2023年5月27日土曜日

2023年5月28日 主日ペンテコステ礼拝


招詞  箴言1章23節
賛美  新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
献金
聖書  使徒言行録13章42~52節
祈祷
宣教 「喜びと聖霊に満たされて」
https://youtu.be/lSmRaAVsCxU
祈祷
賛美  新生讃美歌363番 キリスト教会の主よ
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷

 わたしたちはどのような思いと願いを持って、教会の集会(礼拝)に集まっているでしょうか?それは、キリストを主と告白しているキリスト者であるか、またはそうではないかによっても、その理由は違うと思います。
 またクリスチャンであっても、それぞれの心の中の思いと願いを細かく探れば、その思いは、やはり皆違うでしょう。
 しかし、私たちがキリスト教会に集まるその目的には共通したものがあります。
 私たちが教会に集まる目的は、礼拝自体にあります。主なる神(イエス・キリストの神)を礼拝すること~それが私たちが教会に集まる最初の(そしてそれが全てと言ってよい)目的です。

 唯一の神を、神の御言葉である聖書の御言葉を聞きつつ礼拝する~それが私たちが教会に集まる目的であり、そのように神を礼拝することはわたしたちが生きる目的そのものでもあります。
 聖書は、人間は(地上にあるすべてのものは)神によって造られたもの、被造物であると伝えます。
神によって造られた私たち人間は、創造主である神、永遠なる神との関係の中に生きてこそ、もっとも幸福で充実した幸いな生き方をすることができます。
 旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』Ecclesiastesの3章11節に次のように記されています。

 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 造られたもので永遠であるものはありません。しかし限りがあり欠点もあるわたしたちが、永遠を慕い求める心を持つことができるように、神は私たちを創造してくださったと聖書は言うのです。
 永遠なるものを求めて、私たちの心と思いはさ迷います。何か自分を完全に満足させてくれるもの、渇いた心や空虚な心を満たしてくれるもの(永遠のもの)を私たちは求めるのです。
 私たちが求めてやまないその永遠は、イエス・キリストというお方によって、私たちの前にはっきりと示され、私たちに与えられました。

 今イエス・キリストは、目に見える形ではおられませんが、聖書の御言葉を通して、そして神の霊である聖霊によって、今でも私たちと共におられます。
聖書の御言葉は、わたしたちが神の永遠の中へと迎え入れ、招かれていること、永遠の命を与えられていることを私たちに伝えます。

イエス様は次のように言われました。
 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ5:24)
 イエス様のお言葉を聞き、イエス様を世にお遣わしになったお方(父なる神)を信じる者は、永遠の命を得ることができ、裁かれることなく(滅びることなく)死から命へ移っている、とイエス様が約束(あるいは保証)してくださっているのです。
永遠なる神が私たちと共にいてくださる~その神の御言葉を頂いて神を賛美し、礼拝することが、私たちが教会に集まる目的(生きる目的)です。
 
今日はキリスト教会で、ペンテコステ(聖霊降臨)と言われる出来事を記念するペンテコステ礼拝です。
キリスト教では三位一体の神を私たちは信じています。三位一体という言葉はクリスチャンでない方もお聞きになったことがあると思います。
三位一体の教えは、とても分かりにくいものでもあります。キリスト者であっても、牧師であっても(少なくとも私には)完全に理解することができない教理です。
しかし三位一体は、キリスト教信仰にとって非常に大切なものであり、根本的な教えです。
聖書の伝える神は世界の造り主であり創造主である父なる神です。そして私たちの罪の赦しのために地上に人として生まれて来られ、十字架の上で死なれた子なる神イエス・キリストがおられます。

そして、霊として私たちの心の中に入ってきてくださり、神の存在と力について今も私たちに確信をさせてくださる霊なる神=聖霊なる神がおられます。
 それは別々の神が三人おられるというのではありません。父、子、聖霊なる神が三つでありながら一つの(唯一の)神なのです。理屈や理論では説明のつかないことですが、三位一体の神こそが聖書が伝える神です。
 父なる神、そしてイエス・キリストが今の私たちには目で見ることができないように、霊なる神である聖霊も「これが聖霊です」言って、見えるようなお姿では私たちと共におられません。
 しかし、キリストを主と信じ、こうして教会に集まり、語られて分かち合われる聖書の御言葉を通して私たちが「神は確かに私たちと共におられ、私たちを守り導いて下さっている」と信じられるのならば、それは聖霊がおられる証拠です。

そしてイエス・キリストによって示された神は、御自分の全てを献げて私たちを愛してくださった神です。
ですから私たちが教会に集まり、信徒同士が神の愛によって互いに愛し合う(お互いを大切に、尊く思う)ことができるのならば、それは紛れもなく聖霊が私たちと共におられる証拠であると私は信じます。
逆に言えば、もし愛がないならば、そこには聖霊はおられない、と言うべきでしょう。
聖霊は、わたしたちが謙虚に求めさえすれば、きっと豊かに与えられます。聖霊に豊かに働いていただき、愛の溢れる教会の群れに私たちはなりたいと願います。

