2023年4月29日土曜日

2023年4月30日 主日礼拝

招詞 イザヤ書49章6節
賛美 新生讃美歌 338番 よきおとずれを語り伝え
主の祈り
献金
聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節
祈祷
宣教  「愛の奉仕」
https://youtu.be/qXf8pqbp5zs
祈祷
賛美 新生讃美歌 628番 われは主にみな捧ぐ
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 4月から始まった新しい年度(2023年度)も既に一ヶ月が経ちました。今年度、わたしたちには「愛の奉仕」(英語訳では、“愛をもって、奉仕を捧げよう”(give your service with love)という年間標語が与えられました。
その標語を採択したのは私たちですが、私たちの祈りと話し合いを通して、最終的には主なる神からその標語(願い)が私たちに与えられたと私は信じています。
 イエス・キリストの主なる神が、私たちの心の中に、そのような願いを起こしてくださったのです。

“キリストの体である教会に奉仕したい”、“教会を通して、主なる神に奉仕を捧げたい”、‟自分に与えられた賜物を捧げたい”という願いを、神が私たちに与えてくださいました。
 今年度“愛の奉仕”の思いをもって、私たちは信仰生活(教会生活)を共に送っていきたいと願います。
 その標語と思いを支える聖書の言葉として、今日の宣教箇所であるガラテヤの信徒への手紙5章13節が私たちに与えられました。
この一節には、「キリスト者とはどのような者であるのか」、そして「キリスト者は、どのように生きるべきなのか」という、信仰の本質的なことが書かれています。
 「愛によって互いに仕えなさい」~英語訳では「愛の中で、互いに謙虚に仕えなさい」と訳されています。ここで「仕える」と訳されている元のギリシア語の単語(動詞)は、「奴隷として仕える」という意味です。
 「互いに、奴隷として、仕えなさい」~この命令に対する私たちの最初の正直な反応は、おそらく「嫌だ!」ではないでしょうか。誰が奴隷になりたいと思うでしょうか?
「他者のために、できるだけ善いことをしようとは思う。しかし、奴隷として相手に仕えるなんて無理、嫌だ」と私たちは思うのではないでしょうか。
 人は自分に誇りをもって、誰に対しても従属せずに自信を持って自由に生きるべきだ、と私たちは思います。ですから「奴隷として互いに仕えなさい」という命令には、私たちは反発します。

 しかしこの命令は、「愛によって互いに仕えなさい」と言っています。
「愛によって(愛の中で)」が重要です。聖書はここで「あなたがた自身の思いや能力によって、互いに仕えなさい」とは言っていないのです。
 そうではなく、「愛によって、あなたがたは互いに仕えなさい」と言われています。ここで言われる愛とは、主イエス・キリストを通して示された神の愛です。イエス・キリストの愛です。
 神が人となったイエス・キリスト~このお方を通して私たちに与えられた愛によって、あなたがたは互いに仕えなさい、というのです。
 もし私たちキリスト者が、キリストを信じると言いながらも、“互いに仕える”ことを学ばない、そのことを実践しようとしないのならば、私たちはキリストを信じている、とは言えなくなります。
 わたしたちを互いに仕える者にさせる原動力である、キリストの愛を改めて私たちはここで思い起こしたいと思います。

 イエス様は、この地上で生きておられた間、そして特に直弟子である12弟子たちと共におられた時、常に“奴隷(僕)としての生き方”の模範を示し続けました。
 イエス様が十字架に掛けられる前に、イエス様が弟子たちと最後の夕食(最後の晩餐)を取っていた時、イエス様は立ち上がって、弟子たちひとり一人の足を洗いました。(ヨハネ13章)
 それはイエス様が十字架に掛けられて死ぬ前の日の晩でした。あと一日しか命がないその時に、イエス様は立ち上がって、ご自分でたらいに水をくみ、弟子たちの足を洗い、そして手ぬぐいでその足を拭く、ということまでしたのです。
 そこでイエス様は次のようにおっしゃいました。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
(ヨハネ13章14~15節)

 当時は、人々は素足にサンダルのような履物を履いて生活をしていました。ですから、外から家に帰って来ると、足が土や埃で汚れているのが普通でした。外出から帰ると、人々は汚れた足を洗う必要がありました。
 そして人の足を洗うのは通常は奴隷の仕事でした。しかもそれは、ユダヤ人の奴隷にはさせない、異邦人の奴隷にしかさせない仕事であったと言われます。
 同胞であるユダヤ人の奴隷は免除された(それほど屈辱的な)仕事である、“他人の足を洗う”という仕事を、主であり、王であり、神の子であるイエス・キリストが率先してなさったのです。
 わたしたちにとって「信頼できる指導者」あるいは、組織で仕事をしている方であれば、「信頼できる上司」とはどんな人でしょうか?
どんな先輩や上司であれば、わたしたちはその人を信頼し、その人に見倣おう、その人に従って行こうと思うでしょうか?

 それは、すべきことを自ら実践してみせてくれる人、だと私は思います。やってみせてくれる~そのような人を私たちは信頼できると思います。
イエス様はまさに、そのような指導者でした。イエス様は、弟子がすべきこと、“こうやって信仰者は生きるのだ”という模範を、御自分でやって見せてくださいました。
イエス様は「あなたがたは、互いにこうやって仕え合いなさい」という模範を、弟子たちの足を洗うという行いを通して、私たちにはっきりと示してくださいました。
 そして今イエス様を信じて生きる私たちも、信仰的に(霊的に)イエス様に足を洗っていただいたと言ってよいと私は思います。
 主であるイエス様に足を洗っていただき、“あなたがたも互いに足を洗い合いなさい”、“互いに仕えなさい(奴隷として)”というイエス様の言葉を聞いた私たちは、イエス様のその教えに従って生きなければなりません。

