2026年3月21日土曜日

2026年3月22日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編105篇1節
賛美  新生讃美歌583番 イエスにある勝利
主の祈り
賛美  新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録12章25~13章12節
祈祷
宣教  「聖霊によって送り出される」
祈祷
賛美  新生讃美歌618番 主のためにわれは生く
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 『使徒言行録』は、今日の箇所(13章)から、中心的な登場人物がペトロからパウロ(サウロ)へと移っていきます。
 ペトロはイエス・キリストの一番弟子であり、最初の頃の教会で指導的な立場にありました。
しかし段々と、この使徒言行録は、パウロを中心とした異邦人(外国人)伝道、世界伝道の働きへと焦点が移っていきます。
それは、もうペトロが重要な人物でなくなったとか、ペトロの働きが神の前で認められなくなった、ということでは全くありません。
 ペトロのことは、この後はほとんど書かれなくなりますが、ペトロは彼に託された福音宣教の働きを最後まで全うしたのだろうと、私は想像いたします。
 ヨハネ福音書21章18節で、復活したイエス様がペトロにこう言っています。

 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
このお言葉から、ペトロは最期は殉教したのだろう、信仰のために殺されたのだろう、と考えられています。
いずれにしてもペトロの最後について正確には聖書に書かれていませんので、分かりませんが、イエス・キリストの弟子としての生き方を最後まで全うしたのだと、私は考えております。
 聖書には色々な人物のことが描かれています。しかし聖書にはその記録がない信仰者、キリスト者のほうが、その数は圧倒的に多いのです。
しかし、たとえ聖書や、その他どのような記録もその人について書き残していないとしも、神を信じて歩んだ人は、天の父なる神の、命の書にその名が記されていると、私たちは信じることができます。
天の父なる神は、ご自身の子とされた、ひとり一人のことをすべてご存じです。

 ルカによる福音書10章に、イエス様が御自分の72人の弟子たちを派遣したことが書かれています。その弟子たちはイエス様から、悪霊を追い出す力を与えられていました。
彼らは働きから帰ってくるとイエス様に「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言って喜んで報告しました。(ルカ10:17)
イエス様は弟子たちにこうお応えになりました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。(ルカ10:20)
弟子たちは、自分に与えられた能力によって何ができるのか、自分にはどんな能力があるのか、ということに喜びを見いだしていました。
しかしイエス様は、それよりもむしろ、彼らの名(すなわち、彼らのことがすべて)天の父なる神に覚えられていて、彼らの名が命の書に記されていることを喜びなさい、とおっしゃったのです。
 多くの人の記憶や、あるいは公の記録に残るような生き方をする人はごくごく一部です。信仰者であってもそうです。
しかし、神は御自分の子である私たちのことを、すべてご存じで、天に私たちの名が記されていることを、私たちは喜ぼうではありませんか。

 今日の箇所で、アンティオキアという都市にあった教会のことが書かれています。11章の初めに、このアンティオキア教会で、だんだんとユダヤ人以外の異邦人(外国人)たちの信者の数が増えるようになりました。
 今日の箇所の13章2~3節に次のように書かれています。
2彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

アンティオキア教会で信者たちが行っていたことは、まず礼拝でした。
教会として当たり前のことですが、まず礼拝を忠実に神に捧げているかどうかが、教会にとって最も大切なことであることを、私たちは改めて教えられます。
 私たちは教会に礼拝しに来るのです。教会には色々な方が来られます。もちろん教会は多くの人を、キリスト信者でなくとも、歓迎いたします。
 しかしキリスト者が教会に集まる一番の目的である礼拝することの大切を、私たちは常に忘れず、また礼拝できることの喜びをも、私たちは忘れずにいたいと願います。
 決められた礼拝式(プログラム)を通して、神を信じる者は、心と思いと力、精神を尽くして、主なる神を愛し、神に感謝、賛美を献げるための礼拝をするのです。
 キリスト教会から礼拝がなくなってしまったら、それ以外にどれだけにぎやかな行事が行われていても、教会としての命は失われてしまいます。
しかし、神に忠実な礼拝をしている限り、たとえどれだけ人が少なくなろうとも、人目をひくような華々しい行事があまり行われなくなろうとも、キリスト教会は生き続けます。

