2025年12月21日 主日(アドベント第四 クリスマス)礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書23章5節
アドベントキャンドルの点火(愛)
賛美 新生讃美歌 162番 天なる使いよ 地をめぐり行き
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
信仰告白
献金
聖句 ヨハネの手紙一 3章11~18節
祈祷
宣教 「あなたがたの初めから聞いている教え」
祈祷
賛美 新生讃美歌157 来たれ 友よ 喜びもて
バプテスマ式
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
12月25日のクリスマス(降誕節)前の約4週間の期間であるアドベント(待降節)の期間を今私たちは過ごしております。
アドベントの間にある4回の日曜日ごとに、わたしたちは礼拝の初めに一本ずつ蝋燭(ろうそく)に火を灯してきました。
キリスト教会の伝統で、それらの4本のろうそくの火にはそれぞれ、希望、平和、喜び、愛、という意味が込められています。
それらは、イエス・キリストがこの世界にもたらしてくださった美徳、また賜物であり、それらによって私たちは、この世で生きることが許されています。
今日は、アドベント第4日曜日です。今日の礼拝の初めに灯された蝋燭の火は“愛”を表します。
イエス・キリストは人として今から約2025年前にお生まれになりました。イエス様は、希望、平和、喜び、そして愛をこの世界にもたらすために世に来られました。
またイエス様は、私たち全ての人を救うという使命をもって、この世界にお生まれになりました。
私たちは何から救われなくてはならなかったのでしょうか。私たちは、わたしたち自身が犯した罪から救われなくてはなりませんでした。
今日の聖書の箇所には、“兄弟を憎む”とか、“人殺し”などの、恐ろしい言葉が書かれています。
“クリスマスというお祝いの時に、なぜそのような御言葉を私たちは聞かねばならないのか”と思われた方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様の愛と救いを私たちが本当に理解するためには、私たちが犯した罪について、聖書を通して私たちがしっかりと向き合うことが、どうしても必要なのです。
クリスマスが、なぜそれほど感謝と喜びの時であるのか、を理解するためには、私たちが一体何から救われたのかを、私たちが理解することが欠かせないのです。
今日の箇所の中の15節に次のように書かれています。
15兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
“兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しには永遠の命がとどまっていません”。この言葉は、この手紙を書いたヨハネが、自分の先生であるイエス様から直接聞いた教えがもとになっています。
イエス様は次のようにおっしゃいました。マタイによる福音書5章21~22節です。
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
だいたい私たちは、自分のことを完璧に正しい、善い人だとは思っていなくても、自分はそこそこましな方である、と思っていないでしょうか。
自分よりもひどい人、悪い人は他に一杯いる。そんな人たちに比べれば、自分は努力して、正しくあろうと努めながら、生きていると、私などはどこか心の中でそう思っております。
しかし、イエス様のお言葉は容赦ありません。兄弟に腹を立てるものは裁きを受けるのです。兄弟に“ばか”と言って相手を見下す人は火の地獄に投げ込まれるのです。
それが神の正しさの基準です。その基準に、自分自身の努力や正しさで達することが出来る人はだれもいません。私たちは全員が罪の裁きに向き合わねばならない者なのです。
今日の箇所の中では、旧約聖書の『創世記』の初めに書かれている、兄カインによる弟アベル殺人の例が書かれています。
自分の行いが悪かった兄カインが、行いの正しかった弟アベルを殺した。
“そんな悪いこととは私は無関係だ”と私たちは思います。しかし、私たちの心の奥深くに潜む、罪の性質において、わたしたちは誰もがカインなのです。
悪い者は、正しい者に反発し、悪い者は力づくで正しい者を亡き者にしようとする、ということです。
私自身、いかに人を心から愛せない者であるか、人を赦せない者であるか、という自分自身に正直に向き合うとき、イエス様のお言葉は本当に真実であると、認めるしかないと思わされます。
しかし、そのような私たちに、大きな、考えられないほどの希望の光が注がれました。希望、平和、喜び、そして愛、それらすべての美徳と賜物を、ご自身で完全に体現するお方が現れたのです。
そうです、御子イエス・キリストが、わたしたちのために、私たちを罪と悪とから救い出すために世に来てくださった、すなわち主イエス・キリストがお生まれになったのです。
それがクリスマスの出来事です。クリスマスは、その出来事の偉大さ、いかに私たちにとって重大な出来事であるかを、私たちの言葉によっては完全に説明しきれないほどの、恵みの出来事です。
今日の16節をお読みします。
16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
主イエスの直弟子の一人であったヨハネは、イエス様が十字架の上で死んだことを、“主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは、愛とは何か、愛するとは何かということを教えられた、と言うのです。
そしてヨハネは、またヨハネ以外の他のキリストの弟子たちも、“主イエス・キリストがわたしたちのために命を捨ててくださった、それによってわたしたちは愛ということを知った”、このことをずっと伝えていかなくてはならない、と示されたのです。
キリスト者、そしてキリスト教会は、その思いを今も引き継いで、“イエス・キリストは私たちのために命を捨ててくださった、それによって私たちは何が愛であるかを知った”という喜びの知らせを、世に伝え続けています。
しかし、その16節には、まだ続きがあります。3章16節の言葉を改めて全部お読みします。
16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
