2026年1月17日土曜日

2026年1月18日 主日礼拝

前奏
招詞  申命記31章6節
賛美  新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
賛美  新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
献金
聖句  使徒言行録10章1~8節
祈祷
宣教  「絶えず神に祈る」
祈祷
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内

今日の聖書箇所の舞台はカイサリアと言われた町です。カイサリアは、イスラエルの北西部の地中海沿岸にあった町です。
当時(今から約2,000年前)のカイサリアは、その時のローマ帝国によるユダヤ支配の拠点の一つでした。
カイサリアは、ユダヤの王であったヘロデ大王のもとで発展をとげた港町でした。「カイサリア」という名前は「カイサルの町」という意味なのです。
ローマ皇帝カイサルの名前から、その名前が付けられました。カイサリアを発展させ、またローマ皇帝にちなんで町の名前を「カイサリア」と名付けたのも、ヘロデ大王でした。
ヘロデ大王は、ローマ帝国からユダヤの王に任命されていました。ヘロデにとって、ローマ帝国からの後ろ盾は、王としての自分の立場と権力を維持するために欠かせないものだったのです。
そんな彼が、栄えた港町に皇帝の名前をつけて、いろいろとその町の整備を進めもしたのは、ローマ皇帝にできるだけ媚びを売り、ユダヤの王としての自分の立場を確かで強いものにしたいと願ったからだと思われます。
このヘロデ大王は、イエス様がお生まれになった時、エルサレムの東の方からやってきた占星術の学者たちから「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、不安になったということが伝えられています(マタイ2章)。

自分の安定した地位や立場が脅かされる、となれば、だれでもヘロデのように不安に思うでしょう。
ヘロデは、誰がその新しい王なのか、が分からないと、その時生まれた男の子を全員殺すようにと命令しました。
今の私たちキリスト者は、その時新しく生まれたユダヤの王が、世界の人々を罪から救うためにこられた真の王であり救い主イエス・キリストであったことを知っています。
しかしだからと言って、私たちはヘロデ王のことを、ただ愚かだと言って非難することは、私たちにはできないと私は思います。
私たちはイエス・キリストを真の王として、私たちの中心にお迎えしているかどうか、を常に吟味する必要があるからです。
ヘロデ大王のように、自分に代わって王となる者を殺すため、それが誰だか正確に分からないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんを全員殺す、という残忍なことは私たちはいたしません。
しかし、私たちが、救い主イエス・キリストを信じていると言いながら、もしイエス様を本当に自分の中心にお迎えして、そのお方に従って生きることを実践できていないのならば、どうでしょうか。
そうであれば、真の王であるお方を自分から排除している、という点で、ヘロデ王と変わらないのではないか、と思わされます。
ヘロデが町の名に帝国の皇帝の名をつけて、その人間の皇帝に媚びを売り、人間の皇帝からの後ろ盾に頼って自分を守ろうした弱さは、私たちも抱えているものです。
私たちは、その名が崇められ、称えられるべきお方は、イエス・キリストの主なる神だけであること、また私たちを本当に強くし、支えるものは、神のお力以外にない、ということを今一度確認したいと願います。

今日の箇所に、このカイサリアにいたコルネリウスという人が登場します。彼は「イタリア隊」と言われたローマの軍の部隊の百人隊長でした。
百人隊長は、数十人から百人の兵士から成る軍の隊の隊長でした。
実は福音書の中では、百人隊長と言われる人たちが何人か登場し、しかも彼らは重要な信仰を見せる人物として描かれています。
マタイ福音書の27章で、イエス様が最後に十字架の上で息を引き取られた時、それを目撃していた百人隊長が、他の人々と一緒に「本当に、この人は神の子だった」と言ったことが記されています(マタイ27章54節)。
彼は十字架の上で息を引き取られたイエス様を見て、“本当に、この人こそ神の子だった”という信仰の告白をした、と言ってもよいと私は思います。