 そしてイエス・キリストの神に捧げられる礼拝から、私たちは御言葉による力、聖霊の力を頂いて、私たちは生きる場へと遣わされていきます。
真心からの礼拝を私たちはこれからも捧げ続け、いつも礼拝から新しい週の命へと遣わされていく、信仰者としての幸いな歩みを、私たちはこれからも続けてまいりましょう。
 今日の箇所で、アンティオキア教会の信者たちが礼拝、そして断食をしていると、彼らに“バルナバとサウロ(パウロ)をわたし(神)のために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」、と聖霊が告げました。(13章2節)
 パウロは、復活のイエス・キリストに出会い、それまでキリスト者を激しく迫害していた者から、熱心なキリストの伝道者へと劇的に変えられました。
 そして今日の箇所で、アンティオキアの教会によって、バルナバと共に選ばれて、宣教の働きへと遣わされたことも、パウロにとっては大変大きな出来事でした。
 キリストの宣教者の働きの背後には、バルナバとパウロを選び、彼らに手をおいて祈って送り出したアンティオキア教会のように、彼ら宣教者たちの働きを支え、祈る教会が常にあるのです。

教会があって、そこに信者同士が集い、礼拝を捧げ、神の御心を示される中で、彼らの中から福音宣教の働きに仕える者たちが起こされていくのです。
そして、たとえ宣教師や牧師のように、宣教の働きに専念する者だけでなく、教会に集うキリスト者は誰もが皆、教会から派遣されて世界にキリストの福音を伝える宣教者である、と言えます。
 自分に与えられた賜物、自分が感動した御言葉、教会で受けた恵みや力を携えて、私たちひとり一人がキリストの使者として、この世に遣わされてまいりましょう。
 アンティオキア教会から送り出されてバルナバとサウロは、海を経て、キプロス島と言う島へでかけます。
 そこで彼らはユダヤ人の魔術師でバルイエスという一人の偽預言者に会います。彼は魔術を使って人を魅了し、神の言葉でないのに神の言葉であるかのように宣言して、人を惑わしていたのでしょう。

 しかし、彼は地方総督のセルギウス・パウルスという“賢明な”人物と交際していました。その総督が、バルナバとパウロを招いて神の言葉を聞こうとしました。
 その偽預言者が総督と交際していたので、彼を通じて、パウロとバルナバは総督に会うことができた、ということです。
しかし、そこにまた別の魔術師である、エリマと言う名前が魔術師が登場します。彼が地方総督をこの信仰から遠ざけようとした、と書かれています。
 福音が知らされようとする時、それを妨害しようとする力、妨害しようとする者(人)が現れます。それは福音に対抗しようとする悪の力です。
その時パウロ(ここで、彼の名前がサウロからパウロと呼ばれるようになります)は、聖霊に満たされました。

聖霊に満たされるとは、悪しきものに向き合う力が与えられるということでもある、と今日の箇所は示します。
 パウロは、魔術師エリマをにらみつけた、と書かれています。それは、福音を妨げようとする悪しき力から目をそらすことなく、正面からその悪の力に向き合ったということです。

 私たちも、もし私たちの働き、福音を伝道しようとする働きが、何か強い悪の力に妨げられそうになったり、妨害されそうになる時があるかもしれません。
 そのような時は、聖霊の力が与えられることを願い、私たちが聖霊によって満たされて、その悪しきものから目をそらすことなく、正面からそれに向き合うことができますように、と神に祈りましょう。
 神は必要な力、知恵を必ず私たちに与えてくださいます。
 パウロは、魔術師に非常に厳しい言葉を言います。

