2025年3月30日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書55章3節
賛美 新生讃美歌21番
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番
献金
聖句 ヨハネの黙示録22章16~21節
祈祷
宣教 「主イエスよ、来てください」
祈祷
賛美 新生讃美歌301番
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
2024年度最後の主日礼拝を本日私たちは迎えました。(日本では一般的に4月から新しい年度が始まります)
今年度も神様の恵みの下で、私たちの教会が礼拝する、その信仰生活が守られてきたことを、私達は心から神様に感謝したいと願います。
今年度は「主の御言葉に立つ」という年間主題と共に、私たちの教会は信仰の歩みを続けてまいりました。
「主の御言葉に立つ」と言うと、何だか“私たち自身の意志と努力によって、聖書の御言葉の上に自分の足で立ち続けるように頑張る”、というように聞こえるかもしれません。
確かに、私たち自身が努力すべきという点は、信仰生活においても否定されるものではありません。
しかし、「主の御言葉に立つ」とは、私たちが努力をするというよりも、既に私たちに与えられた”主(神)の御言葉“という確かな土台を、まず確認することです。
そしてそれは、その確かな主の御言葉の上に立ち続ける、その土台の上で揺るぐことがない安心を私たちが頂くことができる、という恵みです。
私たちが私たちの生涯を通して常に拠り頼むことができる、その確かな土台である主の御言葉は、既に私たちに与えられています。
私たちの歩みを導く”主の御言葉“を常に聞いて、その御言葉を人生を導く指針として持つことで、私達は信仰の確かな道を、たとえゆっくりとであっても(そして時には迷いそうになっても)歩むことができるのです。
聖書の御言葉は神の言葉であり、私たちに霊的な励ましと力を与えます。
聖書の言葉がただ声に出して朗読され、それが複数の人たちに同時に聞かれるということだけでも、その言葉がとても特別に響く、ということがあり得ます。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。(マタイによる福音書18章20節)
イエス・キリストを信じる信仰者が二人でも、三人でも集まり、そこで聖書の御言葉、神の言葉が分かち合われるならば、そこに共にいると約束してくださったイエス様の霊が、その御言葉を特別なものとしてくださるのです。
わたしたちがイエス様の名によって集まるところ、そこに共にいてくださると言われたイエス様の約束を信じましょう。
常に御言葉の上に立ち、御言葉に支えられ導かれて、御言葉を共に分かちあって、御言葉が示す方向に向かって、私たちはこれからも共に歩んでいこうではありませんか。
今年度は一年間をかけて、主日礼拝のメッセージで聖書全体を旧約聖書の初めから私たちは分かちあってきました。
もちろん礼拝メッセージで実際に取り上げることが出来る箇所は、聖書全体のほんの一部ではありました。
しかし私たちは、「新旧約両聖書が両方とも、イエス・キリストを証している」、「聖書は確かに神のメッセージである」ことは確認できたと思います。
私たちは聖書全体から、「イエス・キリストの福音(良き知らせ)」を聞くのです。
今年度最終日曜日の今日の箇所は、聖書の一番最後の書である『ヨハネの黙示録』の最後の部分、22章16~21節です。
“黙示”とは、“隠されたものが明らかにされる”、すなわち“神の真理が明らかにされる”という意味です。
なぜ私たち人間が神について知ることができるのでしょうか。人間の側から神に到達し、神を知る知識を得ることはできません。
それにも関わらず、なぜ私たちが神を知ることができるのでしょうか。
それは神ご自身がイエス・キリストを通してご自身を私たちに現わしてくださったからです。神が人となって、この世界で人と共に生活されたからです。
イエス様は十字架にかかり死んで、そして復活なさいました。その後イエス様は「わたしは再び来る」という約束を残して天に昇っていかれました。
今イエス様は目には見えませんが、聖書の言葉を通して私たちはイエス・キリストのメッセージを聞き、分かち合うことができます。
聖書を通して私たちはイエス・キリストがどのようなお方かを知ることができます。
今日の16節に次のように書かれています。
16わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
イエス様はご自分のことを「ダビデのひこばえ(枝、子孫の意味)」と言っています。ダビデとは旧約聖書に登場するイエスラエルの王様の名前です。