ルカ福音書の7章の初めには、自分の部下の兵士が病気で死にかかっていたため、イエス様に自分のところへ来てくれるようにと頼んだ、ある百人隊長の様子が描かれています。
そこでその百人隊長は人をやってイエス様に次のように言わせました。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根にお迎えできるような者ではありません。。。。ただひと言おっしゃってください。。。。」と言って、神の御言葉に対する揺るぎない信頼を彼は見せました。
“あなたのお言葉さえ頂ければ、必ずその通りになります”という驚くべき信仰を、ユダヤ人ではない人たちが見せていたのです。
当時のユダヤ教の考えでは、ユダヤ人ではない人は異邦人であり、異邦人は神の恵みの対象外、だからユダヤ人は異邦人と交際をしてはいけないとさえ、考えられていました。

しかし、神はユダヤ人以外の異邦人をも選び、イエス・キリストを神の子と認める信仰を既に彼らにもお与えになっていたのです。
神が人となられたイエス様ご自身が、そのような人と人の間の壁、民族と民族、国と国との間に作られた隔ての壁を打ち壊し、平和を打ち立てるお働きをなさいました。
キリストを主と信じる私たちの間では、互いの間の様々な違いが争いや、互いに排除することが起こらないように、イエス様によって打ち立てられた平和を私たちの間で実現していきたいと願います。

今日の箇所で、その百人隊長について、何と言われているでしょうか。
その百卒長について言われていることは、2節に書かれている通り「彼は信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ということです。
彼はローマの軍隊の百人隊長でしたが、彼は真の将軍、王は主なる神であることを認めていたのです。
カイサリアという、ローマ皇帝の名を冠した町で、ローマの軍隊の隊長であった人が、神を真に恐れる生活を家族も一緒にしていた、というのは、驚きの事実です。
そして最も大切なことは、彼が“絶えず祈っていた”ということです。

“絶えず祈る”を、私は今日のメッセージの題といたしました。絶えず、いつも神に祈る、とは何と祝福された信仰の姿勢ではないでしょうか。祈ることができることは、私たちの信仰による最大の祝福の一つです。
祈りを通して、私たちは神に自分を委ねることができ、神にお話しをすることが許され、そして祈りを通して神が私たちに語ってくださるからです。
コルネリウスの祈りは、神を信じ神に委ねようとする祈りであったと私は信じます。また、絶えず祈るとは、あきらめずに祈り続ける、という生活です。

その百人隊長の祈りの中には、聞かれる(叶えられる)祈りも、聞かれない(叶えられない)祈りもあったと思います。
しかしそれでも、絶えず祈り続けることが、その百人隊長の生活の原動力になっていたのだと私は信じます。
彼は絶えず神を信じ、祈り続けたので、その彼の真摯な信仰は自分の家族にまで影響を及ぼしたのです。
コルネリアスがしていた多くの施しという行いも、絶えず神に祈ることで、祈りを通して神からいただく恵みと力に基づいていたのでしょう。
彼はそのような祈りの生活を通して“私たちが本当に畏れるべきは、人間の権力者であるローマ皇帝ではなく、真の神である”という信仰が与えられていたのです。

私たちも、神こそ畏れるお方であることを知り、神の前にへりくだり、自らを低くし、人は神のように畏れ敬う対象ではない、ということを知っていきたいと願います。
 コルネリウスに、ある日の午後三時ごろ、神の天使が呼びかけました。午後の三時は、ユダヤ教の祈りの時間の一つでした。
コルネリウスは常に、規則正しく、真摯な信仰習慣としての祈りを捧げていたのだと理解してよいと私は思います。
神の天使が“コルネリウス”、と彼に呼びかけました。その時、彼は怖くなった、と書かれています。
 神から(天使から)直接声によって呼びかけられて、彼は恐れたのです。しかし、コルネリウスは「主よ、何でしょうか」と聞きました。
 通常の出来事、普通の感覚を超えた出来事に、コルネリウスは恐れつつも、“主よ、何でしょうか”と神の御心を尋ねようとしました。
私たちも、どのような時にも”主よ、何でしょうか“と言って、主の御心をいつも尋ねて、御心に従い行く生き方をしたいと願います。

