2026年3月1日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編37篇4節
賛美 新生讃美歌278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美 新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録11章19~30節
祈祷
宣教 「それぞれの力に応じて」
祈祷
賛美 新生讃美歌656 きみの賜物と
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の箇所のはじめに、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害」と書かれています。
これは、使徒言行録7章で描かれていた、ステファノという、キリストを信じる者であり伝道者であった者が、神を冒瀆しているという理由で殺された(殉教した)出来事のことです。
ステファノは神を冒瀆などしていませんでした。彼が殺されたのは、当時のユダヤ教の権力者たちの邪悪な心のためでした。
権力者たちは、イエス・キリストを通して示された真の神を認めることができず、イエス・キリストを主として述べ伝えるステファノを殺してしまったのです。
ステファノはキリスト教徒として最初の殉教者と言われています。
そのステファノの殉教をきっかけにし、キリストを信じる者たちへの大きな迫害が起こったことが、第8章の初めにも書かれていました。今日の箇所は、それに続いています。
ステファノの殉教は大変痛ましく悲しい出来事でした。そしてそれによって、多くのキリスト信者たちが、都のエルサレムにはとどまることができなくなり、各地に散らされていきました。
しかし、そのこと(キリストを信じる者が迫害のため各地に散らされたこと)は一方で、イエス・キリストの福音がイスラエル各地、そしてやがてイスラエルを超えて、世界へと広がって行く契機ともなりました。
今日の箇所によれば、各地に散らされた人々(キリストを信じる信者たち)は、最初はユダヤ人たちだけに御言葉を語った、と書かれています。
私たちは既に、ペトロと異邦人のコルネリウスの出会いを通して起きた、異邦人コルネリスと彼の家族や友人たちの回心の出来事を、先週までの箇所で読みました。
しかし、ユダヤ人以外の異邦人(外国人)へも福音が拡がる働きは、教会の指導者であったペトロ以外の、また、後に異邦人伝道の立役者ともなるパウロ以外の、多くの信者たちによっても、進められていったことが今日の箇所には書かれています。
今日の20節に、「彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへいき、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた 」と書かれています。
「彼らの中のキプロス島やキレネから来た者」とは、イスラエル以外の外国で生まれ、外国で育ったユダヤ人たちのことです。
旧約聖書に描かれるように、アッシリアやバビロン帝国によるイスラエルの支配などによって、ユダヤ人の中の多くの人たちが、遠く外国の各地にまで散らされ、そこで生活するようになっていました。
そのような背景を持つユダヤ人(かつ、キリストを信じるようになった人たち)が、ギリシア語を話す人(つまり、ユダヤ人ではない異邦人、外国人)にも、イエス・キリストの福音を語るようにった、と今日の箇所は言うのです。
彼らはイスラエルから離れた海外出身でしたから、異邦人(外国人)に対する見方や彼らとの付き合いかたも、生粋のユダヤ人たち(異邦人とは交際してはいけない、と信じていた)とは違ったのでしょう。
元々彼らは海外の文化で育ちましたから、より開放的な感覚や考えを持っていたのだと思われます。そのような違いは、時に人々の間では問題や摩擦の原因ともなります。
もしかしたらユダヤ育ちのユダヤ人たちは、彼ら海外出身のユダヤ人たちは、生粋のユダヤ人ではない、と見なされていた可能性もあります。
しかし、今日の場面において、彼ら(海外出身のユダヤ人たち)は、イエス・キリストの福音を広く世界に広めるための、重要な最初の一歩を踏み出した人々として描かれています。
異邦人にも神の御言葉を語ろうという願いが、彼らの間から起きて来たのです。
そしてこれは、イエス・キリストの福音の本質から言えば、自然のことでした。神の御言葉、またイエス・キリストの救いの喜びは、一個人、一民族の中にだけとどめて置けるものではないのです。
キリストの信仰は溢れる喜びを人にもたらします。溢れ出る喜びは自然と拡がって行き、遠くへ伝えられていくのです。
キリストの福音は全ての人を生かす命の言葉です。
キリストの福音が、イスラエル以外の海外出身のユダヤ人たちによって、世界へと広げられていったように、私たちもキリストの福音を広めるための働きの器として、用いられたいと私たちは願います。
ここでさらに重要なことは21節に書かれていることです。
21主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
彼らの伝道によって、多くの人々が主に立ちかえった(神を信じるようになった)と書かれています。
そしてそのことは、彼ら(伝道した者たち)が優れて、すばらしい信者だったから、熱心に伝道したから、ということが理由ではない、というのです。
もちろん彼らは熱意をもって、イエス様のことを熱心に人々に伝えたでしょう。彼らの熱意は人を動かしたと、私は信じます。
しかし聖書は、そこで神を信じる者、主に立ちかえった人が沢山起こされたのは、それは、主がその人々を助けられたから(主の助けの手が彼らと共にあったから)、信じて主なる神に立ちかえる者が多く起こされた、と伝えます。
私たちの信仰生活、伝道活動でも、また生きる上で私たちが行う様々なことも、私たちはいつも目に見える結果に囚われます。
教会の活動でも、日曜日の礼拝以外にも、伝道集会などを企画して、多くの人たちに教会に来てほしいと願い、人を誘おうとしても、教会に来る人や、イエス様を信じる人々は、私たちが願うほどは増えない、という現実があります。
しかし、福音を伝える働きの主体は神様、イエス様ですから、私たちは、私たちと共にきっと神が働いていてくださる、私たちには分からない方法やタイミングで、御言葉を信じる人がこれからもきっと起こされる、と私達は希望を持って良いのです。
私たちは目に見える結果などに落胆することなく、まず私たち自身がイエス・キリストの福音を喜んで、福音を生きましょう。
