2026年2月1日 主日礼拝
前奏
招詞 創世記2章7節
賛美 新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
賛美 新生讃美歌514番 めぐみの主は
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録10章23b~33節
祈祷
宣教 「わたしもただの人間です」
祈祷
賛美 新生讃美歌278番 わが心は歌わん
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所で、ペトロが、彼が滞在していたヤッファという町を発って、カイサリアという町へ向かったことが書かれています。
ヤッファもカイサリアも、イスラエルの地中海沿岸にある町でした。南側のヤッファから北側のカイサリアへは、60キロほどの距離でした。
ペトロは一人ではなく、彼の兄弟も何人か一緒に行ったと書かれています。兄弟とは、血縁の家族ではなく、同じイエス・キリストを信じる信仰の兄弟たちのことです。
ペトロは、ヤッファに滞在している間に、祈りの中で、ある幻を見ていました。
それは、先週の礼拝メッセージで私たちが分かち合った、今日の聖書箇所の前の部分に書かれています。
その幻とは、ペトロが昼の祈りの時間に祈っている時、彼が空腹を覚えた中で見たという幻でした。
それは、天が開いて大きな布のようなものが地上に降りて来た、という幻でした。その布の中には地上のあらゆる獣、地を這う生き物や空の鳥が入っていました。(12節)
そこでペトロに、ある声が聞こえまたのです。「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」とその声は言いました。
その時ペトロは空腹でしたが、その声が言ったことはペトロにとって、驚くべきことでした。
なぜなら、それらの生き物は、聖書の律法で定められていたように、ユダヤ人たちが決して食べてはいけないものばかりだったからです。ペトロもそれらのものを食べたことは、それまで一度もないものでした。
ですからペトロは、“これらは今まで私が決して口にしたことがない汚れた食べ物です”と言って、幻の中で聞こえた、その声の言ったことを拒絶しました。
それを食べてしまったら、今までペトロが大切にしてきた何か(ユダヤ人として誇り、あるいは自分自身への誇りや自信)が失われるようにも、彼は感じたのかもしれません。
しかし神は今や新しいことが起ころうとしていることをペトロに告げます。その声は 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」 (15節)と言いました。
その出来事が三回も繰り返されました。
そしてその出来事の前には、カイサリアにいたローマの軍隊の長(百人隊長)だったコルネリウスが、神の天使からのお告げを受けていました。
コルネリウスはユダヤ人ではない異邦人(外国人)でしたが、イスラエルの真の神を信じる人で、誠実な信仰生活を送り、人々に多くの施しをしていました。そして、その彼の生き方は彼の家族にも及び、彼の一家はみな神を畏れていました。
コルネリウスへのお告げは「ヤッファへ人を送って、そこにいるペトロという人を招きなさい」という内容でした。
神を信じる人であったコルネリウスは、神の(天使の)言葉を信じて、彼の信頼できる召使二人と一人の部下を、ペトロがいるヤッファへ送りました。
コルネリウスとペトロの二人に、それぞれ起きたことは、彼らが出会うために、神がそのようにお膳立てをなさったことでした。
神が彼らに(天使や幻を通して)メッセージを伝えることで、神はコルネリウスとペトロの双方に働きかけて、彼らが出会うようにしてくださったのです。
私たちのあいだで起こされる出会いというものも、けっしてそれらは偶然ではなく、神がそのご計画に沿って、色々な方法によって、私たちを互いに出会わせてくださっているのだな、と私は思います。
私たち人と人とが出会わされる中で、そしてそこで起こされる交わりを通して神が働き、神がそのご計画を推進しておられるのです。
人の出会いは不思議ですが、きっとそこに神のご計画と、神が私たちに伝えようとしてくださっていることがあると、私たちは信じることができるのです。
コルネリウスは自分の親類や友人たちも集めて、ペトロを待っていました。
コルネリウスが、自分だけではなく、彼の親類や友人たちも集めてペトロを待っていたことは、これから起きようとしていることが、彼個人だけの事柄ではない、という思いが彼に与えられていたからでしょう。
ペトロがコルネリウスと出会った時に、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、と書かれています(25節)。
コルネリウスにとっては、神のお告げによって“その人を呼びなさい”と示された人がやってきたのです。
ペトロがまるで神の使いか、あるいは神ご自身のようにさえ、コルネリウスには見えたのでしょう。
そこでペトロはコルネリウスを起こして言いました。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」(26節)
ペトロが、この言葉を言った背景には、彼自身のそれまでの信仰の経験が大きく影響していました。
ペトロはなぜこの言葉を言うことができたのでしょうか。
それは彼がイエス・キリストと出会い、神の偉大さの前に自分がいかに小さく、弱く、罪深いものであるかを、はっきりと知らされる経験をしていたからです。
マタイによる福音書18章では、イエス様が地上で生きておられ弟子たちと一緒にいた時、弟子たちが“誰が一番偉いのか”と言って、自分たちの中で議論していた様子が描かれています。
ペトロもその弟子たちたちの一人でした。“自分たちの中で誰が一番偉いのか”、“それはきっとこの私だ”などと弟子たちは、ペトロを含めて言い合っていたのです。
ペトロはイエス様に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってきました。では、何がいただけるのですか」と聞いたこともありました。ペトロは相当、弟子としての自分に自信があったのでしょう。
“自分は何もかも捨てて主に従っている。そんなこの私が一番偉いに決まっている”という自信をペトロは持っていたのでしょう。
イエス様が、ご自分が捕まって十字架にかけられる前に、弟子たちに向かって「あなたがたは、皆わたしにつまづく(=あなたがたは私に挫折する。あなたがたは私を捨てて逃げる)」と言ったことがあります。
