2025年3月1日土曜日

2025年3月2日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書46章4節b
賛美  新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句  テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏


 今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
 「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
 テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
  テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
 血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
 私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
 キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。

 同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。

 今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。

「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」

ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
 この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
 「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
 これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
 もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
  私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
  しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
  そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
  聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。

 旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
  そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
 いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。

もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。

パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
 “信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
 私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
 「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
 「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。

今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
 15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

 ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
 イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
  ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
  イエス様はこうお答えになりました。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)

 イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
 聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
 聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
 自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
 罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
 イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
  人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
  また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。

 『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
 今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
  キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
  もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
 神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
  イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
 イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。

2025年2月22日土曜日

2025年2月23日 主日礼拝

前奏
招詞 ゼファニア書3章9節
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句  テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節
祈祷
宣教  「主は来られる」
祈祷
賛美 新生讃美歌216番 栄えの冠を
頌栄 新生讃美歌672番 
祝祷
後奏


今日の聖書箇所は、『テサロニケの信徒への手紙一』の4章の中の一部です。
今日の箇所の4章14節前半に、『イエスは死んで復活されたと、わたしたちは信じています』と書かれています。
キリスト者とは、イエス・キリストが人となって生まれ、十字架の上で死に、そして復活したことを信じる者です。
そしてまたキリスト者とは、十字架と復活のキリストによって、自分自身が生かされていることを知っている者です。
キリストが死んで復活したので、そしてそのキリストが今も生きておられるので、私たちは日々希望を頂いて生きることができます。

キリストの復活を信じる者が、キリストの力によって日々生きているその姿はまさに、主の復活を証します。
私たちはキリスト者として、またキリスト教会として、復活の主キリストこそが、私たちを本当に生かし、力と喜びを与えてくださることを日々証していきたいと願います。
 復活したキリストはそのお姿を多くの人たちの前に現わし、そして天へと上って行かれました。『使徒言行録』の1章にそのことが書かれています。
 イエス様は、再びこの地上においでになるという約束と共に、天に上っていかれました。
 その出来事を目撃した人々、またその出来事を伝え聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちは、イエス様は自分たちが生きている間にお戻りになる、と信じていました。
 ところがイエス様が天から地上へと戻ってこられる前に、イエス様を信じながらこの地上での生を終える人たちが出てきました。
 主を信じつつも、イエス様が戻ってくる前に世を去った(死んだ)人たちは、イエス様が戻ってくるときにどうなるのだろうか(もうその人たちは地上にはいないのだから)、というのが当時のキリストの弟子たちに突き付けられた大変大きな問題の一つでした。

 実際に、次のように言って、キリスト教信仰とイエス様が再び来られるということを嘲って言う人たちがいました。

ペトロの手紙二3章4節
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。

 主は再び来る、と言いながら、いつまでたっても主はやってこないではないか。世の中何一つ変わっていないではないか。そもそも神など本当におられるのか、という声が、最初のキリスト者たちにも既に投げかけられていたのです。
 しかし、同じペトロの手紙二3章8~9節には次のように書かれています。

8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

人間の感覚から言えば、”主イエスは再び来られると約束しておられるのに、いつまでたっても来られない。その約束はまやかしだったのではないか。キリスト信仰そのものも、真実ではないのではないか“という疑いが生じます。
しかし、主のもとでは(With the Lord)“一日は千年のようで、千年は一日のよう”なのです。
主なる神は永遠なるお方ですから、私たちは信仰によって神の永遠という観点から、主の約束を理解しなくてはなりません。
私たちは限りがある人間ですので、永遠であるお方(神)のこと、神のご計画を完全に理解することはできません。
しかし、主は約束を必ず果たしてくださる誠実なお方、と私たちは聖書の御言葉を通して信じることができます。

神の永遠を完全に理解することはできなくても、永遠なる神を信じ、その方の誠実さに信頼をして、生きることはできます。
私達は、私たちを永遠の中に生かしてくださる神の偉大さ、また主は必ず約束を果たしてくださる誠実なお方、ということを常に信じ、生きていきたいと願います。
そして永遠なる主を信じ、主を信頼して生きる生き方を私たちは選び、信仰者同士共に歩むことができる幸いを覚えて感謝をしたいとも願います。
このテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の15節で次のように書いています。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。(15節)