神の天使はコルネリウスに、“彼の祈りと施しは神の前に届いて覚えられた”と告げました。
コルネリウスは祈りの生活を通して神と豊かな関係を結び、神から頂く恵み、神からいただく愛によって、彼は多くの施しを他者にすることができました。
コルネリウスが他者に豊かに施して、与えることができたのは、それは彼自身が有り余る恵みと愛、力を神から頂いていたからです。コルネリスに神の恵みと愛、神の力の自覚があったからです。
私たちの信仰の源、信仰の実践の源は、主なる神から私たちが頂く恵みと愛と力です。神から頂く恵みと愛と力とを、私たちは常に私たちの信仰の原動力としていきたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい”と言いました。

ユダヤ人であり、イエス・キリストの使徒であったペトロと、ローマの百人隊長であるコルネリウスとの出会いが、その時神のご計画の中で進められていたのです。
今日の箇所以降で、彼らの出会いが、神の救いがユダヤ人以外の異邦人にも開かれており全ての人々に開かれている、ということを明らかにするものとして、展開していきます。
 私たちにも、色々な人との出会いが与えられています。神が大いなるそのご計画の中で、私たち人同士の出会いを導いてくださっているのだと、私たちは信じることができると私は思います。
 また私たちの間で起こる出会い、神によって起こされるその出会いの一つ一つが、神の大きな御計画の一部をなしている、と思うと、私たちは非常に力づけられる思いがいたします。
 神によって与えられる出会いを、私たちは大切にしていきたいと願います。
 そして私たちは祈りの生活を通して、御言葉に聞き従う生き方を日々していきたいと願います。
絶えず祈り神の言葉を聞く事によって、新たな示し、また新たな出会いが与えられることもあるでしょう。
 これから先、神が私たちに用意してくださっているご計画と導きに期待をし、神に信頼をして、私たちは歩んでいこうではありませんか。

2026年1月10日土曜日

2026年1月11日 主日礼拝
前奏
招詞  エゼキエル書2章1節
賛美  新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美  新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録9章32~43節
祈祷
宣教  「起きなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌134 生命のみことば たえにくすし
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷

 新約聖書の『使徒言行録』の9章32節から、この章(9章)の終わりまでの箇所が、今日の聖書箇所です。
 9章の前半では、サウロが復活のイエス・キリストと出会い、キリスト者を激しく迫害していたそれまでの彼から、キリストの熱心な伝道者へと変わる劇的な変化が描かれていました。
 サウロ(後のパウロ)はキリストを信じる者となり、そして今度は自分が迫害され、命さえ奪われそうな危険にあいながらも、イエス・キリストを伝える伝道者へと変えられました。
 サウロのような、聖書に登場する人物を通して、人は主イエス・キリストとの真の出会いを経験することによって本当に変えられる、ということを私たちは示されます。
 主イエス・キリストと出会い、キリストを主と信じ、キリストを私たちの中心にお迎えすることによって、キリストにある力がこの私たちのものともなるのです。
 ですから、私たちのうちに宿ってくださる復活のイエス・キリストの力によって、人は強くなれる、変えられるという希望を私たちは頂くことができるのです。
 そしてサウロや、また今日の箇所で登場するペトロなど、キリストの弟子たち、使徒たちの姿を通して、彼らを通して働いたキリストの力は今の私たちにも与えられると、わたしたちは確信していきたいと願います。

