2018年4月15日日曜日

2018年5月20日(日)ペンテコステ礼拝 
ヨハネによる福音書16章4b~15節
「真理の霊の導き」
4b節
「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
5節
今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
06節
むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
07節
しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
08節
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
09節
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
10節
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
11節
また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
12節
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13節
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14節
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15節
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


今日私たちは、ペンテコステを記念する礼拝を持っています。“ペンテコステ”とは、「使徒言行録」2章に記されている、ある出来事のことです。それは、イエス様が復活した日から50日目の日に起きた、ある出来事でした。
イエス様は十字架に掛けられて死んで、三日後に復活をしました。復活の主イエス・キリストは、弟子たちや、その他大勢の人たちの前にその姿を表されました。
そして復活のイエス様は天に戻られる時、「あなたがたに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と弟子たちに言われました(使徒言行録1章8節)。
“聖霊によって力を受けた弟子たちが、ユダヤとサマリアの全土で、地の果てに至るまで、主イエス・キリストの証人になる”―このイエス様のお言葉は、次のような“希望”を表しています。
“主なる神が、聖霊を通して、落ち込んで悲しんでいる私たちを力づけて、そして信仰によって私たちは強くされる。私たちは変わることができる。主から力を受けた人は、主の働きのために大きく用いられるようになる”という、キリスト者にとっての希望です。
 イエス様が復活してから数えて50日目の日に、人々が一つとなって集まっている時に次のような出来事が起こりました。
―その時はちょうど“五旬祭”というユダヤ教の祭りの日でもありました。この祭りがギリシア語で“ペンテコステ”と言われます。“ペンテコステ”とは“(50番目の (50th)”という意味です。過越祭Passover feastから50日目の日であったので、そう呼ばれていました。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」(使徒2章2~4節)
2 Suddenly a sound like the blowing of a violent wind came from heaven and filled the whole house where they were sitting. 3 They saw what seemed to be tongues of fire that separated and came to rest on each of them. 4 All of them were filled with the Holy Spirit and began to speak in other tongues[a] as the Spirit enabled them.
この出来事を見ていた人々が驚いた様子、そしてその後に続いたペトロの説教によって、その日のうちに3千人もの人々がバプテスマを受けて彼らの仲間になったことが、使徒言行録2章には記されています。
なぜ私たちの教会では、このペンテコステの出来事を特別なことして、今でも礼拝の中で毎年覚え続けるのでしょうか?
私たちは、自分の意志や自分の思いによってこのように教会の礼拝に集っているのでしょうか?
確かに、私たちは自分で教会を選んで、希望して教会に来ている、とも言えます。しかし、私たちが自分で考えたり希望したりする前に、私たちは主なる神に呼ばれ、目には見えない神の霊、すなわち聖霊によって導かれているからこそ、こうして毎週教会に来ることができ、また礼拝することができるのです。
ペンテコステの出来事から、キリストを信じる者の集まり、つまり“教会”が始まったと言われます。“教会の始まり”と言う意味でもペンテコステは特別な出来事です。
ですから、聖霊が初めて人々の上に降ったペンテコステの出来事を特別な事として、今でも私たち教会は毎年覚えるのです。
 