そして私達は教会で礼拝を続けて、御言葉を分かち合って、そのようにして福音を伝える働きに、仕えてまいりましょう。
今日の箇所で、アンティオキアという都市の教会で異邦人も福音を信じたと言う知らせが都エルサレムへ伝わりました。
そこでエルサレムの教会は、バルナバと言う人をアンティオキアへ派遣しました。バルナバは、アンティオキア教会で、神の恵みが異邦人たちにも与えられた様子を見て喜びました。
バルナバの目にも、アンティオキア教会の信者たちが神を喜んでいる様子は、明らかだったのです。神の恵みが喜びをもって受け止められ、分かち合われるところでは、きっと人々のその喜びは目に見えるものなのでしょう。
そしてバルナバは、神の恵みが与えられたアンティオキアの信者たちに、“固い決意をもって主から離れることのないようにto remain true to the Lord with all their hearts. ”と皆を勧めました。
バルナバがそのように彼らを励ました、ということはとても重要です。バルナバがアンティオキアの信者たちを見た時、彼らには神の恵みが確かに与えられていることが確認されました。
しかし、一旦そのように神様を信じて、恵みが与えられたらもう大丈夫、というのではないのです。
どれほど神の恵みで満たされようとも、一旦神を信じる決意をしても、私たちの信仰を揺るがし、私たちを神の恵みから引き離そうとする様々な誘惑、あるいは試練は必ずやってくるからです。
ですからバルナバは、“信仰に留まり続けるように”、“信仰生活はいつも順調な時ばかりではない。苦難は来る。しかし、信仰に留まり続けるように”という教えと励ましをアンティオケアの教会の信者たちに与えたのです。
その励ましは、今の私たちにも常に必要です。私たちが教会に集い、教会で信仰生活を共にすることで、私たちはそのようにお互いを励まし合い、信仰に留まり続けることができるように、互いに力と祈りを合わせることができます。
ひとり一人は弱いので、私たちは一人だけでは、信仰を失ってしまいます。
しかし、たとえ弱って疲れた時でも、支えあい、励まし合うことのできる信仰の家族と仲間、教会の仲間がいれば、私たちは助け合うことができます。私たちは祈り合うことができます。
バルナバからアンティオキアの教会の群れに向けられた“固い決意をもって主から離れることのないように”という励ましの言葉を、私たちへも向けられた言葉として、心にとめていきましょう。
今日の箇所の27節以降で、大きな飢饉が起きるという預言が、アガボという人によって“霊”によってなされたと書かれています。
実際に、エルサレムの教会の信者たちは、その飢饉に大きな影響を受け、大変困窮したようです。
そこでアンティオキアの信者たちは、エルサレム教会の信徒たちを助けることを、自分たちがすべきこととして決めました。彼らは祈り、話し合ったうえでそのように決めたのでしょう。
彼らは“それぞれの力に応じてas each one was able,”(29節)、ユダヤに住む兄弟たち(エルサレム教会の信者たち)を助けよう、と決めました。
“それぞれの力に応じて(各自のできるだけに応じて)助けよう”という、非常に平凡と言えば平凡、しかし温かく、また愛に溢れた決定がその時彼らの間でなされたのです。
先ほど、私たち一人ひとりの信仰は弱く、一人では信仰を失ってしまうこともある、と私は申し上げました。
しかし、そのような時も、私たちは、互いがそれぞれ与えられた力と賜物に応じて、できるだけのことを通して、互いを支え合うことができます。
私たちひとり一人に、その人にしかない特別な賜物が与えられており、その賜物は他者のために、また神様に捧げられるときにこそ、最大限に用いられるのです。
同じ神を信じ、同じ群れに連なる者同士の信仰は、私たち互いの重荷、痛みを分かち合うことへ導きます。
また自分の重荷、痛みを打ち明けて、信仰の家族に祈ってもらうこともできます。その時、私たちの信仰の実践として行われることは、非常に単純な“それぞれの力に応じて、助けの手を差し伸べる(差し伸べ合う)”ことです。
それはある意味当然、単純ですが、しかし決していつも簡単にできることではないでしょう。私たちは、どうしたら、それぞれの力に応じて支え合う、ことを実践していけるのでしょうか。
それは、聖書の言葉によって、また祈りによって、御言葉と祈りによって、御言葉と祈りを中心にして、私たちが信仰の群れ(教会)に留まり続けることです。
神の言葉を常に一緒に受けて、分かち合い、互いに祈り合い続けることによって、神が私たちに促すことを私たちは実践していくことができるのでしょう。
私たちの信仰の実践、成長、福音宣教の働きは常に、そのようにして少しずつ前進するものでしょう。時には、後退、衰退しているように見えることもあるでしょう。
しかし、救い主、イエス・キリストの神の手が、神の助けが私たちと共にあります。神に助けと力を受けて、私たちも信仰の一歩一歩を歩んでいきましょう。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2026年2月27日金曜日
2026年2月21日土曜日
2026年2月22日 主日礼拝
前奏
招詞 ヨエル書2章13節 b, c
賛美 新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録11章1~18節
祈祷
宣教 「悔い改めによる命」
祈祷
賛美 新生讃美歌455 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
それは、ユダヤ人ではない、ユダヤ人からみれば外国人である異邦人たちも、イスラエルの神、イエス・キリストを通して示された真の神、その神の御言葉を受け入れた、という知らせでした。
今日の箇所より前までの箇所で、キリストの弟子であったペトロと、異邦人のコルネリウスが出会い、異邦人であったコルネリウスがイエス・キリストの神を信じて洗礼(バプテスマ)を受けたことが描かれています。
ペトロはコルネリウスに会って、イエス・キリストが地上でなさったこと、キリストが三日目に復活したことなどを語りました。
彼(ペトロ)はまた、復活したキリストが彼自身を含む弟子たちに、ご自分のことを人々に宣べ伝えるように命じられた、ことも話しました。
すると、その時、コルネリウスや、彼の家族や友人は、神の霊である聖霊を受けました。(10:44~45節)。コルネリウスだけでなく、彼の家族や友人たちにも聖霊が降りました。
