2023年3月25日土曜日

2023年3月26日 主日礼拝

招詞 サムエル記上2章7節
賛美 新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 15章50~58節
祈祷
宣教  「主の業に常に励みなさい」
https://youtu.be/4kge9T-qR2k
祈祷
賛美 新生讃美歌 656番 きみの賜物と
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷


クリスチャンは、聖書を“信仰の唯一の基盤”として大切にします。信仰の唯一の基盤とは、わたしたちがイエス・キリストの福音とイエス・キリストの真実を知ることができるのは聖書を通してのみ、ということです。
 “信仰の唯一の基盤“とはまた、わたしたちの信仰あるいは信仰理解が正しいかどうかの最終的な判断も、それは聖書がそのように述べているかどうかにかかっている、と言う意味でもあります。
聖書を読み解釈するのも私たち人間ですから、わたしたちが聖書の御言葉を間違って読んでしまったり、自分の都合の良いように解釈してしまう可能性(危険性)は常にあります。
ですから私たちはいつも謙虚になって、自分の信仰とわたしたちの教会の信仰を、聖書の御言葉と照らし合わせることで、主の御心に沿った正しい信仰を持つことができるように、祈り、努力し続けたいと願います。
一人でも聖書をよみ、そして信仰の仲間、信仰の家族であり兄弟姉妹である信者同士が共に御言葉を分かち合うことで、神の御言葉をより豊かに少しでも正しく私たちは聞いていきたいと願います。

聖書は、人間が通常に書く本とは全く違います。それは聖書の本当の著者が、人間ではなく神の霊である聖霊であるからです。

テモテの手紙二3章16節(2 Timothy 3:16)に次のように書かれています。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

聖書は、神の霊感を受けた信仰者が、神の霊の導きの下に書いた記録です。聖書の言葉によってわたしたちは神の御心を教えられ、そして戒められ、自らの誤りを正すことができ、義(神の正しさ)へと導かれるのです。
 そのようなものとして聖書が、神の言葉として私たちに残されていることを、わたしたちは感謝したいと思います。

 わたしたちが聖書から教えられることの一つは、わたしたち自身についてです。
聖書の言葉を通して、わたしたちは自分自身をよりよく知ることができます。
わたしたちはなかなか自分で自分のことは分かりません。たとえ自分で自分を分かっているつもりになっていても、実際に人は自分のことを本当によく理解することは難しいと思います。
 聖書はわたしたち人間の心の思い(わたしたちの真の姿)をも、わたしたちに教えてくれます。そして、聖書が伝える人間の姿の一つは“わたしたちは死を恐れる”ということです。
 旧約聖書の詩編55篇4~5節(Psalm 55:3~4 NIV)に、「ダビデの詩」として次のように書かれています。
 
敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。彼らはわたしに災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかります。
胸の中で心はもだえ/わたしは死の恐怖に襲われています。

 これはダビデが書いた詩とされています。ダビデは自分の命を狙う敵の脅威に怯え、それがもたらす死への恐怖に襲われていました。死は大きな脅威、恐れを人にもたらします。
なぜ死がそれほどの脅威と恐れをわたしたちにもたらすのでしょうか?それは死というものが、通常は“すべての終わり”を意味するからではないでしょうか。
それによって全てが終わる。それによって全てが無意味になる。何も永遠に続くものはない~そんな儚(はかな)い、虚しい思いを死はわたしたちに与えます。
そして重要なことは、聖書によれば、死は人間の犯した罪がもたらした結果であるということです。わたしたちは(特に信仰者は)そのことを改めて知り、はっきりと認めなくてはなりません。

ローマの信徒への手紙5章12節に次のように書かれています。
一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

人間が犯した罪によって、神と人との間に完全な断絶、溝ができてしまいました。神と共に永遠に生きるようにと造られた人間は、自ら犯した罪のためにその恵みを失ってしまいました。
死は、そのこと(自らの犯した罪と神との断絶)をはっきりとわたしたちに示すものなので、それほどの恐怖をわたしたちにもたらすのです。

今日の聖書の箇所の始めである、1コリント15章50節には次にように書かれています。
50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

「肉と血は神の国を受けつぐことはできない。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」の“肉と血”とは限りある死すべき体を持った人間のことです。
“朽ちるもの”も同様に、死ぬべき人間のことを指しています。本来、わたしたちがそこへ行くことができる神の国、天の御国の希望が確かにあるのに、私たち人間は自ら犯した罪のためにそこへ行く道が絶たれている~ここではそう言っているのです。
真の希望への道が、人間自身が犯した罪のために絶たれた~それが聖書が伝える真実であり、わたしたちが認めなくてはならないことです。
 しかし聖書は、わたしたちが犯した罪の結果である死が、ある方によって克服され、打ち負かされ、滅ぼされたという希望をも伝えているのです。

