2026年2月14日土曜日

2026年2月15日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編107篇20節
賛美   新生讃美330番  み使いの歌はひびけり
主の祈り
賛美  新生讃美歌514番 めぐみの主は
献金
聖句  使徒言行録10章34~48節
祈祷
宣教  「聖霊の賜物を注がれる」
祈祷
賛美  新生讃美歌81番 父なる わが神
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。ペトロが、“このことが本当によく分かりました”と今日の箇所の初めで告白しています。
 それは、“人は誰でも、どの国や地域の出身、どの民族であっても、また身分などにも関係なく、神に受け入れられる”、ということです。
 神の恵みは神に特別に選ばれたユダヤ人だけに与えられる、と固く信じて来たペトロにとって、それは大きな転換であり、そして驚きでした。
 神は偏見をもって人をご覧になるお方でない、ということは、旧約聖書の中にも何箇所かに記されています。

『申命記』の10章17~18節には次のように書かれています。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。

主なる神は人を偏り見ることなく、また孤児や寡婦(夫を亡くした女性)など、社会の中で弱くされた人たちを守るお方であると、言うのです。
イスラエルの王であったダビデ王が最初に預言者サムエルに見いだされた時も、神は人を外見では判断されず、その心をご覧になるということをサムエルに示されました。
イスラエルの最初の王であったサウルが神の道から逸れてしまったため、神はサウルを王座から退けられました。
一度神に選ばれても、その人が神の道から逸れてしまうのならば、神は一度お与えになった善き物も取り上げられることがある、と私たちは示されます。

むしろ神に選ばれ、神から善きものを頂いて生きる恵みを頂いた者は、その恵みにふさわしい生き方、(自分中心ではなく、神に従う生き方)をすることが求められるのです。
サウルに代わる次の王を見つけようとしてサムエルが、ダビデの父親であるエッサイの家に招かれた時、サムエルはそこでエッサイの息子たちを見ます。
サムエルは最初に見た、ダビデの兄(長兄)のエリアブを見て(おそらく、彼は見た目も良かったのでしょう)“彼こそ主の前に油注がれた者(主なる神に選ばれた者だ)”と思いました。
しかし神はサムエルにおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16:7)
 私たち人はどうしても、目に見える部分、自分に分かる範囲内でしか、他人のことを判断することができません。

それが私たちの限界であり、また私たちの罪の性質の一部でもあることを、私たちは認めなくてはなりません。
 しかし神は全てをご存じであり、何よりも私たちをお造りになったのは神であるのですから、神はあらゆる人を公平に、偏ることなく、ご覧になります。
 そのような神がおられるということ、そのような神が私たちと共にいてくださることは、私たちにとっての本当の祝福です。この私の心の内まで、すべてをご存じの神がおられるのですから、私たちは安心することができます。
私たち人間の偏った、自分中心の心や見方とは違って、全てを正しく公平にご覧になるお方、また正しさそのものであるお方、神がおられるということを、私たちは改めて、認めようではありませんか。

 今日のペトロの最初の言葉、“神は人を分け隔てなさいません”という言葉には、続きがあります。先ほども読みましたが、その続きの言葉が非常に重要です。
それは、35節の言葉です。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」という部分です。
どんな国の人でも、ユダヤ人であってもなくても関係ないのです。ただし、その人が”神を畏れて正しいことを行うなら“、神はその人をお受入れになる、と言うのです。
 ペトロには、コルネリウスとの出会いを通して、コルネリウスというその生きた信仰の証を目の当たりにすることによって、そのことがはっきりと示されました。

