2023年5月20日土曜日

2023年5月21日 主日礼拝

招詞 ホセア書14章10節
賛美 新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
献金
聖書  ルカによる福音書2章22~40節
祈祷
宣教 「多くの人の心にある思いがあらわにされる」
https://youtu.be/AOdwRinrWwM
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷


今日の聖書の箇所は、赤ちゃんのイエス様(イエス・キリスト)を主に献げるために、両親のヨセフとマリアが、エルサレムの神殿にやって来て、そこで高齢の信仰者であったシメオンとアンナと出会う、という場面です。
ここは“出会い”の場面と言ってもよいと思います。それは神による出会いの場面です。神の子イエス・キリストを中心として、様々な人々が出会わされる、そんな“出会い”が今日の場面で描かれています。
若いヨセフとマリア、そして赤子のイエス様が、シメオンとアンナという高齢の信仰者と出会わされました。そしてその時神殿には、彼ら以外にも他にも多くの人たち、色々な世代の人たちがいたはずです。その人たちの間でも、そこで多くの“出会い”が起きていたのではないかと私は想像します。

そのような様々な出会いが、まさに今でも、教会で実現しています。教会には様々な年齢の人たちが集まります。あらゆる世代の人々が共に集まり、神様を中心とした交わりをつくる場所~それが教会であるからです。
なぜ教会には色々な世代の人々が集まることができるのでしょうか。
それは、わたしたちが皆神の子であるからです。正確には、イエス・キリストへの信仰を通して、わたしたち誰もが神の子になることができるからです。
キリストを信じる者は皆神の子とされます。父なる神から見ればわたしたちは皆神の子どもになります。わたしたちは神にあって兄弟姉妹です。
この地上での私たちの年齢、あるいは経験の差、性別等というものは、神にとってはほとんど意味のないものになります。
ですから私たちは、教会では、皆が平等な立場で神の前に集い、神の言葉を共に聞き、信仰の交わりの中で生きる~その喜びを体験することができるのです。

神によっていろいろな世代の者たち、異なる背景を持つ私たちが一つとされる~そうやってキリストの体である教会は作られていくのです。わたしたちは、様々な世代や違いを持つ人々が、神中心の交わりの中で生き、その喜びを実感できるような教会を本当に造っていきたいと願います。

 今日の箇所で描かれている、また別のことは“献げる”ということです。
22節に次のように書かれています。
22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

ここで“子を主に献げる”とはどういうことでしょうか?次の23節に次のように書かれています。
「それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
主の律法と言うのは旧約聖書の中に書かれている、主なる神がイスラエルの民に与えた信仰上の数々の規則のことです。
「初めて生まれる男子を献げる」ことについては、旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに次のように言っています。

出エジプト記13章2節 (Exodus 13:2)
「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

初めて生まれる子は、それが家畜の子であれ、人間の子であれ、主のものであるから主にささげなさいという戒め(教え)です。
実際にはイエス様の時代には、24節に書かれているように、代わりの動物の犠牲を献げることで、初めて生まれた子(男子)を主の前に聖別する(特別なものとして取り分ける)という儀式がおこなわれていました。
そのような儀式を通して、生まれた最初の子どもが神のものであるという信仰が表明されていたのです。
わたしたちは神から本当に色々なものを頂いています。わたしたちの命も、生きる時間も、才能や収入、あるいは家族や友達などすべては神様からの賜物です。
しかしわたしたちは、そのように神から頂いているはずの色々なものを、自分のもの、自分の所有物だと思ってしまいます。しかしキリスト者は、私たちに与えられているものは、すべて創造主なる神からの贈り物だと、常に認識しなくてはなりません。

その信仰の表れとして、自分に与えられたものの最初のもの、最も良いものを常に私たちは神様にお献げする(お返しする)のです。「初めに生まれる男子は、皆、主のために聖別する」とはそういうことです。
わたしたちは、神様からいただいている色々な良き賜物、普段与えられている多くのものの初めの最も良いものを、主なる神にお返しする~そのような信仰が自然に、喜びとなってあらわれるような信仰者になりたいと願います。
今日の箇所で、二人の老人(男女)が登場しています。シメオンとアンナの二人です。25節によれば、シメオンは「正しい人で信仰があつくて、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」人でした。
そして、彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と書かれています。

一方アンナは、36節以降の説明によれば、女性の預言者でした。預言者ですから、彼女は神様の言葉を預かり、人々に伝えるという務めをしていた人でした。彼女は若い時に夫に死に別れて84歳になっていた、と書かれています。
シメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げが聖霊によって告げられていたことについて、考えてみたいと思います。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」~聖霊は、シメオンに「あなたは決して死なない」とはもちろん言っていません。
どんな人でも必ず死ぬ時がくるからです。そうではなく、聖霊はシメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは、あなたは決して死なない」と言ったのです。
それは、シメオンには、主が遣わすメシア=イエス様に出会って、救い主が確かに生まれたという出来事の証人になるという、神から与えられた重要な使命があった、ということです。
その使命を果たすまでは、あなたは決して死なない~神は、その時シメオンにお与えになったように、今も私たちひとり一人に特別なご計画、使命を備えてくださっています。それが私たちへの聖書の約束です。