 今日の54~55節に次のように書かれています。
「死は勝利にのみ込まれた。55死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 その言葉の通り、死に打ち勝ち死を滅ぼしてくださったお方が、神の御子イエス・キリストです。そしてイエス様は、ご自身の命を十字架の上で献げられることで得た、死への完全な勝利を、私たちに与えてくださったのです。
なぜイエス様は死に打ち勝つことができたのでしょうか。それはイエス様が、まったく罪のないお方でありながら同時に、私たちと同じ“血と肉”を備えた人間として、この地上で生きられた人でもあったからです。

ヘブライ人への手紙2章14~15節(Hebrews 2:14~15)にも次のように書かれています。

14ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

人の罪によってもたらされた死、死の恐怖、それがもたらす“奴隷の状態”は、いずれもイエス様によって完全に克服され、その勝利がわたしたちのものとなったのです。
そして、イエス・キリストによる勝利(罪の克服、死への勝利)を知らされ、それを信じた者は、神への感謝と、そしてこの地上での命を感謝と喜びをもって生きることができるようになります。
 わたしたちは、このように思う時がないでしょうか。「生きていることに何か意味があるのだろうか?どうせ死ぬこの命、どれほどの価値があるというのだろうか?人生はすべて無駄、無意味ではないのか?」
 わたしたちが自分で自分の人生の意味や意義を見いだそうとするのならば、結局何の意味も見いだすことができず、“すべては無駄だ”と思ってしまうかもしれません。
 しかし聖書は、私たちの命(人生)には大きな意味があり、それは決して無駄ではないと伝えています。キリストがおられるから、キリストにあって、わたしたちの命(人生)は尊い意味を持つのです。
神の子イエス・キリストが、神と等しいその立場を捨てて、人と共に生き人の罪を背負い、わたしたちのために十字架に架かって死んでくださったことから、そのことははっきりしているのです。
 そして天の父なる神は、そのキリストの命を復活させて、わたしたち人間を奴隷状態に縛り付けていた罪と死の力が完全に滅ぼされたことを証明してくださったのです。

今日の箇所の最後の58節をお読みします。
58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 今わたしたちは受難節(レント)の時を過ごしています。わたしたちがどんなに苦しく、悲しく、辛い時にも、十字架のイエス・キリストがわたしたちと共に歩んでくださっています。
 わたしたちがなすべき“主の業”があります。それはまず、主なる神イエス・キリストを信じて御言葉に従って生きる、ということです。
 それは、神の国と神の義を求めて、信仰者として神を愛し、人を愛して(そのように努力して)生きる、ということです。イエス様が生きたように生きる~わたしたちも少しでも、そのように努力して生きるのです。
 「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っている」~わたしたちはこのことを、聖書が伝えるイエス・キリストのご生涯、イエス様のお言葉、イエス様の十字架の死と復活に基づいて、完全に信頼し信じることができます。
 主イエス・キリストに結ばれて生きる私たちの命の日々には、大きな意義があり、キリストを信じて主の業に励もうと努力する私たちの行いは、神の前に決して無駄にはならないのです。
 罪に打ち勝ち、死への勝利をもたらし、それらを惜しみなくわたしたちにイエス・キリストを通して与えて下さる神に感謝をし、信仰者としてわたしたちがなすべき“主の業”に、わたしたちは日々励んで生きて参りましょう。

2023年3月18日土曜日

2023年3月19日 主日礼拝

招詞 ヨエル書2章27節
賛美 新生讃美歌 227番 カルバリの丘へと
主の祈り
献金
聖書 ルカによる福音書1章67~80節
祈祷
宣教  「われらの神の憐みの心」
https://youtu.be/dE2q27l4a0g
祈祷
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷


 今日の聖書の箇所は、後に「バプテスマのヨハネ」と呼ばれ、イエス・キリストの福音宣教活動の道を前もって備える働きをしたヨハネの父である、ザカリアの言葉です。
 この箇所の小見出しとして、日本語聖書には「ザカリアの預言」(預言:神様の言葉を預かり、人に伝えること)と書かれており、英語聖書には「ザカリアの歌Zechariah’s song」と書かれています。
  ザカリアと彼の妻エリサベトは、年老いた身でありながら、神の御計画と導きにより子が与えられました。
そして、こどもは父親か親戚の中の誰かと同じ名前が付けられるとう当時の習慣に反し、主の御使いがザカリアに告げていた通り、エリサベトとザカリアはその子を「ヨハネ」(神は憐み深い、という意味)と名付けました。