10節~11節のパウロの言葉を聞いてみましょう。

「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」

 パウロがこういうと、魔術師は目が見えなくなり、歩き回りながら誰か手を引いてくれる人を探した、と書かれています。
“時が来るまで日の光を見ないだろう”という言葉に、彼には希望がまだあることが表れています。日の光を見る、神を見て、神を認める時、その時あなたは再び光を見るだろう、ということです。
 この魔術師の姿は、かつてのパウロ自身の姿でした。キリストを信じる者を激しく迫害していた彼を天からの激しい光が照らしました。そこでパウロは復活のイエス・キリストに出会いました。
 パウロはそこで目が見えなくなり、一緒にいた人々に手を引かれてダマスコへと連れて行かれます。そこでアナニアという人に手を置いてもらって祈られると、パウロの目はひらけました。
パウロはそこでバプテスマ(洗礼)を受けて、それから熱心なキリストの伝道者へと変えられたのです。
 パウロは、魔術師エリマに非常に厳しい言葉を発して、魔術師は目が見えなくなりました。
しかし、エリマも、パウロのように、主がいずれ彼の目を見開いてくださり、真の神に立ちかえり、神を信じるようになる時がくるかもしれないという可能性と希望を、今日の箇所は示しています。

 私たちは、イエス・キリストという真の光、神を知らないままでは、一人だけで孤独に闇の中に生きているような状態です。
神を知らずに、私たちが自分の力だけに頼って生きようとしている間は、私たちは暗闇の中をさまよっているような状態です。
 しかしキリストを信じ、キリストによって真の光を与えられる時、私たちははっきりと進むべき道、命の道を示されます。

 私たちの生命(いのち)の御言葉、イエス・キリストの御言葉を、私たちは常に教会で分かち合い、御言葉に聞き、御言葉に生かされてまいりましょう。
 そして御言葉による命の希望と力が、私たちの教会を通して世に溢れ出て行きますようにと願いつつ、私達は福音宣教の働きにも仕えていこうではありませんか。

2026年3月14日土曜日

2026年3月15日 主日礼拝 

 前奏 
招詞 詩編29篇1節 
賛美  新生讃美歌125番 造られしものよ 
主の祈り 
賛美  新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
 信仰告白 
献金 
聖句  使徒言行録12章20~24節 
祈祷 
宣教  「神の言葉はますます栄え」 
祈祷 
賛美  新生讃美歌255 わが罪のために
 バプテスマ式 
頌栄  新生讃美歌673番 
祝祷 
後奏 
歓迎・案内  