”(わたしたちの命を)わたしたちの兄弟姉妹たちのために、私たちも捨てるべき、とは恐ろしい言葉です。
これは自分の命を粗末にしてよい、ということでは勿論ありません。むしろ、自分の命が尊く大切であるからこそ、私たちの命は、他者をも生かすほどの価値がある、ということです。
そして大切なことは、主イエス・キリストによって真の愛を知らされた者は、その生き方がそのような者として変えられるはずだ、ということです。
神の子、主イエス・キリストがこの私(わたしたち)のために死んでくださった。それによって私たちは真の愛を知らされた。
そうであるならばば、キリストによって真の愛を知らされた者、キリスト者はその生き方がキリストの愛によって必ず変わるはずだ、ということです。
もし、私たちの生き方が、キリストを信じる前と全く変わっていない、というならば、私たちは、本当にキリストの恵みのうちに生きているのだろうか、と自分自身に真剣に問う必要があります。
“わたしたちも兄弟のために命を捨てるべき”という教えは、自分中心の生き方を悔い改めて自分の命が他者を生かすためにもあるのだ、このわたしの存在は他者の利益のためにあるのだ、と言う思いと生き方へと私たちが変えられることです。
それは、今日の箇所の最後の17~18節にあるように、苦しむ身近な人々に心を合わせ、他者の苦しみに共感をし、他者の痛みを自分のこととして捉えて、何か具体的な一つの(たとえ小さくても)行動へと踏み出すことです。
主は私たちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは愛を知った。私は愛されている、大切な存在であることを知った、だから私も他者を愛する、主の愛は私たちをそのように変えていくのです。
今日の箇所の初めの11節に次のように書かれています。
11なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
使徒ヨハネが、そしてキリスト教会がずっと受け継いできたこの教え、他者を尊重し、他者の利益、他者のために生き、そのような私たちが”互いに愛し合う“という信仰の生き方が、キリスト信者たちが初めから聞いてきた教えです。
この大切な教えは、今も、これからも変わらない教えとして、私たちの信仰の指針として私たちを導く教えであり、私たちの力であり続けます。
クリスマスを迎える今、私たちは、キリストの愛に基づいて、”互いに愛し合いなさい“。この尊い教え(御言葉)を私たちは心に納め、また自らの生き方として実践していきたいと願います。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2025年12月20日土曜日
2025年12月13日土曜日
2025年12月14日 主日(アドベント第三)礼拝
前奏
招詞 詩編47篇1節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
賛美 新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
献金
聖句 ヨハネによる福音書15章11~16節
祈祷
宣教 「キリストの喜び」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内
2025年のアドベント(待降節)の期間を今、私たちは過ごしています。2025年も間もなく終わろうとしています。あと半月で、新しい年を私たちは迎えます。
年は変わりますが、キリストにある希望に生かされている私たちは、新しい年にも、主なる神の祝福と希望は変わらず私たちと共にあり続けることを知っております。
それは、変わらぬ祝福と希望を、神はイエス様を通して約束してくださっており、そして私たちの主なる神はご自身のお言葉に忠実なお方、約束を必ず守り果たしてくださるお方であることを、私たちは確信しているからです。
新約聖書のテトスへの手紙二(2 Titus)の2章10~13節に次のように書かれています。
11実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
“すべての人々に救いをもたらす神の恵み”とは、イエス・キリストの恵みです。
そしてキリストの恵みは、わたしたちに“思慮深く”、”正しく(罪と悪を遠ざけ)“、”信心深く(神と共に)“生活するように教えます。
そして神は私たちに、祝福に満ちた希望、すなわちわたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むようにと、教えておられます。
神から私たちへ向けられた祝福と希望である、イエス・キリストのお誕生を、私たちは今年のクリスマスでも、大いに喜び、お祝いし、感謝を神に捧げたいと願います。
そしていずれまたこの地上に来られる主イエス・キリストの再臨を待ち望む、その希望をも新たにする、クリスマスを迎えたいと私たちは願います。
今日はアドベント第三の日曜日の礼拝です。三本目のアドベントキャンドルの火の意味は、“喜び”です。
今日の聖書箇所の言葉は、ヨハネ福音書15章の中の、イエス様ご自身のお言葉です。今日の11節で、“これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである”とイエス様は言われました。
イエス様は、私たちが喜びで満たされることを願い、またそのために必要なものを、全て与えてくださいました。
この世には色々な喜びの出来事があります。別に教会に来ていなくても、聖書を読んでいなくても、神様を信じていなくても、それでも充実した楽しい人生を送っているように見える人は多くいる、かもしれません。
しかし、消えることのない確かな希望により、私たちの喜びが完全に満たされるには、私たちには神の恵み、真の神の恵みの言葉がどうしても必要であると、イエス様は言われるのです。
神の言葉によってしか、また神に繋がることでしか、私たちの喜びが満たされ、満ち溢れ、そして決して変わらぬ満足が私たちに与えられることはありません。
この15章の初めでイエス様は、ご自身を“ぶどうの木”に例えられ、お話をされました。
わたしたちがぶどうの木であるイエス様にしっかりと繋がり続けることで、豊かな実を結ぶことが出来るようになる、とイエス様はおっしゃっています。
わたしたちが“ぶどうの木につながる”とは、キリストの体である教会に繋がる、その木の枝同士である互い(信仰の家族、仲間)に繋がる、そして聖書の御言葉と祈りによって霊的に神様と繋がり続けるということです。