 イエス様が、奴隷の立場にまで、そこまで御自分を低くされたことは、次の有名な聖句にもはっきりと書かれています。

フィリピの信徒への手紙2章6~7節です。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 神と等しい身分でありながら、自ら奴隷の身分になられたのが、わたしたちの主なる神であるイエス・キリストです。
そのお方(イエス・キリスト)を主と仰ぐ私たち、この教会の中では、ご自身を私たちのために捧げてくださったイエス様の御愛によって、互いに(奴隷として)仕え合うという神の業がきっと実現していく~私たちはそう信じてよいのです。
 今日の聖書箇所、そして教会の年間主題であるガラテヤの信徒への手紙5章13節の前半の部分を、お読みします。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。
 わたしたちは神によって召し出され(呼ばれて)、自由となりました。ここで言われているのはそういうことです。キリストにあって、私たちは自由にされました。
 ヨハネの福音書の14章31~32節で、イエス様が次のように言っています。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 イエス様の言葉は、今も聖書を通して私たちに残されています。わたしたちは信仰によって、イエス様の御言葉の中に留まり続けます。
 キリストの言葉にとどまることによって私たちは真理を知り、その真理は私たちを自由にします。
変りやすい人間の常識や考え、時代の風潮や雰囲気などとは違い、いつまでも決して変わらないもの~それが真理です。
 その真理はわたしたちを支え、わたしたちを力強め、そしてわたしたちを本当の意味で自由にします。その真理とはイエス・キリストの御言葉です。イエス・キリストこそが真理ですから、イエス様の御言葉は真理なのです。
 その真理を知らされた私たちは、世の中の移り変わりやすい流行や、人からの評判や噂によって左右されない、イエス・キリストへの信仰による自由を持つことができます。
 その自由を私たちはどのように用いるべきなのでしょうか。その事について今日の聖句に次のように書かれています。

「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、
私たちは弱く、またどうしても自分を誇ろうとする思い、高ぶる思いを持ってしまいます。
せっかく頂いた尊い、信仰による自由、キリストの真理によって与えられたこの自由を、“自分を高める、自分誇る”と言う目的のために誤って用いてしまう危険性が残念ながら私たちにはあるのです。
そのような私たちの肉の思いを断ち切るために、私たちは常に聖書の御言葉によって自分の心を照らしましょう。
そしてイエス様が十字架に架かって死んでくださったその出来事に、いつも思いを馳せましょう。
 私たちのためにご自分の全てを献げてくださった、神の御子イエス・キリストが私たちの主人です。私たちの主人であるイエス様が、自ら弟子たちの足を洗うという模範を示してくださったのです。

それほどまでに神が弟子たちひとり一人を、そして私たちひとり一人を特別に大切な者として愛してくださったのです。
今年度特に私たちは、キリスト者として私たちに与えられた測り知れない自由を感謝して受け止めたいと思います。
そしてキリストの真理によって与えられたその自由を、私たちは私たちの肉と欲を満たすために用いるのではなく、キリストの愛によって(キリストの愛の中で)互いに仕え合うことのために、その自由を用いていきましょう。
私たちが、キリストに従って共に歩もうと決意をする時、神は私たちをキリストによって一つとしてくださり、そして私たちは、お互いに愛の中で互いに仕え合う群れとして、きっと成長していくことができます。
そのような確かな希望を頂いて、私たちの心の思いも全て神にお委ねをして、新しい年度もキリストにある信仰の日々を共に歩んでまいりましょう。

2023年4月22日土曜日

2023年4月23日 主日礼拝

招詞 エレミヤ7:2~3節
賛美 新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませリ
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  コリントの信徒への手紙一 16章1~12節
祈祷
宣教  「わたしの働きのために大きな門が開かれている」
https://youtu.be/CrrI2PzPkPU
祈祷
賛美 新生讃美歌 639番 主の恵みに生きる
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷

 教会は一つの体、と言われます。教会は、人間の体に例えられるということです。
ローマの信徒への手紙12章5節には「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と書かれています。
ローマの信徒への手紙も、今日の私たちの礼拝の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙も、パウロという伝道者がローマとコリントという場所にあった教会の信徒たちへ書いた手紙です。

パウロは、1コリント12章12~13節では次のように書いています。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体の部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」
 イエス・キリストを主と信じ、キリストに従って生きることを決心し、その信仰と決心の表明として、バプテスマを受けた人は、誰であっても(国や身分に関わらず)キリストの体である教会に連なって、その体の一部となって生きるということです。
 しかし「体の一部」と言うと、それはわたしたちのプライドを傷つけるように聞こえるかもしれません。なぜなら「一部」と言うと、それはまるで「交換可能な一つの機械部品」と言われているようにも感じられるからです。

それはまるで「別にあなたがいなくても、代わりの人は他にいますよ」と聞こえる可能性があります。私は最初「体の一部」の譬えを聞いた時、少しそのように感じたのです。
 しかし聖書が、キリスト者ひとり一人を「体の一部」に例えている意図は、それとは全く違います。
 わたしたちがキリストの体の一部になるということは、取り換え可能な一つの機械部品になるということでは全くありません。
それはむしろ、キリストの体の一部として、その体の頭であり主であるイエス・キリストにとって、わたしたちひとり一人がかけがえない者(存在)にされる、とう大きな恵みなのです。
そして同じキリストの体に連なるひとり一人が、具体的には教会に連なるひとり一人がお互いにとっても、かけがえのない不可欠な存在になる、ということです。

4月9日(日)のイースター礼拝では、私たちは主イエス・キリストの復活を共に記念し、喜び、お祝いをいたしました。そしてその日は新たに一人の兄弟が、キリストを主と信じバプテスマを受け、私たちの教会の群れに加わりました。
キリストにとって、そして私たちにとって「かけがえのない一部」に、その人はなったのです。私たちが同じ主を信じ、キリスト教会に結びつけられているのは、それほどまでに特別なことなのだ、ということを私たちは改めて覚えたいと思います。

