2013年6月16日の宣教より
ルカ15:11〜32
この放蕩息子は「遠い国に旅立」(15:13)ったのでした。この「遠さ」は、物理的なことだけでなく、関係の「遠さ」を現しています。内面的にも父親と関係を切ってしまった状態です。◆「関係を切ることは、自分の中にいる相手を殺してしまうことだ」と言った人がいます。なるほどその通りです。神の存在を自分の中から抹殺して生きている人間、それがこの放蕩息子の姿です。◆しかし人間は、神の存在があって初めて人間であるのです。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)とある通り、人間は、神とは切っても切り離せない存在なのです。◆17節に「彼は我に返って」とあります。「我に返って」というのは、本当の自分を取り戻す、ということです。そしてその本当の自分とは、父なる神様の方向に向き直る事、父を父として生きる、ということです。これぞまさに回心です。◆主イエスが来られた理由、それは、私たち人間を父なる神様のもとに導くため、帰らせるためです。主イエスは、そのための帰り道なのです。◆私たちが父なる神様のもとに帰り、「我が子よ」と抱きしめられるのは、主イエスの命の犠牲があってこそなのです。私たちがこの譬え話を読んで感動するのは、これを話しておられるお方が、他でもなく主イエス御自身であるからです。◆皆さん、「主イエスにおいておかえりなさい!」・・・これが、聖書の福音です。主イエスにおいて私たちは御国に入ります。主イエスにおいて私たちは神の子となります。そしてそれが人間の本当の幸いであり、まことの人間となることです。
2013年6月23日日曜日
2013年6月16日日曜日
神の子として
2013年6月9日の宣教より
マタイ5:9
マタイ5:9
“平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。”というみ言葉に注目したいと思います。◆わたしたちはイエスキリストを罪の贖い主として信じ、告白したときに神の子として受け入れていただきました。憶えてますか?だから神の子とされた私たちは平和を実現する者になるべきです。今日、ここに特別に別府国際バプテスト教会に与えられた使命があると思います。◆現在、世界中のいたるところで紛争、テロが起こっています。貧困に苦しむ人がいます。もし、私たちが柔和で憐れみ深い心をもってお互いに他国の人々と接することが出来たら平和への実現の第一歩となれるのではないでしょうか。壁壊し、橋架け、そして平和の実現、今こそまさにそれが世界中で求められていると思います。身近なところで、私たちはこのように素晴らしい関係を持っています。この教会から福音の使者を世界中に送り出すことができるという環境が与えられています。◆バベルの塔で神さまは人間の奢り高ぶりを裁いて言葉を変え国々に散らされました。でも福音という共通の“言語”で平和を実現するために今私たちを用いようとしています。皆さん、その召しに従いますか。(執事 遠藤哲明)
2013年6月9日日曜日
神の前に豊かに生きる
2013/6/2宣教より
ルカ 12:13~21
これは、主イエスがいつものように群衆に教えておられた時のことです。その中に財産相続をめぐって困っている一人の人がいたのです。◆こういう争いはいつの時代でもあります。時折、それが殺人事件までも引き起こしてしまうことがあります。財産とは、富とはなんと人間の心をゆがめてしまう恐ろしいものかと思います。◆もちろん、富、財産が「悪」ということではありません。それをどのように用いるか、それが大切なのです。富、財産に魂を売り渡してはならない、支配されてはならないのです。◆これ、正論です。ここにおられる皆さんも「その通りだ」と賛成なさるでしょう。しかし、理屈では分かっていても、ふと気が付けば、私たちの心に入り込んで、知らず知らずに支配してしまう力、「貪欲」という悪しき欲望の力が富や財産にはあるのです。