そのようにキリストの体であるぶどうの木(教会)に繋がる人は皆、イエス様の御言葉によって養われ、互いに支え合い豊かな実を結び、喜びが満たされるのです。
私たちの喜びの源はイエス・キリストの恵みです。そしてイエス様は、実に色々なことを言葉によって話してくださいました。
先週の礼拝メッセージで私は、イエス様は生きておられる間に語るべきことを全て弟子たちに、また私たちに向けて全て語ってくださった(語りきってくださった)と私は申し上げました。
イエス様が、私たちが生きるために必要な、また私たちが喜びで満たされるために必要な言葉を全て語りきってくださったので、私たちは喜びと希望とで満たされるのです。
私たちの喜び、本当の喜び、喜びの源泉は、イエス様の御言葉にあります。御言葉を通してこそ、“神が私たちと共にいてくださること”を私たちは確信し、また神が共にいてくださることが私たちの無上の喜びとなります。
そしてイエス様の御言葉によって喜びで満たされた私たちもまた、お互いへの配慮と愛を、言葉をもって表します。もちろん、行いを伴わない言葉だけでは意味がありません。
しかしやはり私たちは与えられた言葉によって、他者への愛と配慮、感謝などを伝え愛、愛のある信仰の言葉によって、互いに励まし合うことができるのではないでしょうか。
思っていることを言葉にするのは難しいものです。言いたいこと、思っていること、感じていることを、言葉でどう表現してよいのか分からない、という時も私たちには多くあります。
あるいは、“どうせ言っても分かってもらえない”、と思って、私たちは自分の思いを人に伝えることをあきらめてしまうこともあります。
しかし、イエス様は、言葉によって弟子たちを教え、言葉を伝える続けることをあきらめになりませんでした。弟子たちがどんなに無理解でも、神の言葉(福音)をイエス様は語り続けてくださいました。
そのようにイエス様が語り続け、弟子たちに言葉を残してくださったのは、わたしの喜び、すなわちキリストの喜びが私に満ちるためであったのです。
イエス様の御言葉、イエス様があきらめずに語り続けてくださった御言葉によって、私たちは今も喜びで満たされるのです。その幸いを私たちは感謝いたしましょう。
また今日の箇所では、イエス様が弟子たちに、また私たちに向けて、本当に驚くべきことをおっしゃっています。
14~15節
14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
神は本当に高いところにおられるお方であり、本来私たちでは近づくこともできないお方です。神はあまりに偉大で、私たちがその偉大さを完全に理解することはできないお方です。
そのようなお方が私たちのことを“友達だ”とおっしゃってくださっているのです。そんなことがあり得るのでしょうか?
だれか有名な人、すばらしい人と友達であれば、それは私たちにとって自慢のたねとなります。
すごく地位の高い人、例えば総理大臣や大統領、王様と知り合いや家族、あるいは友達だ、と言えば大抵の人は、それをとても栄誉なことであり、自慢したいと思うでしょう。
神であるお方、神の子が私たちのことを“友達だ”と言ってくださっているのです。神と友達である、そんなあり得ない最高の栄誉と栄光を、私たちはイエス・キリストを通していただいているのです。
私たちが神の友達となるような資質や素晴らしい美徳を持っていたから神が私たちを友だと言ってくださったのではありません。
神はただ大きな、溢れる愛をもって、罪に満ちた私たちを選び、私たちを御言葉によって、喜びで満たされるようにと、神の友となるようにと、導き出してくださったのです。
しかし、私たちが本当に神の友となるためには守られなくてはならないことがあります。それは14節に書かれています。それは「私(神、イエス様)の命じることを行うならば」です。
そして今日の箇所でイエス様が弟子たち(また私たち)に向けて命じられていることは、次のただ一つです。
17節
互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。
私は、イエス様のこの命令、キリスト者に与えられた命令は、私たちにとって大きな祝福であると同時に、最も厳しい戒め(命令)」であると思います。
なぜなら、私たちは他者を愛せないからです。「いや、わたしは人を愛している」という方がおられるでしょうか。
すばらしい人、善き、愛すべき人であれば、当然私たちはそのような人を愛します。しかし、イエス様は“あなたがたが好きな人だけ、気の合う人だけを愛しなさい”とは言っておられないのです。
イエス様がおっしゃったのは、無条件で”互いに愛し合いなさい“。あなたにとって決して愛せないと思える人でも、とても尊敬できないような人であっても、”互いに愛しなさい“、これがイエス様の命令です。
そしてその命令が守られるのならば、“わたし(イエス様)はあなたがたを友と呼ぶ”という、その最高の栄誉が私たちのものとなるのです。
ここまで聞いて、「そんなこと、わたしには無理です。わたしにはできません」と思われる方がおられるのではないでしょうか。正直申し上げて、私自身がそう言いたいのです。
しかし、13節のイエス様のお言葉を聞いてみましょう。
13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、このお言葉をイエス様ご自身が成し遂げてくださいました。
イエス・キリストがクリスマスに生まれ来られたのには、大きな目的と使命とがありました。それはイエス様がご自身の命を、私たちのために捨ててくださる、ということでした。
イエス様が、“あなたたちをわたしは友と呼ぶ。あなたたちは私の友達なんだ”と言って、そのことを証明し、また私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。
クリスマスは、そのような私たちの救い主、唯一真、最高の神でありながら、私たちを“友”と呼んでくださり、その友のために、ご自身のお命を捨ててくださった神のお誕生を覚える時です。
私たちの救い主、そして私たちを”友“と呼んでくださるイエス・キリストの神が、私たちのために世に生まれてこられました。
これ以上ない、この栄光をいただいて、私たちは今年のクリスマスを、大きな、最高の喜びをもって感謝をして迎えてまいりましょう。
前奏
招詞 詩編47篇1節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