 今日の聖書箇所である1コリント16章の始め(1節)に次のように書かれています。
「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。」
 ここで「聖なる者(英語の訳では“主の人々the Lord’s people”)」と言われているのは、エルサレムにあった教会の信徒たちのことです。 エルサレム教会は、最初のキリスト教会でした。
 イエス様が十字架に掛けられて死に、そして復活して、再び天に上げられた後、イエス様の弟子たちはエルサレムに留まっていました。
 そして使徒言行録1~2章の中に記されている通り、エルサレムに留まっていた弟子たちや他の信徒たちに聖霊(神の霊)が下って、そこからキリスト者の集会、すなわち教会が始まったと言われます。
 イエス・キリストが主である、と言う信仰は、最初はユダヤ人たちの間だけで信じられていました。聖書の中で、ユダヤ人以外の民族のことが“異邦人”と言われています。パウロは、この異邦人と言われる人たちへキリストの信仰を伝えることが自分の使命だと確信した人でした。

パウロのような伝道者たちの働きを通して(彼らが各地へ赴いて、キリストの福音について伝えたことを通して)やがてユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストへの信仰は他の国や地域へも広がっていきました。
 そしてイスラエル以外の各地にも教会が出来ました。ローマの教会やコリントの教会もそのような、異邦人伝道によって生まれた教会でした。
ユダヤ人以外の人たちが異邦人と言われたのに対し、最初の教会であったエルサレム教会の信徒たちのことが「聖なる者」と、今日の箇所で言われているのです。
これは、同じキリストを信じる信者としての身分は平等ですが、当時“最初の教会”、“ペトロたち、イエス様の教えや行いに直接触れた信者たち”という意味で、エルサレム教会に対しては、ある種特別な思いや尊敬が向けられていた、ということを表します。
主なる神は、エルサレムの信者たちを通して、イエス・キリストの福音を最初に人々に伝えられた~その事実もあって、エルサレム教会が特別な思いをもって他の地域の信者たちに受け止められていた、ということだと私は思います。
わたしたちも、最初に自分に福音を伝えてくれた人や、あるいは自分の出身教会や母教会には特別な思いを持つ、ということがあると思います。当時のキリスト信者たちにとって、エルサレム教会は、そのような“母なる教会”でもあったのでしょう。

また「聖なる者たち」あるいは「主の人々」と、エルサレム教会の信徒たちを、パウロがここで言っていることは、同じ主(神)を信じる者への愛を表してもいます。
実はパウロは、エルサレム教会の信者たち(ペトロをはじめとするエルサレム教会の指導者たち)とは、福音伝道に関して意見の違いなどにより、激しく衝突したこともあったのです。

ガラテヤの信徒への手紙2章11~12節に次のように書かれています。
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
 ケファ(Cephas)とはペトロのことです。「ヤコブのもとから」(from James)とは、エルサレム教会から、という意味です。
 アンティオキア教会は、パウロや彼の同労者であるバルナバを、宣教活動に送り出した教会です。アンティオキア教会はパウロにとっては母教会だったと言ってよいでしょう。
 ペトロがアンティオケア教会に来た時に、最初はユダヤ人以外の人たちも一緒に彼は食事をしていました。ところがエルサレム教会から別の人たちが来ると、ペトロは異邦人たちとの食事の場から身を引いた、というのです。
 当時、ユダヤ人以外の人と交わったり、まして一緒に食事をしたりすることはユダヤ人には禁じられていたからです。
 しかしパウロは「そのような態度は、キリストにある信仰に相応しくない」、「キリストはユダヤ人だけでなく、すべての人にとっての主だ」と言って、ペトロを面と向かって激しく非難したというのです。

 それ以外にも、ユダヤ人以外の人たち(異邦人)への伝道に関して、パウロとエルサレム教会の間には、色々な意見の違い、激しい議論がありました。
 使徒言行録15章の最初には、“異邦人も、ユダヤ人のように割礼を受けるべきか”という問題をはじめとして、「パウロやバルナバとその人たち(エルサレム教会の人たち)の間に、激しい意見の対立と論争が生じた」と書かれています。
 そのようなことがあっても(色々と対立や激しい議論を交わしていても)、パウロにとってエルサレム教会の信者たちは、“聖なる者たち”でした。彼らはパウロにとって、同じキリストを信じるかけがえのない“神の家族”であり続けたということです。
 今日の箇所で”募金”(collection)と書かれていますが、当時エルサレムの教会は大変困窮した状態にありました。使途言行録11章28節によれば、当時大きな飢饉があって、とくにエルサレム教会の信者たちは困窮していたことが書かれています。
 意見や考えが異なり、激しい議論をしたことがある間柄であっても、パウロにとって、エルサレム教会の信者たちは同じキリストの信者であり、神の家族でした。
その彼らが大変に困窮しているから助けなくてはならない。パウロは各地の教会に、エルサレム教会の信者を助けるための支援(募金)を呼びかけていたのです。それが今日の箇所の背景です。

 その状況は、今の私たち、同じ教会の信徒同士の関係についても同じことが言えると思います。
私たちの間にも色々と考えや思い、立場やもちろん好みなども違うことがあります。
しかし、同じイエス・キリストを信じ、同じ教会に結びつけられた私たちは、お互いに「聖なる者」なのです。
 キリストへの信仰によって、一つの体に連なる者同士とされた、”聖なる者同士”の信仰の絆をわたしたちは大切にしていきたいと願います。

 今日の1コリント16章5節以降では、パウロがエルサレム教会の信者たちの困窮を心に掛けながらも、これからの福音宣教についても思いを向けて、将来の伝道計画についても大きな希望を持っていることが書かれています。

