2023年1月28日土曜日

2023年1月29日 主日礼拝

招詞  ミカ書6章8節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金祈祷
証しと賛美
聖書  ヨハネの手紙一 1章1~4節
祈祷
宣教 「わたしたちの交わり」
https://youtu.be/uvOgm4RAjTU
祈祷
賛美  新生讃美歌 363番 キリスト 教会の主よ
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷


 「はじめからあったもの That which was from the beginning」という言葉で、今日の聖書の箇所(ヨハネの手紙一の1章の初め)は始まっています。
 この手紙の筆者であるヨハネは、その「はじめからあったもの」を、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とも書いています。
 ヨハネは、ここでイエス・キリストのことを、言っています。それは明らかです。「イエス・キリストは世の初めから存在していた」ということは、聖書全体が伝える信仰の内容の一つであるからです。
 イエス・キリストは、わたしたちの世界の全てをお造りになった天の父なる神であり創造主である神と等しいお方です。ですから、イエス・キリストは“初めからあった”のです。

 そしてイエス・キリストは永遠なるお方でもあります。初めからおられ、いつまでもおられるお方、その存在が永遠であるお方、それがイエス・キリストなのです。
 驚くべきなのは、ヨハネがそのようなお方(イエス・キリスト、初めから存在し永遠なるお方)を“見て、触った、そしてそのお方の言うことを聞いた”ということです。
 はじめからおられ永遠なるお方は、有限(限りある)存在であるわたしたち人間とは、あまりに違いすぎて、わたしたち人間が見たり、聞いたり、まして触ったりすることは、本来できないお方のはずです。
  しかし聖書は、その神が人となり(イエス・キリストとなって)生まれ、普通の人々と一緒に生活したことを伝えています。人がそのお方を見て、聞いて、触れることができるように、神の側から人の世界へと、まさに“降りて”来てくださったのです。

イエス様は人々と共に生活し、神の国について教え、また多くの病の人々を癒したりなさったことを聖書は伝えています。
イエス様の弟子になった人たちも、ごく普通の人たちでした。ただイエス様に選ばれることによって、彼ら弟子たちは神の国のための働きをイエス様と共にするようになりました。
しかしヨハネたち最初の弟子たちは、イエス様のお言葉を直接聞いて、その行いをまじかで見て、そして後に十字架につけられて死に、復活し天に昇っていかれたその様子を実際に見た、という点では大変特別な人たちでした。
わたしたちは、その最初の弟子たちの証言=“人となった神であるイエス・キリストを直接目で見て、お言葉を耳で聞き、その体に手で触れたという、大変貴重な信仰の証言”に、今接しているのです。

 ヨハネはイエス様のことを「命の言葉」(1節)と言っています。この手紙の筆者であるヨハネ自身が、この手紙を記しながら、“今も生きておられるイエス・キリストの臨在(その場におられる)”を感じていたのだと、私は信じます。
  それが聖霊の働きです。ヨハネ自身が筆を手にとって書いているその手紙も、神の霊が彼の心を燃やして、彼の魂を導き、その一言一言を記させたのです。
 彼はイエス様のお言葉の一つ一つを思い出しながら、そのお言葉のなかに自分を生かす確かな“命”があることを感じていたでしょう。ですからヨハネはそのお方、イエス様をここで“命の言葉”とも表しているのです。
  今の私たちも、心を開いて聖書の御言葉を聞くとき、特に教会で神を礼拝しながら聖書の御言葉を私たちが共に聞く時に、その言葉の中に今も生きておられる主イエス・キリストの命に触れることができます。
 ですから聖書の御言葉は特別であり、キリストの教会は特別であり、そして私たちに与えられたこの礼拝という恵みも、大変特別なものであるのです。それはキリスト教会にしか与えられていない特別な恵みです。
 それは何も、教会に集まる私たちが何か特別優れているとか、私たちが善良な人たちだ、ということでは決してありません。
イエス様の弟子たちが、ごく普通の(罪人でもある)人々でありながら、イエス様によってただ選ばれたように、わたしたちもただ神の恵みによって選ばれて、ここにこうして集っています。
 わたしたちもごく普通の(罪ある)人間です。そんな私たちがなぜか神の選びに与り、神の言葉、命の言葉を頂く恵みに与ったのですから、その恵みの前に、私たちは自らを低くして、そして感謝をしようではありませんか。

 ヨハネは、この手紙を書きながら、イエス・キリストのことを証して伝えるということの中には、はっきりとした目的があると、3節で言っています。
 3節に次のように書かれています。
 3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