今日の聖書の箇所は新約聖書の『使徒言行録』という書の第13章の箇所です。使徒言行録は、イエス・キリストが死んで復活し、天に昇られた後、聖霊を受けた弟子たちがイエス様の教えと福音を各地に伝道していく様子が描かれています。
キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。そしてユダヤ教からキリスト教への変化の中で最も大きなものは、その信仰がユダヤ人の枠を超えて多くの外国人(異邦人)たちへも伝えられたことです。
それまでは「神の救いはユダヤ人だけに与えられた」「神はユダヤ人だけを特別にお選びになった」と信じられていました。

しかし“神はイエス・キリストを世に遣わして、キリストを信じる者ならば、国や身分、性別などに一切かかわらず、皆救われる”という画期的な教えが、ユダヤの枠を超えて広く世界に伝えられるようになりました。
そのような、いわゆる「世界伝道」が始まったのも、聖霊の導きによります。ですからキリスト教信仰にとって、聖霊は決定的に重要な導きを人に与えたと言えます。
今日の箇所は、パウロとバルナバというキリスト教の初期の頃の伝道者が、ピシディア州のアンティオキアという都市(現在のトルコの中にあります)で、人々に伝道をした場面です。

 パウロとバルナバは、安息日にユダヤ教の会堂に入って行きました。そこでパウロが立ち上がり、聖書の話をし始めました。
パウロはエジプトでの奴隷生活から神がイスラエルの民を救い出した時の物語(出エジプト)から語り始めました。
それから、エジプトを出たイスラエルの民たちが、神が彼らに約束してくださったカナンの地に入り、そこで自分たちの国を作ったこともパウロは語ります。
ダビデ王が生まれてユダヤの国を治めたこともパウロは語りました。そこまでは、ユダヤ人たちには馴染みのある話であったでしょう。
しかし時代が過ぎてイエス・キリストが現れ、キリストが何の罪もないにも関わらず、十字架にかけられ死んだこと、そしてキリストが死から復活したことを彼は語ります。

今日の前の箇所ですが、使途言行録13章37節~39節に次のように書かれています。

37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

 それまでは、人はモーセに与えられた神の律法を守ることによって、すなわち人の行いによって救われ義とされる(神の前に正しいとされる)と信じられていました。
 しかし人は行いによって(自分の力によっては)は決して救われない、人が何かをすることでその罪が赦されることは決してないとパウロはここで人々に伝えたのです。
 人が罪赦され、神の前に義とされる(正しいとされる)のは、死んで復活したイエス・キリストを信じることによるのだ、と言う新しい教えをパウロは人々に伝えました。それは全く新しい救いの道です。
 すると人々は、パウロとバルナバが会堂を出る時に「次の安息日にも同じことを(このことを)話してくれるようにと頼んだ」と今日の箇所の初めの42節に書かれています。
 神による救い、イエス・キリストによる罪の赦しを聞いた人々は、「その話をもう一度してくれ」とパウロたちに頼んだのです。

 きっとそれを聞いた人々には、「この言葉こそ、わたしたちがいつも繰り返し聞かなくてはならない神の言葉だ」ということが分かったのです。
 ですから彼らは、「何かまた別の新しい話をしてほしい」と言ったのではなく、「その話をもう一度次もして欲しい。なぜならそれこそが神の言葉であり、私たちがいつも聞くべき言葉であるから」と言ったのです。
 今の私たちにも、私たちが常に聞くべき言葉は、同じ言葉です。それは神の言葉です。
 神の言葉、イエス・キリストの御言葉を私たちはいつも繰り返し聖霊の導きを頂きながら聞くのです。

いつもキリストの言葉が聖霊によって豊かに分かち合われるように、私たちがキリストの言葉を正しく聴くことができるように、私たちは祈りを合わせたいと願います。
聖霊を頂くときには、私たちは試練や困難の中にあっても、前に進んで生きていく力が与えられます。
 実際パウロとバルナバたちは、今日の箇所で、ユダヤ人たちからのねたみを買って、迫害をされ、その地方を追いだされてしまいました。