ユダヤ人以外の民族は神の恵みから漏れており、汚れた人たちであるから、異邦人(外国人)とは交際をしてもいけない、とまで信じていたペトロに、そうではないことが知らされたのです。
ユダヤ人であるかどうかではなく、神の言葉を聞いて、その言葉(教え)に聞き従い、神の前に正しく生きているかどうかが重要である、とペトロは悟りました。
現在のクリスチャンにそのことをあてはめて考えると、“一度神を信じ、バプテスマを受けて、クリスチャンになればもう救われた、安心だ”とは言っていられないことが私たちに分かります。
クリスチャンであるとは、一生安泰な特権的な立場を手に入れた、ということではありません。
確かにキリストの恵みと言う特権に私たちは与っていますが、その特権に与った者の義務として、私たちは常に信仰者としての正しい生き方が求められるのです。

神を畏れて正しく生きているかどうか、キリストに従って生きているかどうかを、私たちは常に吟味しなくてはなりません。
見た目だけではなく、私たちの心は本当に神の方向を向いているでしょうか。
神の御声と御心に従って、私たちは生きているでしょうか。そのことを私たちは自分自身に問う必要があります。

そうすると、”わたしは、キリストに従って生きることができていない“ということに私たちは気づかされるでしょう。
そうなると、もう絶望しか私たちには残っていないのでしょうか。自分の罪の中に、私たちはおちていくしか道はないのでしょうか。
そうではありません。むしろそのように自分自身の信仰に、自分の罪に絶望する時こそ、“そんな私のためにキリストは十字架の上で死んでくださった”という喜びに、私たちは立ちかえることができるのです。
 神を信じても私たちは依然として罪人ですので、間違い、失敗、罪を犯します。
しかし、もしわたしたちがその度に“心から”神に立ちかえろう(悔い改めよう)とすれば、神は決して私たちをお見捨てになりません。

神の恵みがなくては、とても正しく生きることができない、生きることそのものができないことを私たちは認め、神の恵みにいつもすがりついていきましょう。
今日の箇所で、ペトロとコルネリウスが分かち合っているのは、神の御言葉です。その御言葉とはすなわち、神の御子イエス・キリストが地上で生きられ、その間に行われた奇跡の数々とそのお言葉です。
そしてそれは、キリストが人の罪を背負って十字架にかけられて死に、三日目に復活した、という喜びの知らせです。
コルネリウスは、イエス・キリストについての福音を既に聞いて、ある程度は知っていたようです(37節)。そして彼は既にイスラエルの神を信じる者となっていました。
コルネリウスは、今日の箇所でペトロから聞いた言葉を通して、改めて、キリストの福音の内容、“キリストは十字架で死んで(殺され)、三日後に復活した”ということを聞いたのです。

そして彼は、“その方を信じる者は誰でもその名によって罪が赦される”、ということを聞き、そのことを一層確信することができたのです。
私たちも、こうして礼拝の中で、また普段の聖書の分かち合いの中でも、“キリストは私たちのために十字架で死に、復活した”という、私たちが何度も何度も聞いた話を繰り返し聞き(分かちあい)ます。
その福音の出来事(同じ内容)を聞くごとに、分かち合うごとに、私たちはその言葉の真実を新たにいただき、御言葉によって生きる力をその度ごとに頂くのです。それはまさに霊の糧です。
御言葉を通して神の恵みと力、生きる力がいつも与えられることを、私たちは喜ぼうではありませんか。
 
ペトロが話している間に、御言葉を聞いていた一同(コルネリウスの家族、友人たち)の上に聖霊が降った、と書かれています。
 ユダヤ人から見た異邦人(外国人)にも神の霊である聖霊が降り、彼らが聖霊に導かれて神を賛美している様子を見て、ペトロと一緒にいた人たち(ユダヤ人)は驚きました。
そこでペトロは「わたしたち同様に、神の恵みによって聖霊を受けたこの人たちに、水でバプテスマを授けることを、いったい誰が妨げることができるのか(誰もできない)」と言って、ペトロは彼らにバプテスマを授けました(そう命じました)。
水でバプテスマ(洗礼)を受けることには、信仰者の仲間になるという意味があります。バプテスマを授ける側が、授けられる側を、同じ信仰を持つ仲間、神の家族として迎え入れるということです。