そこでペトロは「わたしたち同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼(バプテスマ)を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか(できない)」(10章47節)と言いました。
そこでペトロはコルネリウスたちに、洗礼(バプテスマ)を受けるように命じました。(10章48節)
先週のメッセージでも私は申し上げましたように、バプテスマとは、新しい信仰者が、信仰者の群れ、神の家族、今でいえば教会の新たな一員として迎え入れられる、ということです。
ペトロがコルネリウスたちにバプテスマを受けるように命じたということは、ペトロにも、異邦人であるコルネリウスたちを信仰の仲間としてこれからは迎え入れるのだ、という心が与えられた、ということでもあります。
「汚れた者である異邦人とは交際してもいけない」と、それまで固く信じていたペトロにとって、それは大変大きな変化でした。
一人の信仰者が信仰を決心するということ、バプテスマを受けるということは、その方を迎え入れる側(教会)にも、時には大きな変化、新たな決心が改めて与えられることでもある、と私たちは思わされます。
一人の信仰者の信仰決心、バプテスマは、それを受ける側、授ける側の双方が、互いの違いを乗り越えて受け入れ合う、という機会になり得る、ということです。
コルネリウスたちがいた場所はカイサリアという町でした。そして今日の箇所で“ユダヤ”と言われているのは、都エルサレムのことだと思われます。
カイサリアからエルサレムまで、地図でみると120キロぐらいです。
今のような通信手段がない、今から約2000年前の時代、それぐらいの距離を、ある知らせが届くのにはどれぐらいの時間がかかったのだろうか、と私は想像します。
少なくても数日はかかって、人から人へ直接(人の手によって運ばれた手紙か、あるいは口頭で伝えられることによって)その知らせが伝えられたのでしょう。
エルサレムにいた使徒たちに届けられたその知らせの内容は、「ユダヤ人ではない異邦人も神の言葉を受け入れた。彼らも神様を信じた」というものでした。
それまで神様を信じていなかった人たちが真の神を信じるようになった、という知らせはきっと大変嬉しい知らせとして彼らに受け取られたのだろうと私たちは想像いたします。
しかし、異邦人が神の言葉を受け入れた、バプテスマを受けて仲間となった、ということよりも、それとは別のことを問題として取り上げて、そのことを非難する人たちがいたことが、今日の箇所には書かれています。
それは、ぺトロが異邦人(割礼を受けていない)たちのところへ自ら出かけて行き、彼らと一緒に食事をした、ということでした。
神の言葉が異邦人たちにも受け入れられた、ということよりも、その前に、ユダヤの使徒たちは、ペトロが律法を破ったことを問題視したのです。
ペトロが、割礼を受けていない異邦人たちと食事を共にした、それは許されないことだと、彼らは声を上げて非難しました。
ユダヤ人の男子は、生まれて8日目に割礼を受けることは、彼らの信仰の父であるアブラハムを通して、“神はイスラエルの民を特別にお選びになった”という契約のしるしとして、ずっと大切にされていました。
そして旧約聖書で定められた、食べてよいものと、食べてはいけないものの食事の規定も、彼らは厳格に守っていました。
割礼を受けていない、つまり自分たちとは違う、イスラエル人とは相容れない、神の前に汚れた異邦人とは一切付き合ってもいけないのだ、と固く信じていた彼らにとって、ペトロがしたことは到底受け入れられないことでした。
割礼の何がそれほど大事だったのだろう、国や民族の違いがどれほど大きな問題だったのだろう、と今の私たちは思うかもしれません。
しかし、やはり今の私たちも、自分とは異なる考えや感覚を持った人を理解すること、受け入れることは、とても難しいことであると私は思います。
私たちも、色々な面で、まず相手側ができるだけ自分(たち)のようになるべきだ、と自分中心、自分を出発点として考えることが多いと、私は思うのです。
しかし、神の御心はそのことに関して、どこにあるのでしょうか。
“同じ神を信じても、キリストを信じても、その他の面でまず他人がこの私のやり方に合わせるべきだ。そうでなければ、私たちは仲間になれないのだ”と私たちが思うのならば、神はそのことについて、何をおっしゃるのでしょうか。
これは今の私たち教会においても、しばしば大きな問題となる事柄だと思います。
ペトロには、幻を通して神の御心が示されました。そしてコルネリウスとの実際の出会いを通して、“神はどんな人をも清くないとか汚れているとか言ってはならない”と言われていることが、ペトロには示されました。
神は、人の救いに関して、イスラエル人と他の民族とを区別しておられないのです。
確かにイスラエル民族を通して神は最初にご自身を現わされました。しかし、神のご計画は、すべての人が聖霊を受けて、バプテスマを受けて救われることだ、ということがペトロには分かりました。
そして、そのことが、ペトロを通して他のユダヤ人たちに伝えられたのです。ペトロが他のユダヤのキリスト者たちを説得したということが、今日の箇所で描かれていることです。
4節に、「ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた Starting from the beginning, Peter told them the whole story:」と書かれています。
ペトロは自分が非難されても、すぐに自分を弁護(防御)しようとするのではなく、落ち着いて、最初から何が起こったのかを順序正しく、説明を始めたのです。
私たちも、何か問題が発生した時に、そもそも何が最初にあったのか、もともとはどのような事情であったのか、と落ち着いて最初にさかのぼって考えることが、問題解決のための糸口になるのかもしれない、と思わされます。
ペトロは、自分に起きたこと、幻の中で神が“神が清めた物を、清くないなどと、言ってはならない”、“神はどんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、おっしゃった”ということを、彼ら(ユダヤ人信仰者たち)に語りました。
ペトロを異邦人たちのもとへ遣わしたのは、神の導きだったのだと言うことが、ペトロの落ち着いた話を通して、だんだんとそれを聞いている者たちに理解されるようになりました。
そして、神からご覧になって、“ユダヤ人は清い、他の民族は汚れている、などということは決してないのだ”、ということも示されたのです。
18節の言葉をお読みします。
18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