その時ペトロはイエス様に「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。
イエス様がさらにペトロに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言った時、ペトロは「たとえあなたと一緒に死ななくてはならなくなっても、決してあなたのことを知らないなどとは申しません」と断言していました。
しかし、そう言っていたペトロは(ペトロ以外の弟子も全員)、イエス様が捕まったとき、イエス様のおっしゃっていた通りに、逃げてしまったのです。
そして「あなたもあの人(イエス)と一緒にいた」と人から指摘されたとき、「あんな人のことは知らない」とペトロは三回はっきりとイエス様のことを知らないと言って否定しました。それは、イエス様が前もって言っていた通りでした。
それらはペトロにとっては、大変辛い、それ後もずっと、彼の胸に大きな痛みを覚えさせずにはいられない出来事であり続けたでしょう。
ペトロは自分自身の弱さ、罪深さを、それらの出来事を通して彼は嫌と言うほど知らされたはずです。
しかし、そんなペトロに復活したイエス様が現れて、彼と他の弟子たちをも励まし、彼らは神の前に覚えられ、罪が赦されている、ということを伝えてくださったのです。
嫌と言うほど自分の弱さ、醜さを知らされたペトロが、“こんな私を主は赦してくださった。主は憐れみによってこの私を再び生かし、いまや主の福音を伝える者として、新たに生かしてくださった”という大きな、大きな希望をイエス様からいただいたのです。
ですからペトロは、自分にひざまずくコルネリウスを見て、“お立ちください。わたしもただの(弱い、罪深い)人間です。”と言うことができたのです。彼は心から、そう言うしかなかったのです。
本当に自分はそのような弱い、罪深い者だ、という真実、そして私たち人間はみんなそうなんだ、という真実を、イエス様を通してペトロは与えられていたからです。
“人間は人間であり、神は神である”。これは聖書を貫く大切なメッセージです。
しかし、私たちは神でないものを神としてしまう罪を犯し得ます。神でないものを神とするのが偶像崇拝、偶像礼拝です。
私たちは人と人との間にも優劣や差をつけて、人としての価値にさえ差があるかのようにしてしまうことがあります。
けれども神は、幻を通してペトロに言われました。“どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない”と、神は言われたのです。 人は皆尊い、ということです。
人は罪を犯してしまい、神の栄光を受けられなくなってしまいました。しかし神は、そんな私たちをイエス様の十字架の死を通して贖い、赦してくださったのです。
私たちはイエス様のその尊い犠牲によって罪赦され、再び生かされた者です。神が私たちを赦し、わたしたちをイエス様によって清い者にしてくださったのです。
イエス様によって、私たちは神の前に、尊い者だと見なされる幸いを与えられたのです。
それは何と大きな、驚くべき幸い、恵みではありませんか。私たちはそのような神の恵みの前に、ただ感謝と謙遜な思いを抱くことしかできないのです。
今日の箇所の最後の節(33節)での、コルネリウスの言葉を聞いてみましょう。
よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
私たちがこうして教会に共にいるということは、私たちが神の御前にいる、ということです。
そしてそれは、私たちが神の御前にいることを許されて、神の御言葉を聞くことを許されている、ということです。
神の言葉を聞く機会が私たちに与えられたのです。ですから、その機会を決して逃すことなく、“神が今私たちに伝えようとしてくださっていることを、私たちは全て残らず聞きたい”と言う大きな期待を、私たちは持とうではありませんか。
神は様々なことを通して、私たちに語ってくださいます。特に神が私たち語ってくださるのは、聖書の御言葉を通して、そして聖書の御言葉が実際に語られ、説き明かされる、この礼拝を通してです。
礼拝を通して語られ、そして分かち合われる神の言葉が、私たちに常に新しい力を与え、私たちを生かします。
私たちが願うこと以上の、期待すること以上の素晴らしい恵みを神は特に御言葉を通して、この礼拝の場で、私たちに与えてくださるのです。
ですから私たちはいつも大きな感謝と、また大きな期待をもって礼拝に集いましょう。そして、礼拝を通して御言葉を聞き分かち合う恵みを心から感謝して、共にその幸いを頂いていこうではありませんか。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2026年1月31日土曜日
2026年1月24日土曜日
2026年1月25日 主日礼拝
前奏
招詞 エレミヤ書33章3節
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録10章9~23節a
祈祷
宣教 「ペトロの見た幻」
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の初めで、三人の人が旅の途上にあったことが書かれています。
この三人は、ローマの軍隊の百人隊長であったコルネリウスという人によって送られた、彼の二人の召し使いと、彼の側近の部下の一人で信仰のあつい兵士でした。
コルネリウスが祈りの中で、神の天使のお告げを受けたことが、今日の前の箇所(先週のメッセージの箇所)に書かれています。
天使は祈っていたコルネリウスに現われて、「ヤッファへ人をやって、ペトロとよばれるシモンをあなたのところへ招きなさい」と言いました。
コルネリウスは、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見た異邦人(外国人)でした。そして彼はカイサリアと言う町に駐在していた百人隊長でした。
異邦人でありながら、コルネリウスはイスラエルの神を信じ、民に多くの施しをするなど、その生き方においても主なる神への信仰を実践していた人でした。
コルネリウスは、天使の命じることに従いました。彼は、祈りを通して与えられた神のお告げに従い、自分の召使二人と部下の兵士の三人をヤッファへ(ペトロがいた家へ)送ったのです。
コルネリウスとペトロの出会いは、神の福音がユダヤ人を超えて広がっていく、その過程において、大変重要な出来事の一つでした。
その時コルネリウスに遣わされた三人の部下たちも、コルネリウスとペトロのその大切な出会いを実現するために、大変重要な役割を果たしています。