イスラエル民族にとってダビデ王は歴史的、また信仰的な英雄と言ってもよい人物です。
そしてイスラエル民族は聖書(旧約)の預言の言葉に基づいて、”ダビデの子孫から、やがて自分たちの救世主(メシア)が生まれる“と信じていました。
そしてその通り、イエス様はダビデ家の家系のヨセフを父としてこの世界に生まれてきました。
イエス様はご自分のことを「輝く明けの明星」と言っています。明けの明星とは、明け方に東の方で輝く金星のことです。
イエス様がここでご自分を「明けの明星」と言っておられるのは、“夜の後には必ず朝が来る。それもイエス・キリストの星(明けの明星)と共に新しい朝が来る”、と言う希望を意味します。
金星は位置的な関係で地球から夜には見えません。しかし見えなくても、もちろん金星は存在しています。そのように、私たちの目には見えなくてもイエス・キリストは確かにおられます。
そして私たちにはずっと続くような暗い夜のような時(辛く、悲しい時)も、かならずイエス様の光(星)を伴う新しい朝が来る、と私たちはイエス様のお言葉によって信じてよいのです。
17節の後半に次のように書かれています。
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
“渇いている者”とは、霊的に渇いた人のことです。私たちは霊的に満たされなくては、常に心に渇きを覚えます。
人は本来神様からの霊を受けて、霊的に生きるものであるからです。旧約聖書の初めの『創世記』に、神が土の塵から人を造り、人に“息”を吹き入れることによって、人を生きる者にした、と書かれています。
その”息“とは”霊“という意味でもあります。人は神の霊を吹き入れられて生きる者となり、そして今も人が本当の意味で生きるには、神からの”霊”を常に頂く必要があるのです。
神からの霊を頂くことがなくては、私たちは霊的に渇き、常に満たされない、空虚で、そして不安定な状態に置かれます。
しかしイエス様は、だれも霊的に渇くことがないように、“渇いている者は誰でも、ご自分の与える命の水を”価なしに(無料で)“飲むことができる”、と約束してくださっているのです。
もし渇いているのならば、もし命の水が欲しいのならば、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はいつでも「わたしのところへ来なさい」と言って、私たちを招き、私たちのことを待ってくださっています。
イエス様のところへ行く、とは具体的には聖書の御言葉を読む、教会に来て共に聖書の御言葉のメッセージを礼拝で聞く、他の信仰者と共に聖書を読み分かち合う、そして祈る、ということです。
イエス様のところへ行く道は開かれています。私たちの教会も、渇いた人を常にお迎えし、イエス様のところへ共に行くことができるように、教会の門を常に開いていたいと願います。
イエス様の招きにお応えし、私たち共にイエス様のところへ行き、御言葉という命の水、霊の糧を頂こうではありませんか。
今日の箇所には、私たちが真剣に聞くべき、非常に厳しいお言葉も書かれています。
18~19節をお読みします。
18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
「この書物の預言の言葉」とは、広い意味で聖書全体の言葉を指す、と言えます。聖書は、神の霊感によって書かれた神の言葉です。
そして聖書の言葉一つ一つには、主イエス・キリストの十字架の重みがあります。私たち人の罪を背負って十字架にかかって死なれたイエス様が、聖書の言葉は確かに真実であり、聖書はご自分について証をする、と言っておられます。
その聖書言葉から、私たちが人間的な思いを勝手に付け加えたり、あるいは大切なことを勝手に取り去ったり、薄めてはいけない、とここで言われているのです。
確かに聖書の中には分かりにくい箇所、難しい箇所、あるいは現代の私たちの感覚で言えば受け入れがたいところなどがあります。しかし、聖書の言葉はいずれもイエス・キリストを通して、真剣に吟味されるべき神の言葉です。
繰り返しますが、聖書の御言葉は、私たちのために十字架の上で全てを捧げてくださったお方が、“この聖書は自分について証しをしているのだ”と言われた言葉であるからです。
牧師としての私の務めで最も大切なことは、聖書の御言葉を説き明かすことです。
それはただ「この言葉はこういう意味です」、「この箇所の歴史的背景はこういうことです」と内容を理論的、あるいは歴史的に説明することではありません(それも含みますが)。
そうではなく、聖書の言葉が、今この時私たちを生かす言葉となるように、聖書の言葉を語り直し、取り次ぐのが、牧師の役割であり、そしてまた私たち教会全体としての役割でもあるのです。
教会で聖書の御言葉が説き明かされ、聞く私たち一人ひとりがその御言葉を実生活の中で生きる時、聖書の言葉が私たちを通して世に向けて語り直されることになります。