◆これは何もこの遺産相続で悩んでいる一人の人の問題ではなく、すべての人間が陥りやすい罠であり、弱さなのです。◆「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」――ここで主イエスが語られる中心問題は、「死」の問題です。富の問題ではありません。この世で金持ちであっても、そうでなくても、誰しも必ず迎える「死」の問題です。◆そしてその時に、意味ないものとして手放さねばならないものがある、ということです。裏返せば、死をもってしても私たちから引き離されないものがある、ということではないでしょうか。◆このたとえ話は、「一所懸命財産を蓄えても、所詮人間は死んでしまう存在だ」という人生のあわれを語っているのではありません。「神の前に豊かに、どう生きるか」という招きなのです。
ルカ 12:13~21
これは、主イエスがいつものように群衆に教えておられた時のことです。その中に財産相続をめぐって困っている一人の人がいたのです。◆こういう争いはいつの時代でもあります。時折、それが殺人事件までも引き起こしてしまうことがあります。財産とは、富とはなんと人間の心をゆがめてしまう恐ろしいものかと思います。◆もちろん、富、財産が「悪」ということではありません。それをどのように用いるか、それが大切なのです。富、財産に魂を売り渡してはならない、支配されてはならないのです。◆これ、正論です。ここにおられる皆さんも「その通りだ」と賛成なさるでしょう。しかし、理屈では分かっていても、ふと気が付けば、私たちの心に入り込んで、知らず知らずに支配してしまう力、「貪欲」という悪しき欲望の力が富や財産にはあるのです。◆これは何もこの遺産相続で悩んでいる一人の人の問題ではなく、すべての人間が陥りやすい罠であり、弱さなのです。◆「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」――ここで主イエスが語られる中心問題は、「死」の問題です。富の問題ではありません。この世で金持ちであっても、そうでなくても、誰しも必ず迎える「死」の問題です。◆そしてその時に、意味ないものとして手放さねばならないものがある、ということです。裏返せば、死をもってしても私たちから引き離されないものがある、ということではないでしょうか。◆このたとえ話は、「一所懸命財産を蓄えても、所詮人間は死んでしまう存在だ」という人生のあわれを語っているのではありません。「神の前に豊かに、どう生きるか」という招きなのです。
2013年6月2日日曜日
見つけられた一匹の羊
2013年5月26日の宣教より
ルカ15:1〜7
さきほど主の晩餐をいたしました。その晩餐にあずかりながら、「えっ、あの人が一緒なの。いやだわー。牧師はなぜ、あの人を私たちと一緒に扱われるのかしら」と考えた人はいないでしょう。けれど、この場面では、まさにそういう不平、非難の言葉が出て来たのです。◆食事を共にするということは、これは他者と共に生きる時の基本です。一緒に食事をするということは、互いが仲間として受け容れあうということです。つまり、主イエスは、徴税人や罪人の仲間入りをされたのです。◆しかしそれを見て、それが許せない人がいたのです。罪人の仲間入りをすることがどうしても許せない人々がいたのです。それは「自分はあいつらとは違う」と考え、自分の正しさを誇っていたからです。主イエスは、そんな彼らの傲慢を打ち壊すために、このたとえ話をなさった、ということです。◆おそらく、この話をなさった時、そこには非難の原因となった徴税人や罪人たちも一緒にいたでしょう。彼らにとって、この主イエスのたとえは、喜び(福音)以外の何ものでもなかったでしょう。それまで聞いたことのない、愛と憐みに富んだ言葉だったでしょう。◆このように、たとえ話というのは、どの立場で聞くかによって、それが裁きにもなれば、救いにもなるのです。さあ、私たちは一体、どちらの立場に身を置いて、このたとえを聴いているでしょうか。律法学者でしょうか、それとも罪人でしょうか。◆私たち一人一人が、それぞれの立ち位置を確認しましょう。一人一人が「見つけられた一匹の羊」として自分を見つめ、そして周りの一人一人に対してもそのように考えることができるなら、そこに主イエスの開始された「神の国」が現されるでしょう。