 9節(今日の宣教題でもあります)をお読みします。
わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。

 パウロは信仰の目によって、彼の目の前に開かれている「大きな門a great door」をここで見ています。キリストの福音を信じて生き、福音を宣べ伝える働きのための大きな門が彼の前には開かれていたのです。
 信仰者は、今の状況がどれほど厳しくても、将来に向けての希望をキリストにある信仰によって持つことができる、ということです。キリストが私たちを導き、必要なものは必ず私たちに与えられるからです。
 パウロには彼に反対する者、彼を攻撃する者たちも沢山いました。パウロは伝道活動の中で多くの迫害や困難にあいました。信仰を持って生きることは、いつも平穏で順風満帆ではない、むしろそうでないことのほうが多いかもしれません。
 しかし、そうであっても私たちは恐れなくてもよいのです。主なる神が、復活のイエス・キリストがわたしたちと共にいてくださいます。そしてまた、私たちには信仰の家族、信仰の友がいます。
 パウロも、今日の箇所で書かれているように、「わたしと同様、彼は主の仕事をしている」テモテや、兄弟(信仰の兄弟)アポロという、福音伝道の働きの同労者たち、仲間がいました。
 そのように、キリストにある信仰者はいついかなる時にも、決して一人ではないのです。
イエス・キリストが私たちと共にいて下さり、共に励まし合い、福音を分かち合い、喜び合い、支え合うことができる信仰の仲間が、いつも私たちには与えられています。
そのことを私たちは心から、喜びましょう。
 主なる神に守られて、教会に連なり、信仰の仲間と共に、わたしたちもこれからの信仰生活を共に歩んでいきたいと願います。

2023年4月15日土曜日

2023年4月16日 主日礼拝

招詞 詩編91篇4節
賛美 新生讃美歌 363番 キリスト教会の主よ
主の祈り
献金
聖書  ルカによる福音書2章1~7節
祈祷
宣教  「彼らの泊まる場所」
https://youtu.be/xDpy_zkQp4M
祈祷
賛美 新生讃美歌 554番 イエスに導かれ
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


先週の日曜日(4月9日)は、わたしたちはイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を持ちました。
イエス様は十字架の上で、私たち人の罪の贖い(代償)として、命を捨ててくださいました。十字架の上で、私たち人の罪は、イエス様の命と引き換えに、赦されました。
そして主は復活し、死に打ち勝たれました。死の恐怖、死の力が神の前には何の力も持たないことを、復活のイエス様がはっきりと示してくださいました。
ですから私たちは、キリストを信じ、復活の主キリストと共に生きることによって、死の恐怖と罪の縄目から解放され、日々確かな希望を持って生きることができるようになりました。そのことを私たちは心から感謝したいと思います。

 今日の聖書の箇所は、ルカ福音書を連続して礼拝宣教の中で読んでいる宣教スケジュールに戻りまして、ルカによる福音書2章1~7節です。ここは、イエス様がお生まれになった場面で、クリスマス礼拝の時によく読まれる箇所の一つです。
 “ローマ皇帝アウグストスが全領土の住民に住民登録をするように命令した”という記述から今日の箇所は始まっています(1節)。皇帝の命令には、支配下にあるすべての人民が従わなくてはなりませんでした。
その時皇帝が住民登録を命じた理由は、人々に税金を課すことが目的だったと言われています。税金を課すために、人民(各家族)の数と財産を正確に記録し把握することが必要だったのです。

 ヨセフとマリアは(二人はまだ、夫婦としての正式な関係を持っていないという意味で、マリアのことは“いいなづけ(英語:‟婚約していた”)のマリア”と5節には書かれています)、彼らが住んでいた町ガリラヤからユダヤのベツレヘムまで、登録のために行かねばなりませんでした。
 その道のり(ガリラヤからベツレヘムまで)はおよそ150キロと言われます。それだけの長距離を、妊娠中のマリアを伴なってヨセフは旅をせねばなりませんでした。
 この住民登録は、皇帝アウグストスの権力の大きさを示すものでもあります。住民登録の目的には、税金を課すという実際的な目的と同時に、“皇帝の権力を誇示する”という目的もあったかもしれません。
 皇帝の一言で全住民が大きな移動さえもせねばならない~それは皇帝の持つ権力の大きさを示すものです。

しかし逆に、この住民登録は人間であるが故(ゆえ)の弱さ、人間の能力の限界をも表します。
それは、皇帝であろうとも、住民登録という形で人民に強制的に登録をさせなければ、自分が支配している民たちのことを把握することはできない、ということです。

 それに対して、神はそのようなお方ではありません。神はわたしたち人のことを把握するために「住民登録をしろ」と命じる必要はありません。神はわたしたち全ての人のことを知っていてくださいます。
 それは、聖書が伝える神は、わたしたち全ての者を、この世界のすべてのものをお造りになった創造主であるからです。そして神はわたしたちひとり一人のことを、本当に大切に思い見守ってくださっているお方であるからです。
イエス様は「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃいました。(マタイによる福音書10章30節)。それは、”神によって数えられている”、ということです。
それは、“神はわたしたち全ての者のことについて、文字通り全てを知っていてくださっている”ということです。ですから神は住民登録のようなことをして、御自分の民の人数や財産を把握する必要がないのです。
また、神はわたしたちから税を取り立てる方ではありません。神はわたしたちから税金など取る必要が全くないお方です。
確かに私たち信仰者は、神から頂いている恵みへの感謝として献げ物(献金)をします。しかしそれは、わたしたちに課せられた(義務的に支払う)税金などとは全く違います。
わたしたちの全てを知っていて下さり、わたしたちに全てを与えてくださる神に、信仰の感謝を持って私たちがお献げするもの(お返しするもの)~それがわたしたちの献げ物(具体的には献金)です。

 人間の権力者は、悪意に基づくとは限らないとしても、過度な負担や要求を自分の影響下にある他の人間に与えてしまう(課す)ことがあります。
 権力を持った者が(それには教会の牧師も含まれるでしょう)、正しく公正に、与えられた責務を果たし、その力を濫用することが決してないように、私たちは祈りたいと願います。