その時聖書の言葉はまさに“生きた命の言葉”として、生き生きとした豊かなものとして、語られることになるのです。
そのような御言葉に生かされていることを私たちは喜び、また御言葉を豊かにいただき分かち合う信仰生活を共に送っていこうではありませんか。
今日の箇所の最後、聖書全体の最後のお言葉である21節をお読みします。
21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
“主イエス・キリストの恵みが、すべての者と共にあるように”、というこの言葉が、聖書の言葉が書かれた目的を一つの文に凝縮しています。
この一文に、神がいかに私たちのことを愛してくださっているのか、ご自分の恵みのもとで豊かな命を生きてほしい、と願ってくださっているのかが凝縮されています。
そしてこの一文に、私たち教会の果たすべき宣教の使命が凝縮されています。
「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」~この祈りと願いの言葉を、私たち自身の真心からの祈りと願いといたしましょう。
そしてイエス・キリストの御言葉に生かされる喜びと幸いに私たち自身が生きて、またその御言葉を世に伝えていこうではありませんか。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2025年3月29日土曜日
2025年3月22日土曜日
2025年3月23日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章19~24節
祈祷
宣教 『わたしたちは真理に属している』
祈祷
賛美 新生讃美歌92番 喜びたたえよ
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日の聖書の箇所は『ヨハネの手紙一』の一箇所です。この手紙を書いたヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者である、イエス様の十二人の直弟子の一人であった、ヨハネであると言われます。
ヨハネは「福音書」Gospelという形式で、彼自身が共に生きたイエス様の生涯とイエス様の語ったお言葉、そしてイエス様が十字架にかけられて死に、復活したことを記録しました。
一方、この手紙のほうではヨハネは、イエス・キリストを信じる信仰者が、いかに信仰生活を生きるべきか、特に“信仰者が互いに愛し合う”というその生き方に重点を置いています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、イエス様が死んでから60年ぐらい後であっただろうと言われています。
イエス様が地上にはおられなくなってから、もう60年も経ったのならば、ヨハネの中でイエス様のことは、遠い過去の記憶になっていたのでしょうか。
「昔、私たちの先生だったイエス様は、素晴らしい神の国について私たちに教えてくださったな。懐かしいな」と思い出すような対象にイエス様はなっていたのでしょうか。
まったくそうではありませんでした。ヨハネにとって60年前に死んだイエス様は、まさにキリスト(救世主)として、今も変わらずに”生きておられる“存在でした。
ヨハネの手紙の言葉の一つ一つが、このヨハネが、聖霊を通して働かれるイエス・キリストの力を受けていたことを表しています。
イエス・キリストは人間としては、もう地上には生きておられなくても、ヨハネの中で、また彼と共にキリストを信じる者同士の間で、イエス様は確かに生き続けておられたのです。
今も変わらずキリストは生き続け、わたしたちに生きた神の言葉を語り続けてくださっています。わたしたちは、今もこうして、その神の生きた言葉に共に頂くことができます。
今日の箇所少し前の3章16節に次のように書かれています。
ヨハネの手紙一/ 03章 16節
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの福音書の3章16節には次のように書かれています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
どちらも3章16節です。本質的に、どちらも同じことが書かれています。”イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださった。神がその独り子を私たちに与えてくださった。それによって私たちは愛を知った“ということです。
しかしヨハネの手紙では「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれています。
イエス様の死後60年たっても、“主は私たちのために命を捨ててくださった”という事実そして真実は、ヨハネにとって過去の一つの記憶などではありませんでした。
