2025年5月31日土曜日

2025年6月1日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編16篇2節
賛美  新生讃美歌105番 くしき主の光
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌262番 み霊よくだりて
献金
聖句 使徒言行録2章22~31節
祈祷
宣教 「命に至る道を示されて」
祈祷
賛美 新生讃美歌86番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書の箇所は、使徒言行録2章の中間の部分です。この2章の初めには、五旬祭(ペンテコステ)と言われるユダヤ教の、収穫感謝の祝日の日に、集まっていた弟子たちに聖霊が降ったことが描かれています。
 神の霊である聖霊がキリストの弟子たちに降ったペンテコステの日を出来事を祝う礼拝を、私たちは来週(6月8日)に持ちます。
聖霊が弟子たちに降ったペンテコステの出来事は、そこからキリスト教会が誕生した、と言われる出来事でもあります。
 なぜなら、聖霊を受けた弟子たちが、その時色々な国の言葉で神の偉大な業、について語り始めたからです。
 現在のキリスト教会も、神の偉大な業を語ること、伝えることが神様から託されています。そして教会は、その神の業を、私たちの周りの社会、世界へと向けて語るのです。

神の偉大な御業、そして神の愛と恵みについて語り伝えるという、教会としてのその働きが始まったのが、ペンテコステの日なのです。
今日の箇所は、そのペンテコステの出来事の時、集まっていた多くの人たちに向けて語りだしたペトロの話(説教)の続きです。
今日の箇所の初めの22節をお読みします。

 22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

 ペトロがここで最初に言っていることは「ナザレの人イエスは神から遣わされたお方です」ということです。
  “神から遣わされたお方、すなわち神に等しいお方がナザレの人であった”、ということは、その時にペトロの話を聞いていたユダヤ人たちにとっては受け入れがたいことでした。
ナザレというのは、イスラエルの北にあるガリラヤと言われた地域の中の小さな村です。イエス様はそこでお育ちになりました。
 マタイ福音書によれば、イエス様はユダヤのベツレヘムという町でお生まれになりました。
 その時ユダヤの王であったヘロデ王が、”自分に代わる新しい王が生まれた“という知らせを(東の方から来た学者たちから)聞いて、その子を見つけ出そうとします。

しかしその子を見つけることができず、結局ヘロデ王がベツレヘム一帯にいた二歳以下の男の子を全員殺させるという、大変残忍な出来事が起きました。
 ヘロデのその虐殺を逃れるために、イエス様の父のヨセフと、ヨセフの妻マリア、そして赤ちゃんのイエス様はエジプトへと逃れます。
  そしてヘロデが死んだ後、ヨセフたちはイスラエルへ戻ってきましたが、ベツレヘムではなく、ガリラヤ地方のナザレで住むようになったと聖書に書かれています。(マタイ2章)。
 そのナザレは、ガリラヤの中でも小さな村で、他の地域の人たちからは、蔑まれていました。そのことは、例えばヨハネ福音書の中の次の箇所からも分かります。
 ヨハネ福音書の1章43節からの場面で、フィリポ(後の12弟子の一人)がイエス様に出会います。

フィリポはイエス様が神の子であると信じ、イエス様に従いました。そしてフィリポはナタナエルという自分の仲間に、イエス様のことを伝えます。
しかしその時ナタナエルがこう言います。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(でるはずがない)」(ヨハネ1:46)。
イエス様の生きた当時、それほどナザレという村は、他の場所の人たちから、ガリラヤの中でさえも特に見下され、蔑まれていたということです。
 しかし、神の子であるイエス様は、神のご計画によって、そのナザレでお育ちになり、「ナザレの人イエス」と呼ばれるようになりました。
 人の目から見れば“ナザレから何か良いものが出るだろうか(出るはずがない)”と思われていたナザレが、神によって選ばれ、神の子が人としてお育ちになる、という大変特別な場所となったのです。
  当時のユダヤの人々がナザレに対して抱いていたような蔑みと差別の思いを、今の私たちも何かに(誰かに)対して持っているかもしれません。それが人の罪の一つです。
 しかし、人からは蔑まれているものが、神の目には尊いものとされ、特別に用いられるということを覚え、私たちは自分の心の中の差別や偏見の罪にも気づき、悔い改めたいと願います。
ペトロは、ナザレの人イエスは、神の業をなさったけれども、人の罪のために十字架にかけて殺された、と話します。

ペトロは「あなたがたが、イエス様を十字架にかけて殺した」とまで言って(23節)、イエス様はペトロ自身をも含む、全ての人の罪のために十字架にかけられた、ということを述べます。
 そしてペトロは、十字架にかけられて殺されたイエス様が、死の苦しみから解放されて、復活させられた、と述べます。キリストの復活をペトロは力強く述べたのです。
この時、なぜペトロにここまでの確信があったのでしょうか。
それはまず、ペトロ自身が復活のイエス様にお会いしたからです。そしてペトロには、聖書の御言葉による確信もその時与えられていました。
ペトロは、旧約聖書の『詩編』に記されたダビデによる詩編を引用して、次のように話し始めます。

今日の箇所の25節をお読みします。これは詩編16篇からの引用です。
25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。

(もう一度)
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。

この主(the Lord)とは、主なる神です。そしてこの”主“とはイエス・キリストのことだ、とペトロは断言するのです。つまり、イエス様は主であり、神である、ということです。
 「わたしは、いつも目の前に主を見ていた」~ダビデによるこの詩編の言葉に、ペトロは、イエス様が生きている間に、ずっと自分と一緒にいてくださった時のことを重ねて思い出していたでしょう。
 “イエス様がただの人間でしかなったのならば、主が一緒にいてくださった時、決してあのような安心感と平安は得られなかったはずだ”と、ペトロは思い出していたのだと私は想像します。
 弟子たちがイエス様と一緒に船に乗り込んで湖にこぎ出した時、激しい嵐にあって、舟が沈みそうになった時がありました。
 その時弟子たちは恐れましたが、イエス様が風と湖とをお叱りになると嵐が止まりました。ペトロは、そのように嵐をも静めたイエス様の姿を思い出していたかもしれません。
 主が共にいてくだされば、主が私たちと共におられるならば、私たちは決して動揺しないのです。
 どんなに激しい嵐にも、主イエス様の御言葉の力の前には、私たちを屈服させる力はないからです。
 ですから、どんなに苦しい、不安な状況であっても、まず主なる神であるイエス様にその状況を私たちはお委ねして、イエス様に自分を支えていただきましょう。
 主が私たちを支えてくださる~聖書が伝えるその約束に、私たちは信頼していこうではありませんか。

27~28節をお読みします。
27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
28あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 ペトロは、彼自身この言葉を語りながら、自分の霊的な命が生き返ることを経験していたのだと私は思います。
 ペトロは霊的には一度死んでいたと言えます。イエス様が生きておられた時、ペトロはイエス様に大きな望みをかけていましたが、最後イエス様が捕まった時には彼はイエス様を捨てて逃げてしまいました。
  彼は信仰的に完全に一度躓き、霊的に死んだのです。しかし復活の主に出会い、主のお言葉によって励まされることで、ペトロは再び立ち上がって霊的な自分自身の復活を経験したのです。
 そしてイエス様こそが”命に至る道”、全ての人がその道を通って神と共に生きる永遠の命へと至る道なのだ、ということが、まさに詩編のその言葉の通り、ペトロにも示されたのです。
 私たちにも、真の命に至る道がイエス様によって示されました。イエス様がその道そのものであるのです。
  イエス・キリストという命の道を歩く限り、私たちから神と共にある喜びと恵みを奪うものは何もありません。

 神の御前から離れることなく、キリストと言う命に至る道を歩くならば、わたしたちは喜びで満たされるのです。 
 今も御言葉によって示されるイエス・キリストという命の道を、私たちは共に信仰をもって歩んでまいりましょう。

 詩編16篇10節からの引用の言葉を含む、今日の30~31節をお読みします。
30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
31そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。

 ダビデの詩編の言葉を通して、このように約束されていました。ダビデの子孫の一人としてお生まれになるお方が、真の王としてお生まれになる、というのです。
 そして人はその罪により、キリストであるお方を十字架にかけて殺してしまうけれども、キリストは、死の領域に置かれたままではおられない、というのです。
  ダビデの言葉を通して語られていた通りのそのお方が、ナザレのイエスであった、とペトロは確信し、彼はそのことをはっきりと語りました。
  人として確かに生きられたイエス様が神であって、そのお方が人の罪を背負った苦しい死を経験され、そして復活させられたのです。

 聖書によって、そのお方が死んだままではおられない、と預言されていた通り、イエス様は死んだままではおられず、復活なさったのです。
ここで、今日の箇所の最初の22節に戻ります。
神は、イエス様を通して、色々な奇跡と、不思議な業(わざ)、しるしを行い、それらによってイエス様が神から遣わされた方であることを証明なさった、と書かれています。
 私たちも、信仰の目を開いて、今も復活の主がなさってくださっている数々の奇跡、御業、しるしに目を留めたいと願います。
私たちがこうして同じ信仰を持ち、キリストによって呼び集められて、共に礼拝をささげることができるのも、大きな奇跡(神の恵み)ではないでしょうか。
偉大なる神の御業を信仰の目によって認め、主キリストの力によって私たち共に生かされてまいりましょう。
私たちが、たとえどれほど苦しい状況に置かれようとも、希望や光が私たちには見えないと思える時でも、死んだままではおられない、復活の主イエス・キリストが、死からよみがえった力をもって私たちをいつも支えてくださいます。
主がいつも共にいてくださいます。ですからわたしたちは恐れたり、動揺したりする必要はないのです。主にすがり、主に依り頼みつつ、新しい週の日々も生きてまいりましょう。

2025年5月24日土曜日

2025年5月25日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書60章20節
賛美  新生讃美歌16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌320番 輝いて生きる
信仰告白
献金
聖句 使徒言行録2章14~21節
祈祷
宣教  「主の名を呼び求める者は皆、救われる」
祈祷
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏

 先週私たちが礼拝の中で分かち合った聖書の箇所は、今日の箇所の前の部分である、使徒言行録2章1~13節でした。
使徒たち(イエス・キリストの弟子たち)が一つになって集まっていた所へ、激しい風と炎のような舌という形で聖霊が現れ、聖霊が弟子たち一人一人の上に降りました。
その日は五旬節(ペンテコステ=ユダヤ教の収穫祭)の日であったので、その出来事はペンテコステの出来事、と言われます。
ペンテコステの日、聖霊が弟子たちに降り、彼らは色々な国の言葉で神の偉大な業を語りだしました。

彼らが神の偉大な業を色々な国の言葉で語ったということは、神の言葉と神の偉大な業は、世界のあらゆる国や地域へ届けられねばならない、ということの表れでした。
神の偉大な業を世界に向けて語るというその働きは、今もまだ継続してなされています。その働きを託されているのが、キリスト教会です。
教会は、神の偉大な業、神の言葉を信じる者がそこに集まり、私たちが神の言葉によって癒され、慰められ、そして強められるところでもあります。
教会は私たちが自らの罪をイエス・キリストを通して示されて、悔い改めて(神に立ち返り)、キリストによって赦されたことを知り、喜び、その喜びを共に分かち合う場所です。
そして教会は、イエス・キリストの赦しと恵みの知らせを、私たちの中だけにとどめておくのではなく、それぞれの教会が遣わされた地域へと伝えるようにという働きをも、託されています。

教会がイエス・キリストの福音を伝える重要な働きとして、御言葉の説教(礼拝メッセージ)があります。
礼拝の中で語られる説教(メッセージ)の働きは、通常はその教会の牧師が教会員から委託されて、その働きを担います。
しかし、メッセージを実際に語るのは牧師(牧師以外の信徒が宣教を託され、メッセージを取り次ぐ時もあります)だとしても、礼拝という公の集会で語られるメッセージは、決してそれを語る者の個人的なメッセージではありません。
 そのことが、今日の聖書箇所の初めの部分にも、よく示されています。

今日の箇所では、ペトロ(イエス・キリストの一番弟子だった)が、人々に向かって語りかけます。
それはキリスト教会最初の説教(メッセージ)と言ってもよい語りかけでした。
 父なる神が約束の聖霊を弟子たちに送り、そこでペトロが立ち上がったのです。
それは、ペトロが弟子たちの中でも優秀だったから、とりわけ強い信仰を彼が持っていたから彼が選ばれた、というのではありませんでした。
 キリストの一番弟子でありながら、主を裏切って逃げてしまった、という恥ずかしい経験(みんなそのことを知っていたでしょう)を彼は持っていました。
それでもそんなペトロが主によって選ばれ、赦されて、神の言葉を語る者として立てられたのです。

 今日の箇所の最初の14節を見てみましょう。
 14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。
 14 Then Peter stood up with the Eleven, raised his voice and addressed the crowd:

ペトロは十一人(他の使徒たち)と共に立って、話し始めたのです。実際に語ったのはペトロでしたが、彼は一人ではありませんでした。
彼はその場にいた十二人の使徒(ペトロを含めて)の代表として立ち上がり、話し始めたのです。
 ペトロは、まずイエス・キリストによる聖霊の力を受けて、そして彼と共にいた仲間の使徒たちの祈りと支えの中で立ち上がり神の言葉を語ることができた、ということです。
 教会の牧師のメッセージもこれと一緒だなと、私はここで改めて思わされました。実際にこうして語るのは牧師一人です。
 しかし教会の牧師のメッセージは、教会員一人一人の祈りと支えによって、そしてその教会が神から託された言葉として語られます。ですから、礼拝メッセージは、教会に繋がる私たち(皆さん)一人一人が共に造り上げるものです。
 ですから、特に教会員の皆さん、クリスチャンの皆さんは、「わたしはメッセージを聞く人」という思いだけでなく、語られるメッセージと説教者のために常に祈ってください。
「わたしも説教者と共に祈り、準備し、一緒に語っている」という思いをも皆さんには共有していただきたいと、私は希望いたします。
 
 15節でペトロがこう言っています。

 「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」
 15 These people are not drunk, as you suppose. It’s only nine in the morning!
 
ペトロがこう言ったのには理由がありました。それは、今日の前の箇所で、弟子たちが聖霊を受けて色々な国の言葉で語りだした時、次のように言って彼らを嘲った人たちがいたのです。
「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2章13節)。
 “They have had too much wine.” (v.13)

“いろいろな国の言葉で彼らは話しているようにみえるが、実際はお酒に酔って、意味のない言葉をしゃべっているだけだ”と思った人たちが、その時いたのです。
 そう言った人たちに対してペトロが語りました。ペトロは、その人たちに怒りを持って反発したのではなく、神様の言葉に基づいて冷静に(愛を持って)語りました。
 神の言葉に基づいて冷静に愛を持って語る、という点は今の私たちにとってもとても大切なことだとわたしは思います。
 ペトロが言ったことは次の通りでした。
 その時はまだ朝の9時であったこと。だから通常こんなに多くの人が一緒にお酒を飲むような時間ではない、ということです。
 朝の9時は、ユダヤ教で一日三回ある祈りの時間(朝、正午と夕方)の最初の時間でした。
 ですから“普通に考えれば、朝の最初の祈りの時間に、私たちがお酒に酔っているのではないことは、しっかりと私たちを見てもらえれば分かるはずです”とペトロは冷静に説明したのです。
 そしてペトロは、聖書(旧約聖書)の中から、その日の出来事が起こることが書かれていた箇所を引用して、神の言葉に基づいて、その出来事を説明しました。

17節から21節までの言葉は、旧約聖書の『ヨエル書Joel』3章1~5節の言葉でした。
そこには、”神が神の霊をすべての人に注ぐ”、と書かれていました。

そこには、すべての人に神の霊が注がれ、息子と娘(男性も女性も)は預言し(神の言葉を語り)、若者も老人も幻と夢(ビジョン)を見る、と書かれていたのです。
神の霊を受けたあらゆる人々が神の言葉をそれぞれの言葉で語りだす、ということです。
教会では、礼拝の中ではメッセージを説教者(牧師)が代表して語ります。しかし、神は霊によって心動かされた全ての人を通しても語ってくださることが、今日の箇所からも私たちにわかります。
ですから私たちは教会で互いの声に耳を傾け、互いの心を理解しようと常に努めることがとても重要なのです。

なぜなら、皆さんそれぞれが主の預言者として、神の言葉を語る可能性があるからです。
 特に私たちバプテスト教会では、互いの声に聞き合い、一人一人の思いと意見を受け止め合うことを大切にしています。
 そのような過程を通した祈りと話し合いを通して神の御心を私たちは求めていこうとするのです。
私たちは互いに神の家族として結び合わされるようにと、同じ教会に集められました。主の言葉の預言者として、私たちお互いを尊重し、互いの声に耳を傾け合おうではありませんか。
今日の19節~20節では、“血と火と立ち込める煙が上がる”、そして“主の偉大な輝かしい日が来る前、太陽は暗くなり、月は血のようになる”と書かれています。
そこでは、困難な苦しい時代が来ると預言されているのです。神を信じる信仰者にとっても、教会にとっても、この世界には苦しく悲しい現実、争いや困難があるのです。

いつの時代にも、またどんな人の人生にも、困難と苦しみがあります。しかし、その中で、わたしたちには変わらぬ希望が与えられているのです。
今日の箇所の最後21節の言葉、今日のメッセージの題にもした言葉をお読みします。
21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
21 And everyone who calls
on the name of the Lord will be saved.’

 “主の名を呼び求める”とは、主なる神イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して神の恵みに生かされて、常にその主に祈り、主に依り頼む、ということです。
 私たちの目には、色々なことが間違っている、正しくない方向へと向かっているように見えるかもしれません。
悲惨で悲しい出来事で世界は溢れている、そのような現実もあります。しかし、この世界をお造りになった主なる神の救いの計画は、イエス・キリストを通して現わされたのです。
“キリストを信じ、主キリストの名を呼び求める者、主により頼むものは皆救われる、苦しみの中にも救いと希望がある”~これが聖書の約束です。
 私たちキリスト教会は、聖書のこの約束の希望の言葉を、困難な現実の世界の中で、常に語り続けるのです。
神様から力を頂き、共にいてくださる神とともに、その働きをこれからも担い続けてまいりましょう。
そして教会に連なる私たち一人一人が、同じイエス・キリストの御名を崇め、御名を信じ、共にキリストの名を呼び求めてまいりましょう。

2025年5月17日土曜日

2025年5月18日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書32節15節
賛美  新生讃美歌 3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
賛美  新生讃美歌 320番  輝いて生きる
献金
報告と証し
聖句  使徒言行録2章1~13節
祈祷
宣教  「それぞれの言葉で」
祈祷
賛美  新生讃美歌272番 神の息よ
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 「五旬祭(ペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると」という一文で、今日の聖書箇所は始まります。
 “五旬祭(ペンテコステ)”とは、“50日目”を意味するギリシア語で、過越しの祭りの7週間後(つまり50日後)に、この祭りが定められていたことから、そのように名付けられました。
旧約聖書の中では、それは”七週祭“という名前の祭りです。それについて次のように書かれています。
『申命記』16章9~10節をお読みします。

9あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始めて七週を数える。
10そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。

“過越しの祭り”は、イスラエルの民たちが、約400年間奴隷状態であったエジプトから神の恵みによって救い出された出来事を記念し、感謝する祭りです。
過越祭は現在もユダヤ教では大変重要な祝祭の一つです。
そして過越しから数えて七週目には、神が与えてくださる収穫への感謝の意味を込めて七週祭を守るようにと、神からイスラエルの民たちに戒めが与えられたのです。
先ほどお読みした申命記の箇所には「あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい 」と書かれていました。
神がエジプトでの奴隷状態(囚われの状態)からイスラエルの民たちを救い出してくださり、そしてそれからもずっと、生きるために必要な糧を与えてくださることに感謝をして、イスラエル民たちは自発的な感謝の献げ物をするようにと命じられたのです。
 今のキリスト教会では、ユダヤ教の過越祭や七週祭りを祝うことはいたしません。

しかし、神が私たちを罪から救い出してくださったことと、常に必要な日常の糧を与えてくださることに感謝をし、できるだけの自発的献げ物をする、ということは今のキリスト者にとっても変わらず大切なことです。
申命記16章の七週祭に関する箇所を、もう少し続けてお読みします。申命記16章11~12節をお読みします。

11こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。
12あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。

 神はイスラエルの民たちに、“神の救いと恵みを、あなたたちと共にいるあらゆる人たちと一緒に、喜び祝いなさい”、と言われたのです。
 そしてかつて自分たちがエジプトで奴隷であったこと、そこから神によって救い出されたことを決して忘れないようにしなさい、と神はイスラエルの民たちに命じられました。
 神によって救われたことを常に忘れずに感謝をして、そして神の恵みを多くの人と分かち合うようにという教えは、今のキリスト者にとっても変わらない本当に大切な教えです。
キリスト者は、かつての罪による囚われの状態から、神の恵みによって赦され救われた者です。
 ですから、神の恵みに感謝をし、心から自発的に捧げものをし、神の恵みを多くの人たちに伝え、その恵みを分かち合うことを私たちは望み、そのことを大切にしたいと願います。

今日の箇所は、復活のイエス様が天に上げられ、そしてその後12使徒の一人であったユダに代わってマティアが選ばれて新しく使徒とされた出来事の後の箇所です。
五旬祭(ペンテコステ)の日に、一同が一つになって集まっていました(1節)。彼らは共に集まって祈り合っていたのだと思います。彼らは感謝の献げ物もしていたでしょう。
 そこで突然、激しい風のような音が天から聞こえ、彼らのいた家中に響き、そして炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった、と書かれています(2~3節)
この出来事が“聖霊降臨”と言われる出来事です。ペンテコステは、教会の暦では、今年は6月8日の礼拝で記念し、お祝いいたします。
激しい風、そして炎のような舌とは、神の霊である聖霊がその時使徒たちに降った徴(しるし)でした。
イエス様が“父の約束された聖霊を待ちなさい”と命じて、聖霊が使徒たちに与えられることを約束なさったとおりに、聖霊がついに弟子たちに降ったのです。
そして、聖霊が神を信じる者“一人一人にとどまった”というところが重要です。
聖霊は、ある特定の特別な信仰者にだけ与えられるのではないのです。聖霊は、神を信じる者に等しく与えられるものなのです。

そもそも神を信じることができること、イエス・キリストが主であり神であると信じることができること自体が、聖霊が可能にすることです。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とコリントの信徒への手紙一の12章3節に書かれています。
聖霊は信じる者に等しく与えられるものですが、その聖霊によって与えられる一人一人の賜物は、それぞれ違います。私たち一人一人に、それぞれ違った賜物が与えられます。
同じ1コリント12章に「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です 」(4節)と書かれ、「一人一人に“霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)とも書かれています。
 神は私たち一人一人に聖霊を通して異なる賜物をお与えになります。それはお互いがその賜物を献げあって、互いに思いを一つにして、私たち全体の益となるためなのです。
それはつまり、私たちは互いの賜物を献げあって、常に神に栄光をお返しするためです。

今年度の私たちの教会の年間主題は「全て主なる神の栄光のために」です。
私たちは互いに与えられた霊の賜物を認め合って、思いと心を一つにして、神の栄光のための働きを共にしていこうではありませんか。
 今日の箇所では、その場にいた一人一人に霊の火がとどまり、そして彼らはそれぞれ色々な国の言葉で話し出しました。
 5節によれば、その時エルサレムには、“天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダ人が住んでいた”と書かれています。
 そのユダヤ人たちとは、かつて旧約聖書の時代に、イスラエル、ユダヤが外国に支配されたので、国を追われて遠く色々な国々へと移り住まわされていったユダヤ人たちの子孫のことでした。
 彼らは父祖の国イスラエルと戻って来た人たちでした。
彼らは自分たちが生まれた故郷の国の言葉が、エルサレムの信者たちによって話されている様子にあっけにとられた、と6節に書かれています。

 彼らは次のように言って驚いています。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(7~8節)

ガリラヤはイスラエルの中でも田舎であり、そこにいる人たちは無学な人たちだと思われていました。
ペトロたち使徒たちの多くはガリラヤ出身だったので、彼らが知るはずのない各国の言葉で話しているということは、外国出身のユダヤ人たちにとっては信じられない出来事だったのです。
 しかし、それこそが聖霊の業でした。神が、”神の国の知らせは、イスラエルを超えて、広く世界にまで、地の果てにまで伝えられなくてはならない“と望まれたので、その時聖霊を受けた使徒たちは、色々な国の言葉で語る能力を与えられたのです。
 そしてその時起きたことでさらに重要なことは、ガリラヤ出身の使徒たちが色々な外国語で話し出したということよりも、彼らが話していたその内容でした。
 今日の11節によれば、その時聖霊を受けた使徒たちは、色々な国の言葉で“神の偉大な業”を語っていたのです。

 それを聞いていた人たちの心を一番に打ったのは、使徒たちによって、それぞれの言葉で、神の偉大な業が語られていたことでした。
 私は今日の聖書箇所を読むと、いつも私たちの教会、別府国際バプテスト教会とこの箇所を重ね合わせます。
 なぜなら、私たちの教会には、本当に色々な国や地域出身の方たちが集い、共に礼拝をしているからです。
 皆さんそれぞれに母国語があります。言葉の違いは、コミュニケーションを取るためには、困難の原因ともなります。
しかし私たちの間の異なる言語や文化を超えて、イエス・キリストの神の偉大な業が、私たちをいつも一つに結び付けます。

 私たちはなぜ教会に集まるのでしょうか。教会には色々な人たちがいて、一緒にいると楽しいから、あるいは賛美が素晴らしいから、などと思われる方もいるでしょう。
 それらも素晴らしいことです。しかしやはり私たちが教会に集まるのは、神を礼拝するためであり、”神の偉大な業“、そして聖書の御言葉を聞きたい、と願うからです。
 私は牧師として、教会の霊的なリーダーであり、また教会という組織の管理責任者の務めも負っています。
 そんな私は、教会に来られる皆さんがどうしたら力と希望を受けることができるか、またどうしたら出来るだけ楽しく、笑って教会で過ごしていただけるか、ということを考えます。
 また正直に言えば、組織として教会が円滑に運営されるようにとも願うのです。
  しかし、今日の聖書箇所を通して示されることは、聖書に書かれた神の言葉、神の偉大な業を語り続けることこそが、牧師にとっての最も大切な務めである、ということです。
 聖書に書かれた神の言葉と神の偉大な業を、聖霊の導きによって忠実に語り続けることが、私たち人をもっとも力づけ、また希望と喜びをも人に与えることになるのだ、と私は確信させられました。

 聖書に書かれていることは、現代の普通の感覚とはそのまま相容れないような現象も含みます。聖霊、というのもその一つでしょう。
 最初にそのようなことを聞くと”信じられない“、とか”どういうことなのだろう“と思って戸惑う方も多いと思います。
 しかし、それでも聖書の御言葉と聖書に書かれている言葉の一つ一つは、神の真実と神の愛とを私たちに伝えるものです。
 私たちは、心を開いて、神の霊である聖霊を私たちの内に招きいれて、神の偉大な御業を認め、神を信じる者となりたいと願います。
私達に神を信じさせるその聖霊が今も私たちを互いに結び付け、そして聖霊こそが教会を建て上げる力の源です。
私たちが自分自身の力により頼んで教会を建て上げようとするならば、すぐに教会は行き詰ります。
私たちが自分自身により頼んで生きようとするならば、私たちの人生もかならず行き詰まります。
しかし、わたしたちが神の霊である聖霊に依り頼んで、聖霊の導きに身をゆだねるならば、私たち一人一人も、また私たちの教会も常に支えられ、聖霊の守りのもとに、一歩一歩日々を歩み、生きることを許されます。
ですから、聖霊の導きを私たちは共に願い求めましょう。神の守りと力を受けて、共に生きる道を私たちはこれからも歩んでいきましょう。

2025年5月10日土曜日

2025年5月11日主日礼拝

前奏
招詞  詩編143篇10節
賛美  新生讃美歌124番 この世はみな
主の祈り
賛美  新生讃美歌 320番 輝いて生きる
献金
聖句  使徒言行録1章12~26節
祈祷
宣教  「マティアの選出」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所は、『使徒言行録』1章の後半です。使徒たち(イエス・キリストの直弟子たち)が復活のイエス様に出会って、そしてそれから彼らの目の前でイエス様が天にあげられた後の場面です。
イエス様は、「あなた方の上に聖霊が降って力が与えられるまで待ちなさい。エルサレムを離れず、そこにとどまっていなさい」と言われました(4節、8節)。
イエス様が天に上げられた後、今日の箇所で、弟子たちはエルサレムに戻ってきて、そして「(彼らは)泊まっていた家の上の部屋に上がった」と、書かれています。
彼らは誰の家に泊まっていたのでしょうか。そこが誰の家であったのか、正確なことは聖書には書かれていません。

おそらく、その家は、使徒たちがイエス様と最後の食事をした部屋があった家であったと考えてよいと私は思います。
使徒言行録はルカによる福音書の続編のような位置づけです、と先日私は申し上げました。
筆者であるルカは、ルカ福音書の中で、イエス様と弟子たちが最後の食事をした場所がどのようにして用意されていたのかを書いています。
ルカによる福音書22章7節から13節に、次のように記されています。その箇所を以下に私が要約いたします。
ユダヤ人たちにとって大切な祝祭日であった過越の日が近づいていました。過越は、かつてイスラエルの民たちが奴隷状態であったエジプトから解放されたことを祝う日でした。
神は、イスラエルの民たちをエジプトから去らせないエジプト王のファラオの頑なな態度のため、合計で十の災いをエジプトに降らせました。

その最後の災いが、エジプト全土の人の初子(ういご)も家畜の初子(ういご)も、全て神に打たれる(命を取られる)という災いでした。
しかしイスラエルの家だけは、その災いが通り過ぎて行った(過ぎ越していった)のです。
イスラエルの民たちには事前にモーセを通して、その災いが過ぎ越していくための方法が知らされました。
犠牲の小羊を用意して、その血をそれぞれの家の入口の門の柱と鴨居に塗るように、彼らは命じられました。(出エジプト12章)
家の門に犠牲の小羊の血が塗られていたイスラエルの家からは、初子が撃たれるという災いが過ぎ越して行き、子どもたちが守られたのです。
その出来事を記念する過越の日に、イエス様は弟子たちと最後の食事をされました。そのことは、“イエス様ご自身が“すべての者の罪を贖うための、犠牲の小羊となる”ことをも表していました。
ルカ22章の場面で、弟子たちと最後の過越しの食事をするとき、イエス様は「行って過越の食事ができるように準備しなさい“Go and make preparations for us to eat the Passover.”」と弟子のペトロとヨハネに言いました。
彼らが「どこに用意しましょうか“Where do you want us to prepare for it?” 」と聞くと、イエス様はこうおっしゃいました。

「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」
二人(ペトロとヨハネ)が行ってみると、イエス様が言った通りになった、とルカ福音書に書かれています。
今日の箇所の“上の部屋”も、その同じ場所だと思います。使徒たちや、他の信者たちに、祈りのための場所、礼拝のための場所が、ある人によって提供されていた、ということです。
その人が誰であったのかも聖書には書かれていませんが、“主の御用のために”という言葉に突き動かされて、自分の家を提供してくれた人がいたのです。
そしてそれは、その家を提供したその人の心を動かした神からの恵みでした。
私たちも、こうして集まることのできる祈りの場、私たちの教会が与えられていることを、本当に、今一度感謝したいと願います。

集まる場所、教会がある、ということは、決して当たり前のことではないのです。
この場所に教会が与えられたのは、過去の多くの人たちの祈りと支えによる賜物でした。
そしてこの場所に教会として今も立つことが許されていること、私たちを受け入れてくださっている近隣地域の方々の思いを私たちは決して忘れてはいけません。
“自分たちの力と信仰だけで、この場に教会として私たちは立っている”と決して思うことなく、神の恵みとして与えられ、多くの方々によって理解され、支えられて、祈りの場である教会が私たちに与えられていることに心から感謝をし、喜びたいと願います。
今日の箇所の15節に次のように書かれています。

「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた」

使徒のうちの一人だったペトロが立ち上がって、そこに集まっていた120人ぐらいの人々に向かって語りだしたのです。
それは、ペトロがこれから信者たちの群れの中で指導的な立場に立っていくことの始まりでした。
ペトロは、イエス様の直弟子の一人として、この前に大きな挫折と悲しみを経験していました。
彼は、イエス様が捕まったとき、イエス様のことを「あんな人のことは知らない」と言って、三度もイエス様のことを拒絶したのです。
そんなペトロが、今日の箇所で、弟子たちの真ん中に立ち上がったのです。

普通だったら恥ずかしくて(公然とイエス様のことを知らない、と拒絶したのですから)、人々の真ん中に立ち上がることなどできなかったはずです。
しかし、そんなペトロが立ち上がることができました。
それは彼自身の力ではなく、ペトロのために祈ってくださっていた人がいたからでした。
その人とは他ならぬイエス様でした。ルカ福音書22章31節からの箇所で、イエス様が“ペトロが三度イエス様のことを知らないと言う”と予告された時のことが書かれています。
ペトロはその時勇ましくも「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言っていました。
その時イエス様がペトロに次のようにも言ったのです。

「シモン、シモン(ペトロの元の名前)、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

自身満々だったペトロですが、彼が必ず挫折することをイエス様は知っておられました。
そしてたとえ挫折しても、信仰が無くならないようにと、イエス様ご自身が祈ってくださると、イエス様が約束してくださったのです。
そのようにイエス様が祈ってくださっていたので、ペトロは再び立ち上がることができ、そして他の人たちを力づける言葉を語ることができました。
私たちも、信仰が無くなってしまいそうな時や、自分への自信が打ち砕かれるような経験をするかもしれません。

しかし、そのような挫折の経験こそが、実は私たちの信仰にとって、とても重要なのです。
そのような時こそが、”信仰とは、この私が自分の力や思いによって持ち続けることができるものではない“ということを私たちが知る時なのです。

主なる神が、私たちに与えてくださるので、私たちは信仰を頂くことができます。
そしてたとえ挫折しても、躓いても、「私たちのために信仰が無くならないように祈ってくださる」イエス様がおられるので、私たちから信仰が無くなることはないのです。
そして再び立ちあがることが許された時、私たちは他の信仰者や他の人々を慰め、力づけることができるようになるのです。
 今日の箇所で、立ち上がったペトロは、彼らの仲間だったユダについて話し始めました。イエス様に最初に選ばれた弟子(使徒)はユダを含めて12人いました。

 しかし、ユダはイエス様をユダヤの当局に売り渡して、イエス様が捕まり十字架につけられることの直接のきっかけを作ってしまいました。
ペトロは、かつて自分たちの仲間だったユダがしたこと、そして彼が大変悲惨な形で命を落としたことを、今日の箇所で語っています。
それはペトロにとっても語るのが大変辛いことだったと思います。ユダの裏切りとユダの死をどう捉えるのかは、キリスト者にとって常に大きな課題です。
今日の箇所のペトロの言葉では、“ユダの裏切りと彼の死は、旧約聖書の詩編の中で預言されていた”と伝えます。

ユダの行為を最終的に裁くことは、私たち人にはできません。本当の裁きをすることができるのは、人ではなく、神様だけだからです。
ペトロは、ユダの裏切りとその悲劇的な死について、完全には理解することはできなかったでしょう。
それでも彼は他の弟子たちを励まし、先へと進んで歩んでいくための言葉を語りました。
私たちはペトロの言葉を通して、その時の使徒たちに、“仲間のユダの裏切り死を乗り越えて、次の段階へ進もう、そこから進んで生きて行こう”という思いが与えられていたことを知ることができます。
ペトロは、“今やユダは私たちと一緒にはいない。しかし、主の復活の証人となる、という大切な働きが、私たちには与えられている。

だから、ユダの代わりの人を私たちは選ばねばならない”とそこで呼びかけたのです。

 ペトロは、ユダに代わって主の復活の証人となる人を選んで、キリストの福音を語る働きが続けられなくてはならない、と言いました。
 彼らはヨセフとマティアという二人の人を立てて、そして祈りました。“その二人のうちどちらを選ぶべきか、お示しください”、と言って彼らは神に祈りました。
 ヨセフとマティアの二人については、弟子たちが祈りと話し合いによってその二人を自分たちで選んだと思われます。
 しかし、最終的に二人のうちどちらを選ぶべきか、について彼らは“くじ”という方法によって、完全に神の御心に任せようとしました。

 今の私たちは、教会の代表者や執事を選ぶときに、くじで選ぶということはしないと思います。
しかし、祈りと話し合いを続けたうえで、自分たちに最善だと思われる選択をした後で、“本当の答えを知っておられるのは主なる神様のみです”という信仰の表れとして、今日の箇所では、“くじ”という方法が用いられたのだと思います。

そして選ばれたのはマティアの方でした。
このように主は必要な時に、信仰の仲間を、福音宣教の働きを共に担うための仲間を今の私たちにも加えて、与えてくださいます。
そして私たちはたとえ挫折しても、辛いことがあっても、落ち込んでも、再び立ち上がることができます。
主イエス様が私たちたちのめに祈ってくださっており、私たちを再び立ち上がらせてくださるからです。
そして私たち人のどんな弱さや悪意があっても、復活の主イエス・キリストの福音が述べ伝えられる働きが完全に妨げられることはありません。
死んでもなお生きておられる復活の主イエス・キリストこそが、私たちを常に生かし、前へ進ませてくださいます。
私たちは、復活の主に日々生かされている者として、たとえ困難な中でも主によって再び立ち上がらせていただき、主にある信仰の喜びを世に伝える者として歩んでいきたいと願います。

2025年5月3日土曜日

2025年5月4日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編118篇25節
賛美  新生讃美歌 80番 父の神 われらたたえる
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 320番 輝いて生きる
献金
聖句  使徒言行録1章6~11節
祈祷
宣教  「あなたがたはわたしの証人となる」
祈祷
賛美  新生讃美歌 2番 来たれ全能の主
頌栄  新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 新約聖書の『使徒言行録』から、私たちは神さまのメッセージを聞いています。今日の箇所は、使徒言行録1章6節~11節までの箇所です。
それは、使徒たち(イエス・キリストの弟子たち)が、復活したイエス様と話をしている場面です。
 今日の箇所の前では、イエス様が使徒たちに「エルサレムを離れず、父の約束されたもの、すなわち聖霊を待ちなさい」と言いました(4節)。
 聖霊を受ける時、信仰者は力を与えられ、行くべき道を示されて、その道を歩み始める思いと勇気とが与えられます。
 しかし使徒たちはその時、“父の約束されたものを待ちなさい”というイエス様のお言葉(”待ちなさい“という命令)についてじっくり考えるよりも、自分たちの思いと願いのほうに、とらわれてしまっていたようです。

 それは今日の箇所の初めで使徒たちがイエス様に尋ねた言葉からも分かります。
彼らはイエス様にこう尋ねました。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

 使徒たちは復活したイエス様にお会いし、興奮して、“今こそ自分たちの国イエスラエルが再び過去のような繁栄と強さを取り戻す時だ!”と大きな期待をしたのでしょう。
 彼らが言った「今が、その時ですか?」という問いは、それは純粋な問いといよりは、「今こそ、イスラエルを再興してください!」という彼らの強い願いであった、と言ってよいと思います。
 私たちも神様に祈る時、自分が願うこと、神様にしてほしいと願うことを、強く神に申し上げている(願っている)ことがあるのではないでしょうか。
 そのような祈りも私たちには許されています。しかし、自分が願うことへの思いがあまりに強すぎると、私たちの祈りが自分の願いだけになると、それは神への祈りというよりも、神様に対する“ただの要求”となる可能性があります。
 そしてその要求が満たされないと満足できず、神に対して不満を抱く、ということがあり得ます。

 私たちには色々な希望があります。そして、自分が願うことが満たされると幸せとなり、自分が願うことが満たされないと不幸せになると、普通私たちは考えます。
 しかしキリスト者は、神様の御心、神のご計画が成就することにこそ幸せを見い出すことを許された者なのです。
 “主の祈り”の初めで、「天にまします我らの父よ、ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈ります。
 私たちは色々な事を願いますが、イエス様は“御国(神の国)が来ますように。神の御心が地上でも実現しますように”と最初に祈りなさい、と教えてくださったのです。
それは私たちの思いではなく、神の御心こそが最善であり、神の御心こそが最終的に必ず実現するからです。

 旧約聖書『箴言』19章21節に次のように書かれています。

 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
 主なる神のご計画と神の御心こそが、私たちを真の幸せへと導きます。ですから、神の御心を知ることを願い、神のご計画の実現を、私たちはまず願い、祈りたいと思います。
 そして神のご計画の実現のために生きること、自分が用いられることを、私たちは願おうではありませんか。
 イエス様は使徒たちの問いに対して、次のようにお答えになりました。7節をお読みします。

7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
 私たちは神のお定めになった時の中で生きています。決定的な時は全て神が定めておられます。
 私たちは気持ちが急いでしまって「神様、それはいつですか?今ですか?」と願ったりしますが、決定的な出来事は神さまがお定めになった時に実現します。
  ですから、イエス様の言われた“父の約束を待ちなさい”という教えも、私たちには大変重要となります。
信仰的に待つべき時には、私たちは待つことができるように、神の時が来るのを待つことができるように、忍耐を身に着けたいと願います。

 そしてイエス様は続けて次のようにおっしゃいます(8節)

8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 使徒たちに聖霊が降ると彼らは力を受ける、と言うのです。では聖霊から降る力は、使徒たちにどのようなことをさせるのでしょうか?
 聖霊が降って力が与えられると、使徒たちは”エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたし(イエス様)の証人となる“とイエス様はおっしゃいました。
 “聖霊の力”というと、何か目立った、超人的な力が人に与えられるというイメージを思い浮かべる人もいらっしゃるかもしれません。
 しかし今日の箇所でイエス様が言う聖霊の力の表れは、“使徒たちがイエス・キリストの証人となる”ということなのです。

 「イエス・キリストこそが主であり神であり、そのお方にこそ、私たちは従って生きるのだ」というメッセージを人に伝えることが、聖霊の力が人にさせることです。
  そして聖霊から信じる者に力が与えられる時、彼らは神のその知らせを、”エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、地の果てにいたるまで“伝えるようになるのです。
 使徒たちは最初“自分たちのために、イスラエルの国を再興してくださるのは、今ですか?”とイエス様に尋ねました。彼らの最初の願いは、まず自分たちの利益でした。自分(自国)ファーストです。
しかし、聖霊から力を受けた者は、自分たちの中だけでなく、国中で、サマリアで、そして地の果てまで、あらゆる国や地域へ向かって主を証しする証人となる、と言うのです。
 特に、サマリア人たちとユダヤ人たちは、その当時互いに反目しあっていたことを、私たちは知らねばなりません。
かつてイスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた時、北イスラエル王国の首都であったサマリアの地域には、多くの異邦人が移り住むようになり、ユダヤ人たちとの混血が進みました。

 ユダヤ人の純潔を重んじたユダヤ人たちは混血のサマリア人たちを蔑むようになりました。
 しかし、キリストの弟子たちが聖霊の力を受けるとき、そのような民族同士の反目を超えた愛の力に彼らは突き動かされるようになる、というのです。

聖霊の力を受けた使徒たちは、サマリアへも、また地の果てにまでも、キリストを述べ伝える者になる、とイエス様はおっしゃったのです。
聖霊の力とは、私たち人同士を結び付ける力です。聖霊の力とは、互いの違いや壁、お互いに反発し合っていることさえも乗り越えさせる力です。
 私たちも、そのような聖霊の力を頂いて、自分以外の他者へも心を開いて、他者にとってのキリストの証人となれますようにと願いましょう。
聖霊は私たちに、内向きな思いから、自分以外の他者へ、自分たち以外の他者へ、広い世界へと私たちの心の思いと願いを向けさせる力ともなるのです。

私たちが、自分や自分の仲間、自分の教会だけのことでなくて、教会の周りの地域や、社会、世界にも広く心を向けて、キリストの福音が広がることを願い、そのために祈りをささげようではありませんか。
 イエス様が話し終わると、イエス様は使徒たちが見ている前で、天にあげられていきました。そしてイエス様は雲に覆われ、彼らの目から見えなくなった、と書かれています(9節)。
 使徒たちは、イエス様が上って行かれた天をみつめていました。すると、白い服を着た二人の人(彼らは神のみ使い、天使でしょう)が彼らにこう言いました。11節をお読みします。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 使徒たちは、復活したイエス様が天に上って行かれる様子をどのような思いで見つめていたのでしょうか。
 死からよみがえったイエス様が自分たちのもとにとどまって、イスラエルの国の再興のために今度こそ共に戦ってくれると、彼らは期待していたのではないでしょうか。
 しかしそんな彼らの思いとは違い、イエス様が“父からの約束を待ちなさい。あなた方は聖霊を受ける”と言って、天へと上って行かれました。
 “聖霊の力を受けるとき、使徒たちは自分たちの民族や国を超え、あらゆる国や地域、地の果てにまでキリストの福音を伝える証人となる”、というお言葉(約束)を残し、イエス様は天へと上って行かれました。
 そして「イエス様は、天に上って行かれたのと同じ有様で、またおいでになる」という約束の言葉も、その時使徒たちに与えられました。この約束は、今の私たちにも与えられています。
 イエス様は再び来られる、という希望の約束にキリスト者は生きることができるのです。それがいつなのかは、まさに神がご自分の権威をもってお決めになることですから、私たちには分かりません。
 しかし、主イエス様が再び来られるこの地上の世界において、私たちは信仰による希望を頂いて、まさに地に足をつけて日々を生きるのです。
 復活したイエス・キリストは使徒たちに、神の定められた時の中で、神の時を待って生きるようにと教えられました。
 そして聖霊の力を受けて、キリストの証人となり、キリストを伝道する者となるようにと、言って彼らを励まされました。その励ましは今の私たちにも与えられています。
 主イエス・キリストは再び来られます。キリスト者は、主イエス・キリストは再び来られる、というその希望に生きることが出来ます。

そして、日々私たちが生きているという事実は、そこに主なる神の大いなるご計画があることの証拠でもあるのです。そのご計画の成就のために、主はきっと私たち一人一人を大きく用いてくださいます。
 私たちは生きる限り、キリストにある希望を頂くことができます。その希望の知らせを世に伝える、証しする、キリストの証人としての日々を、私たちは生きて行こうではありませんか。