そして実は、イエス様は、十字架に架けられる前にも、“ご自分がこの世を去ったあとに、聖霊を弟子たちに送る”という言葉を残していました。それが今日のヨハネ福音書16章の箇所です。
今日はこのヨハネ福音書16章の“聖霊を弟子たちに送る”という、イエス様から弟子たちへの言葉を通して、主なる神から私たちへ向けられたメッセージに共に耳を傾けて参りましょう。
16章4b~6節をお読みします。
「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとへ行こうとしているが、あなたがたはだれも『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。
4b I did not tell you this from the beginning because I was with you, 5 but now I am going to him who sent me. None of you asks me, ‘Where are you going?’ 6 Rather, you are filled with grief because I have said these things.
「これらのこと」というのは、イエス様がこの前に弟子たちに言われた次のような言葉のことであると私は思います。
「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14章28節)
 ‘I am going away and I am coming back to you.’
“わたしは去って行く”-これは、イエス様自身の死の予告です。
「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(15章20節)
If they persecuted me, they will persecute you also.
「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」(16章2節)
They will put you out of the synagogue; in fact, the time is coming when anyone who kills you will think they are offering a service to God.
“イエス様に従うことによって、厳しい試練があなたがたを待ち受けている”ということです。弟子たちへの迫害が予告されているのです。
“イエス様に従っていれば、自分たちにも、またユダヤの国全体にとっても、バラ色の未来がやって来るはずだ。この方に従っていれば間違いないのだ”と、それまで弟子たちは思っていました。ところが、イエス様が今言っている言葉を聞いていると、どうもそうではない。。。弟子たちは不安に思いはじめて、また悲しくなったのでしょう。
信仰を頂くということは、私たちの人生から苦難や悲しみが無くなる、ということではありません。イエス様を信じて信仰を持っても、嫌なこととか、自分が望まないこと、辛いことは私たちに起こります。
むしろ信仰を持っているから、信仰を持っていなかったら感じることもなかったかもしれない苦しみや悲しみを、私たちは負うことがあるかもしれません。
“神がいるのならば、なぜこんなことが起こるのか?”、“ 神様を信じているのに、なぜ辛く苦しいことが私に起こるのか”という思いなどです。。。
6節の「あなたがたの心は悲しみで満たされている」というイエス様の言葉は、わたしたち“人の心が悲しみに満ちていること”をイエス様ご自身がよくご存知であることを表しています。
 「あなたがたの心は悲しみで満たされている」とは、人の悲しみをご自分の悲しみとして受け止めて、私たちに共感をして、私たちと共に悲しんでくださっているイエス様の言葉なのです。
しかし、イエス様はそう言うと同時に、“「どこへ行くのか」と、あなたがたは尋ねない”、とも言います。これは、“今の悲しみは喜びに変わるーそのような希望があるから、目を上げて目を前に向けなさい”と私たちを励ましてくださるイエス様の言葉です。
私たちが現実の悲しみにしっかりと向き合うことは大切です。“悲しい”という気持ちをしっかりと感じることも大切です。
しかしそれと同時に私たちは、悲しみも痛みも、主イエスにお任せすることができます。そして悲しみは喜びに変えられることを、私たちはイエス・キリストへの信仰に基づいて、期待することができるのです。
今日の箇所の少し先のヨハネ16章33節には、次のように書かれています。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
33 “I have told you these things, so that in me you may have peace. In this world you will have trouble. But take heart! I have overcome the world.”
“世の苦難にも既にイエス様は勝っている”、というイエス様の言葉に基づいて、私たちは、苦しい中にも確かな希望を持つことができるのです。
16章7節を見てみましょう。
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところ送る。」
“わたしが去って行く”―これもイエス様がこの地上での生を終えて弟子たちのところから去って行くこと、死ぬということを意味します。
“イエス様が自分たちのもとからいなくなる”、弟子たちの思いとしては、“そんなことは絶対起こって欲しくない”そのような出来事が、実は弟子たちのためになることなのだと、イエス様は言うのです。
 「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(7節)とイエス様は言います。この“弁護者”(Advocate)とは“聖霊”のことです。13節で“真理の霊”と言われる聖霊が、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」とイエス様は言われます。
 それは、イエス様は弟子たちから離れて行くけれども、その後には、イエス様が送ってくださる聖霊が、弟子たちを導いてくださる、ということです。
  
たとえ信仰を持っていても、私たちには分からないこと、知らないことが沢山あります。自分は何も知らないーこれを認めることの大切さをパウロは次のように言っています。
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(第一コリント8章2節)。
2 Those who think they know something do not yet know as they ought to know.
私たちの人生の中では分からないこと、答えの見つからないことが、沢山あります。むしろ私たちは知っていることのほうが少ないと言ってよいでしょう。
しかし、私たちが今は分からない色々なことも、イエス様が送ってくださる聖霊の助けによって、少しずつその意味や意義が明らかにされていくと、イエス様は約束してくださっているのです。
イエス様は今私たちと、目に見える形では、共におられません。ですから私たちは時々不安に思ったり、自分の信仰についても確信が持てないような時があるかもしれません。
それでも心配ないのです。私たち自身の不安や確信のなさも、すべて神によって包まれており、私たちは日々目には見えない聖霊によって導かれているからです。私たちがこうして教会の礼拝に集い、また聖書の言葉が私たちにとって力になること、それも“私たちが聖霊に導かれている”ことの証拠です。
今日の箇所の最後の16章14~15節をお読みします。
14節
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15節
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 “父が持っておられるものはすべて、わたしのものである”-これは、天の父なる神のものはすべて子なる神イエス・キリストのものでもある、ということです。父なる神と子なる神イエス・キリストが完全に一体であることが意味されています。
そしてイエス様が私たちに送ってくださる聖霊が、私たちに色々なことを悟らせてくださる、聖書の御言葉が私たちにとってどのような意味を持つのかを悟らせ、また聖書の言葉が私たちの命を生かすようになるために、聖霊が助けてくださるのです。
聖霊に導かれながら、私たちが信仰の家族と共に歩む教会生活の先にあるものーそれは父なる神、子なる神、霊なる神が完全に一つ(三位一体)であるように、私たちも一つとなっていくという究極の希望です。
エフェソの信徒への手紙4章13節にこう書かれています。私たち信仰共同体の目標とも言えることです。
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストのあふれる豊かさになるまで成長するのです。
13 until we all reach unity in the faith and in the knowledge of the Son of God and become mature, attaining to the whole measure of the fullness of Christ.
 ペンテコステを記念する今日この日に、主なる神が聖霊として私たちと共にいてくださり、今も私たちの教会を支え導いてくださっていることを改めて感謝致しましょう。
 これからも聖霊によって生かされて、同じ信仰を頂いた兄弟姉妹同士、主にある愛の交わりを実現していくことができますように努めていきたいと私たちは願います。
そして私たちが、私たちを取り巻く現実にもしっかりと向き合って、悲しみや辛い出来事の中にも、主なる神イエス・キリストから頂く希望を頂いて、これからも信仰生活を共に歩んでいくことができますように、祈り求めて参りましょう。
聖霊の導きに身を委ねて、今週の一日一日も歩んでまいりたいと私たちは願います。
お祈りを致します。