 今日の箇所では、キリストの弟子であり、そして使徒とも言われた、弟子たちの中でも指導的な立場にあったペトロ(Peter)が登場します。
イエス様が生きておられた時、ペトロはイエス様の最初の弟子の一人であり、イエス様の一番弟子といってもよい存在でした。
 そのペトロが長年の病気であった人を癒した様子、そしてそのほかに、死んだ人をも生き返らせた時の話が今日の聖書箇所では伝えられています。

この箇所を通して、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
今日の最初の32節に、”ペトロは方々を巡り歩いた“と書かれています。”リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った“と書かれているリダとは、エルサレムから約40キロほど離れたところにあった町でした。
ペトロは、復活の主に出会って、また聖霊の導きを受けてからは、一箇所(エルサレム)に留まることなく、あちらこちらへと出かけ、”聖なる者“(英語では”主の者たち)のところへと出かけて行ったのです。
”聖なる者たち“(英語ではLord’s people”主の者たち“)とは、罪がなく汚れの無い清い人という意味ではありません。
“聖なる者たち”、あるいは“主の者たち”ですから、彼らはキリストを主と信じるクリスチャンのことが言われています。
キリスト者はどのような意味で“聖なる者”と言うことができるのでしょうか。それはキリストによって清い者としていただいた者、キリストによって罪赦された者、ということです。
自分の努力や功績によって、神に優秀だと認められた、ということではないのです。キリスト者とは、ただ神の憐れみによって選ばれて、キリストの者、神の子とされた、その大きな恵みを信じ、その恵みをただ受け取った者です。

神が私たちの心に働きかけてくださり、神がこの私を選んでくださった、神が私を呼んでくださった、神がキリストを通して私を聖なる者としてくださった、とキリスト者は信じるのです。
そう信じる者は、必然的に神に対して、また人に対してへりくだる(謙虚な)者とさせられるしかない、と私は信じます。
 キリストの者とされた、神の者とされた恵みを覚え、私たちは自分を誇ることなく、いつも主なる神をこそ誇る者でありたいと願います。
ペトロはリダで、中風という病気(なんらかの理由で、体に麻痺があり、体の自由がきかない病気)のため、8年間病床にあったアイネアという男の人に出会いました。
ペトロはアイネアに「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言いました。

するとアイネアはすぐ起き上がりました。これが今日の箇所で起きている一つ目の、ペトロによる癒しの出来事です。
ペトロは“イエス・キリストがいやしてくださる”とアイネアに言いました。この言葉の重要性はどれほど強調してもしすぎることがありません。
ペトロは“わたしがあなたをいやす”とは言わなかったのです。“イエス・キリストがあなたをいやしてくださる。だから起きなさい。自分で床を整えなさい”とペトロは言ったのです。
ペトロは次の箇所の、ヤッファという別の町で出会ったタビタ(ドルカス(かもしか))、もう死んでいた彼女を蘇らせた場面でも、「タビタ、起きなさい」と言いました。
「タビタ、起きなさい」という言葉には、“イエス・キリストがあなたを生き返らせてくださる”というキリストへの信仰があります。
わたしたちの注目は、病気の人が奇跡的に癒された、一度死んだ人が生き返った、という方へ、どうしても向くと思います。
アイネアの病が癒されたこと、皆に慕われていたタビタが生き返ったこと、それらはいずれも素晴らしい出来事です。
重い病気、苦しい病気を患っている人が治りたいと思うのは当然ですし、わたしたちも自分や、あるいは自分の家族や親しい人が病気で苦しんでいたら、その癒しを願い、神に祈ります。

