2025年9月27日土曜日

2025年9月28日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編105篇7節
賛美  新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録7章1~16節
祈祷
宣教  「私たちの父アブラハム」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 古代の人たちは、地球を中心にして、他の星や宇宙が地球の周りを回転していると考えていました。それは“天動説”と言われます。
私たちは科学的発見や研究の結果、天動説ではなく地動説(地球が太陽の周りをまわって動いている)が正しいということを知るようになりました。
しかし、私たち人の生き方においては、私たちは依然として天動説(自分の周りを世界が動いている)、あるいは”天動説であるべきだ“という考え方に留まっているのではないか、と私は思います。
 私たちは普通、自分に起こる出来事を自分中心の視点から見ます。それは、周りの状況を、自分を基準として、自分が望む通り(正しいと思う通り)に進行しているかどうかによって判断するということです。

しかしもし、この私は世界の中心ではないということを知れば(認めれば)、私たちが私たちの身の周りの出来事、また周りの人を見る目や、人への接し方も大きく変わってくるのではないかと思います。
自分が世界の中心ではないとすれば、何が世界の中心であるのでしょうか。聖書は、この世界のすべては、あるお方によって目的をもって創造された(作られた)と伝えます。
そうであれば、世界を目的をもってお造りになったそのお方、創造主である神が世界の中心である、と考えるのが自然です。
聖書は、世界をお造りになった創造主である神が、人となって生まれて来られたと伝えます。神が人となって来られたお方がイエス・キリストです。

イエス・キリストは、罪を犯して神から離れて、神のことが分からなくなってしまった私たち人間に、神を示すために世に生まれてきてくださいました。
キリストを通して私たちが神の深い御愛を知ることができるように、キリストは世に来てくださったのです。
聖書は私たちに、わたしたちの世界はまさに神中心であること、神が人となったイエス・キリストが中心であることを認めて、キリストの神を信じて生きる生き方へと私たちを招き入れます。
自分が自分の中心でなく、神を中心にして私たちの周りの状況や世界を見ることができるようになると、ある変化が生まれます。
それは、どんな状況も、それが自分にとって不利な、たとえ危機的な状況であっても、より大きな善い目的(神の目的)のために、その機会を用いることができるようになるということです。
 
今日の聖書箇所は使徒言行録7章の初めの部分です。キリストを信じ、キリストを伝道して生きる者となったステファノが、ユダヤの最高法院で訴えられています。
今日の箇所から私たちは、自分にとって危機的であり不利な状況、大勢の敵に囲まれている状況の中でも、神の希望に生きる人の姿を知らされます。
今日の聖書箇所でステファノの語った言葉から、神の言葉を私たちは共に聞いてまいりましょう。
大祭司が、ステファノに尋ねました。「訴えのとおりか」。ステファノは「神を冒瀆している」という容疑で、ユダヤ人たちから訴えられていたのです。
「この男は、偉大な預言者であるモーセと、神をも冒涜している」、「聖なる場所(神殿)と律法(聖書の言葉)を冒瀆している」と言って、他のユダヤ人たちはステファノを訴えていました。
しかし、彼らの訴えは偽証(うそ)でした。それは根拠のない訴えでした。ユダヤ人たちはとにかくステファノのことが憎くて、嘘を言ってでも彼を訴えて有罪判決を下そうとしていたのです。

