2023年5月13日土曜日

2023年5月14日 主日礼拝

招詞  ローマの信徒への手紙8章28節
賛美  新生讃美歌81番 父なるわが神
主の祈り
献金
聖書  創世記50章15~21節
祈祷
宣教  「兄弟たちの恐れ」
https://youtu.be/gTni9HMjWKs
祈祷
賛美  新生讃美歌21番 栄光と讃美を
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷


 自分が犯してしまった失敗や、誰か人に対して嫌なことしてしまったり、人を傷つけたりしたことを、後悔し続けるということがわたしたちにはあると思います。
 出来る事なら、それらが起きなかったことにしたい、そう思うこともあるのではないでしょうか。しかし残念ながら、一度起きてしまったことをなかったことにすることはわたしたちには出来ません。
 よく、特に政治家などが失言や不適切な発言をした後に批判を受けて、「その発言を撤回します」というニュースが時々伝えられますが、わたしはその言葉には非常に違和感を感じます。
 それは謝罪の意味で言っているのだろうとは思いますが、一度発言したことを文字通り「撤回」したり、「取り消し」たりすることは、私たちにはできません。
 私たちは犯した失敗、罪を背負って、そして誰かを傷つけたのであれば、精一杯の誠意をもってその人やその事に向き合い、前を向いて歩いていく、そして同じ過ちを犯さないようにすることが、私たちできることであると私は思います。

今日の私たちの聖書箇所(創世記50章15~21節)では、一度自分たちがしたことの影響に、長年捕らわれ、苦しめられている人たちの姿が描かれています。彼らは、ヨセフの兄弟たち、すなわちヤコブの息子たちでした。
 ヤコブの息子たちは、下の弟のヨセフの尊大な態度と、そして父ヤコブがヨセフばかりかわいがることに怒って、かつてヨセフを殺そうとまで思いました。
彼らは結局ヨセフを殺すことは思いとどまりましたが、ヨセフは穴の中に投げ入れられ、結局エジプトへ売られることになりました。
ヨセフはそれからエジプトで様々な経験をしました。無実の罪で牢獄に入れられたりする経験もしながら、ヨセフはエジプトで王のファラオにつぐ地位にまで昇りつめました。

創世記に描かれるヨセフの物語は、人間の愚かさと罪深さ(幼いヨセフの傲慢さ、自己中心さや、彼に嫉妬する兄弟たちの姿)を現しています。
しかしそれと同時に、ヨセフ物語は、私たち人間は間違いや失敗を犯しお互いに傷つけあうことさえしてしまうけれども、見えない神の御手と御計画によって私たちは確かに守られ導かれているという希望をも示しています。
ヨセフと、彼の兄弟たち、そして父ヤコブは遠く離れて暮らすことになりました。そして彼らが住んでいた地域に飢饉がやって来て、それがきっかけでヨセフと彼の家族は再会する機会が与えられました。
エジプトで宰相にまで昇りつめていたヨセフに迎え入れられて、父ヤコブとヨセフの他の兄弟たちは、平穏無事にエジプトで生活を続けることができるようになりました。

しかし、父親のヤコブが死ぬと、ヨセフの兄弟たちは大きな心配、恐怖と言ってもよい思いに囚われました。それが今日の箇所、創世記の最後の箇所、の背景です。
 今日の箇所の始めの15節に次のように書かれています。
 15ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。

父親のヤコブが生きている間は、ヨセフは自分たちに穏やかに接してくれていた。しかし、父親が死んだ今、かつて自分を一度は殺そうとまでした自分たちに、ヨセフは仕返しをしようとするのではないか~そのような恐れを兄弟たちは抱いたのです。
 彼らの父親のヤコブは若いころ、兄のエサウから父イサクの祝福をだまし取ったりして、兄エサウからの怒りを買いました。その時、兄エサウは弟ヤコブに対して次のような思いを抱いたことが書かれています(創世記27章41節)
 エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
 そのためにヤコブは生まれ故郷を、長い年月にわたって離れて暮らさなくてはならなくなりました。
ヤコブと兄エサウの間で起きたように、兄弟間の深刻な確執(争い)がヤコブの息子たちの間でも起きた(繰り返された)ということは、私たち人間の罪の深さを表しています。

ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して最初直接訴えることもできずに、人を介してヨセフの赦しを願ったと、次のように書かれています。

16そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
17『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。

