前奏
招詞 詩編29篇1節
賛美 新生讃美歌125番 造られしものよ
主の祈り
賛美 新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
信仰告白
献金
聖句 使徒言行録12章20~24節
祈祷
宣教 「神の言葉はますます栄え」
祈祷
賛美 新生讃美歌255 わが罪のために
バプテスマ式
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所では、ある一人の人間、王様という、人間の社会では一つの頂点の立場にあった人の、その生涯の悲惨な最期が描かれています。
先ほどお読みいただきました今日の箇所の中の23節をもう一度お読みいたします。
23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち殺した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
23 Immediately, because Herod did not give praise to God, an angel of the Lord struck him down, and he was eaten by worms and died.
“蛆に食い荒らされて息絶えた”とは恐ろしい表現です。それは描写し難いほど、私たちの想像を絶するほどの悲惨な最期(死)であったということでしょう。
ヘロデが悲惨な最期を迎えた原因は、彼が神に栄光を帰さなかったからです。
ヘロデは、イエス・キリストが生まれた時にユダヤの王であったヘロデ大王の孫です。その彼が今日の箇所では、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた、と書かれています。
ヘロデと、ティルスとシドンの住民たちの間でどんな問題が起きていたのかは分かりません。いずれにしても、ヘロデは彼らにひどく腹を立てていました。住民たちは、そろって王を尋ね、ヘロデ王の侍従(王に仕える役人)であるブラストという人に願って、王と和解しようとしました。
ティルスとシドンの住民たちが、ヘロデ王と和解しようとした理由は、王との間の関係を改善したい、修復したいという純粋な思いからではありませんでした。
住民たちがヘロデ王の機嫌を取ろうとしたのは、彼らの国が王の国から食料の配給を得ていたからでした。
王様が自分たちに怒ったままだと、食べる物がなくなってしまう(不足してしまう)から、とにかく王様に機嫌を取り戻してもらおうとした、ということです。
ここには、人間関係としては非常に寂しい関係性を見ることができます。
人民から見て王様は、ただ食べ物をくれる、というだけの人なのです。だから王様の言うことには従いますが、そこには尊敬や信頼というものは存在しないのです。
私たちも、社会の中で、色々な立場に立ち、様々な人間関係、あるいは立場の違いから来る力関係の中で生きています。職場なので自分よりも立場が上の人だから、嫌でも言うことを聞かなくてはいけない人、という人がいるでしょう。そのような時、キリスト者はどう生きるのでしょうか。王様が機嫌を損ねないように、取り入ろうとしたティルスとシドンの住民たちのように、心の中では軽蔑しながら、表面上は普通に付き合うのでしょうか。
聖書の別の箇所、ローマの信徒への手紙13章1節に次のように書かれています。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
これは理解して受け入れるのが難しい聖句です。自分の上に立つ権威が、十分に尊敬に値する、また優れた人格を備えた人物であれば、この御言葉に従うことは、さほど難しくありません。しかし、もしそうではなかったら、どうすればよいのでしょうか。自分の上に立つ権威が、尊敬に値しない、人格的にも劣った、むしろ蔑みたくなるような人物だったら、どうするのでしょうか。
これについては、旧約聖書の中のダビデの生き方、彼の信仰姿勢が、大切なことを示唆しています。ダビデは、自分が仕えていたサウル王に妬まれて、ついには命を奪われるようになりました。ダビデは何も悪いことをしていないにも関わらず、サウルはダビデの能力と人気に嫉妬したのです。ダビデはサウルのもとを逃れます。それから、ダビデにはサウル王の命を取る、すなわちそれ以上サウルに自分が命を奪われなくてもすむようにできる機会もありました。しかしダビデは、サウルの命を取る機会があっても、そうはしませんでした。ダビデと一緒にいた者たちは、「サウルを殺そう」と言いました。
しかしダビデはその時、こう言っています。「主が油を注がれた方(主が選ばれたか)に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない」ダビデは、サウルは主なる神がお立てになった王だと認めていたのです。しかし、その王は理不尽な理由で自分の命を狙っている王でした。ダビデはそのことで、大いに苦しみ、悩んだはずです。ダビデは何もしなかったわけではありません。自分の命を守るために、サウルのもとから逃れました。また彼は「わたしはあなたの前に潔白です」とサウルに訴えることもしました。