むしろそれ(イエス様が命を捨ててくださったこと)は、“だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきだ”とヨハネに言わせるほどに、彼(ヨハネ)の信仰の生き方を突き動かす原動力であり続けたのです。
神が人の罪を救うために死なれたように、私たちは人のために死ぬことはできません。人が人の罪を救うことはできないからです。
しかし、神がこの私のために命を捨ててくださったことを本当に信じるならば、その信仰は他者への愛を実践する生き方として具体的な形をとるべきだ、とヨハネは言っているのです。
イエス・キリストは私たちのために命をすててくださいました。それによって私たちは愛を知りました。これが聖書が今も変わらず伝える中心的なメッセージです。
そして“その真の愛を知らされた私たちは互いに愛し合おう。イエス様が命を捨ててくださるほどに、わたしたちがまず愛されたのだから”と、聖書は私たちを今も促し続けるのです。
イエス様が十字架の上で命を捨ててくださったことにより、私たちは自分がいかに神に愛されているか、価値ある者とされているか、を知ることができます。
もし私たちの中で、“自分には価値がない”、“自分は愛されていない”と思われる方がいれば、そのお方はぜひイエス・キリスト、十字架の上のイエス・キリストを見上げていただきたいと私は願います。
十字架の上で命を捨ててくださったイエス・キリストこそが、真の愛を、すなわち“このわたしが神の前に、どれほど愛され尊い者とされているのか”ということを教えてくださるからです。
今日の箇所の初めに「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」と書かれています。
真理とはすなわちイエス・キリストのことです。
具体的にはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの愛です。真理ですから、それは時代と共に変わったり、その力が弱っていくということがありません。
いつまでも変わらない確かなもの、絶対的なもの、いつまでも力を持ち続けるもの、私たちを励まし続けるもの、それが真理です。それはキリストの御言葉でありキリストの愛です。
そのような真実に自分が属していると信じることができるならば、そこには真の安心(平安)があります。
この世のものは移り変わります。人の心も流行も、考え方や常識なども、時代と共に変わっていきます。
しかしイエス・キリストはいつまでも変わりません。キリストの愛と御言葉は決して変わりません。そのキリストの真実に私たちは属しているのです。ですからそこには安心と平安があります。
教会で、変わることのないイエス・キリストの御言葉が語られ続け、その御言葉が分かち合われ、御言葉に基づいた愛の実践がなされるならば、そこには確かな希望が生まれるでしょう。
今、教会に集う人々、クリスチャンの数は非常に少ないです。私たちの教会も小さな群れです。キリストの福音を宣教するための、良き知恵と方策が私たちにも与えられますようにと、私たちは共に思いを合わせて祈りたいと願います。
しかしまず何よりも、決して変わることのないイエス・キリストの御言葉があり、その御言葉は常に私たちと共にある、という真実を覚え、その真実の上に私たちは立ち続けようではありませんか。
御言葉という、決して変わることのない宝を、私たちは頂いているのですから、私たちは安心してよいのです。
20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じである」と書かれています。
私たちは、自分自身に正直に向き合う時、自分で自分を責めてしまう時があるのではないでしょうか。
自分の嫌な面や欠点を思い知らされたり、また何か失敗をしてしまったりして、自分で自分が許せなかったり、自分のことが嫌いになることもあると思います。
自分の罪を知らされ、こんな自分が神の前に出て行くことなど決してできない、と思うことがあるかもしれません。そう思うほどに自分の罪に向き合うことは、大切なことでもあります。
しかし、そのように自分を責めるようなことがあっても、それでも神は私たちの心より大きいお方ですから、やはり私たちは安心できるのです。
神は、私たちに欠点があっても、嫌な部分があっても、それでも私たちを赦し、神のご愛の中で生きるようにと、私たち一人ひとりを招いてくださったからです。
自分の欠点や嫌な部分に向き合わされ、その上でなお、神に赦された大きな喜びを最初に体験したのは、ペテロやヨハネなどの、イエス様の最初の直弟子たちでした。
この手紙の筆者であるヨハネも含め、イエス様の弟子たちは、イエス様が捕まったとき、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