そしてパウロとバルナバは別の都市へ行かねばならなくなりました。
しかし、今日の最後の節52節には次のように書かれています。
52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 パウロとバルナバは、人々からの反対と迫害を受けて、苦しい思い、悲しい思い、あるいは挫折感をもってアンティオキアを去って行ったのでしょう。
 しかし主の御言葉が語られたその都市では、新しく主を信じる人が確かに起こされて、彼らは新しい主の弟子として“喜びと聖霊に満たされた”のです。
 み言葉が語られた所で、信仰者は確かに起こされて、キリストの弟子として喜びと聖霊に満たされる、という新しい命を人々は頂いた、ということです。
 私たちの信仰生活も、苦しいことや人からの反対にあったりすることも多いかもしれません。そんな時は、私たちはお互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送って行こうではありませんか。
そしてたとえ私たちの目には、挫折であり失敗だと思えることであっても、苦しいことでもあっても、そこに聖霊が働いていてくださっているのであれば、そこには大きな喜びがあり、そして聖霊が、わたしたちを満たしてくださるのです。
聖霊の導き、聖霊の満たしを切に求めて、信仰の道を私たちは歩んでいきたいと願います。

2023年5月20日土曜日

2023年5月21日 主日礼拝

招詞 ホセア書14章10節
賛美 新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金
聖書  ルカによる福音書2章22~40節
祈祷
宣教 「多くの人の心にある思いがあらわにされる」
https://youtu.be/AOdwRinrWwM
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷


今日の聖書の箇所は、赤ちゃんのイエス様(イエス・キリスト)を主に献げるために、両親のヨセフとマリアが、エルサレムの神殿にやって来て、そこで高齢の信仰者であったシメオンとアンナと出会う、という場面です。
ここは“出会い”の場面と言ってもよいと思います。それは神による出会いの場面です。神の子イエス・キリストを中心として、様々な人々が出会わされる、そんな“出会い”が今日の場面で描かれています。
若いヨセフとマリア、そして赤子のイエス様が、シメオンとアンナという高齢の信仰者と出会わされました。そしてその時神殿には、彼ら以外にも他にも多くの人たち、色々な世代の人たちがいたはずです。その人たちの間でも、そこで多くの“出会い”が起きていたのではないかと私は想像します。

そのような様々な出会いが、まさに今でも、教会で実現しています。教会には様々な年齢の人たちが集まります。あらゆる世代の人々が共に集まり、神様を中心とした交わりをつくる場所~それが教会であるからです。
なぜ教会には色々な世代の人々が集まることができるのでしょうか。
それは、わたしたちが皆神の子であるからです。正確には、イエス・キリストへの信仰を通して、わたしたち誰もが神の子になることができるからです。
キリストを信じる者は皆神の子とされます。父なる神から見ればわたしたちは皆神の子どもになります。わたしたちは神にあって兄弟姉妹です。
この地上での私たちの年齢、あるいは経験の差、性別等というものは、神にとってはほとんど意味のないものになります。
ですから私たちは、教会では、皆が平等な立場で神の前に集い、神の言葉を共に聞き、信仰の交わりの中で生きる~その喜びを体験することができるのです。

神によっていろいろな世代の者たち、異なる背景を持つ私たちが一つとされる~そうやってキリストの体である教会は作られていくのです。わたしたちは、様々な世代や違いを持つ人々が、神中心の交わりの中で生き、その喜びを実感できるような教会を本当に造っていきたいと願います。

 今日の箇所で描かれている、また別のことは“献げる”ということです。
22節に次のように書かれています。
22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

ここで“子を主に献げる”とはどういうことでしょうか?次の23節に次のように書かれています。
「それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
主の律法と言うのは旧約聖書の中に書かれている、主なる神がイスラエルの民に与えた信仰上の数々の規則のことです。
「初めて生まれる男子を献げる」ことについては、旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに次のように言っています。

出エジプト記13章2節 (Exodus 13:2)
「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

初めて生まれる子は、それが家畜の子であれ、人間の子であれ、主のものであるから主にささげなさいという戒め(教え)です。
実際にはイエス様の時代には、24節に書かれているように、代わりの動物の犠牲を献げることで、初めて生まれた子(男子)を主の前に聖別する(特別なものとして取り分ける)という儀式がおこなわれていました。
そのような儀式を通して、生まれた最初の子どもが神のものであるという信仰が表明されていたのです。
わたしたちは神から本当に色々なものを頂いています。わたしたちの命も、生きる時間も、才能や収入、あるいは家族や友達などすべては神様からの賜物です。
しかしわたしたちは、そのように神から頂いているはずの色々なものを、自分のもの、自分の所有物だと思ってしまいます。しかしキリスト者は、私たちに与えられているものは、すべて創造主なる神からの贈り物だと、常に認識しなくてはなりません。

その信仰の表れとして、自分に与えられたものの最初のもの、最も良いものを常に私たちは神様にお献げする(お返しする)のです。「初めに生まれる男子は、皆、主のために聖別する」とはそういうことです。
わたしたちは、神様からいただいている色々な良き賜物、普段与えられている多くのものの初めの最も良いものを、主なる神にお返しする~そのような信仰が自然に、喜びとなってあらわれるような信仰者になりたいと願います。
今日の箇所で、二人の老人(男女)が登場しています。シメオンとアンナの二人です。25節によれば、シメオンは「正しい人で信仰があつくて、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」人でした。
そして、彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と書かれています。