しかし、今日の箇所は“神様を信じたら、難しい病気でも治るような奇跡、死者が生き返る奇跡が必ず起こる”ということを伝えているのではありません。
もし私たちが目に見える具体的な奇跡が、わたしたちの願いと祈りに応じて必ず起こるのだ、と言うならば、それは自分を神様の地位に置くということになります。
では今日の箇所で私たちはどのような信仰のメッセージを聞くことができるでしょうか。
それは、人間である私が癒す(命、希望を与える)のではなく、“イエス・キリストがあなたを癒す”、“イエス・キリストこそが癒し主であり、命の源である”ということです。
 そしてペトロが、一度死んだ人に向かって「タビタ、起きなさい」と言うほどに、そこまで主に信頼をし、主なる神にすべてを委ねるほどの信仰が人に与えられる、ということです。
ペトロは、そのような信仰姿勢を、すべて主であるイエス様から学んでいました。ペトロは地上で宣教活動をしておられた時のイエス様から、直接多くのことを学んでいたのです。

 今日の箇所でのペトロの行動には、彼がイエス様から学んだこと、ペトロが実際に見ていたイエス様の姿が大変よく反映されています。
特に、タビタを生き返らせた時のペトロの振舞いは、マルコ福音書5章40節からの箇所で、イエス様がヤイロという会堂長の娘を生き返らせた時のイエス様の行動を、とてもよく反映しています。
ペトロは、その時イエス様がどのようになさったかをよく覚えており、できるだけ忠実にその行動をまねた、と言えるでしょう。
最初は模倣(まね)から入る、ということにも意味があると私は思います。模倣がやがて、その実態と意味を伴い、中身を伴った信仰へと育っていく、ということがあるのではないでしょうか。
例えば、私たちが祈る、ということも、人前で祈ることは、最初はなかなか出来いかもしれません。長年のクリスチャンでも人前で祈ってくださいと急に言われると、躊躇することは多いと思います。
そんな時、最初はだれかほかの人の祈りを真似する、用意された祈りの見本のような言葉をそのまま祈る、ということも意味のあることです。
その祈りの意味を考え、求めつつ、真剣に祈るならば、最初は模倣(真似)であったとしても、信仰の実体を伴った祈りへと変えられていくことは可能なのです。
私たちは、参考にできる信仰の姿勢は、どんどん真似をしていきましょう。

ヤイロの娘を生き返らせた時、イエス様は会堂長の家に着く前に、“その娘はなくなりました。だからもう来ていただかなくて結構です”と言う知らせを聞きました。
しかしイエス様は言いました”恐れることはない。信じなさい“。そう言って、イエス様はヤイロの家へ向かっていくことを止めずに、ヤイロの家の中に入りました。
イエス様は皆を家から外に出して、そして子どもの手を取って、“少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい”と言いました。そしてその子は生き返ったのです。
ペトロは、イエス様のその時の様子を思い出して、“主は、少女が死んだという知らせを聞いても、決して(もう終わりだ、私がそこへ行ってももう意味はない)とはおっしゃらなかった”と、その時のことを思い出したのでしょう。
だからペトロもあきらめなかったのです。彼(ペトロ)自身が、主の癒し、死者さえ生き返らせた主の御業を直接目撃していたので、彼は主に倣って、決してあきらめなかったのです。

“タビタは死んだけれども、これですべてが終わり、あらゆる希望が打ち砕かれた、ということではないのだ。神の御業は必ず起こる”という信仰の思いが、ペトロにその時一層強く与えられたのです。
それでペトロはイエス様がしたように、皆を外へ出して、そして彼はひざまづいて祈りました。
“神の御業が起こされますように。神の御心の通りになりますように”とペトロは真剣に願い、へりくだって、神に祈りを捧げたのでしょう。
ペトロは「タビタ起きなさい」と、イエス・キリストがヤイロの死んだ娘に言ったのとほぼ同じ言葉を発しました。その言葉を発する信仰がペトロに与えられたのです。

そのことが主の御心ならば、その通りになるという信仰がペトロに与えられたのです。私たちは、この奇跡の出来事の表面的なことに囚われるのではなく、これほどの信仰をペトロにお与えになった主なる神の偉大さに、心を留めたいと願います。
 わたしたちも信仰の経験を重ねていく毎に、イエス・キリストの恵みを経験していく毎に、主への信頼が深まっていきます。