ルカ15:1〜7
さきほど主の晩餐をいたしました。その晩餐にあずかりながら、「えっ、あの人が一緒なの。いやだわー。牧師はなぜ、あの人を私たちと一緒に扱われるのかしら」と考えた人はいないでしょう。けれど、この場面では、まさにそういう不平、非難の言葉が出て来たのです。◆食事を共にするということは、これは他者と共に生きる時の基本です。一緒に食事をするということは、互いが仲間として受け容れあうということです。つまり、主イエスは、徴税人や罪人の仲間入りをされたのです。◆しかしそれを見て、それが許せない人がいたのです。罪人の仲間入りをすることがどうしても許せない人々がいたのです。それは「自分はあいつらとは違う」と考え、自分の正しさを誇っていたからです。主イエスは、そんな彼らの傲慢を打ち壊すために、このたとえ話をなさった、ということです。◆おそらく、この話をなさった時、そこには非難の原因となった徴税人や罪人たちも一緒にいたでしょう。彼らにとって、この主イエスのたとえは、喜び(福音)以外の何ものでもなかったでしょう。それまで聞いたことのない、愛と憐みに富んだ言葉だったでしょう。◆このように、たとえ話というのは、どの立場で聞くかによって、それが裁きにもなれば、救いにもなるのです。さあ、私たちは一体、どちらの立場に身を置いて、このたとえを聴いているでしょうか。律法学者でしょうか、それとも罪人でしょうか。◆私たち一人一人が、それぞれの立ち位置を確認しましょう。一人一人が「見つけられた一匹の羊」として自分を見つめ、そして周りの一人一人に対してもそのように考えることができるなら、そこに主イエスの開始された「神の国」が現されるでしょう。
2013年5月26日日曜日
すべての民を主イエスの弟子に
2013/5/19宣教より
マタイ28:18~20/使徒言行録2:1-11
聖霊は、「炎のような舌」のように「一人一人の上に」とどまりました。この「一人一人の上に」というのが重大です。そこにいた誰一人として傍観者ではありません。一同すべてが世界伝道の担い手となって行く、それがペンテコステの出来事です。◆「家中に響いた」(2:2)というのも注目したい言葉です。聖書では時折「家」(オイコス)は「世界」(コスモス)を暗示します。聖霊の風音が「家中(オイコス中)に響いた」ということは、全世界が聖霊によって御言葉の伝道で満たされる、その福音の喜びが世界中に響き渡ることの予兆なのです。◆幸いに、私たちの教会には、世界のあちらこちらからの人々が集まっています。そしてこの教会から、世界各地に押し出されていきます。なんと素晴らしい、福音の広がりの可能性を秘めている教会だと思います◆そのために私たちは弟子となって行く訓練をしなければなりません。告げ知らせる福音の内容をよく学び、証しする言葉を整え、伝える相手に伝わる言葉を獲得して行かねばなりません。◆私は願っています。この教会の一人一人が主イエスの弟子となって福音を伝える者となることを。◆私は願っています。この教会から牧師や宣教師などの伝道者が起こされることを。そしてこの日本のキリスト教宣教の働きを担う者となっていくことを。いや、日本だけではありません。世界中です。
マタイ28:18~20/使徒言行録2:1-11