 皇帝の命令により、「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」と3節に書かれています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤからベツレヘムまで行かねばなりませんでした。
彼は、偉大なダビデ王の家系に属し、ダビデの町であるベツレヘムが彼の「自分の町」(もともとの故郷)でした。ヨセフはもともとベツレヘムの出身で、ガリラヤに移り住んでいたのかもしれません。
自分の町(出身地)から遠く離れて暮らす人たちにとっては、この住民登録の時に自分の町に行くということは、自分の生まれ故郷へ帰る時、あるいは自分のルーツをたどるような機会であったかもしれません。

人によっては、久々に自分の出身地に向かうことで、「里帰り」をするような喜び、自分のルーツに戻るように感じられる、感慨深い時でもあったかもしれません。
 出身地あるいは生まれ故郷というものは、わたしたちに特別な思いを抱かせます。遠く離れた地で、同じ出身地の者同士が会うと、わたしたちは嬉しい気持ちになることがあります。
 私たちの教会には、地元の方々、そして日本各地のご出身の方、また海外の地域や国々出身の方々が集っています。皆さんそれぞれ、ご自分の出身地、出身国に愛着をお持ちではないかと私は想像します。
 そのような私たちが教会に一緒に集っていることはとても特別なことであり、また恵みの喜びの出来事なのです。それは教会が神の家であり、キリストの体という特別な場所であることの表れであるからです。
 教会に集い、教会につながることで、私たちは自分が本当は何に属する者であるかを知らされ、信じることができます。

聖書は、わたしたちの「本国」について、次のように言っています。フィリピの信徒への手紙3章20節に次のように書かれています。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」
キリストによる救いを信じる者は、その本国(国籍)が天=神の国にあると、聖書は告げているのです。

わたしたちはこの地上では様々な地域や国に生まれます。しかしイエス・キリストへの信仰によって、わたしたち全ての者の本当の国は天にある、ということを私たちは知らされるのです。
国や地域の違い、文化や言葉の違いは、私たち人間の世界の多様性(豊かさ)を表すものです。それと同時に、それらは私たちがお互いを理解する時の妨げ、差別や誤解の原因ともなります。
私たちの間の違いが、敵意や争いさえも、不幸にも生み出してしまうことがあります。そのような時には、わたしたちはイエス・キリストの十字架を見上げる必要があります。

聖書のまた別の箇所、エフェソの信徒への手紙2章14節に
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と書かれています。
 キリストは私たちの平和であり、異なる背景や様々な違いを持つ私たちがキリストによって一つとなれるのです。

さらにエフェソの信徒への手紙2章19節には「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と書かれています。

 私たちはキリストにあって平和を頂き、キリストによって一つとされています。私たちは天の御国という本国に属する者であることを確認し喜ぶために、こうして礼拝に共に集っているのです。
様々な背景を持つ私たちがキリストによって一つとされていること、神の家族とされていることを喜ぼうではありませんか。
そして私たちの本国は天にあるのですから、わたしたちはこの地上での出身地や住む場所に関わらず、キリストにあって同じ故郷を天に持つ者同士であることを、信仰によってお互いに喜び合いましょう。

 ヨセフとマリアがベツレヘムに滞在中に、マリアが子を産みました。神の御子イエス・キリストの誕生です。“宿屋には彼ら(ヨセフとマリア)が泊まる場所がなかったので、イエス様は飼い葉桶に寝かされた”と書かれています。
 大きな権力をもって、全領土の住民に住民登録を命じる皇帝アウグストスの姿とは対照的に、神の子であるイエス様が、本来与えられるべき“最良の場所”とは程遠い、飼い葉桶に寝かされました。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」~これは、この世と私たち人間の現実の姿を表しています。それは、この世は神の子をその最良の場所(客間)へお迎えする用意と気持ちがなかった、ということを表しています。
 イエス・キリストは人々によって十字架に掛けられました。一番近くにいた弟子によってイエス様は裏切られました。
 しかし人の世は、ある意味で最初から、御子イエス・キリストがこの世に来られたことを拒絶していたのです。飼い葉桶に寝かされた赤子のイエス様は、そんな私たちの罪の現実を示す姿でもあります。
 しかしそれでも主イエス・キリストは神の御計画の通り、この世にお生まれになりました。皇帝の命令に従って遠い旅をして疲れたヨセフとマリアの子として、イエス様はお生まれになったのです。
神の子に相応しい場所さえ与えられず、飼い葉桶に寝かされたその子こそが、世を救う救い主であったのです。
 神はそのようにして、この世の最も低いところへ自ら降って行ってくださいました。イエス様は生まれた時から、世の最も低いところに、小さく弱くされた人々と共におられたのです。
 ですからイエス様は、いつの世にあっても、最も苦しみ、低く、小さくされた人たちの思いと気持ちを完全に理解することがお出来になります。
イエス様は、弱く小さくされた人たちの苦しみをご自分のこととして、完全に理解をしてくださいます。
 そのようにして私たちのこの世界に、わたしたちの救いのためにお生まれになってくださったイエス・キリストの恵みに私たちは今一度思いを馳せて、感謝の日々を歩んでまいりましょう。

2023年4月8日土曜日

2023年4月9日主日(イースター)礼拝

招詞  エレミヤ書31章3節
賛美  新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
主の祈り
信仰告白
献金
聖書  ヨハネによる福音書20章11~18節
祈祷
宣教  「わたしは主を見ました」
https://youtu.be/fRd2tff0byE
祈祷
賛美  新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
バプテスマ式
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷


 復活祭(イースター)の朝、聖書の御言葉によって、復活の救い主イエス・キリストの御言葉を私たち共に聞いてまいりましょう。
 今日の聖書箇所(ヨハネ福音書20章11~18節)は次の一文で始まっています。
「マリアは墓の外に立って泣いていた」
このマリアは、“マグダラのマリア”と言われた一人の女性です。ルカ福音書によれば、マグダラのマリアは、イエス様に悪霊を追い出していただいたことがある、という女性でした。

