幸いであると、私は思います。
しかしいずれにしても、今日の箇所でのこのノアの振る舞い(行動)は、適度な飲酒の程度を超えた、好ましくない振る舞いとして否定的に描かれていると、わたしは思います。
ノアは家族と他の多くの生き物を救った英雄と言ってもよい、と最初に私は述べました。しかし、たとえ“英雄”と言われる人であっても、人は誰しもが弱い部分を持っており、また間違いを犯す存在です。ノアも例外ではありませんでした。
ノアがこの時“裸になっていた”という、この“裸”という言葉は、人が、出来ることなら他の人からは隠しておきたいと願うような、自分自身の“罪”に関わる部分をも象徴的に表しているのではないかと、私は思います。
 ノアの息子たちは、父親が酒に酔いつぶれているその姿―裸となって自分の罪さえもさらけ出しているほどの姿に接して、どのように反応したのでしょうか?
 息子の一人のハムは、ノアが裸であるのを見て、外にいた二人の兄弟にそれを告げました。そしてハムのこの行動がノアを怒らせます。
ハムがしたことは“父親のだらしのない姿を他の兄弟たちに告げて、父を笑いものにした”と一般的には解釈されますが、ここを読むだけでは、果たしてそれが正しい解釈かどうかは、はっきりとは分からない気が致します。
結局のところ、ハムのしたことの一体何がノアを怒らせたのかは、私たちの側で想像するしかないのではないでしょうか。それはノアにしか分からないこと、もしくは、聖書には書かれていない親子の間の確執がノアとハムの間にはあったと推測してもよいかもしれません。
 ハムから知らせを受けた他の兄弟セムとヤフェトの二人は、着物を取って自分たちの肩にかけ、後ろ向きに歩いていき(父の裸の姿を見たいように配慮して)父の裸をその着物で覆いました。
 セムとヤフェトがしたことは、“裸”という言葉で表される、他人の持つ脆(もろ)くて弱い罪の部分を、自分にできるだけのことを通して覆う行為、と解釈することができます。
新約聖書ペトロ第一の手紙4:8 1 Peter 4:8 に次のように記されています。
何よりも心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
“愛は多くの罪を覆う”-この御言葉と合わせて考えると、セムとヤフェトが父ノアの体を着物で“覆った”ということは、彼らが自分の父親にたいして彼らなりの愛を示した、そのことを通してノアの罪を覆った、と理解してよいと思います。
 私たちキリスト者にとって“愛”とは、自分自身の中から出て来るものではありません。人の多くの罪を覆うような愛、それは主なる神であるイエス・キリストの愛しかありません。
私たちの完全な罪の贖いは、イエス・キリストの十字架による犠牲によってしか得ることはできませんが、私たちはイエス様から頂く愛の恵みを、他者に対して示すことを通して、他者の罪を覆うことができるのです。
他者の罪を覆う、とはどういうことでしょうか?それは、他者の罪の部分を受け入れて、自分にできるだけのことを通してそれを共に担う、その人に寄り添うこと、ではないでしょうか?
わたしたちはお互いに罪を覆い合うように、すなわち愛し合うようにと、神様から命じられているのです。
さて、ハムのしたことに怒ったノアは、“カナンは呪われよ”とハムの息子であるカナンを呪う言葉を口にします。
ノアがハムのとった行動にたいして怒ったということは、私たちは理解できるとしても、なぜ、彼はハム自身ではなくて、その息子であるカナンを呪ったのでしょうか?
これはあまりいい言葉ではありませんが“坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い”と言う日本の諺があります。“ある人を憎むと、その人に関係するものは何でも嫌いになる”という意味です。
ノアがカナンを呪う言葉を発した、というのも、言ってみればそういうことであったのかもしれません。
しかしそれ以上のこととして、ノアがカナンを呪うことを口にしたことは、私たちの口からでる悪い言葉や心の中にある悪い感情(相手を呪うような)が、どれほど深い(マイナスの)影響力を持ち得るか、ということを表しているのではないでしょうか。
自分のこどもや孫にさえ呪いの言葉を吐いてしまうほどの、負の感情、悪い思いを私たち人間は持つことがあるのです。
それは出来れば認めたくないようなことなのですが、ノアの言葉を自分のこととしてよく考えてみると、そのような思いが自分の中には絶対ないとは、私たちは決して言えないことに気づかされます。
26節の中の次のノアの言葉を見てみましょう。
“セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ”

私たちにはただ一人の主、一人の神しかいません。ですから“セムの神、主”という言い方は少し変です。これではまるで、カナンには、セムの神と同じ神がおられない、と言っているかのようです。
神は唯一であり、お一人です。ノアはこの時、怒りのあまり、そんなことさえ忘れてしまっていたのかもしれません。ノアたち家族を守り導いた神は唯一、真の神であり、その唯一の神はセムの神でもあり、そして当然カナンの神でもありハムの神でもあるのです。
1テモテ2:5 
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
私たちが互いに愛し合わなければならないのは、私たちすべての者には同じ神がおられるからです。私たちは皆、その同じ神によって造られた存在であるからです。
このわたしにも、そして他者にも、わたしの家族にも他者の家族にも、同じ主イエス・キリストの恵みが注がれているからです。
「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ」―ノアのこの言葉から私たちが考えたいもう一つ別のことは、私たちは言葉によって一方を呪うこともでき、言葉によって他方を祝福することもできる、ということです。
 新約聖書のヤコブの手紙の中で、私たち人間が自分の舌を制することがいかに難しいかが言われています。
ヤコブの手紙3章7節~10
7あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。 08節しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。 09節わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 10節同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
 私たちの同じ口から賛美と呪いが出て来る(そんなことはあってならない)、と聖書は言います。
同じ口からでる言葉によって、私たちは神を賛美することも、人を呪うこともできる。神から与えられたブドウという恵みの果実が、人の体を休ませて心をリラックスさせるぶどう酒になると同時に、人がそれを飲み過ぎることによって、人の健康を蝕み、冷静な判断力や自制心を失わせるものともなるようにです。
私たちは、神がお造りになったこの世界は善いものであること、そして神が私たちに与えてくださった多くのものは、神の善い目的のために使うようにと、私たちに与えられたことを、改めて心に留めたいと思います。
私たちは、聖書が伝えるイエス・キリストの愛を、いつも心に頂くことによって、できるだけ善い言葉と善い心の思いとを、保つようにしたいと思います。
私たちの主イエス・キリストは十字架の上での死によって、私たちの罪を完全に覆ってくださいました。それは、罪深い私たちは、イエス・キリストの十字架によって完全に赦された、ということです。
イエス様によって赦されたという、その大きな喜びと平安を、私たちは神を賛美し他者を祝福する言葉によって、そして私たちの生き方によって、世に伝えていこうではありませんか。
イエス様の愛と赦しを与えられた者として、共に生きるようにと定められた他者と私たちの間で、そして教会の家族同士の間で、私たちは互いの愛によって、お互いの罪の部分を“覆い合って”生きていくことができるようにと祈り求めつつ、今週の日々も私たち共に歩んでまいりましょう。