2025年4月5日土曜日

2025年4月6日 主日礼拝

前奏
招詞  ルカによる福音書2章14節
賛美  新生讃美歌227番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  詩編21篇14節
祈祷
宣教  「主なる神に栄光を」
祈祷
賛美  新生讃美歌213番 われらに伝えよ
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


4月から始まる新しい年度(2025年度)最初の主日礼拝を、こうして私たち共に捧げることができる恵みを、私たちは感謝いたします。
 本日の聖書の言葉は、次の詩編21篇14節(英語訳NIVでは13節)の御言葉です。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
 この聖句を、私たちの教会は、今年度(2025年度)の年間聖句として選びました。そして、この聖句と共に選ばれた年間主題は「全て主なる神の栄光のためにAll for the glory of the Lord God.」です。
私たちの祈りと話し合いによって、この聖句と主題が私たちに与えられたことの意義を、私たちは吟味したいと願います。
神をあがめること、私たちの主であるお方の御名をあがめ、賛美することは、信仰者の生きる目的そのものです。
私たちは何かを崇(あが)めて生きていく者です。自分自身の中で何かが一番大切なもの、すなわち生きる目的となり、それを求めて(あがめて)私たちは生きていきます。
様々なものが、私たちによってあがめられる対象となります。色々なものが、私たちが日々生きる目的となり得ます。

より多くの物を所有すること、あるいは社会的地位やお金、成功、あるいはどれだけ自分に能力や才能があるかなど、それらも私たちが生きる目的となり得ます。
しかし、聖書は言うのです。「主こそが、あがめられますように」、「私たちは、主なる神をこそ、あがめて生きよう」
イエス・キリストはご自分の弟子たちに、祈りの言葉を教えてくださいました。
イエス様の弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願ったとき、イエス様は彼らに祈りの言葉を教えました。
その時イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉がもととなって、今私たちが礼拝で祈る「主の祈り」となっています。

主の祈りの最初の言葉は次の言葉です。

天にまします われらの父よ 御名をあがめさせたまえ

天におられるお方、この世界のすべてをお造りになったお方が、私たちの父(神)であることを、主の祈りの初めの言葉で私たちは確認します。
“父”とは、神が男性という意味ではありません。神は人間の性別を超越しておられるお方です。
それに続いて、“父なる神の御名があがめられます(聖なるものとされます)ように”、と主の祈りの言葉は続きます。
神様の御名があがめられますように、聖なるものとされますように、という言葉を祈りの言葉として最初に唱えなさい、とイエス様は弟子たちに最初に教えになりました。
それは、“神様の御名が私たちに与えられていることが、どれほど特別なことであるか認めて、私たちはそのお方(神)をほめたたえよう”、という促しです。
言葉には、内実(中身)が伴わなくてはなりません。今イエス・キリストを信じる信仰者であっても、神をあがめることをせず(聖なるものとせず)、自分が自分の中心に居座ったままで主の祈りを唱えることがあり得ます。
それでも、イエス様が教えてくださった祈りの言葉、聖書に基づいた私たちの祈りの言葉は、私たちの信仰を形作るのに、大変重要です。

 「主の御名があがめられますように」、「私たちは主をあがめよう」と言っても、心の奥底では、まだ私たちは自分が自分の王様であり主となっているかもしれません。
  しかし、そのような罪(神を神とせず、自分やそれ以外の何かを神とするような罪)を抱えつつ、私たちは“主があがめられますように”という言葉が、本当に私たちの本当の祈りの言葉となるように、と常に願って信仰生活を送っていきたいと願います。

  詩編21篇14節(NIV 21:13)では、 “御力を表される主をあがめよbe exalted in your strength, Lord”と言われ、主なる神が力あるお方であると書かれています。
 私たちの主なる神は、どのようにしてその力を表すお方でしょうか。

今私たちは、イエス・キリストが、私たち人の罪を赦すために十字架にかかって死ぬため、十字架への道を自ら歩まれたことを特に覚える受難節(レント)の時を過ごしています。
 イエス様はユダヤの地で生きて、伝道活動をしておられた時、数々の力ある業をなさいました。病気の人々を癒し、悪霊に憑(つ)かれた人たちから悪霊を追い出しました。
 イエス様は嵐を静めることさえなさいました。それらもイエス様がお示しになった力ある業です。

