2025年7月19日土曜日

2025年7月20日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編118篇21節
賛美  新生讃美歌 513番 長き道 山や谷
主の祈り
賛美  新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
献金
聖句  使徒言行録4章1~22節
祈祷
宣教  「わたしたちが救われるべき名」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の聖書箇所では、ペトロとヨハネが、民衆に向かって話を続けています。
生まれたときから足が不自由で、いつも神殿の門のそばに置いてもらって施しを乞うていた人が、ペトロたちが彼に伝えた「イエス・キリストの名」によって癒されました。
 その奇跡的な出来事がきっかけとなって、ペトロはそこへ集まってきた人たちに、“イエス・キリストの名が、この人(足の癒された人)を強くしたこと”を伝えました。
そして彼らは人々に“イエス・キリストが人によって殺されたこと、しかしその後復活したこと”を伝えました。
 ペトロは、「命の導き手である方(キリスト)をあなたがたが殺した。しかし、神はその方を死者の中から復活させてくださった」と語ったのです(3章15節)。

 人間の罪の贖いのために、キリストは十字架の上で死にました(殺されました)。ですから、キリストを十字架につけたのは、私たちひとり一人(すべての者)でした。
 しかし神はそのようにして、神の僕(しもべ)としてイエス様を世に遣わして、その方(キリスト)を通して、私たち一人一人が祝福を受けるようにしてくださった、とペトロは(今日の箇所の直前の箇所で)語りました(3章26節)。
 キリストにこそ、真の祝福があります。
私たちは、良いことが起こると、お互いにお祝いをしたり、喜んだり、祝福し合ったりします。
 お誕生日であったり、学校に合格したり、願っていたことが叶ったときに、私たちは祝福をします。
いつも祝福できるようなことばかりあればよいのですが、私たちの生活は、いつも祝福できるような出来事ばかりが起こるのではありません。
 しかし神は、イエス・キリストの十字架を通して、キリストの死者からの復活を通して、私たちへの神の無条件の愛を示してくださいました。
 キリストによって「あなたは愛されている」、「あなたは私(神)にとって本当に大切な存在だ」ということが私たちにはっきりと知らされ、証明されたのです。
 神の愛と恵み、そして罪の赦しがキリストを通して伝えられたのです。
その恵みと祝福が私たちひとり一人に与えられています。私たちは常に、キリストの恵みによって神様から祝福されている存在です。
 キリストを通した神の愛は無条件で(人間の努力や功績にはよらず)、そして、それはいつも私たちに注がれています。
ですから、特にキリストの恵みを知らされた者は、キリストの祝福をいつも喜び、感謝して、喜んで生きていくことができるのです。喜びの道が備えられたことを感謝いたしましょう。

 今日の箇所では、民衆に話をしていたペトロとヨハネのところへ、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきて、彼ら(ペトロとヨハネ)を捕まえて、牢に入れてしまいました。
 彼らは、ペトロとヨハネが、キリストの復活について宣べ伝えていることにいらだったので、彼らを捕まえて牢に入れました。
 特にサドカイ派と言われたユダヤ教の一派の人たちは、“死者の復活はない”と言って、復活を否定していた人たちでした。
 祭司たちも、自分たちが十字架につけて処刑した人が復活した、などとペトロとヨハネが話しているので、怒りを感じたのでしょう。
しかし今日の4節を見ますと、ペトロとヨハネの話を聞いて、5千人ほどが信じた、と書かれています。
ペトロとヨハネは捕まって牢に入れられました。彼らは自由を奪われました。しかし、彼らを通して語られたイエス・キリストの復活の知らせは、多くの人の心を捉えて、彼らをキリストを信じる者に変えたということです。
 このように、真実は必ず広まっていくのです。
たとえ人の力で、どれほど神の言葉を黙らせようとしても、神の力こそが人に真の力と希望を与えるのですから、真実の御言葉は決して、人の悪意や人間の力によって、無力になることはないのです。

 私たちは、今聖書を通して、そのような真実の力強い神の言葉を頂くことができます。何と心強いことではないでしょうか。
聖書の御言葉を通して、困難な中にも強くされながら、私たちは生きていくことができるのです。
5~6節によると、次の日には議員、長老、律法学者たち、さらに大祭司の一族も集まったと書かれます。ユダヤ教の当局、権力者たちが勢ぞろいしたのです。
 そしてペトロとヨハネは、彼ら権力者たちの真ん中に立たされます。彼らは怖くなかったのでしょうか。
 それだけ多くの権力者たちに取り囲まれて尋問されることには、やはり彼らは恐れを感じたかもしれません。しかし、ペトロには強力な援護者がいました。
8節に、「ペトロは聖霊に満たされて言った」と書かれています。
権力者たちの真ん中に立たされた時、普通ならとても恐ろしい時、神は聖霊でペトロを満たし、語る言葉を与えてくださったのです。聖霊という強力な援護者が、ペトロには与えられていました。

