2023年5月6日土曜日

2023年5月7日 主日礼拝

招詞  イザヤ書42章8節
賛美  新生讃美歌 650番 喜びて主に仕えよ
祈りの時 
主の祈り
証しと賛美  
献金
聖書  ルカによる福音書2章8~21節
祈祷
宣教  「この方こそ主メシアである」
https://youtu.be/wKG_Vn_FHS4
祈祷
賛美  新生讃美歌327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷


 「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」~この一文で今日の聖書箇所は始まります。
そこは、ユダヤのベツレヘムという町の近くの場所でした。今日の箇所の前のルカ福音書2章1~7節に、当時(約2020年前)のローマ皇帝アウグストゥスによって、領土内の全住民が住民登録をするようにという命令が出されたことが書かれていました。
ベツレヘムから北に百数十キロ離れた、ガリラヤのナザレという町に住んでいたヨセフとマリアも、住民登録のためにユダヤのベツレヘムへ旅をしなくてはなりませんでした。
ヨセフはダビデ家(かつてのイスラエルの王様)の血筋だったので、ダビデ王の町であるベツレヘムへ行かなくてはならなかったのです。

当時ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。マリアは妊娠していましたが、それにも関わらず皇帝の命令に従うため、ヨセフと二人でベツレヘムへ向かいました。そしてベツレヘム滞在中に、マリアが男の子を産みました。
その男の子は、救い主イエス・キリストでした。マリアは生まれたばかりの赤ちゃんのイエス様を布にくるんで、飼い葉桶の中に寝かせました。
イエス様が生まれた時に飼い葉桶の中に寝かされた理由は、宿屋には彼ら(ヨセフとマリア)が泊まる場所がなかったからでした(ルカ2章7節)。
その時は住民登録のために町に来ていた人たちでエルサレムの宿屋はどこも一杯で、ヨセフとマリアには普通の客間がなく、家畜がいる場所に何とか泊まることができた、と想像されています。(クリスマス劇でも、よくそう描かれます)

それと同じ頃、ベツレヘムの近くの場所で、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。それが今日の箇所の場面です。
彼ら羊飼いたちは、一晩中羊の群れを守り、羊が野獣に襲われたり、盗賊に盗まれたりしないようにと見張っていたのです。羊は貴重な家畜、財産でしたから、羊飼いたちの責任は重大でした。彼らの仕事は、まさに命がけであったと思います。
その時、その羊飼いたちに驚くべきことが起ころうとしていました。主の天使が彼らにあらわれて、“今日ダビデの町(ベツレヘム)で、救い主がお生まれになった”という知らせが告げられようとしていたのです。
なぜそのような驚くべき、また重要な知らせが、イスラエル中が待ち望んでいた知らせが、羊飼いたちに最初に知らされたのでしょうか?その理由は私たちには分かりませんが、はっきりしていることは、主なる神は、彼ら羊飼いたちのことをずっと見守っておられた、ということです。
羊飼いたちは、当時の社会では本当に底辺と言ってよい立場、身分の人たちでした。人々からは軽蔑され、見下されていました。
動物を世話する仕事ですから、彼ら羊飼いたちは安息日の規定(安息日である土曜日にはいかなる仕事をしてはいけない)を守ることができませんでした。また羊が死ねば、その死骸に触るため、動物の死骸に触れる汚れた人たちとも見なされていました。

しかし、主なる神は彼ら羊飼いをいつも見守っておられたのです。他の人たちからは蔑まれていたその羊飼いたちを、主なる神はじっと見ておられ、彼らを守っておられたと私は信じます。そして神はこの人たちに、救い主誕生の知らせを最初に知らせるのだと、お決めになったのです。
羊飼いたちは、その苛酷な仕事と、人々からの差別や偏見などのため、非常に苦しく悲しい思いを日々していたでしょう。しかしそんな彼らにも(そのような彼らにこそ)主なる神の守りがあったのです。
聖書の神は、弱く低くされた人たちと共におられ、そのような人たちにご自身を現わされるからです。
そして神は眠ることなく私たち人を守っていてくださるお方です。神は私たちを守ってくださるという事において、決してお休みなるということがありません。

旧約聖書の詩編121篇4節に次のように書かれています。
見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。

私たちには時々、“神は眠っておられるのではないか”、“神はわたしたちのことを忘れておられるのではないか、私のことを気にかけておられないのではないか”と思われる時があるかもしれません。
神は決してお眠りなることはなく、またわたしたちのことをお忘れになることはありません。主なる神が常にイスラエルを守り続けられたように、神は今も私たちをも守り続けてくださっています。

その詩編の前の節(121篇3節)にはこう書かれています。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように」

これは祈りの言葉でもあります。信仰者が、同じ神を信じる他の信仰者に向けて“主なる神が、あなたの旅路を(安全を)、いつも(眠ることなる)守ってくださるように”と言う祈りの言葉です。
神を信じる者にとって何が一番力となり励ましとなり、慰めとなるのでしょうか?それは神の言葉であり、神ご自身が私たちと共にいてくださり、この私を守ってくださるということです。
そしてまた、同じ神を信じる他の信仰者が、神に向かって、この自分のために祈ってくれている、ということもとても大きな励ましとなり、力となります。信仰の兄弟姉妹が同じ神に心を込めて祈る、その
熱心な祈りは必ず神によって聞かれるからです。
私たちは聖書の御言葉と物語を通して、真の神、救い主イエス・キリストを信じた時から、神の守りと導きの中に生きることを確信します。

そして同じ主、イエス・キリストを信じた者同士が、お互いのために主に向かって祈ることができるようになるのです。これは信仰者にとって本当に大きな幸いです。

イエス様は次のようにおっしゃいました。
「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ4:14)
イエス様のその御言葉を信じる私たちがお互いのために、イエス様の名によって祈ることができる幸い、そして他の信仰者から自分がイエス様の名によって祈ってもらえる幸いを覚えて、私たちは感謝したいと思います。

天使が羊飼いたちに次のように言いました。(10~12節)
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 そして次に、天使に天の大軍が加わり、神を賛美して次のように言ったと書かれています。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)

 羊飼いたちは“救い主、主メシアがお生まれになった”というその知らせを信じました。
「救い主が飼い葉桶の中に寝かされている」というのは、考えてみればおかしなことです。
 普通ならば「飼い葉桶に寝かされている子が、救い主であるはずがない」と考えるのではないでしょうか?しかしその羊飼いたちは、“今日救い主が生まれた。飼い葉おけに寝かされたその方こそ主メシアである”という、その知らせを、まずそのまま信じたのです。

 もし主なる神がそのご計画によって、生まれたばかりの救い主を飼い葉桶の中にお寝かせになったのであれば、神がそうお決めになったのならば、それが神の御心なのだ~この羊飼いたちはそのように素直に信じることができる心を持っていたのだと思われます。
 マリアの親類だったエリサベト(バプテスマのヨハネの母)は、マリアと会った時にこう言いました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)
 神の言葉と神の約束を信じること、神のおっしゃったことは必ず実現する、と信じることは幸いなのです。それが信仰です。そのような幸いな信仰を持つ者に、私たちもなりたいと願います。

 羊飼いたちは、天使たちが離れて天に去ったとき、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、急いで行ってマリアとヨセフを探し当てました。
 羊飼いたちから、その幼子について天使が彼らに言ったことを聞かされた人たちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました(訳によっては、“驚いた”)。“そんなことは信じられない”という思いだったのでしょう。
 しかしマリアはそれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らせていました。マリアには、生まれて来る子が偉大な子となる、神の子と呼ばれる、という知らせが天使から既に与えられていました。
 マリアは羊飼いたちの言葉によって、自分に告げられていたその知らせを一層確信することができたでしょう。

神の言葉を聞く者は、そのようにお互いに神から聞いたことを分かちあって、神の言葉を共に喜び、そして信仰を共に強め合っていくことができるのです。
そのような信仰の分かち合い、神が自分にしてくださった恵みの分かち合いがなされるのが教会です。神がそれぞれに与えてくださった恵みを私たちは教会の群れの中で分かち合い、そして喜び合うのです。
羊飼いたちは、天使の話したことが全てその通りであったことを見て、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました(20節)。

彼ら羊飼いたちは再び彼らの生きる場所、羊を守るという毎日(毎晩)の仕事、つまり彼らの生活の場所へ、神をあがめて賛美しながら帰って行きました。私たちの神は常にわたしたちによってあがめられ、賛美されるべきお方です(わたしたちが仕事をしている間にも)。
そのように私たちも、まず教会で主の日の礼拝を献げ、信仰の喜びと神の恵みを信徒同士で分かち合い、そしてこの礼拝の場から、それぞれが生きる場所へと、働く場所へと歩み出していきます。
神は私たちと常に、私たちがどこにていても私たちと共にいてくださり、私たちをそこで守り導いてくださいます。
救い主イエス・キリストが私たち人の救いのためにお生まれになった、その大きな恵みの出来事を、今日私たちはまた新たな感動をもって受け入れて、一層信じようではありませんか。
そして新しい週の日々も、私たちは主なる神、救い主イエス・キリストを崇めながら、キリストを賛美し続けながら、常に歩んでいきたいと願います。