主は、コルネリウスとペトロを最初から直接会わせるのではなく、彼らが出会うために、彼らの間の言わば“仲介役”として、その三人をお立てになったと、言うことができます。
私たちも新しく人と出会う時、その人を紹介してくれる人とか、私たちの出会いの間に立って仲介役を果たしてくれる人がいる場合が多くあると思います。
神はそのように、私たちがお互いに様々な人を通して、新たな出会いを私たちに与えてくださるのです。
そのような出会いを通して、神の福音が広がって行くことを神は望んでおられると、私は信じています。
私たちが教会に最初に来るのも、誰かに誘われてとか、教会に知っている人や友達がいたから、などの、人と人との繋がりによって導かれることが多いと私は思います。
私たちは、そのようにして与えられる新しい出会いの機会と、そのような出会いを通して福音が広がっていく恵みを感謝して、大切にしていきたいと願います。
三人が旅の途上にあった時、ヤッファという町にいたペトロは祈るために屋上に上がった、と書かれています。時間は昼の12時(正午)頃でした。その時間は、一日に三回ある祈りの時間の一つでした。
屋上で祈るということは、できるだけ一人静かになれる場所で祈るということです。一人になれる場所で、決まった時間に祈ることで、神様への祈りに思いを集中することができるのです。
できるだけ決められた時間に、できれば一人になれる場所で祈ることは、私たちの祈りを実りあるもの(神との親密な時間)にするために、とても効果的です。
祈りの時間を決めて、短時間でも一人で集中できる場所で、聖書の御言葉を通して短くても祈りの時を持つことで、祈りを私たちの生活の中心に置くことができます。
また、毎週日曜日に私たちがこうして集まる礼拝も、時間を決めて私たちは集まります。
時間を定めて、同じ場所に集まることで、そして事前に決められたプログラムにも従うことで、私たちは礼拝を信仰生活の中心に置こうと、意識して前もって準備をすることができます。
そして時間と場所が定まっているからこそ、私たちはこうしてお互いに出会い、顔を見て共に礼拝することができます。
定期的に集まること、そこで神を礼拝すること、共に祈ることを、私たちはこれからも大切にしていきたいと願います。
その時ペトロは空腹を覚えました。そこでペトロは我を忘れたようになって、一つの幻を見た、と書かれています。
11~12節をお読みします。
11天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
12その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
そして声がペトロに告げます。
「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさいGet up, Peter. Kill and eat.”」。
それはペトロにとって驚くべきことでした。なぜなら、その布の中にいたそれらの生き物は、それまでの聖書の律法で、ユダヤ人が決して食べてはいけないと教えられていた種類のものだったからです。
旧約聖書の『レビ記』の11章には、清いものとして食べてよいと定められた生き物と、汚れているものとして食べてはいけないと定められた様々な生き物に関する規定が書かれています。
現在でも厳格なユダヤ教の実践者は、その定めを守っている人もいます。
ペトロが見た幻の中の生き物は、それまで「食べてはいけない」と教えられてきた生き物ばかりでした。
ですからペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言ったのです。
「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」というペトロのその言葉には、彼自身を誇るような気持ちが込められているように思えます。
「私は守るべきことは、しっかりと守ってきました」という自意識です。
神の定められた決まりを私は自分の意志と力によってきちんと守っている、という思いがその時のペトロの心の中にはあったと私は思います。
しかし神から与えられた律法は、本来人を守り導くためのものです。それは人を神へと近づけるためのもの、無償でわたしたちに与えられる恵みです
人がそれを守ることで、自分の誇りとするために、律法が与えられているのではありません。
神はそのような私たちの思い、自分を誇る思いを、いつも打ち砕こうとされます。
私たちにとって大切なことは、自分の力により頼んで自分を誇るのではなく、私たちに与えられる神の恵みをただ感謝して受け取り、その恵みにより頼むことです。
私たちと神との真の出会いは、自分自身を誇り、自分により頼もうとする思いから、ただ神の恵みと力とを信じ、神により頼んで生きる生き方へと、私たちの生き方を変えていくのです。
ペトロが布の中に見た生き物は、確かにそれまでは神から“食べてはいけない”と定められていたものでした。
しかし、神は新しいことをその時起こそうとされていたのです。
イエス・キリストが弟子たちと地上に共におられたとき、イエス様は次のようにおっしゃっていました。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)
イエス様のそのお言葉を通して、神は“何が人を本当に汚すのか”、それは人の悪い心から出て来る悪い思いである、と既に伝えておられたのです。
神は新しい大きな出来事をその時起こそうと計画しておられました。ですから、神はペトロに告げられました。
15節
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
そのことが三度も繰り返された、と今日の箇所には書かれています。ペトロがそれまで信じて来た「絶対、これらのものを食べてはいけない」という思いが、いかに強かったか、ということが私たちに分かります。
そして神がそんなペトロの思いを変えるために、いかに忍耐深く、何度も(三度も)ペトロに繰り返し語ってくださったのか、という神の恵みを私たちは教えられます。
ペトロはその幻がなんのことだろうかと一人で思案にくれていました。そこへコルネリウスから遣わされた人たちがペトロのいるところへやってきました。
”霊“がペトロに言いました。
「三人の者があなたを探しに来ている。
20立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」(19~20節)
“ためらわないで、一緒に出発しなさい”。霊(神の霊)の励ましを受けて、ペトロは彼らを迎え入れ、泊まらせた、と書かれています。
ペトロはその人たちを迎え入れ、自分のいた家に泊まらせました。ペトロはここで既に大きな一歩を踏み出しています。