ザカリアは今日の箇所で“聖霊に満たされ”、神がなさった大きな御業、神がこれからなそうとしてくださっている大きな御業について、神をほめたたえます。
聖霊というのは神の霊です。神の霊に人が満たされる時、人は真の神をほめたたえ、神の御業に感謝と喜びの賛美を歌うようになる、ということが今日の箇所から分かります。
聖霊に満たされると、人は神の偉大な御業と神が確かにおられることを確信するのです。聖霊の満たしとは、ただの感情の高まりとか、気分が高揚するということではありません。
聖霊に満たされる時には、感情が高まったり気分が高揚したりすることもあるかもしれません。しかし大切なことは、主なる神が確かにおられることを確認し、その確信(信仰)から、感謝と賛美があふれ出ることです。

ザカリアが神を賛美した今日の聖書箇所の言葉から、わたしたちも共に、世界の創造主であり、そして救い主である、主なる神をほめたたえてまいりたいと願います。
68節でザカリアは次のように言っています。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し」

ザカリアがここでほめたたえ、そして今私たちも褒めたたえているお方は、イスラエルの神である主です。イスラエルの神である主が、聖書が伝える真の神です。
「イスラエルの神」というと、イスラエル以外の国の人たちには関係のない神、というように聞こえるかもしれません。
しかし、もちろんそうではありません。世界の造り主である神はイスラエルという国とその民を選び、彼らを通してご自身を現わされたのです。
神がイスラエルの民たちにご自身を現わされ、彼らの歴史にどのように関わってくださったのか、ということが旧約聖書の主な内容です。
そして神がイスラエルの民と関わったその物語は、信仰の物語と言葉として、今の私たちにも神のメッセージを伝え、語りかけるのです。
神はイスラエルの民たちに最初ご自身を現わされましたが、聖書の神はもちろん、イスラエル以外の民や国も含むすべての者の神です。

そして、イスラエルの神は、“その民を訪れて解放してくださった”神です。聖書の神は、歴史的に言えば、400年間エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出しました。出エジプトの出来事です。
 旧約聖書の『創世記』の終わりから『出エジプト記』にかけて詳しく記されていますが、イスラエルの民たちは約400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。
 彼らはその奴隷状態から救われることをずっと願っていました。やがて主はモーセという人を選び、彼を指導者、預言者として用いて、エジプトからイスラエルの民たちを救い出されました。
 主なる神がイスラエルの民をエジプトから救い出したのは、主の憐みによるものでした。主がモーセに初めて現れた時、主なる神はモーセにこう言っています。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた」
(出エジプト3章7~9節)

 神はエジプトで苦しむイスラエルの民を見ておられたのです。叫ぶ彼らの声を聞いておられたのです。そしてその痛みを知っていた、というのです。
 それが聖書の伝える神の姿です。聖書の伝える神は、わたしたちの苦しみを見ておられ、わたしたちの叫びを聞いて下さり、そしてわたしたちの痛みを知っていてくださる神なのです。
 そして神は自らその民を訪れて、彼らを解放してくださるのです。エジプトでの奴隷生活400年間とは、それはあまりに長い期間ではないでしょうか。神はなぜもっと早くイスラエルの民を解放されなかったのでしょうか。
 400年の間、その途中では、神はイスラエルの民たちの苦しみから目を背けておられたのでしょうか?神は彼らを無視しておられたのでしょうか。けっしてそうではありません。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」ということは、神は400年間ずっと、イスラエルの民の苦しみをご自分の痛みのようにして知り、イスラエルの民と共におられた、ということです。
神は今もわたしたちと共にいてくださる神です。ですから私たちが今苦しむ時、悲しみ痛む時にも、「神はわたしを見て下さっている、わたしの叫びを聞いてくださっている、そしてわたしの痛みを知っていてくださっている」と、わたしたちは信じてよいのです。
そしてもしそれが主なる神の御計画であり御心であるならば、最善の時に最善の方法で、神はわたしたちを、その苦しみの状況から救い出して下さる、という希望をわたしたちは持つことができるのです。