今日の聖書箇所では、ある一人の人間、王様という、人間の社会では一つの頂点の立場にあった人の、その生涯の悲惨な最期が描かれています。 先ほどお読みいただきました今日の箇所の中の23節をもう一度お読みいたします。 23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち殺した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 23 Immediately, because Herod did not give praise to God, an angel of the Lord struck him down, and he was eaten by worms and died.  “蛆に食い荒らされて息絶えた”とは恐ろしい表現です。それは描写し難いほど、私たちの想像を絶するほどの悲惨な最期(死)であったということでしょう。  ヘロデが悲惨な最期を迎えた原因は、彼が神に栄光を帰さなかったからです。  ヘロデは、イエス・キリストが生まれた時にユダヤの王であったヘロデ大王の孫です。その彼が今日の箇所では、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた、と書かれています。 ヘロデと、ティルスとシドンの住民たちの間でどんな問題が起きていたのかは分かりません。いずれにしても、ヘロデは彼らにひどく腹を立てていました。住民たちは、そろって王を尋ね、ヘロデ王の侍従(王に仕える役人)であるブラストという人に願って、王と和解しようとしました。 ティルスとシドンの住民たちが、ヘロデ王と和解しようとした理由は、王との間の関係を改善したい、修復したいという純粋な思いからではありませんでした。 住民たちがヘロデ王の機嫌を取ろうとしたのは、彼らの国が王の国から食料の配給を得ていたからでした。 王様が自分たちに怒ったままだと、食べる物がなくなってしまう(不足してしまう)から、とにかく王様に機嫌を取り戻してもらおうとした、ということです。 ここには、人間関係としては非常に寂しい関係性を見ることができます。 人民から見て王様は、ただ食べ物をくれる、というだけの人なのです。だから王様の言うことには従いますが、そこには尊敬や信頼というものは存在しないのです。  私たちも、社会の中で、色々な立場に立ち、様々な人間関係、あるいは立場の違いから来る力関係の中で生きています。職場なので自分よりも立場が上の人だから、嫌でも言うことを聞かなくてはいけない人、という人がいるでしょう。そのような時、キリスト者はどう生きるのでしょうか。王様が機嫌を損ねないように、取り入ろうとしたティルスとシドンの住民たちのように、心の中では軽蔑しながら、表面上は普通に付き合うのでしょうか。 聖書の別の箇所、ローマの信徒への手紙13章1節に次のように書かれています。 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 これは理解して受け入れるのが難しい聖句です。自分の上に立つ権威が、十分に尊敬に値する、また優れた人格を備えた人物であれば、この御言葉に従うことは、さほど難しくありません。しかし、もしそうではなかったら、どうすればよいのでしょうか。自分の上に立つ権威が、尊敬に値しない、人格的にも劣った、むしろ蔑みたくなるような人物だったら、どうするのでしょうか。 これについては、旧約聖書の中のダビデの生き方、彼の信仰姿勢が、大切なことを示唆しています。ダビデは、自分が仕えていたサウル王に妬まれて、ついには命を奪われるようになりました。ダビデは何も悪いことをしていないにも関わらず、サウルはダビデの能力と人気に嫉妬したのです。ダビデはサウルのもとを逃れます。それから、ダビデにはサウル王の命を取る、すなわちそれ以上サウルに自分が命を奪われなくてもすむようにできる機会もありました。しかしダビデは、サウルの命を取る機会があっても、そうはしませんでした。ダビデと一緒にいた者たちは、「サウルを殺そう」と言いました。 しかしダビデはその時、こう言っています。「主が油を注がれた方(主が選ばれたか)に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない」ダビデは、サウルは主なる神がお立てになった王だと認めていたのです。しかし、その王は理不尽な理由で自分の命を狙っている王でした。ダビデはそのことで、大いに苦しみ、悩んだはずです。ダビデは何もしなかったわけではありません。自分の命を守るために、サウルのもとから逃れました。また彼は「わたしはあなたの前に潔白です」とサウルに訴えることもしました。 ただダビデは、サウルと自分の間には神がおられること、サウルと自分の上には神がおられ、神は全てを知っておられる、とすべてを神に委ねていたのだと、私は思います。神は私たちすべての者の上におられ、私たちの本当の主、すべてを支配しておられる方は神である、という私たちは信じます。その信仰に立ち、私たちは私たちの上に立つ権威にも、敬意と尊敬、また祈りをもって従う(ダビデのように、言うべきことは言う態度も持ち)、という姿勢を持ちたいと願います。 21節に「定められた日に、ヘロデが王の服をつけて座につき演説をした」と書かれています。 ヘロデが王の服をつける、ということは、ヘロデもただの人間であることを現わしています。王の服とは、その服を脱げば、ヘロデもただ一人の人間にすぎないことを象徴しています。 王としての権威を表す服は、それ以外の人々を委縮させる、人々に自分の言うことに聞き従わせるという力を持っていたでしょう。 ヘロデは、どんどん王の服を豪華にして、着飾ることで、王としての自分の権威を保とうとしていたと考えられます。  そして見た目を飾り立てることで、自分自身をよりよく見せよう、外見を飾ることで自分に自信を持とうとする願いは、私たち誰もが持っているものです。 しかし、イエス様は、野の花一つを指して、こう言われました。  栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ6:29)  ソロモンは、ダビデの息子でした。父から継いだ王の位と、また莫大な富をソロモンは与えられました。  ソロモンの王の服は、最高にきらびやかだったでしょう。しかし、そのソロモンが最高に着飾った姿さえ、野に咲く花一輪の美しさに劣る、とイエス様は言われるのです。野にさく一つの花、ただ神の恵みのうちに自然に咲いている花一輪の美しさは、どれほどの人間の富、栄誉の頂点を極めた人の服よりも、はるかに美しく綺麗だと言うのです。それはまさに神の視点であり、神様の御愛です。そのような神の御愛に私たちは守られ、生かされているのです。まことの神の愛の中に生かされていることが分かる時、私たちはもはや自分を必要以上に飾り立てることはしなくなるでしょう。神が私たちを輝かせてくださるのです。その神に私たちは信頼してまいりましょう。   今日の箇所でヘロデのもとに集まった人たちはヘロデの演説を聞いて、「神の声だ。人間の声ではないThis is the voice of a god, not of a man.” 」と言って彼らは叫び続けました(22節)。  それはヘロデにとっても、また叫んでいる人たち自身にとっても、大変不幸な叫びでした。神でないものを神としてしまう、まさに偶像崇拝の罪が、そこで犯されていたからです。叫んでいた人々は最初は、ヘロデの声が神の声だ、などとは思っていなかったもしれません。ただヘロデをおだてる目的でそう叫んでいたのかもしれません。しかし段々と、叫んでいる彼らが、ヘロデを本当の神であるかのように見なすようになった、ということも考えられます。何か目に見えるものを確かな神としてあがめたい、という要求、目に見える強い者へのあこがれが、私たちの中にはあるからです。そのように神でない人を神であるかのように崇めること(自分を神であるかのように誇ること)は、神の前に最も重大な、神が忌み嫌われる罪であり、その罪の大きさは、今日の箇所のヘロデの死に方に現われています。  偶像に頼る私たち人の罪を赤裸々に描く今日の箇所の最後は、しかし、次のような文章で終わっています。 しかし、神の言葉はますます栄え、広がって行った。(24節)  ヘロデを神と崇める人々の偶像崇拝、ヘロデの悲惨な最期と、“神の言葉はますます栄え、広がって行った”という言葉は、とても対照的です。 人がどれほど罪を犯そうとも、力ある神の言葉、真の神の言葉は絶えることなく、ますます栄えるのです。神の言葉が弱ることはないのです。  イエス・キリストの御言葉は決して死なないのです。私たちは、その永遠の神の言葉によって生かされています。 それほどの恵み、力強い神の言葉を私たちは信じ、御言葉に従って生きていきましょう。私たち人間の世界が、たとえどれほどひどい状況にあっても(そう見えても)、神の言葉は広がって行きます。私たちの罪にも関わらず、御子イエス・キリストによって私たちの罪を赦し、ご自身の永遠の命へと私たちを招いてくださった方を私たちは信じましょう。永遠なる神の言葉、イエス・キリストの福音がこれからも広がっていきますようにと私たちは願い、祈りましょう。 私たちの思いを超え、神の言葉が私たちを生かし、慰め、力を与え、その神の言葉こそが広がっていきますように願い、神の言葉に期待をして生きてまいりましょう。