 ペトロは、聖霊が異邦人たちにも注がれるのを見て、”同じ聖霊が彼らにも降ったのだから、どうして私たちが彼らを、私たちの信仰の家族に迎えずにいられようか“と言ったのです。
 私たちの教会が神の委託に基づいて行うバプテスマも、新たな信仰者の信仰が私たちと同じ信仰だと私たちが認め、その方を神の家族として同じ教会の一員として迎える、という重要な意味があります。
 ペトロとコルネリウスが、互いに神に導かれて出会い、そして互いに心を開き合って、神の恵みを分かち合うことで、ユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストの福音、神の恵みは異邦人(外国人)へも確かに広がったということが確認されました。
 ですから私たちも、互いに心を開き合うこと、神の恵みを自分だけのうちに留めずに、互いに分かち合うことを大切にしたいと願います。
また私たちの教会にも、新たな信仰者が起こされますようにと私たちは願います。
そして先に神の恵みをいただき、キリストの恵みのうちに歩むことを許された者として私たちは、日々神の御言葉に聞き従い、神の前に正しく歩むことができますように、と自らを戒めながら、信仰の道を生きていこうではありませんか。

2026年2月4日水曜日

2026年2月8日 主日礼拝

前奏
招詞  エレミヤ書 17章7節
賛美   新生讃美59番     父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美  新生讃美歌514番 めぐみの主は
献金
聖句  ヨハネによる福音書15章1~12節
祈祷
宣教  「イエス様につながるとは。。。」
祈祷
賛美  新生讃美歌507番  主の手に委ねて
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

*メッセージ本文の公開は本日はありません。

2026年1月31日土曜日

2026年2月1日 主日礼拝

前奏
招詞  創世記2章7節
賛美  新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
賛美  新生讃美歌514番 めぐみの主は
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録10章23b~33節
祈祷
宣教  「わたしもただの人間です」
祈祷
賛美  新生讃美歌278番 わが心は歌わん
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

今日の聖書箇所で、ペトロが、彼が滞在していたヤッファという町を発って、カイサリアという町へ向かったことが書かれています。
ヤッファもカイサリアも、イスラエルの地中海沿岸にある町でした。南側のヤッファから北側のカイサリアへは、60キロほどの距離でした。
ペトロは一人ではなく、彼の兄弟も何人か一緒に行ったと書かれています。兄弟とは、血縁の家族ではなく、同じイエス・キリストを信じる信仰の兄弟たちのことです。
ペトロは、ヤッファに滞在している間に、祈りの中で、ある幻を見ていました。
それは、先週の礼拝メッセージで私たちが分かち合った、今日の聖書箇所の前の部分に書かれています。
その幻とは、ペトロが昼の祈りの時間に祈っている時、彼が空腹を覚えた中で見たという幻でした。
それは、天が開いて大きな布のようなものが地上に降りて来た、という幻でした。その布の中には地上のあらゆる獣、地を這う生き物や空の鳥が入っていました。(12節)

そこでペトロに、ある声が聞こえまたのです。「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」とその声は言いました。
その時ペトロは空腹でしたが、その声が言ったことはペトロにとって、驚くべきことでした。
なぜなら、それらの生き物は、聖書の律法で定められていたように、ユダヤ人たちが決して食べてはいけないものばかりだったからです。ペトロもそれらのものを食べたことは、それまで一度もないものでした。
ですからペトロは、“これらは今まで私が決して口にしたことがない汚れた食べ物です”と言って、幻の中で聞こえた、その声の言ったことを拒絶しました。

それを食べてしまったら、今までペトロが大切にしてきた何か(ユダヤ人として誇り、あるいは自分自身への誇りや自信)が失われるようにも、彼は感じたのかもしれません。
しかし神は今や新しいことが起ころうとしていることをペトロに告げます。その声は 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」 (15節)と言いました。
その出来事が三回も繰り返されました。