賛美 新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
献金
聖句 ヨハネによる福音書15章11~16節
祈祷
宣教 「キリストの喜び」
祈祷
賛美 新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内
2025年のアドベント(待降節)の期間を今、私たちは過ごしています。2025年も間もなく終わろうとしています。あと半月で、新しい年を私たちは迎えます。
年は変わりますが、キリストにある希望に生かされている私たちは、新しい年にも、主なる神の祝福と希望は変わらず私たちと共にあり続けることを知っております。
それは、変わらぬ祝福と希望を、神はイエス様を通して約束してくださっており、そして私たちの主なる神はご自身のお言葉に忠実なお方、約束を必ず守り果たしてくださるお方であることを、私たちは確信しているからです。
新約聖書のテトスへの手紙二(2 Titus)の2章10~13節に次のように書かれています。
11実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
“すべての人々に救いをもたらす神の恵み”とは、イエス・キリストの恵みです。
そしてキリストの恵みは、わたしたちに“思慮深く”、”正しく(罪と悪を遠ざけ)“、”信心深く(神と共に)“生活するように教えます。
そして神は私たちに、祝福に満ちた希望、すなわちわたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むようにと、教えておられます。
神から私たちへ向けられた祝福と希望である、イエス・キリストのお誕生を、私たちは今年のクリスマスでも、大いに喜び、お祝いし、感謝を神に捧げたいと願います。
そしていずれまたこの地上に来られる主イエス・キリストの再臨を待ち望む、その希望をも新たにする、クリスマスを迎えたいと私たちは願います。
今日はアドベント第三の日曜日の礼拝です。三本目のアドベントキャンドルの火の意味は、“喜び”です。
今日の聖書箇所の言葉は、ヨハネ福音書15章の中の、イエス様ご自身のお言葉です。今日の11節で、“これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである”とイエス様は言われました。
イエス様は、私たちが喜びで満たされることを願い、またそのために必要なものを、全て与えてくださいました。
この世には色々な喜びの出来事があります。別に教会に来ていなくても、聖書を読んでいなくても、神様を信じていなくても、それでも充実した楽しい人生を送っているように見える人は多くいる、かもしれません。
しかし、消えることのない確かな希望により、私たちの喜びが完全に満たされるには、私たちには神の恵み、真の神の恵みの言葉がどうしても必要であると、イエス様は言われるのです。
神の言葉によってしか、また神に繋がることでしか、私たちの喜びが満たされ、満ち溢れ、そして決して変わらぬ満足が私たちに与えられることはありません。
この15章の初めでイエス様は、ご自身を“ぶどうの木”に例えられ、お話をされました。
わたしたちがぶどうの木であるイエス様にしっかりと繋がり続けることで、豊かな実を結ぶことが出来るようになる、とイエス様はおっしゃっています。
わたしたちが“ぶどうの木につながる”とは、キリストの体である教会に繋がる、その木の枝同士である互い(信仰の家族、仲間)に繋がる、そして聖書の御言葉と祈りによって霊的に神様と繋がり続けるということです。
そのようにキリストの体であるぶどうの木(教会)に繋がる人は皆、イエス様の御言葉によって養われ、互いに支え合い豊かな実を結び、喜びが満たされるのです。
私たちの喜びの源はイエス・キリストの恵みです。そしてイエス様は、実に色々なことを言葉によって話してくださいました。
先週の礼拝メッセージで私は、イエス様は生きておられる間に語るべきことを全て弟子たちに、また私たちに向けて全て語ってくださった(語りきってくださった)と私は申し上げました。
イエス様が、私たちが生きるために必要な、また私たちが喜びで満たされるために必要な言葉を全て語りきってくださったので、私たちは喜びと希望とで満たされるのです。
私たちの喜び、本当の喜び、喜びの源泉は、イエス様の御言葉にあります。御言葉を通してこそ、“神が私たちと共にいてくださること”を私たちは確信し、また神が共にいてくださることが私たちの無上の喜びとなります。
そしてイエス様の御言葉によって喜びで満たされた私たちもまた、お互いへの配慮と愛を、言葉をもって表します。もちろん、行いを伴わない言葉だけでは意味がありません。
しかしやはり私たちは与えられた言葉によって、他者への愛と配慮、感謝などを伝え愛、愛のある信仰の言葉によって、互いに励まし合うことができるのではないでしょうか。
思っていることを言葉にするのは難しいものです。言いたいこと、思っていること、感じていることを、言葉でどう表現してよいのか分からない、という時も私たちには多くあります。
あるいは、“どうせ言っても分かってもらえない”、と思って、私たちは自分の思いを人に伝えることをあきらめてしまうこともあります。
しかし、イエス様は、言葉によって弟子たちを教え、言葉を伝える続けることをあきらめになりませんでした。弟子たちがどんなに無理解でも、神の言葉(福音)をイエス様は語り続けてくださいました。
そのようにイエス様が語り続け、弟子たちに言葉を残してくださったのは、わたしの喜び、すなわちキリストの喜びが私に満ちるためであったのです。
イエス様の御言葉、イエス様があきらめずに語り続けてくださった御言葉によって、私たちは今も喜びで満たされるのです。その幸いを私たちは感謝いたしましょう。
また今日の箇所では、イエス様が弟子たちに、また私たちに向けて、本当に驚くべきことをおっしゃっています。
14~15節
14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
神は本当に高いところにおられるお方であり、本来私たちでは近づくこともできないお方です。神はあまりに偉大で、私たちがその偉大さを完全に理解することはできないお方です。
そのようなお方が私たちのことを“友達だ”とおっしゃってくださっているのです。そんなことがあり得るのでしょうか?