ペトロの弁明(説明)を通して、神が何をなさったのか、神の御心は何かということが聞いている人たちに伝わったのです。
ペトロの言葉(説明)を通して、神が聞く者たちの心の中に働きかけられた、と言ってもよいでしょう。
ペトロは言いました。「私たちに聖霊が降ったように、同じように彼ら異邦人の上にも神の恵みである聖霊が降った」。
彼ら異邦人に聖霊が降った時、彼ら異邦人が異言(神からの賜物と言われる、特殊な言葉)を話し、神を賛美した、と10章46~47節に書かれています。
異邦人も真の神をたたえて賛美したのです。それはペトロにも驚きだったでしょう。彼ら(異邦人)も神をたたえて賛美している、それが神の霊が彼らにも注がれた確かな証拠でした。
神を喜んで神を賛美しているかどうか、自分自身にではなく、神様に栄光を帰しているかどうかが、それが私たちが真の神を信じているかどうかの一つの試金石なのでしょう。
ペトロの話を聞いてユダヤの使徒たち、(割礼を受けて、割礼を受けた者でなければ神の恵みを受けることは決してできないと固く信じて来た彼ら)は、静まりました。
神はそれまでとは異なる新しいことを起こされている、ということが頑なであった彼らの心にも分かるようになったのです。
彼らは彼ら自身の心が変えられていくことも感じたでしょう。
そして彼らには、“神は異邦人をも悔い改めさせてくださった。異邦人も、それまでの罪を悔い改めて真の神に立ちかえった。
だから私たちは、同じ神を信じる者として、彼らと信仰の兄弟姉妹になったのだ”という喜びが、彼らの中に沸き上がったのです。
今日の箇所は、それまで守ることが当然と思われてきた規則(律法)を破ったということで、ペトロが非難を受けることから始まりました。
ペトロは落ち着いて、順を追って最初から“神がなさった”ことを語りました。
私たちも、互いを同じ神を信じる、神に栄光を帰する思いで一致して、問題が起きた場合にも、まず神の御心はどこにあるかを、共に落ち着いて祈り、求めていきたいと思わされます。
神を見上げ、神に栄光を帰する思いで互いに向き合う時、その時私たちお互いの間には、自分の主張や自分を正当として守ろうという思いは消えるでしょう。
その時常に聖書が、神の御心はどこにあるのか、ということを知るための基盤となります。私たちは常に聖書の御言葉と物語の中に、神の御心を求めて生きたいと願います。
そのようにして私たちが互いに神を見上げ、神に栄光を帰そうという心で一致するとき、私たちにはきっと神の御心が示されるはずです。
私たちは同じ教会に連なる信仰の仲間として、そのようにして神の御心を共に認め、示される御心に従って歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 ヨエル書2章13節 b, c
賛美 新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録11章1~18節
祈祷
宣教 「悔い改めによる命」
祈祷
賛美 新生讃美歌455 われに来よと主はいま
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
それは、ユダヤ人ではない、ユダヤ人からみれば外国人である異邦人たちも、イスラエルの神、イエス・キリストを通して示された真の神、その神の御言葉を受け入れた、という知らせでした。
今日の箇所より前までの箇所で、キリストの弟子であったペトロと、異邦人のコルネリウスが出会い、異邦人であったコルネリウスがイエス・キリストの神を信じて洗礼(バプテスマ)を受けたことが描かれています。
ペトロはコルネリウスに会って、イエス・キリストが地上でなさったこと、キリストが三日目に復活したことなどを語りました。
彼(ペトロ)はまた、復活したキリストが彼自身を含む弟子たちに、ご自分のことを人々に宣べ伝えるように命じられた、ことも話しました。
すると、その時、コルネリウスや、彼の家族や友人は、神の霊である聖霊を受けました。(10:44~45節)。コルネリウスだけでなく、彼の家族や友人たちにも聖霊が降りました。
そこでペトロは「わたしたち同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼(バプテスマ)を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか(できない)」(10章47節)と言いました。
そこでペトロはコルネリウスたちに、洗礼(バプテスマ)を受けるように命じました。(10章48節)
先週のメッセージでも私は申し上げましたように、バプテスマとは、新しい信仰者が、信仰者の群れ、神の家族、今でいえば教会の新たな一員として迎え入れられる、ということです。
ペトロがコルネリウスたちにバプテスマを受けるように命じたということは、ペトロにも、異邦人であるコルネリウスたちを信仰の仲間としてこれからは迎え入れるのだ、という心が与えられた、ということでもあります。
「汚れた者である異邦人とは交際してもいけない」と、それまで固く信じていたペトロにとって、それは大変大きな変化でした。
一人の信仰者が信仰を決心するということ、バプテスマを受けるということは、その方を迎え入れる側(教会)にも、時には大きな変化、新たな決心が改めて与えられることでもある、と私たちは思わされます。
一人の信仰者の信仰決心、バプテスマは、それを受ける側、授ける側の双方が、互いの違いを乗り越えて受け入れ合う、という機会になり得る、ということです。
コルネリウスたちがいた場所はカイサリアという町でした。そして今日の箇所で“ユダヤ”と言われているのは、都エルサレムのことだと思われます。
カイサリアからエルサレムまで、地図でみると120キロぐらいです。
今のような通信手段がない、今から約2000年前の時代、それぐらいの距離を、ある知らせが届くのにはどれぐらいの時間がかかったのだろうか、と私は想像します。
少なくても数日はかかって、人から人へ直接(人の手によって運ばれた手紙か、あるいは口頭で伝えられることによって)その知らせが伝えられたのでしょう。
エルサレムにいた使徒たちに届けられたその知らせの内容は、「ユダヤ人ではない異邦人も神の言葉を受け入れた。彼らも神様を信じた」というものでした。
それまで神様を信じていなかった人たちが真の神を信じるようになった、という知らせはきっと大変嬉しい知らせとして彼らに受け取られたのだろうと私たちは想像いたします。
しかし、異邦人が神の言葉を受け入れた、バプテスマを受けて仲間となった、ということよりも、それとは別のことを問題として取り上げて、そのことを非難する人たちがいたことが、今日の箇所には書かれています。
それは、ぺトロが異邦人(割礼を受けていない)たちのところへ自ら出かけて行き、彼らと一緒に食事をした、ということでした。
神の言葉が異邦人たちにも受け入れられた、ということよりも、その前に、ユダヤの使徒たちは、ペトロが律法を破ったことを問題視したのです。
ペトロが、割礼を受けていない異邦人たちと食事を共にした、それは許されないことだと、彼らは声を上げて非難しました。
ユダヤ人の男子は、生まれて8日目に割礼を受けることは、彼らの信仰の父であるアブラハムを通して、“神はイスラエルの民を特別にお選びになった”という契約のしるしとして、ずっと大切にされていました。
そして旧約聖書で定められた、食べてよいものと、食べてはいけないものの食事の規定も、彼らは厳格に守っていました。
割礼を受けていない、つまり自分たちとは違う、イスラエル人とは相容れない、神の前に汚れた異邦人とは一切付き合ってもいけないのだ、と固く信じていた彼らにとって、ペトロがしたことは到底受け入れられないことでした。
割礼の何がそれほど大事だったのだろう、国や民族の違いがどれほど大きな問題だったのだろう、と今の私たちは思うかもしれません。
しかし、やはり今の私たちも、自分とは異なる考えや感覚を持った人を理解すること、受け入れることは、とても難しいことであると私は思います。
私たちも、色々な面で、まず相手側ができるだけ自分(たち)のようになるべきだ、と自分中心、自分を出発点として考えることが多いと、私は思うのです。
しかし、神の御心はそのことに関して、どこにあるのでしょうか。
“同じ神を信じても、キリストを信じても、その他の面でまず他人がこの私のやり方に合わせるべきだ。そうでなければ、私たちは仲間になれないのだ”と私たちが思うのならば、神はそのことについて、何をおっしゃるのでしょうか。
これは今の私たち教会においても、しばしば大きな問題となる事柄だと思います。
ペトロには、幻を通して神の御心が示されました。そしてコルネリウスとの実際の出会いを通して、“神はどんな人をも清くないとか汚れているとか言ってはならない”と言われていることが、ペトロには示されました。
神は、人の救いに関して、イスラエル人と他の民族とを区別しておられないのです。
確かにイスラエル民族を通して神は最初にご自身を現わされました。しかし、神のご計画は、すべての人が聖霊を受けて、バプテスマを受けて救われることだ、ということがペトロには分かりました。
そして、そのことが、ペトロを通して他のユダヤ人たちに伝えられたのです。ペトロが他のユダヤのキリスト者たちを説得したということが、今日の箇所で描かれていることです。
4節に、「ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた Starting from the beginning, Peter told them the whole story:」と書かれています。
ペトロは自分が非難されても、すぐに自分を弁護(防御)しようとするのではなく、落ち着いて、最初から何が起こったのかを順序正しく、説明を始めたのです。
私たちも、何か問題が発生した時に、そもそも何が最初にあったのか、もともとはどのような事情であったのか、と落ち着いて最初にさかのぼって考えることが、問題解決のための糸口になるのかもしれない、と思わされます。
ペトロは、自分に起きたこと、幻の中で神が“神が清めた物を、清くないなどと、言ってはならない”、“神はどんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、おっしゃった”ということを、彼ら(ユダヤ人信仰者たち)に語りました。
ペトロを異邦人たちのもとへ遣わしたのは、神の導きだったのだと言うことが、ペトロの落ち着いた話を通して、だんだんとそれを聞いている者たちに理解されるようになりました。
そして、神からご覧になって、“ユダヤ人は清い、他の民族は汚れている、などということは決してないのだ”、ということも示されたのです。
18節の言葉をお読みします。
18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
ペトロの弁明(説明)を通して、神が何をなさったのか、神の御心は何かということが聞いている人たちに伝わったのです。
ペトロの言葉(説明)を通して、神が聞く者たちの心の中に働きかけられた、と言ってもよいでしょう。
ペトロは言いました。「私たちに聖霊が降ったように、同じように彼ら異邦人の上にも神の恵みである聖霊が降った」。
彼ら異邦人に聖霊が降った時、彼ら異邦人が異言(神からの賜物と言われる、特殊な言葉)を話し、神を賛美した、と10章46~47節に書かれています。
異邦人も真の神をたたえて賛美したのです。それはペトロにも驚きだったでしょう。彼ら(異邦人)も神をたたえて賛美している、それが神の霊が彼らにも注がれた確かな証拠でした。
神を喜んで神を賛美しているかどうか、自分自身にではなく、神様に栄光を帰しているかどうかが、それが私たちが真の神を信じているかどうかの一つの試金石なのでしょう。
ペトロの話を聞いてユダヤの使徒たち、(割礼を受けて、割礼を受けた者でなければ神の恵みを受けることは決してできないと固く信じて来た彼ら)は、静まりました。
神はそれまでとは異なる新しいことを起こされている、ということが頑なであった彼らの心にも分かるようになったのです。
彼らは彼ら自身の心が変えられていくことも感じたでしょう。
そして彼らには、“神は異邦人をも悔い改めさせてくださった。異邦人も、それまでの罪を悔い改めて真の神に立ちかえった。
だから私たちは、同じ神を信じる者として、彼らと信仰の兄弟姉妹になったのだ”という喜びが、彼らの中に沸き上がったのです。
今日の箇所は、それまで守ることが当然と思われてきた規則(律法)を破ったということで、ペトロが非難を受けることから始まりました。
ペトロは落ち着いて、順を追って最初から“神がなさった”ことを語りました。
私たちも、互いを同じ神を信じる、神に栄光を帰する思いで一致して、問題が起きた場合にも、まず神の御心はどこにあるかを、共に落ち着いて祈り、求めていきたいと思わされます。
神を見上げ、神に栄光を帰する思いで互いに向き合う時、その時私たちお互いの間には、自分の主張や自分を正当として守ろうという思いは消えるでしょう。
その時常に聖書が、神の御心はどこにあるのか、ということを知るための基盤となります。私たちは常に聖書の御言葉と物語の中に、神の御心を求めて生きたいと願います。
そのようにして私たちが互いに神を見上げ、神に栄光を帰そうという心で一致するとき、私たちにはきっと神の御心が示されるはずです。
私たちは同じ教会に連なる信仰の仲間として、そのようにして神の御心を共に認め、示される御心に従って歩んでいこうではありませんか。
2026年2月14日土曜日
2026年2月15日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編107篇20節
賛美 新生讃美330番 み使いの歌はひびけり
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
献金
聖句 使徒言行録10章34~48節
祈祷
宣教 「聖霊の賜物を注がれる」
祈祷
賛美 新生讃美歌81番 父なる わが神
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。ペトロが、“このことが本当によく分かりました”と今日の箇所の初めで告白しています。
それは、“人は誰でも、どの国や地域の出身、どの民族であっても、また身分などにも関係なく、神に受け入れられる”、ということです。
神の恵みは神に特別に選ばれたユダヤ人だけに与えられる、と固く信じて来たペトロにとって、それは大きな転換であり、そして驚きでした。
神は偏見をもって人をご覧になるお方でない、ということは、旧約聖書の中にも何箇所かに記されています。
『申命記』の10章17~18節には次のように書かれています。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
主なる神は人を偏り見ることなく、また孤児や寡婦(夫を亡くした女性)など、社会の中で弱くされた人たちを守るお方であると、言うのです。
イスラエルの王であったダビデ王が最初に預言者サムエルに見いだされた時も、神は人を外見では判断されず、その心をご覧になるということをサムエルに示されました。
イスラエルの最初の王であったサウルが神の道から逸れてしまったため、神はサウルを王座から退けられました。
一度神に選ばれても、その人が神の道から逸れてしまうのならば、神は一度お与えになった善き物も取り上げられることがある、と私たちは示されます。
むしろ神に選ばれ、神から善きものを頂いて生きる恵みを頂いた者は、その恵みにふさわしい生き方、(自分中心ではなく、神に従う生き方)をすることが求められるのです。
サウルに代わる次の王を見つけようとしてサムエルが、ダビデの父親であるエッサイの家に招かれた時、サムエルはそこでエッサイの息子たちを見ます。
サムエルは最初に見た、ダビデの兄(長兄)のエリアブを見て(おそらく、彼は見た目も良かったのでしょう)“彼こそ主の前に油注がれた者(主なる神に選ばれた者だ)”と思いました。
しかし神はサムエルにおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16:7)
私たち人はどうしても、目に見える部分、自分に分かる範囲内でしか、他人のことを判断することができません。
それが私たちの限界であり、また私たちの罪の性質の一部でもあることを、私たちは認めなくてはなりません。
しかし神は全てをご存じであり、何よりも私たちをお造りになったのは神であるのですから、神はあらゆる人を公平に、偏ることなく、ご覧になります。
そのような神がおられるということ、そのような神が私たちと共にいてくださることは、私たちにとっての本当の祝福です。この私の心の内まで、すべてをご存じの神がおられるのですから、私たちは安心することができます。
私たち人間の偏った、自分中心の心や見方とは違って、全てを正しく公平にご覧になるお方、また正しさそのものであるお方、神がおられるということを、私たちは改めて、認めようではありませんか。
今日のペトロの最初の言葉、“神は人を分け隔てなさいません”という言葉には、続きがあります。先ほども読みましたが、その続きの言葉が非常に重要です。
それは、35節の言葉です。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」という部分です。
どんな国の人でも、ユダヤ人であってもなくても関係ないのです。ただし、その人が”神を畏れて正しいことを行うなら“、神はその人をお受入れになる、と言うのです。
ペトロには、コルネリウスとの出会いを通して、コルネリウスというその生きた信仰の証を目の当たりにすることによって、そのことがはっきりと示されました。
ユダヤ人以外の民族は神の恵みから漏れており、汚れた人たちであるから、異邦人(外国人)とは交際をしてもいけない、とまで信じていたペトロに、そうではないことが知らされたのです。
ユダヤ人であるかどうかではなく、神の言葉を聞いて、その言葉(教え)に聞き従い、神の前に正しく生きているかどうかが重要である、とペトロは悟りました。
現在のクリスチャンにそのことをあてはめて考えると、“一度神を信じ、バプテスマを受けて、クリスチャンになればもう救われた、安心だ”とは言っていられないことが私たちに分かります。
クリスチャンであるとは、一生安泰な特権的な立場を手に入れた、ということではありません。
確かにキリストの恵みと言う特権に私たちは与っていますが、その特権に与った者の義務として、私たちは常に信仰者としての正しい生き方が求められるのです。
神を畏れて正しく生きているかどうか、キリストに従って生きているかどうかを、私たちは常に吟味しなくてはなりません。
見た目だけではなく、私たちの心は本当に神の方向を向いているでしょうか。
神の御声と御心に従って、私たちは生きているでしょうか。そのことを私たちは自分自身に問う必要があります。
そうすると、”わたしは、キリストに従って生きることができていない“ということに私たちは気づかされるでしょう。
そうなると、もう絶望しか私たちには残っていないのでしょうか。自分の罪の中に、私たちはおちていくしか道はないのでしょうか。
そうではありません。むしろそのように自分自身の信仰に、自分の罪に絶望する時こそ、“そんな私のためにキリストは十字架の上で死んでくださった”という喜びに、私たちは立ちかえることができるのです。
神を信じても私たちは依然として罪人ですので、間違い、失敗、罪を犯します。
しかし、もしわたしたちがその度に“心から”神に立ちかえろう(悔い改めよう)とすれば、神は決して私たちをお見捨てになりません。