ヨハネは、自分たちが見て聞いたことを人々に伝えるのは、その人たちを、既に与えられた自分たちの“交わり”に招き入れるためだ、というのです。そしてその交わりとは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりです。
神であるイエス・キリストによって結び付けられた交わり、そのような特別な交わりをあなたがたも持つようにと、ヨハネは願っているのです。
クリスチャンとはどのような人でしょうか?クリスチャンとは、もちろんイエス・キリストを信じる人です。そして、信じるとは、ただ頭の中で観念的にあるいは知識としてキリストを知っているというだけでは、もちろんありません。
 キリストを信じるとは、キリストに繋がるということでもあるのです。
イエス様はそのことを、ヨハネ福音書15章の中でぶどうの木のたとえを通して話されました。

 イエス様はご自身を“ぶどうの木”、“まことのぶどうの木”(ヨハネによる福音書15章)だと言って、そしてそのぶどうの木につながっていなさい、と弟子たちに言われました。
木の枝は木に繋がっていなければ養分を得ることができません。実を実らせることもできません。
それと同じにように、キリストの信仰者はイエス・キリストという木につながってこそ、命の養分をいただき、成長することができ、そして信仰の実を実らせることができます。
 ぶどうの木につながるとは、具体的には教会につながることです。なぜなら教会は「キリストの体」であるからです。
 枝が木から切り離されてしまっては死んでしまうように、キリスト者もキリストの体である教会に繋がることなくして、霊的な命を保つことはできません。
 わたしたちは神が立てられた教会、キリストの体なる教会に繋がり続け、その信仰の交わりの中で霊的な喜びと成長のための糧を頂くことができるのです。

しかし残念なことに「教会」、「キリスト教会」と名乗っていても、その実態がとてもキリストにある信仰を中心した教会とは言えない、問題のある団体もあります。
破壊的なカルト教団が多くの被害者を生んできましたし、今でもその被害にあっている人たちがいます。私たちはそのような被害が起きないこと、拡がらないことを願い、そのために祈りたいと思います。
そして私たちの教会も決して完全ではない、間違いを犯すことだってあり得る、ということを私たちは忘れずにいたいのです。
自分たちは特別だ(間違いを犯さない)とは、決して思ってはいけないのです。
そのために、教会も他の教会との交わりと繋がりを持つことが大切になります。信仰者が一人だけで生きることはできないように、教会も一教会だけで信仰生活を送ることはできません。
 教会も他の教会との信仰の交わりを通して学び、成長することができます。

自分たちの教会が信じることの内容、信仰の在り方をいつもオープンにし開かれたものにして、他の教会(特に同じバプテストの群れに属する教会)との交わりと学びあいの中で、自分たちの信仰を吟味するということも大切です。
 そして教会同士の交わりを通して、私たちは喜びを頂き、またお互いに励まし合うということもできるのです。それは私たちにとってとても嬉しいことです。
 今日は(第二礼拝で)、私たちの教会の母教会である大分教会の信徒の方が証をしてくださいます。バプテストの群れに属する、とくに私たちの教会にとっての母教会の方の証しを聞くことができるのは、私たちにとって大きな喜びであり励ましです。
 そして今日は、今まで私たちの教会で牧会研修をしておられたN神学生も、今日をもって私たちの教会での研修期間を終了します。
N神学生が私たちの教会で研修をしてくださったことも、N神学生を送り出した教会と私たちとの教会との協力と信仰の交わりの一環と言ってもよいと思います。
 キリストにある教会同士のそのような交わり、そして協力して伝道していくことを、これからも私たちは喜んでいきたいと思います。

今日の箇所の最後(4節)でヨハネは次のように書いています。
4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
 ヨハネがキリストに関する証を手紙にして書いて、他の人々をキリストを信じる者同士の交わりへと招いていることは、そうすること自体が彼にとっての溢れる喜びでもあったのだと、この節の言葉から教えられます。
 キリストを信じ、キリストに従って、キリストに守られて生きること自体がすでに大きな喜びです。
それに加えてさらに、信仰者はキリストの福音を他者に伝え、いまだキリストの恵みを知らされていない(受け入れていない)他者をキリストの命へと招く、そんな喜びの働きにも仕えることができる、ということです。
それによって、わたしたちの喜びは満ち溢れるようになるのです。神の恵みは尽きることがありません。神の恵みと信仰にある喜びが、私たちの福音宣教の働きを通しても、私たちのうちにますます溢れるのです。
キリストの恵みと喜びの知らせ(キリストの福音)が、教会を通して、世の中へますます伝えられ、神が私たちの喜びをも、これからも満ち溢れさせてくださいますように、願い祈りましょう。