弟子のペトロは、“あなたは鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう”と彼に言ったイエス様の言葉を思い出し、実際にそうなった瞬間に、彼は泣き崩れました。
そんな弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会い、自分の罪が赦されたことを知り、それからは力強くイエス・キリストの福音を伝道していく者になりました。
彼らの伝道の原動力は、“人は自分自身の努力や功績によって救われるのではない。弱く、欠点があり、また卑怯でさえある人間が、ただ神様の憐れみによって罪赦され、救われるのだ”という確信でした。
自分自身を誇らず、ただ私はキリストの愛と憐れみによってのみ赦され、生かされ、そして愛されている、というのが福音です。その福音が私たちにとっての本当の力であり希望です。
そして、その希望こそが私たちの生き方を変えていきます。
今日の箇所の22節に「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからですreceive from him anything we ask, because we keep his commands and do what pleases him.」と書かれています。
続く23節は、次の通りです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
“イエス・キリストの名”というのは、イエス・キリストが神であるということ、キリストがなさったこと、キリストの御言葉など、イエス・キリストの本質を表します。
信仰者はイエス様の御言葉、イエス様の愛、イエス様のなさったことすべてを信じ、それらに信頼して生きていきます。
そして信仰者が共にキリストの名を信じ、キリストの名によって集まる時、そこではキリストの愛が分かち合われ、実践されていきます。
そのようにキリストの名が信じられ、信仰によって互いに愛し合う信仰の共同体の中で、私たちが心を合わせて何かを神に願い祈りあうならば、その祈りは何でも適えられる、と今日の箇所で約束されているのです。
“神に願うことは何でも適えられる”と聞くと、”本当にそうだろうか。適えられない願いや祈りもあるではないか“と私たちは思うかもしれません。
そのような疑いを持つ時も、そのような疑いを持つ時こそ、私たちは、イエス・キリストは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださった、という出来事に心を向けましょう。
そしてそこに神から私たちに向けられた、大きな御愛があることを、私たちは改めて確信いたしましょう。
わたしたちのために、その独り子をお与えになった神が、私たちが心あわせて、互いに愛し合う関係の中で、共に祈るその願いを、聞いて下さらないはずがないではありませんか。
これからも私たちはキリストの御言葉を通して、キリストの御愛を豊かにいただいてまいりましょう。
そしてキリストの愛を豊かにいただくことによって、互いを大切に愛し合う信仰を、私たちは大切にしていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章19~24節
祈祷
宣教 『わたしたちは真理に属している』
祈祷
賛美 新生讃美歌92番 喜びたたえよ
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日の聖書の箇所は『ヨハネの手紙一』の一箇所です。この手紙を書いたヨハネは、『ヨハネによる福音書』の著者である、イエス様の十二人の直弟子の一人であった、ヨハネであると言われます。
ヨハネは「福音書」Gospelという形式で、彼自身が共に生きたイエス様の生涯とイエス様の語ったお言葉、そしてイエス様が十字架にかけられて死に、復活したことを記録しました。
一方、この手紙のほうではヨハネは、イエス・キリストを信じる信仰者が、いかに信仰生活を生きるべきか、特に“信仰者が互いに愛し合う”というその生き方に重点を置いています。
ヨハネがこの手紙を書いたのは、イエス様が死んでから60年ぐらい後であっただろうと言われています。
イエス様が地上にはおられなくなってから、もう60年も経ったのならば、ヨハネの中でイエス様のことは、遠い過去の記憶になっていたのでしょうか。
「昔、私たちの先生だったイエス様は、素晴らしい神の国について私たちに教えてくださったな。懐かしいな」と思い出すような対象にイエス様はなっていたのでしょうか。
まったくそうではありませんでした。ヨハネにとって60年前に死んだイエス様は、まさにキリスト(救世主)として、今も変わらずに”生きておられる“存在でした。