ただダビデは、サウルと自分の間には神がおられること、サウルと自分の上には神がおられ、神は全てを知っておられる、とすべてを神に委ねていたのだと、私は思います。神は私たちすべての者の上におられ、私たちの本当の主、すべてを支配しておられる方は神である、という私たちは信じます。その信仰に立ち、私たちは私たちの上に立つ権威にも、敬意と尊敬、また祈りをもって従う(ダビデのように、言うべきことは言う態度も持ち)、という姿勢を持ちたいと願います。 21節に「定められた日に、ヘロデが王の服をつけて座につき演説をした」と書かれています。
ヘロデが王の服をつける、ということは、ヘロデもただの人間であることを現わしています。王の服とは、その服を脱げば、ヘロデもただ一人の人間にすぎないことを象徴しています。 王としての権威を表す服は、それ以外の人々を委縮させる、人々に自分の言うことに聞き従わせるという力を持っていたでしょう。 ヘロデは、どんどん王の服を豪華にして、着飾ることで、王としての自分の権威を保とうとしていたと考えられます。
そして見た目を飾り立てることで、自分自身をよりよく見せよう、外見を飾ることで自分に自信を持とうとする願いは、私たち誰もが持っているものです。 しかし、イエス様は、野の花一つを指して、こう言われました。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ6:29)
ソロモンは、ダビデの息子でした。父から継いだ王の位と、また莫大な富をソロモンは与えられました。
ソロモンの王の服は、最高にきらびやかだったでしょう。しかし、そのソロモンが最高に着飾った姿さえ、野に咲く花一輪の美しさに劣る、とイエス様は言われるのです。野にさく一つの花、ただ神の恵みのうちに自然に咲いている花一輪の美しさは、どれほどの人間の富、栄誉の頂点を極めた人の服よりも、はるかに美しく綺麗だと言うのです。それはまさに神の視点であり、神様の御愛です。そのような神の御愛に私たちは守られ、生かされているのです。まことの神の愛の中に生かされていることが分かる時、私たちはもはや自分を必要以上に飾り立てることはしなくなるでしょう。神が私たちを輝かせてくださるのです。その神に私たちは信頼してまいりましょう。
今日の箇所でヘロデのもとに集まった人たちはヘロデの演説を聞いて、「神の声だ。人間の声ではないThis is the voice of a god, not of a man.” 」と言って彼らは叫び続けました(22節)。
それはヘロデにとっても、また叫んでいる人たち自身にとっても、大変不幸な叫びでした。神でないものを神としてしまう、まさに偶像崇拝の罪が、そこで犯されていたからです。叫んでいた人々は最初は、ヘロデの声が神の声だ、などとは思っていなかったもしれません。ただヘロデをおだてる目的でそう叫んでいたのかもしれません。しかし段々と、叫んでいる彼らが、ヘロデを本当の神であるかのように見なすようになった、ということも考えられます。何か目に見えるものを確かな神としてあがめたい、という要求、目に見える強い者へのあこがれが、私たちの中にはあるからです。そのように神でない人を神であるかのように崇めること(自分を神であるかのように誇ること)は、神の前に最も重大な、神が忌み嫌われる罪であり、その罪の大きさは、今日の箇所のヘロデの死に方に現われています。
偶像に頼る私たち人の罪を赤裸々に描く今日の箇所の最後は、しかし、次のような文章で終わっています。
しかし、神の言葉はますます栄え、広がって行った。(24節)
ヘロデを神と崇める人々の偶像崇拝、ヘロデの悲惨な最期と、“神の言葉はますます栄え、広がって行った”という言葉は、とても対照的です。 人がどれほど罪を犯そうとも、力ある神の言葉、真の神の言葉は絶えることなく、ますます栄えるのです。神の言葉が弱ることはないのです。
イエス・キリストの御言葉は決して死なないのです。私たちは、その永遠の神の言葉によって生かされています。
それほどの恵み、力強い神の言葉を私たちは信じ、御言葉に従って生きていきましょう。私たち人間の世界が、たとえどれほどひどい状況にあっても(そう見えても)、神の言葉は広がって行きます。私たちの罪にも関わらず、御子イエス・キリストによって私たちの罪を赦し、ご自身の永遠の命へと私たちを招いてくださった方を私たちは信じましょう。永遠なる神の言葉、イエス・キリストの福音がこれからも広がっていきますようにと私たちは願い、祈りましょう。 私たちの思いを超え、神の言葉が私たちを生かし、慰め、力を与え、その神の言葉こそが広がっていきますように願い、神の言葉に期待をして生きてまいりましょう。