神の恵みがなくては、とても正しく生きることができない、生きることそのものができないことを私たちは認め、神の恵みにいつもすがりついていきましょう。
今日の箇所で、ペトロとコルネリウスが分かち合っているのは、神の御言葉です。その御言葉とはすなわち、神の御子イエス・キリストが地上で生きられ、その間に行われた奇跡の数々とそのお言葉です。
そしてそれは、キリストが人の罪を背負って十字架にかけられて死に、三日目に復活した、という喜びの知らせです。
コルネリウスは、イエス・キリストについての福音を既に聞いて、ある程度は知っていたようです(37節)。そして彼は既にイスラエルの神を信じる者となっていました。
コルネリウスは、今日の箇所でペトロから聞いた言葉を通して、改めて、キリストの福音の内容、“キリストは十字架で死んで(殺され)、三日後に復活した”ということを聞いたのです。
そして彼は、“その方を信じる者は誰でもその名によって罪が赦される”、ということを聞き、そのことを一層確信することができたのです。
私たちも、こうして礼拝の中で、また普段の聖書の分かち合いの中でも、“キリストは私たちのために十字架で死に、復活した”という、私たちが何度も何度も聞いた話を繰り返し聞き(分かちあい)ます。
その福音の出来事(同じ内容)を聞くごとに、分かち合うごとに、私たちはその言葉の真実を新たにいただき、御言葉によって生きる力をその度ごとに頂くのです。それはまさに霊の糧です。
御言葉を通して神の恵みと力、生きる力がいつも与えられることを、私たちは喜ぼうではありませんか。
ペトロが話している間に、御言葉を聞いていた一同(コルネリウスの家族、友人たち)の上に聖霊が降った、と書かれています。
ユダヤ人から見た異邦人(外国人)にも神の霊である聖霊が降り、彼らが聖霊に導かれて神を賛美している様子を見て、ペトロと一緒にいた人たち(ユダヤ人)は驚きました。
そこでペトロは「わたしたち同様に、神の恵みによって聖霊を受けたこの人たちに、水でバプテスマを授けることを、いったい誰が妨げることができるのか(誰もできない)」と言って、ペトロは彼らにバプテスマを授けました(そう命じました)。
水でバプテスマ(洗礼)を受けることには、信仰者の仲間になるという意味があります。バプテスマを授ける側が、授けられる側を、同じ信仰を持つ仲間、神の家族として迎え入れるということです。
ペトロは、聖霊が異邦人たちにも注がれるのを見て、”同じ聖霊が彼らにも降ったのだから、どうして私たちが彼らを、私たちの信仰の家族に迎えずにいられようか“と言ったのです。
私たちの教会が神の委託に基づいて行うバプテスマも、新たな信仰者の信仰が私たちと同じ信仰だと私たちが認め、その方を神の家族として同じ教会の一員として迎える、という重要な意味があります。
ペトロとコルネリウスが、互いに神に導かれて出会い、そして互いに心を開き合って、神の恵みを分かち合うことで、ユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストの福音、神の恵みは異邦人(外国人)へも確かに広がったということが確認されました。
ですから私たちも、互いに心を開き合うこと、神の恵みを自分だけのうちに留めずに、互いに分かち合うことを大切にしたいと願います。
また私たちの教会にも、新たな信仰者が起こされますようにと私たちは願います。
そして先に神の恵みをいただき、キリストの恵みのうちに歩むことを許された者として私たちは、日々神の御言葉に聞き従い、神の前に正しく歩むことができますように、と自らを戒めながら、信仰の道を生きていこうではありませんか。
前奏
招詞 詩編107篇20節
賛美 新生讃美330番 み使いの歌はひびけり
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
献金
聖句 使徒言行録10章34~48節
祈祷
宣教 「聖霊の賜物を注がれる」
祈祷
賛美 新生讃美歌81番 父なる わが神
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。ペトロが、“このことが本当によく分かりました”と今日の箇所の初めで告白しています。
それは、“人は誰でも、どの国や地域の出身、どの民族であっても、また身分などにも関係なく、神に受け入れられる”、ということです。
神の恵みは神に特別に選ばれたユダヤ人だけに与えられる、と固く信じて来たペトロにとって、それは大きな転換であり、そして驚きでした。
神は偏見をもって人をご覧になるお方でない、ということは、旧約聖書の中にも何箇所かに記されています。
『申命記』の10章17~18節には次のように書かれています。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
主なる神は人を偏り見ることなく、また孤児や寡婦(夫を亡くした女性)など、社会の中で弱くされた人たちを守るお方であると、言うのです。
イスラエルの王であったダビデ王が最初に預言者サムエルに見いだされた時も、神は人を外見では判断されず、その心をご覧になるということをサムエルに示されました。
イスラエルの最初の王であったサウルが神の道から逸れてしまったため、神はサウルを王座から退けられました。
一度神に選ばれても、その人が神の道から逸れてしまうのならば、神は一度お与えになった善き物も取り上げられることがある、と私たちは示されます。
むしろ神に選ばれ、神から善きものを頂いて生きる恵みを頂いた者は、その恵みにふさわしい生き方、(自分中心ではなく、神に従う生き方)をすることが求められるのです。
サウルに代わる次の王を見つけようとしてサムエルが、ダビデの父親であるエッサイの家に招かれた時、サムエルはそこでエッサイの息子たちを見ます。
サムエルは最初に見た、ダビデの兄(長兄)のエリアブを見て(おそらく、彼は見た目も良かったのでしょう)“彼こそ主の前に油注がれた者(主なる神に選ばれた者だ)”と思いました。
しかし神はサムエルにおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16:7)
私たち人はどうしても、目に見える部分、自分に分かる範囲内でしか、他人のことを判断することができません。
それが私たちの限界であり、また私たちの罪の性質の一部でもあることを、私たちは認めなくてはなりません。
しかし神は全てをご存じであり、何よりも私たちをお造りになったのは神であるのですから、神はあらゆる人を公平に、偏ることなく、ご覧になります。
そのような神がおられるということ、そのような神が私たちと共にいてくださることは、私たちにとっての本当の祝福です。この私の心の内まで、すべてをご存じの神がおられるのですから、私たちは安心することができます。