2023年1月21日土曜日

2023年1月22日 主日礼拝

招詞 エレミヤ書7章23節b
賛美 新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
主の祈り
主の晩餐
献金祈祷
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章12~34節
祈祷
宣教 「キリストによってすべての人が生かされる」
https://youtu.be/TC9y2SICE40
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷


今日の聖書箇所は、『コリントの信徒への手紙一』の15章の部分です。この15章全体には、”イエス・キリストの復活”に関することが、書かれています。
イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして墓に葬られた後に、復活をした出来事は、キリスト教の信仰の中で、もっとも大切なことです。
イエス様が死から甦り復活したので、“イエス様を神であり主であると信じる信仰”が最初の弟子たちから始まって、そしてそれから多くの人たちと地域へと拡がっていきました。
イエス・キリストが復活して弟子たちにその姿を現したという出来事がなかったならば、“イエスという人の名も、イエスという人が生きている時になさった色々な偉大なこと”も、結局は忘れられてしまい、やがて誰も覚えている人もいなくなっていたでしょう。

しかし事実は、イエス・キリストは確かに死から甦って、その姿を弟子たち初め多くの人々の前に現わしました。キリストの復活によって、“死は滅ぼされ、神の前には何の力ももたない”ということが示されました。
イエス・キリストの復活は、クリスチャンが信じていることの中で最も重要な事です。それと同時に、特にクリスチャンでない人に向かって、それを伝えることがとても難しいことでもあると私は思います。
それは、イエス様が復活したその当時でも同じことでした。
ヨハネ福音書の20章では、12弟子の一人であったトマスが、イエス様が他の弟子たちの前に現れた時に、そこに居合わせなかったことが書かれています。

彼(トマス)は「わたしたちは主を見た」と言う他の弟子たちの話を信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(ヨハネ福音書20章25節)。
復活のイエス様は、そのように言っていたトマスにもお姿を現してくださり、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました(同27節)。
そのように復活の主に出会ったことが、トマスの中に主に対する信仰を呼び起こし、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言って、イエス様が主であり神であることを告白しました(同28節)。

福音書に証言されている通りに、主イエス・キリストは確かに復活したのです。
私たちの主は、死んで甦られたお方です。私たち人の罪を背負い、罪を赦すために十字架にかけられて死んだ主イエス・キリストは、その後で甦らされたのです。
今を生きる私たちは、最初の弟子たちが復活したイエス様に出会ったようには、復活のイエス様と直接出会うという経験はしていません。
しかし、聖書に書かれたことを通して、また歴史上数多くのキリスト者たちが復活の主を信じて、(時に多くの人たちが命をかけて)キリストの復活を伝えたその働きを通して、そして聖霊の導きによって、“イエス・キリストは確かに死から甦り復活した”と私たちは信じることができます。
コリントの信徒への手紙を書いたパウロは、特に今日の箇所で復活について繰り返し、その重要性を語っています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と彼は書いています(14節)。

19節には次のように書かれています。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」
以上の言葉は、パウロが復活の主をどれほど確信していたかの表れです。復活の主によって彼は新しい人に生まれ変わり、そして生かされているという確信がパウロにはあったのです。
パウロはキリストの伝道者、使徒として、生涯をかけてキリストの福音を宣べ伝え続けました。パウロの伝道活動には多くの困難や危険、迫害が伴いました。

多くの人がすんなりと、パウロが伝える福音を受け入れたのではありませんでした。特に、死者の復活については、はっきりとした拒絶に会うことがありました。
パウロがギリシアのアテネへ行った時、パウロはそこで哲学者たちを相手にキリストの福音を伝えようとしました。『使途言行録』の17章に、そのことが記されています。
アテネの哲学者たちは、最初はパウロの話を興味深く聞いていました。しかし、話が“死者の復活”ということになると、彼らはパウロをあざ笑って「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言いました。(もう、そんなバカバカしい話は聞いていられない、ということです)
パウロがイエス・キリストの福音を語る時、キリストの復活について語ると人々のそのような拒絶に会うということを、パウロはアテネだけではなく、他の場所でも何度も経験したのではないかと私は想像します。
もしそうであれば(キリストの復活が、なかなか人々に受け入れられないのならば)、パウロは「キリストの福音を人に語る時に、イエス様の復活についての話をするのはやめよう。それはなかなか信じてもらえないから」とは、思わなかったのでしょうか。
パウロは決してそう思ってはいなかったことは明らかです。キリスト者として、パウロは復活のキリストこそが彼を支え、彼の宣教の土台となっていることを、確信していたからです。
パウロは復活のイエス様に出会うことで、それまでの生き方を完全に変えられて、命をかけてキリストを伝道する者になりました。そんなパウロにとって、主の復活について口を閉ざすという選択肢はありませんでした。