 復活したイエス様は弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と約束しておられました(使徒言行録1章8節)。
 その約束が、今日の箇所でもまさに実現したのです。
私たちも、この聖霊の助け、聖霊による導きを受けることができます。
困難な中で、どうすればよいか分からない時、何を言えばよいのか分からない時、聖霊が私たちにどうすればよいのか、何を話せばよいのかを教えてくれます。
そのような聖霊の助けをいただくために、私たちは日ごろから聖書の御言葉に親しみ、神が今も聖書の御言葉をもって私たちに語り、力を与えてくださることを、経験し続け、確信していきましょう。
生きた神の御言葉に、聖霊が働いて、必ず私たちをいざという時に、強い者としてくださいます。
ペトロが11節で、次の聖句(詩編118篇2節の一句)を引用しています。
11この方(イエス・キリスト)こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』。
それはこのような意味です。
家を建てる者(家を建てることの専門家)からは“これは親石(建物の隅に置かれる土台としての石)としては役に立たない”と見なされて捨てられた、イエス・キリストとはそのようなお方であったのです。

 “こんな石は役に立たない”と言って見捨てられ、蔑まれ、捨てられた石のように、イエス様は人々から拒絶され、嘲られて、最後は十字架の上で死んでいかれました。
 しかし、その方にこそ(その方にのみ)人の救いはある、とペトロは言います。人からは”役立たず“と思われ見捨てられたお方にこそ、私たちの救いはあるのです。
 それは十字架にかかって死なれた(殺された)イエス・キリストが神の子であり、神と等しいお方であり、私たちすべての人間の罪を担って、私たちを赦すために世に遣わされたお方であったからです。

今日の箇所の12節にこう書かれています。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(12節)

十字架の上で死なれたイエス・キリスト、死者の中から復活したイエス・キリスト以外に、私たちが救われるべき名、救われるべき道はありません。
この真実(救いはキリストのみ)の上に、私たちキリスト者、そしてキリスト教会は立ち続けることができます。この真実を、私たちは述べ伝え続けるのです。
ペトロは、聖霊に満たされて、キリストの救いを確信して、このように力強く語りました。その力強さ、大胆さは、13節に書かれている通り、議員や他の人たちが、驚くほどのものでした。
 ペトロとヨハネを取り囲んだ議員や祭司、律法学者たちはユダヤ教の専門家であり、宗教の権威たちでした。

しかし、そのような彼らの(人間の)権威をはるかにしのぐ力強さ、大胆さがペトロの語る言葉にはあったのです。
 復活のキリストが聖霊としてペトロの心を満たし、彼を強め、彼に言葉を与えたからです。
 議員たちは結局ペトロたちに「今後あの名(イエス・キリストの名)によってだれにも話すな」と言って脅しました。
 しかしペトロはそのような脅しの言葉に対しても、驚くべき大胆な言葉を返しています。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19~20節)
 これも大変力強い、まさに神の霊に満たされた言葉です。そしてこの言葉には、神の愛も込められています。
ペトロは、相手を一方的に言い負かすような気持ちで言っているのではなく、神に従うのが正しいのか、あなたがた(人)に従うのが正しいのか、“(あなた方自身で)考えてください(判断してください)”と、呼びかけているからです。
 神に従わず、人に(人の力に屈して)従うことが、神の前に正しいかどうか、よく考えてください。
“自分の良心に問いかけて判断しようとするならば、どちらが正しいか、あなたは判断できるはずです”、という相手への配慮と敬いの思いを持ちつつ、ここでペトロは語りかけています。
 力や脅しで相手を打ち負かそうという方法でなく(議員や、長老、律法学者たちがペトロ達を牢に閉じ込めたように)、キリストの真実、キリストの愛と力を信頼して、ペトロは議員たちに呼びかけたのです。

 人に従うのではなく、神に従うことこそが正しい~それが今日の箇所が私たちに伝える真実であり、信仰者によって守られるべき信仰の姿勢です。
しかし“神に従うことこそが正しい”という信仰は、決して自分以外の他者を見下したり
、他者を排除したり、相手を力づくで押さえつけて、自分の言うことに従わせようとするものではありません。
私たちの主イエス・キリストが、大きな御愛と、限りない忍耐をもって、心が頑なな私たちに向けて今も御言葉を与え続けてくださっています。
そしてイエス様は今も、私たちが神の前に正しい選び取り、生き方をするようにと願ってくださっています。
しかし現実は、時に(あるいはしばしば)神に従うことができず、自分中心の思いで生き、自分以外の他者を押さえつけてでも自分の望むものを手に入れようとする私たち自身の心を、神はお示しになります。
イエス・キリストの十字架の上での死という途方もない犠牲の贖いをいただいた私たちは、その都度自分の罪を悔い改めて(神に立ち返って)いきましょう。
そして神と共に、神に赦されたことを喜び感謝しつつ、歩む決意をしてまいりましょう。