コロナ危機が始まって3年以上が経ちました。こんなに長くこのような状況が続くとは、3年前わたしは全く想像ができませんでした。まだそれは終わってはいませんが、ようやく色々な状況が変わろうとしているように見えます。
コロナ危機を通して、わたしは本当に多くのことを学ぶことができましたし、今も学ばせていただいている、と思っています。わたしだけのことではありません、わたしたちは教会としても色々な事を、今学んでいると思います。
この間、わたしたちはどれほど祈ったでしょうか。「神は祈るわたしたちの声を聞いてくださる」という確信をもって、どれほど祈ることができたでしょうか。自分だけでなく、どれほど他者のためにも祈ることができたでしょうか?
もし「わたしはそれほど祈ることができなかった」と思う方がおられましたら、ぜひ今からでも祈ってください。お一人でも祈り、また教会の礼拝で、祈祷会で、共に祈ってください。
そしてわたしたちはどれほどお互いの(他者の)意見や思いに耳を傾け、相手の立場に立とうと努力することができたでしょうか。そのような姿勢と努力はわたしたちにはこれからも常に求められます。
互いの立場を思いやって祈り合って、わたしたちにとって最善の(神がそのようにご用意してくださっている)道を、共に探し出していこうではありませんか。

 そして、今日の箇所でザカリアがたたえている主なる神は、わたしたちの恐れをとりのぞいてくださる神です。
 73節後半から75節に次のように書かれています。
  こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
ここで「恐れなく主に仕える」と言われているのは、わたしたちの罪が赦され、わたしたちを縛る罪の力から解放される、ということを意味します。
わたしたちには罪があるので、そのままの状態では神に近づくことはできないのです。しかし、わたしたちのその罪を赦してくださるお方、全く罪を持たない神の子がわたしたちの世界に来て下さり私たちの罪を背負ってくださいました。
今日のザカリアの歌は、その罪の赦しの出来事がイエス・キリストによって実現する、ということを伝えています。
ここには、イエス・キリストという言葉は直接でてきませんが、77節に書かれている「罪の赦しによる救い」とは、やがて与えられるイエス・キリストによるわたしたちの罪の赦しのことを指しています。

 イエス・キリストにより罪を赦されたわたしたちは、イエス様を通して主なる神のもとへ行けるようになったのです。イエス・キリストが私たちにとっての、神へと至る道となってくださったからです。
 わたしたちは、主なる神がエジプトで苦しむイスラエルの民の痛みを確かに知っていてくださったことを、十字架の上のイエス・キリストのお姿を通しても知ることができると、わたしは信じます。
  十字架の上のイエス・キリストを見上げる時、わたしたちはそこで苦しんでおられるイエス様のお姿を見ます。その苦しみは誰のためか?わたしたちのためです。

そのイエス様は、わたしたちの神が今もわたしたちの苦しみと痛みを知っていてくださっており、わたしたちの苦しみと痛みを共に担ってくださっている、ということをわたしたちに伝えるお姿です。
 聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、痛み苦しむ民の叫びを、憐み深い主なる神が聞いてくださっていたという歴史です。
  聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、神は苦しむご自分の民を決して放っておかれることなく、ご自身も共に苦しみ、痛んでおられたという歴史です。
 そして聖書がわたしたちに伝える信仰の歴史は、神は苦しむご自分の民の罪を赦し救ってくださり、罪赦された民が希望と力を頂いて新たに歩み出して生きた、という歴史です。
 そのような神による救いの歴史、信仰の歴史の続きに、今わたしたちは生かされています。ですから私たちは、神に常に守られていることを確信して、信仰の希望をもって日々を生きていきたいと願います。
 そしてイエス・キリストによる罪の赦しによる救いが確かにあることを、わたしたち自身も宣べ伝えていこうではありませんか。
キリスト者は罪の赦しによる救いに生き、それを喜び、そしてその喜びを他者に伝えるという特権をも与えられた者であるからです。

2023年3月11日土曜日

2023年3月12日 主日礼拝

招詞 ヨハネによる福音書4章24節
賛美 新生讃美歌 216番 栄えの冠を
主の祈り
証し
献金
聖書  創世記49章1~2、28~33節
祈祷
宣教  「集まって耳を傾けよ」
https://youtu.be/nNNIMBjRZ2A
祈祷
賛美 新生讃美歌 376番 友よ聞け主のことば
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷

 今日の聖書の箇所である創世記49章では、ヤコブが彼の生涯の最後の言葉を祝福として自分の息子たちに語り、そしてとうとう息を引き取ります。

ヤコブは、1~2節で次のように言っています。
1ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。
2ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。