 兄弟たちがここまで恐れていたということは、ひょっとしたら、ヨセフの態度や姿の中に、父ヤコブが生きていた間にも、時々(あるいはほんの一瞬でも)自分たちに対する恨みや怒りが現れることを、兄弟たちは見たのかもしれません。
ヨセフは兄たちの前に、自分が弟のヨセフだと正体を明かした時、自分をエジプトへ売ったことを悔やんだり、お互いに責め合ったりしなくてよい、と言いました(45章5節)。
 しかしそれでも、ヨセフの心の奥底の中には、兄弟たちをどうしても赦せない、という思いが残っていたのではないでしょうか。
また兄たちの心のなかにも、かつて弟を殺そうとまで思ったこと、その事への後悔があったのでしょう。それと同時に、ひょっとしたら、「ヨセフの尊大な態度にも原因の一端があった」とヨセフを責める気持ちも兄弟たちは持っていたかもしれません。
人間の感情はそのように複雑なものです。

 ヨセフはエジプトで強大な権力を持っていましたから、兄弟たちはヨセフの仕返しを恐れました。そして自分たちでもヨセフの前にひれ伏して、赦しを乞いました。
「このとおり、私どもはあなたの僕です 」(18節)

ヨセフはその時泣いていました。そして次のように答えています。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。

「わたしが神に代わることができましょうか」~ヨセフのこの言葉の意味は、本当の赦し、人に真の平安を与える赦しは、神を通してでしか与えられない、ということです。
その赦しを通して真の平安が与えられる~そのような赦しは神でしか与えることができません。どんなに優れた人格を持った人であっても、人が人を赦し、あるいは人が人を裁く(罪に定める)ということは本来できないのです。
ヨセフには、兄弟たちのことをきれいさっぱりと赦してあげたい、そうしたい、という気持ちはあったと思います。しかし、暗い穴の中に放り込まれた時の恐怖などが甦り、兄弟たちへの怒り、憎しみが甦ることがあったのではないでしょうか。

そんなヨセフに、誰が「兄さんたちのことを赦してあげなさい」と言うことができるのでしょうか。ですからヨセフは、「わたしが神に代わることができましょうか」としか言えなかったのです。
本当の赦しは神からしか得ることができません。だから、神の赦しを求めながら、神様の前に全てを注ぎだして、これからも私たちは一緒に生きていきましょう~そんな思いを込めて、ヨセフはここで兄弟たちに答えたのだと思います。
ヨセフは自分に起きた様々な経験を通して、自分自身の罪にも向き合い、そして何よりも力強い不思議な神の御手と御計画を信じるようになりました。
ですからヨセフは次のようにも言うことができたのです。20~21節をお読みします。

20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
21どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

神は人間の罪と悪にも関わらず、それを善に変える力をお持ちの方なのです。そのような神を信じ、神を恐れ敬いながら、私たちは生きていかねばならないのです。
ヨセフの言葉は真実です。神は人間の悪からでも、究極の善を生み出すことがお出来になります。

時を経て、イエス・キリストの時代、人々は全く罪のなかったイエス様を十字架につけて殺してしまいました。
しかしそれによって私たち人の罪が赦され、人はキリストの十字架を通して、神のもとへ行けるようになったのです。
では、人々が(わたしたちが)イエス様を十字架につけて殺したことは善いことだったのでしょうか?それで人の罪が赦されることになったのですから、イエス様を十字架につけた人たちは良いことをしたのでしょうか?

もちろんそうではありません。イエス様が十字架につけられたのは私たち人の醜い罪がもっとも露わになった出来事でした。その事に、私たちはいつも悔い改めの思いを持たなくてはなりません。
しかし、キリストの十字架の出来事を通して、神は人間の悪さえも善に変える力をお持ちのお方だということがはっきりと示されたのです。そのことを知らされ、その事を信じ、そのことに感謝をする信仰者は、きっとその恵みに相応しい生き方をする者に変えられるのです。
わたしは、色々な失敗を犯しますし、私の言ったことや行ったことで、嫌な思いや傷ついた人がおられると思います。
自分でそのことに気づいていても、「ごめんなさい」、「すみません」のそのたった一言がどうしても言えないことが、わたしにはあります。I am sorryと一言素直に言える心を持ちたい、と私は願っています。

私たち人が共に生きている限り、人と人との間の行き違いや誤解、争いが、もちろん出来ることならそれは避けたいですけれども、無くなることはないでしょう。私たちはお互いに罪人であるからです。
しかし悪を善に変える神がおられ、その神が私たちを導いてくださっています。ですから私たち心を合わせて、神の御心を尋ね求めて生きて行こうではありませんか。
そして真の赦し、究極の赦しと救いが、イエス・キリストの十字架によって私たちには既に与えられている、その測り知れない恵みを覚えつつ、私たちは信仰の道を共に歩んでいきたいと願います。