前奏
招詞 詩編107篇20節
賛美 新生讃美330番 み使いの歌はひびけり
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
献金
聖句 使徒言行録10章34~48節
祈祷
宣教 「聖霊の賜物を注がれる」
祈祷
賛美 新生讃美歌81番 父なる わが神
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。ペトロが、“このことが本当によく分かりました”と今日の箇所の初めで告白しています。
それは、“人は誰でも、どの国や地域の出身、どの民族であっても、また身分などにも関係なく、神に受け入れられる”、ということです。
神の恵みは神に特別に選ばれたユダヤ人だけに与えられる、と固く信じて来たペトロにとって、それは大きな転換であり、そして驚きでした。
神は偏見をもって人をご覧になるお方でない、ということは、旧約聖書の中にも何箇所かに記されています。
『申命記』の10章17~18節には次のように書かれています。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
主なる神は人を偏り見ることなく、また孤児や寡婦(夫を亡くした女性)など、社会の中で弱くされた人たちを守るお方であると、言うのです。
イスラエルの王であったダビデ王が最初に預言者サムエルに見いだされた時も、神は人を外見では判断されず、その心をご覧になるということをサムエルに示されました。
イスラエルの最初の王であったサウルが神の道から逸れてしまったため、神はサウルを王座から退けられました。
一度神に選ばれても、その人が神の道から逸れてしまうのならば、神は一度お与えになった善き物も取り上げられることがある、と私たちは示されます。
むしろ神に選ばれ、神から善きものを頂いて生きる恵みを頂いた者は、その恵みにふさわしい生き方、(自分中心ではなく、神に従う生き方)をすることが求められるのです。
サウルに代わる次の王を見つけようとしてサムエルが、ダビデの父親であるエッサイの家に招かれた時、サムエルはそこでエッサイの息子たちを見ます。
サムエルは最初に見た、ダビデの兄(長兄)のエリアブを見て(おそらく、彼は見た目も良かったのでしょう)“彼こそ主の前に油注がれた者(主なる神に選ばれた者だ)”と思いました。
しかし神はサムエルにおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16:7)
私たち人はどうしても、目に見える部分、自分に分かる範囲内でしか、他人のことを判断することができません。
それが私たちの限界であり、また私たちの罪の性質の一部でもあることを、私たちは認めなくてはなりません。
しかし神は全てをご存じであり、何よりも私たちをお造りになったのは神であるのですから、神はあらゆる人を公平に、偏ることなく、ご覧になります。
そのような神がおられるということ、そのような神が私たちと共にいてくださることは、私たちにとっての本当の祝福です。この私の心の内まで、すべてをご存じの神がおられるのですから、私たちは安心することができます。
私たち人間の偏った、自分中心の心や見方とは違って、全てを正しく公平にご覧になるお方、また正しさそのものであるお方、神がおられるということを、私たちは改めて、認めようではありませんか。
今日のペトロの最初の言葉、“神は人を分け隔てなさいません”という言葉には、続きがあります。先ほども読みましたが、その続きの言葉が非常に重要です。
それは、35節の言葉です。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」という部分です。
どんな国の人でも、ユダヤ人であってもなくても関係ないのです。ただし、その人が”神を畏れて正しいことを行うなら“、神はその人をお受入れになる、と言うのです。
ペトロには、コルネリウスとの出会いを通して、コルネリウスというその生きた信仰の証を目の当たりにすることによって、そのことがはっきりと示されました。
ユダヤ人以外の民族は神の恵みから漏れており、汚れた人たちであるから、異邦人(外国人)とは交際をしてもいけない、とまで信じていたペトロに、そうではないことが知らされたのです。
ユダヤ人であるかどうかではなく、神の言葉を聞いて、その言葉(教え)に聞き従い、神の前に正しく生きているかどうかが重要である、とペトロは悟りました。
現在のクリスチャンにそのことをあてはめて考えると、“一度神を信じ、バプテスマを受けて、クリスチャンになればもう救われた、安心だ”とは言っていられないことが私たちに分かります。
クリスチャンであるとは、一生安泰な特権的な立場を手に入れた、ということではありません。