後の箇所ではっきりと書かれていますが、その時ユダヤ人は、外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることも、律法で禁じられている、として決してしませんでした。
しかし神は幻を通して、そして霊の導きによって、ペトロに神の新しい計画を示そうとされたのです。聖霊の励ましによって、神はペトロを新しい道へ踏みださせようとしておられたのです。
それまでの食物規定は廃止され、真の神の恵みがユダヤ人を超えてすべての民に伝えられていく、世界中のあらゆる民が真の神を信じるという出来事が、これからまさに起きようとしているのです。
主は今の私たちに、私たちの教会にどのような新しい変化をご用意してくださっているのでしょうか。神のご計画、主のみ旨は本当に計り知れず大きくて私たちの想像をはるかに超えるものです。
わたしたちが思い描く、望む以上の素晴らしいご計画を主は私たちの教会にもお持ちであると私たちは信じることができます。
祈りと、聖書の御言葉、そして共に集まる礼拝を大切にして、主の示しを私たちは共に聞いて、頂いてまいりましょう。
そして必要であれば、神の霊が私たちをそのように導くのであれば、それまでの私たち(自分自身)が変えられることをも、私たちは恐れないでいようではありませんか。
私たちにこれから与えられる新しい出会いや、様々な出来事、新しいことへと向きあい、自分が変えられることをも恐れずに、私たちは示される主の御心に従っていきたいと願います。
前奏
招詞 エレミヤ書33章3節
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録10章9~23節a
祈祷
宣教 「ペトロの見た幻」
祈祷
賛美 新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の初めで、三人の人が旅の途上にあったことが書かれています。
この三人は、ローマの軍隊の百人隊長であったコルネリウスという人によって送られた、彼の二人の召し使いと、彼の側近の部下の一人で信仰のあつい兵士でした。
コルネリウスが祈りの中で、神の天使のお告げを受けたことが、今日の前の箇所(先週のメッセージの箇所)に書かれています。
天使は祈っていたコルネリウスに現われて、「ヤッファへ人をやって、ペトロとよばれるシモンをあなたのところへ招きなさい」と言いました。
コルネリウスは、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見た異邦人(外国人)でした。そして彼はカイサリアと言う町に駐在していた百人隊長でした。
異邦人でありながら、コルネリウスはイスラエルの神を信じ、民に多くの施しをするなど、その生き方においても主なる神への信仰を実践していた人でした。
コルネリウスは、天使の命じることに従いました。彼は、祈りを通して与えられた神のお告げに従い、自分の召使二人と部下の兵士の三人をヤッファへ(ペトロがいた家へ)送ったのです。
コルネリウスとペトロの出会いは、神の福音がユダヤ人を超えて広がっていく、その過程において、大変重要な出来事の一つでした。
その時コルネリウスに遣わされた三人の部下たちも、コルネリウスとペトロのその大切な出会いを実現するために、大変重要な役割を果たしています。
主は、コルネリウスとペトロを最初から直接会わせるのではなく、彼らが出会うために、彼らの間の言わば“仲介役”として、その三人をお立てになったと、言うことができます。
私たちも新しく人と出会う時、その人を紹介してくれる人とか、私たちの出会いの間に立って仲介役を果たしてくれる人がいる場合が多くあると思います。
神はそのように、私たちがお互いに様々な人を通して、新たな出会いを私たちに与えてくださるのです。
そのような出会いを通して、神の福音が広がって行くことを神は望んでおられると、私は信じています。
私たちが教会に最初に来るのも、誰かに誘われてとか、教会に知っている人や友達がいたから、などの、人と人との繋がりによって導かれることが多いと私は思います。
私たちは、そのようにして与えられる新しい出会いの機会と、そのような出会いを通して福音が広がっていく恵みを感謝して、大切にしていきたいと願います。
三人が旅の途上にあった時、ヤッファという町にいたペトロは祈るために屋上に上がった、と書かれています。時間は昼の12時(正午)頃でした。その時間は、一日に三回ある祈りの時間の一つでした。
屋上で祈るということは、できるだけ一人静かになれる場所で祈るということです。一人になれる場所で、決まった時間に祈ることで、神様への祈りに思いを集中することができるのです。
できるだけ決められた時間に、できれば一人になれる場所で祈ることは、私たちの祈りを実りあるもの(神との親密な時間)にするために、とても効果的です。
祈りの時間を決めて、短時間でも一人で集中できる場所で、聖書の御言葉を通して短くても祈りの時を持つことで、祈りを私たちの生活の中心に置くことができます。
また、毎週日曜日に私たちがこうして集まる礼拝も、時間を決めて私たちは集まります。
時間を定めて、同じ場所に集まることで、そして事前に決められたプログラムにも従うことで、私たちは礼拝を信仰生活の中心に置こうと、意識して前もって準備をすることができます。
そして時間と場所が定まっているからこそ、私たちはこうしてお互いに出会い、顔を見て共に礼拝することができます。
定期的に集まること、そこで神を礼拝すること、共に祈ることを、私たちはこれからも大切にしていきたいと願います。
その時ペトロは空腹を覚えました。そこでペトロは我を忘れたようになって、一つの幻を見た、と書かれています。
11~12節をお読みします。
11天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
12その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
そして声がペトロに告げます。
「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさいGet up, Peter. Kill and eat.”」。
それはペトロにとって驚くべきことでした。なぜなら、その布の中にいたそれらの生き物は、それまでの聖書の律法で、ユダヤ人が決して食べてはいけないと教えられていた種類のものだったからです。
旧約聖書の『レビ記』の11章には、清いものとして食べてよいと定められた生き物と、汚れているものとして食べてはいけないと定められた様々な生き物に関する規定が書かれています。