 しかし、イエス・キリストが私たちにお示しにあった究極の力ある業は、それは全ての人の罪を背負い、まったく罪のなかったご自身を十字架の上で捧げられた、その犠牲の御業でした。
 イエス様は、最期はもう何も言わずに、ただ黙って十字架を背負わされ、ご自分が処刑される場へと引かれていきました。
その十字架の主イエス・キリストは、私たちが普通に考える“強さ”の像(イメージ)とは、まったく相容れないお姿です。
 しかし、私たちが、自らを低くして、十字架の主イエス・キリストを信仰の目によって見上げるとき、そこにこそ神の真の力があることを私たちは知ります。
 イエス・キリストが、あらゆる悪の力、死の力に打ち勝った、究極の力の御業が十字架の上でこそ現わされたのです。
  十字架の上のイエス・キリストが、私たちの罪、私たちの弱さ、欠け、それらすべてを背負ってくださっています。
ですから、私たちは罪赦された者として、大きな喜びをもって、主なる神を崇める生き方へと導かれるのです。神を喜び、神を賛美する生き方へと私たちは招かれるのです。

 聖書は“いかなる人も神の前に自分で正しい人、義なる人はいない”と伝えます。私たち誰もが、欠けと弱さのある罪人だと伝えます。
そんな私たちが主イエス・キリストの名によって集まり、イエス・キリストを賛美、礼拝するという恵みを与えられています。
その点において、キリスト教会は本当に特別な宝を頂いている、と言うことができます。
 主をあがめることができる恵み、そのような宝を頂いていることを、私たちは共に喜ぼうではありませんか。

 詩編21編は、前の詩編20篇の続きであると考えられています。詩編20篇では、王が戦いで勝利することが願われています。
 そして続く21編は、その祈りと願いがかなえられたことを感謝し、神をほめたたえる内容となっている、と読むことができます。
  詩編20篇7節(6節 NIV)には、「主は油注がれた方に勝利を授け」The LORD gives victory to his anointed と書かれ、20篇10節(9 NIV)には、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」LORD, give victory to the king! Answer us when we callと書かれています。
そのように、王の勝利を願う内容でありながら、その勝利を王にお与えになるのは、主なる神であることが、これらの詩編では唄われています。

20編8節 (20:7 NIV)には次のように書かれています。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。

王が勝利することができるのは、王自身の力や、戦車や馬の力によってではない、というのです。“勝利を賜るのは、主なる神である”と、ここで告白されています。
そして21編2節(1節NIV)では、このように書かれています。

「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る」

21編8節(21:7NIV)では、このように書かれています。
王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。

私たちの主なる神は、私たちが常に依り頼むことができるお方です。主なる神は私たちに愛と慈しみを与えてくださるお方です。
 そして、自分たちの王に勝利(成功)が与えられても、その勝利(成功)の源は主なる神であり、“王が勝利に慢心することなく、常に主なる神を称えますように”という願いが、この詩編の言葉には表れています。
 そして王も民も、すべての者が主なる神の前にへりくだり、自分たちや自分たちの王を崇めるのではなく、主なる神のみを崇めることが出来ますように、と言う願いもここに現わされています。
  それは、勝利(成功)の栄光を、自分たちのものとしてしまうことなく、勝利の栄光を主なる神にお返しできますように、という彼らの信仰の願いです。
  主の力ある御業によって守られ、勝利を与えられた人が、自分自身を誇って自分に栄光を帰することなく、主なる神に全ての栄光をお返しできますように、という信仰を、私たちも大切にしていきたいと願います。
 そして今日の聖句、そして今年度の私たちの年間聖句は、「力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」we will sing and praise your might.と言って続いています。

 神の愛の御業によって励まされることで、私たちには主を賛美する歌が与えられるのだ、とここから示されます。
 通常、礼拝メッセージの後の讃美歌は、“応答讃美歌”と呼ばれます。それは直接的には、その日語られた神のメッセージ(恵み)への応答、という意味です。
 しかし、今日の聖句から、私たちの賛美は、私たちのために既に成し遂げられた神の偉大な御業への応答と言う意味で、私たちの賛美は全てが“応答賛美”であるのだと、私たちは教えられます。
 神をたたえる賛美の歌も、それは私たち自身の中から出て来るのではないのです。
 神の力ある御業、愛の御業が先にあって、それらへの感謝の応答という形でのみ、私たちは賛美の歌をささげることができるのです。
 私たちに、真の神の御名が、私たちが心からあがめ褒め称えるお方の名として与えられていることを、私たちは喜びましょう。
  そして神の力ある御業、愛と憐れみの御業、私たちが十字架の主イエス・キリストによって罪赦されたという純粋な喜びが、私たちが賛美する動機となりますように、と願いつつ、私たちは常に主の前にへりくだりましょう。
 私たちの語る言葉、私たちの行い、全てが主なる神への感謝となり、主なる神へ栄光をお返しするものとなりますように、私たちは願いつつ、新しい年度も信仰生活を共におくってまいりましょう。