今の私たちはどうでしょうか?復活のキリストを確信し、復活の主イエス・キリストを私たちは宣べ伝えているでしょうか?
 パウロがそうしたように、私たちも主イエス・キリストの福音を信じ、福音に生きる時、そして福音を宣教(宣べ伝える)時には、復活の主イエス・キリストを力強く語りたいと願います。
 復活のイエス・キリストこそが、今も私たちを霊的に生かし、大きな力を私たちに与えるからです。

そして聖書は、“キリストを信じる者もいずれ主と共に復活して生かされる”ということを私たちに伝えています。
人の普通の常識は「人間は死んだら終わり」です。しかし、聖書はそうは言わないのです。キリストの復活によって死は滅ぼされその力を失い、私たちもやがて主と共に生かされる、という希望が私たちに与えられたのです。

テサロニケの信徒への手紙一4章14節に次のように書かれています。
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

イエス・キリストが復活したことにより、“私たちもやがて主と共に新しい命に生かされる”、“私たちも復活する”ことが約束されたのです。
それはとても信じられないことのように聞こえます。しかし、今日の20~22節をもう一度見てみましょう。

20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

聖書は、一人の人(神であり人であるお方)イエス・キリストが復活したことは、すべての人が復活の命へと生かされることの始まりであったと告げるのです。
「死が一人の人によって来た」というのは、“神に最初に造られたアダムとエバが犯した罪を通して、すべての人に罪が入り込んだこと”を指しています。
神は最初の人間であるアダムとエバに、エデンの園にあるどの木からも実を取って食べてよい、と言われました。しかし、「善悪の知識の木」からだけは決して食べてはならない、食べると必ず死ぬ、と神は彼らに言いました(創世記2章15~17節)
アダムとエバは神のその言いつけに従うことができませんでした。蛇に誘惑され、最初はエバが、そしてアダムも善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。「必ず死ぬ」と警告されていたにも関わらず、人は自らそのように死の道を選んだのです。
聖書は、最初の人アダムによって、罪が私たち全員に入り込んだと伝えます。私たちの感覚では、“アダムと私は何の関係もない”と思えるかもしれません。
しかし、聖書が伝える信仰は、“最初の人アダムは私たち全員の代表であり、私たちはアダムに繋がる者である”ということです。

そのように一人の人によって死が私たちにもたらされましたが、今や一人の人キリストが復活したことにより、“わたしたちすべての者が生かされ、主と共に永遠に生きる、復活するという希望”が与えられました。
22節に書いてあるとおりです。
「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。(22節)
私たちはやがて復活の主イエス・キリストによって甦らされます。そのような希望が与えられた私たちは、「人は死んだら終わり。一回だけの人生、せいぜい楽しもう」という、冷めた思いを抱くことはないのです。
 死を超えた確かな命がキリストの中にあります。主は復活され、主の復活の望みと力のうちへと私たちを招いて下さいました。復活のキリストの命の中に私たちも生かされています。
この地上での命の先にある望み、私たちの信仰の先達たちからもずっと受け継がれてきた復活の望みを私たちは大切にして、その望みのうちに、今を感謝して私たちは日々を生きていこうではありませんか。

2023年1月14日土曜日

2023年1月15日 主日礼拝

招詞  ヨハネによる福音書17章21節a
賛美  新生讃美歌 1番 聖なる 聖なる 聖なるかな
主の祈り
献金祈祷
聖書   創世記47章27~31節
祈祷
宣教   「ヤコブの遺言」
https://youtu.be/YLY5_Z1yK5E
祈祷
賛美  新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷


 今日の聖書箇所、創世記47章27~31節には、日本語聖書(新共同訳聖書)では「ヤコブの遺言」という小見出しがつけられています。ここは、ヤコブという一人の信仰者が、その地上での命を終えようとしている時に、自分の願いを息子ヨセフに託している場面です。
 ごく簡単に(短く)ヤコブ、そしてヤコブの息子のヨセフについての、ここまでの生涯を振り返ってみましょう。ヤコブは、父イサク、母リベカとの間に、双子の兄弟の弟として生まれました。
二人の兄弟が成長すると、弟のヤコブは兄エサウから大変な憎しみと怒りを買うようになってしまいました。
その理由は、ヤコブが、兄エサウがもらうべき“長子の特権”を奪ったり(創世記25章27節~)、これもまた兄エサウが受けるべきであった父イサクからの“祝福”を(父イサクをも騙す形で)ヤコブが奪ったりしたからでした(創世記27章18節~)。
 ヤコブは、兄から逃れるために生まれ故郷を離れました。そして伯父のラバン(ヤコブの母リベカの兄)のところへ行き、ヤコブはラバンのもとで約20年間働くことになりました。
 ヤコブはやがて故郷に帰り、兄エサウと再会・和解することができました。創世記の物語は、それからヤコブの息子の一人のヨセフを中心とした物語に焦点が移っていきます。
 ヨセフは兄弟たちの中で下から二番目の弟でした。父ヤコブは、ヨセフを上の兄たちよりも愛しました。ヨセフは、ヤコブが愛したラケルとの間に生まれた子供であったからです。

ヨセフの兄たちは、ラケルの姉のレア、またレアとラケルのそれぞれの召使いの女とヤコブの間に生まれた子たちでした。
そのような複雑な背景もあり、またヤコブがヨセフを偏愛したということもあって、他の兄たちはヨセフを憎むようになりました。(創世記37章3~4節)
結局ヨセフは兄たちによって、(正確には、商人たちの手によって)生まれ故郷のカナンからエジプトへと売られてしまいます。
エジプトでヨセフは色々なこと経験しながら、主なる神に守られ続けました。やがてヨセフは、エジプト王のファラオに次いで国を治める責任者の役割を与えられるようになりました。
そしてその時代に各地で飢饉が起き、ヤコブたちが住んでいたカナン地方も大変な飢饉に見舞われました。
しかしエジプトでは、ファラオが見た夢の内容をヨセフが解釈することにより、飢饉が来ることが事前に予想されていたので、エジプトには食料が豊富に蓄えられていました。

ヤコブの息子たちは、家族が生き残るために、エジプトへ食料の調達に来ます。そこで彼らはかつて彼らが捨てた弟のヨセフと再会しました。
そしてヨセフの勧めがあって、父ヤコブと他の息子たち家族は全員、カナン地方からエジプトへ移り住むことになりました。
死んでしまったと思っていた息子ヨセフに再会できたことは、ヤコブにとっては大変な喜びでした。また、大変不思議なそのような神の導きによって、ヤコブの家族は飢饉を逃れて生き延びることができました。
ヤコブはカナンからエジプトへ移り住んだ時は130歳でした。そして今日の箇所(創世記47章28節)を読みますと、ヤコブはエジプトで17年生きて、147歳まで生きました。

今日の箇所は、自分が死ぬ時が近づいたことを悟ったヤコブが、息子ヨセフにあることをお願いするという場面です。
私たち誰もが必ず死ぬ時、この地上での生を終える時がきます。必ずやってくる死に備えて、私たちは必要なことや、“自分はどのように命を終えたいのか”ということについて、普段から真剣に考えることが大切であると思わされます。
ここでヤコブはある事を息子のヨセフにお願いします。ヤコブの言葉をもう一度聞いてみましょう。

29イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。
30わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」

ヤコブの願いは“自分が死んだら、自分の遺体はここエジプトには葬らないでほしい。自分が死んだら、亡骸をエジプトから運び出して、先祖たちの墓へ葬ってほしい”という願いでした。
“先祖たちの墓(父たちが葬られている場所)”というのは、ヤコブにとっては祖父にあたるアブラハムが、もともと妻のサラのために購入した墓地を指します。
創世記23章に、アブラハムの妻サラが死んだ時、アブラハムが妻サラを葬るための墓地として、エフロンという人から“マムレの前のマクペラの畑(そこにある洞穴と周囲の木々を含む)”を、墓地として買ったことが記されています。
アブラハムはそのマクペラの畑の洞穴に妻サラを葬りました。そしてアブラハム自身も、また息子のイサクも、死んでその同じ墓に葬られました。
そしてヤコブも、“死んだらその父祖たちの墓に連なって葬られたい”と希望をし、その希望を彼は息子ヨセフに託したのです。