今日の場面で、マリアが墓の外に立って泣いています。その墓は、イエス様のお墓でした。イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして葬られた墓の前でマリアは泣いていました。
かつて自分から悪霊を追い出してくださった先生であるイエス様が死んだ、十字架の上で残酷に無残に殺されてしまった、そのためにマリアは泣き悲しんでいました。
それだけではありませんでした。今日の箇所の前の箇所に書かれていますが、マリアはイエス様が死んで墓に葬られてから三日目の朝早くに、イエス様の墓へと行きました。
そこでマリアは、墓の入り口から入口を塞いでいた石が取りのけてあるのを見ました。それを見てマリアは、「主(の遺体)が墓から取り去られた」と思ったのです(ヨハネ20:2節)

イエス様が死んでもういない~それだけでも、マリアは悲しみに打ちひしがれていました。しかし、そこにあるはずのイエス様のお身体がない、誰かが持ち去ってしまった(とマリアは思った)ことに、マリアは耐えられずに、墓の外で泣いていたのです。
イエス様が死んでもういない、そこにあるはずの遺体さえない、主は完全にいなくなってしまいどこにおられるか全く分からない~そのことでマリアは悲しみに打ちひしがれて泣いていました。

マリアが、そのように一人イエス様の墓の外で立って泣いている~主がもうおられない(どこにその体があるのかも分からない)という悲しみに打ちひしがれて泣いている姿から、わたしたちは幾つかの真実を知ることができると、わたしは思います。
それはまず、“主なる神がおられない、神がいない”という思い、そのような状況こそが私たち人間の悲しみ、苦しみの原因である、ということです。
“神がいない”と言う状況こそが、私たち人間にとって一番苦しく、悲しいことであるのです。なぜなら、聖書によれば、もともと人間は神によって造られ、神と共に生きる者であるからです。
わたしたち、そのことを真剣に考えてみましょう。神がいなくて人は生きることができるでしょうか?
人は神がいなくては本当の意味で生きていくことはできません。ところが人は、自らの意志で神から離れ、神から遠ざかり、“神がいない”と言う状況を自分から造り出してしまいました。
それが私たちの罪です。「神などいなくても生きていける」と思うことが、人間の大きな罪の一つです。「神がいなくては、人が真の意味で生きていくことはできない」というのが聖書が伝える重要なメッセ―ジの一つです。
そしてクリスチャンであっても、わたしたちは本当に神と共に御言葉に養われて生きているかどうかを、自分を吟味しなくてはなりません。

聖書の中に、次のような言葉があります。それは有名な聖書の言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
(マタイ4章4節、申命記8章3節)
聖書の神は、言葉を通してご自身を現わされる神でもあります。ですから、ここで「神の口から出る一つ一つの言葉」とは、神ご自身のことでもあります。
人は神と共に、神の言葉と共に生きるのです。神はおられます。聖書の御言葉がわたしたちにはあります。そして聖書の御言葉によって救われ、御言葉によって生きる、キリストの教会があります。
それらがいずれも、神は確かにおられるという証拠です。ですからわたしたちは常に、神がおられることを御言葉によって確信し、神が共におられることに真の希望を見いだして、生きていきたいと願います。

そして、マリアが一人泣いている、というその姿から教えられるもう一つの真実は、“神は、一人の嘆き悲しむ人を見てくださっており、その人と共におられ、その悲しみを分かってくださっている”ということです。
マリアは「もう主が私と共にいない」と思って泣いていました。しかし、主はマリアを見ておられたのです。主はマリアと共におられたのです。マリアがその真実を見ることができなかっただけなのです。
わたしたちの悲しみ、あるいは心の中の色々な思いが、わたしたちの心の目を曇らせ、わたしたちといつも共にいてくださる神を見えなくしてしまっているのではないでしょうか。
もしわたしたちが、“神が共におられない”という孤独や悲しみを感じる時には、泣いているマリアを見守りながら彼女と共におられた主なる神のことを思い出し、“主はわたしと共におられ、わたしの悲しみに寄り添ってくださっている”ことを思い起こしたいと願います。

泣きながらマリアは身をかがめて墓の中を見ました。するとイエス様の遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使がいました。
天使たちがマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と聞きました。マリアは自分が泣いている原因を答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」
 そう言ってマリアが振り向くと、そこにイエス様が立っておられました。しかし、マリアはそれがイエス様だとは分かりませんでした。
 イエス様が、(天使たちと同じように)「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と聞いても、それでもまだマリアはそれがイエス様だとは分かりませんでした。
 肉体の目がイエス様を見ても、肉体の耳がイエス様の声を聞いても、心の目と耳が神によって開かれなければ、わたしたちは主なる神を見て、その声を聴くことはできない、ということを、この場面は表しています。
ある人達は聖書を専門的に調べ、歴史的に正しいかどうかを学問的に検証しようとします。たしかに学問的な手法によっても聖書の御言葉を探求することは大切なことです。
 しかし、どれほど専門的な学問で聖書の御言葉を研究、検証したとしても、神の霊によって私たちの心が導かれることがないならば、また私たちが神に向けて自ら心の扉を開こうとしないのならば、神の御声を聴くことは決してできません。

 そしてまた大切なこと、それは常に最初に私たちに語りかけてくださるのは主なる神である、ということです。
 マリアはイエス様の姿を見ても、その声を聴いても、それがイエス様だと分かりませんでした。しかしイエス様がマリアの名前を先に呼んでくださいました。今日の16節で、イエス様が「マリア」と、名前で彼女を呼んでおられます。
 そこでマリアは、その人がイエス様であることがはっきりと分かりました。マリアは「ラボニ」(先生)と言って、答えました。
 イエス様が先にマリアを呼んでくださったのです。イエス様がマリアを彼女の名前で呼んでくださったのです。
 イエス様がマリアを名前で呼んでくださったのは、イエス様が生きている間に言っておられたことの実現でもありました。