そしてその出来事の前には、カイサリアにいたローマの軍隊の長(百人隊長)だったコルネリウスが、神の天使からのお告げを受けていました。
コルネリウスはユダヤ人ではない異邦人(外国人)でしたが、イスラエルの真の神を信じる人で、誠実な信仰生活を送り、人々に多くの施しをしていました。そして、その彼の生き方は彼の家族にも及び、彼の一家はみな神を畏れていました。
コルネリウスへのお告げは「ヤッファへ人を送って、そこにいるペトロという人を招きなさい」という内容でした。
神を信じる人であったコルネリウスは、神の(天使の)言葉を信じて、彼の信頼できる召使二人と一人の部下を、ペトロがいるヤッファへ送りました。
コルネリウスとペトロの二人に、それぞれ起きたことは、彼らが出会うために、神がそのようにお膳立てをなさったことでした。
神が彼らに(天使や幻を通して)メッセージを伝えることで、神はコルネリウスとペトロの双方に働きかけて、彼らが出会うようにしてくださったのです。
私たちのあいだで起こされる出会いというものも、けっしてそれらは偶然ではなく、神がそのご計画に沿って、色々な方法によって、私たちを互いに出会わせてくださっているのだな、と私は思います。
私たち人と人とが出会わされる中で、そしてそこで起こされる交わりを通して神が働き、神がそのご計画を推進しておられるのです。
人の出会いは不思議ですが、きっとそこに神のご計画と、神が私たちに伝えようとしてくださっていることがあると、私たちは信じることができるのです。

コルネリウスは自分の親類や友人たちも集めて、ペトロを待っていました。
コルネリウスが、自分だけではなく、彼の親類や友人たちも集めてペトロを待っていたことは、これから起きようとしていることが、彼個人だけの事柄ではない、という思いが彼に与えられていたからでしょう。
ペトロがコルネリウスと出会った時に、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、と書かれています(25節)。
コルネリウスにとっては、神のお告げによって“その人を呼びなさい”と示された人がやってきたのです。
ペトロがまるで神の使いか、あるいは神ご自身のようにさえ、コルネリウスには見えたのでしょう。

そこでペトロはコルネリウスを起こして言いました。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」(26節)

ペトロが、この言葉を言った背景には、彼自身のそれまでの信仰の経験が大きく影響していました。
ペトロはなぜこの言葉を言うことができたのでしょうか。
それは彼がイエス・キリストと出会い、神の偉大さの前に自分がいかに小さく、弱く、罪深いものであるかを、はっきりと知らされる経験をしていたからです。
マタイによる福音書18章では、イエス様が地上で生きておられ弟子たちと一緒にいた時、弟子たちが“誰が一番偉いのか”と言って、自分たちの中で議論していた様子が描かれています。
ペトロもその弟子たちたちの一人でした。“自分たちの中で誰が一番偉いのか”、“それはきっとこの私だ”などと弟子たちは、ペトロを含めて言い合っていたのです。
ペトロはイエス様に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってきました。では、何がいただけるのですか」と聞いたこともありました。ペトロは相当、弟子としての自分に自信があったのでしょう。
“自分は何もかも捨てて主に従っている。そんなこの私が一番偉いに決まっている”という自信をペトロは持っていたのでしょう。