だれか有名な人、すばらしい人と友達であれば、それは私たちにとって自慢のたねとなります。
すごく地位の高い人、例えば総理大臣や大統領、王様と知り合いや家族、あるいは友達だ、と言えば大抵の人は、それをとても栄誉なことであり、自慢したいと思うでしょう。
神であるお方、神の子が私たちのことを“友達だ”と言ってくださっているのです。神と友達である、そんなあり得ない最高の栄誉と栄光を、私たちはイエス・キリストを通していただいているのです。
私たちが神の友達となるような資質や素晴らしい美徳を持っていたから神が私たちを友だと言ってくださったのではありません。
神はただ大きな、溢れる愛をもって、罪に満ちた私たちを選び、私たちを御言葉によって、喜びで満たされるようにと、神の友となるようにと、導き出してくださったのです。
しかし、私たちが本当に神の友となるためには守られなくてはならないことがあります。それは14節に書かれています。それは「私(神、イエス様)の命じることを行うならば」です。
そして今日の箇所でイエス様が弟子たち(また私たち)に向けて命じられていることは、次のただ一つです。
17節
互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。
私は、イエス様のこの命令、キリスト者に与えられた命令は、私たちにとって大きな祝福であると同時に、最も厳しい戒め(命令)」であると思います。
なぜなら、私たちは他者を愛せないからです。「いや、わたしは人を愛している」という方がおられるでしょうか。
すばらしい人、善き、愛すべき人であれば、当然私たちはそのような人を愛します。しかし、イエス様は“あなたがたが好きな人だけ、気の合う人だけを愛しなさい”とは言っておられないのです。
イエス様がおっしゃったのは、無条件で”互いに愛し合いなさい“。あなたにとって決して愛せないと思える人でも、とても尊敬できないような人であっても、”互いに愛しなさい“、これがイエス様の命令です。
そしてその命令が守られるのならば、“わたし(イエス様)はあなたがたを友と呼ぶ”という、その最高の栄誉が私たちのものとなるのです。
ここまで聞いて、「そんなこと、わたしには無理です。わたしにはできません」と思われる方がおられるのではないでしょうか。正直申し上げて、私自身がそう言いたいのです。
しかし、13節のイエス様のお言葉を聞いてみましょう。
13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、このお言葉をイエス様ご自身が成し遂げてくださいました。
イエス・キリストがクリスマスに生まれ来られたのには、大きな目的と使命とがありました。それはイエス様がご自身の命を、私たちのために捨ててくださる、ということでした。
イエス様が、“あなたたちをわたしは友と呼ぶ。あなたたちは私の友達なんだ”と言って、そのことを証明し、また私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。
クリスマスは、そのような私たちの救い主、唯一真、最高の神でありながら、私たちを“友”と呼んでくださり、その友のために、ご自身のお命を捨ててくださった神のお誕生を覚える時です。
私たちの救い主、そして私たちを”友“と呼んでくださるイエス・キリストの神が、私たちのために世に生まれてこられました。
これ以上ない、この栄光をいただいて、私たちは今年のクリスマスを、大きな、最高の喜びをもって感謝をして迎えてまいりましょう。
2025年12月6日土曜日
2025年12月7日 主日(アドベント第二)礼拝
前奏
招詞 詩編29篇11節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番(月の讃美歌) 満たしめたまえ み霊よ
祈りの時
献金
聖句 ヨハネによる福音書14章25~31節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ちわびる、待降節(アドベント)第二の主日(日曜日)礼拝を、今日私たちは捧げております。
今日の私が選びました聖書箇所は、ヨハネによる福音書14章の中で、イエス様が十字架にかけられて死ぬ前に、ご自分の弟子たちに向けて、最後の教え(お言葉)を語っておられる箇所です。
イエス様の誕生を待ちわびるアドベントの時期に、この箇所を私が選んだ理由は、ここでのイエス様のお言葉の中には、イエス様が私たちに与えてくださる真の希望、そして平和が、はっきりと語られているからです。
ヨハネ福音書14章から17章までには、イエス様が弟子たちに向けて語った、イエス様が捕らえられ十字架にかけられる前の、最後の言葉が納められています。
今日の箇所の最初の節25節で「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」と、イエス様は弟子たちに向けて言っています。
そして30節には「もはや、あなたがたと多くを語るまい。I will not say much more to you,」と言われたイエス様の言葉も書かれています。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」、そして「もはや、あなたがたと多くを語るまい」という言葉から、私は“イエス様は、本当に悔いのない生き方を地上で全うされたのだな”と思わされました。
イエス様は地上で人として、限りのある命を生きられました。生きている間に、語ることができる言葉にも、限りがありました。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい」と言った後には、イエス様は「世の支配者が来るからである」と言っています。
イエス様は、“もうすぐ権力者たちに私は捕まるので、もうこれ以上あなたがたに私は語る(教える)ことができない”という意味も込めて、そのように言ったのでしょう。
しかし、イエス様は同時に、「わたしは語るべきことは全て、あなたたちに語った(弟子たちに伝えた)」、「父なる神から託された使命をわたしは果たした」という思いもあったのだろうと、私は思うのです。
イエス様は、これから十字架におかかりになります。十字架の上で、私たち全ての者の罪を背負って死ぬという、最大の使命がイエス様を待っていました。