主なる神は真実であり、常に誠実なお方だ、ご自身の約束を守ってくださるお方だと、私たちはますます神を信頼し、神により頼むようになっていきます。
 そして、教会には多くの疲れた人、傷ついた人、打ち倒された人たちやってきます。今私たちの中にも、そのように疲れ切った人、傷ついた人たちがおられるでしょう。
多くの人たちが神の癒しを求めています。この私も神の癒しを求めています。自分で立ちあがる力を私も求めています。
 そのような時、わたしたちは疲れて神の恵み、神の力と癒しを求める人たちに、“イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。(なぜなら、キリストがあなたに立ち上がる力をくださるから)”というメッセージを伝えていきたいと願います。
 死んだと思っても、決してそれですべてが終わりではない。神の御業は必ず起こる。神の恵みは私たちに与えられ続ける、という希望を私たちはイエス様から常にいただけるのです。
 また私たちは、お互いに、そのような信仰の言葉で、励まし合っていける教会になりたいとも願います。
キリストが私たちを日々立ち上がらせてくださいます。キリストが私たちに日々命を与え、一歩一歩と前へ進ませてくださいます。キリストにより頼み、そのように信仰の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。




2026年1月3日土曜日

2026年1月4日 主日礼拝

前奏
招詞  ミカ書6章8節
賛美  新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
主の祈り
賛美  新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録9章19b~31節
祈祷
宣教  「信仰の仲間として」
祈祷
賛美  新生讃美歌262 み霊よくだりて
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷

新約聖書の『使徒言行録』を、昨年度のはじめ(2025年度4月)から続けて、私たちは礼拝メッセージの御言葉として読み、聞いてまいりました。
 アドベントとクリスマスの期間には、使徒言行録からではなく、クリスマスに関連する聖書の箇所から、私たちは礼拝で御言葉を聞いてきました。
今日からまた、使徒言行録で伝えられる神の御業から、礼拝の中で神のメッセージを私たちは聞いていきます。
 サウロ(後のパウロ)は、キリストに従う者たちを激しく迫害する者でした。
その彼が、今日の前の箇所で、エルサレムからダマスコという町へ(キリストを信じる者なら誰でも捕らえて連行するため)向かっている時、復活の主イエス・キリストに出会います。

 天から突然刺した光に照らされ、サウロは目が見えなくなり、そして人々に連れていかれた、ダマスコのある家に留まっていたました。
そこで、主(神)からの指示を受けたアナニアという人によって祈られて、サウロは再び視力を回復し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けました。
 サウロは、元どおり目が見えるようになって、食事をして元気を取り戻しました。今日はその話の続きの箇所です。

それから数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒に過ごしたサウロは、今日の箇所20節によれば「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝え」ました。
 ほんの数日か一週間ほど前までは、イエス・キリストを信じる者たちを激しく迫害していた人が、キリストを信じるようになってから、すぐ(ほとんど間を置かずに)、「この人(イエス・キリスト)こそ神の子である」と人々に伝えるようになった、というのです。
 サウロのその姿から私たちが示されることは、キリスト者は誰でも、一旦イエス・キリストを信じ、キリスト者となった以上、イエス・キリストの福音を(すぐにでも)他者に伝えることができる、ということです。
 サウロは「自分はまだ信じたばかりだから、もう少し、しっかりと信仰を身につけてから、それから伝道を始めよう」とは考えなかったようです。
 キリスト者は、だれもが、バプテスマを受けてキリスト者となり、神の子とされたのならば、その瞬間から、サウロのようにキリストを宣べ伝えることができるし、またそうすべきだと、わたしたちは示されます。
 皆さんの中にも同様の経験をお持ちの方がおられるかと思います。わたしはバプテスマを受けて、すぐ次の年ぐらいから教会学校の小学科の教師を任されるようになりました。
「まだ私はバプテスマを受けたばかり。聖書の内容もそんなに分かっているわけではない」と躊躇する気持ちはあったと思いますが、子どもは好きでしたので、教会学校の教師をさせて頂くようになりました。
今振り返って考えましても、そのころの私の信仰や聖書に関する知識など、非常に初歩的なものでした。しかし、“イエスは主”、“イエスはキリスト、救い主”、肝心なことはそれだけなのです。