聖霊は、「炎のような舌」のように「一人一人の上に」とどまりました。この「一人一人の上に」というのが重大です。そこにいた誰一人として傍観者ではありません。一同すべてが世界伝道の担い手となって行く、それがペンテコステの出来事です。◆「家中に響いた」(2:2)というのも注目したい言葉です。聖書では時折「家」(オイコス)は「世界」(コスモス)を暗示します。聖霊の風音が「家中(オイコス中)に響いた」ということは、全世界が聖霊によって御言葉の伝道で満たされる、その福音の喜びが世界中に響き渡ることの予兆なのです。◆幸いに、私たちの教会には、世界のあちらこちらからの人々が集まっています。そしてこの教会から、世界各地に押し出されていきます。なんと素晴らしい、福音の広がりの可能性を秘めている教会だと思います◆そのために私たちは弟子となって行く訓練をしなければなりません。告げ知らせる福音の内容をよく学び、証しする言葉を整え、伝える相手に伝わる言葉を獲得して行かねばなりません。◆私は願っています。この教会の一人一人が主イエスの弟子となって福音を伝える者となることを。◆私は願っています。この教会から牧師や宣教師などの伝道者が起こされることを。そしてこの日本のキリスト教宣教の働きを担う者となっていくことを。いや、日本だけではありません。世界中です。
2013年5月19日日曜日
大牧者・主イエスと共に
2013/5/12宣教より
ヘブライ 13:20~21
私は牧師という務めに召されて16年になりますが、この務めの責任の大きさに今も尚、おそれを感じます。教会という羊の群れを牧する責任、信徒(羊)一人一人への手厚い配慮と関わり、その足りなさに自分の至らなさを思います。◆しかしその自分の小ささを思えば思うほど、主イエス・キリストの偉大さを痛感いたします。主イエス・キリストは私たち(羊たち)の「大牧者」です。◆主イエスは言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」 (ヨハネ10:10-11)と。◆この「大牧者」主イエスは、その言葉の通り、御自身の命を捨てて(十字架に死んで)、私たち(羊たち)の命を救って下さいました。それによって父なる神との契約(救いの約束)を、一時的なものではなく、永遠なる確かなものとしてくださったのです。◆この世にあって、「永遠」に存続することってあるでしょうか?・・・「否」です。私たちの肉体の健康も、国家という形も、地球環境も、すべて変わりゆくもの、形を失うものです。◆けれども、「大牧者」主イエスによって果された契約は、いつまでも新しく、変わりません。それは不変の真理です。ですから、この方と共に歩むとき、私たちは安心できるのです。◆私たちがこの『祝祷』を聞く時に、その「大牧者」主イエスの臨在を強く確信できるなら幸いです。そしてその確信は、ここから出かけて行く先々で出会うどんな局面におかれても、私たちを励まし、平安に満たし、強くするでしょう。
ヘブライ 13:20~21
私は牧師という務めに召されて16年になりますが、この務めの責任の大きさに今も尚、おそれを感じます。教会という羊の群れを牧する責任、信徒(羊)一人一人への手厚い配慮と関わり、その足りなさに自分の至らなさを思います。◆しかしその自分の小ささを思えば思うほど、主イエス・キリストの偉大さを痛感いたします。主イエス・キリストは私たち(羊たち)の「大牧者」です。◆主イエスは言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」 (ヨハネ10:10-11)と。◆この「大牧者」主イエスは、その言葉の通り、御自身の命を捨てて(十字架に死んで)、私たち(羊たち)の命を救って下さいました。それによって父なる神との契約(救いの約束)を、一時的なものではなく、永遠なる確かなものとしてくださったのです。◆この世にあって、「永遠」に存続することってあるでしょうか?・・・「否」です。私たちの肉体の健康も、国家という形も、地球環境も、すべて変わりゆくもの、形を失うものです。◆けれども、「大牧者」主イエスによって果された契約は、いつまでも新しく、変わりません。それは不変の真理です。ですから、この方と共に歩むとき、私たちは安心できるのです。◆私たちがこの『祝祷』を聞く時に、その「大牧者」主イエスの臨在を強く確信できるなら幸いです。そしてその確信は、ここから出かけて行く先々で出会うどんな局面におかれても、私たちを励まし、平安に満たし、強くするでしょう。
2013年5月12日日曜日
恵みによって強められて