一方アンナは、36節以降の説明によれば、女性の預言者でした。預言者ですから、彼女は神様の言葉を預かり、人々に伝えるという務めをしていた人でした。彼女は若い時に夫に死に別れて84歳になっていた、と書かれています。
シメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げが聖霊によって告げられていたことについて、考えてみたいと思います。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」~聖霊は、シメオンに「あなたは決して死なない」とはもちろん言っていません。
どんな人でも必ず死ぬ時がくるからです。そうではなく、聖霊はシメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは、あなたは決して死なない」と言ったのです。
それは、シメオンには、主が遣わすメシア=イエス様に出会って、救い主が確かに生まれたという出来事の証人になるという、神から与えられた重要な使命があった、ということです。
その使命を果たすまでは、あなたは決して死なない~神は、その時シメオンにお与えになったように、今も私たちひとり一人に特別なご計画、使命を備えてくださっています。それが私たちへの聖書の約束です。

神による計画、使命は、私たちが自分で願い、考えていたこととは違うことがあるかもしれません。
先日R 姉が礼拝で証しをしてくださいました。ちょうど大学に入学した数か月後にコロナ感染症の拡大が始まり、入学当初に描いていたR姉の計画が取り消され、失望したことお話してくださいました。
しかし今振り返って、神様が姉のためにお持ちだった御計画は、彼女自身が描いていたものよりもずっと素晴らしかったと証をしてくださいました。
私たちの教会での人々との出会い、礼拝やフライデー・ファミリー・フェローシップでの交わりを通して、神様の側がR姉を探し出してくださったと、証をしてくださいました。
そのように、「わたしが神を見つけた」ではなくて、「神がわたしを探しだして(見つけて)くださった」という信仰がR姉に与えられたこと、そしてその素晴らしい一信仰者の証しを私たちが分かち合うことができたことを、わたしは大変嬉しく感謝に思っています。
主を信じる信仰に生きる私たちは、神の御計画と神の備えて下さる道、神が私たちをそこへ導いてくださる道は、私たち自身の思いや計画よりもはるかに素晴らしいと、今日改めて確信をしようではありませんか。

シメオンもアンナも、長い年月、神殿にいて信仰に踏みとどまっていた間には、もちろん辛く悲しい時もあったと思います。しかしそれでも、シメオンもアンナもずっと神殿にいました。
神殿にいたということは、主なる神への信仰に留まっていた、ということです。彼女と彼を捕えていてくださる主なる神の御手に自分自身を委ね続けた、ということです。
アンナは若い時に夫と死別した、と書かれています。それほどの経験の辛さ、悲しさを彼女がどのように耐えて生きたのか、詳しいことは分かりません。しかし彼女は「神殿を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」のです。
そのように神殿に留まったこと、すなわち神の傍にい続けたことが、彼らの心と魂を支え続けたのだと、私たちは信じることができます。

そこでシメオンとアンナは、ヨセフとマリアによって連れられてきた赤ちゃんのイエス様と出会いました。彼らは、とうとう約束の救い主と会うことができたのです。

34~35節の、シメオンの言葉を見てみましょう。
34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

シメオンは赤ちゃんのイエス様を救い主と認め、そしてヨセフとマリアを祝福しましたが、シメオンの言葉は、イエス様ご自身がどのような試練をお受けになるのか、ということも含んだ厳しい内容でもあります。
すべての人がイエス様を信じるわけではなく、多くの人がその御言葉と真実を受け入れることができずに、つまづき倒れることになる。それが現実でした。そして多くの人がイエス様に反対をします。
ついには、イエス様は十字架の上で殺されることになります。今日の箇所にはその事がはっきりとは書かれていませんが、マリアにとっては自分の息子であるイエス様がそのような苦しみを受けることで、彼女は「剣で心を刺し貫かれる」経験をする(母として)、と言われているのです。
そして、それはマリアだけではなく、イエス様が十字架の上で負ってくださったことを真剣に直視する者は誰であっても、自分自身の本当の姿、神に背いて歯向かう罪を抱えた自分の姿に気づかされ、「剣で心を刺し貫かれる」思いをする、ということでもあります。
私たちは、イエス様と出会うことで、私たち自身の本当の姿に出会わされます。自分の本当の姿に気づかされます。