 ヤコブには息子たちに伝えたいことがありました。ヤコブは自分の生涯の最後に息子たちを祝福したいと願っていたのです。そのため彼は息子たちに「集まりなさい」と言って彼らを自分のもとへと呼びました。
ヤコブには自分から起き上がって息子たちのところへ行くという力はもうありませんでした。ですから「集まりなさい」、「集まって耳を傾けよ」~心からのこの願いを、最後の力を振り絞るようにしてヤコブは息子たちに語ったのだろうと私は想像します。
ヤコブには“最後に息子たちを祝福したい”という願いがありました。そしてヤコブは、自分の息子たちが一緒に集まっている姿を見たい、という強い願いもあったのではないでしょうか。
なぜなら、兄弟同士が共に集まることができるというのは、それ自体がとても嬉しい祝福の出来事であったからです。
ヤコブ自身が、自分の兄のエサウとの確執(その原因の多くは、ヤコブ自身にもあったと言ってよいでしょう)を通して、兄弟が和解し共にいることのできる恵みを経験していました。
またヤコブは自分の息子たちの中でも特にヨセフをかわいがり、そしてヨセフも他の兄弟たちを見下すような態度を取りました。
そのため、他の兄弟たちはヨセフを憎み、ヨセフはエジプトへ売られることになりました。神の不思議な導きと恵みにより、ヨセフは他の兄弟たちと再会し、和解を果すことができました。
ヤコブにとって、最後自分の息子たちが自分の周りに一緒に集まっている姿を見ることができるのは、本当に幸福なこと、感慨深いことであり、そのことのために神に感謝したいと願わされることであったと私は思います。

今日私たちも、こうして教会に集まっています。実は私たちも、天の父なる神の「集まりなさい」という声によって、こうして教会に集められています。
わたしたちは実際に耳に聞こえる「集まりなさい」と言う声は聞かないと思います。しかし、イエス・キリストの父なる神が「集まりなさい」、「今日もキリストの体である教会に集まり、つながり、兄弟姉妹共に神の御声を聞きなさい」と言って、霊的にわたしたちに呼びかけてくださっています。
私たちは、そのような主の呼びかけに応えて、主が用意してくださった礼拝の場へと集まることができるのです。
今私たちは受難節(レント)の期間を過ごしています。レントの間、わたしたちはイエス・キリストが十字架の上で負ってくださったその苦しみに思いを馳せて感謝と悔い改めの気持ちを新たにいたします。
イエス様が十字架に架かってくださったので、わたしたちは父なる神のもとへと行けるようになりました。そのイエス様が私たちを教会に呼んでくださるので、わたしたちはこうして集うことができています。
ですからそのことを私たちは心から感謝し、兄弟姉妹同士一緒に、キリストの体である教会に集えることを喜びましょう。
そして私たちが自分で“教会へ来よう”と思う前に、実はイエス・キリストの神が先に、すでにわたしたちを“集まりなさい”と言って呼んでくださっているのだということを、わたしたちは忘れないようにしたいと思います。

 さて、今日の箇所の小見出しには“ヤコブの祝福”Jacob Blesses His Sonsと書かれていますが、3節から27節までのその内容を見てみますと、祝福とは言えない厳しいこともヤコブは言っています。
例えば4節には、長子ルベンに対して、こう書かれています。
お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。
 「お前は父の寝台に上った」というのは、創世記35章22節に書かれている事ですが、ルベンが父ヤコブの側女のビルハと性的関係を持ったことについて言っています。
 ルベンのその行為は罪の行為であり、ヤコブ自身が息子のルベンをそのことで許せない、と思っていたのかもしれません。しかし、彼はルベンが犯したその罪の行為も、最後の“祝福”の言葉の中に入れたのです。

 5~7節にはシメオンとレビのことが書かれています。6節には
「彼らは怒りのままに人を殺し 思うがままに雄牛の足の筋を切った」と書かれています。
これはおそらく創世記34章に書かれていることが言及されていると思われます。ヤコブには息子の他にディナと言う娘もいました。兄弟からすれば妹になります。
 そのディナがヒビ人ハモルの息子シケムという人に性的に乱暴されます。シケムは結局ディナを愛して、ディナとの結婚を望みます。
ヤコブの息子たち(ディナの兄弟)は、シケムたちを騙して、結局シメオンとレビが中心となってシケムの人たちを皆殺しにしてしまいました。
 “妹が辱めをうけた”という怒りに任せて、恐ろしいまでの報復行為をシメオンとレビが行ったのです。それは正当防衛とはとても言えない、激しい報復であり、ヤコブの息子たちは、シケムの町中を略奪しました。神の前には、それは明らかに罪と見なされる出来事でした。

ヤコブは、息子たちがかつて犯したそのような罪を、神の手に委ねようとしたのではないでしょうか。
ヤコブは最後の祝福の言葉の中に、息子たちが過去に犯した罪の出来事も含むことで、“お前たちは、神の前に罪人であることを認め、常に神に赦しを求めながら、生きなさい”ということを伝えたかったのではないか、と私は思います。
そしてヤコブは、自分の息子がこれからも犯すかもしれない罪をも神が赦してくださるように、と願いつつ、49章の言葉を語ったのでしょう。罪を認め、それに神の赦しが与えられる~それは信仰者にとって“祝福”と言ってもよいことです。