2013/5/5宣教より
ヘブライ13:7~9
信仰者の強みは、神の恵みによって生かされていることに気付いていることです。◆「恵み」というのは、一方的に神が下さるものです。それは「無条件の愛」と言い換えても良いでしょう。私たちが愛したから、神は愛してくれる―――そのような条件付きではありません。私たちが神を愛する前から、神は私たちを愛して下さっています。私たちが神のために何かをしたから、ではなく、神は無条件に私たちを愛して下さっています。それが恵みです。◆私たちはみな、行いによってではなく、神の恵みのゆえに救われた者たちです。そのことを忘れ、何か自分の力で生きているかのように錯覚してはなりません。◆主は言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)と。◆自分の弱さに落ち込む悩むとき、この御言葉を思い出しましょう。そして神の恵みによる強めを願い求めましょう。
イエス・キリストの十字架の死によって、罪深い私たちに救いの道を開いて下さった主よ、その大いなる恵みに心から感謝しつつ、賛美いたします。どうぞこの弱き小さな私たちですが、その欠け多き器の中からこぼれ出るあなたの豊かな恵みを、世に証しさせてください。
ヘブライ13:7~9
信仰者の強みは、神の恵みによって生かされていることに気付いていることです。◆「恵み」というのは、一方的に神が下さるものです。それは「無条件の愛」と言い換えても良いでしょう。私たちが愛したから、神は愛してくれる―――そのような条件付きではありません。私たちが神を愛する前から、神は私たちを愛して下さっています。私たちが神のために何かをしたから、ではなく、神は無条件に私たちを愛して下さっています。それが恵みです。◆私たちはみな、行いによってではなく、神の恵みのゆえに救われた者たちです。そのことを忘れ、何か自分の力で生きているかのように錯覚してはなりません。◆主は言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)と。◆自分の弱さに落ち込む悩むとき、この御言葉を思い出しましょう。そして神の恵みによる強めを願い求めましょう。
イエス・キリストの十字架の死によって、罪深い私たちに救いの道を開いて下さった主よ、その大いなる恵みに心から感謝しつつ、賛美いたします。どうぞこの弱き小さな私たちですが、その欠け多き器の中からこぼれ出るあなたの豊かな恵みを、世に証しさせてください。
2013年5月5日日曜日
追い求めよ
2013/4/28宣教より
ヘブライ 12:14~15
「すべての人との平和」「聖なる生活」この二つが、クリスチャンとして「追い求める」ものです。◆聖なる生活とは、何も私たちの周りに壁を作る事ではありません。むしろ私たちの心にある「神第一」の生き方が、周りに良い証しとなって広がるように期待されているのです。◆「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(12:14)と言われている様に、私たちが神のものを第一に取り分ける生き方をしていると、それを通して周りの人が主なる神を知るのです。◆私は信じます。聖なる生活、すなわち神を神をする生き方こそが、この世(人と人との関係)にまことの平和を実現する、と。逆もまた真です。人との間に平和を追い求めない生活は、聖なる生活ではない、と。
主なる神様、私たちは折に触れ、選ぶべき帰路に立たされます。神か人か、教会か地域か、そのはざまで悩みます。その悩みもまた、「すべての人との平和」を希求するがゆえのものです。どうぞ、その折々になす私たちの決断と姿勢が、主あなたを証しするものとなりますように。地の塩、世の光として私たちを用いてください。アーメン
ヘブライ 12:14~15