確かにキリストの恵みと言う特権に私たちは与っていますが、その特権に与った者の義務として、私たちは常に信仰者としての正しい生き方が求められるのです。
神を畏れて正しく生きているかどうか、キリストに従って生きているかどうかを、私たちは常に吟味しなくてはなりません。
見た目だけではなく、私たちの心は本当に神の方向を向いているでしょうか。
神の御声と御心に従って、私たちは生きているでしょうか。そのことを私たちは自分自身に問う必要があります。
そうすると、”わたしは、キリストに従って生きることができていない“ということに私たちは気づかされるでしょう。
そうなると、もう絶望しか私たちには残っていないのでしょうか。自分の罪の中に、私たちはおちていくしか道はないのでしょうか。
そうではありません。むしろそのように自分自身の信仰に、自分の罪に絶望する時こそ、“そんな私のためにキリストは十字架の上で死んでくださった”という喜びに、私たちは立ちかえることができるのです。
神を信じても私たちは依然として罪人ですので、間違い、失敗、罪を犯します。
しかし、もしわたしたちがその度に“心から”神に立ちかえろう(悔い改めよう)とすれば、神は決して私たちをお見捨てになりません。
神の恵みがなくては、とても正しく生きることができない、生きることそのものができないことを私たちは認め、神の恵みにいつもすがりついていきましょう。
今日の箇所で、ペトロとコルネリウスが分かち合っているのは、神の御言葉です。その御言葉とはすなわち、神の御子イエス・キリストが地上で生きられ、その間に行われた奇跡の数々とそのお言葉です。
そしてそれは、キリストが人の罪を背負って十字架にかけられて死に、三日目に復活した、という喜びの知らせです。
コルネリウスは、イエス・キリストについての福音を既に聞いて、ある程度は知っていたようです(37節)。そして彼は既にイスラエルの神を信じる者となっていました。
コルネリウスは、今日の箇所でペトロから聞いた言葉を通して、改めて、キリストの福音の内容、“キリストは十字架で死んで(殺され)、三日後に復活した”ということを聞いたのです。
そして彼は、“その方を信じる者は誰でもその名によって罪が赦される”、ということを聞き、そのことを一層確信することができたのです。
私たちも、こうして礼拝の中で、また普段の聖書の分かち合いの中でも、“キリストは私たちのために十字架で死に、復活した”という、私たちが何度も何度も聞いた話を繰り返し聞き(分かちあい)ます。
その福音の出来事(同じ内容)を聞くごとに、分かち合うごとに、私たちはその言葉の真実を新たにいただき、御言葉によって生きる力をその度ごとに頂くのです。それはまさに霊の糧です。
御言葉を通して神の恵みと力、生きる力がいつも与えられることを、私たちは喜ぼうではありませんか。
ペトロが話している間に、御言葉を聞いていた一同(コルネリウスの家族、友人たち)の上に聖霊が降った、と書かれています。
ユダヤ人から見た異邦人(外国人)にも神の霊である聖霊が降り、彼らが聖霊に導かれて神を賛美している様子を見て、ペトロと一緒にいた人たち(ユダヤ人)は驚きました。
そこでペトロは「わたしたち同様に、神の恵みによって聖霊を受けたこの人たちに、水でバプテスマを授けることを、いったい誰が妨げることができるのか(誰もできない)」と言って、ペトロは彼らにバプテスマを授けました(そう命じました)。
水でバプテスマ(洗礼)を受けることには、信仰者の仲間になるという意味があります。バプテスマを授ける側が、授けられる側を、同じ信仰を持つ仲間、神の家族として迎え入れるということです。
ペトロは、聖霊が異邦人たちにも注がれるのを見て、”同じ聖霊が彼らにも降ったのだから、どうして私たちが彼らを、私たちの信仰の家族に迎えずにいられようか“と言ったのです。
私たちの教会が神の委託に基づいて行うバプテスマも、新たな信仰者の信仰が私たちと同じ信仰だと私たちが認め、その方を神の家族として同じ教会の一員として迎える、という重要な意味があります。
ペトロとコルネリウスが、互いに神に導かれて出会い、そして互いに心を開き合って、神の恵みを分かち合うことで、ユダヤ人の枠を超えて、イエス・キリストの福音、神の恵みは異邦人(外国人)へも確かに広がったということが確認されました。
ですから私たちも、互いに心を開き合うこと、神の恵みを自分だけのうちに留めずに、互いに分かち合うことを大切にしたいと願います。
また私たちの教会にも、新たな信仰者が起こされますようにと私たちは願います。
そして先に神の恵みをいただき、キリストの恵みのうちに歩むことを許された者として私たちは、日々神の御言葉に聞き従い、神の前に正しく歩むことができますように、と自らを戒めながら、信仰の道を生きていこうではありませんか。