神による計画、使命は、私たちが自分で願い、考えていたこととは違うことがあるかもしれません。
先日R 姉が礼拝で証しをしてくださいました。ちょうど大学に入学した数か月後にコロナ感染症の拡大が始まり、入学当初に描いていたR姉の計画が取り消され、失望したことお話してくださいました。
しかし今振り返って、神様が姉のためにお持ちだった御計画は、彼女自身が描いていたものよりもずっと素晴らしかったと証をしてくださいました。
私たちの教会での人々との出会い、礼拝やフライデー・ファミリー・フェローシップでの交わりを通して、神様の側がR姉を探し出してくださったと、証をしてくださいました。
そのように、「わたしが神を見つけた」ではなくて、「神がわたしを探しだして(見つけて)くださった」という信仰がR姉に与えられたこと、そしてその素晴らしい一信仰者の証しを私たちが分かち合うことができたことを、わたしは大変嬉しく感謝に思っています。
主を信じる信仰に生きる私たちは、神の御計画と神の備えて下さる道、神が私たちをそこへ導いてくださる道は、私たち自身の思いや計画よりもはるかに素晴らしいと、今日改めて確信をしようではありませんか。

シメオンもアンナも、長い年月、神殿にいて信仰に踏みとどまっていた間には、もちろん辛く悲しい時もあったと思います。しかしそれでも、シメオンもアンナもずっと神殿にいました。
神殿にいたということは、主なる神への信仰に留まっていた、ということです。彼女と彼を捕えていてくださる主なる神の御手に自分自身を委ね続けた、ということです。
アンナは若い時に夫と死別した、と書かれています。それほどの経験の辛さ、悲しさを彼女がどのように耐えて生きたのか、詳しいことは分かりません。しかし彼女は「神殿を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」のです。
そのように神殿に留まったこと、すなわち神の傍にい続けたことが、彼らの心と魂を支え続けたのだと、私たちは信じることができます。

そこでシメオンとアンナは、ヨセフとマリアによって連れられてきた赤ちゃんのイエス様と出会いました。彼らは、とうとう約束の救い主と会うことができたのです。

34~35節の、シメオンの言葉を見てみましょう。
34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

シメオンは赤ちゃんのイエス様を救い主と認め、そしてヨセフとマリアを祝福しましたが、シメオンの言葉は、イエス様ご自身がどのような試練をお受けになるのか、ということも含んだ厳しい内容でもあります。
すべての人がイエス様を信じるわけではなく、多くの人がその御言葉と真実を受け入れることができずに、つまづき倒れることになる。それが現実でした。そして多くの人がイエス様に反対をします。
ついには、イエス様は十字架の上で殺されることになります。今日の箇所にはその事がはっきりとは書かれていませんが、マリアにとっては自分の息子であるイエス様がそのような苦しみを受けることで、彼女は「剣で心を刺し貫かれる」経験をする(母として)、と言われているのです。
そして、それはマリアだけではなく、イエス様が十字架の上で負ってくださったことを真剣に直視する者は誰であっても、自分自身の本当の姿、神に背いて歯向かう罪を抱えた自分の姿に気づかされ、「剣で心を刺し貫かれる」思いをする、ということでもあります。
私たちは、イエス様と出会うことで、私たち自身の本当の姿に出会わされます。自分の本当の姿に気づかされます。

そのような経験は、自分自身の嫌な部分、暗い部分まで向き合って認めるということでもありますから、わたしたちにとって辛い過程ともなります。
しかし、キリストによって示される私たち自身の本当の姿、心に思いが露わになることで、わたしたちは全てを神にお委ねするしかない、という信仰が生まれます。神に赦していただくよりほかないのです。
そしてわたしたちは、罪赦された者として、キリストに従ってこれからずっと歩んでいくことができる、という大きな希望をも持つことができるのです。
そのような私たちが神によって愛されている、御子イエス・キリストがそのお命を捨ててくださったほどに、この私たちが愛されている~こんな大きな希望を持って、わたしたちは生きることができるのです。
ですから私たちは、キリストによって知らされる自分自身の本当の心の思い、自分の本当の姿を勇気をもって、認めましょう。
そしてそれらを全て受け止めてくださり赦してくださったイエス様の御愛を感謝して頂きながら、今週また新たな日々も歩み出していこうではありませんか。