その肝心かなめの信仰があるのならば、信仰が強いとか弱いとか、聖書に関する知識が豊富だとか乏しいとかいうことは、少なくとも神様から見れば、大した差はないのではないか、と私は思います。
今私は牧師として、教会の霊的リーダーとしての務めを頂いています。信仰を持った最初の頃から比べれば色々と信仰的な経験も重ね、聖書に関する知識や、神学校で学ばせていただいたことなど知っていることは増えたかもしれません。
 しかし、“イエスは主”という信仰告白を聖霊によって与えられた、聖霊によって導かれ、励まされ、日々信仰を歩むことを許されているという点では、最初に頃と変わらないのです。
そして、他のキリスト者誰とも、それは変わらないのです。多少の経験や知識のあるなしは、大きな問題ではありません。
 また私たちそれぞれが異なる賜物を与えられています。それぞれに出来る方法があります。
誰もが、牧師のように、こうして講壇の上で聖書の話をしたり、牧会的な仕事をする必要があるのではありません。
自分に与えられた賜物を通して、自分が信じ教会で分かち合っているイエス・キリストの神について、わたしたちは機会があるごとに他者に伝えようではありませんか。
そのように伝道(宣教)をするキリスト者、キリスト教会に、わたしたちはなりたいと願います。

 サウロは、それまでキリスト者を激しく迫害する者でした。ですから、彼の急激な変化は多くの人々を、特にそれまで彼と一緒になってキリスト者を迫害していたユダヤ人たちを、戸惑わせたようです。
 やがて彼らはサウロを殺そうとまで思うようになりました。しかし、サウロには彼のことを助けてくれる弟子たちがいました。
今日の23~25節には、ユダヤ人たちがサウロを殺そうとしましたが、サウロは自分の弟子たちによって助けられ、彼は夜の間に町の城壁からつりおろされて逃げることができた様子が描かれています。
 また30節からの箇所では、エルサレムでユダヤ人たちに命を狙われたときにも、兄弟たちにより救われたことが書かれています。
サウロがそのように、他の人たちによって何度も助けられたことから、わたしたちも、きっと様々な局面で、多くの人たちによって助けられ、命が守られていることを思わされます。
 そして私たちの命が守られているその背後には、主なる神の守りと導きがあることを思わされます。日々生かされている、守られている幸いを私たちは神に感謝したいと思います。
パウロは、エルサレムに行ってから、そこでエルサレムの教会の弟子たちの仲間に加わろうとしました。

キリストの信仰を頂くということは、一人孤独に信仰者として生きるのではなく、他のキリスト者と仲間になる、信仰の群れに加わるということでもあるのです。
人がキリストを信じバプテスマ(洗礼)を受けることは、その人が主なる神を信じてキリスト者として生きるという信仰決心の告白であると同時に、その人が教会の一員となる、という意味もあります。
 自分自身を振り返っても、わたしのキリストにある信仰は、同じ信仰をいただくキリストの教会に繋がることで、信仰の家族(兄弟、姉妹)との信仰の交わりと繋がりの中で、本当に成長させられてきました。
私たちが教会の信仰の交わりの中で、それぞれの信仰が養われ、それぞれの信仰の働き、奉仕をすることを通して、これからも私たちの信仰が養われていきますようにと、私は願っております。
今日の箇所でサウロは、エルサレムの信徒たちが、なかなかサウロのことを信用しようとしないという困難を経験します。