「主の言葉に基づいて According to the Lord’s word」とパウロはここで言います。それは、彼は自分自身で勝手に考え出したことを言っているのではない、と言うことです。
 主イエス・キリストが残されたお言葉に基づいて、そして祈り求めた結果自分に与えられたこととして、パウロはここでそのように言うのです。
 信仰者であるパウロ自身が信仰の先達たちから伝え聞いた言葉、そして主なる神からの啓示(神から示されたこと)によって彼に主の言葉として知らされたことに基づいて、”先に召された者が復活し、そして生き残っている者も共に天に引き上げられる“とパウロはここで言っています。
  今日の箇所で言われていることは、どこか幻想的と言いますか、現実の事として受け取るのが私たちにとっては困難な箇所かもしれません。
 しかし、私たちは誰もがいつか必ず、この地上での生を終える者です。

ですから、“この地上での命が尽きても、私たちにはイエス・キリストによって復活の命が与えられている”という希望の信仰を持つことは、大きな恵みであると、私は信じます。
 たとえ私たちにははっきりとは分からなくても、私たちの思いや考えをはるかに超えた神の永遠の命に、私たちも生かされるという希望が、イエス・キリストによって私たちには与えられています。
私たちには、今自分たちが生きているこの地上の世界のことしかわかりません。それどころか、目に見えているこの世界のことであっても、分からないことが沢山あるくらいです。
 不安定なことが多い世界、どこに確かな希望があると言えばよいのか分からないこと、も多く起きる世界に私は生きています。
 しかし、聖書を通して伝えられるイエス・キリストを通してこの世界を見るとき、キリストの復活の力を通してこの世界を見るとき、私たちはそこに確かな希望と生きる力を見い出すことができます。

  今日の17節の最後に、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と書かれています。
 ”わたしたちはいつまでも主とともにいるようになります“~これは、将来私たちに与えられる、将来完全な形で実現する約束です。
 そうであるとともに、“主はいつまでも私たちと共にいる”という約束は、既に今実現している約束でもあります。(矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、そうなのです)
 主は私たちの目には見えませんが、聖霊を通して私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているからです。
  主は聖霊によって、聖書に書かれた言葉が、神から私たちへ今も語りかけられる言葉であるという信仰を与えてくださいます。
  主は聖霊によって、聖書の御言葉を霊の糧として、その糧を私たちが分かち合って生きるようにと、今も私たちを導いてくださっています。
  主の言葉によって、また主の言葉が分かち合われることによって、私たちは心を震わされ、また大きな励ましと喜びが与えられます。

 そのような意味でも、主はいつまでも私たちと共におられる、という約束は今既に実現している約束である、と言ってもよいのです。

 今日の箇所最後の18節にこのように書かれています。
  ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
 今述べた言葉(あるいは、“これらの言葉)とは、主の言葉に基づいて、信仰者であるパウロが語った言葉です。
 つまり、主の言葉が、一人の信仰者の生き方を通して、別の言葉、言い方で語られたということです。
 そのように、私たちは他の信仰者の言葉を通しても、主なる神の御言葉が確かに私たちを生かし力を与えるものであることを、確信させられます。
先日の礼拝では、二人の姉妹と一人の兄弟が、証と宣教とを担ってくださいました。私はその日、別の教会での礼拝に参加して、直接それらをお聞きすることはできませんでした。
しかし、事前に原稿を通じて、そのお証とメッセージを読むことができました。
実際に声によって届けられるときには、それらはどのように響くのだろうか、などとも想像しながら、私は原稿を読ませていただきました。
 それらの証と宣教では、それを語った方々それぞれの信仰の生き方を通して、主の言葉が確かに語られていました。
 そして私たちの思いを超えた聖霊の導きがあって、語られたお一人お一人の言葉が、最終的には一つとなって、その日の礼拝全体の恵みとなったと私は信じます。
 私たちの主なる神は、み言葉を、信仰者の生き方と言葉を通して世に伝える、と願われました。
福音を世に伝え、また私たちが互いに語られる主の言葉によって生かされ合うように、私たちはキリスト者とされ、そして私達は一つの教会として立てられたのです。
これからも私たちは、主の言葉によって、互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送ってまいりましょう。
主の復活による確かな希望に生かされて、キリストの福音宣教の業にも、私たちは仕えていきたいと願います。

2025年2月15日土曜日

2025年2月16日主日礼拝

前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏

 今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
 この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
 神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
 キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。

 誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
 私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。

 ”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
 しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
 イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。

19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
 ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
 キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
 わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
 しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。

 そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
 神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
 わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
 キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
 そして今日の15節には次のように書かれています。

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
 キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
 ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。

キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
 キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
 私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
 最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。

そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
 名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
 私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
 そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
 その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。

 イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
 そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
 そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
 教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
 イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
 神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。

キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
 神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
 十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
 私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。