そのような経験は、自分自身の嫌な部分、暗い部分まで向き合って認めるということでもありますから、わたしたちにとって辛い過程ともなります。
しかし、キリストによって示される私たち自身の本当の姿、心に思いが露わになることで、わたしたちは全てを神にお委ねするしかない、という信仰が生まれます。神に赦していただくよりほかないのです。
そしてわたしたちは、罪赦された者として、キリストに従ってこれからずっと歩んでいくことができる、という大きな希望をも持つことができるのです。
そのような私たちが神によって愛されている、御子イエス・キリストがそのお命を捨ててくださったほどに、この私たちが愛されている~こんな大きな希望を持って、わたしたちは生きることができるのです。
ですから私たちは、キリストによって知らされる自分自身の本当の心の思い、自分の本当の姿を勇気をもって、認めましょう。
そしてそれらを全て受け止めてくださり赦してくださったイエス様の御愛を感謝して頂きながら、今週また新たな日々も歩み出していこうではありませんか。

2023年5月13日土曜日

2023年5月14日 主日礼拝

招詞  ローマの信徒への手紙8章28節
賛美  新生讃美歌81番 父なるわが神
主の祈り
献金
聖書  創世記50章15~21節
祈祷
宣教  「兄弟たちの恐れ」
https://youtu.be/gTni9HMjWKs
祈祷
賛美  新生讃美歌21番 栄光と讃美を
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷


 自分が犯してしまった失敗や、誰か人に対して嫌なことしてしまったり、人を傷つけたりしたことを、後悔し続けるということがわたしたちにはあると思います。
 出来る事なら、それらが起きなかったことにしたい、そう思うこともあるのではないでしょうか。しかし残念ながら、一度起きてしまったことをなかったことにすることはわたしたちには出来ません。
 よく、特に政治家などが失言や不適切な発言をした後に批判を受けて、「その発言を撤回します」というニュースが時々伝えられますが、わたしはその言葉には非常に違和感を感じます。
 それは謝罪の意味で言っているのだろうとは思いますが、一度発言したことを文字通り「撤回」したり、「取り消し」たりすることは、私たちにはできません。
 私たちは犯した失敗、罪を背負って、そして誰かを傷つけたのであれば、精一杯の誠意をもってその人やその事に向き合い、前を向いて歩いていく、そして同じ過ちを犯さないようにすることが、私たちできることであると私は思います。

今日の私たちの聖書箇所(創世記50章15~21節)では、一度自分たちがしたことの影響に、長年捕らわれ、苦しめられている人たちの姿が描かれています。彼らは、ヨセフの兄弟たち、すなわちヤコブの息子たちでした。
 ヤコブの息子たちは、下の弟のヨセフの尊大な態度と、そして父ヤコブがヨセフばかりかわいがることに怒って、かつてヨセフを殺そうとまで思いました。
彼らは結局ヨセフを殺すことは思いとどまりましたが、ヨセフは穴の中に投げ入れられ、結局エジプトへ売られることになりました。
ヨセフはそれからエジプトで様々な経験をしました。無実の罪で牢獄に入れられたりする経験もしながら、ヨセフはエジプトで王のファラオにつぐ地位にまで昇りつめました。

創世記に描かれるヨセフの物語は、人間の愚かさと罪深さ(幼いヨセフの傲慢さ、自己中心さや、彼に嫉妬する兄弟たちの姿)を現しています。
しかしそれと同時に、ヨセフ物語は、私たち人間は間違いや失敗を犯しお互いに傷つけあうことさえしてしまうけれども、見えない神の御手と御計画によって私たちは確かに守られ導かれているという希望をも示しています。
ヨセフと、彼の兄弟たち、そして父ヤコブは遠く離れて暮らすことになりました。そして彼らが住んでいた地域に飢饉がやって来て、それがきっかけでヨセフと彼の家族は再会する機会が与えられました。
エジプトで宰相にまで昇りつめていたヨセフに迎え入れられて、父ヤコブとヨセフの他の兄弟たちは、平穏無事にエジプトで生活を続けることができるようになりました。

しかし、父親のヤコブが死ぬと、ヨセフの兄弟たちは大きな心配、恐怖と言ってもよい思いに囚われました。それが今日の箇所、創世記の最後の箇所、の背景です。
 今日の箇所の始めの15節に次のように書かれています。
 15ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。

父親のヤコブが生きている間は、ヨセフは自分たちに穏やかに接してくれていた。しかし、父親が死んだ今、かつて自分を一度は殺そうとまでした自分たちに、ヨセフは仕返しをしようとするのではないか~そのような恐れを兄弟たちは抱いたのです。
 彼らの父親のヤコブは若いころ、兄のエサウから父イサクの祝福をだまし取ったりして、兄エサウからの怒りを買いました。その時、兄エサウは弟ヤコブに対して次のような思いを抱いたことが書かれています(創世記27章41節)
 エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
 そのためにヤコブは生まれ故郷を、長い年月にわたって離れて暮らさなくてはならなくなりました。
ヤコブと兄エサウの間で起きたように、兄弟間の深刻な確執(争い)がヤコブの息子たちの間でも起きた(繰り返された)ということは、私たち人間の罪の深さを表しています。

ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して最初直接訴えることもできずに、人を介してヨセフの赦しを願ったと、次のように書かれています。

16そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
17『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。

 兄弟たちがここまで恐れていたということは、ひょっとしたら、ヨセフの態度や姿の中に、父ヤコブが生きていた間にも、時々(あるいはほんの一瞬でも)自分たちに対する恨みや怒りが現れることを、兄弟たちは見たのかもしれません。
ヨセフは兄たちの前に、自分が弟のヨセフだと正体を明かした時、自分をエジプトへ売ったことを悔やんだり、お互いに責め合ったりしなくてよい、と言いました(45章5節)。
 しかしそれでも、ヨセフの心の奥底の中には、兄弟たちをどうしても赦せない、という思いが残っていたのではないでしょうか。
また兄たちの心のなかにも、かつて弟を殺そうとまで思ったこと、その事への後悔があったのでしょう。それと同時に、ひょっとしたら、「ヨセフの尊大な態度にも原因の一端があった」とヨセフを責める気持ちも兄弟たちは持っていたかもしれません。
人間の感情はそのように複雑なものです。

 ヨセフはエジプトで強大な権力を持っていましたから、兄弟たちはヨセフの仕返しを恐れました。そして自分たちでもヨセフの前にひれ伏して、赦しを乞いました。
「このとおり、私どもはあなたの僕です 」(18節)

ヨセフはその時泣いていました。そして次のように答えています。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。

「わたしが神に代わることができましょうか」~ヨセフのこの言葉の意味は、本当の赦し、人に真の平安を与える赦しは、神を通してでしか与えられない、ということです。
その赦しを通して真の平安が与えられる~そのような赦しは神でしか与えることができません。どんなに優れた人格を持った人であっても、人が人を赦し、あるいは人が人を裁く(罪に定める)ということは本来できないのです。
ヨセフには、兄弟たちのことをきれいさっぱりと赦してあげたい、そうしたい、という気持ちはあったと思います。しかし、暗い穴の中に放り込まれた時の恐怖などが甦り、兄弟たちへの怒り、憎しみが甦ることがあったのではないでしょうか。

そんなヨセフに、誰が「兄さんたちのことを赦してあげなさい」と言うことができるのでしょうか。ですからヨセフは、「わたしが神に代わることができましょうか」としか言えなかったのです。
本当の赦しは神からしか得ることができません。だから、神の赦しを求めながら、神様の前に全てを注ぎだして、これからも私たちは一緒に生きていきましょう~そんな思いを込めて、ヨセフはここで兄弟たちに答えたのだと思います。
ヨセフは自分に起きた様々な経験を通して、自分自身の罪にも向き合い、そして何よりも力強い不思議な神の御手と御計画を信じるようになりました。
ですからヨセフは次のようにも言うことができたのです。20~21節をお読みします。

20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
21どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

神は人間の罪と悪にも関わらず、それを善に変える力をお持ちの方なのです。そのような神を信じ、神を恐れ敬いながら、私たちは生きていかねばならないのです。
ヨセフの言葉は真実です。神は人間の悪からでも、究極の善を生み出すことがお出来になります。

時を経て、イエス・キリストの時代、人々は全く罪のなかったイエス様を十字架につけて殺してしまいました。
しかしそれによって私たち人の罪が赦され、人はキリストの十字架を通して、神のもとへ行けるようになったのです。
では、人々が(わたしたちが)イエス様を十字架につけて殺したことは善いことだったのでしょうか?それで人の罪が赦されることになったのですから、イエス様を十字架につけた人たちは良いことをしたのでしょうか?

もちろんそうではありません。イエス様が十字架につけられたのは私たち人の醜い罪がもっとも露わになった出来事でした。その事に、私たちはいつも悔い改めの思いを持たなくてはなりません。
しかし、キリストの十字架の出来事を通して、神は人間の悪さえも善に変える力をお持ちのお方だということがはっきりと示されたのです。そのことを知らされ、その事を信じ、そのことに感謝をする信仰者は、きっとその恵みに相応しい生き方をする者に変えられるのです。
わたしは、色々な失敗を犯しますし、私の言ったことや行ったことで、嫌な思いや傷ついた人がおられると思います。
自分でそのことに気づいていても、「ごめんなさい」、「すみません」のそのたった一言がどうしても言えないことが、わたしにはあります。I am sorryと一言素直に言える心を持ちたい、と私は願っています。