ヨハネの手紙の言葉の一つ一つが、このヨハネが、聖霊を通して働かれるイエス・キリストの力を受けていたことを表しています。
イエス・キリストは人間としては、もう地上には生きておられなくても、ヨハネの中で、また彼と共にキリストを信じる者同士の間で、イエス様は確かに生き続けておられたのです。
今も変わらずキリストは生き続け、わたしたちに生きた神の言葉を語り続けてくださっています。わたしたちは、今もこうして、その神の生きた言葉に共に頂くことができます。
今日の箇所少し前の3章16節に次のように書かれています。
ヨハネの手紙一/ 03章 16節
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの福音書の3章16節には次のように書かれています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
どちらも3章16節です。本質的に、どちらも同じことが書かれています。”イエス・キリストがわたしたちのために死んでくださった。神がその独り子を私たちに与えてくださった。それによって私たちは愛を知った“ということです。
しかしヨハネの手紙では「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれています。
イエス様の死後60年たっても、“主は私たちのために命を捨ててくださった”という事実そして真実は、ヨハネにとって過去の一つの記憶などではありませんでした。
むしろそれ(イエス様が命を捨ててくださったこと)は、“だから、わたしたちも兄弟のために命をすてるべきだ”とヨハネに言わせるほどに、彼(ヨハネ)の信仰の生き方を突き動かす原動力であり続けたのです。
神が人の罪を救うために死なれたように、私たちは人のために死ぬことはできません。人が人の罪を救うことはできないからです。
しかし、神がこの私のために命を捨ててくださったことを本当に信じるならば、その信仰は他者への愛を実践する生き方として具体的な形をとるべきだ、とヨハネは言っているのです。
イエス・キリストは私たちのために命をすててくださいました。それによって私たちは愛を知りました。これが聖書が今も変わらず伝える中心的なメッセージです。
そして“その真の愛を知らされた私たちは互いに愛し合おう。イエス様が命を捨ててくださるほどに、わたしたちがまず愛されたのだから”と、聖書は私たちを今も促し続けるのです。
イエス様が十字架の上で命を捨ててくださったことにより、私たちは自分がいかに神に愛されているか、価値ある者とされているか、を知ることができます。
もし私たちの中で、“自分には価値がない”、“自分は愛されていない”と思われる方がいれば、そのお方はぜひイエス・キリスト、十字架の上のイエス・キリストを見上げていただきたいと私は願います。
十字架の上で命を捨ててくださったイエス・キリストこそが、真の愛を、すなわち“このわたしが神の前に、どれほど愛され尊い者とされているのか”ということを教えてくださるからです。
今日の箇所の初めに「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」と書かれています。
真理とはすなわちイエス・キリストのことです。
具体的にはイエス・キリストの御言葉であり、イエス・キリストの愛です。真理ですから、それは時代と共に変わったり、その力が弱っていくということがありません。
いつまでも変わらない確かなもの、絶対的なもの、いつまでも力を持ち続けるもの、私たちを励まし続けるもの、それが真理です。それはキリストの御言葉でありキリストの愛です。
そのような真実に自分が属していると信じることができるならば、そこには真の安心(平安)があります。
この世のものは移り変わります。人の心も流行も、考え方や常識なども、時代と共に変わっていきます。
しかしイエス・キリストはいつまでも変わりません。キリストの愛と御言葉は決して変わりません。そのキリストの真実に私たちは属しているのです。ですからそこには安心と平安があります。
教会で、変わることのないイエス・キリストの御言葉が語られ続け、その御言葉が分かち合われ、御言葉に基づいた愛の実践がなされるならば、そこには確かな希望が生まれるでしょう。
今、教会に集う人々、クリスチャンの数は非常に少ないです。私たちの教会も小さな群れです。キリストの福音を宣教するための、良き知恵と方策が私たちにも与えられますようにと、私たちは共に思いを合わせて祈りたいと願います。
しかしまず何よりも、決して変わることのないイエス・キリストの御言葉があり、その御言葉は常に私たちと共にある、という真実を覚え、その真実の上に私たちは立ち続けようではありませんか。