しかし、捕らえられて十字架の上で死ぬ前に、イエス様は、語るべきことは全て弟子たちに語られたのです。
イエス様は弟子たちに、神の言葉を余すところなく語り、彼らが、ご自分が地上からいなくなった後も、御言葉から力を頂いて信仰を生き続けることができるように、イエス様は必要なことを全て語ってくださったのです。
イエス様のお言葉は、今は聖書として、福音書として、私たちに残され、私たちは聖書を通してイエス様のお言葉を今でも聞くことができます。
神の言葉が私たちに残されているのですから、それは何と私たちにとって心強いことではないでしょうか。それは、私たちにとって大きな希望と幸いではないでしょうか。
しかし、聖書の言葉は、簡単に理解できるものではありません。聖書の言葉、イエス様の言われたことの中にも、難しい箇所や、または今の私たちが受け入れることが困難な言葉もあります。
しかしイエス様は、私たちが聖書の言葉を聞くとき、また読むときに、その御言葉について教えてくれる助け手を、天の父なる神は送ってくださると、今日の箇所のお言葉の中で約束しておられます。
26節にこう書かれています。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
まさにその通りに、今も、目には見えない神の霊、聖霊が私たちの心に働きかけ、聖書の御言葉の意味を教えてくれるのです。
聖霊の導きと助けによってでなければ、私たちは決して聖書の御言葉、イエス様の語った言葉を自分のものとすることはできません。
聖霊とは確かに不思議な存在です。私たちは三位一体の神、父、子、聖霊の神を信じています。ですから、聖霊も神と等しい存在です。
聖霊は目には見えませんが、今も確かに私たちを導き、聖書の言葉を神の言葉として聞き信じます。
聖霊は、御言葉を通して、御子イエス・キリストと父なる神と私たちとを結びつけてくださいます。
「聖書の言葉はどうもよく分からない」と思われる方がおられましたら、どうぞ心を開いて、神の霊である聖霊を心に迎え入れるお気持ちで、聖書の言葉に改めて向き合ってくださればと、私は願います。
そして、教会でこのように語られる宣教の言葉も、神の霊である聖霊が助けてくださり、語られる言葉が神のメッセージとして豊かに私たちひとり一人の心に響きますように、わたしたちに力となりますようにと、皆さんにはぜひ祈っていただきたいと、私は願います。
そしてまた御言葉の意味を私たちに説き明かしてくださる、御言葉を通して私たちに霊的に生きる力を与えてくださる聖霊の力に、私たちは大いに期待をして、信仰生活を生きていきたいと願います。
27節のお言葉をお読みします。
27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
今日の礼拝の初めに、二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。二本目のアドベントキャンドルの意味は、”平和“です。
二本目のアドベントキャンドルは、キリストの平和が今も私たちを、この世界を照らしていることを私たちが確認するために、灯されます。
イエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。
”世が与えるような平和“とは何でしょうか。
それは一つには、自分に反対する者に対抗することのできる力や武器などを身に着けて、自分の言うことを聞かない相手は、無理やりにでも言うことを聞かせる、という方法です。
また一つには、財力や社会的地位などを身に着けて、お金の力や権力によって相手に言うことを聞かせる、あるいはそれによって自分が望むことを達成する、自分が欲しいものを手に入れる、という方法です。いわば、力を前提とした平和です。
しかしイエス様は、そのような方法とは全く違う、私たちでは考えられない方法によって、平和を与えると約束され、その通りに生きられました。
イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいご自身が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和でした。
私たち人は、本来自分で負うべき罪を、そのお方(イエス・キリスト)に負わせたのです。私たちが払うべき罪の代償を、私たちはイエス様に払わせてしまったのです。
イエス様が、平和を壊す邪悪なもの、私たち人の罪を赦すために、悪も罪もご自分と一緒に十字架に釘付けにしてくださったのです。
悪の力に対して、同じような力で対抗するというのではなく、イエス様は悪の力をご自分自身と共に十字架に張り付けにすることで、悪の力を完全に無力にしたのです。
イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいお方が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和です。
しかし世の中の現実は、まったく悪が滅びているようには見えないのではないでしょうか。確かにその通りです。
私たちは、悪が蔓延しているとしか思えない世の現実から目をそらすことを、すべきではありません。
現実から目をそらすのではなく、私たちは聖書の御言葉を聖霊を通して読み、そして与えられる信仰を通して、世の中と世界の現実を見ようではありませんか。
この世の悪に打ち勝ったキリストの十字架を見上げて、キリストは十字架の上でこの世の悪を既に滅ぼし、私たちに真の平和を与えてくださった、と私たちは信じて、この世の現実の中で生きるのです。
十字架の上のイエス・キリスト、”キリストの平和”を約束してくださったイエス様の言葉を信じて生きるキリスト者は、世の現実の中にあって、”キリストの平和“が私たちには与えられていることを信じて、生きてまいりましょう。
今日の箇所の最後の節(31節)でイエス様が言われたお言葉をお読みします。このお言葉に導かれて、今日の礼拝メッセージを私は終わります。
31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
御子イエス・キリストは父なる神を愛し、そしてご自身も父なる神に愛された存在でした。父なる神との愛の関係の中で、父の命じられた通りにイエス様は生きられました。