私たち人間の偏った、自分中心の心や見方とは違って、全てを正しく公平にご覧になるお方、また正しさそのものであるお方、神がおられるということを、私たちは改めて、認めようではありませんか。
今日のペトロの最初の言葉、“神は人を分け隔てなさいません”という言葉には、続きがあります。先ほども読みましたが、その続きの言葉が非常に重要です。
それは、35節の言葉です。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」という部分です。
どんな国の人でも、ユダヤ人であってもなくても関係ないのです。ただし、その人が”神を畏れて正しいことを行うなら“、神はその人をお受入れになる、と言うのです。
ペトロには、コルネリウスとの出会いを通して、コルネリウスというその生きた信仰の証を目の当たりにすることによって、そのことがはっきりと示されました。
ユダヤ人以外の民族は神の恵みから漏れており、汚れた人たちであるから、異邦人(外国人)とは交際をしてもいけない、とまで信じていたペトロに、そうではないことが知らされたのです。
ユダヤ人であるかどうかではなく、神の言葉を聞いて、その言葉(教え)に聞き従い、神の前に正しく生きているかどうかが重要である、とペトロは悟りました。
現在のクリスチャンにそのことをあてはめて考えると、“一度神を信じ、バプテスマを受けて、クリスチャンになればもう救われた、安心だ”とは言っていられないことが私たちに分かります。
クリスチャンであるとは、一生安泰な特権的な立場を手に入れた、ということではありません。
確かにキリストの恵みと言う特権に私たちは与っていますが、その特権に与った者の義務として、私たちは常に信仰者としての正しい生き方が求められるのです。
神を畏れて正しく生きているかどうか、キリストに従って生きているかどうかを、私たちは常に吟味しなくてはなりません。
見た目だけではなく、私たちの心は本当に神の方向を向いているでしょうか。
神の御声と御心に従って、私たちは生きているでしょうか。そのことを私たちは自分自身に問う必要があります。
そうすると、”わたしは、キリストに従って生きることができていない“ということに私たちは気づかされるでしょう。
そうなると、もう絶望しか私たちには残っていないのでしょうか。自分の罪の中に、私たちはおちていくしか道はないのでしょうか。
そうではありません。むしろそのように自分自身の信仰に、自分の罪に絶望する時こそ、“そんな私のためにキリストは十字架の上で死んでくださった”という喜びに、私たちは立ちかえることができるのです。
神を信じても私たちは依然として罪人ですので、間違い、失敗、罪を犯します。
しかし、もしわたしたちがその度に“心から”神に立ちかえろう(悔い改めよう)とすれば、神は決して私たちをお見捨てになりません。
神の恵みがなくては、とても正しく生きることができない、生きることそのものができないことを私たちは認め、神の恵みにいつもすがりついていきましょう。
今日の箇所で、ペトロとコルネリウスが分かち合っているのは、神の御言葉です。その御言葉とはすなわち、神の御子イエス・キリストが地上で生きられ、その間に行われた奇跡の数々とそのお言葉です。
そしてそれは、キリストが人の罪を背負って十字架にかけられて死に、三日目に復活した、という喜びの知らせです。
コルネリウスは、イエス・キリストについての福音を既に聞いて、ある程度は知っていたようです(37節)。そして彼は既にイスラエルの神を信じる者となっていました。
コルネリウスは、今日の箇所でペトロから聞いた言葉を通して、改めて、キリストの福音の内容、“キリストは十字架で死んで(殺され)、三日後に復活した”ということを聞いたのです。
そして彼は、“その方を信じる者は誰でもその名によって罪が赦される”、ということを聞き、そのことを一層確信することができたのです。
私たちも、こうして礼拝の中で、また普段の聖書の分かち合いの中でも、“キリストは私たちのために十字架で死に、復活した”という、私たちが何度も何度も聞いた話を繰り返し聞き(分かちあい)ます。
その福音の出来事(同じ内容)を聞くごとに、分かち合うごとに、私たちはその言葉の真実を新たにいただき、御言葉によって生きる力をその度ごとに頂くのです。それはまさに霊の糧です。
御言葉を通して神の恵みと力、生きる力がいつも与えられることを、私たちは喜ぼうではありませんか。
ペトロが話している間に、御言葉を聞いていた一同(コルネリウスの家族、友人たち)の上に聖霊が降った、と書かれています。
ユダヤ人から見た異邦人(外国人)にも神の霊である聖霊が降り、彼らが聖霊に導かれて神を賛美している様子を見て、ペトロと一緒にいた人たち(ユダヤ人)は驚きました。
そこでペトロは「わたしたち同様に、神の恵みによって聖霊を受けたこの人たちに、水でバプテスマを授けることを、いったい誰が妨げることができるのか(誰もできない)」と言って、ペトロは彼らにバプテスマを授けました(そう命じました)。
水でバプテスマ(洗礼)を受けることには、信仰者の仲間になるという意味があります。バプテスマを授ける側が、授けられる側を、同じ信仰を持つ仲間、神の家族として迎え入れるということです。
ペトロは、聖霊が異邦人たちにも注がれるのを見て、”同じ聖霊が彼らにも降ったのだから、どうして私たちが彼らを、私たちの信仰の家族に迎えずにいられようか“と言ったのです。
私たちの教会が神の委託に基づいて行うバプテスマも、新たな信仰者の信仰が私たちと同じ信仰だと私たちが認め、その方を神の家族として同じ教会の一員として迎える、という重要な意味があります。
ペトロとコルネリウスが、互いに神に導かれて出会い、そして互いに心を開き合って、神の恵みを分かち合うことで、ユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストの福音、神の恵みは異邦人(外国人)へも確かに広がったということが確認されました。
ですから私たちも、互いに心を開き合うこと、神の恵みを自分だけのうちに留めずに、互いに分かち合うことを大切にしたいと願います。
また私たちの教会にも、新たな信仰者が起こされますようにと私たちは願います。
そして先に神の恵みをいただき、キリストの恵みのうちに歩むことを許された者として私たちは、日々神の御言葉に聞き従い、神の前に正しく歩むことができますように、と自らを戒めながら、信仰の道を生きていこうではありませんか。
登録:
コメント (Atom)