2017年1月30日月曜日

「私にとって難病は恵みです」


1月29日 主日礼拝の宣教に神戸在住のデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えている保田広輝兄を迎えての礼拝を行いました。素晴らしいメッセージだったので、保田広輝兄の了承を得て、当教会のホームページで公開することにしました。

「私にとって難病は恵みです」
聖書:ヨハネによる福音書1515~16
保田 広輝兄


私は保田広輝と言います。生まれた時から、不治の難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。この難病は、遺伝子の異常のせいで、どんどん体の筋肉が壊れていきます。筋肉が壊れると、身体を動かしたり、呼吸したり、食事ができなくなる病気です。

今の私は呼吸することができないので、24時間ずっと、人工呼吸器で生きています。あと、手の親指だけしか動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは身の回りのことが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。

いま私は25歳ですが、4歳の時に、この難病を診断されて、当時は20歳までの命だと宣告されました。でも、私は難病だと知らずに、育てられたんですね。

幼い頃は、走ることができなかったし、手すりをしっかりつかまないと、階段を上ることはできなかったけど、自分はただ、運動神経がない、と思っていたんです。その気持ちは、9歳の時に車椅子生活になっても、変わりませんでした。大人になって、なぜ難病だと教えてくれなかったの?と両親に尋ねると、「20歳で死ぬなんて伝えられなかった…」と答えてくれました。

そして、両親はクリスチャンだったので、私は、生まれた時から教会に通っています。13歳の時に、神様を信じる決心の信仰告白をしたんですね。難病の現実を痛感したのは、大学の受験勉強に頑張っていた18歳の春からでした。私も主治医も、難病が悪化していることが分からず、1年間で5回も入院したんですね。