私たち人が共に生きている限り、人と人との間の行き違いや誤解、争いが、もちろん出来ることならそれは避けたいですけれども、無くなることはないでしょう。私たちはお互いに罪人であるからです。
しかし悪を善に変える神がおられ、その神が私たちを導いてくださっています。ですから私たち心を合わせて、神の御心を尋ね求めて生きて行こうではありませんか。
そして真の赦し、究極の赦しと救いが、イエス・キリストの十字架によって私たちには既に与えられている、その測り知れない恵みを覚えつつ、私たちは信仰の道を共に歩んでいきたいと願います。

2023年5月6日土曜日

2023年5月7日 主日礼拝

招詞  イザヤ書42章8節
賛美  新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
祈りの時 
主の祈り
証しと賛美  
献金
聖書  ルカによる福音書2章8~21節
祈祷
宣教  「この方こそ主メシアである」
https://youtu.be/wKG_Vn_FHS4
祈祷
賛美  新生讃美歌327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷


 「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」~この一文で今日の聖書箇所は始まります。
そこは、ユダヤのベツレヘムという町の近くの場所でした。今日の箇所の前のルカ福音書2章1~7節に、当時(約2020年前)のローマ皇帝アウグストゥスによって、領土内の全住民が住民登録をするようにという命令が出されたことが書かれていました。
ベツレヘムから北に百数十キロ離れた、ガリラヤのナザレという町に住んでいたヨセフとマリアも、住民登録のためにユダヤのベツレヘムへ旅をしなくてはなりませんでした。
ヨセフはダビデ家(かつてのイスラエルの王様)の血筋だったので、ダビデ王の町であるベツレヘムへ行かなくてはならなかったのです。

当時ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。マリアは妊娠していましたが、それにも関わらず皇帝の命令に従うため、ヨセフと二人でベツレヘムへ向かいました。そしてベツレヘム滞在中に、マリアが男の子を産みました。
その男の子は、救い主イエス・キリストでした。マリアは生まれたばかりの赤ちゃんのイエス様を布にくるんで、飼い葉桶の中に寝かせました。
イエス様が生まれた時に飼い葉桶の中に寝かされた理由は、宿屋には彼ら(ヨセフとマリア)が泊まる場所がなかったからでした(ルカ2章7節)。
その時は住民登録のために町に来ていた人たちでエルサレムの宿屋はどこも一杯で、ヨセフとマリアには普通の客間がなく、家畜がいる場所に何とか泊まることができた、と想像されています。(クリスマス劇でも、よくそう描かれます)

それと同じ頃、ベツレヘムの近くの場所で、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。それが今日の箇所の場面です。
彼ら羊飼いたちは、一晩中羊の群れを守り、羊が野獣に襲われたり、盗賊に盗まれたりしないようにと見張っていたのです。羊は貴重な家畜、財産でしたから、羊飼いたちの責任は重大でした。彼らの仕事は、まさに命がけであったと思います。
その時、その羊飼いたちに驚くべきことが起ころうとしていました。主の天使が彼らにあらわれて、“今日ダビデの町(ベツレヘム)で、救い主がお生まれになった”という知らせが告げられようとしていたのです。
なぜそのような驚くべき、また重要な知らせが、イスラエル中が待ち望んでいた知らせが、羊飼いたちに最初に知らされたのでしょうか?その理由は私たちには分かりませんが、はっきりしていることは、主なる神は、彼ら羊飼いたちのことをずっと見守っておられた、ということです。
羊飼いたちは、当時の社会では本当に底辺と言ってよい立場、身分の人たちでした。人々からは軽蔑され、見下されていました。
動物を世話する仕事ですから、彼ら羊飼いたちは安息日の規定(安息日である土曜日にはいかなる仕事をしてはいけない)を守ることができませんでした。また羊が死ねば、その死骸に触るため、動物の死骸に触れる汚れた人たちとも見なされていました。

しかし、主なる神は彼ら羊飼いをいつも見守っておられたのです。他の人たちからは蔑まれていたその羊飼いたちを、主なる神はじっと見ておられ、彼らを守っておられたと私は信じます。そして神はこの人たちに、救い主誕生の知らせを最初に知らせるのだと、お決めになったのです。
羊飼いたちは、その苛酷な仕事と、人々からの差別や偏見などのため、非常に苦しく悲しい思いを日々していたでしょう。しかしそんな彼らにも(そのような彼らにこそ)主なる神の守りがあったのです。
聖書の神は、弱く低くされた人たちと共におられ、そのような人たちにご自身を現わされるからです。
そして神は眠ることなく私たち人を守っていてくださるお方です。神は私たちを守ってくださるという事において、決してお休みなるということがありません。

旧約聖書の詩編121篇4節に次のように書かれています。
見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。

私たちには時々、“神は眠っておられるのではないか”、“神はわたしたちのことを忘れておられるのではないか、私のことを気にかけておられないのではないか”と思われる時があるかもしれません。
神は決してお眠りなることはなく、またわたしたちのことをお忘れになることはありません。主なる神が常にイスラエルを守り続けられたように、神は今も私たちをも守り続けてくださっています。