「すべての人との平和」「聖なる生活」この二つが、クリスチャンとして「追い求める」ものです。◆聖なる生活とは、何も私たちの周りに壁を作る事ではありません。むしろ私たちの心にある「神第一」の生き方が、周りに良い証しとなって広がるように期待されているのです。◆「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(12:14)と言われている様に、私たちが神のものを第一に取り分ける生き方をしていると、それを通して周りの人が主なる神を知るのです。◆私は信じます。聖なる生活、すなわち神を神をする生き方こそが、この世(人と人との関係)にまことの平和を実現する、と。逆もまた真です。人との間に平和を追い求めない生活は、聖なる生活ではない、と。
主なる神様、私たちは折に触れ、選ぶべき帰路に立たされます。神か人か、教会か地域か、そのはざまで悩みます。その悩みもまた、「すべての人との平和」を希求するがゆえのものです。どうぞ、その折々になす私たちの決断と姿勢が、主あなたを証しするものとなりますように。地の塩、世の光として私たちを用いてください。アーメン
2013年4月28日日曜日
信仰の道を走り抜く
2013/4/21宣教より
ヘブライ12:1~3
信仰生活はしばしば陸上競技に譬えられます。人生にはそれぞれの段階があって、その時々に越えるべきハードルがあります。そしてそれを何とかして越えていかねばなりません。◆12章1節に「このようにおびただしい証人に囲まれている」とあります。これらの「おびただしい証人」とは、この手紙の11章に記されている信仰の先達者たちのことです。彼らは、それぞれの人生を「信仰によって」生き抜いた人々です。そしてその彼らが、今も私たちの人生の道の沿道で「がんはれ!がんはれ!信仰によって走り抜け!」と旗振りながら応援してくれている、そういう光景を想像するのです。◆私たちは42.195㌔を走り抜くランナーを見て感動します。そのように、いかなるハードルもイエス様への信仰によって乗り越え走りとおす信仰者の姿は、周りの人々を感動させるのです。◆1節の「わたしたちもまた・・・忍耐強く走り抜こうではないか」という点に注目してください。「わたし」だけでなく「あなた」だけでもなく、「わたしたち」の事柄です。教会の事柄です。私たちは信仰によってイエス様と共に走りますが、そこには共に走っているクリスチャンの仲間がいるのです。それは互いに競い合うためではなく、励まし合うためです。互いに同じ苦しみを味わうからこそ、励まし合う仲間です。そうやって私たちは、お互いが信仰の人生を完走できるように励まし合うためにいるのです。共に信仰の道を走り抜いて参りましょう。
ヘブライ12:1~3
信仰生活はしばしば陸上競技に譬えられます。人生にはそれぞれの段階があって、その時々に越えるべきハードルがあります。そしてそれを何とかして越えていかねばなりません。◆12章1節に「このようにおびただしい証人に囲まれている」とあります。これらの「おびただしい証人」とは、この手紙の11章に記されている信仰の先達者たちのことです。彼らは、それぞれの人生を「信仰によって」生き抜いた人々です。そしてその彼らが、今も私たちの人生の道の沿道で「がんはれ!がんはれ!信仰によって走り抜け!」と旗振りながら応援してくれている、そういう光景を想像するのです。◆私たちは42.195㌔を走り抜くランナーを見て感動します。そのように、いかなるハードルもイエス様への信仰によって乗り越え走りとおす信仰者の姿は、周りの人々を感動させるのです。◆1節の「わたしたちもまた・・・忍耐強く走り抜こうではないか」という点に注目してください。「わたし」だけでなく「あなた」だけでもなく、「わたしたち」の事柄です。教会の事柄です。私たちは信仰によってイエス様と共に走りますが、そこには共に走っているクリスチャンの仲間がいるのです。それは互いに競い合うためではなく、励まし合うためです。互いに同じ苦しみを味わうからこそ、励まし合う仲間です。そうやって私たちは、お互いが信仰の人生を完走できるように励まし合うためにいるのです。共に信仰の道を走り抜いて参りましょう。
2013年4月21日日曜日
信仰に留まり生きよ!