 イエス様は、ご自分のことを羊飼いに例えてお話をされたことがあります。ヨハネ福音書10章の初めに次のように書かれています。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついて行く」(ヨハネ10:3~4節)
 その羊飼いとは、イエス様ご自身のことです。その譬えのように、イエス様は「マリア」と彼女(自分の羊)の名前を呼んでくださり、個人的に語りかけてくださいました。
 イエス様が名前を呼んでくださる、ということはイエス様がその人のことをよく知っておられる、ということを意味します。そしてそれは、呼びかけられた者がイエス様を自分の“良き牧者”として信頼できる、ということを意味します。

 そのように、復活のイエス様は今も生きて、私たちひとり一人を名前で呼んでくださっています。そのイエス様の御声をわたしたちは、霊と心の耳によって聞き分けていきたいと願います。
 そしてそのように私たちひとり一人を名前で呼んでくださり、語りかけて下さる主イエス・キリストに私たちは従って生きて行こうではありませんか。
 イエス様がマリアを名前で呼ばれたのは、“あなたはわたし(イエス)にとって、名もない大勢の中の一人ではない。あなたは大切なかけがえのない特別な一人だ”という意味でもあります。
 復活の主イエス・キリストは、今もわたしたちを“特別な尊い一人”として、私たちに向かって御言葉を通して、語りかけてくださっています。
 復活日の朝に、主イエス・キリストは確かに復活されました。主は甦ったのです。
キリストを信じる私たちが、霊と心の目と耳を開き、御言葉によって魂を燃やされ、生きるとき、主なる神が今の確かに生きておられることが、世に向かっても知らされていきます。
主の福音が力と喜びと共に、私たちを通して世に拡がっていくのです。そのような器として私たちが用いられることを、わたしたちキリストにある信仰者は喜びましょう。
 聖書の御言葉に基づいて、わたしたちは「わたしは主を確かに見ました」、「わたしは主の御声を確かに聞きました」と信じ、そのように証し(証言)することができるのです。
復活の主イエス・キリストによって生かされ、新しい命を今週、また新しい年度もまた私たちは共に生きてまいりましょう。復活祭(イースター)おめでとうございます。主は甦られました!

2023年4月1日土曜日

2023年4月2日 主日礼拝(受難週)

招詞 ゼカリヤ書10章9節
賛美 新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて
祈りの時
主の祈り
献金
聖書 マタイによる福音書26章47~56節
祈祷
宣教  「友よ、しようとしていることをするがよい」
https://youtu.be/izYTTJBOlCI
祈祷
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷


 今週はキリスト教で「受難週」と言われます。イエス・キリストが十字架にかけられて死なれる前の最後の一週間のことを私たちが特に覚える週です。
イエス様が十字架にかけられて死んだのは金曜日でした。ですから今週の金曜日は、私たちはイエス様が私たち人の罪を背負って十字架の上で苦しまれた、その受難を特に覚え、神に悔い改めと感謝を献げます。
イエス・キリストは死んでから三日目の日曜日に復活をしました。来週の日曜日は、いよいよキリストの復活をお祝いする復活祭(イースター)を迎えます。
十字架の先には復活の希望があります。しかし復活のその希望は、十字架の上でどれほどの恵みの業が私たちのために成し遂げられたのか、十字架への道をイエス様がどのようにして歩まれたのかを私たちが理解してこそ、より明らかになります。
ですからわたしたちは、イエス様が十字架へ向かわれたその道のりに心を傾けて、イエス様がわたしたちのために負ってくださったその重荷を、今日も覚えたいと願います。

今日の聖書箇所は、イエス様の弟子の一人であったユダが、武器を持った大勢の群衆を引き連れて、イエス様を捕まえにくる場面です。ユダという人は「キリストを裏切った人物」として長く歴史上にその名前が記憶されるようになりました。
ユダは今日の箇所の最初の節で「十二人の一人」と書かれています。ユダは、イエス様によって選ばれてイエス様と共に生活をした、最初の弟子の一人でした。
ユダは、イエス様と共に神の国を人々に伝える働きをした12弟子、つまり他のどの人たちよりも、イエス様の近くにいて仕えた弟子たちのうちの一人だったのです。
 そのユダが、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆と一緒にイエス様のもとへとやってきました。それは、イエス様を裏切って、祭司長たちに引き渡すためでした。

今日の箇所の前の25章14~16節に、ユダが祭司長たちのところへ行って、イエス様をお金と引き換えに引き渡す、という約束をする場面が描かれています。
 そこでユダは祭司長たちに「あの男(イエス様)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と聞きました。「そこで祭司長たちは銀貨30枚を支払うことにした」と書かれています。
 「銀貨30枚」とは、どれぐらいの価値があったのでしょうか?当時、複数の種類の“銀貨”があったようで、ユダが受け取った銀貨がどの銀貨であったのかははっきりとは分からないので、その価値は正確には不明です。
一つの可能性として、もしその銀貨が、マタイ福音書の別の箇所で登場する「デナリオン」の銀貨であれば、その価値を推測することは可能です。
マタイ20章1~16節に、朝早くから主人に雇われて働いた労働者も、夕方5時ぐらいに雇われて一時間しか働かなかった労働者も、皆約束通りの1デナリオンを主人からもらった、それで長く働いた人が怒った、という、イエス様による譬え話があります。
1デナリオンは当時の平均的な労働者の一日分の賃金であったと言われますので、1デナリオンは大体一万円と考えることが多いです。
 そうだとすれば、銀貨30枚は、大体30万円になります。
ユダは、そのお金がほしくてイエス様を引き渡したのでしょうか。
 わたしは以前は、お金が欲しかったというのも、ユダがイエス様を裏切った理由の一つであろうと思ってはいました。しかし、それはどうも私には納得のいかないことでもありました。
 12弟子の一人として、イエス様の一番近くにいて、イエス様の働きを間近で見ていたユダが、ただ「お金が欲しい」という理由で、イエス様を引き渡す(裏切る)とは、考えにくくないでしょうか。
 そう考えながら、ユダが祭司長たちから銀貨30枚をもらう約束をしたその箇所を、私は今回何度か読んで、そして思いを巡らせました。