イエス様が、ご自分が捕まって十字架にかけられる前に、弟子たちに向かって「あなたがたは、皆わたしにつまづく(=あなたがたは私に挫折する。あなたがたは私を捨てて逃げる)」と言ったことがあります。
その時ペトロはイエス様に「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。
イエス様がさらにペトロに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言った時、ペトロは「たとえあなたと一緒に死ななくてはならなくなっても、決してあなたのことを知らないなどとは申しません」と断言していました。
しかし、そう言っていたペトロは(ペトロ以外の弟子も全員)、イエス様が捕まったとき、イエス様のおっしゃっていた通りに、逃げてしまったのです。
そして「あなたもあの人(イエス)と一緒にいた」と人から指摘されたとき、「あんな人のことは知らない」とペトロは三回はっきりとイエス様のことを知らないと言って否定しました。それは、イエス様が前もって言っていた通りでした。
それらはペトロにとっては、大変辛い、それ後もずっと、彼の胸に大きな痛みを覚えさせずにはいられない出来事であり続けたでしょう。
ペトロは自分自身の弱さ、罪深さを、それらの出来事を通して彼は嫌と言うほど知らされたはずです。
しかし、そんなペトロに復活したイエス様が現れて、彼と他の弟子たちをも励まし、彼らは神の前に覚えられ、罪が赦されている、ということを伝えてくださったのです。
嫌と言うほど自分の弱さ、醜さを知らされたペトロが、“こんな私を主は赦してくださった。主は憐れみによってこの私を再び生かし、いまや主の福音を伝える者として、新たに生かしてくださった”という大きな、大きな希望をイエス様からいただいたのです。
ですからペトロは、自分にひざまずくコルネリウスを見て、“お立ちください。わたしもただの(弱い、罪深い)人間です。”と言うことができたのです。彼は心から、そう言うしかなかったのです。
本当に自分はそのような弱い、罪深い者だ、という真実、そして私たち人間はみんなそうなんだ、という真実を、イエス様を通してペトロは与えられていたからです。

“人間は人間であり、神は神である”。これは聖書を貫く大切なメッセージです。
しかし、私たちは神でないものを神としてしまう罪を犯し得ます。神でないものを神とするのが偶像崇拝、偶像礼拝です。
私たちは人と人との間にも優劣や差をつけて、人としての価値にさえ差があるかのようにしてしまうことがあります。
けれども神は、幻を通してペトロに言われました。“どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない”と、神は言われたのです。 人は皆尊い、ということです。
人は罪を犯してしまい、神の栄光を受けられなくなってしまいました。しかし神は、そんな私たちをイエス様の十字架の死を通して贖い、赦してくださったのです。
私たちはイエス様のその尊い犠牲によって罪赦され、再び生かされた者です。神が私たちを赦し、わたしたちをイエス様によって清い者にしてくださったのです。
イエス様によって、私たちは神の前に、尊い者だと見なされる幸いを与えられたのです。
それは何と大きな、驚くべき幸い、恵みではありませんか。私たちはそのような神の恵みの前に、ただ感謝と謙遜な思いを抱くことしかできないのです。

今日の箇所の最後の節(33節)での、コルネリウスの言葉を聞いてみましょう。
よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
私たちがこうして教会に共にいるということは、私たちが神の御前にいる、ということです。
そしてそれは、私たちが神の御前にいることを許されて、神の御言葉を聞くことを許されている、ということです。
神の言葉を聞く機会が私たちに与えられたのです。ですから、その機会を決して逃すことなく、“神が今私たちに伝えようとしてくださっていることを、私たちは全て残らず聞きたい”と言う大きな期待を、私たちは持とうではありませんか。
神は様々なことを通して、私たちに語ってくださいます。特に神が私たち語ってくださるのは、聖書の御言葉を通して、そして聖書の御言葉が実際に語られ、説き明かされる、この礼拝を通してです。
礼拝を通して語られ、そして分かち合われる神の言葉が、私たちに常に新しい力を与え、私たちを生かします。
私たちが願うこと以上の、期待すること以上の素晴らしい恵みを神は特に御言葉を通して、この礼拝の場で、私たちに与えてくださるのです。
ですから私たちはいつも大きな感謝と、また大きな期待をもって礼拝に集いましょう。そして、礼拝を通して御言葉を聞き分かち合う恵みを心から感謝して、共にその幸いを頂いていこうではありませんか。