その詩編の前の節(121篇3節)にはこう書かれています。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように」

これは祈りの言葉でもあります。信仰者が、同じ神を信じる他の信仰者に向けて“主なる神が、あなたの旅路を(安全を)、いつも(眠ることなる)守ってくださるように”と言う祈りの言葉です。
神を信じる者にとって何が一番力となり励ましとなり、慰めとなるのでしょうか?それは神の言葉であり、神ご自身が私たちと共にいてくださり、この私を守ってくださるということです。
そしてまた、同じ神を信じる他の信仰者が、神に向かって、この自分のために祈ってくれている、ということもとても大きな励ましとなり、力となります。信仰の兄弟姉妹が同じ神に心を込めて祈る、その
熱心な祈りは必ず神によって聞かれるからです。
私たちは聖書の御言葉と物語を通して、真の神、救い主イエス・キリストを信じた時から、神の守りと導きの中に生きることを確信します。

そして同じ主、イエス・キリストを信じた者同士が、お互いのために主に向かって祈ることができるようになるのです。これは信仰者にとって本当に大きな幸いです。

イエス様は次のようにおっしゃいました。
「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ4:14)
イエス様のその御言葉を信じる私たちがお互いのために、イエス様の名によって祈ることができる幸い、そして他の信仰者から自分がイエス様の名によって祈ってもらえる幸いを覚えて、私たちは感謝したいと思います。

天使が羊飼いたちに次のように言いました。(10~12節)
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 そして次に、天使に天の大軍が加わり、神を賛美して次のように言ったと書かれています。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)

 羊飼いたちは“救い主、主メシアがお生まれになった”というその知らせを信じました。
「救い主が飼い葉桶の中に寝かされている」というのは、考えてみればおかしなことです。
 普通ならば「飼い葉桶に寝かされている子が、救い主であるはずがない」と考えるのではないでしょうか?しかしその羊飼いたちは、“今日救い主が生まれた。飼い葉おけに寝かされたその方こそ主メシアである”という、その知らせを、まずそのまま信じたのです。

 もし主なる神がそのご計画によって、生まれたばかりの救い主を飼い葉桶の中にお寝かせになったのであれば、神がそうお決めになったのならば、それが神の御心なのだ~この羊飼いたちはそのように素直に信じることができる心を持っていたのだと思われます。
 マリアの親類だったエリサベト(バプテスマのヨハネの母)は、マリアと会った時にこう言いました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)
 神の言葉と神の約束を信じること、神のおっしゃったことは必ず実現する、と信じることは幸いなのです。それが信仰です。そのような幸いな信仰を持つ者に、私たちもなりたいと願います。

 羊飼いたちは、天使たちが離れて天に去ったとき、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、急いで行ってマリアとヨセフを探し当てました。
 羊飼いたちから、その幼子について天使が彼らに言ったことを聞かされた人たちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました(訳によっては、“驚いた”)。“そんなことは信じられない”という思いだったのでしょう。
 しかしマリアはそれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らせていました。マリアには、生まれて来る子が偉大な子となる、神の子と呼ばれる、という知らせが天使から既に与えられていました。
 マリアは羊飼いたちの言葉によって、自分に告げられていたその知らせを一層確信することができたでしょう。

神の言葉を聞く者は、そのようにお互いに神から聞いたことを分かちあって、神の言葉を共に喜び、そして信仰を共に強め合っていくことができるのです。
そのような信仰の分かち合い、神が自分にしてくださった恵みの分かち合いがなされるのが教会です。神がそれぞれに与えてくださった恵みを私たちは教会の群れの中で分かち合い、そして喜び合うのです。
羊飼いたちは、天使の話したことが全てその通りであったことを見て、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました(20節)。

彼ら羊飼いたちは再び彼らの生きる場所、羊を守るという毎日(毎晩)の仕事、つまり彼らの生活の場所へ、神をあがめて賛美しながら帰って行きました。私たちの神は常にわたしたちによってあがめられ、賛美されるべきお方です(わたしたちが仕事をしている間にも)。
そのように私たちも、まず教会で主の日の礼拝を献げ、信仰の喜びと神の恵みを信徒同士で分かち合い、そしてこの礼拝の場から、それぞれが生きる場所へと、働く場所へと歩み出していきます。
神は私たちと常に、私たちがどこにていても私たちと共にいてくださり、私たちをそこで守り導いてくださいます。
救い主イエス・キリストが私たち人の救いのためにお生まれになった、その大きな恵みの出来事を、今日私たちはまた新たな感動をもって受け入れて、一層信じようではありませんか。
そして新しい週の日々も、私たちは主なる神、救い主イエス・キリストを崇めながら、キリストを賛美し続けながら、常に歩んでいきたいと願います。