 そしてわたしにはこのように思えてきました。ユダはその時、自分がしようとしていることの価値、あるいは彼自身の価値(意味)を他の人に認めてほしかったのではないか、ということです。
 ユダがイエス様を引き渡そうとした理由は、はっきりとは分かりませんが、イエス様によっては、自分が期待していたような理想は実現されない、とユダは考えたのが理由だったかもしれません。
 当時ユダヤを支配していたローマ帝国の支配を打ち破るような、強い軍事的な指導者としての役割を、ユダはイエス様に期待していたのかもしれません。
 しかしイエス様は、神の真の愛と平和をもって神の国を人々に説き続けました。そのやり方にユダは限界を感じ、「これではローマ帝国を倒すことはできない」と考え、あるいは幻滅さえしたのではないでしょうか。
 あるいは、ユダは何が正しいことであるのか分からなくなり、混乱をしていたのかもしれません。そんな時に、自分がすること、あるいは自分自身に価値があるかどうかを、手っ取り早く判断できる一つの基準が“お金”だったのです。
 「銀貨30枚」(約30万円)―自分がこれからしようとすることに、それぐらいのお金を出そうという人たちがいる。
“だから自分がこれからすることは少なくともそれぐらいの価値があることなのだ”、“それはやる意味のあること(価値のあること)なのだ”と、ユダは思って自分を納得させようとしたのではないでしょうか。
 わたしたちは、自分自身の価値をどのように測りますか?わたしたちは自分をどのように評価しますか?どれぐらいのお金、収入を得ているかで、わたしたちは自分自身、あるいは他の人の価値を測っていないでしょうか?
一日中働いた労働者は、たった一時間しか働かなかった者が同じ給料をもらったことになぜ怒ったのでしょうか?それは一時間しか働かなかった人より、一日中働いた自分のほうが評価されて当然だ(自分のほうが価値がある)と思ったからです。
 しかし、聖書はそれとは全く違った基準を示すのです。神は人をそのようには見ておられないのです。
朝から一日中働いた人にも、最後一時間しか働けなかった人にも、神は同じだけの愛を注ぎ、約束通りの物を与えて下さる~労働者の譬えは、そのような神の愛を表しています。

イエス様は、自分を裏切るために近づいてきたユダに、今日の箇所でこう言っています(今日のメッセージのタイトルにもしました)「友よ、しようとしていることをするがよい
 ご自分を裏切ろうとして近づいてきたユダを、イエス様は「友よ」と呼んだのです。わたしたちは普通、自分を裏切る人を「友達」とは呼びません(思いません)
しかし神の基準は違うのです。自分をこれから裏切る者を「友よ」と呼ぶのです。呼ぶだけでなく、神は本当にそのような者さえもご自分の“友”としてくださっているのです。それが聖書の伝える神のお姿です。

一日中働き続けても、一時間しか働けなくても、先生であるお方をわずかなお金と引き換えに裏切ってしまっても~それでも天の神はあなたがた(わたしたち)を「友」と呼んでくださるのです。これが、神の恵みです。
 神は今でも私たちに次のようにおっしゃっているのではないでしょうか?「銀貨30枚があなたの価値じゃない」、「他の人より優れた仕事ができるとか、能力があるから、あなたは価値があるのではない」
「他の誰が何と言おうとわたしはあなたを友と呼ぶ。わたしはあなたを愛している」~そのような、考えられないほどの神の愛が、わたしたちに今もイエス様を通して与えられているのです。
わたしたちは、ただ神様の愛のゆえに、わたしたちがどれほど神の前に罪人であろうとも、神様に赦された存在として生きることができるのです。そのことの証明として、イエス様は十字架の上で命を献げてくださったのです。
 わたしたちは、十字架のイエス・キリストを見上げ、十字架のイエス様にこそ、わたしたち自身の本当の価値、かけがえのなさが示されていることを覚え、感謝をしようではありませんか。

 イエス様が捕まると、イエス様と一緒にいた者の一人が剣を抜いて、大祭司の手下の一人に切りかかり、片方の耳を切り落としました(51節)
 そこでイエス様は次のようにおっしゃいました。(52~54節)

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
 十二軍団の「軍団(legion)とは当時のローマの軍隊で6000人の部隊だったそうです。ですからイエス様は、もしイエス様が望めば、天の父なる神は72,000人の天使の軍隊だって送ってくださる、と言ったのです。
 しかしイエス様は、自分に反対し敵対する者たちを、そのように強力な軍事力でもってねじ伏せて、むりやり言うことをきかせることはしない、と宣言しているのです。
 そうしようと思えばできるけれども、イエス様はそれでは「聖書の言葉が実現されない」とおっしゃったのです。イエス様がその時、聖書のどの箇所のことを言っておられるのかは不明です。
 それはむしろ聖書全体が伝えるメッセージである「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)を指している、と言ってもよいでしょう。
 わたしたちの人間の持つ悪、邪悪さ、神様から自ら離れた罪を全て背負って赦すため、イエス様は自ら十字架へと歩んでいってくださいました。
その使命を全うするため、天の強力な軍隊をもって、自分に敵対する者を打ち倒すことを私はしない、とイエス様はおっしゃるのです。

 なぜなら、わたしたち人間が本当に悔い改め(神のもとに立ち返り)、神の愛を知り、確かな希望によって生かされる道は、主イエス・キリストの十字架による恵み以外にはないからです。
  イエス様の十字架の上で示された神の限りない愛、今も御言葉を通してわたしたち語られる神の御言葉、それらこそが私たちを本当に導き、わたしたちを変え、わたしたちに真の希望と喜びを与えるのです。
 受難週の今週、イエス様が耐え忍ばれた苦しみ、イエス様がお受けになった敵意や嘲りに、わたしたちは思いを寄せて、それらすべてに打ち勝たれた主の十字架を見上げ、心からの感謝を主なる神にお捧げしましょう。