“父祖と同じ墓に葬られたい”という希望は、ヤコブにとっては“私も父祖(アブラハムとイサク)が信じた同じ主なる神を信じ生き、神によって守られた”という信仰の証しでもあったと、私は思います。
それは“同じ神を信じ、守られて生きたことを感謝し、私の信仰の最後の証しとして、先祖と同じ墓に葬ってほしい”という思いだったのではないでしょうか。
そしてそのことを“わたしのために慈しみとまことを持って実行すると、誓ってほしい”とヤコブはヨセフ言っています。(29節)
ヤコブは、息子ヨセフがそのことを心からの慈しみとまこと、そして父に対する愛情と神に対する信仰をもって果たしてほしい、と願ったのです。”ただ義務的に行うのでなく、真心をもって自分の願いを聞いてほしい”という、それはヤコブの純粋な願いだったのでしょう。
思っていることや自分の願いを正直にはっきりと言葉に出して伝えることは、私たちにとって簡単なことではないと私は思います。

しかし何か人にしてほしいと願うこと、他者や家族に“こうしてほしい”と私たちが望むことがあれば、それを言葉にして伝えるということは、やはり大切なことです。
言葉に出して願いや思いを伝えること(正確に伝える)ことは難しい場合もあるので、言いたいことが上手く言えずに、誤解が生じるということもあるでしょう。
それでも私たちは、大切なことは言葉にして(愛を持って)相手に伝えるということ、そして相手の話も自分のことと同じぐらい大切なこととして丁寧に聞く、ということを心掛けたいと願います。
そのような努力を重ねることで、お互いに正直に気持ちを打ち明け合うことを通して、私たちは互いへの理解を深めていくことができるのです。

そしてヤコブが、自分が死んだらエジプトではなく生まれ故郷の自分の父祖の墓に葬ってほしいと願ったのには、信仰的にもう一つの重要な理由があります。
それは、“ヤコブが神の約束を最後まで信じていた”ということです。ヤコブには、エジプトに来る前に、「あなたをエジプトから必ず連れ戻す」という神からの約束が与えられていたのです。
創世記46章の初めに、ヨセフがエジプトで出世して生きていることを伝えられたヤコブたちが、エジプトへ向けて旅立つ場面が描かれています。
その時ベエル・シェバで、幻の中で神がヤコブ(イスラエル)に現れて次のように言ったのです。
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」
(創世記46章3~4節)

“神はエジプトから私を(生まれ故郷カナンへ)連れ戻してくださる”~ヤコブは最後まで神のその約束を信じたのです。
“自分がこの地上での命を終えて、亡骸となったとしても、私のその亡骸をあなたが故郷カナンに戻してほしい”、“そのようにして、神がわたしにしてくださった約束を、あなたの手によって全うしてほしい”~ヤコブのこの時の遺言にはそのような意味が込められていたのではないか、と私は思います。

ヤコブの遺言は、今の私たちに向かっても、次のようなことを伝えていると思います。
それは“神の約束は、私たちの思い、あるいは私たちひとりの人間の生涯という枠を超えても、神ご自身の大きなご計画の中で実現する”ということであり、
“私たちは、私たちの思いや一人の人間の生涯を超えた、神の大きなご計画と導きの中に生かされ、守られている”ということです。
 私たち誰もが必ず、この地上での命を終える時が来ます。その時私たちは“わたしの生涯は常に神に守られ、神の大きな御計画の中に生きることができた”と思えるのならば、それは本当に幸いなことであり、恵み、勝利であると私は信じます。

 新約聖書の時代、十字架に掛けられて死に、墓に葬られて、そして死に打ち勝ち復活をした主イエス・キリストが弟子たちを宣教のために派遣するとき、イエス様は弟子たちに次のようにおっしゃいました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)~神が人となったイエス・キリストのこの言葉が、時を超え、場所を超え、いついかなる時も私たちを支えてくれています。
私たちはひとりではないのです。本当の意味で私たちは決して孤独ではないのです。主イエス・キリストの神が、“世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる”と約束してくださっているからです。
今、新たな道を踏み出そうとしておられる方もいるかもしれません。恐れることはありません。“いつもあなたと共にいる。私があなたを連れ戻す”と約束してくださる神が、私たちと共におられます。
私たちのために、十字架の上で、命を捨ててくださった主イエス・キリストの神が、“私たちといついかなる時も共にいてくださる”というその約束への信仰に私たちは生きて、そしてその信仰を他者へも喜びをもって伝えていこうではありませんか。
 私たちのこの地上での命のその先にある希望までを私たちは頂いて、神に信頼し、共にいてくださるイエス・キリストの神により頼みながら、私たちは今週も信仰の日々を歩んでいきましょう。

2023年1月7日土曜日

2023年1月8日主日礼拝

招詞 エレミヤ書32章17節
賛美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
主の祈り
献金祈祷
聖書 ルカによる福音書1章26~38節
祈祷
宣教  「どうしてそのようなことがありえましょうか」
https://youtu.be/9Bt7x5kOLSU
祈祷
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
頌栄 671番
祝祷

 今日の聖書の箇所では、天使ガブリエルがマリアに現れて、“おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる”(28節)という挨拶の言葉と共に、“彼女(マリア)が神の子イエス・キリストを産むことになる”ことを予告します。
この箇所はイエス・キリスト誕生に関するお告げの場面ですので、クリスマスの時期によく読まれる箇所の一つです。
今私は、ルカ福音書を最初から連続して礼拝宣教の中で宣教(メッセージ)しています。ちょうどクリスマスが過ぎたばかりの今の時期ですが、その連続説教の順番に従って、今日はこの箇所が私たちに与えられました。
 クリスマスの余韻が残る今の時期ですが、今日もこの箇所から、神のメッセージを私たちは共に聞いていまいりましょう。
 マタイ福音書では、マリアの夫のヨセフ(正確には、二人はまだ婚約中であった)に天使があらわれました。
ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことが明らかになると、マリアが姦淫の罪に問われるのを恐れ、ひそかに離縁しようとしていました。

しかし天使がヨセフに「恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救う」と告げました。
ヨセフは天使の言葉に励まされ、力づけられたのでしょう。また天使の言葉によってヨセフは神の御心を確信したのでしょう。ヨセフはマリアを妻として迎え入れました。
 一方、ルカ福音書では、妻のマリア(繰り返しますが、正確にはまだ婚約中です)に天使があらわれます。天使(ガブリエル)はまずマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言いました。
マリアは「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と書かれています(29節)。
マリアがどのような女性であったのか、彼女がどのような家庭や家系の出身であったのかなどの詳しいことは聖書には何も書かれていません。

当時のユダヤでは結婚は家族同士(父親同士)によって決められることが普通でした。ですから“自由恋愛”ではなく、その時のしきたりに従って、家族同士の取り決めによって、マリアとヨセフの結婚も決められたのでしょう。
当時、特に女性の立場や地位が今と比べて非常に低くされていた時代の中で、マリアという人も、弱い立場に立たされていて、自分の意見や希望を堂々と表明したりすることは許されていなかったのだろうと想像することができます。
 しかし、マリアが天使の挨拶の言葉を聞いて、戸惑いつつも、いったいその挨拶は何のことかと「考え込んだ」という描写から、マリアという人は、非常に思慮深い(物事をじっくりと深く考える)人であったと推測することはできると思います。
 「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」~この言葉自体は嬉しい、祝福の知らせです。しかしマリアは、「今、このような言葉がわたしに告げられたというのは、どういうことだろう」と、深く考え込んだのです。(思いをめぐらした)
 私たちは今、聖書を通して(聖書の言葉に基づいた宣教を通して)神の言葉を頂きます。そして聖書の言葉の中には、“この言葉(物語)は何を意味するのか?”と私たちが疑問に思うところ、分からないところも沢山あります。
そのような時には、答えや結論を知ろうと急いだり、あるいは自分で無理やり解釈して納得したりしようとしないで、“これは何を意味するのだろう”と立ち止まって、じっくりと考えることも大切だと、マリアの姿勢から私たちは教えられます。
 聖書の言葉(神の言葉)を、「これは何を意味するのだろう」と時に疑問に思いながらも、思い巡らすということは、大切なことです。
すぐには答えが分からなくても、その聖書の言葉にしばらく思いを巡らせるという、その過程を通して、少しずつその御言葉の意味が自分にとって明らかになってくるということがあります。
そのような過程自体も、神との交わりの時として、私たちにとって、とても大切なものだと私は思います。ですから私たちは、できるだけ時間をかけて、聖書の言葉(神の言葉)に思いをめぐらせる、という習慣も大切なものとして身につけていきたいと思います。

 天使は「マリア、恐れることはない」と言って、マリアの恐れを静めます。自分に神の偉大な力が向けられていることを感じ、マリアは自分でも気づかずに恐れていたのかもしれません。
神の言葉は人の恐れを静め、そして平安を与えてくれます。天使の言葉はマリアの心から恐れを取り除いて、それから告げられる神のメッセージをマリアがよりよく聞くことができるように、マリアの心を整えたのだと思います。
続いて天使が告げた言葉は驚くべきことでした。30節からの天使の言葉をお読みします。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 天使のその言葉を聞いて、マリアはこのように言いました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」
 「どうして、そのようなことがありえましょうか」~これが、マリアの反応でした。繰り返しますが、マリアはまだヨセフとは正式な夫婦の関係にはなっていませんでした。
 それにも関わらず、天使の言ったことは、マリアに男の子が生まれ、しかもその子が“偉大な人”、”いと高き方の子”となり、”神である主が彼にダビデの王座をくださる”(王様になる)と言うのです。
“彼は永遠にヤコブの家(イスラエル)を治め、その支配は終わることがない”と、天使が言ったことは、マリアには壮大過ぎて、受け入れ難い、理解できないものでした。
 その時マリアは小さく(弱い)自分の姿を見ていたのだと私は思います。“こんな小さな存在の私が、偉大な人、イスラエルを永遠に治める王を産むなんて。。”とマリアは思って、天使の言葉に圧倒されてしまったのでしょう。
 しかし、主は確かにマリアという一人の女の人、ヨセフの婚約者であったマリアを選び、主イエス・キリストのこの地上での母親という重要な役割を彼女に託したのです。
  マリアが自分自身だけに思いを集中している限り、それは理解できないことでした。

この「こんな小さい私に、そんな(すごい事)ことが出来る(起こる)はずがない」という思いは、私たちも持つことがあるのではないでしょうか。
 しかし、私たちは自分自身ではなく、神の御心に思いを集中し、自分自身ではなく神の御心に信頼したいと願います。
私たちが自分自身でなく、神に思いを集中し、神の御心に信頼しようとする時、偉大な神のメッセージが、まさに“この私に向けられた、真実のこと”として信じられるようになるからです。
 わたしたちは聖書の御言葉を通して、神のメッセージを頂くことができるのですから、私たち自身ではなく、神の御心に思いを集中し神を信じる者となろうではありませんか。
 神は、マリアが彼女に起きることが本当であると、信じることができるためのひとつの“しるし”も既に用意してくださっていました。それは、マリアの親類でもあったエリサベトが年取っていたのに身ごもって既に6か月たっている、ということでした。
 今日の箇所の前の箇所は、ザカリアという祭司に天使ガブリエルがあらわれて、年老いた妻のエリサベトに男の子が生まれることを告げる箇所でした。

エリサベトが生む男の子は、やがてバプテスマのヨハネとして、イエス様の宣教のための道を備えることになる人でした。
マリアにとってエリサベトは、主なる神がなさったことについて、分ち合うことができる“仲間”のような存在であったと思います。
そしてまた、既にエリサベトを通して神の奇跡は起こっているのを知ることで、マリアは自分に告げられた天使のお告げが真実であることを、一層信じることができたのだと思います。
 主なる神は、私たち信仰者が一人だけで信仰をもったり、一人だけで信じたりすることを求めておられません。
主なる神は、私たちが神をより深く知り信仰を強めることができるために、そのために必要な信仰の友、信仰の家族を用意してくださるのです。
私たちはひとりだけで信仰を維持したり、信仰を成長させたりすることはできないのです。自分以外の他者、特に同じ教会に属する信仰の家族であり兄弟姉妹であるキリスト者との交わりの中で、私たちはお互いの信仰を励まし合い、強め合うことができます。

神が与えてくださる信仰の友、信仰の家族の存在を私たちは大切にして、信仰の交わりの中で生きることができる恵みを、感謝したいと思います。
天使ガブリエルの言葉を聞き終わって、マリアは次のように言いました。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 これはマリアが主を信頼し、主を信じた言葉です。またマリアが自分自身を主に献げると言う決心をした言葉でもあります。
「お言葉通り、この身になりますように」とは、マリアを通して神が偉大な出来事を成就しようとなさっている、ということをマリアが信じた言葉です。
 今日私たちは、このマリアの言葉のように、神が私たちを通して実現しようとしておられることのために、わたしたちが用いられますようにと、願いたいと思います。
  マリアの言葉に合わせて、今日私たちも“あなたのお言葉通りに、この身になりますように。主なる神が、私たちを通して進めておられるご計画が実現しますように”と決意いたしましょう。

神は私たちひとり一人に、そして私たちの教会に素晴らしいご計画をお持ちです。私たちはそのように信じることができます。
主を信頼し、”主のために生きる決意”をして、そして”主が私たちと共にいて下さる喜び”を頂きながら、今週もまた信仰の日々を私たちは歩んでまいりましょう。