現在でも厳格なユダヤ教の実践者は、その定めを守っている人もいます。
ペトロが見た幻の中の生き物は、それまで「食べてはいけない」と教えられてきた生き物ばかりでした。
ですからペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言ったのです。
「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」というペトロのその言葉には、彼自身を誇るような気持ちが込められているように思えます。
「私は守るべきことは、しっかりと守ってきました」という自意識です。
神の定められた決まりを私は自分の意志と力によってきちんと守っている、という思いがその時のペトロの心の中にはあったと私は思います。
しかし神から与えられた律法は、本来人を守り導くためのものです。それは人を神へと近づけるためのもの、無償でわたしたちに与えられる恵みです
人がそれを守ることで、自分の誇りとするために、律法が与えられているのではありません。
神はそのような私たちの思い、自分を誇る思いを、いつも打ち砕こうとされます。
私たちにとって大切なことは、自分の力により頼んで自分を誇るのではなく、私たちに与えられる神の恵みをただ感謝して受け取り、その恵みにより頼むことです。
私たちと神との真の出会いは、自分自身を誇り、自分により頼もうとする思いから、ただ神の恵みと力とを信じ、神により頼んで生きる生き方へと、私たちの生き方を変えていくのです。
ペトロが布の中に見た生き物は、確かにそれまでは神から“食べてはいけない”と定められていたものでした。
しかし、神は新しいことをその時起こそうとされていたのです。
イエス・キリストが弟子たちと地上に共におられたとき、イエス様は次のようにおっしゃっていました。
「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17~18)
イエス様のそのお言葉を通して、神は“何が人を本当に汚すのか”、それは人の悪い心から出て来る悪い思いである、と既に伝えておられたのです。
神は新しい大きな出来事をその時起こそうと計画しておられました。ですから、神はペトロに告げられました。
15節
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
そのことが三度も繰り返された、と今日の箇所には書かれています。ペトロがそれまで信じて来た「絶対、これらのものを食べてはいけない」という思いが、いかに強かったか、ということが私たちに分かります。
そして神がそんなペトロの思いを変えるために、いかに忍耐深く、何度も(三度も)ペトロに繰り返し語ってくださったのか、という神の恵みを私たちは教えられます。
ペトロはその幻がなんのことだろうかと一人で思案にくれていました。そこへコルネリウスから遣わされた人たちがペトロのいるところへやってきました。
”霊“がペトロに言いました。
「三人の者があなたを探しに来ている。
20立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」(19~20節)
“ためらわないで、一緒に出発しなさい”。霊(神の霊)の励ましを受けて、ペトロは彼らを迎え入れ、泊まらせた、と書かれています。
ペトロはその人たちを迎え入れ、自分のいた家に泊まらせました。ペトロはここで既に大きな一歩を踏み出しています。
後の箇所ではっきりと書かれていますが、その時ユダヤ人は、外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることも、律法で禁じられている、として決してしませんでした。
しかし神は幻を通して、そして霊の導きによって、ペトロに神の新しい計画を示そうとされたのです。聖霊の励ましによって、神はペトロを新しい道へ踏みださせようとしておられたのです。
それまでの食物規定は廃止され、真の神の恵みがユダヤ人を超えてすべての民に伝えられていく、世界中のあらゆる民が真の神を信じるという出来事が、これからまさに起きようとしているのです。
主は今の私たちに、私たちの教会にどのような新しい変化をご用意してくださっているのでしょうか。神のご計画、主のみ旨は本当に計り知れず大きくて私たちの想像をはるかに超えるものです。
わたしたちが思い描く、望む以上の素晴らしいご計画を主は私たちの教会にもお持ちであると私たちは信じることができます。
祈りと、聖書の御言葉、そして共に集まる礼拝を大切にして、主の示しを私たちは共に聞いて、頂いてまいりましょう。
そして必要であれば、神の霊が私たちをそのように導くのであれば、それまでの私たち(自分自身)が変えられることをも、私たちは恐れないでいようではありませんか。
私たちにこれから与えられる新しい出会いや、様々な出来事、新しいことへと向きあい、自分が変えられることをも恐れずに、私たちは示される主の御心に従っていきたいと願います。
2026年1月17日土曜日
2026年1月18日 主日礼拝
前奏
招詞 申命記31章6節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
献金
聖句 使徒言行録10章1~8節
祈祷
宣教 「絶えず神に祈る」
祈祷
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の舞台はカイサリアと言われた町です。カイサリアは、イスラエルの北西部の地中海沿岸にあった町です。
当時(今から約2,000年前)のカイサリアは、その時のローマ帝国によるユダヤ支配の拠点の一つでした。
カイサリアは、ユダヤの王であったヘロデ大王のもとで発展をとげた港町でした。「カイサリア」という名前は「カイサルの町」という意味なのです。
ローマ皇帝カイサルの名前から、その名前が付けられました。カイサリアを発展させ、またローマ皇帝にちなんで町の名前を「カイサリア」と名付けたのも、ヘロデ大王でした。
ヘロデ大王は、ローマ帝国からユダヤの王に任命されていました。ヘロデにとって、ローマ帝国からの後ろ盾は、王としての自分の立場と権力を維持するために欠かせないものだったのです。
そんな彼が、栄えた港町に皇帝の名前をつけて、いろいろとその町の整備を進めもしたのは、ローマ皇帝にできるだけ媚びを売り、ユダヤの王としての自分の立場を確かで強いものにしたいと願ったからだと思われます。