御言葉という、決して変わることのない宝を、私たちは頂いているのですから、私たちは安心してよいのです。
20節に「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じである」と書かれています。
私たちは、自分自身に正直に向き合う時、自分で自分を責めてしまう時があるのではないでしょうか。
自分の嫌な面や欠点を思い知らされたり、また何か失敗をしてしまったりして、自分で自分が許せなかったり、自分のことが嫌いになることもあると思います。
自分の罪を知らされ、こんな自分が神の前に出て行くことなど決してできない、と思うことがあるかもしれません。そう思うほどに自分の罪に向き合うことは、大切なことでもあります。
しかし、そのように自分を責めるようなことがあっても、それでも神は私たちの心より大きいお方ですから、やはり私たちは安心できるのです。
神は、私たちに欠点があっても、嫌な部分があっても、それでも私たちを赦し、神のご愛の中で生きるようにと、私たち一人ひとりを招いてくださったからです。
自分の欠点や嫌な部分に向き合わされ、その上でなお、神に赦された大きな喜びを最初に体験したのは、ペテロやヨハネなどの、イエス様の最初の直弟子たちでした。
この手紙の筆者であるヨハネも含め、イエス様の弟子たちは、イエス様が捕まったとき、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
弟子のペトロは、“あなたは鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう”と彼に言ったイエス様の言葉を思い出し、実際にそうなった瞬間に、彼は泣き崩れました。
そんな弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会い、自分の罪が赦されたことを知り、それからは力強くイエス・キリストの福音を伝道していく者になりました。
彼らの伝道の原動力は、“人は自分自身の努力や功績によって救われるのではない。弱く、欠点があり、また卑怯でさえある人間が、ただ神様の憐れみによって罪赦され、救われるのだ”という確信でした。
自分自身を誇らず、ただ私はキリストの愛と憐れみによってのみ赦され、生かされ、そして愛されている、というのが福音です。その福音が私たちにとっての本当の力であり希望です。
そして、その希望こそが私たちの生き方を変えていきます。
今日の箇所の22節に「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからですreceive from him anything we ask, because we keep his commands and do what pleases him.」と書かれています。
続く23節は、次の通りです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
“イエス・キリストの名”というのは、イエス・キリストが神であるということ、キリストがなさったこと、キリストの御言葉など、イエス・キリストの本質を表します。
信仰者はイエス様の御言葉、イエス様の愛、イエス様のなさったことすべてを信じ、それらに信頼して生きていきます。
そして信仰者が共にキリストの名を信じ、キリストの名によって集まる時、そこではキリストの愛が分かち合われ、実践されていきます。
そのようにキリストの名が信じられ、信仰によって互いに愛し合う信仰の共同体の中で、私たちが心を合わせて何かを神に願い祈りあうならば、その祈りは何でも適えられる、と今日の箇所で約束されているのです。
“神に願うことは何でも適えられる”と聞くと、”本当にそうだろうか。適えられない願いや祈りもあるではないか“と私たちは思うかもしれません。
そのような疑いを持つ時も、そのような疑いを持つ時こそ、私たちは、イエス・キリストは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださった、という出来事に心を向けましょう。
そしてそこに神から私たちに向けられた、大きな御愛があることを、私たちは改めて確信いたしましょう。
わたしたちのために、その独り子をお与えになった神が、私たちが心あわせて、互いに愛し合う関係の中で、共に祈るその願いを、聞いて下さらないはずがないではありませんか。
これからも私たちはキリストの御言葉を通して、キリストの御愛を豊かにいただいてまいりましょう。
そしてキリストの愛を豊かにいただくことによって、互いを大切に愛し合う信仰を、私たちは大切にしていこうではありませんか。
2025年3月16日日曜日
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