イエス様は弟子たちに促します。“さあ、立て。ここから出かけて行こう”。
“悪と罪に満ちた世の中で、神は既に勝利されたことを信じ、その希望を世に示そう”、とイエス様は今も私たちを促されます。
私たちは、こうして教会で共に礼拝をして、神の声によって励まされ、強められる、希望を頂くという幸いを頂いています。
そして“ここから出かけて行こう”というイエス様の声によって、私たちは自分の生きる場所へと、ここからまた遣わされていきます。
“ここから出かけて行こう”、と言って、今日の箇所でイエス様が行こうとされるその道は、十字架へ向かう道でした。
イエス様でしか負うことのできない、私たちの罪の贖いのための十字架を背負う場へとイエス様は出かけようとされたのです。
私たちも、私たちのために、最も重い十字架を背負ってくださったイエス様に従って、イエス様と共に歩む信仰の道を歩みだしていくのです。
日々、立ち上がって、私たちはイエス様と一緒に歩む信仰の道を歩んでまいりましょう。苦しくてもイエス様が私たちと共にいてくださいます。それは間違いのないことです。
主が私たちの手をとって私たちを立ちあがらせてくださり、主が私たちと共に歩んでくださいます。ですからわたしたちは安心してよいのです。
主イエス・キリストは、約束通り、いつどんなときにも、私たちと共にいてくださいます。平和の救い主として、私たちに平和を与えてくださっています。ですから私たちは恐れる必要はないのです。
主が私たちと共におられます。平和の救い主イエス・キリストが私たちの平和の源です。
この方なくして、真の平和はありません。真の平和がキリストを通して与えられたことを、私たちは大いに喜ぼうではありませんか。
前奏
招詞 詩編29篇11節
アドベントキャンドルの点火
賛美 新生讃美歌149番 来たれやインマヌエル
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番(月の讃美歌) 満たしめたまえ み霊よ
祈りの時
献金
聖句 ヨハネによる福音書14章25~31節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ちわびる、待降節(アドベント)第二の主日(日曜日)礼拝を、今日私たちは捧げております。
今日の私が選びました聖書箇所は、ヨハネによる福音書14章の中で、イエス様が十字架にかけられて死ぬ前に、ご自分の弟子たちに向けて、最後の教え(お言葉)を語っておられる箇所です。
イエス様の誕生を待ちわびるアドベントの時期に、この箇所を私が選んだ理由は、ここでのイエス様のお言葉の中には、イエス様が私たちに与えてくださる真の希望、そして平和が、はっきりと語られているからです。
ヨハネ福音書14章から17章までには、イエス様が弟子たちに向けて語った、イエス様が捕らえられ十字架にかけられる前の、最後の言葉が納められています。
今日の箇所の最初の節25節で「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」と、イエス様は弟子たちに向けて言っています。
そして30節には「もはや、あなたがたと多くを語るまい。I will not say much more to you,」と言われたイエス様の言葉も書かれています。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」、そして「もはや、あなたがたと多くを語るまい」という言葉から、私は“イエス様は、本当に悔いのない生き方を地上で全うされたのだな”と思わされました。
イエス様は地上で人として、限りのある命を生きられました。生きている間に、語ることができる言葉にも、限りがありました。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい」と言った後には、イエス様は「世の支配者が来るからである」と言っています。
イエス様は、“もうすぐ権力者たちに私は捕まるので、もうこれ以上あなたがたに私は語る(教える)ことができない”という意味も込めて、そのように言ったのでしょう。
しかし、イエス様は同時に、「わたしは語るべきことは全て、あなたたちに語った(弟子たちに伝えた)」、「父なる神から託された使命をわたしは果たした」という思いもあったのだろうと、私は思うのです。
イエス様は、これから十字架におかかりになります。十字架の上で、私たち全ての者の罪を背負って死ぬという、最大の使命がイエス様を待っていました。
しかし、捕らえられて十字架の上で死ぬ前に、イエス様は、語るべきことは全て弟子たちに語られたのです。
イエス様は弟子たちに、神の言葉を余すところなく語り、彼らが、ご自分が地上からいなくなった後も、御言葉から力を頂いて信仰を生き続けることができるように、イエス様は必要なことを全て語ってくださったのです。
イエス様のお言葉は、今は聖書として、福音書として、私たちに残され、私たちは聖書を通してイエス様のお言葉を今でも聞くことができます。
神の言葉が私たちに残されているのですから、それは何と私たちにとって心強いことではないでしょうか。それは、私たちにとって大きな希望と幸いではないでしょうか。
しかし、聖書の言葉は、簡単に理解できるものではありません。聖書の言葉、イエス様の言われたことの中にも、難しい箇所や、または今の私たちが受け入れることが困難な言葉もあります。
しかしイエス様は、私たちが聖書の言葉を聞くとき、また読むときに、その御言葉について教えてくれる助け手を、天の父なる神は送ってくださると、今日の箇所のお言葉の中で約束しておられます。
26節にこう書かれています。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
まさにその通りに、今も、目には見えない神の霊、聖霊が私たちの心に働きかけ、聖書の御言葉の意味を教えてくれるのです。
聖霊の導きと助けによってでなければ、私たちは決して聖書の御言葉、イエス様の語った言葉を自分のものとすることはできません。
聖霊とは確かに不思議な存在です。私たちは三位一体の神、父、子、聖霊の神を信じています。ですから、聖霊も神と等しい存在です。