このヘロデ大王は、イエス様がお生まれになった時、エルサレムの東の方からやってきた占星術の学者たちから「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、不安になったということが伝えられています(マタイ2章)。
自分の安定した地位や立場が脅かされる、となれば、だれでもヘロデのように不安に思うでしょう。
ヘロデは、誰がその新しい王なのか、が分からないと、その時生まれた男の子を全員殺すようにと命令しました。
今の私たちキリスト者は、その時新しく生まれたユダヤの王が、世界の人々を罪から救うためにこられた真の王であり救い主イエス・キリストであったことを知っています。
しかしだからと言って、私たちはヘロデ王のことを、ただ愚かだと言って非難することは、私たちにはできないと私は思います。
私たちはイエス・キリストを真の王として、私たちの中心にお迎えしているかどうか、を常に吟味する必要があるからです。
ヘロデ大王のように、自分に代わって王となる者を殺すため、それが誰だか正確に分からないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんを全員殺す、という残忍なことは私たちはいたしません。
しかし、私たちが、救い主イエス・キリストを信じていると言いながら、もしイエス様を本当に自分の中心にお迎えして、そのお方に従って生きることを実践できていないのならば、どうでしょうか。
そうであれば、真の王であるお方を自分から排除している、という点で、ヘロデ王と変わらないのではないか、と思わされます。
ヘロデが町の名に帝国の皇帝の名をつけて、その人間の皇帝に媚びを売り、人間の皇帝からの後ろ盾に頼って自分を守ろうした弱さは、私たちも抱えているものです。
私たちは、その名が崇められ、称えられるべきお方は、イエス・キリストの主なる神だけであること、また私たちを本当に強くし、支えるものは、神のお力以外にない、ということを今一度確認したいと願います。
今日の箇所に、このカイサリアにいたコルネリウスという人が登場します。彼は「イタリア隊」と言われたローマの軍の部隊の百人隊長でした。
百人隊長は、数十人から百人の兵士から成る軍の隊の隊長でした。
実は福音書の中では、百人隊長と言われる人たちが何人か登場し、しかも彼らは重要な信仰を見せる人物として描かれています。
マタイ福音書の27章で、イエス様が最後に十字架の上で息を引き取られた時、それを目撃していた百人隊長が、他の人々と一緒に「本当に、この人は神の子だった」と言ったことが記されています(マタイ27章54節)。
彼は十字架の上で息を引き取られたイエス様を見て、“本当に、この人こそ神の子だった”という信仰の告白をした、と言ってもよいと私は思います。
ルカ福音書の7章の初めには、自分の部下の兵士が病気で死にかかっていたため、イエス様に自分のところへ来てくれるようにと頼んだ、ある百人隊長の様子が描かれています。
そこでその百人隊長は人をやってイエス様に次のように言わせました。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根にお迎えできるような者ではありません。。。。ただひと言おっしゃってください。。。。」と言って、神の御言葉に対する揺るぎない信頼を彼は見せました。
“あなたのお言葉さえ頂ければ、必ずその通りになります”という驚くべき信仰を、ユダヤ人ではない人たちが見せていたのです。
当時のユダヤ教の考えでは、ユダヤ人ではない人は異邦人であり、異邦人は神の恵みの対象外、だからユダヤ人は異邦人と交際をしてはいけないとさえ、考えられていました。
しかし、神はユダヤ人以外の異邦人をも選び、イエス・キリストを神の子と認める信仰を既に彼らにもお与えになっていたのです。
神が人となられたイエス様ご自身が、そのような人と人の間の壁、民族と民族、国と国との間に作られた隔ての壁を打ち壊し、平和を打ち立てるお働きをなさいました。
キリストを主と信じる私たちの間では、互いの間の様々な違いが争いや、互いに排除することが起こらないように、イエス様によって打ち立てられた平和を私たちの間で実現していきたいと願います。
今日の箇所で、その百人隊長について、何と言われているでしょうか。
その百卒長について言われていることは、2節に書かれている通り「彼は信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ということです。
彼はローマの軍隊の百人隊長でしたが、彼は真の将軍、王は主なる神であることを認めていたのです。
カイサリアという、ローマ皇帝の名を冠した町で、ローマの軍隊の隊長であった人が、神を真に恐れる生活を家族も一緒にしていた、というのは、驚きの事実です。
そして最も大切なことは、彼が“絶えず祈っていた”ということです。
“絶えず祈る”を、私は今日のメッセージの題といたしました。絶えず、いつも神に祈る、とは何と祝福された信仰の姿勢ではないでしょうか。祈ることができることは、私たちの信仰による最大の祝福の一つです。
祈りを通して、私たちは神に自分を委ねることができ、神にお話しをすることが許され、そして祈りを通して神が私たちに語ってくださるからです。
コルネリウスの祈りは、神を信じ神に委ねようとする祈りであったと私は信じます。また、絶えず祈るとは、あきらめずに祈り続ける、という生活です。
その百人隊長の祈りの中には、聞かれる(叶えられる)祈りも、聞かれない(叶えられない)祈りもあったと思います。
しかしそれでも、絶えず祈り続けることが、その百人隊長の生活の原動力になっていたのだと私は信じます。
彼は絶えず神を信じ、祈り続けたので、その彼の真摯な信仰は自分の家族にまで影響を及ぼしたのです。
コルネリアスがしていた多くの施しという行いも、絶えず神に祈ることで、祈りを通して神からいただく恵みと力に基づいていたのでしょう。
彼はそのような祈りの生活を通して“私たちが本当に畏れるべきは、人間の権力者であるローマ皇帝ではなく、真の神である”という信仰が与えられていたのです。
私たちも、神こそ畏れるお方であることを知り、神の前にへりくだり、自らを低くし、人は神のように畏れ敬う対象ではない、ということを知っていきたいと願います。
コルネリウスに、ある日の午後三時ごろ、神の天使が呼びかけました。午後の三時は、ユダヤ教の祈りの時間の一つでした。
コルネリウスは常に、規則正しく、真摯な信仰習慣としての祈りを捧げていたのだと理解してよいと私は思います。
神の天使が“コルネリウス”、と彼に呼びかけました。その時、彼は怖くなった、と書かれています。
神から(天使から)直接声によって呼びかけられて、彼は恐れたのです。しかし、コルネリウスは「主よ、何でしょうか」と聞きました。
通常の出来事、普通の感覚を超えた出来事に、コルネリウスは恐れつつも、“主よ、何でしょうか”と神の御心を尋ねようとしました。
私たちも、どのような時にも”主よ、何でしょうか“と言って、主の御心をいつも尋ねて、御心に従い行く生き方をしたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“彼の祈りと施しは神の前に届いて覚えられた”と告げました。
コルネリウスは祈りの生活を通して神と豊かな関係を結び、神から頂く恵み、神からいただく愛によって、彼は多くの施しを他者にすることができました。
コルネリウスが他者に豊かに施して、与えることができたのは、それは彼自身が有り余る恵みと愛、力を神から頂いていたからです。コルネリスに神の恵みと愛、神の力の自覚があったからです。
私たちの信仰の源、信仰の実践の源は、主なる神から私たちが頂く恵みと愛と力です。神から頂く恵みと愛と力とを、私たちは常に私たちの信仰の原動力としていきたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい”と言いました。
ユダヤ人であり、イエス・キリストの使徒であったペトロと、ローマの百人隊長であるコルネリウスとの出会いが、その時神のご計画の中で進められていたのです。
今日の箇所以降で、彼らの出会いが、神の救いがユダヤ人以外の異邦人にも開かれており全ての人々に開かれている、ということを明らかにするものとして、展開していきます。
私たちにも、色々な人との出会いが与えられています。神が大いなるそのご計画の中で、私たち人同士の出会いを導いてくださっているのだと、私たちは信じることができると私は思います。
また私たちの間で起こる出会い、神によって起こされるその出会いの一つ一つが、神の大きな御計画の一部をなしている、と思うと、私たちは非常に力づけられる思いがいたします。
神によって与えられる出会いを、私たちは大切にしていきたいと願います。
そして私たちは祈りの生活を通して、御言葉に聞き従う生き方を日々していきたいと願います。
絶えず祈り神の言葉を聞く事によって、新たな示し、また新たな出会いが与えられることもあるでしょう。
これから先、神が私たちに用意してくださっているご計画と導きに期待をし、神に信頼をして、私たちは歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 申命記31章6節
賛美 新生讃美歌120番 主をたたえよ 力みつる主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
献金
聖句 使徒言行録10章1~8節
祈祷
宣教 「絶えず神に祈る」
祈祷
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日の聖書箇所の舞台はカイサリアと言われた町です。カイサリアは、イスラエルの北西部の地中海沿岸にあった町です。
当時(今から約2,000年前)のカイサリアは、その時のローマ帝国によるユダヤ支配の拠点の一つでした。
カイサリアは、ユダヤの王であったヘロデ大王のもとで発展をとげた港町でした。「カイサリア」という名前は「カイサルの町」という意味なのです。
ローマ皇帝カイサルの名前から、その名前が付けられました。カイサリアを発展させ、またローマ皇帝にちなんで町の名前を「カイサリア」と名付けたのも、ヘロデ大王でした。
ヘロデ大王は、ローマ帝国からユダヤの王に任命されていました。ヘロデにとって、ローマ帝国からの後ろ盾は、王としての自分の立場と権力を維持するために欠かせないものだったのです。
そんな彼が、栄えた港町に皇帝の名前をつけて、いろいろとその町の整備を進めもしたのは、ローマ皇帝にできるだけ媚びを売り、ユダヤの王としての自分の立場を確かで強いものにしたいと願ったからだと思われます。
このヘロデ大王は、イエス様がお生まれになった時、エルサレムの東の方からやってきた占星術の学者たちから「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、不安になったということが伝えられています(マタイ2章)。
自分の安定した地位や立場が脅かされる、となれば、だれでもヘロデのように不安に思うでしょう。
ヘロデは、誰がその新しい王なのか、が分からないと、その時生まれた男の子を全員殺すようにと命令しました。
今の私たちキリスト者は、その時新しく生まれたユダヤの王が、世界の人々を罪から救うためにこられた真の王であり救い主イエス・キリストであったことを知っています。
しかしだからと言って、私たちはヘロデ王のことを、ただ愚かだと言って非難することは、私たちにはできないと私は思います。
私たちはイエス・キリストを真の王として、私たちの中心にお迎えしているかどうか、を常に吟味する必要があるからです。
ヘロデ大王のように、自分に代わって王となる者を殺すため、それが誰だか正確に分からないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんを全員殺す、という残忍なことは私たちはいたしません。
しかし、私たちが、救い主イエス・キリストを信じていると言いながら、もしイエス様を本当に自分の中心にお迎えして、そのお方に従って生きることを実践できていないのならば、どうでしょうか。
そうであれば、真の王であるお方を自分から排除している、という点で、ヘロデ王と変わらないのではないか、と思わされます。
ヘロデが町の名に帝国の皇帝の名をつけて、その人間の皇帝に媚びを売り、人間の皇帝からの後ろ盾に頼って自分を守ろうした弱さは、私たちも抱えているものです。
私たちは、その名が崇められ、称えられるべきお方は、イエス・キリストの主なる神だけであること、また私たちを本当に強くし、支えるものは、神のお力以外にない、ということを今一度確認したいと願います。
今日の箇所に、このカイサリアにいたコルネリウスという人が登場します。彼は「イタリア隊」と言われたローマの軍の部隊の百人隊長でした。
百人隊長は、数十人から百人の兵士から成る軍の隊の隊長でした。
実は福音書の中では、百人隊長と言われる人たちが何人か登場し、しかも彼らは重要な信仰を見せる人物として描かれています。
マタイ福音書の27章で、イエス様が最後に十字架の上で息を引き取られた時、それを目撃していた百人隊長が、他の人々と一緒に「本当に、この人は神の子だった」と言ったことが記されています(マタイ27章54節)。
彼は十字架の上で息を引き取られたイエス様を見て、“本当に、この人こそ神の子だった”という信仰の告白をした、と言ってもよいと私は思います。
ルカ福音書の7章の初めには、自分の部下の兵士が病気で死にかかっていたため、イエス様に自分のところへ来てくれるようにと頼んだ、ある百人隊長の様子が描かれています。
そこでその百人隊長は人をやってイエス様に次のように言わせました。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根にお迎えできるような者ではありません。。。。ただひと言おっしゃってください。。。。」と言って、神の御言葉に対する揺るぎない信頼を彼は見せました。
“あなたのお言葉さえ頂ければ、必ずその通りになります”という驚くべき信仰を、ユダヤ人ではない人たちが見せていたのです。
当時のユダヤ教の考えでは、ユダヤ人ではない人は異邦人であり、異邦人は神の恵みの対象外、だからユダヤ人は異邦人と交際をしてはいけないとさえ、考えられていました。
しかし、神はユダヤ人以外の異邦人をも選び、イエス・キリストを神の子と認める信仰を既に彼らにもお与えになっていたのです。
神が人となられたイエス様ご自身が、そのような人と人の間の壁、民族と民族、国と国との間に作られた隔ての壁を打ち壊し、平和を打ち立てるお働きをなさいました。
キリストを主と信じる私たちの間では、互いの間の様々な違いが争いや、互いに排除することが起こらないように、イエス様によって打ち立てられた平和を私たちの間で実現していきたいと願います。
今日の箇所で、その百人隊長について、何と言われているでしょうか。
その百卒長について言われていることは、2節に書かれている通り「彼は信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ということです。
彼はローマの軍隊の百人隊長でしたが、彼は真の将軍、王は主なる神であることを認めていたのです。
カイサリアという、ローマ皇帝の名を冠した町で、ローマの軍隊の隊長であった人が、神を真に恐れる生活を家族も一緒にしていた、というのは、驚きの事実です。
そして最も大切なことは、彼が“絶えず祈っていた”ということです。
“絶えず祈る”を、私は今日のメッセージの題といたしました。絶えず、いつも神に祈る、とは何と祝福された信仰の姿勢ではないでしょうか。祈ることができることは、私たちの信仰による最大の祝福の一つです。
祈りを通して、私たちは神に自分を委ねることができ、神にお話しをすることが許され、そして祈りを通して神が私たちに語ってくださるからです。
コルネリウスの祈りは、神を信じ神に委ねようとする祈りであったと私は信じます。また、絶えず祈るとは、あきらめずに祈り続ける、という生活です。
その百人隊長の祈りの中には、聞かれる(叶えられる)祈りも、聞かれない(叶えられない)祈りもあったと思います。
しかしそれでも、絶えず祈り続けることが、その百人隊長の生活の原動力になっていたのだと私は信じます。
彼は絶えず神を信じ、祈り続けたので、その彼の真摯な信仰は自分の家族にまで影響を及ぼしたのです。
コルネリアスがしていた多くの施しという行いも、絶えず神に祈ることで、祈りを通して神からいただく恵みと力に基づいていたのでしょう。
彼はそのような祈りの生活を通して“私たちが本当に畏れるべきは、人間の権力者であるローマ皇帝ではなく、真の神である”という信仰が与えられていたのです。
私たちも、神こそ畏れるお方であることを知り、神の前にへりくだり、自らを低くし、人は神のように畏れ敬う対象ではない、ということを知っていきたいと願います。
コルネリウスに、ある日の午後三時ごろ、神の天使が呼びかけました。午後の三時は、ユダヤ教の祈りの時間の一つでした。
コルネリウスは常に、規則正しく、真摯な信仰習慣としての祈りを捧げていたのだと理解してよいと私は思います。
神の天使が“コルネリウス”、と彼に呼びかけました。その時、彼は怖くなった、と書かれています。
神から(天使から)直接声によって呼びかけられて、彼は恐れたのです。しかし、コルネリウスは「主よ、何でしょうか」と聞きました。
通常の出来事、普通の感覚を超えた出来事に、コルネリウスは恐れつつも、“主よ、何でしょうか”と神の御心を尋ねようとしました。
私たちも、どのような時にも”主よ、何でしょうか“と言って、主の御心をいつも尋ねて、御心に従い行く生き方をしたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“彼の祈りと施しは神の前に届いて覚えられた”と告げました。
コルネリウスは祈りの生活を通して神と豊かな関係を結び、神から頂く恵み、神からいただく愛によって、彼は多くの施しを他者にすることができました。
コルネリウスが他者に豊かに施して、与えることができたのは、それは彼自身が有り余る恵みと愛、力を神から頂いていたからです。コルネリスに神の恵みと愛、神の力の自覚があったからです。
私たちの信仰の源、信仰の実践の源は、主なる神から私たちが頂く恵みと愛と力です。神から頂く恵みと愛と力とを、私たちは常に私たちの信仰の原動力としていきたいと願います。
神の天使はコルネリウスに、“今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい”と言いました。
ユダヤ人であり、イエス・キリストの使徒であったペトロと、ローマの百人隊長であるコルネリウスとの出会いが、その時神のご計画の中で進められていたのです。
今日の箇所以降で、彼らの出会いが、神の救いがユダヤ人以外の異邦人にも開かれており全ての人々に開かれている、ということを明らかにするものとして、展開していきます。
私たちにも、色々な人との出会いが与えられています。神が大いなるそのご計画の中で、私たち人同士の出会いを導いてくださっているのだと、私たちは信じることができると私は思います。
また私たちの間で起こる出会い、神によって起こされるその出会いの一つ一つが、神の大きな御計画の一部をなしている、と思うと、私たちは非常に力づけられる思いがいたします。
神によって与えられる出会いを、私たちは大切にしていきたいと願います。
そして私たちは祈りの生活を通して、御言葉に聞き従う生き方を日々していきたいと願います。
絶えず祈り神の言葉を聞く事によって、新たな示し、また新たな出会いが与えられることもあるでしょう。
これから先、神が私たちに用意してくださっているご計画と導きに期待をし、神に信頼をして、私たちは歩んでいこうではありませんか。
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