一日中、内臓の痛みと、嘔吐が止まらず、ものすごい息苦しさと、激しい頭痛のせいで、ほとんど眠れないので、毎日、意識がボーとなって、本当に死ぬかと思う日々を過ごしました。そのあいだも、受験勉強を頑張りましたが、息苦しさと頭痛のせいで、勉強したことを次から次に忘れていき、試験の点数はどんどん下がっていくので、努力が無駄になるのは辛かったですね。

このように苦しみながら、神様、助けてくださいと祈り続けました。ずっと苦しみながら、1年が経ってから、神様のお導きと母の努力のおかげで、スーパードクターがいる四国の病院のことを知って、その病院で、人工呼吸器を導入してもらってから、死にそうな状態から助けられました。いま振り返ると、本当に命の危険ギリギリのところだったので、神様が救ってくださったと思います。

ただ、人工呼吸器で生活するには、毎月診察を受けて、ドクターの管理が必要なんですね。そうするために、地元福岡の専門病院で、検査入院したときに、そこのドクターから、「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と余命宣告を受けました。心が引き裂かれる宣告でした。この時に、難病の現実を痛感したんですね。

その後、合格した大学に入学したけど、体調不良で、たった半年で、中退することになりました。それからは、自分を見つめ直す日々でした。人工呼吸器を使う体になったこと、余命宣告を受けたこと、体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったことが、大きなストレスとなって、すごく暗い気持ちになったんですね。

毎日お祈りしていく中で、神様に叫びながら本音をぶつけました。なぜ35歳で死ぬ難病になったのですか!若くして死にたくないです!神様、お願いですから、難病を治してください、こんな苦しい状態で生きても、意味がありません!このまま死を待つだけの人生なんですか!と叫びながら祈り続けたんですね。
この時は生きている意味が分からなくて、人生に絶望していました。どうして私は健康になれないのか、35歳で死ぬのか、こんな難病では仕事も結婚もできない、神様、こんな難病だと何もできません、と絶望していました。

体が動かなくなって、若く死ぬ難病を抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。 人工呼吸器を使わないと、命を維持できないから、明日死ぬかもしれない。大きな不安に支配される毎日を過ごしていました。

私には生きる意味が必要だったんですね。でも、神様に祈り続けていても、生きる意味が分からなかったので、苦しかったです。それでも、いつも聖書を読んで祈り、日曜日はいつも礼拝に行くことはやめなかったけど、神様の沈黙を感じる日々だったので、辛かったですね。

そんな中で、オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本を読んで、あることを学んだんですね。

それは、意味がない苦しみが絶望である、苦しみに意味を見つけられなければ絶望となる、苦しみに意味を見つけられたら希望となる。苦しみがあるから、不幸だって簡単に考えるのではなくて、苦しみに意味を見つけられたら、人生が希望に変わる、ということを学びました。

そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、生きていける、と思えるようになったんですね。それからは、神様が生きる意味を与えてくださる、と確信して、神様の語りかけを待ち続けました。

それから、余命宣告から10ヶ月が経って、次の聖書の言葉が心に響いたんですね。

【エゼキエル書 2章8節】
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。

あなたは反逆の家のようにそむいてはならない。

口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

このみ言葉を通して、いつも神様の言葉である聖書を読んで、いつも神様にお祈りしていれば、神様は、私の心に語りかけてくださる、私の心を変えてくださる、絶望から救ってくださる、と信じられるようになりました。

そして、余命宣告から1年半が経って、次の聖書の言葉を通して心が変えられたんですね。

【ヨハネによる福音書 15章15、16節】
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。」

私は望んで、難病に生まれた訳ではないけど、神様から任命を受けて、生まれつきの難病に選ばれた、と感じたんですね。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きなさい、と神様に任命されたからこそ、私は生まれた時から、難病の人生にチャレンジしているんですね。

先ほどの聖書の言葉を通して、私は難病の自分を受け入れることができました。それまでの私は自分を土台にして生きていたんです。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分はダメな人間だ、何もできない自分は生きる意味もない、と自分の価値を自分で決めていました。だから、ずっと辛かったんですね。

でも、先ほどのみ言葉を通して、神様の愛を実感できました。神様が生まれつき難病の私を造ってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様の愛を感じることができました。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、み言葉を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、神様から愛されていることを感じられるから、どんな人生でも、生きる喜びが湧いてくるんですよね。