聖霊は目には見えませんが、今も確かに私たちを導き、聖書の言葉を神の言葉として聞き信じます。
聖霊は、御言葉を通して、御子イエス・キリストと父なる神と私たちとを結びつけてくださいます。
「聖書の言葉はどうもよく分からない」と思われる方がおられましたら、どうぞ心を開いて、神の霊である聖霊を心に迎え入れるお気持ちで、聖書の言葉に改めて向き合ってくださればと、私は願います。
そして、教会でこのように語られる宣教の言葉も、神の霊である聖霊が助けてくださり、語られる言葉が神のメッセージとして豊かに私たちひとり一人の心に響きますように、わたしたちに力となりますようにと、皆さんにはぜひ祈っていただきたいと、私は願います。
そしてまた御言葉の意味を私たちに説き明かしてくださる、御言葉を通して私たちに霊的に生きる力を与えてくださる聖霊の力に、私たちは大いに期待をして、信仰生活を生きていきたいと願います。
27節のお言葉をお読みします。
27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
今日の礼拝の初めに、二本目のアドベントキャンドルに火が灯されました。二本目のアドベントキャンドルの意味は、”平和“です。
二本目のアドベントキャンドルは、キリストの平和が今も私たちを、この世界を照らしていることを私たちが確認するために、灯されます。
イエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。
”世が与えるような平和“とは何でしょうか。
それは一つには、自分に反対する者に対抗することのできる力や武器などを身に着けて、自分の言うことを聞かない相手は、無理やりにでも言うことを聞かせる、という方法です。
また一つには、財力や社会的地位などを身に着けて、お金の力や権力によって相手に言うことを聞かせる、あるいはそれによって自分が望むことを達成する、自分が欲しいものを手に入れる、という方法です。いわば、力を前提とした平和です。
しかしイエス様は、そのような方法とは全く違う、私たちでは考えられない方法によって、平和を与えると約束され、その通りに生きられました。
イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいご自身が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和でした。
私たち人は、本来自分で負うべき罪を、そのお方(イエス・キリスト)に負わせたのです。私たちが払うべき罪の代償を、私たちはイエス様に払わせてしまったのです。
イエス様が、平和を壊す邪悪なもの、私たち人の罪を赦すために、悪も罪もご自分と一緒に十字架に釘付けにしてくださったのです。
悪の力に対して、同じような力で対抗するというのではなく、イエス様は悪の力をご自分自身と共に十字架に張り付けにすることで、悪の力を完全に無力にしたのです。
イエス様が与えると約束してくださった“わたしの平和、キリストの平和”とは、神と等しいお方が十字架の上で死に、その十字架の上で私たち全ての者の罪を背負い、身代わりになって死ぬことによって、与えられる平和です。
しかし世の中の現実は、まったく悪が滅びているようには見えないのではないでしょうか。確かにその通りです。
私たちは、悪が蔓延しているとしか思えない世の現実から目をそらすことを、すべきではありません。
現実から目をそらすのではなく、私たちは聖書の御言葉を聖霊を通して読み、そして与えられる信仰を通して、世の中と世界の現実を見ようではありませんか。
この世の悪に打ち勝ったキリストの十字架を見上げて、キリストは十字架の上でこの世の悪を既に滅ぼし、私たちに真の平和を与えてくださった、と私たちは信じて、この世の現実の中で生きるのです。
十字架の上のイエス・キリスト、”キリストの平和”を約束してくださったイエス様の言葉を信じて生きるキリスト者は、世の現実の中にあって、”キリストの平和“が私たちには与えられていることを信じて、生きてまいりましょう。
今日の箇所の最後の節(31節)でイエス様が言われたお言葉をお読みします。このお言葉に導かれて、今日の礼拝メッセージを私は終わります。
31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
御子イエス・キリストは父なる神を愛し、そしてご自身も父なる神に愛された存在でした。父なる神との愛の関係の中で、父の命じられた通りにイエス様は生きられました。
イエス様は弟子たちに促します。“さあ、立て。ここから出かけて行こう”。
“悪と罪に満ちた世の中で、神は既に勝利されたことを信じ、その希望を世に示そう”、とイエス様は今も私たちを促されます。
私たちは、こうして教会で共に礼拝をして、神の声によって励まされ、強められる、希望を頂くという幸いを頂いています。
そして“ここから出かけて行こう”というイエス様の声によって、私たちは自分の生きる場所へと、ここからまた遣わされていきます。
“ここから出かけて行こう”、と言って、今日の箇所でイエス様が行こうとされるその道は、十字架へ向かう道でした。
イエス様でしか負うことのできない、私たちの罪の贖いのための十字架を背負う場へとイエス様は出かけようとされたのです。
私たちも、私たちのために、最も重い十字架を背負ってくださったイエス様に従って、イエス様と共に歩む信仰の道を歩みだしていくのです。
日々、立ち上がって、私たちはイエス様と一緒に歩む信仰の道を歩んでまいりましょう。苦しくてもイエス様が私たちと共にいてくださいます。それは間違いのないことです。
主が私たちの手をとって私たちを立ちあがらせてくださり、主が私たちと共に歩んでくださいます。ですからわたしたちは安心してよいのです。
主イエス・キリストは、約束通り、いつどんなときにも、私たちと共にいてくださいます。平和の救い主として、私たちに平和を与えてくださっています。ですから私たちは恐れる必要はないのです。
主が私たちと共におられます。平和の救い主イエス・キリストが私たちの平和の源です。
この方なくして、真の平和はありません。真の平和がキリストを通して与えられたことを、私たちは大いに喜ぼうではありませんか。
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