2013/4/14宣教より
ヘブライ10:32~11:1
この世の人生においては、クリスチャンであっても苦しみはあります。それは周りに理解されないという信仰的戦いもあれば、人間であれば、この地球に生きていれば誰しも遭遇する苦しみはあるのです。病気もそうですし、天災もそうです。事故にもあうでしょう。そういうものから逃れられる人生も良いかもしれませんが、そういう災難を通して人間として気づかされることも多くあります。◆とにかく私たちはこの世で生きる限り、困難はつきものなのです。その一つ一つの問題で肉体と精神は疲労しますけれども、それと魂の問題とは違います。私たちが解決しなければならない大問題は、魂の救いの問題、永遠の命の問題、そしてこの世の救いの問題なのです。◆「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)。これは人間的願望の成就の手段として「信仰」というものが定義されているのでは決してないのです。「望んでいる事柄」とは、魂の救いです。大祭司イエスによる永遠の罪の贖いです。そして永遠のいのちにつながることです。「見えない事実」とは、将来必ずキリストがお出でになる、そして神の国を完成なさる約束です。◆大切なのは、このお方イエス・キリストこそ信頼に足るお方、真の救いです、と真心から信じて生きることです。「大丈夫かな・・・?」と恐る恐るではなく、「大丈夫! 主がついておられる!」との確信と平安をもって生きて行くことです。
ヘブライ10:32~11:1
この世の人生においては、クリスチャンであっても苦しみはあります。それは周りに理解されないという信仰的戦いもあれば、人間であれば、この地球に生きていれば誰しも遭遇する苦しみはあるのです。病気もそうですし、天災もそうです。事故にもあうでしょう。そういうものから逃れられる人生も良いかもしれませんが、そういう災難を通して人間として気づかされることも多くあります。◆とにかく私たちはこの世で生きる限り、困難はつきものなのです。その一つ一つの問題で肉体と精神は疲労しますけれども、それと魂の問題とは違います。私たちが解決しなければならない大問題は、魂の救いの問題、永遠の命の問題、そしてこの世の救いの問題なのです。◆「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)。これは人間的願望の成就の手段として「信仰」というものが定義されているのでは決してないのです。「望んでいる事柄」とは、魂の救いです。大祭司イエスによる永遠の罪の贖いです。そして永遠のいのちにつながることです。「見えない事実」とは、将来必ずキリストがお出でになる、そして神の国を完成なさる約束です。◆大切なのは、このお方イエス・キリストこそ信頼に足るお方、真の救いです、と真心から信じて生きることです。「大丈夫かな・・・?」と恐る恐るではなく、「大丈夫! 主がついておられる!」との確信と平安をもって生きて行くことです。
2013年4月14日日曜日
礼拝を中心に~真心から神に近づこう
2013年4月7日 宣教より
ヘブライ10:19~22
「礼拝」と言うと、皆さんの誰もが、この教会に集まって行われる「主日礼拝」を考えると思います。それはある意味、正解です。礼拝には個人的な場所々々(家庭や職場など)で行われる「個人的礼拝」と、定められた日に、教会に集まって行う「公同の礼拝」があります。◆信仰生活にとってどちらも大切なのですが、中でも「公同の礼拝」を守り続けることは信仰者にとってとても大きな訓練です。◆個人的礼拝は、個人の都合によって時間や内容を変化させることは出来ます。「今日は遅く起きたから朝の祈りは省略。夜に朝の分まで祈ろう」ということ、極端ですが、そういう事が出来るのです。◆しかし公同の礼拝はそうはいきません。自分の都合によって「今日の礼拝は11時15分からにして下さい」というわけにはいかないのです。それは自分だけの場所ではありません。公同の場所です。他の人に自分を合わせる、いいえ、教会に自分を合わせる、いいえ、神様に自分を合わせるのです。◆「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)。私たちは置かれている状況の中で、出来るかぎりの努力をして、神様のものを第一に選び取って行く者でありたいと思います。◆そのように第一のものを第一に選び取っている人の人生は、必ずや神様の大いなる祝福にあずかります。これは本当にそうです。真実です。◆集会を怠ってはいけません。それは「自分中心」に別れを告げるためです。日曜日を聖別して教会に出かけてくる、神様の時間を守る、礼拝に真心を込めて出席する、これが、神様中心の人生の基本中の基本です。
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