そして、難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思ってました。でも、気付かされたんですね。 私にも神様から大切な命が与えられているって。命だけじゃないって。神様から私たちに与えられている最高のプレゼントは、イエス・キリストの愛だって。十字架で命を犠牲にしてまで、罪人の私たちを、救ってくださったイエス・キリストの愛が最高のプレゼントなんだって、気付かされたんですね。

神様のひとり子であるイエス・キリストは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。

イエス様が自分の罪のために死なれ、お墓に葬られて、三日目に復活されたことを信じる人たちは、罪と死の苦しみから救われます。罪ゆるされて、死んで復活し、神様と共に生きる永遠の命が与えられるのです。

神様は私たちを小さなものとは思っておられません。神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、神様が、何よりも大切なひとり子であるイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。

私たちは罪人であるにもかかわらず、イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。このイエス様の愛は、能力や行いに応じてではなく、イエス様を信じる人たちに、無条件に与えられています。

私はイエス様の愛に改めて気付かされてから、このように、神様に祈りました。「難病の私には何もありません。何もできません。神様におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思っていました。でも、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、自分が神様のために生きるのも、神様に人生をささげるのも、無条件だ、と教えられたんですね。

自分には何もない、何もできないと思っても、神様は人生をささげる決心を喜んでくださって、その人にしかできない使命と、すべての必要なものを与えてくださるんですね。

私は神様に人生をささげる決心をしてから、「難病の人生を通して神様を伝える、難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える」と、難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったんですね。

それからは、少しずつ人生が変えられていきました。まず神様のお導きで、私の難病では世界トップレベルの病院で治療できるようになってから、寝たきりの生活から解放されました。そして、神様の不思議なお導きにより、各地にある多くの教会で、礼拝に呼んでいただき、神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。本当に感謝です。

私はいまこう思います。人間が生きる意味は、自分や他人が決めるのではなく、自分を生かしておられる神様が決めてくださる、と。難病の私であっても、神様から使命を与えられているからこそ、私は生きる意味があるんですね。生きる喜びがあるんですね。

いま振り返れば、私の挫折も、難病の試練も、死にかけた経験も、神様のご計画だったんだ、と思います。私がイエス様を信じて、神様の子どもとして生まれ変わるために、神様から与えられた使命のために、神様がこの難病をプレゼントしてくれた、と感じています。だから、私にとって難病は、恵みの試練なんですね。私は難病だからこそ生きる意味があるんですね。

こうして、私は難病の人生でも、生きる意味を見つけることができました。でも、生きる意味を見つけることができたのは、イエス様が与えてくださる復活の希望があったからなんです。

私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていました。でも、聖書を読んで祈りながら過ごしていくことで、神様は私を復活させてくださいました。

【ヨハネによる福音書 11章25、26節】には、このようなみ言葉があります。
イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

イエス様は、死の力から復活された御方です。死の力に勝利された御方です。だから、イエス様が与えてくださる復活を信じている人たちは、どんなに人生に絶望しても、神様が必ず復活させてくださるから、絶望する勇気さえ持つことができるんですよね。絶望しても大丈夫。神様が必ず復活させてくださるから。

たとえ、私は若く死んでも、栄光の体に復活して、天国で、神様と共に、永遠に生きることができるから、大丈夫なんですよね。神様との永遠の交わりが、人間にとって、最高の幸せなのですから。

どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活は始まっているんですね。私の体は、死に向かって、ますます弱くなっているけど、私も永遠の命へと、復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれるところなんですね。

私は難病クリスチャンとして生きる使命があるので、これからも神様を信じる素晴らしさを伝えていきます。残り余命9年の短い人生で、どれだけのことができるか分かりません。でも、天に召される日まで、神様のご用に用いていただけるように祈っています。

最後に、クリスチャンの水野源三さんの詩をお読みします。水野源三さんは、重度の脳性麻痺で、手足を動かすことも、話すこともできなかったけど、唯一動かせる目をまばたきしながら、多くの信仰の詩を作られました。

水野源三さんの【苦しまなかったら】という詩をお読みして、終わります。
 「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛はあらわれなかった」