tag:blogger.com,1999:blog-81699618216438390832024-03-28T09:44:23.664+09:00別府国際バプテスト教会Beppu International Baptist Churchbibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comBlogger109125tag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-44725992029912371242024-03-28T09:43:00.005+09:002024-03-28T09:43:23.495+09:00<p><span style="font-family: "MS 明朝","serif"; font-size: 11.0pt; mso-ansi-language: JA; mso-bidi-font-family: "MS 明朝"; mso-bidi-language: AR-SA; mso-fareast-language: JA; mso-font-kerning: 0pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"></span></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgDzPHb5lYJU2efgVtjhOxxO_gjOpSSIrgCz7KVx0XaoKVjg0EY3xIh0w6YusIO24gvHVCEmHMCYiNPBq7KTzXG85V7lsUWyLehO90JRQbqFia3LlzRYYiedNxn0KA0-HJrcW0SlhY-qrOwd8EScwN0L6-w0EjHsi0uifxaO4ga1vmtoqdYNL9_b0iKoZVl/s1207/Children%20Easter.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="917" data-original-width="1207" height="473" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgDzPHb5lYJU2efgVtjhOxxO_gjOpSSIrgCz7KVx0XaoKVjg0EY3xIh0w6YusIO24gvHVCEmHMCYiNPBq7KTzXG85V7lsUWyLehO90JRQbqFia3LlzRYYiedNxn0KA0-HJrcW0SlhY-qrOwd8EScwN0L6-w0EjHsi0uifxaO4ga1vmtoqdYNL9_b0iKoZVl/w624-h473/Children%20Easter.png" width="624" /></a></div><br /><br /><p></p>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-88958159778834286222024-03-23T14:17:00.001+09:002024-03-23T14:17:49.238+09:002024年3月24日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 イザヤ書53章5節 <br />讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて <br />主の祈り <br />主の晩餐 <br />讃美 新生讃美歌 主の流された尊い血しお <br />献金 <br />聖句 ヨハネによる福音書11章17~27節 <br />祈祷 <br />宣教 「わたしは復活であり、命である」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし <br />頌栄 新生讃美歌 674番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br />今週一週間は、キリスト教では“受難週Passion Week”言われる週です。イエス・キリストが十字架に架かって死なれた出来事を、キリスト者が特に思い起こす一週間です。 <br />イエス様が十字架にかかるため、ゴルゴダの丘(処刑場のあった場所)へと向かって歩まれたその道のりも、私たちは覚えます。 <br />キリスト教は、イエス・キリストが死から甦った、主の復活から始まりました。復活により、死は私たちにとって全ての終わりではなく、むしろ始まりであることが示されました。 <br />「死ねば全てが終わり」という考えは、イエス・キリストの復活によって覆され、キリストの復活を信じる者は、死が新しい始まりであるという希望の中に生きることができるようになりました。 <br /><br /> そのイエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)が今年は来週の日曜日の3月31日です。 <br /> 復活の前には、イエス様が十字架を背負って、ゴルゴダの丘と言われた場所で十字架刑に処せられた出来事がありました。 <br />受難週が始まる今日、イエス・キリストのご受難とその復活について、改めて私たちは思いを巡らせ、聖書の御言葉から教えられていきましょう。 <br />イエス様は、神の国を人々に伝え、多くの病人を癒したり、人々から悪霊を追いだしたりという業をしながら、やがてご自分が十字架に架かって死ぬ、ということをご存じでした。 <br />福音書の中には、イエス様が生きておられた時に、主にご自分の弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、その後に復活すると予告をしておられたことが描かれています。 <br /><br />福音書では、イエス様は弟子たちに、ご自分が十字架にかけられて死に、そして復活することを三回予告された、と書かれています。 <br />マルコ福音書の10章32節から34節に、イエス様がご自身の死と復活を三度目に予告した場面が、次のように書かれています。 <br /><br />32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 <br />33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 <br />34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 <br /><br />イエス様ははっきりとそのように予告しておられました。イエス様が、祭司長や律法学者たちという、ユダヤ教の権力者たちに引き渡され、(最後はローマ帝国の権力によって)侮辱され、鞭打たれて、殺される、そして復活することは、イエス様に課せられた、天の父なる神からの使命であったからです。 <br />しかし、弟子たちにはその意味がよく分からなかった、あるいは、そのことを受け入れるのを恐れた、あるいはペトロのように「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様に反対した、とも聖書には書かれています。 <br /> 神であり、救い主であるお方が、人間の手によって殺されるということは、普通に考えればおかしいことです。なぜ、神が人の手によって殺されなければならないのか? <br /> しかし、それが神がお定めになった、私たち人の罪が赦され、私たちが滅びの道から救われるための、神の御計画だったのです。 <br /><br /> イエス様はご自分の弟子たち以外にも、ご自分が復活することを予告したことがありました。それが今日の聖書箇所、ヨハネ福音書11章の、ラザロという男の人が死んだ場面です。 <br /> ここでイエス様は、ご自分こそが復活であり、命であると明言をしておられます。 <br />ここで亡くなったのは、ラザロという男の人でした。ラザロには、マルタとマリアという姉妹がいました。 <br />イエス様は、ラザロたちと特に親しかったようです。11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書かれています。 <br />11章の初めに、このラザロが病気になっていたことが描かれています。ラザロの病状はかなり悪かったようです。そしてその知らせが、人を通して別の町にいたイエス様にも伝えられました。 <br />しかし、イエス様は、ラザロが病気だという話を聞いても、すぐにはラザロがいたベタニヤへ行こうとはされませんでした。 <br />今日の箇所に書かれている通り、イエス様が、ラザロのところへやってきたのは、ラザロが死んでもう4日経ったときでした。 <br /><br />当時は、三日間の間は、死んだ(と思われた人)が生き返る(蘇生)可能性があると考えられていました。 <br />しかし死後四日経っていたということは、ラザロは死んだということが人々によって確定させられていた、ということです。 <br />19節には、ラザロの姉妹だったマルタとマリアのもとには大勢の人たちが来て、彼女たちを慰めていた、と書かれています。 <br />最愛の兄弟を亡くしたマルタとマリアの悲しみに寄り添い、彼女たちの苦しみを和らげようと、多くの人たちが来ていたようです。 <br /><br />悲しい時、辛い時に、私たちはお互いに慰め合い、寄り添い合うことができるのは幸いだと思います。 <br />家族を亡くした悲しみがそんなに簡単に癒されるものではありませんが、友人や知人からの心からの慰めの言葉は、私たちの心を確かに癒してくれます。 <br />私たち教会の群れも、互いの悲しみと苦しみに寄り添うことができる、そんな信仰の家族でありたいと私は願います。 <br />姉のマルタがイエス様が来られたと聞いて、迎えに行き、次のように言いました。 <br />「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」 <br />マルタは、先に人をイエス様のところへ行かせて、兄弟のラザロが病気であることを伝えさせていました。マルタは(妹のマリアも)イエス様がすぐに来てくれることを期待していたでしょう。 <br /><br />しかし、イエス様はすぐにはおいでになりませんでした。なぜイエス様がすぐにラザロの病を癒しにお出でにならなかったのか、という疑問をマルタは拭うことができなかったのでしょう。 <br />ですから、「もしここに(あなたが)いてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、主イエスを非難する思いをマルタは隠すことができませんでした。 <br />わたしたちも、神様に、“今すぐ助けてほしい”、“今すぐ、この問題や悩みを解決してほしい”と願っても、神の助けがすぐには与えられないことが、多くあると思います。 <br />そんな時、マルタのように、神様を少しは非難したくなるように思う時が私たちにもあるかもしれません。 <br />しかし、神には神の時と方法があります。私たちが聖書から教えられることは、神には私たちの思いを越えた最善のご計画がある、ということです。 <br /><br />私たちにとっては“神が来られるのが遅い。神の助けが差し伸べられるのが遅い”と思えても、神が備えてくださる最善の時と方法を私たちは信じたいと願います。 <br />イエス様はマルタにお答えになりました。 <br />「あなたの兄弟は復活する」(23節) <br />マルタは答えました。 <br />「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節) <br /> ユダヤ人の間では(全ての人ではありませんでしたが)、復活が信じられていました。イエス様も、これより以前のヨハネ5章28節~29節で次のように言っておられました。 <br /><br />28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 <br />29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 <br /><br />マルタは、そのような復活があるということは聞いて知っていました。彼女がそれを“信じて”いたかどうかは分かりません。 <br />マルタは、ただ“わたしはそれを知っています(存じています)”と言っているからです。マルタは復活を知識として知っていましたが、それが彼女にとっての本当の信仰にはなっておらず、復活の恵みについては分かっていなかったのだと思われます。 <br />聖書に書かれていることを知識としていくら沢山知っていても、聖霊を通してその意味が明らかにされ、御言葉の力が本当に自分を生かすものになっていないのならば、それは信仰とは言えません。 <br />私たちは聖書の言葉を聞き、御言葉を心に蓄えることで、御言葉が自分を支え、慰め、励ます本当の力となることを、経験していきたいと願います。そのようにして、御言葉によって信仰が成長させられ続けるのです。 <br /><br />イエス様がどのようにマルタにお答えになったか、聞いて見ましょう。(25~26節) <br /><br />「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 <br />26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 <br />イエス様はここでは、「わたしは復活する」あるいは「わたしは生きる」とはおっしゃっていません。 <br />イエス様は、「わたしは(が)復活であり、命である」とおっしゃっています。復活とは何なのか、命とは何なのか?その答えはご自身である、と言うのです。 <br />イエス様ご自身が復活そのものであり、命そのものなのです。イエス・キリストにこそ、一度死んだもの、もう終わったと思われた状態に、新しい命を吹き込む力がある、ということです。 <br />ですから、生きていてキリストを信じる者は、だれでも決して死ぬことがないのです。ここで言われる“信じる”とは、“キリストの中で生きる”という意味です。 <br /><br />聖書の言葉が、ただの知識としてではなく、聖書の言葉が本当に魂の糧となる時、私たちは生きます。 <br />自分中心の生き方でなく、キリスト中心の生き方へ変えられることで、私たちはキリストの中に生きるものとなります。キリストの中に生きるとは、キリストの復活に与るということでもあるのです。 <br />そのことを信じるか?とイエス様はマルタに向かって、そして私たちひとり一人に向けて、今も語りかけておられます。 <br /> その問いかけに、「はい、信じます」と私たちは日々、新たな信仰をもって答えていこうではありませんか。 <br /> 受難週の今週、イエス様が私たちの罪の贖いのため、私たちが死んで滅びず永遠の命に生きることができるため、十字架にかかってくださったその犠牲の出来事に思いを馳せつつ、一日一日を過ごしてまいりましょう。 <br /><br /> bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-56683748413042829472024-03-16T18:42:00.003+09:002024-03-16T18:52:58.163+09:002024年3月17日主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 ホセア書6章6節 <br />讃美 新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて <br />主の祈り <br />讃美 新生讃美歌227番 カルバリの丘へと <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書6章1~11節 <br />祈祷 <br />宣教 「安息日にしてはならないこと」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架 <br />頌栄 新生讃美歌 674番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /> 今日の聖書箇所では、安息日(ユダヤ教の安息日:土曜日)に、イエス様と弟子たちが麦畑を通って行きます。 そこで、弟子たちは空腹だったのでしょう、麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのです。(おそらくイエス様も食べたのでしょう)<br /> その麦畑は誰かの所有物であったはずです。しかし、イエス様の弟子たちはその麦の穂を摘んで、揉んで食べました。<br /> それは、聖書の律法で許されていることでした。旧約聖書『申命記』23章25節~26節(24~25 NIV)に以下のように記されています。<br /> <br />隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。 <br />隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。 <br />これは、人が本当に空腹である時、他者(隣人)の畑の作物を取って食べてもよい、という戒めです。その畑の所有者も、空腹である隣人を助けることをよしとせねばならない、という神の戒めです。 <br /> ただし、申命記のその戒めは「籠にいれてはならない」、「鎌を使ってはならない」と言って、本当に空腹を満たす以上に麦を取ることを禁じています。 <br /> その戒めは、私たち誰もが、必要以上に欲しがるという貪欲の罪を抱えた者であること、必要以上に“貪る”という罪を犯し得る者であることを思い起こさせます。 <br /><br /> そのうえで、人は誰もが、本当に必要な食料、生きる上で必要な食料に不足してはいけない、そうならないように努めるのが共同体の務めであると、神がお定めになったのです。 <br /> しかし、麦畑の中を通り、麦を取って食べていたイエス様の弟子たちの行動を咎めて(非難して)質問してきた人たちがいました。 <br />ファリサイ派と言われた、聖書の律法を厳粛に解釈していた人たちが、麦を取って食べているイエス様の弟子たちに「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と聞いたのです。 <br /> その日は安息日でした。安息日は、神によって定められ、イスラエルの民たちが代々守るようにと神によって厳格に定められた戒めでした。 <br /> 旧約聖書の『出エジプト記』の中で、神がモーセに十戒の言葉を告げます。十戒の中に安息日についての戒めが次のように記されています。 <br /><br /> 出エジプト記20章8~11節 (Exodus 20:8~11) <br />8安息日を心に留め、これを聖別せよ。 <br />9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 <br />10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 <br />11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。 <br /><br /> 十戒の中でも、安息日に関する戒めは、以上のように比較的多くの分量で、細かく定められています。<br /> ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、その戒めを厳格に守るために、何が(どのような行為が)“仕事”に該当するのか、ということを定めました。 <br /> その定めには、“一日の間に歩くことが許される距離”というのもあったそうです。それは大体一キロメートルぐらいであって、それ以上の移動は“仕事”と見なされたと言われます。 <br /> そして麦の穂を摘み、揉んで実を取り出すという行為も、それは“収穫作業”という労働だと見なされていたのです。 <br /> ファリサイ派たちは、“なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか”と聞きました。 <br /> 彼らは「あなたたちは安息日を守らずに律法違反を犯している!」と言って、イエス様と弟子たちを非難したのです。 <br /><br /> ここでは何が起きているのでしょうか。ここで起きているのは、相手のことを思いやる共感力の欠如だと、私は思わされました。 <br /> 安息日の戒めについてはイエス様の弟子たちもよく知っていたはずなのです。イエス様は既に神の言葉を大勢の人に教えておられ、教師としての(そして病を癒す治癒者としての)評判が広く知れ渡っていました。 <br /> イエス様と弟子たちが、重要な安息日の戒めと、その適用の解釈を知らないはずがありません。通常の“収穫”は安息日が禁じる労働に該当する、ということもイエス様も弟子たちも知っていたはずです。 <br /> そうであれば、それでもなおイエス様の弟子たちがそこで麦を取って食べたというのは、彼らがそれほど深刻に空腹であったということです。 <br /> ファリサイ派の人たちは、“なぜ安息日にしてはならないことをするのか”と非難して聞く前に、イエス様の弟子たちの様子、その空腹の様子を見て、彼らに同情(共感)することこそが必要だったのです。 <br /> 私はよく、人をその人の見た目、うわべだけで判断してしまい、心の中でその人を裁いてしまうことがよくあります。 <br /> その人の事情を理解しようとせず、うわべだけで「自分とは違う」と断罪してしまうのです。<br /><br /> ヘブライ人への手紙の13章3節に、次のように書かれています。 <br />自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 <br /><br /> “牢に捕らわれている人”、“虐待されている人”の本当の気持ちは、本当にそのような経験をしなければ分からないでしょう。 <br /> それでも、そのような環境に置かれたら人はどうなるのだろう、と想像力を働かせることが私たちには出来るはずです。 <br /> 思いやりを共なった想像力を働かせることにより、人を簡単に裁く罪を犯すことがないようにしたいと私は願います。 <br /> その人をうわべだけで判断せず、またできるだけその人の立場に立とうと心がけて、神が私たちに与えてくださった、人を思いやる心を失うことなく、人と接することができるようにと、私は祈り願います。 <br /> イエス様はファリサイ人たちへの質問に対して、旧約聖書サムエル記上21章の中で描かれている、ダビデに関する出来事に言及して答えます。 <br /> ダビデは預言者サムエルによって選ばれ、サウルに次ぐ王様として選ばれていました。しかしダビデはサウルに妬まれて、その命を狙われるようにまでなったので、ダビデは逃亡します。 <br /><br /> そしてアヒメレクという祭司のところへ、ダビデは行き、食べ物をくれるようにとアヒメレクに頼みます。 <br />そこには聖別された(特別に取り分けられた)パンだけがありました。聖別されたパンは祭司でしか食べることを許されていないものでした。 <br />しかしダビデはそこで、自分は王から遣わされてきたなどと嘘までついて、本来祭司でしか食べることを許されないパンを手に入れました。 <br /> 聖書は嘘をつくことを奨励しているのではありません。しかし、その時のダビデは、まさに生きるか死ぬかの状況であり、聖別のパンは祭司しか食べることを許されない、という規則も、ダビデという一人の人の命の前にはその効力を失うのです。 <br /> 今日の6節からの話も、安息日にして許されることと許されないことに関わる話です。イエス様は会堂に入って教えておられました。そこに一人の右手の萎えた人、右手が何らかの原因で麻痺していた人がいました。 <br /><br /> その人の右手が萎えているという状態は、いますぐ直さなくてはその人の命に関わる、という問題ではありませんでした。ですから、安息日にその人を癒すことは、緊急ではない医療行為という一つの“労働”だと見なされていました。 <br /> そこで律法学者とファリサイ人たちが、イエス様がその右手の萎えた人を癒されるかどうかをじっと伺っていました。 <br /> もしイエス様がその人を癒したら、“安息日に、緊急でない癒しの行為という労働をしている、律法違反だ!”と言って訴えようと彼らはしていたのです。 <br /> 確かに、見た目にはその人の症状は、今すぐ直さなくては命に関わる、というものではなかったかもしれません。 <br /> しかし、右手の萎えたその人自身は、どのような思いで、その時いたのでしょうか。その人はそれまでに、どれほどの苦しみを、それまで生きて来なければならなかったのでしょうか。 <br /><br /> そのようなことを私たちが想像し、その人に共感することを、イエス様は今でも聖書を通して促しておられます。 <br /> イエス様はその人の苦しみをご覧になり、その時すぐにその人は癒されなくてはならない、と思って、神の御子イエス様はその人をそこで癒されたのです。 <br /> 5節と、9節のイエス様の言葉をわたしたちは改めて確認しましょう。 <br /><br />「人の子は安息日の主である。」 <br /><br />「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 <br /><br /> 「安息日に何をしていいのか、してはならないのか」~そのように、宗教的規則を守るかどうかということだけが重要になると、そこからは安息日本来の恵みと喜びは失われます。 <br />今日の箇所は、“戒め”、あるいは”宗教的な規則”、そしてそれらを守るとはどういうことか、ということがテーマになっている箇所です。 <br /><br />宗教に対して一般的に持たれているイメージは「色々な規則に縛られる生活」であるかもしれません。 <br /> 「礼拝に毎週行かなくてならない」、「献金しなくてはならない」、「聖書を読まなくてはならない」などなど。 <br /> しかし、イエス・キリストに繋がる信仰者は、数々の“~しなくてはならない”という生き方ではなく、キリストによって神の子とされたという喜びに基づいた、自由な生き方が出来るようになります。 <br /><br /> キリストにある信仰者は何事にも自由に生きることができる者だと言えます。キリストにある自由、真の自由を頂いて生きることができる信仰者としての幸いを、私たちは改めて覚えましょう。 <br /> 安息日も、その他の神の様々な恵みも、私たちがそれらを通して神の愛と憐れみ、命の救いを得るためにあります。 <br /> 神から頂く安息の恵み、神から頂くその真の安息の恵みの中に生きる信仰を私たちは生きていきたいと願います。 <br /><br />bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-48804252048880500462024-03-09T14:14:00.002+09:002024-03-09T14:14:43.514+09:002024年3月10日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 テサロニケの信徒への手紙一 5章9節 <br />讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて <br />主の祈り <br />讃美 新生讃美歌 105番 くしき主の光 <br />献金 <br />聖句 出エジプト記4章18~31節 <br />祈祷 <br />宣教 「エジプトへ戻るモーセ」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 255番 わが罪のために <br />頌栄 新生讃美歌 674番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /> 神がモーセに現れて、エジプトで奴隷生活を送りながら苦しんでいる同胞のイスラエルの民たちを、エジプトから導き出しなさいと、命令されました。 <br /> そのころモーセは、ミディアンという地方で羊飼いとしての生活をしていました。約40年間モーセはミディアン地方で羊飼いとしての生活をし、年は80歳になっていました。 <br />モーセは神の命令に従うことを何度も躊躇しましたが、神はモーセに数々の徴(しるし:奇跡)を見せて、イスラエルの民たちや、エジプト人たちもモーセの言うことを信じるようにと全てを備えてくださいました。 <br /> そしてモーセは、ようやく神の言うことを受け入れ、エジプトへ行き、イスラエルの民たちを救い出すという神の御計画に仕えることを決意しました。 <br /><br /> モーセがそのような決心をして、最初にしたことが今日の聖書の箇所(出エジプト記4章18~31節)に書かれています。 <br />モーセは、まず自分のしゅうと(モーセの妻の父)のエトロに「エジプトへ行かせてください」と言ったのです。 <br />モーセは、ミディアン地方を離れてエジプトへ行く前に、そのことを初めに彼の義理の父親に打ち明け、彼の理解と許可を求めたということです。 <br />モーセとエトロの出会いは、次のようなことでした。モーセは最初エジプトを離れてミディアン地方に来た時、井戸の傍に彼は座っていました。そこへ羊の群れに水を飲ませるために、ある祭司の7人の娘たちがやってきました。(出エジプト2章) <br /><br />そこで羊飼いの男たちが、娘たちを追い払おうとしたので、モーセがその女性たちを救いました。 <br />その娘たちの父がミディアン地方の祭司であるエトロでした。(最初彼の名前は、なぜかレウエルReuelと2章18節には書かれています。彼はレウレルとも呼ばれていたのかもしれません)。 <br />モーセは、エトロのもとに留まる決心をしたので、エトロが娘のツィポラをモーセと結婚させました。 <br />モーセが、神から「エジプトへ戻って、イスラエルの民たちを救い出しなさい」と言われた時、モーセはまず、同胞のイスラエルの人たちが自分の言うことを信じないだろう、と言って心配しました。 <br /><br />そしてまた、エジプト人たちも自分の言うことを信じないだろうとモーセは思い、躊躇していました。 <br />しかし、今日の箇所の前までで、モーセが自分がエジプトへ戻ることに関して、義理の父親のエトロは何と言うだろうか、と心配していたことについては何も書かれていません。 <br />しかしモーセは、今日の箇所の中で、「エジプトへ戻る」という決意を、最初に義理の父親エトロに伝え、彼の許可と理解を求めたのです。 <br />モーセにとっては、義理の父親エトロは、とても大切な存在、もしかしたら肉親の父親同然の存在になっていたかもしれません。 <br />エジプトから言わば、流れて逃げ出してきた自分を引き受け、世話をしてくれた、という恩義もモーセはエトロに対して感じていたのでしょう。 <br /><br /> モーセは、神に命令され、そして神によって不思議なしるし(奇跡)を見せられ、自分がエジプトへ遣わされていくことは確かに主なる神の意志だという確信がありました。 <br />それでもなお、モーセは義理の父エトロにまずそのことを伝え、彼の理解を得て、エトロによって送り出して欲しい、と願っていたのでしょう。 <br />モーセは「神に言われて、わたしが決めたのだから、義理の父親の言うことなど関係ない」とは思わなかったのです。 <br />血のつながりはなくとも、それほどの絆がモーセとエトロの間には築かれていた、と言ってよいと私は思います。 <br /><br /> 教会では、教会員同士、クリスチャン同士のことを“兄弟姉妹”と呼び合います。それは同じイエス・キリストの神を信じる者同士は皆が神の子供であるという信仰、そして私たちは同じ信仰によって結ばれた神の家族である、ということを表わします。 <br /> 私たちが今、同じ教会で出会わされている、信仰の家族とされているのも、モーセと義理の父エトロが出会わされたように、それほどに不思議な神の導きによる出来事です。 <br /> そのようにして出会わされ、神の家族とされた私たちが、お互いに信仰の交わりと分かち合い、そして励まし合うことができる関係を少しでも深めていくことができればと私は願います。 <br /> 「エジプトに行かせてください」とモーセに言われたエトロは、モーセにたった一言「無事で行きなさい“Go, and I wish you well.」と応えました。たった一言ですが、義理の息子の平安を心から願う、エトロの気持ちがよく表れている一言であると思わされます。 <br /> 「無事で行きなさい」の一言の背後に、エトロが、モーセがこれから行こうとしている道を覚え、祈っている姿が想像されます。 <br /> 私たちも信仰者同士の繋がりの中で、お互いを覚えて祈り合うことができる、平安と心強さの中で日々を送ることができます。 <br /><br /> モーセは、エトロに送り出され、そして19節に書かれているように、主から「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」との言葉を頂きました。 <br /> そしてモーセは妻と子供をろばに乗せ、エジプトへ向かいました。 <br /> 今日の24節から26節には、大変奇妙な出来事が記されています。妻とこどもを連れてエジプトへ向かって旅立ったモーセを、途中で神が殺そうとした、というのです。 <br /> 神の言葉に従いエジプトへと向かったモーセをなぜ、いきなり神が殺そうとされたのか?その意味合いは、私たちには分かりません。 <br /> ある解釈としては、モーセが息子に神の民であるイスラエル人としての徴(しるし)である割礼を施していなかったのが理由であると、言われます。 <br /> 『創世記』で、主なる神がアブラハムを召して、アブラハムは生まれ故郷を離れて神の示す約束の地へと旅立ちました。 <br /> 創世記17章で、神はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」と告げ、アブラハムと彼の子孫も主の契約(戒め)を守るようにと命じました。 <br /> その一つがイスラエルの民の男子が受ける割礼でした。それを一つの徴(しるし)として、神の民イスラエルと他の民たちとが区別をされたのです。 <br /> モーセは長くミディアン地方に住み(また幼少期から成人するまでは、エジプトの王宮で育てられたので)、イスラエルの民にとって大切なこと、主なる神との契約について、その大切さについての理解が浅かったのかもしれません。 <br /><br /> 神は(それにしても、モーセを殺そうとは、私たちの理解を越えた厳しさですが)、モーセ自身もイスラエルの民であり神の子であること、そして彼の子も神との契約とその恵みの中に生かされている者であることを思い起こさせようとしたのではないでしょうか。 <br /> そこでモーセの命を救ったのは、何と妻のツィポラでした。ツィポラが息子の包皮を切り取り、割礼を施したことで、主はモーセを放されました。 <br /> モーセの妻が、そこでモーセの命を救う役割を果たしたということです。もしツィポラがいなければ、そこでモーセが死んでいたかもしれない(おそらくそうなのでしょう)、と思うと、女性であるツィポラが果たした役割の重大さが、改めて私たちに知らされます。 <br /> モーセの妻であり、女性であったツィポラは、当時の文化、風習では女性であるがために、非常にその立場は弱かったと思われます。 <br /> しかし聖書は、ツィポラの咄嗟(とっさ)の判断と行動力が、後にイエスラエルの民たちをエジプトから導き出すという偉大な働きをしたモーセの命を救った、という大変重要な出来事を伝えているのです。 <br /> モーセに比べ、妻のツィポラはその役割が小さく、重要でない、脇役のような存在では決してなかったのです。 <br /> イエス様が話された有名な譬え話の一つに、一匹の迷い出た羊の話があります。 <br /> ある人が100匹の羊を持っていて、もし一匹が迷い出ていなくなったら、その人は99匹を山に残しておいて、いなくなった一匹を見つかるまで探す、という話です。 <br /> その人とは神様のことです。神は“100匹のうち1匹ぐらい、大切ではない”とは決して思われないお方です。 <br /><br />そのようなお方が私たちの神です。私たちひとり一人の存在も、そして私たちが果たすことができる役割も、神の前には等しく尊く大切なものだと、私たちは信仰によって信じることができます。 <br /> 私たち誰もが、神の前にかけがえのない存在です。今の私たちの教会の群れの中でも、誰もが等しく重要な役割を(たとえ、人の目にはそうは見えなかったとしても)神から託されている、ということを私たちは覚えたいと願います。 <br /> ツィポラによって命を救われたモーセは、その次に荒れ野で、(神の山で)兄であるアロンに神の導きによって出会わされます。 <br /> 「話すのが苦手なあなたに代わって、兄弟アロンをあなたに私が遣わす。彼(アロン)に話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい」と神は既にモーセに言っておられました(4章15節) <br />そしてその通り、モーセはアロンに会うことができました。そして神の言葉の持つ力強さ、神の言葉は真実であり信頼できるのだ、ということをモーセは彼の実際の経験を通して、また家族など他者からの助けを通しても、段々と学んでいくことができたのでしょう。 <br /><br /> モーセはアロンと共に出かけて、イスラエルの人々の長老たちを全員集めます。そこで神の言われた通り、アロンが、主がモーセに語られた言葉をすべて語り、しるし(奇跡)も見せました。 <br /> そこで「民は信じた they believed」と31節に記されています。神の言葉がイスラエルの人々に伝えられ、そして彼らはその言葉を信じたのです。 <br /> 私たちは、ここまで出エジプト記の物語を読み進めてきて、モーセに伝えられた神の言葉がアロンの口によってイスラエルの人々に伝えられるまでに、どれほどの出来事があったのかを知っています。 <br /> モーセは、最初とにかく恐れて、躊躇して、神の言葉を人々に伝える役割を自分が担えるとは信じませんでした。 <br />しかし、忍耐強く、憐み深い神が、最後はモーセが神の言葉を信じ、また神が彼に与えて下さる他者の助けをも信じ、困難な使命を果たすために一歩を踏み出す勇気を、モーセに与えてくださったのです。 <br />神の言葉はそのように力があり、神の言葉は確かに真実です。神の言葉が私たちに力と勇気と希望を与え、日々を歩ませてくださいます。 <br />そのような神の言葉が私たちには豊かに与えられています。信仰の助け手、神の家族も私たちには与えられています。 <br />ですから私たちは、自分自身の弱さや疑い深さに囚われてしまうことなく、神の言葉の強さと豊かさに信頼し、信仰の日々を歩んでいきたいと願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-89090126328145160302024-03-03T06:44:00.003+09:002024-03-03T06:44:47.344+09:002024年3月3日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 エゼキエル書11章9節 <br />讃美 新生讃美歌232番 カルバリ山の十字架につきて <br />祈りの時 <br />主の祈り <br />讃美 新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書5章33~39節 <br />祈祷 <br />宣教 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 656番 きみの賜物と <br />頌栄 新生讃美歌 674番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /><br />今日の聖書の箇所で、人々がイエス様にある質問をします。 <br />「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」 <br />ヨハネとは“バプテスマのヨハネ”です。バプテスマのヨハネと言われた人は、イエス様に洗礼(バプテスマ)を授けた人でした。そのヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちは、度々断食をし、お祈りをしていました。 <br /><br />しかしイエス様の弟子たちは、同じ神を信じていながら、それほど断食をしているようには見えなくて、むしろいつも飲んだり食べたりしているという印象を、そのように質問した人たちは持っていたようです。 <br />今日の箇所の前の箇所には、レビという徴税人が、収税所に座っていたところ、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼びかけられて、イエス様の弟子になった話が書かれていました。 <br />レビはイエス様にすぐに従い、そして彼は自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。イエス様に呼んでいただき、弟子となったことがレビはとても嬉しかったからです。 <br />そしてその宴会には、他の徴税人たちや他の人々も大勢招かれていました。 <br />当時、徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国に協力する者として、仲間のユダヤ人たちからは裏切り者として疎まれ、憎まれる存在でした。徴税人は“罪人”と同様にさえ見なされていました。 <br /><br /> ファリサイ派や律法学者と言われた、聖書の戒律を厳密に(自分たちなりの)解釈をして、その通りの生き方をしようとしていた人たちが、罪人と言われた人たちと一緒に食事をしているイエス様を見て、次のように疑問を述べました。 <br /> 「なぜあなたたちは(イエス様と弟子たち)、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか」(ルカ5章30節) <br /> ファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、徴税人や罪人とは一緒に食事しない、一切交際しない、と決めていました。罪人と一緒に食事することなど、彼らには考えられなかったのです。 <br /> ですから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか?(そうしないことが、正しいのに)」と疑問を述べました。 <br /> イエス様は彼らに、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。 <br /> そう言ってイエス様は、“自分たちは正しい”と思い込んでいるファリサイ派や律法学者たちに「あなたたちも含めて、全ての人が神の癒しと赦しを必要としている罪人だ」ということを教えようとされたのです。 <br /><br /> 今日の箇所では、イエス様と弟子たちが徴税人や罪人とも一緒に食事をするし、断食もあまりしているようには見えないので、人々が心の中でイエス様たちのことを「この人たちは信仰的に劣った人たちだ」と思っていたのかもしれません。 <br /> 実際は、イエス様と弟子たちも断食をしていました。旧約の時代から、神を信じる人たちは、悲しみや苦しみ、また悔い改めの気持ちを表わすために、断食をしていました。 <br /> イエス様自身も断食をされたことが記されている箇所が福音書の中にあります。それは、イエス様が公の伝道活動を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時のことです。 <br /><br /> ルカ福音書4章1~2節(マタイ4章にも、それが書かれています)に次のように書かれています。 <br />1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 <br /><br /> イエス様は40日間の断食をして、敢えてご自分をとても苦しい状態に追い込んで、悪魔の誘惑に、神の言葉(神の力)によって対抗しようとされたのです。 <br /> イエス様は、ご自分の弟子たちにも、断食することを禁じたりなどはしておられませんでした。 <br /> ただ、イエス様は断食をすることに関して、次のような注意を弟子たちに与えました。 <br /><br />マタイ福音書6章16~18節 <br />16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 <br />17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 <br />18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 <br /><br /> 断食には本来、食べ物を絶ち空腹の状態になることで、苦しみや悲しみ、また悔い改めを表わし、また空腹を通して、霊的に神の力を一層頂く、神への信頼を高める、という目的があったはずです。 <br /> ところが、イエス様が指摘しているように、そのような霊的な目的から外れて、断食をすることが、“自分は敬虔で、信仰深いということを人に印象付けるためのパフォーマンス”になっていたのです。 <br /> イエス様が“偽善者hypocrites”と言ったのは、イエス様が生きた当時のごく一部の特殊な人たちだけでなく、実は私たち誰もがそのような偽善者になり得ることを、私たちは心に留めなくてはなりません。 <br /> 自分自身を誇りたい、人から認められたい、という欲のために、私たちは自分の信仰さえも利用してしまう者であることを、今日の箇所から私たちは学びたいと願います。 <br /> 断食も、祈りも(イエス様は、別の箇所では、祈りについても偽善者のように言葉を多くして人前で祈らないように、とおっしゃっています)、神との関係を深めるための行為であり、決して人に自分の信仰深さを見せるための手段ではありません。 <br /> イエス様は、断食や祈りの本来あるべき姿を弟子たちに教えました。ですからイエス様は断食自体を禁じたりは決してしていませんでした。 <br /><br /> しかしイエス様の弟子たちは、ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちほどには、頻繁に断食をしていないように見えたので、人々は「なぜあなたの弟子たちは断食しないで、飲んだり食べたりしているのですか」と聞いたのです。 <br />イエス様は次のようにお答えになりました。34~35節です。 <br /><br />34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。 <br />35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 <br /><br /> イエス様は譬えで答えておられます。花婿というのはイエス様ご自身のことです。 <br />救い主イエス・キリスト、神であるそのお方が自分たちと共にいてくださるという喜びを、人々が本当に知っているかどうか、とイエス様はそこで人々に問いかけたのです。 <br />私たちの罪を赦し、私たちと共に生きて下さる神がおられる(共に食事をしてくださる)、という喜びを前にしたら人はその時には、人は決して断食などはできず、むしろ盛大な宴会を開くものだ、ということです。 <br />つまり、ここで問われていることは、「あなたがたは断食をしない、なぜか」と言いながら他者の信仰姿勢に疑問を投げかけるような人自身に、「あなたには本当に信仰の喜びがありますか」とイエス様は問いかけたのです。 <br /><br />その問いかけは、まさに今の私たちひとり一人に向けられています。時には断食もして、神からの霊的な養いを頂くことも意味があることです。 <br />しかし、信仰の基盤として“神が共にいてくださる”、“イエス・キリストがこの私のために死んでくださったほどに、わたしは神に愛された”という喜びが本当にありますか、という問いかけを、私たちひとり一人が今一度真剣に受けとめなくてはなりません。 <br />神のその呼びかけに、キリストにある最高の喜びを、私たちは今一度覚え、心からの感謝と喜びを神に献げようではありませんか。 <br /> しかし、“やがて花婿が奪い取られる時”、すなわち主イエスが私たちの罪を背負って、私たちの代わりとなって十字架にかけられて死ぬ時がきます。 <br />その時は、キリストの弟子たちは、心からの悔い改めである断食をも献げるでしょう、とイエス様はおっしゃいました。 <br /><br /> 今私たちは、受難節(レント)の期間を過ごしています。主イエス・キリストが十字架への道を歩まれたその苦難を覚えて(実際に断食をするかどうかは別にして)、私たちは感謝と悔い改め(心を神に向ける)の時を過ごしていきましょう。 <br /> 36節以降で、イエス様はぶどう酒と革袋のたとえ話をしています。「誰も新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない」 <br /> 新しい布は、洗った時に、生地が縮みます。ですから、新しい服から切り取った布で古い服に継ぎを当てると、新しい服も無駄になりますし、洗った時にその布が古い服を引き裂いて、その古い服も駄目にしてしまうのです。 <br />また新しいぶどう酒は発酵する時の勢いで古い革袋を引き裂いてしまう、という例もイエス様は挙げます。(革袋にぶどう酒を入れるという習慣がない私たちには、感覚的には分かりにくい譬えですね) <br /><br /> この例えの意味は、イエス様は、全く新しい生き方と命を人にもたらすお方であり、イエス・キリストを信じる者は、イエス様に出会う前の古い自分のままではいられないと言う意味です。 <br />古い生活スタイルを維持したまま、キリストの命を頂くことはできない、ということです。 <br /> イエス・キリストを自分の中に受け入れると、自分の中心が自分ではなくなります。 <br />自分の中心が自分であるならば、私たちは常に自分の正しさや自分の有能さを人に誇ることで、自分の価値を見いだそうとするでしょう。 <br /> ですから、祈りや断食という信仰の行為さえも、自分を誇り自分を人に見せびらかす手段にしようとしまうのです。 <br /><br /> しかし、イエス・キリストを自分の心の中に受け入れ、キリストを本当に自分の中心とするならば、私たちはもう自分自身を誇ろうとする根拠を失うのです。そんなことをする必要がなくなるからです。 <br /> キリストこそが崇められればよいのですから、キリストを信じる信仰者は、自分の行いや自分の能力を誇示することで、自分の存在価値を見いだそうとは決してしません。 <br /> そうなれば、祈りも断食も、また私たちがこうして捧げている礼拝も、心からの喜びと、感謝の行いとなるはずです。その喜びは信仰の光となり、きっと私たちの周りをも照らすものとなるでしょう。 <br /> 私たちがキリストにある新しい命を喜んでいただいているのならば、私たちの献げる礼拝も感謝と喜びが溢れた礼拝となるはずです。そしてそのような礼拝には、自然と人々が引き寄せられて来るはずなのです。 <br /> 私たちは、イエス・キリストに出会い、キリストを信じ、キリストに心の中に住んでいただくことで、もはや古い自分のままでいることはできません。 <br /> むしろ、主イエス・キリストによって私たちの古い“自分”という“古い革袋”は、打ち破られたのです。 <br />キリストを中心とした生き方、キリストに導いて頂く新しい命の道を、私たちは歩んでいこうではありませんか。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-55239484471819187452024-02-24T11:18:00.001+09:002024-02-24T11:18:02.555+09:002024年2月25日主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 ゼファニア書3章17節 <br />讃美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を <br />主の祈り <br />主の晩餐 <br />献金 <br />聖句 コリントの信徒への手紙二1章23~2章11節 <br />祈祷 <br />宣教 「わたしの喜びはあなたがたすべての喜び」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 437番 歌いつつ歩まん <br />頌栄 新生讃美歌 673番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /><br /> 新約聖書の中の『コリントの信徒への手紙二』の一箇所から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いていきましょう。 <br />伝道者のパウロがギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちへ向けて書いた手紙が、クリスチャンにとっての信仰の書である聖書の一部として、今も私たちに伝えられています。 <br />パウロ、また他の人が書いた多くの手紙が、新約聖書の中には収められています。なぜ、一見すると大変個人的な事柄をも含む手紙が、聖書として残されたのでしょうか? <br />実際にはパウロたちが書いた手紙が、神から多くの人へ向けた、言わば“神の手紙”としての聖書として残されたのはなぜでしょうか? <br />聖書はこの箇所以外にも、実際には多くの人たち(神を信じる信仰者たち)の手によって書かれました。 <br /><br />彼らのうちの何人かは(あるいは彼らのうちのほとんどは)、自分が後に『聖書』として、キリスト者の信仰の書として、彼らが書いた文書が残るとは想像できていなかったかもしれません。 <br />しかし、神は、信仰者たちの手を通して、神の言葉が聖書として記録されることを意図されました。 <br />時には、その記録やあるいは手紙が、今日の箇所に書かれているような大変個人的と言いますか、人間的な内容である場合もありました。 <br />それは、神が、当時の信仰者たちの実際の生活、彼らが直面した問題や悩み、苦しみのそのただ中で働いていてくださった(介入してくださった)、ということを表わします。 <br />人間たちが生きる現場の只中で、神がどのように彼ら彼女らに関わってくださったのか、神がひとり一人の命にどのように関わってくださったのか、が実際には人によって書かれた文書から成る「聖書」となって、今の私たちにまで伝えられているのです。 <br />コリント教会には色々な問題がありました。神は「そんな問題は私には関係ない。人間同士の間でそれらは勝手に解決しなさい」とはおっしゃらなかったのです。 <br />聖書によって伝えられる私たちの神様は、私たちの生活のただ中に、私たちと共にいてくださいます。神は私たちが直面する色々な問題や悩み、苦しみに寄り添ってくださっています。 <br /><br />ですから私たちは、どんなことであっても、「神様は大変崇高で偉大なお方だから、こんな小さな私の問題などには関心をお持ちではない」とは思わず、何でも神の前に正直に申し上げてよいのです。 <br />「私の生活のすべてにおいて、主なる神が導いてくださり、願わくは神の御栄光が私の生き方、私が生きるその現場で表されますように」と、キリスト者は願い、祈ることができます。 <br /><br />今日の箇所を読むと、パウロとコリント教会の信徒たちとの間に、何らかの問題と緊張関係があったことが分かります。 <br /> 今日の箇所の背景として、パウロは出来ればコリント教会へ行きたいと願いつつ、ある理由があってその訪問を延期していました。 <br /> 詳しいことは分かりませんが、今日の箇所ではパウロのコリント教会訪問延期の理由がある程度明かされています。 <br /> 今日の箇所の最初1章23節に次のように書かれています。 <br /><br />23神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。 <br /><br /> パウロは、彼がコリントへ戻ることを延期しているのは、彼自身のためではなく、コリント教会の人たちのためなのだ、「神を証人に立てて、命をかけて」主張しています。 <br /> 「あなたたちのことを思って、あなたたちのことを愛しているから」わたしは、今はコリントへ行くことを断念しているのだ、と言うのです。 <br /> 「わたしは神を証人に立てる」とは、ずいぶん大胆なことをパウロは言っているように見えます。 <br /> しかし、これは「わたしが正しい事は、必ず神が証明してくださる」というよりも、むしろ「もし、私が間違っているのなら、神がその間違いを正して下さるように」という神の前での謙遜な姿勢だと私には思われます。 <br /><br /> 次の24節には <br />24わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。 <br /><br /> コリント教会はパウロの伝道によって作られた教会です。いわばコリント教会の創始者と言ってもよいパウロですが、そんな彼であっても、教会の信徒ひとり一人の信仰を支配することは決してない、というのです。 <br /> 教会の創始者であり、指導的立場にあったパウロも、教会の信徒たちひとり一人と、神の前での立場は全く変わらず、平等であるということです。 <br /> だから彼は、「(わたしたちは)あなたがたの喜びのために協力する者ですと言っているのです。 <br /> そして「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」と言って、キリストにある信仰に立っているコリント教会の信徒ひとり一人の信仰をパウロは認めています。 <br /> 現在の教会の私たちも、お互いの信仰を支配し合うような関係でなく(自分の信仰や信念を他者に押し付けるのではなく)、互いの喜びのために協力し、仕え合う関係でありたいと願います。 <br /> そして「キリストの信仰に基づいてしっかり立っている」他者の信仰を、私たちは認め、互いに尊重し合いたいと願います。 <br /> イエス様は、人々の病をお癒しになった時、よく「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。 <br /><br /> 例えばマルコ福音書5章の中で書かれている、十二年間出血が止まらない病で苦しんでいた女の人をイエス様は癒されました。 <br /> 群衆の中、その女の人はイエス様の背後にそっと近づいて、イエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れれば癒していただける」とその女の人はかたく信じていたからでした。 <br /> その女の人は、ただちに病が癒されました。イエス様はその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。 <br /> 癒したのはイエス様です。イエス様は、「わたしがあなたを癒した。私があなたを救った」と言ってもよかったのです。しかしイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言って、人間の側の信仰、神を求める気持ちを、認めてくださったのです。<br /> イエス様は、(そして今日の箇所のパウロの言葉も)、私たちがお互いの信仰を認め合い、信仰によって立っている兄弟姉妹同士が互いを尊重し合うことを、教えてくださったのです。 <br /><br /> 少し長いのですが、2章1~4節までをお読みします。 <br />1そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。 <br />3あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。 4わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。 <br /><br /> 詳しいことは推測するしかないのですが、パウロは聖書に残されているのとはまた別の手紙をコリント教会に向けて書いて送っていたようです。 <br /> 4節に、パウロはその手紙を「涙ながらに書いた」と書かれています。それはパウロがコリントの人たちに抱いている深い愛を知ってほしい、と彼が願っていたからでした。 <br /> パウロはきっと、できるなら今すぐにでもコリントへ行って、教会の人たちと直接話し合って、誤解やその他いろいろな問題を解決したい、と願っていたかもしれません。 <br /> しかし彼には“今は、まだ行くべき時ではない”という思いが神によって与えられていました。 <br /> 私たちも、願うことが中々思うように進まないことがあるかもしれません。ひょっとしたらそれは神が“今はまだその時ではない”と、私たちの忍耐を促しておられるからかもしれません。 <br /> 自分自身の思いや願いよりも、祈りと御言葉によって、また同じ教会の兄弟姉妹同士の祈りと対話によって、私たちは何をするにも、最善の時と方法を求めていきたいと願います。 <br /><br /> 2章5節から11節までには、コリント教会の中で何らかの違反を犯した人に関することが描かれています。 <br /> 6節によれば、その人は既に何らかの罰を受けていたようです。パウロは7節~8節で「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」と言っています。 <br /> ある人が誰かに傷つけられた時、誰かから被害を受けた時、たとえキリスト者であっても、また教会であっても、安易に”人の罪を赦しましょう”と言うことはできないと私は思います。 <br /> 傷つけられた人の気持ちが癒され、その人自身が赦しへと歩み出すことを、他の人が強制することはできないからです。 <br /> では私たちは今日の箇所、また聖書の他の箇所でも多く語られる“赦し”、また“赦しなさい”と私たちに命じられていることをどのように考えればよいのでしょうか。 <br /><br /> 今日の箇所、7節で「その人を赦して、力づけなさい」は、「あなたたち」(複数形)と言って、教会に向けて語られています。”その人を赦して、力づけなさい”は、教会全体へ向けられた勧めということです。 <br /> 私たちは、キリストによって罪赦された者の集まりである教会として、また教会の一員として、共にこの”赦し”という行為をも、神から委ねられているのです。 <br /> こうすれば人を赦せます、という簡単な答えは聖書を捜してもないと私は思います。 <br />しかし私たちはまず、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦された、という神からの大きな赦しを頂いていることを改めて思い起こしましょう。 <br />すると、キリストから私たちが頂いた赦しを、他者に伝えるということが、私たちにはできるのではないでしょうか。 <br /><br /> 今日の10節の言葉に、私たちの赦しについての大きな示唆(ヒント)があるように思われます。10節をお読みします。 <br />10あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。 <br /><br />「(わたしは)キリストの前であなたがたのために赦し」と、ここでパウロは言います。 <br /> これは“キリストが赦した”、そして“キリストが、私を通して、赦した”ということであると思います。 <br /> 愛と赦し、それらは神の御子イエス・キリストを通して私たちに豊かに与えられました。キリストの愛と赦しを与えられた私たちは、キリストの教会として、その愛と赦しをも他者へと分け与えていくことを、神から委ねられているのです。 <br /> 愛も赦しも、その源はイエス・キリストです。キリストに愛され、赦された喜びが教会全体で分かち合われます。 <br /> 私たちが共にキリストの愛と赦しに与る時、そんな私たちを通して、キリストの愛と赦しが私たち以外への他者へも広がることを願いつつ、信仰の生活を、一歩一歩私たちは歩んでいきたいと願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-77783811463136924802024-02-17T15:12:00.002+09:002024-02-17T15:12:58.146+09:002024年2月18日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 レビ記19章2節 <br />讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を <br />主の祈り <br />献金 <br />証し <br />聖句 ルカによる福音書5章27~32節 <br />祈祷 <br />宣教 「罪人を招いて悔い改めさせる」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 321番 あだに世をば過ごし <br />頌栄 新生讃美歌 673番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /><br />「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。 <br /> ルカ福音書5章の初めには、漁をしていた(魚を取る仕事をしていた)シモン(ペトロ)、シモンの仲間であったヤコブとヨハネがイエス様に呼びかけられて、彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と書かれています(ルカ5章11節) <br /> 今日の箇所でも、ある一人の人(レビという名前の徴税人=税金を集める仕事をしていた人)が、イエス様に「わたしに従いなさい」と言われて、このレビもシモンたちと同様に「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と書かれています(5章27節) <br />今日の箇所から、主イエス・キリストの神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。 <br /><br />イエス様は、レビという名前の徴税人が収税所に座っているのを見ました。この時、イエス様は、このレビという人をどのようにご覧になった(見た)のでしょうか。 <br />今日の箇所と同じ話がマタイ福音書9章にも記されています。マタイ福音書では、この徴税人の名前は“マタイMatthew”となっていて、マタイ福音書を書いたマタイと同じ名前であったことになっています。 <br />彼の名前が、レビであったのか、マタイであったのか、あるいは二つの名前が記録されていますが、その人は一人の同一人物であったのか、正確なことは私たちには分かりません。 <br />それらのことを知るために十分な情報と記録を、聖書は残していないからです。 <br /><br />しかし、当時“徴税人”と言われた人たちが、どのような人であったかについては、次のようなことが知られています。私たちの教会の聖書訳である新共同訳聖書の巻末の「用語解説」の「徴税人」の箇所に次のように書かれています。 <br />「徴税人(ちょうぜいにん):ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。 <br />異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされた」 <br /><br />このような情報を元に、私たちも、「レビ、あるいはマタイもそのような人だったのだな」と想像します。徴税人は、ユダヤ人から見れば外国人であるローマの支配者のために働く裏切り者です。 <br />レビも、正当な割り当て以上に、人々から(同胞のユダヤ人たちから)税金を取り立てて、私腹をこやしていた人、と私たちも想像するでしょう。 <br />しかし、本当にレビはそのような徴税人だったのでしょうか。“当時の徴税人はこういう人たちだった”という記録があるのだから、レビもそのような人だった、と考えるのは自然でしょう。 <br />しかし、レビが本当にそのような人であったのかどうか正確な事実は分かりません。ひょっとしたら、他の多くの徴税人は不当な利益を得ている中、このレビは、正当な割り当て分しか人々から徴収していない“真面目な”徴税人であったかもしれません。 <br />私がお伝えしたいことは、私たちはその人がどのような人であるのかを考え、評価する時に、非常に表面的(一面的)な部分でしか、判断できないことが多いのではないか、ということです。 <br />“一般にはこう考えられている”とか、“なんとなく、そういう噂が立っている”という理由や、一つや二つの出来事や印象で、私たちは簡単に人を判断してしまうことが(裁いてしまうことさえ)あるのではないでしょうか。 <br /><br />しかし、人間は複雑です。一人の人は色々な側面を持っています。“この人はこういう人だ”と一概に決めつけてしまうことが、いかに私たちの間を分断してしまうことに繋がりかねないか、ということを私たちは知っていると思います。 <br /> 私たち人間は、その限られた能力(偏見などがあわさって)人を正しく、そのままに見ること、そしてその人を受け入れることができないことがあります。 <br /> しかし神はそうではありません。今日の箇所で、神の子イエス・キリストが、一人で収税所に座っていたレビを“見た”というのは、「神なるイエス・キリストは、レビという人をしっかりとご覧になり、神はレビがどのような人であったのかを全て知っておられた」ということです。 <br /> 神は私たちの事を全て知っていてくださっています。神は私たち人とは違い、人の内面、心の中まですべてを御存じです。 <br /><br /> 旧約聖書の『サムエル記上』16章で、サウルという王様が神に従うことが出来ず、王位から退けられたので、サムエルと言う預言者が次の王を捜そうとする場面があります。 <br /> 主なる神はサムエルに、エッサイという人を招き、彼の息子たちの中から次の王を見いだすようにと導かれました。 <br /> サムエルは最初、エッサイの息子たちの中で容姿のよい者を見て、“彼こそ王になる者だ”と思いました。 <br /> しかし、主はそこでサムエルにこのように告げました。 <br /> 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16章7節) <br /><br /> そのような神の視点で、イエス様は徴税人レビをご覧になりました。イエス様は今も、私たちのことも、人が見るようにではなく、神の視点で見てくださっています。 <br /> ですから私たちは安心していてよいのです。私たちがどのような状態であろうと、人からどのように思われていようと(誤解されていようと、あるいは過剰評価されていても)、神は私たちのことを正確に全てご存じであるからです。 <br /> イエス様から見て、レビはどのような人だったのでしょうか。レビが実際にどのような徴税人であったのか、それは最初にも申し上げましたように、はっきりとは分かりません。 <br /> “この人は、他の多くの徴税人とは違い、真面目で公正な徴税人であったかもしれない”と私は申し上げました。 <br /><br /> しかし、事実は逆で、このレビと言う人、他の徴税人たちとは比べ物にならないくらいの悪徳徴税人だった可能性もあるのです! <br /> イエス様は、レビに何と言ったでしょうか。イエス様はレビに呼びかけられました。 <br />「わたしに従いなさい」。 <br /> 「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってわたしの弟子となりなさい」とイエス様はレビに呼びかけたのです。 <br /> それは、レビが良い人だったから(真面目な徴税人だったから)ではありません。それはまた、レビが悪い人(悪徳徴税人だったから)ではありません。 <br /><br /> レビがどのような人であったのかは関係なく、イエス様は彼に“わたしに従いなさい”と呼びかけたのです。レビがどのような人であったかには関係なく、レビはイエス様にとって、“わたしに従いなさい”と呼びかける、神の愛の対象であったのです。 <br />それはつまり、私たち人は誰でも、イエス・キリストに従って生きるように召されている(呼ばれている)ということです。神の愛を受けて、神に従い生きるように私たち誰もが呼ばれているのです。 <br /> そういう意味で、私たちは誰もが、レビであり、マタイです。イエス様は、私たちひとり一人に、“わたしに従いなさい”といつも呼びかけてくださっているのです。 <br /> イエス様の呼びかけを私たちが聞いたのならば、私たちはそのお方の呼びかけに、従っていこうではありませんか。 <br /><br /> イエス様から「わたしに従いなさい」と言われたレビは、何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。 <br /> 彼はとても喜んでいました。彼が喜んでいたということは、レビが自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催したこと、そこへ徴税人やほかの人々が沢山招かれていたことからも分かります。 <br /> 幸せや嬉しいことは、そのように分かち合われるものなのです。”幸せは分かち合いたい”と私たちは思います。そのような心の思いも、神から私たちに与えられた賜物です。 <br /> ところがその状況を喜んでいない人たち、徴税人たちと一緒にイエス様とイエス様の弟子たちも一緒に宴会の席についていることに疑問と不平を言う人たちがいました。 <br /> 彼らはファリサイ派や律法学者という、聖書の教えを厳格に解釈し、律法通りに“正しく”生きようとしていた人たちでした。(ここでも、最初に申し上げましたように、過剰な一般化を避けなくてはならないと思いますが) <br /><br /> ここでファリサイ派や律法学者と言われた人たちは、“正しい生き方”をしようと努力していました。そのためには、徴税人のような罪人とは交わらない、ことに彼らは決めていました。 <br /> 彼らはイエス様の弟子たちにこう言いました。 <br /> 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」 <br /> それに対しイエス様が次のようにお応えになりました。(5章31~32節) <br />「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 <br /> このイエス様のお言葉は、それを聞いたファリサイ派と律法学者たちには、どのように聞こえたのでしょうか。 <br /> 彼らにはその意味が分からなかったかもしれません。私たち(クリスチャン)も、このイエス様のお言葉の重みを、本当には分かっていないかもしれません。 <br /> 神から離れて、自己中心に生きていた私の罪を赦してくださり、この私と共に食事をしてくださる(共に食事をする、とは本当の意味で仲間になる、生活を共にする、という意味です)イエス・キリストが、私たちと共におられるのです。 <br /> 神の前に正しく生きている人には、イエス・キリストの救いは必要ありません。しかし、そのような人が果たしているのでしょうか。 <br /> 神の前に自分だけで正しく生きている人は一人もいない、というのが、聖書信仰、キリスト信仰の根幹です。 <br />私たち誰もがイエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞き、キリストを信じて従っていかなくてはならないのです。 <br /><br />キリストのその呼びかけに従って生きる時、神と共に生きるという真の喜びと平安が与えられるのです。 <br /> イエス・キリストが十字架につけられて死に、そして復活した後、復活のイエス・キリストに出会い、キリストの福音の伝道者へと変えられたパウロは次のように言いました。 <br />「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1章15節) <br /><br /> 「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~この告白は、キリスト者としての信仰の一つの大きな到達点であると言ってよいと私は信じます。 <br /> 「わたしはその罪人の中でも最たる者です」~これは自分と他者を比較して生まれた言葉ではなく、キリストを一心に見つめ、キリストの愛と赦しが本当に分かった時に、信仰者はそのようにしか告白することができない言葉であると思います。 <br /> 「わたしに従いなさい」と言うイエス様の呼びかけに、私たちは日々従ってまいりましょう。そして私たちと共に食事をし、共に生きて下さるイエス様の恵みを、私たちは心から喜ぼうではありませんか。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-14955860836829874212024-02-10T14:07:00.001+09:002024-02-10T14:07:07.369+09:002024年2月11日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 コリントの信徒への手紙二 12章9節 <br />讃美 新生讃美歌 215番 暗いゲッセマネ <br />主の祈り <br />献金 <br />転入の証し <br />聖句 出エジプト記4章1~17節 <br />祈祷 <br />宣教 [神が用意なさるしるし] <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる <br />頌栄 新生讃美歌 673番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br />旧約聖書の『出エジプト記』の中から、今日私たちは神のメッセージを共に聞いてまいります。 <br /> 主なる神は、モーセという人を選び、モーセを指導者として、イスラエルの民たちを彼らが奴隷生活を送っていたエジプトから導きだそうとされました。 <br /> 今日の聖書箇所でモーセは、神に向かって「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言っています。 <br />“彼ら”とは、エジプト王ファラオをはじめとするエジプト人たちのことです。この前に神はモーセに「あなたがエジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを出ることを、彼に申し出なさい」とおっしゃったのです。 <br /><br />神が直接モーセに現れ、モーセに語り、「わたしがあなたと共にいる」と約束して、はげましてくださっているのにも関わらず、それでもなおモーセは躊躇いたしました。 <br /> モーセは何をそこまで恐れているのでしょうか。確かに、エジプトの王様とは大きな(絶対的な)権力者です。 <br /> それほど力を持った人の前に出ること、まして「イスラエルの民たちをエジプトから脱出させてください」と言って、その王にお願いすることは、大変な勇気を要することだったでしょう。 <br /> しかし、神がモーセと共におられたのです。モーセが神の偉大さと強さに目を留めることができたのならば、彼はここまで恐れ躊躇して神の命令を拒むことはなかったはずです。 <br /><br />にも関わらず、モーセは何をそこまで恐れていたのでしょうか。 <br /> モーセが恐れていたことの一つに、“変化”というものがあったと思われます。考えて見ますと、モーセはそれまで40年間羊飼いとして生活していました。 <br /><br /> モーセが望んでそのような生活をしたわけではありません。不思議な運命によって、ヘブライ人の家に生まれたモーセは、エジプトの王女に引き取られてエジプトの王宮で育つことになりました。 <br /> しかしモーセが40歳の時、彼は同胞である一人のイスラエル人を助けるつもりで、その人を虐げていたエジプト人を打ち殺してしまいました。 <br /> そのため、エジプト王に命を狙われ、モーセはエジプトを逃れてミディアン地方で結婚し、子供ももうけて、彼はそこで羊飼いとしての生活を送るようになったのです。 <br /> ミディアン地方でのモーセの40年間の生活がどのようなものであったか、詳しいことは聖書には書かれていません。 <br /><br /> モーセのミディアン地方での羊飼いとして(また、夫、父親として)送っていた40年間を想像すると、苦しいこともあったでしょうか、きっと幸せなことも沢山あったでしょう。 <br /> モーセにとっては、ミディアン地方での羊飼いとしての生活こそが、彼にとっての安定であり幸福となっていた、と私たちは想像してもよいと思います。 <br /> そんなモーセに対する神の命令は、彼(モーセ)の慣れ親しんだ生活をすべて捨てることを要求するものでした。それはモーセの生き方自体に、大きな“変化”を求めるものでした。 <br /> やはり私たちは安定した、慣れ親しんだ状態に留まるほうが安心です。色々な意味で、“変ること”にはエネルギーを要します。 <br /><br /> しかし私たちは、もし神がそう望まれるのならば、そして神が導いてくださるのならば、慣れ親しんだ安定したものよりも、変化を恐れずに受け入れることができるものでありたいと願います。 <br /><br /> そしてモーセがそれほど変化を恐れたのは、慣れ親しんだ生活から離れるということ以外に、もう一つの要因もあったと思われます。 <br /> それはモーセの年齢です。モーセはエジプトの王宮で育てられ、40歳の時に、エジプトを逃れてミディアン地方へ行き、そこで40年間羊飼いとしての生活を送りました。 <br />ということは、今日の聖書箇所で、神がモーセに現れて、「エジプト王のところへ行き、イスラエルの民たちを率いてエジプトを離れる、と彼に言いなさい」と命令された時、モーセは80歳だったことになります。 <br /><br />「この年齢になって、これほど多くのイスラエルの民の指導者となるなど私には無理です。エジプト王のところへ行って、王を説得することなど私には無理です」とモーセが思っても無理はないと思います。 <br />しかし、高齢であっても、神が用いて下さるのであれば、それは弱点というよりも、むしろ強みになるのです。 <br />今日の箇所で、躊躇するモーセに神が「あなたが手に持っているものは何か」と尋ねます。モーセが手に持っていたものは杖でした。 <br />モーセが杖を持っていたというのは、モーセが高齢であることを表わす、一つの象徴でもあると思います。 <br />神は、モーセにその杖を地面に投げるようにと命じました。すると杖は蛇に変わり、モーセは驚いて飛びのきます。 <br />神がモーセに、手を伸ばして蛇(杖から変わった)の尾をつかめと命じて、モーセがその通りにすると、蛇は元通りの杖にかわりました。 <br /><br />神は、「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」と言われました(5節)。 <br />神の力によって杖が蛇に変わる、それが一つのしるしとなって、“神がモーセを遣わされた”ことが明らかになる、と言うのです。 <br />ここで、神がモーセに見せた最初の“しるし”が、モーセが持っていた杖を用いてなされたことは、意味深いことだと思います。 <br />老いの象徴である杖さえも、つまりモーセの高年齢も、神に用いられるのならば、それは大きく用いられるということです。 <br />モーセにとっては高齢であることが、神の命令に従うことに躊躇する理由の一つであったと思いますが、私たちは、私たちが弱点だと思うことさえも、神にそのまま差し出してよいのです。 <br /><br />私たちが自分の弱ささえも、神の御前に差し出すのならば、私たちの思いを遥かに超えて、神は私たちの弱さをも大きく用いて下さることを信じて、信仰生活を歩みたいと願います。 <br /> 神はその次に、モーセの手を彼の懐にいれさせ、その手を重い皮膚病にかからせ、モーセがもう一度手をふところに入れて戻すと、手は元通りになるというしるしもお見せになりました。 <br /> 神はまた、9節で、それら二つのしるしをもエジプト人たちが信じない場合には、さらにナイル川の水が血に変わるというしるしも用意してくださっていました。 <br /> 神は、私たちに必要なものを全て、用意してくださっているのです。必要なものを必要な時に備え、与えてくださる神に信頼して私たちは信仰生活を歩んでいきたいと願います。 <br /><br /> しかしモーセは、それでも、それほど多くのしるしを主なる神が用意してくださっていたにも関わらず、まだ神に従うことができずに、神の召しを拒みます。 <br />10節のモーセの言葉をお読みします。 <br /><br />10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」 <br /><br /> モーセは、「わたしはもともと話をするのが得意ではありません。話すのが苦手なんです。あなたはエジプト王のもとへ行って話をしろ、と私に命じますが、それでも依然として私は口下手です」と言ったのです。 <br /> ここには、自分自身の能力の限界を自分で定めてしまい、“これは私には出来ません”と言って、神が用いようとしてくださっている自分自身を過小評価してしまう、私たちの姿が表されていると私は思います。 <br /><br /> そこで主はモーセに次のように言われました。 <br />11主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。 <br />12さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」 <br /><br />私たちには、私たちが思う以上のことが、主の助けと主の導きによって出来るのです。 <br />何をするべきか、何を話せばよいのか、主ご自身が語るべきことを私たちに教えて下さると、ここで約束してくださっているのです。 <br /> モーセが神の命令に従うことを、これほどまでに躊躇する本当の理由は、それはモーセが自分自身を信じられなかったからだと私は思います。 <br /><br /> 自分はもう若なくない、自分にはそんな能力はない、等と思って、モーセは自分自身が信じられなかったのです。 <br /> ここで大切なことは、“自分自身が信じられない”状態で留まるのではなく、私たちは自分よりも神を信じるということです。自分自身よりも、この私たちを用いて下さる神を私たちは信じることが大切なのです。 <br /> 私たちが自分自身や自分の能力しか見ないで、自分だけを信じようとする限り、そこには結局限界と失望しかありません。 <br /> しかし、私たちが自分を見るのではなく、この私を用いてくださる神の偉大さを認め、神に依り頼む時、私たちには私たちの想像を超えた、大きな事が(神の力によって)可能になるのです。 <br /><br /> イエス様が次のように言っておられます。ヨハネによる福音書14章12節です。 <br /> はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 <br /><br /> 主なる神、主イエス・キリストを信じる時、私たちはイエス様のなさったような偉大なお働きをすることができるようになるのです。 <br /> それほどの力を私たちに与えてくださる神を信じ、神に頼りつつ、私たちは信仰生活を歩んでいくことができるのです。 <br /><br /> 実は今日の箇所では、それでもまだモーセは神に逆らい「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言いました(13節) <br /> これにはさずがの神も怒りを発したと、14節に書かれています。しかし、神は限りない愛のお方です。 <br />モーセにそのように怒りながらも、神のおっしゃったことは、「話すことが不得意なあなたのために、雄弁なあなたの兄弟アロンをわたしはあなたに遣わす」でした。 <br />神は、モーセの兄弟アロンを、彼に代わって話すパートナーとして、お遣わしになることを約束してくださいました。 <br />モーセは神の代わりとなり、神の言葉をアロンに託し、そしてその言葉を託されたアロンが人々にその言葉を話す、というように、彼らは互いに助け合う信仰の兄弟(仲間)として、神によってそこで引き合わされたのです。 <br />わたしたちも、信仰の道を一人で歩むのではありません。伝道活動も、私たちは決してひとりで行うのではありません。 <br />それぞれが神から与えられた賜物を最大限に活かしあい、お互いに尊重し合いながら、互いに支え補い合って、私たちは信仰生活を歩み、神の国を広める伝道活動も行うのです。 <br /><br />教会は、そのような信仰の兄弟、信仰の家族の集まりです。私たちは、まさに神がアロンをモーセに引き合わせてくださったように、助け合うべき信仰の家族として、同じ教会の兄弟姉妹が与えられています。 <br />神によって備えられたこの信仰の家族の一員として、お互いを私たちは尊びつつ、私たちは信仰生活をこれからも共に歩みたいと願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-56986857197101082402024-02-03T18:18:00.001+09:002024-02-03T18:18:03.100+09:002024年2月4日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 詩編32篇5節 <br />讃美 新生讃美歌 94番 われらは主の民 <br />祈りの時 <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 ルカ福音書5章17~26節 <br />祈祷 <br />宣教 「イエスはその人たちの信仰を見た」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 296番 十字架の主イエスを仰ぎ見れば <br />頌栄 新生讃美歌 673番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /><br /> 聖書の中のお話には、色々な人間が登場します。人間は本当に様々で、人それぞれ皆違います。<br /> そのように違った人々が、色々な出来事を通して、神様の恵みと教えを受けて、変わっていく様子が聖書には描かれています。 <br /> ある人達は神様の前に、自分の罪を自覚して悔い改めます。ある人達は、真の神様に出会ったことに感動し、新たな信仰を頂きます。 <br /> しかしある人達は、神を信じることをせず、かたくなな自分自身という殻の中に留まった人たちも登場します。 <br /><br /> 今日の聖書箇所(ルカ5章17~26節)の話の中にも、色々な人たちが登場します。まず、イエス様です。イエス様は、人々に神の国について聖書を通して教えておられました。 <br /> そしてファリサイ派と言われた人々と律法の教師たちがそこに(イエス様がおられたところに)座っていた、と書かれています。 <br /> ファリサイ派、そして律法の教師と言われた人たちは、当時の聖書(旧約聖書)の内容をよく学び、研究し、聖書に書かれたその戒めに厳格に従って生活をしていた人たちでした。 <br /> イエス様はそこで、神の国について教えながら、人々の病気も癒しておられました。ですから、どれぐらいの病人がそこにいたのかは、この箇所には書かれていませんが、病気を抱えた多くの人たちもそこにいたと考えられます。 <br /> そして一人の中風を患って床の上に寝たきりだった人がいました。そしてその人をイエス様のところへ連れて来た人たちがいました。(この箇所と同じ話が書かれたマルコ福音書の2章では、“4人の人”がその中風の人をイエス様のところへ連れて来たと書かれています) <br /><br /> 中風とは、脳卒中のような病気の後遺症で、体が麻痺して動かなくなる病気であったと言われます。 <br /> 中風を患ったこの人の、おそらく友人か家族だった人たちが、その人をイエス様のところへ連れて行こうとして、必死だったことが分かります。 <br />その人たちは何と、家の中にあまりに人々が沢山いて、イエス様のいる家の中にその人を運び入れることができなかったので、屋根に上って瓦をはがしたというのです。 <br />そして人々の真ん中にいたイエス様の前に、その病人を上から床ごと吊り降ろしました。聖書の話に馴染みがある方は、この箇所を何度も読まれたことがあると私は思います。 <br />中風の人を連れて来たこの人たちの行動は、あまりに衝撃的です。いくら必死に、その人をイエス様のところへ連れて行きたかったと言っても、屋根に上って瓦をはがすとは、無茶苦茶です。 <br /><br />もし今私たちの教会に、人が一杯で入口から普通に入ることが出来なかったので、屋根に上って天井を壊す人たちがいたら、私たちはどうするでしょうか。 <br />おそらくそうなる前に、その人たちを私たちは必死に止めるでしょう。 <br /> イエス様は、そんな彼らを見て、どう思われた(どのように言った)のでしょうか。 <br />「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」と20節に書かれています。 <br />私たちの常識では考えられない行動をその人たちはしています。しかし、イエス様の視点で見ると、その人たちのその行為は“信仰的”であったと言うのです。 <br />それは、その人の病が根本から癒されるには、イエス様のお力がどうしても必要であり、しかも“今、この時”その中風を患った人はイエス様にお会いしなくてはならない、という確信がその人たちに与えられていたということです。 <br /><br />そうでなければ、「こんなに人が多いのだら、今日は諦めて、また次の機会に出直そう」と思うことも、その人たちはできたはずです。 <br />しかし、なぜだか分からないけれども、“今、この時を逃したならば、この人が救われる時はもうこないのではないか”という思いが、神様からその人たちに与えられていたのではないでしょうか。 <br /> この人たちも、屋根に上って瓦をはがすということには当然躊躇したと私は思うのです。しかし、はがした瓦は元に戻すことができる。壊れてしまったところは、あとで直せばよい。 <br /> 人たちから怒られたら、必死に謝ればよい(?)。しかし、イエス様に出会い、その教えを聞き、癒しと救いを頂くタイミングは今しかない、そんな直観がこの人たちに与えられていたのではないでしょうか。 <br /><br /> 神の霊(聖霊)の導きによって、私たちにも‟今がその時だ”という促しが与えられる時があるかもしれません。 <br /> 「今が神を信じる時だ」、「今が、この決心をする時だ」、「今が、あの人に神様のことを伝える時だ」、あるいは「今が、あの人を教会にお誘いする時だ」等々。 <br /> もしそのような促しを受けたのならば、私たちは神を信頼し、神の力によって、その促しに従い、その事を実行していこうではありませんか。 <br /> イエス様は、その人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。 <br /> イエス様の言われたそのお言葉は驚くべき一言でした。イエス様以外にも、病気を癒す賜物を持ち、人々の病気を治していた人たち(あるいは医者)は、いたでしょう。 <br /><br /> イエス様が、人々の病気を治している間は、何も問題はないのです。それは普通の人間でもできる行動と能力の範囲内であるからです。 <br /> しかし、罪を赦すことは、神にしかできないことです。律法学者やファリサイ派の人たちが、ここで心の中で考えたという“ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができようか”と21節に書かれているのは正しいのです。 <br /> “あなたの罪は赦された”というこの文章は、文法的には“受動態”です。人の罪は、誰か他のお方によって赦されなくてはならないのです。 <br />そしてそれは、律法学者やファリサイ派の人たちがここで言っているように、神のみが、人の罪をお赦しになることができるお方です。 <br /> はじめに、”聖書には色々な人々が登場する”と私はもうしあげました。中風の人を、イエス様に会わせたくて、すなわちそのお方が特別な力をお持ちであると信じ、イエス様のところへ来た人たちがいました。 <br /> そしてイエス様が“あなたの罪は赦された”と言ったのを聞いて、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言った(そしておそらく怒った)、律法学者やファリサイ派の人たちがいました。 <br /><br /> 正確には、彼らは心の中でそのように考えた、と今日の箇所には書かれています。イエス様は神の子でしたから、彼らがそのように心の中で考えていたこともお分かりになりました。 <br /> そしてイエス様はこう言われました。 <br /><br /> 「何を心の中で考えているのか。 <br />23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 <br />24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」 <br /><br /> もしイエス様が「起きて歩け」とだけ言って、その中風の人が癒されて立ち上がって歩いたのならば、それで話が終わっていたら、どうなるでしょうか。 <br /> おそらく、その中風の人は歩けるようになり幸せ、周りの人もイエス様を“この人は素晴らしい癒しの賜物をお持ちだ”と称賛して幸せ、誰も嫌な思いをせずに幸せであったでしょう。 <br /> しかし「あなたの罪は赦された」と、神でしか言えないことを言うならば、特にファリサイ派の人たちや律法学者たちから激しく非難されることは避けられないことでした。 <br /> しかしそれでもイエス様は、最初から「あなたの罪は赦された」とその中風の人に言ったのです。 <br />なぜなら、“罪の赦し”こそが一番大切であり、その人が、また実は私たち誰もが必要とするものであったからです。 <br /><br /> 罪の赦しとは、神から離れて自分中心に生きていた生き方、神に背いて生きていた生き方を赦され、神との関係の中に再び迎え入れられるということです。 <br /> 神との間にそのような平安を頂いていないのならば、たとえ病気が治って体は健康になっても、根本的な魂の問題として、人の罪は残ったままなのです。 <br />そのままでは、あなたたちはいつまでも、どこかいつも不安で、魂に安らぎがないままに生きることになる~それがイエス様が伝えようとしたメッセージでした。 <br /> しかし、人の罪を赦す権威をお持ちのお方を認め、そのお方、すなわちイエス・キリストを信じて生きるのならば、罪赦されたという真の平安が与えられるのです。 <br /> イエス様が、人から激しく非難され、結局最後はそのためにご自身の命さえ失うことになっても、必死になって伝えてくださったそのメッセージを、今日私たちは改めて頂き、信じようではありませんか。 <br /><br /> イエス様は、そう言った後に、その中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。 <br /> 罪を赦す権威をお持ちのお方が、その権威をお持ちであることが、そこにいた人たち(特にファリサイ派や律法学者たち)にも分かるように、「立って歩きなさい」と命じられたのです。 <br /> するとその人はすぐに皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神様を賛美しながら家に帰っていきました。 <br /> 自分が歩けるようになったことも、その人はもちろん嬉しかったでしょう。しかし、この人は“神様を賛美しながら”家に帰っていきました。 <br /> 人が神の御業を見て、神の恵みに喜ぶとき、その人はこのように神を賛美するようになるのです。神に感謝し、神をほめたたえるようになるのです。 <br /><br /> 私が牧師としていつも切に願っていることは、教会に集う皆さんが、礼拝を終えて教会を後にする時、皆さんの家へ戻って行かれるときに、神様を賛美するようになることです。 <br /> 御言葉の恵みを礼拝を通して豊かに頂いて、新しい週の歩みを神様を賛美しながら歩んでいってくださればと、私は心から願っています。 <br /> 今日の箇所の最後の26節を読みますと、そこにいた人々は皆大変驚き、その人たちも神を賛美し始めました。 <br /> 神への信仰が多くの人々の間で起こされたのです。神の恵みの御業を見て、中風の人が、罪の赦しの宣言を受けて、そして実際に立ち上がり、神を賛美しながら帰って行った様子を見て、他の人々も皆、神を信じ神を賛美するようになったのです。 <br /> ここでファリサイ派、律法学者と言われた人たち、“神を冒涜するこの男は何者だ”と言った彼らも、ここでイエス様による神の業を見て、主を信じ、神を賛美する者になったと、私は思います。 <br /> そのことは、はっきり書かれていませんが、“皆驚き、神を賛美し始めた”のですから、ファリサイ派や律法学者たちも(少なくとも、彼らのうち何人かは)、神を賛美する者へと変えられたはずです。 <br /><br />神の御言葉を聞き、神の御業を見ることによる喜びが、私たちの間でも分かち合われているでしょうか。神の御業により、私たちも変えられているでしょうか。そうであればと、私たちは願います。 <br />「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるイエス様のお言葉を信じ、そのお言葉に従うその時に、最高の喜びが神の恵みを通して、私たちに与えられるのです。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-55838123185591714902024-01-27T18:04:00.001+09:002024-01-27T18:04:46.328+09:002024年1月28日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 イザヤ書25章1節 <br />讃美 新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる <br />主の祈り <br />主の晩餐 <br />献金 <br />聖句 コリントの信徒への手紙二 1章12~22節 <br />祈祷 <br />宣教 「神は真実な方です」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌495番 主よ み手もて <br />頌栄 新生讃美歌 672番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /> 今日の聖書の箇所は、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』の1章の中の一部分です。パウロというキリスト教の伝道者が、ギリシアのコリントという都市にあった教会の信徒たちに宛てて書いた手紙です。 <br /> コリント教会は、パウロの伝道によって立てられた教会でした。『使徒言行録』Actsという書に、パウロが初めてコリントへ行った時の様子が記されています(使徒言行録Acts 18章)。 <br /> 使徒言行録の17章では、パウロがコリントへ行く前に、ギリシアのアテネへ行ったときのことが記されています。そこでパウロはアテネの哲学者たちを相手に、イエス・キリストこそが主である、ということを熱心に伝えようとしました。 <br /><br /> 最初はパウロの話を興味深く聞いていたアテネの哲学者たちも、パウロの話がイエス・キリストの復活に及ぶと、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、パウロを嘲笑い去って行った、と書かれています(使徒17:32) <br />アテネの哲学者たちは、パウロの言うことの大切な部分(キリストの復活)を真剣に聞こうとはしませんでした。 <br /> しかしそのアテネでも、パウロの言うことを信じた人たちもいた、と記されています。同じ福音を聞いても、信じる人と信じない人がいます。同じ話を聞いても信じる人と信じない人とに分かれるのは、不思議です。 <br /> 聞いたその時は信じなくても、時間が経ってから、ずっと後になってから信じるというケースもあります。人が主イエス・キリストを信じ、受け入れるのには、そのために(神によって)備えられた時とタイミングがある、ということなのでしょう。 <br /><br /> ですから私たちも、伝道の結果がなかなかすぐには現れなくても、家族や友人、知人へ伝道しても、なかなか信じてくれない、教会に誘っても来てくれない、そのようなことがあっても、神が備えられた時があると私たちは信じ、伝道活動の結果については、神に委ねていきましょう。 <br /> 私たちが福音を信じ、福音をイエス・キリストの愛を持って伝えるならば、その働きが神の前に無駄になることは決してないのです。 <br /> 福音に生き、福音を伝える働きに仕えることができる幸いに、私たちは感謝したいと願います。 <br />パウロは、アテネの後にコリントへ行きました。パウロはコリントでも、そこにいたユダヤ人たちから激しく反抗されたりと、大変な困難にあいました。 <br /><br />しかし、コリントではパウロの言葉を聞いて、多くの人々がキリストを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた、とも使徒言行録18章に書かれています。 <br />多くの人が信じ信者になったと言っても、この時はまだコリントには、(おそらく、パウロが訪れた他の都市でも)一つの大きな集会所(教会の建物)はありませんでした。 <br />人々は、各自の家や講堂など、人が集まることができる場所を見つけて、礼拝をしていたそうです。 <br /> イエス・キリストの福音は人と人とを結び付け、共に集まって神を礼拝する集会が、そのようにしてあちらこちらで生まれました。 <br /><br /> 今のように教会の建物がない状況では、今の私たちには分からない色々な苦労が、人々が集まって礼拝する時にあっただろうと想像されます。 <br /> 今私たちには、立派な教会の建物が与えられています。礼拝や集会をするための、この素晴らしい教会が、神からの賜物として私たちに与えられていることを、改めて私たちは感謝したいと願います。 <br /> またこれからもこの教会堂を大切に維持、管理していく(それも福音宣教の働きのため)責任も、私たちは自覚をしたいと願います。 <br />今日の箇所の最初に書かれているのは、伝道者としてのパウロの行動は「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」ということでした。 <br /><br /> 「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」―そのことをパウロの良心も証しし、それが彼の誇りでもある、というのです。 <br /> この言葉から分かることは、キリストを信じる信仰を通して私たちは、“誇り”を得られるということです。 <br /> その誇りは自分に根拠を置いた誇りではありません。キリスト者が得られる誇りは、人間の思いや知恵、人の努力や行動を越えた、神の真実と神の恵みに基づく誇りです。 <br /><br />ここでパウロは、自分たち(パウロと、彼を助けて伝道の働きをしたパウロの仲間たち)の行動を誇っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。 <br />彼の誇りの源泉は、あくまでキリストを通して彼を救い、新しい命に生まれ変わらせてくださった主なる神です。 <br />私たちも、キリストを信じるならば、そしてキリストによって生まれ変わり、新しい命を頂いたのならば、私たちは常に自分自身ではなく、主なる神を誇るようになるのです。 <br />そして主が私たちに与えて下さる恵みの下にいつも行動できるようになります。主の恵みによって私たちは生かされ、何ものをも恐れなくてもすむ強さも、主の恵みによって頂けるのです。 <br /><br />コリントの教会は色々な問題を抱えていました。信徒同士の間でグループに分かれての論争や、キリスト者としていかに生きるかという信仰の実践面でも色々と意見の対立がありました。 <br />それら一つ一つにパウロは対処しながら、信者がキリストにあって一つになることの大切さをパウロは語り続けました。 <br />人が集まれば必ず問題がおきます。それは教会でも同じです。しかし、問題が起きることが問題ではありません。問題が起きたときに、その問題にどう向き合うのかが、問題です。 <br /> 教会で仮に問題が起きたとして、私たちが人間的な思いや人間の知恵ではなく、聖書を通して示される神の純真と誠実、神の恵みに感謝をして、問題の解決に向けて努力できるかどうかが、大切です。 <br /><br /> ある問題がすぐには解決できなくても、たとえ時間はかかっても、イエス・キリストの恵みと福音は常に変わらず私たちと共にあるのですから、キリストの恵みをいつも頂きながら、私たちも、困難なことがあっても、共に信仰生活を共に送ってまいりましょう。 <br />パウロは、今日の箇所で、コリントの教会の人たちから、あることを理由にして非難されていたようです。 <br /> 15~17節に書かれていることから推測すると、パウロはコリント教会を一度離れてから、すぐにまた彼らのところへ戻って来る予定にしていたのに、その二回目の訪問ができなかった(延期した)ということがあったようです。 <br /><br />パウロはそのことについて何と述べているでしょうか。18節~20節をお読みします。 <br /><br />18神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。 <br />19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 <br />20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。 <br /><br /> 少し分かりにくい表現もされているとは思いますが、パウロは自分たちが語った言葉、すなわち彼らが宣べ伝えたイエス・キリストは常に“然り”(その通り)だと言うのです。 <br /> パウロはある事情のために、コリントをもう一度訪問するという予定を変更する必要が生じました。そのことでパウロを非難する声がコリント教会の人々から上がりました。 <br />そのような非難に対しても、パウロは変わることのないイエス・キリストを堂々と指し示し続けることによって応答したのです。 <br />細かな理由や言い訳でなく、全てを主に委ねて、イエス・キリストを指し示しつつ、パウロは応答したのです。 <br /><br /> パウロも含め、人間は弱く、罪深い存在ですから、必ず間違いを犯すことがあります。 <br />しかし、そのような私たちに、決して変わることのない(そのお方において神の約束がすべて実現した)イエス・キリストが、私たちには与えられています。 <br /> 繰り返しますが、私たち人はいつでも間違いを犯し得ます。間違いを犯した時には、それを認め、反省することが大切です(それがなかなか難しいことですが)。 <br /> しかし、神の子イエス・キリストにおいては、既にすべてが“然り”となったのです。キリストにおいて示された神の約束は永遠の真実であり変わることがない~この事には、わたしたちは常に確信を置くことができるのです。 <br /><br /> 20節に「わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」と書かれています。 <br /> 「アーメン」とは、“その通りです。真実です”という意味で、私たちはイエス様を通して、イエス様のお名前によって、“神の御心がすべて成就しますように。必ずそうなります”と唱える(祈る)ことができるのです。 <br /><br /> そのようにして、いつも私たちは真の主なる神を、讃えることができるのです。 <br /> 今日の箇所の最後の21~22節に次のように書かれています。 <br /><br />「21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 <br />22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」 <br /><br /> 私たちは、いつもイエス様と固く結び付けられています。神が私たちをイエス様に固く結び付けてくださっているのです。ですから何ものも私たちをイエス様から引き離すものはありません。 <br />神は私たちの心にも“霊”を与えて下さり、私たちがキリストのものとされ、キリストの福音に与ることの保証としてくださっています。 <br /> 私たちの神は真実お方であり、神は決して変わることがありません。イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの出来事は永遠に有効、真実なのです。 <br />その神から与えられた、イエス・キリストによる確かな希望の内に、今週の日々も信仰の道を歩んでまいりましょう。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-74769062594838741742024-01-19T11:55:00.001+09:002024-01-19T11:55:42.103+09:002024年1月21日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 ミカ書6章8節 <br />讃美 新生讃美歌 81番 父なるわが神 <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書5章12~16節 <br />祈祷 <br />宣教 「主よ、御心ならば」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌494番 わがたましいを愛するイエスよ <br />頌栄 新生讃美歌 672番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /><br /> 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の中の、全身に重い皮膚病を患った人が、イエス様にある願い事をする、という場面です。「重い皮膚病」は以前までの訳では「らい病」と訳されていました。 <br />英語訳では”leprosy”(らい病)と訳されていますが、その欄外に説明されているように「“らい病”と伝統的に訳されてきたギリシア語の単語は、皮膚に影響する様々な病気に対して使われていた」というのが事実です。 <br />この人がイエス様を見ると、イエス様にひれ伏して、こう願いました。 <br /><br />「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」<div> <br />「主よ、御心ならば、(あなたは)わたしを清くすることがおできになります」とは、この人が、イエス様をどういうお方であるかを告白している、一つの信仰告白であるとも言えます。 <br />イエス様は多くの病人たちを癒したり、人々から悪霊を追いだしたりしていましたから、この人もイエス様の噂を人から聞いていたのでしょう。 <br /> この重い皮膚病にかかった人は、そのイエス様を見て、ひれ伏し“主よ”と呼びかけて、“わたしを清くしてください”と願ったのです。それはその人が信じる信仰を表わしていました。 <br /><br /> 信仰とは何でしょうか?神を信じるとは、どういうことでしょうか。 <br />神を信じる信仰とは、聖書に証された主イエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、主に自分の全てを委ねる、ということです。 <br /> そして信仰とは「神は何でもおできになる」と、神の全能を信じることでもあります。 <br /> この重い皮膚病を患っていた人は、「あなたがそうお望みならば、わたしを清くすることがおできになります。あなたはそういうお方です」と言って、主であるお方を前にして、そのお方を信じるという信仰を告白したのです。 <br /><br />そしてこの人は「御心ならばif you are willing」と言って、あくまで主権は主であるイエス様にあることを認めています。そしてその上で「わたしは清くなりたいのです」という彼自身の希望もはっきりと述べたのです。 <br />祈りとは、このようなものです。“御心ならば”と言って、神は私たちにとっての最善をご存じである、と信じつつ、“私はこう望みます”とはっきりと望むことを私たちは神に申し述べてよいのです。それが祈りです。 <br /> この人が言った“清くなる”とは、まず彼の病気が治る、ということです。 <br /><br /> 旧約聖書の『レビ記』13章に、当時の皮膚病の診断の方法、祭司がその皮膚病の人の患部を観察する方法が記されています。 <br />患部を観察した結果、その人が「清い」のか「汚れている」かを、その症状によって判断する方法が、そこで細かく記されています。 <br /> それには当時の医学的な知識が反映されているのかもしれません。おそらく感染の可能性を考慮して、症状によってはその人が隔離されねばならないことなども定められています。 <br /> 症状が治れば“清い”、治っていなければ“汚れている”と祭司によって宣言されることも定められています。 <br />しかし、そこで“清い”、“汚れている”とは、あくまでその皮膚病の症状に基づいた判断であって、その人が神の前に罪を犯したかどうかという意味での清い、汚れている、ということではなかったはずです。 <br /> しかし、だんだんと人々は、重い病気、あるいは障害は、その人、あるいはその人の家族の誰かが神に対して罪を犯した結果の罰だと、考えるようになっていきました。 <br /><br /> 今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読んでいます。ヨブは神を畏れる正しい人で、悪を避けて生きていました。 <br />しかし、ある時サタンが神と対話をします。サタンは、「ヨブが信仰深く生きているのは、神がヨブに豊かな富や家族を与えているからだ」と言いました。 <br />すると神は、サタンがヨブに試みを与えることを許しました。その結果、ヨブの子供たちは災害で皆死んでしまい、そしてヨブ自身も全身ひどい皮膚病に侵されました。 <br />神の前に正しく生きていたヨブが、サタンの試みのため、子供を失い、ひどい病に侵されたのです。 <br /> ヨブ記は、人間の苦難について私たちに様々に考えさせる信仰の書です。いずれにしても、ヨブの重い皮膚病が、彼自身の罪とは関係がなかったことは明白です。 <br /><br /> しかし、ヨブの友人たちは、ヨブに「あなたがそのような災難に遭うのは、あなたか、あなたの子供たちが罪を犯したからだ」と言ってヨブを責めるのです。 <br /> 病気や障害が、誰かの罪の結果であるとは、それは人間には断言できないこと、分からないことなのです。 <br />ある災害や病気、その他不幸な出来事が、私たちが犯す間違いや罪の結果だとは、私たち人には誰にも断言できないし、他者のことをそのように断罪すべきでない、ということです。 <br /><br /> 重い皮膚病を患ったこの人は“主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます”とイエス様に願いました。 <br /> この人は、病気も苦しかったでしょう。しかし病気以上に、その病気のために“汚れている”と言われ続け、人が共に住む共同体から疎外されていた、という状況が一番つらかったのだと思います。 <br /> “自分は重い病気を患っているけれども、それでも(いや、むしろそのような苦しみを抱えているからこそ)主であるあなたから見てわたしは清い、尊いのだと、教えてください”、とこの人は心から願ったのです。 <br /> イエス様は手を伸ばしてその人に触れました。重い皮膚病の人に触れるとは、当時誰もしなかったことです。人は誰も触れようとしなかったその人に、イエス様は手を差しのべてその人に優しく触れたのです。 <br /> もし今、誰からも理解されない、自分は疎外されている、とお感じの方がおられたら、この人に触れた優しいイエス様の御手が、私たちにも差し伸べられていることを、信じていただきたいと私は願います。 <br /><br />そしてイエス様は“よろしい、清くなれ”とその人におっしゃいました。するとその人の重い皮膚病はすぐに癒されました。 <br /> この人が、他の人は何と言おうとも、彼のことを“汚れている”と言おうとも、「このお方の御心ならば、わたしは清くなれる」と信じ、そう願ったからこそ、この人は癒されたのです。 <br /> 私たち人が祈らないと、神は私たちの願いや必要なことを叶えてくださらないのでしょうか。あえて言うならば、その答えはイエスです。 <br /> 私たちが祈らなくても、私たちにとっての最善、私たちが本当に望むものを、神は全てご存じです。 <br />しかし、私たちが、自分は何を望むのかということを真剣に考え、望み、それを神に向かって願い、祈ること、そして祈りが神に聞かれるという経験をするならば、私たちは神への信仰と感謝を増すことができます。 <br /><br />祈りが聞かれる経験を通して私たちの信仰の喜びと感謝が増し、そして神との関係を、私たちは更に喜ぶことができるようになります。 <br />そして私たちは、祈りが聞かれる経験を重ねることで、私たちの祈りを聞いてくださる神のことを、他の人にも知らせたい願いと意欲がさらに湧いてきます。 <br /> 私たちが祈りの課題を他の信仰者に祈ってもらうことも、私たちの信仰の絆を強めることに繋がります。他の人に祈ってもらうことで祈りが聞かれた、という経験を通して、お互いに祈り合うことの喜びと感謝が増すからです。 <br /> そのように、真剣な祈りを通して、神への感謝と信仰、私たちお互いの間の信仰の絆を私たちは強めていきたいと願います。 <br /> イエス様は、その人の皮膚病が癒された後、「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と言われました。 <br /><br />レビ記13章には、皮膚病の症状によって“清い”、“汚れている”と判断する基準が記されている、と最初に申し上げました。 <br />レビ記14章には、症状が治って“清い”とされた人が、清めの儀式で献げ物をすることが定められています。 <br />イエス様は、その人に、当時の律法通りに祭司に自分を見せて、清くなったことを証明してもらい、清めのための献げ物をしなさい、と命じました。 <br /> つまりイエス様はその人に、“信仰の共同体、他の人と共に生きる共同体の中に戻って行きなさい”と命じたのです。 <br /> この人が願ったことは”清くなること“でした。それは病気の癒しだけでなく、そのために外の人たちから隔離されていた状態から、人の群れの中に戻るということでもありました。 <br /><br />この人が願った通りのこと、そして私たち誰にとっても必要な‟他者と共に生きる”生活の中へ、この人は帰っていくことができたのです。 <br />イエス様がその人に“誰にも話してはいけない”と命じられたのは、病気が治るという奇跡的な側面(見かけ上のこと)だけが強調されて人に伝わることをイエス様は恐れたのでしょう。 <br />しかし、イエス様のうわさはますます広まり、大勢の群衆が集まってきました。 <br />しかし、イエス様は人里離れた所に退いて祈っておられた、と今日の箇所の最後の節に書かれています。 <br /><br /> イエス様は、一人静まって天の父なる神に祈るときをいつも大切にしておられました。大勢の人たちが押し寄せてきて、一人静まれる場所を確保することはイエス様には難しいことだったと思います。 <br /> しかし、イエス様は、父なる神への祈りの時間を大切にされ、神の御心をイエス様自身が知ることも大切にされました。 <br /> そして天の父なる神との親密な時間、祈りの時を通して、イエス様自身が神の御愛を豊かに受けておられたのでしょう。だからこそ、イエス様は無限の愛を多くの人たちに、わたしたちに与えることができたのです。 <br />神の御子イエス様にとっても、愛と力の源泉であった神への祈りの時、神との時間を私たちも大切にしてきましょう。 <br />そして私たちの願いを、御心に沿って、必ず聞いてくださる父なる神がおられることを共に信じ、共に神を礼拝する時を、私たちは大切にしていきましょう。 <br /> そのようにして育まれる神への信仰と感謝、お互いに祈り合い、共に礼拝することの喜びを私たちが本当に経験するのならば、そのような私たち教会の姿を通して、イエス・キリストの神はますますあがめられ、キリストの福音は私たちの周りへと拡がっていくのです。 <br /><br /> </div>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-53771563562848599692024-01-13T13:30:00.001+09:002024-01-13T13:30:32.253+09:002024年1月14日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 ヨハネによる福音書8章29節 <br />讃美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 出エジプト3章13~22節 <br />祈祷 <br />宣教 これこそ、とこしえにわたしの名 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 86番 輝く日を仰ぐとき <br />頌栄 新生讃美歌 672番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /> 今日の聖書箇所は、旧約聖書の『出エジプト記』3章の後半部分です。エジプトの王宮で育ったヘブライ人モーセは成人した後、同胞(仲間)のヘブライ人をかばおうとして、エジプト人を打ち殺してしまいました。 <br /> その事が王のファラオにも知らされ、ファラオがモーセを殺そうとしたので、モーセはエジプトから逃げて行かなくてはなりませんでした。 <br /> モーセは彼自身の正義感から、仲間のヘブライ人を助けようとしたつもりであったでしょう。 <br />しかし、相手のエジプト人を打ち殺すというその行動は、モーセ自身の傲慢さ、まるで自分が神であるかのように振舞う、罪の行為でした。 <br />それでも神は、モーセに逃れの道を用意してくださっていました。モーセが新しい生き方を始める道を神が用意してくださっていたのです。 <br /><br />モーセはミディアンという地方へ逃れていき、そこで結婚し子供も与えられました。 <br /> そして出エジプト記3章の初めで、神がモーセに現れ、モーセに「エジプトで奴隷として苦しい生活を送っている、わたしの民(イスラエルの人々)をエジプトから導きだしなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす」と言われました。 <br /> 神にそのように命じられたモーセは次のように答えます。聖書箇所としては今日の箇所のすぐ前の3章11節です。 <br /> 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 <br />モーセは躊躇したのです。彼はエジプト王のファラオという絶対的な権力を持つ者の前へ行き、イスラエルの人々を導き出すということに、恐れおののいたのでしょう。 <br />「わたしは何者でしょう。なぜわたしがファラオのもとへ行き、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言って恐れ、躊躇するモーセの姿は、実は私たち全ての人間の姿を現しています。 <br /><br /> モーセの最初の疑問は「わたしは何者でしょうWho am I?」でした。この疑問に対して、私たちは何と答えるでしょうか。私たちは自分が何者(何)であるかを、知っているでしょうか。 <br />私たちが聖書を通して知らされることの一つは、“自分は何者であるか”ということです。わたしたちは、自分は何者であるか、を聖書を通して、そして神との関係の中で見いだしていきます。 <br />モーセは、自分がイスラエルの人々を率いて、エジプトから脱出させるような大変な役割を果たせるとは、到底思えませんでした。 <br />モーセは仲間のヘブライ人をかばうためとは言え、あるエジプト人を殺してしまい、エジプトから逃げなくてはならなかった彼の過去に、ずっととらわれてしまっていたのかもしれません。 <br /><br />モーセはそのために、“私はずっと、私にとってはこの異国の地で、隠れるようにして一生を過ごして一生を終えるのだ”と諦めたような気持ちで日々を過ごしていたのかもしれません。 <br />しかし、神はモーセに新たな別の計画を持っておられました。神はモーセを選び、モーセによって(それはあくまで神の力ですが)イスラエルの民たちを、エジプトから救い出そうとされたのです。 <br />モーセは、とても自分にそのようなことができるとは思えませんでした。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われました。(12節) <br />“神が共におられる”、“イスラエルの人々は、あなた(モーセ)の背後に主なる神が共にいることを認める”、それが確かに神がモーセを遣わしたしるし(sign)、証拠だと神はおっしゃったのです。 <br /> 私たちの教会は、新しい年(2024年)の歩みを始めています。今年神はどのようなご計画を私たちの教会にお持ちでしょうか。 <br /><br /> また神は私たちひとり一人にどのようなご計画をお持ちでしょうか。神の道が私たちに示された時、私たちも今日の箇所の中のモーセのように躊躇してしまうかもしれません。 <br /> 私たちも自分で自分の能力の限界を設定してしまって、神が私たちに与えてくださっている豊かな賜物を見いだすことができず“私には(私たちには)できません”という思いにとらわれてしまうかもしれません。 <br /> しかし、神がわたしたちと共におられます。それは今も決して変わることのない約束です。神の御心、神の御計画を祈り求めて、そして示された道を私たちは神に信頼して、共に歩んでいこうではありませんか。 <br /> モーセは今日の聖書箇所で、次のように言っています。13節のモーセの言葉をお読みします。 <br /> 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 <br /><br /> モーセは、”もし私がイスラエルの人々のところへ行って、”神が私を遣わして、あなたがたをエジプトの地から導きだすように命じられた”と言っても、彼らは”その神の名は何か?”と聞くでしょう”と思ったのです。 <br /> 神はモーセに答えられました。「わたしはある」~それがご自身の名前だと神はおっしゃいました。 <br /> 「わたしはある」とは、とても不思議な名前です。そのヘブライ語の本文は、「わたしは、わたしがなろうとする者になるだろう」と訳することも可能です。 <br /> 神ご自身がモーセに明かされたその名前はとても不思議で、解釈しようと思えば色々な解釈が可能だと私は思います。 <br /><br /> しかし私たちにとって確かなことは、まず神は確かにご自身の名前をモーセに明かされたということです。そして“わたしはある”というお名前は、神はご自身の存在を、他の何にも依存していない、ということです。 <br /> 神はご自身で完全であり、他の何かによって造られたのでもありません。神が、私たちの世界の全てをお造りになった創造主です。それが聖書が一貫して私たちに伝えることです。 <br /> モーセは“わたしは何者でしょう?”と神に尋ねました。モーセだけでなく、私たちは誰も自分で自分が誰であるか(何であるか)を知ることはできません。 <br /> 先程も申し上げたように、私たちは、私たちをお造りになった創造主なる神との関係の中で、神の目を通して私たち自身のことを知ることができます。 <br /> 私たちが自分だけを見ているならば、私たちは結局とても不安定な自分しか見つけることができないでしょう。根や土台といったものを持たない、不安定な自分です。 <br /> しかし聖書は、私たちをお造りになった神がおられ、そのお方の名前が私たちに知らされ、そのお方の名は永遠に変わることがないと伝えています。 <br /> 神の名が永遠に変わらないとは、神ご自身が決して変わることなく、いつまでも私たちと共におられるということです。神がその約束をいつまでも守ってくださるということです。 <br /> イザヤ書46章3~4節に次のように書かれています。神が私たちをお造りになり、その神が私たちを背負い続けてくださる、という約束の言葉です。 <br /><br />わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 <br />“同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 <br /><br /> 私たちをお造りになった神は、私たちを背負い、救い出してくださると約束してくださっています。私たちが倒れても、神が助け起こしてくださいます。 <br />しかし、それは私たちの人生の中で辛い出来事や困難がなくなる、ということではありません。 <br /> 今日の箇所の中でも、神はモーセに、「わたしがあなたと共にいる」と約束をしつつ、「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が(あなたたちを)行かせないことを知っている」と言っています。 <br /> つまり、神はモーセに、いつも“神が共にいてくださるから安心するように”という力強い励ましの言葉をかけつつ、“彼(モーセ)がこれから向き合おうとしているエジプト王は、そう簡単には言うことを聞かない”ということもはっきりと言っているのです。 <br /> 神が私たちと共におられますが、私たちが生きる道は時に長く、険しいものでもあるのです。 <br /> しかしその長く険しい道を歩む過程で、危機的な状況を乗り越える経験を通して、私たちは私たちの能力や思いを越えた、神の確かな力と神の御愛を一層知ることができます。 <br /> 神が私たちと共におられます。ですから私たちは安心して、日々を、困難と悩みの中にも、神に信頼して日々を歩もうではありませんか。 <br /> 神が私たちと共におられる。それはイザヤ書の中で預言されていたイエス・キリストのこの世界への到来を表わす言葉でもありました。 <br /><br /> イザヤ書7章14節 <br /> それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 <br /><br /> 「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神が私たちと共におられる」という意味です。神はモーセに既に約束されていたその出来事を、イエス・キリストのお誕生を通して、私たち全ての人にとっての約束として、成就してくださいました。 <br /> 神はモーセに、ご自身の名(『わたしはある』)を明らかにしてくださり、モーセが他の人々にその名を伝えることによって、神が確かにモーセに現れたことのしるしとしてくださいました。 <br /> 私たちにも、確かな神の名、それはイエス・キリストの名、そしてそれはイエス・キリストの恵み、それらがすべて与えられています。 <br /> 「神はどこにおられるのか?」、「神の名は何と言うのか?」と私たちがもし誰かに聞かれるのなら、私たちはいつも聖書を根拠にして、次のように答えることができます。 <br /> 「私たちの世界のすべてをお造りになった神がおられる」、「神は人となり、イエス・キリストとして私たちに全てを与えてくださった」、「神はいつも私たちと共におられる」と確信をもって答えることができるのです。 <br /><br />それは私たち自身に基づく確信ではなく、神の確かな名、そしてイエス・キリストが世にこられた確実な出来事に基づく、確信だからです。 <br />信仰を通して与えられる確信と安心、平安のうちに、日々を生きることができる幸いを私たちは感謝したいと願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-50512104061880394142024-01-06T14:10:00.002+09:002024-01-06T14:10:53.172+09:002024年1月7日 主日礼拝 <br /><br />前奏 <br />招詞 イザヤ書55章11節 <br />讃美 新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主 <br />祈りの時 <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書5章1~11節 <br />祈祷 <br />宣教 「しかし、お言葉ですから」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 506番 主と主のことばに <br />頌栄 新生讃美歌672番 <br />祝祷 <br />後奏 <br /><br /> 新しい年(2024年)の最初の主日礼拝を私たちはお捧げしています。新しい年もまた、私たちは礼拝を大切にし、礼拝を通して神様の言葉を共に聞き、神の言葉を分かち合っていきましょう。 <br /> 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書5章の最初の部分です。今日の箇所は、イエス様がシモン(ペトロ)、そしてヤコブとヨハネをご自分の弟子にするという場面です。 <br /> 彼ら最初の弟子たちがイエス様に呼びかけられて弟子となるこの場面は、マタイ福音書4章18~22節、マルコ1章16~20節にも記されています。 <br /> それら二つの箇所(マタイ、マルコの該当箇所)では、イエス様が漁をしていたシモンたちに「わたしについて来なさい」と呼びかけ、彼らがすぐにイエス様に従ったと、比較的簡潔に書かれています。 <br /><br /> しかしルカ5章の今日の箇所には、マタイ、マルコには書かれていない出来事が記されています。 <br /> 一晩中漁をして何もとれなかった漁師たちが、イエス様に言われてもう一度(昼に)漁をすると大変な量の魚が獲れた、という話です。この箇所を通して、神のメッセージを共に聞いてまいりましょう。 <br /> イエス様がゲネサレト湖のほとりに立っておられます。ゲネサレト湖とは、ティベリアス湖、あるいはガリラヤ湖とも呼ばれる湖です。 <br /> 湖のほとりにイエス様が立っておられると、群衆が神の声を聞くために、イエス様を囲みました。 <br />それまでに、イエス様は悪霊に取りつかれた人から悪霊を追いだしたり、色々な病に苦しむ人たちの病を癒されたりしました。病気を癒してほしい、悪い霊を追い出してほしいと願う多くの人たちがイエス様のところへやってきました。 <br /><br /> しかし今日の箇所で、大勢の人たちがイエス様を取り囲んでいたのは、“神の言葉を聞く”ためでした。群衆の中のある人たちは、イエス様が病気を治すことや、悪霊を追い出すということを期待していたかもしれません。 <br /> しかし、イエス様が人々に伝えようとした最も大切なものは、神の言葉でした。病気や悪霊による苦しみを取り除くことも、イエス様がなさった大切なお働きでした。 <br /> しかしやはり、イエス様の全てのお働きは神の言葉、神の国の福音(良き知らせ)を人々に知らせることを中心としていたのです。 <br />ルカ4章でイエス様が荒れ野の中で悪魔から誘惑をお受けになった時、大変な空腹の中でもイエス様は「人はパンだけで生きるものではない(人は主の口から出るすべての言葉によって生きる)」という聖書の言葉をもって対抗しました。 <br /><br />イエス様はあちらこちらを巡り、人々の病気を治し、また悪霊を追いだしたりして、人々の苦しみを癒されつつ、イエス様はあくまで神の言葉を人々に伝えると言うお働きを続けられたのです。 <br />そしてイエス様に接した人たちは、段々とイエス様のなさっていることを理解し始めたのでしょう。 <br />“このお方が私たちに与えてくださる最も大切なものは神の言葉なのだ”と段々人々は悟るようになったのです。 <br />ですから、今日の箇所で群衆はイエス様から“神の言葉を聞こうとして”、イエス様の周りに集まってきたのです。 <br /><br /> 私たちも神の言葉を聞きたいという願いをもって教会に来ます。最初私たちは、色々な理由や思いをもって教会に来るようになったでしょう。 <br /> 教会には暖かい雰囲気がある、普通とは違う何か神聖な気持ちになれる、素晴らしい音楽がある、などの思いや理由で教会に通うようになった方もいらっしゃると思います。 <br /> しかし、やはり教会の中心は常にイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉(神の言葉)です。神の言葉は、私たち教会が頂いている宝物です。 <br />そして、神の言葉(御言葉、福音と言っても同じ意味です)が聞きたいと言う願いを第一として、やはり人は今でも教会に集まるのです。 <br />私たちの礼拝全体、信仰による交わりを通して(言葉以外の方法でも)神の言葉が語られることはありますが、教会で神の言葉が語られる一番分かりやすい形は、まずは牧師の宣教(メッセージ)です。 <br /> 考えてみますと、神の言葉を語る、という本来人では出来ないはずの務めを牧師は担わされているのだと改めて私は思い、大変厳粛な気持ちにさせられます。 <br /> ですから、牧師が神の言葉でない、自分の思いだけの勝手な話などをしたりしないように、皆さんにはぜひ祈って頂きたいとお願い致します。 <br />私たちが教会に集うのは、今日、今この時、神が私たちに語ってくださると信じるからです。私たちが信仰によるそのような期待と希望をもって、こうして集う時、きっと神は今日私たちに必要な言葉を語ってくださいます。 <br />神の言葉によって養われ、神の言葉によって日々を生きる力を私たちは頂いていこうではありませんか。 <br /><br /> 今日の箇所で、群衆はイエス様を囲んで神の言葉を聞いていましたが、その時に近くで漁をしていた人たち(正確には、漁を終わって、網を洗っていた)がいました。 <br /> 彼らは、シモン(ペトロと言う名前をイエス様からのちにもらう)、ヤコブやヨハネという、イエス様の最初の弟子になった人たちでした。 <br /> イエス様が人々に神の言葉を語っているその間に、彼らは漁の網を洗うという、いってみれば彼らの仕事をしていたのです。 <br /> ここでのシモン達は、イエス様を囲んで神の言葉を聞いていた群衆に比べると、イエス様への関心がまだ低い人たち、と言う印象を受けます。 <br /> 彼らも、イエス様の話を聞きたい、という思いはあったかもしれませんが、彼らにはその時やらなくてはならない仕事があったのです。 <br /><br /> シモン達は、この時はまだ、イエス様が語っている神の言葉が、彼らの仕事を中断してまで聞かなくてはならないものだとは思わなかったのでしょう。 <br /> そんなシモンにイエス様のほうから声を掛けられました。信仰は常に神からの呼びかけによって始まるのです。 <br />イエス様はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。 <br /> イエス様の言ったことは漁の常識に反することでした。漁は夜にするものだったからです。そしてその日(夜)は、シモン達は魚を全く獲ることができずに、彼らは網を洗っていたのです。 <br /> シモンはそこで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。 <br /><br />前の箇所のルカ4章38節からの箇所で、シモンの義理の母がイエス様によって病気を癒されています。ですからシモンはイエス様による癒しを、一度見ていたのです。 <br /> ですから、シモンはイエス様には特別な力があることは知っていたでしょう。しかし、彼は漁については自分のほうが専門家だというプライドもあったかもしれません。<br /> ですから、“わたしたちは、既に夜通し漁をしました。(漁は夜にするものなのですよ)。しかし何もとれませんでした”と彼は言いました。 <br />シモンは心の中ではイエス様に対して“先生、あなたは聖書のことや、神のことは良く知っているかもしれませんが、漁のことはご存じないないですね”と思ったでしょう。 <br /><br /> そのようなシモンの姿は、今の私たちにも当てはまるのではないかと、私は思います。 <br /> イエス様を信じ、神の言葉を大切にしつつも、信仰というものがどこか自分の日々の実生活とはあまり結びついていない、ということです。 <br /> 神の言葉を聞くという私たちの信仰が、教会の中だけに留まっていることがわたしたちにはないでしょうか。 <br /> そうではなく、神の言葉が私たちの生活のすべての領域(仕事(職場)や、勉強(学校)、家庭)を支配しているでしょうか。 <br />シモンのここでの言葉は、そのような問いを私たちに投げかけると思います。 <br /> しかしシモンはその時さらにこう言って、彼はイエス様の言うことに従いました。 <br />しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう <br /> 魚が獲れるとは、あまり期待していなかったでしょうが、シモン(ペトロ)は、イエス様のお言葉に、やはり特別な強い力を感じもしたのでしょう。彼はイエス様の言うことに従いました。 <br /> するとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになりました。別の船にも来てもらい、二そうの舟が魚で一杯になりました。 <br /> 本来魚が獲れるはずのない昼に、イエス様の言葉に従うことによって、考えられないほどの魚が獲れたのです。 <br /> シモンはそれからこう言いました。 <br /><br />「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」 <br /> シモンは、最初イエス様のことを“先生Master”と呼んでいました。そう呼ぶことで、ある程度の尊敬をイエス様に置いていましたが、イエス様はまだ、シモンの全生活と彼の命を支配する“主Lord”ではありませんでした。 <br /> しかし、イエス様のお言葉の力、そのお言葉に従うことで与えられる奇跡を目の前にして、シモンはイエス様を“主よ”と呼ぶしかなくなりました。 <br /> それまでのシモンは、イエス様を尊敬し、その特別な力を認めつつも、まだ自分の中心には中心がいました。“漁については私のほうが専門だ。いくらイエス様でも、漁のことは知らない”と彼は思っていました。 <br /> しかしシモンは、ここで理解しました(信じました)。「このお方が私の主だ。仕事も含めて私の生活に関する全てを支配しておられるお方であり、このお方を私自身の中心にお迎えしなくてはならないのだ」とシモンは悟ったのです。 <br /> 私たちも今日、シモン(ペトロ)と共に、イエス様のお言葉、神の言葉を聞くことを第一とし、神の言葉に従うという決意を、新たにしようではありませんか。 <br /><br /> イエス様は、別の箇所で、こうも言われました。 <br /> マタイによる福音書6章33節 <br />何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 <br /> 神の言葉を聞き、神の御心を知り、そして神の国と神の正しさを、私たちは日々求めて参りましょう。 <br />神の言葉を聞き、神の言葉を実践すると言う生き方による恵みと幸いにより、私たちに必要なものは(わたしたちが望むもの)すべて与えられるのです。それが聖書の約束です。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-11761805342986222272023-12-30T15:58:00.003+09:002023-12-30T15:58:37.027+09:002023年12月31日 主日礼拝 <br /><br />前奏<br />招詞 詩編138篇8節<br />讃美 新生讃美歌 618番 主のためにわれは生く<br />主の祈り<br />献金<br />聖句 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節<br />宣教 「互いに重荷を担いなさい」<br />祈祷<br />讃美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ<br />頌栄 新生讃美歌671番<br />祝祷<br />後奏 <br /><br /><br /> 今日は2023年12月31日です。今年最後の日となりました。一年の最後の日(大晦日)が日曜日なので、私たちはこうして主日礼拝を捧げながら、この日を過ごしています。 <br /> 今年2023年は1月1日(元旦)も日曜日であり、主日礼拝から私たちは新しい年をスタートさせました。 <br /> ですから今年は、文字通り礼拝で始まり礼拝で終わるという一年でした。一年を、主なる神を礼拝することで始め、また主を礼拝することで年を閉じることができ、わたしは大変嬉しく思います。 <br /> 今年一年も、わたしたちそれぞれに、私たちの教会にも、振り返って一つ一つを思い起こしてみれば、様々なことがあったと私は思います。 <br /><br /> 大変な事、辛い事、また嬉しいこと、思いがけないこと、色々あったのではないでしょうか。 <br /> 私個人のことを話させて頂ければ、春に長男が就職で家を出て、社会人生活を始めたことが、やはり大きな出来事であったと思います。 <br /> 彼は遠くにいますが、最初に想像していたほど、それほど寂しさとか、大きな心境の変化のようなものを自分の中に感じることは、私にはあまりありませんでした。 <br /> 今は連絡自体は簡単にできますので、それほど距離感を感じずにすむというのも、そのように感じる理由であるかもしれません。 <br /><br /> しかし、彼のことを覚えて、やはりわたしは祈ります。そうすると、私たちがどこへいても私たちを守り導いてくださる、イエス・キリストの神にお任せできるのだ、という信仰による安心感が与えられます。 <br /> それはとても幸いなことです。しかし今、私たちの世界では激しい戦争が続いている国や地域があり、本当に多くの尊い命が失われ続けています。 <br />そのような現実の中、「神の愛」とか「神の恵み」、「神がいるから大丈夫だ」と言うことに、私は全くためらいを感じないのかと言えば、それは嘘になるかもしれません。 <br /><br /> しかし、主イエス・キリストは確かに私たちの世界にお出でになりました。キリストは人としてこの世界にお生まれになりました。先週は主のご降誕を祝うクリスマス礼拝を私たちは持ちました。 <br /> キリストはこの世に来られて、私たち人間の罪を贖ってくださったのです。本来私たちが受けるべき罪の報いを、イエス様が代わってその身に受けてくださったのです。 <br /><br /> テモテへの手紙一 (1 Timothy) 1章15節に次のように書かれています。 <br />「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。 <br /><br />私たちはイエス・キリストによって救われたのです。ですから私たちは、イエス様によって実現した、罪の赦しという救いを根拠に、やはり希望を持ってよいのです。 <br /> 今年1年を通しても、私たちが主の御愛に守られて、共に教会生活と信仰生活を送ることができたことを私は心より神に感謝いたします。 <br />今年度2023年度、私たちの教会は「愛の奉仕」という標語の下に、教会生活を送っています。 <br />教会の皆さんご自身の中から「神に仕えたい。具体的には教会での奉仕を通して神に仕えたい」という願いが起こり、「愛の奉仕」という標語が選ばれました。 <br />聖句はガラテヤ書5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」です。 <br /> ガラテヤ5章1節には「キリストはわたしたちを自由にしてくださった」と書かれています。イエス・キリストは私たちを罪から解放してくださいました。 <br /><br />またキリストは、律法を守ることによって、つまり人の努力によって得られる赦し、という決して実現しない考え(その呪縛)から私たちを自由にしてくださいました。 <br />罪の赦し、神の救いはただ神の愛と恵みによって無償で私たちに与えられるのです。それを信じることが私たちを真に自由な者とするのです。 <br /> しかし、それほどの自由を与えられた私たちでも、その自由を間違って用いてしまうなら、“肉に罪を犯させる”ことになってしまう、とガラテヤ書は言うのです。 <br />“肉に罪を犯させる”とは、互いに仕えるのではなくて、逆に互いに傷つけあったり、互いに協力して力を合わせるべきなのに、逆に互いに重荷を負わせてしまうということです。 <br /><br /> そうならないために、私たちはどのようにしたらよいのでしょうか。そのことを、今日の聖書箇所から私たちは聞いていきたいと願います。 <br /> 今日の聖書の箇所は、年間聖句が採用された5章に続く、ガラテヤ6章の始めの部分です。 <br />今日の箇所は最初に次のように書かれています。 <br />兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。 <br /> これは特に同じ信仰の共同体に属する者同士、同じ教会に属する者同士について言われています。それは、信仰の家族、信仰の兄弟に対して私たちが負っている義務です。 <br /> クリスチャンであっても、罪に陥ることがあり得ます。意図しなくても罪に陥ることがあります。間違った道へ行ってしまうことが、私たち誰にでもあります。 <br />そのような他者(信仰の家族)に対して、私たちはその人を柔和な(優しい)心で正しい道に立ち帰らせる(英語訳では“その人を元に戻す(修復する)”)義務を負う、と今日の箇所は言うのです。 <br /><br />正しい道とは、主なる神を第一とし、その方に従って歩む信仰の道、すなわちイエス・キリストの道です。 <br />キリストの道を歩む私たち信仰者ひとり一人は、依然として罪人で間違いを犯す存在であっても、それでも私たちが歩むべき道ははっきりしているのです。 <br />キリストと言う正しい道の上を私たちは歩もうと日々努力するのです。 <br /> しかし、私たちはどれほど気をつけていても、わたしたちが抱える弱さ、自己中心さ、傲慢さなどから、罪を犯してしまいます。 <br />そのような時、信仰の家族同士は、“正しい道”へ立ち帰るように互いに助け、促し、励まし合うことができるのです。 <br /> 正しい道(イエス・キリストの道)とは、具体的には、共に神を礼拝し、主の体を分かち合い(主の晩餐)、主の御言葉を分かち合う、信仰によって互いに支え合うという信仰者同士の共なる生活です。 <br /><br /> そして4節に書かれているように、私たちはそのように神を礼拝することを通して、自分自身をも吟味するのです。 <br /> 神の前に自分自身を真剣に吟味することで、私たちは自分の中には、神の愛と赦しに値するようなものは何もないことに気づかされます。 <br />私たちは、“自分の信仰は深く、強いから大丈夫”だと、どれほど自信を持っていたとしても、自分だけで信仰を持ち続け、成長し続けることは決してできません。 <br />私たちだれもが罪に躓き、罪を犯すからです。ですから私たちはお互いに、正しい道=イエス・キリストを主と仰ぎ、自分を吟味し悔い改める、神の赦しを頂いて生きる道へと、立ち帰ろうとお互いに励まし合い続けたいと願います。 <br /><br />今日の箇所の2節に次のように書かれています。 <br /> 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 <br />私たちは互いの重荷を担い合うようにとここで命じられています。正しい道へ立ち帰るようにお互いに励まし合うこと、そして他者の重荷(罪や弱さということでしょう)を覚えて、それを自分の事として担おうと努力することが私たち信仰者には求められるのです。 <br />私たちは誰も自分の罪を自分だけで担いきることはできません。しかしもし私たちがそれをお互いの重荷として、互いに担い合うならば、その重荷は軽くなります。 <br /> そして根本のところで、私たちの罪を赦し支えてくださっているイエス・キリストが私たちと常に共におられることを私たちは知っています。 <br /><br /> イエス様の一番弟子であったペトロは、イエス様と一緒にいる時に、「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました(ルカ22章31節~ )。 <br />しかしイエス様は分かっておられました。ペトロが彼の弱さと罪のために、最後にはご自分を裏切って逃げてしまうことをイエス様は分かっておられたのです。 <br />イエス様は、ペトロの裏切りを見越して、ペトロに次のように言いました。 <br />「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32) <br /> イエス様は、ペトロに対して、きっと次のように言いたかったのでしょう。”わたしはあなたの罪を既に赦した。私があなたの罪を担った。 <br /><br />あなたの信仰が無くならいように私は祈った。だから、次はあなたが自分の兄弟たちを力づけてやりなさい” <br /> ペトロへ向けられたイエス様のそのお言葉と思いは今の私たちにも向けられています。 <br />私たちが色々なことに失敗し、あるいは絶望したりして、信仰がなくなりそうな時にも、“あなたの信仰がなくならないように”とイエス様が今の私たちのためにも祈ってくださっているのです。 <br /> イエス様のそのお言葉とイエス様自身の祈りが、私たちにはあるのですから、私たちは恐れることはありません。イエス様により頼みつつ、私たちは正しい道に、常に立ち帰りたいと願います。 <br /><br />今日の箇所の最後の節には次のように書かれています。 <br /> 10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。 <br /> 私たちが同じ教会に属し、共に信仰生活を送っているのは、本当に不思議な神様の御采配、ご計画によります。 <br /> 神の導きによって神の家族とされた私たちは互いに、重荷を担い合い、そしてできるだけの善を行おうと、ここで促されます。 <br /> 私たちがこうして一緒にいる時間も、やはり限りがあります。地上での出会い、時間は永遠には続きません。 <br />それは、互いに重荷を担い合うことができる最適なタイミングがある、という意味でもあるでしょうし、また私たちは人間ですから、いずれ何らかの形で別れる時が来る、と言う意味でもあると思います。 <br />ですから、私たちがこうして一緒にいられる、共に信仰生活ができることを、いつまでも続く当たり前のことと思わず、神が与えてくださった私たちの交わりを大切にし、その中でお互いに仕え合おうではありませんか。 <br />イエス・キリストの信仰によって結び付けられた私たちが、互いの重荷を担い合い、赦し合って歩む、そんな共同体としてさらに成長することを目標に「愛の奉仕」を献げ、また明日から始まる新しい年2024年も歩むことができればと私たちは願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-56322286691759301572023-12-23T16:26:00.005+09:002023-12-23T16:26:29.190+09:002023年12月24日 主日(アドベント第4/クリスマス)礼拝 <br /><br />招詞 エレミヤ書31章3節 <br />アドベントキャンドルの点火~祈り <br />讃美 新生讃美歌162番 天なる使いよ 地をめぐり行き <br />主の祈り <br />主の晩餐 <br />クリスマス劇 “たいせつなきみ” <br />献金 <br />聖句 ヨハネの手紙一 4章16~21節 <br />祈祷 <br />宣教 「神の愛に留まる」 <br />祈祷 <br />讃美 新生讃美歌 157番 来れ 友よ 喜びもて <br />頌栄 新生讃美歌 671番 <br />祝祷 <br /><br /> 「神は愛ですGod is love」~今日の聖書箇所の中のヨハネの手紙一4章16節に、このように書かれています。 <br /> 「神とはどのようなお方ですか?」あるいは「神とは何ですか?」と聞かれたら、クリスチャンであれば、どのように答えるでしょうか。 <br /> 「神とは何か」という問いに対して、聖書は「神は愛です」とはっきりと述べます。 <br />では「愛」とは何でしょうか。私たちは愛を知っているでしょうか。 <br /> 私たちは“愛とは何か”を、クリスチャンであってもなくても、知っていると自分では思っているのではないでしょうか。愛とは何でしょうか。それは、他人を思いやり、人に優しくすること。 <br /> 自分の利益よりも他人の利益を優先すること。弱い人や困っている人を助けること。そのようなことが愛だと、私たちは考えるのではないでしょうか。 <br /><br />自分がそのような愛の行為を実践できるかどうかは別にして、愛とは何かについて私は知っていると、おそらく私たちの多くは思っているのではないでしょうか。 <br /> ところが聖書はこう断言するのです「神は愛です」God is love. この文の意味は「神は、一つの愛です」とか「神は、他にも多くある愛というものの、一つの形です」という意味ではありません。 <br /> 神は愛です~聖書が伝えるこの文の意味は、「神こそが愛であり、愛の源です。私たちが知っていると思っている愛は、全てこのお方を源泉としているのです」というのです。 <br /> つまり、もし神を知らないと言うのなら、愛が何かも分からない、ということになります。 <br /> するとまたもう一つの根本的な疑問がそこで私たちに浮かぶかもしれません。それは「神とは何か?」です。キリスト教の神以外にも、世の中では色々な神々が信じられています。 <br /><br /> そのような“色々な神々”が愛の源だと、聖書は言うのでしょうか。そうではありません。聖書が伝える神は、イエス・キリストを通してご自身を現わされた神です。 <br /> 聖書によって伝えられる、イエス・キリストを通してご自身を人に表された神こそが、唯一真の神である、というのが聖書のメッセージです。 <br /> イエス・キリストを通してご自身を人に表された神が、すなわち愛である~これが聖書の伝えるメッセージです。 <br /> クリスマスは、神の子であるイエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを記念する時です。キリストを通して、私たちに“神とはどのようなお方か”ということ、そして真の愛が知らされました。 <br />ですから、今から2023年前、イエス・キリストが現在のイスラエル/パレスチナにお生まれになったその出来事は、私たち全ての人間にとっての一大事でした。 <br /><br /> イエス・キリストが、天の父なる神の意志と御計画により、人としてこの世界にお生まれになったことには明確な理由(目標)がありました。 <br /> 今日の箇所の前の部分である、ヨハネの手紙一4章9節(1 John 4:9)に次のように書かれています。 <br />神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 <br /> 「独り子」とは神の子であるイエス・キリストのことです。神が独り子のイエス・キリストを世に遣わされたのは、そのお方によって、私たち人が生きるようになるためだったのです。 <br />キリストによって、私たち人が生きるようになるため、神はイエス・キリストを世にお遣わしになりました。 <br /><br />生きるとは、イエス・キリストを通して示された神の愛を頂いて、神の中に生きるということです。 <br />生きるとは、聖書に書かれた神の言葉を通して神の御心を知り、神を礼拝し、神に祈るという生活の中で、霊的な命を生きるということです。 <br /> 私たちはまず、神の言葉を聞くことを通して神のことを知らされます。そして神の言葉に思いを巡らせ、神の言葉から力を頂くという経験を通して、神の言葉が確かに真実だと、信じるように(決断するように)なります。 <br /> そのように神を信じる者は、神の内に(神の愛のうちに)留まろうとします。神の愛の中で生き続けようと、決心するということです。 <br /> 神の愛を知らされ、神の愛に留まろうとする人には、神もその人の内にとどまってくださる、と今日の16節に書かれています。(留まる=英語では ”内に住む live in“) <br /> 神がその人のうちに留まって(住んで)くださると、その人からは恐れがなくなります。それが17~18節に書かれています。 <br /><br />17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 <br />18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 <br /><br />神の愛を信じ、神の愛のうちに留まって生きる人からは“恐れ”がなくなるというのです。 <br /> 「裁きの日」とは、信仰者がいずれ神の御前に立たされ、自らの行いや言葉について神から問われ、裁かれる時のことが言われています。 <br />聖書が伝えるその「裁きの日」を、信仰者はいつか迎えることになります。しかし私たち人は、誰も完全ではない、かならず欠点があり、かならず間違いを犯す者です。 <br />ですからどんな立派な人であっても、完全なお方である神の前に立たされた時、裁かれずにはいられないのです。どんな人であっても神の前には残念ながら有罪なのです。 <br /> しかしキリストを信じ、キリストの愛(すなわち神の愛)のうちに生きた人は、キリストが、その裁きを代わりに引き受けてくださったことが分かっているので、恐れなくてもよいのです。 <br /><br />クリスマスは、やがて私たちのために、私たちの罪を赦すために、身代わりとなってその命を捧げてくださった救い主がお生まれになった出来事です。 <br />私たちのために救い主がお生まれになって、その方によって私たちは罪赦され、その方の無限といってよい愛が私たちに与えられたのです。 <br />神のそのような愛を豊かに受けて、恐れの無い、感謝と喜びの日々を私たちは歩み、生きていこうではありませんか。 <br /><br />今日の箇所の20~21節をお読みします。 <br /><br />20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 <br />21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 <br /><br /> 神から愛されるとは、素晴らしいことです。神から愛されることほど、私たちにとって幸いなことはありません。 <br /> 神が私たちを愛して下さるとは、神が私たちを大切に(尊いと)思ってくださっていることです。 <br /> 今日は礼拝の中で「たいせつなきみ You are special」という劇が演じられますが、その中で、木彫りの小人たちの造り主であるエリが言っています。 <br /> 「わたしがあなたを造った。だからあなたは私には大切なんだ」~造り主である神が私たちにそう言って下さっていることが、私たちにはなかなか分かりません。 <br /> それを頭では分かっているかもしれませんが、その喜びが本当に心に溢れているかどうか、キリスト者は一度真剣に考えてみたほうがよいと私は思います。 <br /><br /> 神がこのありのままの私を愛し、ただ神が私を造ったのだから無条件で愛して下さっているという聖書のメッセージを、私たちは(時間がかかっても)受けとめ、信じていきたいと願います。 <br /> そして、神にそれほどまでに愛された者には、自身の兄弟姉妹(隣人や友人)、他者を愛するという義務がある、と今日の箇所は言うのです。 <br />「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 <br /><br />21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」 <br /><br /><p class="MsoNormal"><span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">これは私たちには大変厳しい言葉です。</span></p>
イエス・キリストを信じ、神の愛のうちに留まれば、神の裁きを恐れることがなくなる、と今日の箇所には書かれています。 <br /> しかし神の愛のうちに留まったかどうかは、あなたが兄弟姉妹を、信仰の家族を、そして他者を愛したかどうかで判断される、とも今日の箇所は言うのです。この言葉を前に、私たち誰もが大変厳粛な思いにさせられます。 <br /> しかし、私たちの神は、私たちができないことをしろと、お命じになる方ではありません。神は私たち自身の中に、愛がないことはよくご存じです。 <br /> ですから神は御子イエス・キリストを、キリストの愛を私たちに与えてくださいました。私たち自身ではなく、キリストの愛をもって、きっと私たちは自分以外の他者を愛することができるのです。 <br />イエス様を私たちは信じ、イエス様から頂く愛によって、自分以外の他者をも大切にする、まず小さな一歩を、私たちは踏み出したいと願います。 <br /><br /> 節の順番が前後しますが、19節に次のようにかかれています。 <br /><br />19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 <br /><br /> 神がまず(最初に)私たちを愛してくださったのです。ですから私たちも愛することができる(できるはず)、その一歩を踏み出すことができるはずだ、と聖書は告げるのです。 <br /> 神がまず私たちを愛し、私たちに全てを与えてくださいました。それがクリスマスの出来事です。神の御子イエス・キリストが私たちのためにお生まれになりました。 <br /> キリストによって罪赦され、神の前に(人の前にも)恐れなく、神の愛のうちに留まりつつ、兄弟姉妹、他者を愛そうと努力しつつ、信仰の日々を歩んでまいりましょう。 <br />クリスマスの恵みを私たちは、心から喜び感謝したいと願います。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-57178875830148028882023-12-17T06:48:00.002+09:002023-12-17T06:48:45.935+09:002023年12月17日 主日(アドベント第3)礼拝<br /><br />招詞 哀歌3章22~24節 <br />アドベントキャンドルの点火~祈り <br />賛美 新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 ペトロの手紙一 1章3~9節 <br />祈祷 <br />宣教 「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れて」 <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神 <br />頌栄 新生讃美歌671番 <br />祝祷 <div><br /></div><div><br /></div><div>神の御子イエス・キリスト、わたしたちの主であるイエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)第三主日の礼拝を私たちは今日捧げています。 <br />礼拝の始めに三本目のアドベント・キャンドルに火が灯され、祈りがささげられました。三本目のろうそくの火の意味は“喜び”です。 <br />クリスマスは全ての人々にとっての、大きな、真の喜びです。しかし私たちは、戦争状態の中に置かれていたり、災害に見舞われたりして、命の危機に日々さらされている人たちが世界には多くおられることを知っています。 <br />クリスマスを平和の中で迎えることができない、多くの人々のことを覚え、わたしたちは祈りを捧げたいと願います。私たちは、人と人との間の争いと憎しみが、一刻もはやく止みますようにと、祈ります。 <br /><br />キリストは、憎しみと争いのある、邪悪な考えと思いで満ちた私たちの人間の世界の現実の只中へ生まれてこられました。 <br />そのお方を通して、“神とはどのようなお方であるか”がはっきりと示されるために、キリストは人としてお生まれになりました。 <br />今日の聖書箇所(ペトロの手紙一1章3~9節)の最初の1章3節は次のような願いと祈りの言葉で始まっています。 <br /><br />わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。 <br />この言葉は、キリストを信じる信仰者に与えられた、大きな喜びの言葉であり、私たちに大きな力と希望を与える言葉です。 <br />神は私たちに言葉を発する口を与えてくださいました。神は私たちに言葉を与えてくださいました。神から与えられた口と言葉で、わたしたちは「神がほめたたえられますように」と願い、祈ることができるのです。 <br /> 私たちは罪を抱えた人間です。ですから常に、神の栄光ではなく、実際には自分自身の栄光を求め、自分が人から讃えられること、評価されることを望んでしまいます。 <br /> わたしたちはどうしても、他人との比較によって、優越感に浸ったり、また逆に劣等感にさいなまれたりします。 <br />しかしキリスト者は、イエス・キリストの神によって、自分が愛されていることをしっています。 <br /><br />神の愛を知っていますから、わたしたちは他人との比較で自分の価値を評価する必要がないことを知っています。 <br />自分がほめたたえられる必要はないのです。この世界をお造りになり、この私をもお造りになり、そしてこの私を愛して下さる神こそがほめたたえられますように、と私たちは心から願うのです。 <br />ただ神を見上げて、神がいつも与えてくださっている恵みに感謝をして、心から「栄光はただ神にのみありますように」とわたしたちは願います。 <br /> 新型コロナウイルスによる感染症拡大以来は特に、多くの教会で、教会に集う人の数、教会員や財政の減少にも苦しんでいます。教会が閉鎖される、という話も私たちは聞きます。 <br />そんな中で私たちもやはり、“これから私たちの教会はどうなってしまうのだろう”と、心配になることがあると思います。 <br />私たち別府国際バプテスト教会も、礼拝出席者数は、コロナ前に比べて、今はほぼ半数に減ってしまいました。 <br />特に海外出身の方々が多く集う私たちの教会に、感染症防止対策のための、国への入国禁止(制限)措置は、それまで全く予想もしなかった大きな影響を与えました。 <br />今、ようやく感染症拡大以前の形へと戻りつつます。(対策をしつつの新しい形というべきでしょうか) <br /><br />しかし、今日も聖書からわたしたちは確かな希望を頂きます。どんな状況の中でも、やっぱり“迷うことはない”と私たちは聖書の言葉によって励まされるのです。 <br />それは、どんな状況の中でも、私たちは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」を褒めたたえる、賛美、礼拝することができる喜びがあるからです。 <br />わたしたちが心からイエス・キリストの神に感謝し、キリストにだけ栄光がありますように、神にすべての栄光をお返しします、という気持ちで一致をするならば、 <br />たとえわたしたちの目には少ない人数であっても、わたしたちが心から賛美し神を喜ぶのならば、神はますますわたしたちを祝福し恵みを与えつづけてくださるでしょう。 <br />そしてそれが神の御心ならば、教会に集い新たに神を信じる人々をも、きっと神が神ご自身の御業としてこれから起こしてくださる~そのように、わたしたちは希望を持つことができるのです。 <br />ですから私たちは、根本のところで、迷う必要はないのです。わたしたちがあがめ、讃美をするお方は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」お一人であることがはっきりしているからです。 <br /><br />この“わたしたち”には、今こうして教会に集うわたしたちだけではなく、クリスチャンの方、またクリスチャンでなくても全ての人を含みます。 <br />なぜなら主はお一人だからです。唯一真の神はイエス・キリストの父なる神のみであるからです。 <br />この世のものが、どれほど素晴らしく、たとえそれが神のように見えるものがあっても、真の神はイエスキリストの父である神、お一人です。 <br />今教会に集う人は少ないかもしれません。しかしそれでも、“世界のあらゆるすべての人々が、イエス・キリストの神を褒めたたえる日が来ますように”、“あらゆる人々が真の神を見いだすことができますように”という大きな願いも私たちは持つことができるのです。 <br />それは素晴らしい願いではないでしょうか。それはただの絵空事ではないのです。わたしたちは“あらゆる人々がイエス・キリストの神を褒めたたえますように”というその願いを、確かな(確実な)希望に基づいて持っているからです。 <br /><br />3節の続きに次のように書かれています。 <br />神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 <br /><br />神はわたしたちを新たに生まれさせてくださいました。キリスト者の皆さんは、キリストを信じて生まれ変わったという自覚がありますか?新たに生まれたこと、新生の喜びがわたしたちにはあるでしょうか。 <br />わたしがバプテスマを受けたとき(語学留学中にアメリカの教会で私はバプテスマを受けました)、教会の方が礼拝の後に、ケーキでお祝いしてくれました。 <br />そのケーキの上には”Tomo, Happy Birthday in Jesus”と文字が彩られていました。それを見て、“わたしは、キリストの中で新たに生まれたのだな”と、改めて思わされ感激しました。 <br />わたしたちがイエス・キリストを信じるということは、新たに生まれる、新しい命をいただく、ということです。 <br /><br />今日の同じ章、1ペトロ1章23節に次のように書いてあります。 <br /> あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 <br /><br /> ここにどのように私たちが生まれ変わるかが書かれています。わたしたちは神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれるのです。 <br />確かに神の言葉(聖書の御言葉)はわたしたちを生まれ変わらせます。神の言葉が私たちの心の中に宿る時、御言葉によって力を与えられる時、わたしたちはその度に新しい自分に生まれ変わっているのです。 <br />こうして礼拝で私たちが神の言葉を分かち時、私たちには喜びで満たされます。 <br />そうすると私たちは自分ではなく、“この喜びを与えてくださるイエス・キリストの父である神のみがほめたたえられますように”と心から願う者に私たちは生まれ変わらされるのです。 <br />神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれる~そのような豊かな信仰の日々を私たちは生きることができるのです。 <br /><br />今日の箇所の最後の節である8~9節をお読みします。 <br />8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 <br />9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。 <br /><br /> この手紙を書いたのは、イエス・キリストの一番弟子であったペトロです。ペトロはイエス様と共に生活をし、伝道活動を共にした人でした。 <br /> “自分も捕まるのではないか”という恐怖に襲われ、捕まってしまったイエス様のことを「あんな人は知らない」と言って、ペトロはイエス様を見捨ててしまいました。 <br /> それでもペトロは復活したイエス・キリストに出会いました。復活したイエス様はペトロと他の弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と命じられました。 <br /> 復活のイエス様に出会ったペトロ始め弟子たちは、それから力と喜びに満ちて宣教をしました。 <br />今の私たちは、ペトロのように、生きている時のイエス様、そして復活したイエス様に直接会い、そのお体を直接見ると言う経験はしていません。 <br /><br /> しかし、それでも今の私たちに与えられる喜びは、生きている時のイエス様と復活のイエス様を直接見たペトロ達(弟子たち)の喜びにも決して劣らない、大きな喜びだと、今日の箇所は伝えます。 <br />なぜなら、私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いるからです。 <br />目には見えませんが、聖霊の導きによって、神の言葉が生きる命の言葉となった私たちの心と魂に入って来て、私たちを内面から“言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”で満たしてくれるのです。 <br /> イエス・キリストが私たちと共におられ、私たちを支え導いてくださり、辛く悲しい時にも豊かに慰めてくださる~そのような確かな救いを私たちは頂いています。 <br /> 私たちは毎年クリスマスをお祝いし、御子イエス・キリストの誕生を覚え、感謝の心をお捧げします。 <br />それは、ある年間行事をただ繰り返す、ということではありません(そのようにしてはいけないのです)。私たちは毎年、そして日々キリストによって与えられる、”言葉では言い尽くせないすばらしい喜び”を頂きながら、その喜びで満たされるのです。 <br />それほどの大きな喜びがキリストの信仰によって私たちに与えられていることを感謝し喜びつつ、今週の日々も私たちは歩んで参りましょう。</div>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-66001345644785546292023-12-09T15:27:00.001+09:002023-12-09T15:27:03.011+09:002023年12月10日 主日礼拝(第二アドベント) <br /><br />招詞 ヨハネの黙示録19章6節 <br />アドベントキャンドルの点火~祈り <br />賛美 新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 イザヤ書52章7~10節 <br />祈祷 <br />宣教 「あなたの神は王となられた」 <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり <br />頌栄 新生讃美歌 671番 <br />祝祷 <br /><br />主イエス・キリストの誕生を待ちわびる待降節(アドベント)の期間を今、私たちは過ごしています。今日は、アドベント第二の日曜日です。 <br /> 礼拝の初めに二本目のアドベント・キャンドルに火が灯されました。二本目のアドベント・キャンドルの火は、“平和”を表わします。 <br /> 一本目のアドベント・キャンドルの火は“希望”を表わします。イエス・キリストが私たちの世界に来てくださったのは、真の“希望”が私たちに与えられた出来事でした。 <br /> その希望は、神が人となり私たちと共に生きてくださる、という希望です。私たちがその希望を信じたならば、もう何ものも私たちから取り去ることができない希望です。 <br /> 今を生きる希望と、将来への希望とがイエス・キリストを通して私たちに与えられました。神が私たちと共に生き、私たちと共に日々歩んでくださる、という確かな希望です。 <br /> 私たちは今日もこうして共に礼拝を捧げることで、今この時を私たちと共に生きて下さるイエス・キリストの希望を分かち合うことができます。私たちはそのことに本当に感謝をしたいと願います。<div> <br /> 今日のアドベント第二主日では、二本目のアドベント・キャンドルの火の意味である“平和”についての知らせを、聖書の御言葉から私たちは聞いていきましょう。 <br /> 今日の聖書箇所として、旧約聖書『イザヤ書』の52章7節~10節を私は選びました。 <br />イザヤ書52章が書かれた背景としては、イエスラエルがバビロン帝国によって国を滅ぼされ、多くのユダヤ人たちがバビロンで捕囚としての生活を送っていた、“バビロン捕囚”の時代の終わりごろだと言われます。 <br /> 捕らわれの生活を送る民たちに、その捕囚生活が終わるという希望と喜びの知らせが知らされる様子が、今日の箇所には記されています。 <br /> 特に今、実際の戦争状態にある国や地域の中で、多くの人たちの日々の生活と命が脅かされ、多くの命が失われていることを思うと、私たちの心は痛みます。 <br />人質となって捕らわれている人たちやそのご家族たちがおられることも思うと、なぜそのようなことが起こるのか、と私たちは疑問と憤りを覚えます。 <br /> 私は、「自分には何もできない」と言う無力感にも囚われます。皆さんはいかがでしょうか。しかし私たちが無力感に囚われるような時こそ、聖書が伝える平和に私たちは真剣に聞き、その平和を私たち自身が頂きたいと私は願うのです。 <br />そして聖書を通して頂く真の平和を土台にして、私たちひとり一人が希望と力を与えられ、生き方と行動が変えられるならば、そこから世の平和は必ず実現していく、と私たちは信じてよいのです。 <br /><br />7節をもう一度お読みします。 <br /><br /> いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 <br /><br /> ここでは、人々に、一つの知らせを伝える人(伝令者)のことが言われています。彼が伝えたものは、“良い知らせ”でした。 <br /> ここでは、捕らわれの身になっている人たちに、彼らが待ちわびていた知らせが届けられるという希望が言われています。 <br /> イスラエルの人たちが捕囚生活の中で待ちわびていた知らせは、解放の知らせであり勝利の知らせでした。 <br />人々が長い間待っていた解放と救いの知らせが、その人を通して人々に告げられた、というのが今日の箇所が伝えることです。 <br />私たちはここで、その人の“足が、いかに美しいことか” と言われていることにも注目したいと思います。</div><div> <br /> ここでは、戦争の勝利の知らせを伝えるために遣わされた“伝令者”がイメージされています。彼は、その知らせを告げるために長い道のり、山々を行き巡りました。 <br />今ならば、スマホでメッセージを送れば一瞬で、どんなに遠くにでもそれは伝わります。人が、手紙や知らせを直接携えて運ぶということは、これからさらに少なくなっていくのでしょう。 <br />そのような時代に生きる私たちには想像することが難しいことですが、一人の伝令者が、長い道のり、おそらく何十キロ、あるいは何百キロの長い道を、山や谷を越えて行くことは大変な労力を要したはずです。 <br />今日の箇所は、山々を行き巡るその伝令者の足を“美しい”といいます。実際には、山々を行き巡った伝令者の足は大変汚れていたはずにも関わらず、彼の足は美しい、というのです。 <br /> それは、その知らせを人々に伝えるために必死に走る伝令者の働きと彼の心の思いを、主なる神がご覧になって、彼の足を“美しい”と表現しているのではないでしょうか。 <br /><br /> それは、一人の信仰者が、主の良き知らせ、救いの知らせを信じ、その知らせを携えながら、それを他の人にも伝えたいと願いつつ日々を生きる姿にも例えられます。 <br />キリストを信じ、毎日を懸命に生きる者の姿が“美しい”と、言われているのです。 <br />そして、そのように福音を信じて生きる者が美しいと言われるのは、彼が信じ携えている神の福音そのものが、限りなく美しいからです。 <br /> 聖書は、わたしたち人を“土の器”だと言います。新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』4章7節に次のように書かれています。 <br /><br />2コリント4章7節 <br />ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 <br /><br /> 私たちは“土の器”です。弱く脆く、また罪を抱えた者です。しかし、そのような土の器の中に、私たちは“福音の光”、”神の栄光を悟る光”を持っているのです。 <br /> 土の器である私たちを、内側から美しく輝かす福音という光を、私たちは豊かに頂いていきたいと願います。 <br /> 土の器である私たちを福音の光によって輝かせて下さり、そしてそんな私たちを“美しい”と認めてくださるお方、主なる神に私たちは感謝をしたいと願います。 <br />伝令者が伝えた知らせた内容は、“良い知らせ”であり、“平和”であり、“救い”でした。人々が待ち望んでいた解放の知らせでした。 <br /><br />クリスマスは、私たちに真の平和が神によって知らされた出来事です。クリスマスは、神から私たちに真の平和がプレゼント(贈り物)として与えられた出来事です。 <br /> 神から私たちに与えられた平和は、神の御子イエス・キリストが私たちの王に成るということによってもたらされました。 <br />神の平和は、私たちがイエス・キリストを私たちの王として信じ、その王なるキリストを私たちの主としてお迎えすることから始まります。 <br /> 私たちがイエス・キリストを主であり、私たちの王であると信じ、キリストが私たちの心を支配なさる時、そこから神による平和が生まれます。 <br /> キリストを私たちの心に迎え入れる時、まさに今日の箇所の9節に書かれているように、廃墟となっていた都エルサレムに、人々の歓声と喜びの声があがるのです。 <br />廃墟となっていたエルサレムとは、空虚な思いで満たされていた私たちひとり一人の心の姿ではないでしょうか。 <br /> 空虚な心を何かで満たそうとして、私たちは色々なものを求めると思います。しかし、この世の中の何一つとして、私たちの心の空しさを、完全に満たしてくれるものはありません。 <br />イエス・キリストの福音以外に、私たちの空しさが満たされ、喜びで心が満ちることはありません。 <br /> しかしイエス・キリストを王として信じ、キリストが私を(私たち)を支配するお方だと認めて生きる時に、私たちの心は大きな喜びで満たされます。 <br /><br /> 9節後半には次のように書かれています。 <br /><br /> 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 <br /><br /> 主イエス・キリストは、私たちの心を無理やり支配し、私たちから自由や尊厳を奪うお方ではありません。 <br /> むしろ主イエス・キリストは私たちが自らキリストを王として迎える決心をすることを促し、またご自身を通して真の自由と尊厳を私たちに与えようとしてくださるお方です。 <br /> キリストを通して、私たちは自分が“土の器”でしかないことを知ります。そしてその土の器である私たちが、神によってどれほど愛され、大切なものとされているのかを、キリストを通して私たちは知らされます。 <br /> 新約聖書の『マタイによる福音書』で、イエス様がお生まれになった時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王にたずねました。 <br /> 学者たちのその言葉も、「キリストこそが真の王、王の王である」ということを表しています。当時ユダヤを治めていたヘロデ王は、あくまで人間としての王でした。 <br /> しかし、イエス・キリストは神であり、全ての人がそのお方を信じ、従うべき真の王として私たちの世界にお生まれになったのです。 <br /> 私たちは、“キリストこそが王であり、私たち全ての者を支配なさるお方”ということを信じる、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。 <br /><br />今日の箇所の最後の10節をお読みします。 <br />10主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。 <br /><br /> 私たちがイエス・キリストを主として、私たちを支配なさる王として信じる時、私たちを通して神の御腕の力が、世の人々にも明らかとなり、伝えられていきます。 <br /> キリストが私たちを支配なさる時、神の平和が私たちを支配し、その神の平和が私たちを通して世へと拡がるのです。 <br /> 神の平和で私たちが満たされれば、私たちはきっと互いを受け入れ合い、互いを愛しあうでしょう。お互いの存在がお互いにとってかけがえのないものになるでしょう。 <br />そしてやがて「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」という輝かしい希望も私たちには与えられるのです。 <br /> 希望の神、平和の救い主、イエス・キリストの神を心からあがめつつ、キリストの誕生を感謝する待降節の日々を、私たちは過ごして参りましょう。</div>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-28063463495651719272023-12-06T16:39:00.000+09:002023-12-06T16:39:01.042+09:00<p> クリスマス礼拝のお知らせ</p><p> 12月24日(日) 第一礼拝 午前9時~、 第二礼拝 午前10時50分~</p><p> 12月24日(日) 燭火礼拝(クリスマス・イヴ礼拝)午後6時~7時(一回です)</p><p> 教会には、信者でなくても、どなたでもお越しいただけます。</p><p> ぜひクリスマスを教会で共に過ごしましょう。</p><p><br /></p><p><br /></p>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-37043204236077823602023-12-05T15:07:00.004+09:002023-12-05T15:11:10.355+09:00<p> *こどもクリスマス会~12月16日(土)14時からです。</p><p> どなたでも歓迎です!<br /></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjNYkGSHMiRtV1SW8d_ImZy6eEwTaL5b3BOppECPxhz0LfqazxdFKQG7uAmvlB1bG4dZhq-6lOGQu3_orCcPyVvwvissk9iUMNEyktODOYtXNp5Q_mffTZLjtVY6gPg5EA7oXOOf16U1eeJIzgyLy-xlyg_yodZfQ9n2FH3OqY4YZOOMJUhmhuHHvwhxYZK/s2339/%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9-1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="2339" data-original-width="1654" height="737" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjNYkGSHMiRtV1SW8d_ImZy6eEwTaL5b3BOppECPxhz0LfqazxdFKQG7uAmvlB1bG4dZhq-6lOGQu3_orCcPyVvwvissk9iUMNEyktODOYtXNp5Q_mffTZLjtVY6gPg5EA7oXOOf16U1eeJIzgyLy-xlyg_yodZfQ9n2FH3OqY4YZOOMJUhmhuHHvwhxYZK/w521-h737/%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9-1.jpg" width="521" /></a></div><br /><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><br /><p></p>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-13274225755469835382023-12-02T22:23:00.001+09:002023-12-02T22:23:41.366+09:002023年12月3日 主日礼拝 <br /><br />招詞 ユダの手紙1章21節 <br />アドベントキャンドルの点火~祈り <br />賛美 新生讃美歌 148番 久しく待ちにし <br />祈りの時 <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 詩編27篇11~14節 <br />祈祷 <br />宣教 「主を待ち望め」 <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 492番 わが身の望みは <br />頌栄 新生讃美歌671番 <br />祝祷 <br /><br /><br /> 今日から、キリスト教会では「アドベント」Adventという期間に入ります。 <br /> アドベント(待降節)は、クリスマス前の約4週間(今年は、12月24日が日曜日なので、三週間)の期間を指し、イエス・キリストの誕生を私たちが覚え、感謝し、キリストの誕生を待ちわびる期間です。 <br /> イエス・キリストは今から約2020年前に、イスラエル/ユダヤの地にお生まれになりました。お生まれになったユダヤの地で、イエス様は神の国の福音について人々に宣べ伝えました。 <br /> やがて多くの人々がイエス様の教えを信じ、イエス様に従うようになりました。それはその人たちの生き方が変えられたということでした。 <br /> イエス様を信じ、イエス様に従うということは、私たちの生き方が変わるということなのです。 <br /><br /> イエス様を信じ、イエス様に従うということは、自分の命、そして生き方の主導権をそのお方(イエス・キリスト)に明け渡す、ということであるからです。 <br /> ですから、イエス・キリストを信じ、イエス様に従うということは、それ以前の生き方(自分が自分の人生の主導権を握っている生き方)から、神であるキリストが主導権を握る生き方へと変えられるということなのです。 <br /> 私がイエス・キリストを自分の主、救い主として信じ、クリスチャンになって生きようと決意した時、わたしは信仰のことや聖書のことを、完全に理解していたわけでは勿論ありませんでした。 <br /> それでも、キリストを信じクリスチャンになるということは、自分の中心が自分ではなくなり、自分の指針としての確実な何か(それは、決して変わることのない神)を自分の中心に持つことになるのだ、ということだと私は理解しました。 <br /> 私たち自身の思いや感情は(あるいは信念のようなものでも)、自分を取り巻く環境や周りの人々からの影響などによって、いつでも変わる可能性がある、とても移り変わりやすいです。 <br /> そのような“自分”を自分の中心、土台として持っている限り、人は安定した(霊的に)、平安な生き方をすることはできません。 <br /><br /> しかし自分の中心に神を置き、神をお迎えし、その神に従うのならば、私たちは神によって揺らぐことのない平安を頂くことになります。神は決して変わることのないお方だからです。 <br />自分中心から“神中心”の生き方へと変えられること、それがキリストを信じ、キリストに従って歩む道です。 <br /> 自分中心ではなく、神中心/キリスト中心に変えられると、私たちはいつも祈りを通して神の御心を知ろうとします。 <br />神こそがわたしたちにとって最善をご存知のお方だと信仰者は信じるので、私たちは神の御心が何であるのか、を祈りによって知ろうとするのです。 <br /><br /> アドベント第一主日の今日の礼拝の聖書箇所として私は詩篇27編11~14節を選びました。詩編27編は、ダビデによる祈りの言葉です。 <br /> ダビデは、イスラエルの王様でしたが、王になる前にも、そして王になってからも様々な試練に会いました。 <br /> ダビデは人として間違った選択、過ち、正しくない道を歩むこともありました。私たち誰もがそうであるように、ダビデも決して完璧ではなく、間違いも犯したのです。 <br /> ダビデはそのような経験を通して、神の示される道こそが唯一正しい道、王として、そして信仰者として彼が進み行くべき道であることを知るようになったのでしょう。 <br /><br /> 今日の箇所の最初の節(11節)前半に次のように書かれています。 <br />主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。 <br /><br /> 詩編の他のいくつかの箇所でも、ダビデはこのように“あなたの道を示して(教えて)ください”と願い、祈っています。 <br /> ダビデ王は歴史上、イスラエルの人たちにとても尊敬され、敬われてきた人物です。キリスト者にとっても、ダビデはやはり重要な人物であり、信仰的に私たちが彼から学ぶことも多くある信仰者です。 <br /> 偉大な王、そして偉大な信仰者として尊敬されているダビデも、「主よ、あなたの道を示してください」と、神に祈り願っているのです。 <br />ダビデは、神が示してくださる道こそが、自分にとって最善の道だと信じていたからです。 <br /> 私たちもダビデに倣(なら)い、神が示される道こそ私たちにとっての最善の道であると、信じることができるようになりたいと願います。 <br /> そしてそのように信じた上で、“あなたの道をわたしに示して(教えて)ください”と熱心に神に私たちは祈るようにもなりたいと願います。 <br /><br />そのような祈りを繰り返して、そしてその度に道が示される信仰の経験を通し、“神は確かにわたしの祈りを聞いてくださる”と私たちは確信していくことができるからです。 <br /> 「平らな道(まっすぐな道)」とは、“神の前に正しい道”のことです。神の前に正しい道を私たちが行くには、神ご自身がその道を示してくださらねばなりません。 <br /> 神こそが何が正しく何が善であるかをご存じのお方であり、私たちは神から示されなければ、何が真に正しいのかを自分で判断することはできないからです。 <br /> 私たちは、自分としては正しいと思うことをしたとしても、それが他の人の心を傷つけたり、良くない結果を産んだりすることがあります。私たちがそう意図しなくても犯してしまう罪も存在します。 <br /><br /> ですからわたしたちは、自分がそのように不完全で、常に罪を犯す可能性を持つ者であることを自覚し、謙虚に神に向かって「あなたの道を私に示して下さい。あなたの道へと導いてください」と祈らなくてはならないのです。 <br /> 私たちはひとりでもそのように祈りますし、また信仰の家族である教会としても、私たちは心を合わせて一緒に、そのように祈りたいと願います。 <br />「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」と私たちはぜひ一緒に祈ろうではありませんか。 <br /> 主なる神を信頼し、「主は祈りを必ず聞いてくださる」という確信が深まるほど、私たちは信仰による希望を持つことができるようになります。 <br /> 主である神が私たちの祈りを聞いて下さるのですから、それ以上に力強いことはありません。 <br />そして私たちには、神への信仰を通して、希望が与えられます。13節に次のように書かれています。 <br /><br />13わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 <br /><br /> 神から来る信仰の希望とは、私たちが生きるこの地上にあって、主の恵み(主の善=英語訳)を見る、という希望です。 <br /> それは、神が造られたこの世界で、私たちは神が与えて下さる善き物、神の素晴らしさを見て、それを理解し、希望を持って生きることができるようになるという希望の確信です。 <br /> 神への信仰がなく、自分中心で私たちの身の回りや社会、世界を見るならば、“自分の思い通りにならない”という不満ばかりが、いつも募るでしょう。 <br /> しかし神から来る希望の信仰を通して私たちが私たちの身の回りを見るのならば、主の恵みがいかに多くあるかということを、私たちは認めることができるようになるのです。 <br /> 主は私たちに善き物を私たちに与えてくださるお方ですから、私たちは私たちの頑なな自分中心の思いのために、神が私たちに与えてくださる善き物を決して拒むようなことがないようにしたいと思います。 <br /><br /> 信仰の希望をもって、私たちが生きるこの地上の世界に、主の恵みが溢れていることを私たちは喜びたいと願います。 <br /><br />11節の前半をもう一度お読みします。「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」 <br /> 遠い昔、信仰者ダビデがこのように祈ったことに、主なる神は応えてくださいました。おそらくダビデ自身も想像もできなかったほど、素晴らしい方法で神はダビデのこの祈りに応えてくださったのです。 <br /> 神は、御子イエス・キリストを、私たち全ての者の道として、命と真理の道としてこの世界に贈ってくださいました。そのようにして、主はダビデの祈りに応えてくださったのです。 <br /> イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」とおっしゃいました(ヨハネによる福音書14章6節) <br /><br /> ダビデが祈ったように、神は神ご自身の道、真理の道を私たちにはっきりと示してくださったのです。神の御子イエス・キリストという道こそが、唯一真の真理の道であることがわたしたちに示されました。 <br /> キリストにこそ私たちは従い、キリストの示す道を私たちは歩んでいかねばなりません。キリストこそが唯一正しい道なのです。 <br /> 私たちにとって何が最善であるかをご存知であるお方が、主イエス・キリストを通して私たちを導いてくださる平らな、正しき道へ向かって、私たちは歩んでいきたいと願います。 <br /><br /> 今日の箇所の最後の14節をお読みします。 <br />14主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。 <br /> 「主を待ち望め」~この言葉を今日のメッセージの題に私はいたしました。アドベント(待降節)の今、私たちは新たな思いと期待をもって、主を待ち望みます。 <br />主を待ち望むとは、私たちが日々信仰を新たに、自分中心の心を悔い改めて、神中心の生き方へと変わる決意をすることです。 <br />自分の中心に居座ろうとする自分を心から追い出し、イエス様をいつも心の中心にお迎えする、という決心です。 <br />そのように私たちが心から願い祈るとき、主は必ずいつも私たちの所へ来て下さり、そして私たちの心の中心に住んでくださるようになるのです。 <br />私たちは心合わせて神に祈り、イエス様がいつも私たちの中心にいてくださいますようにと祈りましょう。 <br />私たちはイエス様に私たちに中心にいていただくことにより、イエス・キリストが私たちに示して下さる道を、歩んでいく者でありたいと願います。 <br />私たちは、日々主に導かれて、キリストにある希望の道、信仰の道を歩みつつ、このアドベントの期間を過ごしてまいりましょう。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-44819843256025423392023-11-25T16:47:00.002+09:002023-11-25T16:47:16.909+09:002023年11月26日 主日礼拝 <br /><br />招詞 詩編40-篇9節 <br />賛美 新生讃美歌650番 喜びて主に仕えよ <br />主の祈り <br />主の晩餐 <br />世界バプテスト祈祷週間を覚えて <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書4章42~44節 <br />祈祷 <br />宣教 「ほかの町にも神の国を告げ知らせなければならない」 <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 379番 行きて告げよあまねく <br />頌栄 新生讃美歌679番 <br />祝祷 <br /><br /> 今日からの一週間(11月26日~12月3日)は、「世界バプテスト祈祷週間」です。 <br />世界バプテスト祈祷週間では、私たちの教会が加盟している日本バプテスト連盟(Japan Baptist Convention)の日本バプテスト女性連合(Japan Baptist Women’s Union)が推進している国内外の様々な宣教の働きについて特に覚え、祈りと献金を献げます。 <br /> イエス・キリストにより、神の国の福音(良い知らせ)が私たちの世界に知らされて以来、多くのキリスト者たちが福音を世に伝えることを自分の使命として、宣教の働きに仕えてきました。 <br /> 神からの召しを受けた多くの伝道者たちが、自分の故郷や住む場所を遠く離れて各地へ、時には外国の地にまで出かけて行き、イエス・キリストの福音を伝える宣教の働きに仕えてきたのです。 <br /> そして福音宣教に仕える宣教師たちの働きの背後には、彼ら彼女らを祈りと献げ物によって支える多くの信仰者たちがいました。 <br /><br />今も、宣教の働きに仕えている宣教師たちが各地に沢山おられます。私たちは福音宣教に従事する宣教師たちの働きを覚え、感謝と祈り、そして献げものにより、宣教師の方々を支えたいと願います。 <br />「世界バプテスト祈祷週間」という名前から、わたしたちは“この一週間が、まず祈りを(特別な祈りを)捧げるための一週間である”ということを確認したいと思います。 <br /> 私たちが献金を捧げることも大切です。しかし福音宣教の働きも、その全てはまず祈りによって始めなければならないということです。 <br /> 宣教のために神に祈るとは、「神の御心が先にあり、神の御心に従って行きます」という私たち信仰者の決心を改めて表すことでもあります。 <br /><br />今日の聖書箇所では、イエス様を自分たちのそばに引き留めようとする人々と、彼らの願いに反して、宣教のために別の場所へと出て行かれるイエス様の姿が描かれています。 <br />この箇所から、神の御心に従い、福音宣教の働きに仕えること、その働きを支えることについて、私たちは聞いていきたいと願います。 <br />今日の箇所の初めに、イエス様は朝になって「人里離れた所へ出て行かれた」と書かれています。 <br />マルコ福音書での、この箇所と同じ出来事を記している箇所には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書かれています(マルコ1:35節) <br /> イエス様は、新しい一日を祈りによって始めておられたのです。イエス様は祈ることで、(人里離れた所で、静かに父なる神と二人になり)神と親密な時を過ごし、霊による力と励ましをお受けになっていたのです。 <br /><br /> 神の御子イエス様も、一日の宣教活動を祈りをもって始めておられたということです。そうであれば、わたしたちキリスト者は、なおさら、何をするにしても、初めに祈りをもって始めることの大切さを教えられます。 <br />それは「私たちは祈らなければならない」という義務的な行為ではなく、「祈りなくしては、大切なことを始めることができない」という信仰者としての自然な生き方です。 <br />神に祈ることが、「大切なことはいつも、神への祈りをもって始めたい」という信仰から来る純粋な希望となるようにと私たちは願います。 <br /><br />そして私たちは祈ることで、「この働きは、神が率先し神が導いてくださるのだ」という確信をも頂いていきたいと願います。 <br /> そしてイエス様が、朝に人里離れたところで祈っておられたのは、ご自身が父なる神から力と励ましを受けるためであったと同時に、イエス様は人々のために、父なる神に執り成しの祈りをするためでもありました。 <br /> 主イエス・キリストは、今でも私たちのために、神と私たちの間を執り成して下さる(仲介してくださる)お方です。 <br /><br /> ローマの信徒への手紙8章34節に以下のように書かれています。 <br />だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 <br /><br /> わたしたち人は、生まれながらに神に反する罪を犯しているので(それが聖書が伝える真実です)、そのままの状態ではだれも神に近づいたり、神に祈ったりすることができません。 <br /> しかし復活のイエス・キリストが今も、父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成してくださっており、執り成しの祈りを捧げてくださっているのです。 <br /> ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦された者として、キリストを通して神に近づくことができます。イエス様の名によって、天の父なる神に私たちは何でも祈ることができるのです。 <br /> 私たちは、自分のことと他者のことについても、願うことを何でも神に祈ることができます。 <br /> イエス・キリストが私たちと神の間にお立ちくださり、私たちの祈りを神の御前に届けてくださっているからです。そのように神と私たちの間にいて、執り成してくださっているイエス様に感謝を捧げたいと願います。 <br /><br /> 群衆(人々)は、イエス様を捜してイエス様のもとへやってきました。そして彼らは「自分たちから離れて行かないように」と、しきりに(イエス様を)ひきとめた、と書かれています。 <br /> イエス様にそのように(自分たちから離れて行かないようにと)願った人たちの気持ちは、私たちにも理解できるものだと私は思います。 <br /> イエス様に、自分たちから離れて行かないようにと願った人たちは、イエス様が大勢の病を抱えた人たちを癒す姿を見ていました。そんなすごい人がずっと自分たちと一緒にいてくれたら、もう安心だ、と人々は思ったのでしょう。 <br /> 私たちも、もしイエス様が今わたしたちの目の前に現れて、奇跡的な業を色々と見せてくださったら、「私たちから離れて行かないでください」としきりに願うだろうと私は思います。 <br /> しかしイエス様は、そのように願う人々に、お答えになりました。 <br /> 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」 <br /><br />そうしてイエス様は出て行かれ、ユダヤの諸会堂で宣教されました。イエス様は一つ所に留まることなく、色々な場所で宣教をされたのです。 <br />イエス様は、“そうすることが自分の願いだから”というのではなく、“わたしはそのために遣わされたのだから”と言って、他の町へと出て行かれました。 <br />イエス様は、ご自分をお遣わしになった天の父なる神のみ旨に従って生きることを第一としていたのです。 <br />イエス様は私たちにも、神の御心を祈り求めて、神の御心に従って歩む生き方をするようにという励ましと導きを、今も与えてくださっています。 <br /><br />私たちには色々な願いや望みがあります。しかし私たちは人間であり全てを見通すことはできないので、私たちが持つ願いや望みが、私たちにとって実は良くないことである(あるいは、最善ではない)可能性もあります。 <br />ですから、私たちの願いや望みよりも、神の御心を求めて、そして神が私たちに望まれる道を進み歩んでいくことができるように、私たちは祈り求めていかなくてはなりません。 <br /> イエス様は、“神の国の福音を他の町にも告げ知らせなくてはならない、なぜならそれが天の父なる神がご自分をお遣わしになった理由であるから”という確信をもって、宣教の働きを続けられました。 <br /> “ずっとそばにいて頂きたい”という人々の願いと心もイエス様は十分に理解されたでしょう。しかし、イエス様にとって、“神の国の福音が多くの人々に告げ知らされる”と言う神から与えられた使命が第一だったのです。 <br /> 私たちも、私たちがいる場所からは離れた場所、遠くの人たちのことも覚え、またその遠くの人たちの間で、神の国の福音宣教の働きに仕えている人たちを覚えて、祈りと献げ物をお捧げしたいと願います。 <br /><br /> わたしは最初アメリカの教会でイエス・キリストを知り、教会へと繋がりました。私がアメリカで導かれた教会はアメリカの南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)という宣教団体に加盟するバプテスト教会でした。 <br />私が日本に帰国する時、私が通っていたそのバプテスト教会の方々が、私の出身地である日本の名古屋にも、南部バプテスト連盟から派遣された宣教師がいることを調べて教えてくださいました。 <br />私は名古屋に帰ってから、その宣教師の方々にお会いすることができました。その方々は、私の母教会となった名古屋教会と深いかかわりを持って、奉仕をしておられました。 <br /> 私はそれから牧師として仕えています今に至るまでに、何人かの元宣教師の方々と連絡をする機会を持つことができました。 <br /> その中の一人である、わたしの出身教会(名古屋バプテスト教会)と関わりの深かった故アーネスト・ハロウェイ宣教師からは、名古屋教会に関する大変貴重なお話もお伺いすることができました。 <br /> それは、アメリカの教会で伝道集会が持たれ(おそらく1950年頃でしょう)、その時にあつまった献金が原資となって、今名古屋教会が立っている土地の購入がなされた、というお話でした。 <br /> “日本の一都市に教会が立てられて、そこからイエス様の福音が日本の人々に告げ知らされていくこと”を覚えて祈り、そして実際に献げ物を捧げてくださった多くの方々がおられたということに、私は大変感銘を受けました。 <br /> 私はもちろんお会いしたこともなく、そのお顔もお名前も知らない、本当に多くの方々が、わたしの出身地での宣教のために遠くアメリカの一地方から祈りを捧げ、尊い献金も献げてくださったことを思うと、感謝せずにいられません。 <br /> その方々が遠く海外での福音宣教の働きにまで思いを馳せることができたのは、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせねばならない」と言われたイエス様の御心が、まさに自分自身の想いと願いとになったからでしょう。 <br /> ここ大分の地でも、福音宣教の働きに生涯を捧げた海外からの宣教師の方々の多くの献身的な働きがありました。私たち別府国際バプテスト教会も、そのような宣教の働きが土台となって生まれたと言ってもよいと思います。 <br /><br /> 私たちはまず祈りをもって、そして実際の献げ物をもって、遠くの地での宣教の働きをも支えることができます。 <br /> イエス・キリストの神の国の福音が、多くの人々へ、多くの国々へと告げ知らされる、キリストの希望がまだキリストを知らない人々に届けられる働きに、私たちも繋がることが出来るのです。 <br />「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」~イエス様の、このお言葉を私たち自身の使命ともして、福音宣教の働きに私たちも喜びをもって仕えて参りましょう。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-73410034531041743432023-11-18T16:52:00.001+09:002023-11-18T16:52:13.182+09:002023年11月19日 主日礼拝 <br /><br />招詞 詩編86篇12~13節 <br />賛美 新生讃美歌 125番 造られしものよ <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 コリントの信徒への手紙二 1章3~11節 <br />祈祷 <br />宣教 「死者を復活させてくださる神を頼りにする」 <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 19番 くすしき主の愛 <br />頌栄 新生讃美歌 679番 <br />祝祷 <br /><br /> 今日もこうして、私たちが共に神を礼拝することができることを、私たちは感謝いたします。私たちは神を礼拝するために、こうして集まっています。 <br /> それは神が私たちを今日も呼び集めてくださったので、私たちは聖霊なる神の呼びかけに応えて、こうして集まることができているのです。 <br /> 私たちをイエス・キリストへの信仰によって結び付けてくださる主なる神に大きな感謝をお捧げしましょう。 <br /> 今日私たちに与えられた聖書箇所である新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』1章3節~の初めの3節に次のように書かれています。 <br /><br />3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 <br /><br /> この言葉(ほぼ同じ言葉)は、『エフェソの信徒への手紙』の初め(エフェソ1章3節)にも、『ペトロの手紙一』の初め(1ペトロ1章3節)にも書かれています。 <br />この言葉が、そのように聖書の他の箇所にも出てくるということは、信仰者として私たちが「神をほめたたえる」ということがいかに大切であるかを表しています。 <br />そして聖書がこのように何箇所かで「神がほめたたえられますように」と言っているのは、わたしたち人は、信仰があると言いながらも、神を褒めたたえることをしなかったり、怠ったり、忘れたりすることも多いという事実をも表しています。 <br /><br />なぜなら、私たちには自分中心という罪、神の栄光さえも自分のものとしたい、という罪深い性質、欲があるからです。 <br />「私たちの主イエス・キリストの父である神が褒めたたえられますように」、「神が褒めたたえられるように」と言いながら、実は自分自身が褒めたたえられることを願い、自分が人から評価されますようにと願っていることがないでしょうか? <br />人から愛されたい、人に認められたい、そのような願いばかりが大きくなると、私たちの心は神から離れて行きます。 <br />自分中心の生き方に留まるならば、私たちは神の恵みに目を留めることができず、そして神をほめたたえることをしなくなり、神を褒めたたえることのできる喜びからも遠ざかってしまうことになってしまいます。 <br /><br />わたしたちは心から神を褒めたたえているでしょうか?教会の集会に参加することにより、また教会の一員となることが、神をほめたたえるという信仰に繋がっているでしょうか? <br />教会がイエス・キリストの恵みで本当に溢れているならば、そのような教会に集うことはわたしたちにとって大きな喜び、力となるはずです。神の恵みで溢れた教会には喜びと力が溢れます。 <br />そしてそのような教会につながることで信仰の喜び、力をいただいているのならば、わたしたちはその時心から神を賛美し、褒めたたえる者になるはずです。 <br /> 私たちは「神こそが、唯一褒めたたえられるべきお方」と心から言えるように、そして私たちは心からの信仰の願いとして「真の神を褒めたたえたい」という純粋な願いに満たされていきたいと願います。 <br /><br /> なぜ神は、それほどまでに褒めたたえられるべきお方なのでしょうか。それは今日の聖書箇所に何度もでてくるように、私たちは神から豊かな「慰めcomfort」を頂くからです。 <br /> 今日の箇所の前半部分(3~7節)の中には、慰め comfortという言葉が何度も出てきます。神は私たちに慰めを与えてくださるお方です。 <br /> 私たちが生きる上では苦難、困難が必ずあります。人それぞれに、いろいろな苦難があります。苦難に会うとき、苦しみと悲しみの中にある時、私たちには慰めが必要です。私たちには神の慰めが必要です。 <br /> 私たちは神からの慰めを頂くことで、苦しみ悲しみが伴う人生を生きることができます。神の慰めを頂きながら、生きる上での困難の只中にあっても、神と共に歩き続けるようにと、私たちは神によって招かれているのです。 <br /> イエス・キリストが十字架の上(その死によって)で負われたのは、私たちすべての者の痛みと苦難、そして私たちの罪でした。 <br /><br /> キリストがそのように十字架の上で全てを(あらゆる苦難をも)負ってくださったので、イエス・キリストはあらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めることがお出来になります。 <br />キリスト教の歴史とは、神によって深い悲しみと痛みを慰められて来た人たち、そのような経験を許され、神による癒しと慰めを告白してきた人たちの歴史とも言えます。 <br /> 「神様がいかに優しく、愛に溢れ、慰めを与えてくださったか」を信仰によって知らされ信じた人々が、その信仰を告白し証しすることで、キリスト教の信仰は受け継がれてきたのです。 <br /> 私たちが教会で神の言葉を共に聴くのは、神の慰めを私たちが共に頂く、ということでもあります。真の慰め主が私たちと共におられる、ということを礼拝を通して私たちは確信していくのです。 <br /> 私たちには、苦難、困難、悲しみの中にあっても、私たちの魂と心の中から慰めを与えて下さる神がおられる~そのことを私たちはますます知っていきたいと願います。 <br /><br />そして、そのような神の慰め(真の神の慰め)を私たちが頂くとき、それはそれを頂いた私たちだけの慰めには留まらないのです。 <br /><br />今日の箇所の4節、そして6節をお読みします。 <br /><br />4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 <br /> 6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 <br /><br /> 私たちが神によって慰めを頂くと、その慰めは私たち以外の人たちへの慰めにもなるというのです。 <br /> イエス・キリストの神による慰めを私たち自身が本当に頂いたのならば、私たちはその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるのです。 <br /> 試練や苦難は、それを経験する人自身を、わたしたちを成長させることがあります。試練は信仰成長の原動力ともなります。 <br />そしてキリスト者にとって、苦難の中で成長するということは、苦難の中で共にいてくださる神の力を頂くことを知るということです。 <br /><br />苦難の中にも神の変わらぬ慰めがあり、神に慰めていただくその経験を通して、神によって私たちは強くもなるのです。 <br />私たちが自分自身の力で強くなるのではなく、神によって私たちは強くなれるのです。 <br />キリスト者にとっての信仰の成長とは、共にいてくださる神にますますより頼んで、神の愛の慰めに満たされることを知っていく過程です。 <br />そのような神の慰めを頂いた私たちは、神から頂くその慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることができるようになるのです。神の慰めが、私たちと私たちの教会を通しても豊かに広がっていくのです。 <br /><br />8節で、この手紙を書いたパウロが、彼自身が経験した苦難について言及しています。 <br /><br />8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 <br /><br />「アジア州でわたしたちが被った苦難」とパウロが言っているのが、具体的にどのような困難を指すのかは、よく分かりません。 <br />パウロは各地を伝道する際に、色々な苦難と命の危険にさえも会っています。キリストの福音を伝道することに伴う迫害などによる苦難の数々が、ここで言及されているのだろうと思われます。 <br />パウロが経験したその苦難は、彼が“生きる望みさえ失う”ほどのものでした。そして9節の言葉が続いて書かれます。 <br /><br />9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 <br /><br /> パウロが経験した苦難は、生きる望みを失い死の宣告を受けたと彼が感じたほどに大きな苦難でした。 <br /> 普通ならば「死の宣告を受けた」と、それほどに感じた時点で私たちは“もう駄目だ”と思ってしまうでしょう。私たちは、大抵のことはその時点で諦めてしまうでしょう。 <br /> しかし、神から頂く慰め、神にある望みを頂く者にとっては、それほどの苦難が逆に新たな出発点となるのです。 <br />生きる望みを失い、死の宣告を受けたと感じるほどの苦難が、生き方を神にあって大きく変えられる転換点となるのです。 <br /><br /> なぜなら「もう自分の力ではどうにもならない」という境遇に置かれることで、「死者を復活させてくださる神を頼りにするように」なることを私たちは知るからです。 <br /> この私が何かをするのではなく、主イエス・キリストを十字架の死から復活させてくださった神がなさる、ということをその時私たちは知るのです。 <br />ですから、“もう駄目ではないか”、”私にできることは何もない”と思った時、私たちは神に近づこうではありませんか。 <br />自分を頼ることを止め、キリストを通してあらゆることを新しくしてくださった、命の源である神に立ち返ろうではありませんか。 <br /> 自分を褒めたたえるのではなく、すべての栄光を神にお返しすることを願い、神を褒めたたえるようになること、それがキリストにある信仰です。 <br /><br /> 苦難の中にあっても、常に真の慰めをくださる神の慰めを頂くことを知ること、そして神からいただく慰めをもって、自分以外の他者をも慰めることが出来ることを知る、それがキリストにある信仰です。 <br /> 神から頂く真の慰めによって、私たちがお互いに思いやり合い、神の慰めを分かち合うことができる、そのような神の愛が溢れる教会に私たちはなっていきたいと願います。 <br /> そして自分自身を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださった、つまり、あらゆる恥と侮辱にまみれて十字架の上で死なれたお方(イエス様)を、全ての者の慰め主、救い主として復活させてくださった神を頼りにすることを知る、それが私たちの信仰です。 <br /> 愛に溢れ、慰めを豊かにくださる私たちの神に、ただ神のみが私たちの間であがめられ、ほめたたえられますようにと、私たちは願いつつ信仰の日々をこれからも共に歩んでいきましょう。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-76645847190923903702023-11-11T20:26:00.010+09:002023-11-11T20:26:57.768+09:002023年11月12日 主日礼拝 <br /><br />招詞 歴代誌上29章12節 <br />賛美 新生讃美歌 260番 み言葉もて霊の火を <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 ルカによる福音書4章38~41節 <br />祈祷 <br />宣教 イエスは一人一人に手を置いて <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌 550番 ひとたびは死にし身も <br />頌栄 新生讃美歌 679番 <br />祝祷 <br /><br /><br /> 『ルカによる福音書』を私たちは最初からすべての節を通して少しずつ読みながら、この福音書を通して私たちに語られる神のメッセージを聞いています。 <br /> ルカ福音書4章はイエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面で始まっています。イエス様は悪魔から次のような誘惑をお受けになりました。 <br /> 「石にパンになるように命令してみろ」、「わたし(悪魔)を拝め。そうすれば世界のすべての権力と繁栄はあなたのものになる」、「神殿の屋根から飛び降りて、神に救ってもらえ」 <br /> イエス様は悪魔のそれらの誘惑を聖書の言葉、すなわち神の言葉を用いることで、退けました。 <br /> 悪魔の誘惑の意図は次のようなことでした。 <br />“誰の目にもすぐに分かるような、派手な方法で、伝道しなさい。いつもお腹が満たされるとか、権力や成功が手に入るとか、怪我や病気をすることも一切ないとか~神を信じればそういうことが可能になる~そう人々に伝えたらどうだ”。 <br /><br /> しかしイエス様は、それらが神の恵みの本質ではない、ということをもちろん知っておられました。 <br />神の子であるご自分のご使命は、みんながびっくりするような、またとても魅力的で奇跡的な行いによって、人々の関心や興味を一時的にひきつけることではない、とイエス様は確信しておられたのです。 <br />そうではなく、イエス様は神の言葉、御言葉を人々に伝えるために、この世界に来られました。一時的な楽しみや満足でなく、神の言葉を通して与えられる永遠の命、永遠の平安をイエス様は人々に伝えるために、世に来られたのです。 <br />そしてイエス様ご自身が神の言葉を成就するお方であることを、その生き方と言葉の両方で、イエス様はお示しになりました。 <br />イエス様は悪魔の誘惑を受けるとすぐに、色々な会堂でお教えになりました。イエス様は安息日(当時のユダヤ教の安息日は土曜日)には会堂へ行き、集会(礼拝)に参加し、そこで聖書の言葉をお教えになりました。 <br /><br /> 神の言葉、すなわち御言葉こそが、わたしたちを生かすのです。神の言葉が、わたしたちが困難や試練の中にあっても耐えて生きることのできる力と慰めを与えてくれます。 <br /><br /> ヨハネによる福音書6章63節でイエス様は次のように言っておられます。 <br /><br /> 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 <br /><br />イエス様が話した言葉は霊であり、命なのです。神の言葉には、神のご愛と恵み、憐みが込められています。 <br />イエス様の言葉には、イエス様の御生涯を通して示された神の愛、私たち人間の罪を赦してくださった神の憐み、神の優しさの全てが込められています。 <br />イエス様が人として生きられた時代から約2000年を経た今を生きる私たちにとっては、神の言葉が世界中の多くの人々に生きる力と希望を与え、人々が生きることの意義を御言葉の中に見いだしてきたという、その長い信仰の歴史も与えられています。 <br />わたしたちの教会も、神の言葉に生かされて生きる信仰者の群れとして、信仰者の歴史に連なる群れの一つとして、神の言葉が代々にわたって伝えられていく働きに仕えているのです。 <br />私たちが神の言葉を聞き、神の言葉を分かち合い、神の言葉を生きるとき、その度毎に神の言葉が私たちを通して、新しく生きた言葉となり続けています。 <br /><br />神の御言葉が私たちを通して生き生きとしたものになる、そのことも私たちは信仰の喜びとして実感していきたいと願います。 <br /> イエス様は会堂で人々を教えられた後、今日の聖書箇所の場面の中で、シモンの家にお入りになりました。 <br /> シモンとは後にイエス様の弟子となり、ペトロ(“岩”を意味する名前)という新しい名前をイエス様から頂いた、あのペトロです。 <br />イエス様は会堂で人々を教えられた後、大変お疲れになっていたのではないかと私は想像します。宣教者が御言葉を語るには、大変なエネルギーを要するからです。 <br />会堂で人々をお教えになった後イエス様は、すぐにでもお休みになりたかったのではないかと私は想像します。しかし、イエス様は休むことなくそのお働きを続けられたのです。 <br /><br />そこでイエス様は、会堂で神の言葉を多くの人々に語るという働きから、今度はシモンという個人の家に入っていき、そこで個別の伝道をする、というお働きをされました。 <br />私も牧師として、機会があるごとに、皆さんと個別に交わったり、許されればお家を訪問させていただくことがありますが、それは私にとっても大変嬉しいことです。 <br />礼拝や祈祷会でこうして講壇から公に語ること以外に、個人的な繋がりや交わりを通しても、牧師と信徒としての、またそれ以前に同じイエス・キリストを信じる同信の友としての関係を作っていきたいと私は願っています。 <br /><br />そして、シモンがイエス様を自分の家に迎え入れたように、私たちもぜひ私たちの自宅という私的な(プライベートな)領域にも、主であるイエス様をお迎えしたいと願うのです。 <br />ひょっとしたら信仰者であっても、「ここは私の私的な(自分だけでの)領域ですから、イエス様(神様)であってもここには入ってこないでください」と私たちは思ってしまっていないでしょうか。 <br />そうではなく、私たちは、私たち自身のあらゆる生の領域の中に、イエス様に入ってきていただき、全てのことにおいてイエス様の導きに従って歩む者でありたいと願います。 <br />イエス様に私たち一人一人の中に、私たちが日々生活するその場、家の中にも入ってきていただき、いついかなる時もイエス様と共にいるという安心と喜びの中で、私たちは生きていきましょう。 <br /> イエス様が入って行かれたシモンの家には、シモンのしゅうとめ(シモンの妻の母親)がいて、彼女が髙い熱に苦しんでいました。 <br /> シモン(ペトロ)はイエス様の12弟子の一人になりました。ペトロに限らず、弟子たちに関する個人的な背景や彼らの家庭環境などは、聖書にはあまり(ほとんど)記されていません。 <br /> しかしペトロについて、少なくとも今日の箇所から分かることは、彼は結婚していて自分の家(あるいは妻の家だったかもしれません)には妻の母親が同居していたということです。 <br /><br />ですから、今日の箇所は、シモン(ペトロ)という聖書中の重要人物が、今の私たちにも大変身近に感じられる場面だと言えると私は思います。 <br /> そこで人々(シモンの家族たちのことでしょう)は彼女(シモンのしゅうとめ)のことをイエス様に頼みました。“高い熱で苦しむ彼女を癒してください”と人々はイエス様に頼んだのです。 <br /> イエス様がシモンの妻の母の、その枕元に立ち、熱を𠮟りつけると、熱は去りました。彼女の病気は癒されたのです。 <br /> イエス様は、人であると同時に、命の源である神でもありましたから、人の病気を癒す力をお持ちでした。そのイエス様が命じられたので、シモンのしゅうとめから熱は出て行ったのです。 <br /> これは、今も私たちが祈ればどんな病気も必ず治る、ということではありません。もし、神がそう意図されるのならば、病気は治ります。 <br /><br />しかし、もし神に別のご計画があるのであれば、私たちが祈っても、私たちが願った通りにはならないこともあります。 <br /> しかし神は私たちの思いと願いを越えて、はるかに偉大なご計画をお持ちです。そして神は私たちに、イエス様を通して神に祈り、神の御心を知るという道を備えてくださいました。 <br />ですから、たとえ私たちが祈った通りにはならなかったとしても、それでも私たちがイエス様の名を通して、神に向かって何でも祈り続けることは、私たちの信仰にとって決して無駄なことではありません。 <br />それは決して無駄なことではなく、私たちが心から願うことをイエス様の名によって神に祈り続けることは、私たちの信仰を強め、私たちの信仰、神への信頼を一層確かなものとしてくれるのです。 <br /><br /> ”命の主なる神にはどんなことでもお出来になる”、”それが御心ならば必ず成就する”、と信じる希望の信仰を私たちはイエス様を通して頂いて、歩んでいきましょう。 <br /> シモンのしゅうとめの熱が癒された後、日が暮れても、それでも人々が色々な病気で苦しむ人たちをイエス様のもとへと連れてきました。 <br /> 日が暮れてから、ご自分のところへ連れて来られた、色々な病気で苦しむ人たち、彼ら彼女ら“一人一人に”イエス様は手をおいて、そして彼らを癒されました。 <br /> イエス様はきっと疲れていたと思われますが、日が暮れてからも、ご自分のところへ連れられて来る病を抱えた人々にイエス様は向き合われたのです。 <br /> イエス様はわたしたち一人一人に触れて下さるお方です。ご自分のもとへ来る者を誰も拒むことなく、一人一人にイエス様は手を触れてくださるのです。 <br /> 遠いところから、私たち向かって語ってはくださるけれど、そのお方に私たちの手は決して届かない、というお方ではイエス様はないのです。 <br /> むしろイエス様のほうから、私たちの方へ来て下さり、私たち一人一人の心に触れてくださり、私たちが痛み、悲しむ時には、その傷を癒してくださるのです。 <br /><br /> そのような神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して一層信じ、そのお方に信頼し、そして他の人々をも、その神のもとへとお連れしたいと思います。イエス・キリストの神にこそ、真の道、命、真理があるのだからです。 <br /> 今キリストを信じる私たちも、かつてはだれかが私たちを教会に連れて来てくれたことによって、または何らかの方法によって、キリストや教会について伝え聞いたはずです。 <br /> キリストの恵み、その癒しの御手を、ただ私たちの内に留めておくのではなく、かつて私たち自身も聞いたように、私たちの周りの人々へも広げていきましょう。 <br /> イエス様は、そのようにしてご自分のもとへ連れて来られる人を、決して拒むことなく、きっとその方にとって一番よい時期(タイミング)と方法によって、癒しをまた神の国を信じる信仰を与えてくださいます。 <br /> 今日の箇所で伝えらえるイエス様と、イエス様を信じる人々の姿を通して、私たちは信仰者の群れとしてイエス様と繋がると同時に、イエス様の御手が私たち一人一人にも触れて下さる恵みを私たちは知らされました。 <br />真の癒しと永遠の救いとは、主イエス・キリストを通して与えられる~わたしたちもそのことをますます確信し、今週の日々もイエス様と共に、御言葉と共に歩んでまいりましょう。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-46904018933578310922023-11-04T19:20:00.000+09:002023-11-04T19:20:00.415+09:002023年11月5日 主日礼拝(教会組織記念礼拝) <br /><br />招詞 申命記10 章15 節 <br />讃 美 新生讃美歌227 番 カルバリの丘へと <br />祈りの時 <br />主の祈り <br />教会組織を感謝して(スライド) <br />献金 <br />聖 句 ペトロの手紙一2 章9~10 節 <br />祈 祷 <br />宣 教「暗闇の中から驚くべき光の中へ」 <br />祈 祷 <br />讃 美 新生讃美歌255 番 わが罪のために <br />頌 栄 新生讃美歌679 番 <br />祝 祷 <br /><br /><br /> 今日私たちは、わたしたちの教会が一教会として独立組織をした日を記念して、感謝の礼拝を捧げています。 <br /> 独立と言っても、それは「他の誰にも頼らず、自分たちだけで生きていく」ということを意味するのでは、もちろんありません。 <br /> 先ほど、教会組織以前の、最初の頃の集会時代から伝道所時代にまでさかのぼった記録をスライドで私たちは見ました。 <br /> 時代がさかのぼるほど、残っている記録も断片的なので、当時の正確な事情を知ることは難しいです。 <br />しかし私たちの教会の歴史を通して、本当に多くの方々が、篤い思いと願い、そして熱心な祈りをもって教会を支えて来られたことは間違いありません。 <br /><br />スライドの中でも触れられましたように、私たちの教会は日本バプテスト連盟という宣教協力団体に加盟しています。日本バプテスト連盟に連なる諸教会からの大きな祈りと実際の支援を得て、教会組織へと私たちの教会も導かれました。 <br />そして私たちは、北九州地方連合(North Kyushu Regional Association)という地方連合の一員としても、他の教会との繋がりと支え合いの中で、教会生活を送ることができているのです。 <br />普段皆さんは、他の教会の会員の方と接する機会があまりないかと私は思いますが、私たちの教会は、特に同じバプテストの信仰に立つ、同じ地方の他の諸教会/全国の諸教会とも共にある、ということを私たちはいつも覚えていたいと願います。 <br /><br />教会の主はイエス・キリストです。教会の主は牧師ではありません。牧師は霊的な指導者として信徒の先頭に立ちます(そのような働きが皆さんから委ねられています)が、牧師も皆さんと同じように神に仕える信徒の一人です(特にバプテスト教会ではその点を強調します) <br />そして、神によって選ばれた私たちを通して、イエス・キリストの福音が世に伝えられていきます。福音宣教の尊い器として主が私たちの教会をますます用いてくださいますようにと、わたしたちは祈り願いたいと思います。 <br /> 教会組織を感謝する今日の礼拝にあたって、わたしたちは新約聖書ペトロの手紙一(1 Peter)の2章9~10節の御言葉を私たちは先ほど聞きました。 <br /> この箇所には、私たち神を信じる者、そして教会がどれほどの恵みを神から頂いているのかが、とても短く簡潔にまとめられ、書かれています。 <br /><br /> 今日の箇所の9節の最初に「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と書かれます。 <br /> 最初に書かれているのは、私たちは「選ばれた民」ということです。誰が私たちを選んでくださったのでしょうか。それは主なる神です。 <br /> 主なる神がご自身の主導権をもって、私たちを選んでくださったということです。「あなたがたは、選ばれた民you are a chosen people」の「あなたがた(you)」は、ギリシア語の本文で“あなたたち”という複数形です。 <br /> ですからそれは、誰か一人だけが特別に選ばれたのではなくて、他の人々と一緒に信仰によって結び付けられて「一つの民a people」となるように、わたしたちは選ばれたということです。 <br /> 聖書は、世界の造り主、私たちの救い主である主イエス・キリストの神が、私たちを本当に特別な思いと愛とで選んでくださった、と伝えます。 <br /><br /> 今日私たちは、わたしたちの教会が、神の恵みと全国のバプテストに連なる諸教会の祈りと思いによって立てられた歴史と、今もこうして私たちが教会で礼拝できることを思い、感謝の気持ちを新たにしています。 <br /> そして私たちは今日また一層、「神が私たちを選んでくださった」という、その真実と恵みにも、深く思いを向けたいと願うのです。 <br /> “選ばれた”というと、それで自分がなにか特権階級に属するものにされた、という感じがして傲慢な気持ちが私たちの心に生まれるかもしれません。 <br /> 確かに神に選ばれた私たちは、神の恵みと愛とに生きるという、本当に素晴らしい特権にあずかる(受ける)者とされました。しかし、神のその恵みと愛、その特権は誰にでも向けられています。 <br /> イエス・キリストを通して、神の愛と恵みとが全ての者に与えられているのです。そして、それを信じ、神の前にへりくだり、神の愛と恵みをいただいて生き方をするかどうかは、人間の側の決断にかかっています。 <br /> 神を信じる決断は人間が自らするものですが、しかし神の愛と恵み、神の選びは、私たち人間の側の功績には全く関係なく、すでに私たちに向けて差し伸べられているという点が重要です。 <br /> 神の恵みは、どこまでいっても、私たちには決して値しない高価な、本当に高価で尊い恵みなのです。どれほど素晴らしい人間であったとしても、優れた人格者であっても、神の愛に値するほど素晴らしいという人はいません。 <br /> むやみに人というものを貶めようと言う意図で私はこう言っているのではありません。そうではなく、イエス・キリストを通して示された神の愛を思う時、私たちはキリストの光を通して自分を見た時に、本当にそこには何の価値もないことを見いだすのです。 <br /><br /> 私たちがそのことを真剣に考えるならば、私たちは次のように信じることは決してできないはずなのです。 <br />「世界の造り主である神が、ご自身のすべてを、その独り子であるイエス・キリストを通して人に与えてくださった」という恵みに値する何かを、最初からわたしは自分の中に持っていた。 <br /> 誰もそのように考えること、信じることはできないはずです。なぜ神が私たちをそれほどまでに愛し、恵みを与えてくださったのでしょうか。それは、“神とはそのようなお方であるから”としか言いようがありません。 <br /><br /> 旧約聖書『申命記』の7章6~8節に次のように書かれています。 <br /><br />6あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 <br />7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 <br />8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 <br /><br /> 旧約の時代、主なる神がイスラエルの民たちを選ばれたのは、そしてエジプトにあって苦しい奴隷生活を送る彼らを神が救われたのは、それは彼らが他の民族よりも数が多く、また優れた民族だったから、というのではありませんでした。 <br /> そうではなく、それは“主なる神が、ただ彼らを愛されたから”という理由だけでした。同様に、キリストを通して救いの道へと入れられた私たちも、ただ神のそのような途方もない無条件の愛のゆえに、神の子となる特権を与えられたのです。 <br /> 神様からのそのような愛には、ただ深い感謝をもって応答するしか、私たちにできることは残されていません。 <br /><br /> 今日の箇所には、わたしたちは選ばれた民であり、また「王の系統を引く祭司 a royal priesthood」とも書かれています。 <br /> 祭司とは、神殿で神に仕えて、民を代表して生贄(いけにえ)を神に捧げたりする仕事をしていた人たちです。しかし神に選ばれた私たちはいまや、全員がそのような祭司だと、聖書は言うのです。 <br />それは、御子キリストがご自身を父なる神に献げられたように、わたしたちも私たち自身をすべて神に献げるようにと今求められているからです。 <br /> 教会の建物が完成しますと、「献堂式」という礼拝を教会では大抵致します。それは与えられた教会の会堂も、わたしたちは神様に献げます、という決意を表明することです。 <br /> 私たちにあたえられているこの素晴らしい教会の建物も、そして私たち自身もすべてを神に献げるようにと、主の栄光のために用いるようにと、キリストへの信仰によって私たちは促されています。 <br /> 神を礼拝するとは、この私をすべてあなたにお献げします、と神に対して誓うことです。イエス様から頂く恵みへの応答と感謝として、私たちはそのような信仰を神に心から捧げたいと願います。 <br /> 9節の後半には、(今日のメッセージのタイトルでもある通り)、わたしたちは「暗闇から驚くべき光の中へと招き入れられた」と書かれています。 <br /><br /> わたしたちは、真の神から離れ、神を知らず、自分中心に生きていた先の分からない暗闇の命から助け出されて、イエス・キリストのまばゆい光の中へと招き入れられ、新しい生き方をするようになったのです。 <br /> キリストのその驚くべき光の中へ入れられた私たち、キリストという命の光を与えられた私たちは、もはやどこに向かって歩めばいいのか、何を信じて生きればいいのかという迷いに陥ることは、もうありません。 <br /> イエス様が次のようにおっしゃっています。 <br />ヨハネの福音書8章12節 Gospel of John 8:12 <br /><br />わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 <br /><br />誰も神から遠ざけられた、孤独なその暗闇の中に留まることなく、キリストの驚くべき光のうちに生きる道に生きることができる、ということを、私たちの教会はこれからも喜びと感謝をもって、世に宣べ伝えていこうではありませんか。 <br /><br />今日の箇所の2節目、10節を読んでメッセージを終わります。 <br /><br />10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8169961821643839083.post-3884917794062821312023-10-28T15:25:00.002+09:002023-10-28T15:25:43.895+09:002023年10月29日 主日礼拝 <br /><br />招詞 ヨシュア記24章24節 <br />賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ <br />主の祈り <br />献金 <br />聖句 エフェソの信徒への手紙4章11~16節 <br />祈祷 <br />宣教 「キリストの体を造り上げる」<div>*機材不調の関係で、音声データは本日ありません <br />祈祷 <br />賛美 新生讃美歌236番 主の流された尊い血しお <br />頌栄 新生讃美歌 674番 <br />祝祷 <br /><br /> キリスト教の信仰は、神であるイエス・キリストが人となってこの世界にお生まれになり、人々に神の国を、そして神の愛と赦しを宣(の)べ伝え、最期は全ての人の罪を背負って十字架の上で死に、そして復活した事実の上に成り立っています。 <br /> イエス様は、神の国を人々に伝える使命を、ご自分の弟子たちにまず託されました。イエス・キリストの死後、イエス様の弟子たちは共に集まり、やがて教会を建てて、教会を中心にして信仰を守り、イエス・キリストの教えを世に伝えるようになりました。 <br /> その使命を、今を生きる私たちキリスト者一人一人も負っています。その使命をわたしたちは、私たちの教会の使命としても、もちろん負っています。 <br /><br />今イエス様は人としては生きておられませんが、イエス様を信じる私たちの中に聖霊としてイエス様は住んでくださっています。 <br />そして私たちは教会としてもイエス・キリストの聖霊をいただいています。聖霊が私たちを一つに結びつけ、キリストにある信仰の共同体として私たちを導いてくださっています。 <br />ですから私たちは常に祈り、私たちに先立ってくださる聖霊の導きに従って、また聖霊が自由に豊かに働いて下さるような教会でありたいと願います。 <br />キリスト教会には様々な人が集まります。そしてまた、教会に連なる私たちそれぞれには様々な賜物(gifts)が神様から与えられています。 <br />私たちそれぞれが異なった人間であること、また私たちそれぞれが異なる賜物を持っていると言うその多様性も、神の聖霊が豊かに教会で働かれるために、とても大切なことです。 <br /><br />今日の聖書箇所(エフェソの信徒への手紙4章11節~17節)の最初の節に、神がキリスト者一人一人の賜物に応じて、人々に異なる役割をお与えになったことが書かれています。 <br /> 最初に書かれるのが「使徒」apostlesです。使徒とは、イエス様によって選ばれてイエス様の直弟子となった最初の12弟子のことを言います。(後に、教会で重要な責任を果たす人も使徒と言われるようになりました) <br /> イエス様の最初の弟子であった12弟子は、イエス様と共に生活し、イエス様の生き方、そしてイエス様の教えに間近で接していました。 <br /> 最初の使徒たちの教えが重要であったのは、彼らがイエス様と直接接し、イエス様のお言葉と行いに直接触れた人たちであったからです。 <br />ですから、使徒たちの伝えたこと、使徒たちの教えは大切なものとして、初期のキリスト者に、また今の私たちにも聖書を通して受け継がれています。 <br /> 最初の使徒たちが他の人たちに比べて特別に重要であり優秀な人だった、ということではありません。彼らはごく普通の人たちでした。 <br /><br /> しかし神は、最初の弟子たちを神のご自由な選びによってお選びになり、彼らが協力してイエス・キリストの福音を、イエス様の死後も宣べ伝え続けるようになさったのです。 <br /> 現在のキリスト者である私たちも、神によって選ばれて、キリストを信じて生きる者となりました。私たち自身が何か他の人に比べて特別優れていたから、ということではありません。 <br /> ですから私たちは、キリストを見上げ、キリストを思う時、「このわたしが、ただ神の恵みによって選ばれた」ということを、心から感謝したいと願います。 <br /> そして神へのその感謝の思いが、ますます私たちを謙虚にし、神と人の前にへりくだった生き方をする者へとしてくださるようにと私たちは願います。 <br /><br /> 教会に集まる私たちが皆違っていること、そして私たち一人一人に異なる賜物が神様から与えられているのには、一つの明確な目標があります。 <br /> それは12節に書かれていることであり、今日の宣教題(メッセージのタイトル)でもある「キリストの体を造り上げる」ということです。 <br />「キリストの体」とは、キリストの教会のことです。教会はキリストの体なのです。わたしたちの身体に色々な部分があるように、キリストの体である教会も色々な部分でなりたっています。 <br />キリストの体(教会)の部分とは、教会につらなる私たち一人一人のことです。それぞれの部分が合わさって協力をして、一つの体を造り上げるのが教会です。 <br />そしてわたしたちは「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」(13節)のです。 <br /><br />もう一度お読みします。 <br /><br />「神の子(キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」 <br />これは私たちにはまだ実現していない一つの幻と言ってよいと私は思います。 <br />私たち人は、同じキリスト者であっても、それぞれの考えや信念、または好みなどの違いによって中々一致することができないのが現実ではないでしょうか。 <br />しかし私はそれでも希望を持っています。 <br />今年度2023年度のわたしたちの教会の年間標語は「愛の奉仕 give your service with love」です。ガラテヤの信徒への手紙5章13節の御言葉をその関連聖句として、私たちは選びました。 <br /> 教会の皆さんの中から(実際には、皆さんによって選ばれた執事(deacons)の方々から)、「イエス様から頂く愛をもって教会に奉仕したい。自分の満足を求めるのではなく、愛をもって神様に奉仕をしたい」という思いと希望が挙げられたのです。 <br />コロナ感染症の間、教会の活動も色々と制限され、皆さんに奉仕していただく機会も限られていた中、今年度の初めにあたって、そのような思いが表明されたことは、大変印象的なことでした。 <br /> ただ“奉仕しましょう”ではなく、“愛の奉仕を捧げましょう”という思いには“イエス様から私たちがいただく愛(イエス・キリストの愛)が奉仕の土台”という信仰があります。 <br /> 奉仕の動機はイエス・キリストの愛なのです。イエス様の愛が素晴らしく、私たちはイエス様の御愛に感謝をするから奉仕をするのです。 <br /> 自分だけの満足、自分のための栄光を求めるのではなく、自分がその体の一部として繋がる体全体(イエス・キリストの体全体)が栄光を受けることを、私たちは求めるようになるのです。 <br /><br /> 今日の箇所の最期の16節を見てみましょう。 <br />16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 <br /><br /> 「体全体」the whole bodyという点が非常に重要です。「体の一部」、すなわち教会の中の一部の人たちだけが成長する、のではないのです。 <br /> 体の一部分が体から切り離されてしまっては決して生きていくことはできないように、私たちもキリストの体である教会から離れてしまっては、私たちが霊的な命を生きていくことは決してできません。 <br />そして、もし私たちの中から誰かが欠けてしまうのならば、それは“体全体の成長”ではなくなります。 <br />「体全体が互いに補い合い、体を成長させ、自ら愛(キリストの愛)によって造り上げていく」(16節)ことを、神様からの信仰の命令としても私たちは厳粛に受け止めて、互いに支え合っていきたいと願います。 <br />体全体で、私たち皆でキリストの体である教会を造り上げるという信仰を私たちは大切にしていきましょう。 <br />賜物とか奉仕というと、何か人の目に目立つような具体的な働きのことが思い浮かぶかもしれません。 <br /><br />しかしたとえそれが人の目には目立たないようなことであっても、キリストの愛に基づくものであれば、いかなる奉仕にもその差(優劣の差)はありません。 <br />礼拝の奉仕表に載っているようなご奉仕ではないとしても、同じキリストにある信仰の家族の一員として、まず礼拝や祈祷会に来てくださること、共に礼拝し祈ってくださること、それが尊い奉仕です。 <br />また様々な事情で教会に来ることが出来ない方々でも、教会を覚えて祈りと献げ物を献げてくださる方々もおられます。それらも尊い奉仕です。 <br /><br />私たちが神を信じ、神を愛するとき、私たちがどのような状況におかれていようとも、私たちが神に奉仕することを妨げるものは何もないのです。 <br /> 今日の箇所の前の部分の節になりますが、エフェソの信徒への手紙4章7節に「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられていますと書かれています。 <br /> 神はキリストを通して私たち全ての者に恵みを与えてくださっているのです。恵みとは私たちが何か立派なことをしたことへの報酬や見返りのことではありません。 <br /> 神の恵みとは、ただ神の愛と憐れみによって、私たち人間の側には何の功績も善い行いもないにもかかわらず、神からイエス・キリストの十字架を通して私たちに与えられたものです。 <br /> それほどの恵みをいただいた私たちは、その恵みへの感謝の応答として、奉仕を捧げていきましょう。(キリストの)愛の奉仕を捧げていこうではありませんか。 <br />そして私たちは、まず私たちの教会の中から、信仰の一致、一つの体としての成熟と成長を目指していきましょう。 <br /><br /> さきほど私は、“これはまだ実現していない一つの幻”と申し上げました。しかし、私たちが信仰をもってキリストの愛に立ち続ける限り、それはいつか必ず実現するのです。 <br /> なぜなら、イエス・キリストへの信仰は、14節に書かれているように「悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」に基づくのではないからです。 <br />イエス・キリストへの信仰は、昨日も今日も、そしていついつまでも変わることのないイエス・キリストの御言葉、神ご自身の限りない愛、神の約束に基づいたものなのですから、たとえどれほど時間がかかっても、いつか必ず成就するものなのです。 <br />キリストが私たちの中心にいてくださる限り、わたしたちがキリストの愛に根ざしている限り、私たちは今日の聖句が約束してくれているように、キリストへの信仰と知識において一つとなるということが必ず実現します。 <br /> 様々な賜物をお持ちの皆さんお一人お一人が、聖書の御言葉を信じ、キリストの愛に基づいて、それぞれの賜物を献げる度に、わたしたちは信仰の一致と信仰の成熟へと近づいているのです。 <br /> キリストの体の一部とされていること、キリストの愛に基づいた信仰にわたしたちを神ご自身がしっかりと捉えてくださっていることを感謝し、“愛の奉仕”を喜んで私たちは献げて生きましょう。</div>bibchttp://www.blogger.com/profile/02642137199380048874noreply@blogger.com