そこでサウロを助けたのがバルナバと言う人でした。バルナバは、サウロが、いかにそれまでとは変えられたのかを、エルサレムの弟子たちに話して聞かせたのです。
サウロがイエスの名によって大胆に宣教した様子を、バルナバは説明しました。“この人は確かに以前とは違い、変わったのだ”とバルナバが一生懸命サウロのために、エルサレムの使徒たちを説得したのでしょう。
バルナバのそのような助けによって、サウロはエルサレムの使徒たちと仲間として関係を築き始めることができました。
このバルナバの助けがなければ、後の伝道者としてサウロの人生はなかった、と言えます。後にキリストの伝道者として大きな働きをするようになるサウロですが、本当に多くの人に彼は助けられたのだと、聖書は伝えるのです。
先ほども申し上げましたが、サウロを助けた多くの人の働きの背後には、主なる神の守りと導きがあったことを、そしてその守り導きは、今の私たちにも与えられていることを、わたしたちは改めて知らされます。

 今日の箇所の最初に戻りますが、サウロはすぐに「この人こそ神の子である」と述べ伝えました。そしてバルナバの言葉によれば、サウロは”イエスの名によって“宣教をしました。
 サウロは、彼自身にどんなことが起きたのか、ということを(少なくとも、そのことを中心的なこととして)話したのではありませんでした。
 激しくキリスト者を迫害していた自分に、キリストがあらわれて福音を伝えてくれたこと、視力を失い、そこからアナニアに祈られて、視力、力を回復したという、自分に起きたことをサウロは話したかもしれません。
 しかしサウロが伝えた中心的なこと、もっとも大切なことは、自分のことではなくて、「この人(イエス・キリスト)こそ神である」ということです。
私たち現在のキリスト者も、キリスト教会も、この人(イエス)こそ神の子である、神である、イエス様がキリスト、救世主であり神である、というメッセージを常に語り続けたいと願います。
 私たちは自分自身を語るのではありません。たとえ自分のことを語るにしても、この自分を通していかに主なる神が働いてくださった、という神の恵みを、神の偉大さを私たちは語るのです。
 キリスト者とは、いただいた神の恵み、自分が信じたイエス・キリストの恵みを語ることが許されているのです。
ですから私たちの教会も、常に「神は生きておられる。イエス様がキリストである。主の御言葉は素晴らしい」と、何よりもキリストの恵みが、それだけが語られる教会でありたいと願います。

 今日の箇所最後の31節をお読みします。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 ”教会は平和を保ち“とは、その時の彼らの間に何の問題もなかったということではないはずです。
実際、聖書の他の箇所で、初めのころの教会の内部に、信者同士の間で色々な問題や衝突が起きていたことが、はっきりと書かれています。
しかしその時の教会の信者たちは、彼らの真ん中に“キリストの平和”あることを願い、神の霊である聖霊により頼むことでは一致していたのでしょう。
そして彼らは主を畏れることを大事にし(それは、“自分は何も知らない”という謙遜な信仰を伴います)、そし聖霊の慰め(英語では“励まし”)を受けていた、というのです。
 “聖霊から常に力を受ける”とは、目には見えないけれども、確かに私たちを守り、導いてくださっている神の霊、聖霊がおられることを信じ、聖霊に依り頼む、ということです。
 主なる神を信じる集まり、信仰の家族である教会では、誰か優れた人の能力や経験によって導かれるのではなく、わたしたちの思いを超えて働いてくださる神の霊に、わたしたちひとり一人がより頼むことが大切なのです。
またそれが私たちにとっての恵みであるのです。
 新しい年、わたしたちの教会がより頼むものが、わたしたちが願うものが、常に神の霊である聖霊の導きでありますように。
わたしたちが自分自身の力や人の力により頼んで、それを誇ったりすることなく、謙虚に聖霊の導きを求めていけますように、と私たちは祈りましょう。
 目には見えない神の霊、聖霊によって常に励まされ、慰められ、信仰の道を歩んでいく私たちでありたいと願います。