 そのようにしてヤコブは、最後の祝福の言葉(罪を指摘する厳しい言葉も含む)を、一人一人に語りつつ、また兄弟全員に向かって語りました。
兄弟一人一人に向けられた祝福の言葉を兄弟全員が一緒に聞くことで、“私たちは誰もが罪人であり、欠点と弱さを抱えている”、そして“そんな自分たちが神の前に赦しを得て、神の祝福をいただいている”という神の恵みが、彼ら全員の前で明らかになるのです。
それは、私たちがこうして神を共に礼拝し、神の言葉を共に聴いていることと似ていると思います。
私たちは礼拝で共に“わたしたちに”向けられた神の声を聞き、また同時に“この私に”個人的にも向けられた神の声をも聴くのです。
 そうすることで私たちはお互いに、誰もが欠けと弱さを持った者であることを私たちは知るのです。そのことでお互いを非難し合うのではなく、逆に“お互いを思いやりなさい”、“助け合いなさい”、“励まし合いなさい”という神からの呼びかけを私たちは聞くのです。

 息子たちを祝福し終わったヤコブは、(今日の29節以降で)いよいよ死に赴く前に、最後もう一度、自分を先祖の墓に葬ってほしい、ということを念押しして息子たちに伝えます。
 ヤコブは創世記47章27節以降の箇所で既に「先祖の墓に葬ってほしい」と息子たちに伝えています。
今日の箇所では、そのことをより詳しく述べています。「先祖の墓」とは、ヤコブの祖父アブラハムがヘト人のエフロンから買った墓地でした。
 ヤコブは自分の死に際し、後に残されてこれから生きていく息子たちに神の祝福があることを願い、そして自分が永遠に眠ることができる墓地を祖父アブラハムが用意してくれていた、ということに対してアブラハムに感謝の思いも抱いたのでしょう。
 「祖父アブラハムが用意した墓地に自分を葬ってくれ」という願いを通しても、息子たちにヤコブは、”わたしの祖先を守り、そしてわたしをも守り導かれた神は、あなたたちをもこれからも、きっと守り導いてくださるはずだ”という祝福のメッセージを伝えたのだと思います。
永遠の眠りの場所ということに対して、わたしたちも一般に墓地というものを大切にします。墓地は、地上でその人が生きたということの一つの証しともなります。
そしてまた、わたしたちキリストを信じる信仰者には、“わたしたちひとり一人のことがすべて主なる神に覚えられている”、“キリストにより用意された永遠の場所がある”という希望があることも、今日改めて思い起こしたいと思います。

わたしたちのこの地上での命の先には復活の希望があります。
イエス様はわたしたちに、“天の父なる神の家には住む場所がたくさんある”と言って下さっています。
ヨハネ福音書14章1~2節をお読みします。イエス様が十字架へかかろうとするその前に、弟子たちに向かって言ったお言葉です。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」
わたしたちはどこへ行くのでしょうか?わたしたちに行くところはあるのでしょうか?それがあるのです。御子イエス・キリストこそが私たちが通るべき道です。キリストという道を通り、わたしたちは真理と真の命、永遠の平安へと到達するのです。
キリストが約束してくださった“わたしの父の家にある、たくさんの住む場所”へと私たちが招かれている~その事を信じ、感謝をしながら、私たち共に命の日々、信仰の道を歩んで参りましょう。

2023年3月4日土曜日

 

202335日 主日礼拝

 

招詞 詩編801920

賛美 新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ

祈りの時

主の祈り

献金

聖書  ルカによる福音書1章57~66節

祈祷

宣教  「この子の名はヨハネ」

https://youtu.be/HnLhfx_hNLE

祈祷

賛美 新生讃美歌 327 ゆく手をまもる永久の君よ

頌栄 新生讃美歌 673

祝祷

 

今日の聖書の箇所は、一つの喜びの出来事を伝えています。それは、一人の男の子が生まれるという出来事でした。

57節に次のように書かれています。

さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。

 

エリサベトという女性が男の子を産みました。女性が子を産む~それ自体は特に珍しい出来事ではありません。しかし、今日の箇所で描かれている、一人の男の子の誕生は色々な意味で、大変特別な出来事でした。

エリサベトと夫の祭司ザカリアは既に高齢で、通常なら子が生まれる年齢ではありませんでした。しかし、主の天使がザカリアに現れ、“年老いた妻エリサベトが、男の子を産む”とザカリアに告げたのでした。

ルカ1章6節によれば、ザカリアも妻エリサベトも、二人とも“神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない”人でした。

しかしそれでも、ザカリアは、主の天使の言うことがすぐには信じられず、疑って「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と言いました(1章18節)。

 

“神の前に正しく、主の掟と定めをすべて守っていた”ザカリアにも、主の天使が知らせたその内容は(年老いた自分たちに子が生まれる)、信じられないことでした。

どれほど信心深いと思われる人であっても、やはりわたしたち人間は、自分の考えや経験などの範囲内でしか信じることができないものなのでしょう。

あるいは、神のなさる大きな業を、自分が理解できる程度でしか、理解しようとしない~ザカリアの姿は、そのような人間の本当の姿を伝えているのだと私は思います。

そこでザカリアは、“その事が起こる日まで口がきけなくなる”、と主の天使に言われ、その通り、彼はしばらく話すことができなくなりました。

 

しかし神は、ザカリアの不信仰にも関わらず、その驚くべき御業を神ご自身のご計画通りに実現なさいました。それは神の憐みであり、神の恵みでした。

神の憐みと神の恵みは、わたしたちがどれだけ信心深いのか、神の掟や定めをどれだけしっかりと守って正しい生活を送っているかどうかとは、はっきり言って関係がないのです。

どれほど私たちが正しく、一生懸命に生きようとも、わたしたち人間の行いや生き方は、それと引き換えに神の恵みを獲得できるほど、正しく聖(きよ)くあるということは、決してできないのです。

 新しい月、3月になりました。そして今わたしたちは、復活祭(イースター:今年は4月9日)の前の受難節(レント)の時を過ごしています。

わたしたちは、このレントの時期に、特にイエス様の十字架の上での苦しみを覚えて、主が私たちの罪を赦して下さるために十字架の上で命を捨ててくださった出来事に心から思いを馳せ、感謝と悔い改めの時を過ごそうとしています。

 

イエス様の十字架の恵みは、わたしたちが神を信じることができず、神を離れて自分中心の道を歩んだにも関わらず、そして自分の力では他者を(自分をも)心から愛することができない私たちに、ただ無償で与えられたのです。

今年度(2022年度)もあと一ヶ月弱で終わります。今年度私たちの教会は「主の恵みに目を留める」

その聖句はエフェソの信徒への手紙の28節です。先日219日(日)には、A兄が、エフェソ1章から、神の恵みとキリストにある祝福についての、わたしたちが大変励まされるメッセージを取り次いでくださいました。

今年度、わたしたちは“主の恵み”に、どれほど目を留めて歩むことができたでしょうか。

 

もしわたしたちが、“主の恵みは、このわたしの行いとか功績とは全く関係なく、ただ神の憐みによってわたしに与えられた”ということが、少しでも分かったのであれば、“主の恵み”に目を留めて、わたしたちは今年度歩むことができた、と言ってよいのではないか、と私は思います。

ただ主の憐みによって無償で与えられている主の恵みに、わたしたちはこれからも目を留め続け、信仰の道を歩んでいきたいと願います。

 

 今日の箇所で、ザカリアに現れた主の天使の知らせの通り、エリサベトが男の子を産むということが実現しました。

58節によれば、近所の人々や親類が喜び合いました。彼らは何をそんなに喜んだのでしょうか。彼らは「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて」喜び合ったのでした。

 子を産んだのはエリサベトです。そして母親が子を産むというのは、命がけの出来事です。とくに2,000年前では、そうだったでしょう。

ですからきっとこの時、エリサベトの近所の人々や親類も、エリサベトに“大変だったね”、“よく頑張ったね”という労いと、祝福の声もかけたと、私は想像します。

 しかし、エリサベトの近所の人々や親類の人たちはこの時、エリサベトが(高齢であっても)子を産んだ出来事の中に、「主が彼女を大いに慈しんでくださった」という主の御業を見たのです。

 

主がなさったその御業、主の慈しみがエリサベトに注がれたことを、彼らは心から喜び、その喜びを分かち合ったのです。

 私たちが、わたしたちに起きる色々な出来事の中に、神の慈しみ、神の御心を認めることができるのならば、たとえそれが普通に考えれば悲しい苦しい出来事であっても、私たちはそのような信仰によって力と慰めを頂くことができます。

  そして神の慈しみが豊かに注がれる時には、その神の慈しみの出来事は、その出来事の直接の当事者だけでなく、その人の周りの人たちにも分かち合われる喜びとなるのです。

 それが聖霊の御業です。ですから、わたしたちの教会にも聖霊がおられるかどうか、その一つの指標としては、神の慈しみ、神の御業がわたしたちの間で分かち合われ、わたしたちが共に喜んでいるかどうかだと、私は信じます。

 主はわたしたちと常に共にいてくださいます。苦しい時、悲しい時、困難な時にも、わたしたちの神は慰めの救い主です。

聖霊を通して与えられる神の憐みと神の恵みを、私たち一緒に心から喜び合おうではありませんか。そうすることができるのが、キリスト教会なのです。

 

 エリサベトが男の子を産んで八日目、その子に割礼を施す時が来ました。割礼とは、旧約聖書の『創世記』の中で、神がアブラハムとの間に結んだ契約のしるしでした。(創世記1711節)

 

神の恵みによって「あなたは多くの国民の父となる。あなたの子孫は繁栄する」という祝福の約束がアブラハムに与えられました。神はアブラハムを通して特別にイスラエル民族を選び、彼らと契約を結んだのです。

それからイスラエル民族は代々にわたって、“主なる神に従って歩むという決意のしるし”として、生まれて来る男の子に割礼をほどこしました。

 そしてその時、ザカリアとエリサベトの子が名付けられようとしました。当時は、こどもには父親か、親類の中の誰かと同じ名前をつけるという習慣がありました。(今でも、多くの国や地域で、同様の習慣があると私は思います)

 

 人々は、そのしきたりに従って、父の名をとってその子を“ザカリア”と名付けようとしました。しかし、エリサベトが驚くべきことを、そこで言いました。

 「いいえ、名はヨハネとしなくてはなりません」~エリサベトははっきりとそう言ったのでした。

 「その子をヨハネと名付けなさい」と、ザカリアには主の天使から既に告げられていました。それからザカリアは口がきけなくなりましたが、何らかの方法で、そのこと(こどもはヨハネと名付けられるべきこと)をゼカリアは妻エリサベトにも伝えていたのでしょう。

  妻エリサベトが「その名はヨハネとしなければなりません」とその時非常にはっきりと言ったことは、驚くべきことだったと思います。

 まず、それが当時の習慣に反することであったこと。そして当時非常に弱い立場に立たされていたと思われる女性であるエリサベトが、習慣に反することであったにも関わらず、はっきりとそのことを口にしたということです。それはエリサベトにとっても勇気ある行動であったと思われます。

 しかし、神はその時新しい出来事を起こそうとしておられたのです。生まれて来る子(ヨハネ)は、主イエス・キリストの伝道の働きのために、前もって道を備える働きをするようになる人でした。

神はエリサベトの心を励まし、彼女の口を通して、神がこれから起こそうとしておられる出来事を人々に告げたのだと、わたしは思います。

 “ヨハネ”Johnという名前の意味は、もともとのヘブライ語では“神は憐み深い”(God is gracious)です。神の憐み、恵みがこれから新しく、人の世に現れて伝えられる~イエス・キリストの恵みの出来事の前触れとして、その子は“ヨハネ”と名付けられる必要があったのです。

 そして人々は口がきけなくたっていたザカリアにもそのことを確認しました。「この子に何と名を付けたいのか」と彼らは聞きました(62節)

 

「この子はヨハネ」とゼカリアは板の上にはっきりと字で書きました。“わたしの妻の言うとおりだ”、“わたしたちは確かに主の慈しみと憐れみを受けた”とゼカリアは心の中で思っていたことでしょう。

「主はこれから新しい恵みの出来事を起こそうとしておられる」ゼカリアはそのように、これから起こる将来の出来事にも希望を思っていたと、私は想像します。

そこでザカリアは「口が開き、舌がほどけて、神を賛美し始め」ました(64節)。しばらく口をきくことができなかったザカリアが、その口を通して最初にしたことは、神を賛美することでした。

久しぶりに口を開くことができるようになった、ザカリアの口から最初にでた言葉は主を賛美する言葉だったのです。ザカリアは何か月も口をきくことができなかったことに不満の言葉を言う、ということもできたでしょう。

しかし、久しぶりに彼の口から出た言葉は、神への賛美でした。

 

詩編5117 Psalm 51:15 (NIV)で、ダビデが次のように言っています。

 

主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。

 

 神がわたしたちに与えてくださった口、唇、それを通してでる言葉は、神に感謝し、神をほめたたえる賛美の言葉、神をほめたたえる賛美でありたい。ダビデはそう願っています。

 わたしたちも、神に恵みによってわたしたちに与えられた言葉を、それを世界や人を呪い、怒りや嘲りの言葉とするのではなく、神の御業を喜び、神を賛美し、神を感謝する言葉としようではありませんか。

 主の慈しみは、いついかなる時にも、私たちと共にあるのです。感謝の歌と言葉をもって、心から恵みの神をほめたたえましょう。