ステファノにとってはまさに危機的な状況です。自分の無実を証明しなければ命が危うくなるのです。
しかしステファノは「訴えの通りか」と聞かれて、どのように答えたのでしょうか。そこでステファノは自分自身を弁護しようとは全くしませんでした。
ステファノは、その危機的な状況を「神を述べ伝える絶好の機会」と考えたのです。
 ステファノは、神が自分と共にいてくださることを確信していたのでしょう。だから、(自分が望むよりも)神が自分に望まれるように語りたいと、ステファノは願ったのです。
 自分を訴える大祭司や他の人たちに、ステファノは「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と呼びかけました。
自分を訴える者たちを自分の“敵”と見なすのではなく、ステファノは彼らを“わたしの兄弟であり父”と呼びました。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は言われました。そんなことが可能なのか(無理ではないか)、と私たちは思うと思います。
しかし、イエス様のそのお言葉を確かに実践して生きた信仰者の姿が、今日の箇所でのステファノを通して描かれています。
 自分の命を狙う敵である人々を、イエス・キリストへの信仰によって“わたしの兄弟であり、またわたしの父である皆さん”とみなすことがステファノにはできたのです。
 “信仰を通して、他者同士が神の家族になることができる、敵さえも神の家族同士になることができる”という信仰の恵みを、ステファノの言葉と姿は表しています。
 いきなり“敵を愛せ”と言われても、私たちはたじろくでしょう。しかし、その言葉を信じ、その通りに生きた信仰者が確かにいたし、きっと今この時代にもいる、と私たちは信じてよいと私は思います。

 そして私たちも、少しでもそのような者になるように、少なくとも努力をすることは可能であると、私たちは思わされます。
 ステファノは、聖書が伝える神の物語、神がいかにしてイスラエル民族を選び救われたのかを、旧約聖書『創世記』に記されているアブラハムの物語から語り始めます。
 ユダヤ人たちにとって“信仰の父”と言われたアブラハムに、最初に与えられた主の言葉(命令)は、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」というものでした。
 『創世記』12章に、主なる神がアブラハムに現われて、そのように言われたことが書かれています。
自分の慣れ親しんだ土地や家族を離れ、わたし(神)が示す土地に行きなさい。あなたが行くべき道を示す、あなたの主は私だ、と主はアブラハムに言われたのです。
生きるということは、確かに、先の見えない、行先不明の旅を続けるようなものです。時には自分にとって慣れた場所、家族を離れなくてはならない時もあります。
しかし、これから先どうなるのか分からなくても、またどこへ行くのかその場所や方向がはっきりとは分からなくても、その度に道を指し示してくださる神が私たちにはおられます。
それが神がアブラハムに与えた約束であり、同じ神を信じる者に今も与えられている約束なのです。

 私たちが聖書の御言葉を読み(御言葉に聞き)、祈り、神を信頼して心を開くことによって、私たちが行くべき道を指し示してくださる神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して信じていきましょう。
 9節からは、アブラハムからみればひ孫であるヨセフのことが語られます。
 創世記の中でも多くの章が、このヨセフに関する物語に費やされています。
 ヨセフは、父のヤコブに溺愛され、そのために兄たちから疎まれました。(ヨセフ自身にも、兄たちから疎まれるような問題がありました)9節の“この族長たち”とは、ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちのことです。
 ヨセフの兄たちは、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまいます。弟を売り飛ばすとは、彼らがどれほどヨセフを憎んでいたのかが、分かります。
しかし神はそれからもヨセフを離れず、ヨセフはエジプトで王のファラオに用いられて、エジプトの国全体を司る大臣にまで上り詰めました。
 ヨセフに関する話は『創世記』に詳しく記されていますので、ぜひ皆さんご自分でも創世記をお読みいただければと願います。
 ヨセフが兄たちからの妬みを買ったのには、ヨセフ自身の未熟で傲慢な性格や行動にも原因がありました。しかしそれでもヨセフが辿った道には多くの苦難がありました。

しかし、9節に書かれている通り、神はヨセフを離れることはありませんでした。
 そのように、聖書が伝える神、天地創造の神は、私たちを決して離れない、私たちを見放すことがない神です。イエス・キリストの神は、“いつも私たちとともにいてくださる神”です。
神がおられるので、私たちは苦難、困難、悩みの中にあっても、平安をもって生きることができるのです。
どんな苦難や困難、悩みよりも、はるかに大きな神が私たちと共におられるので、私たちは神に信頼することで、安心できるのです。
 ヨセフはやがて兄たちと、父ヤコブとも再会を果たすことになります。父と兄弟たちと、その他親族一同がカナンの地からエジプトへ来て、そこで住むようになりました。
 しかし、父ヤコブが死ぬと、兄たちは恐れました。自分のことを売りとばしたことに、まだ恨みを持ったヨセフが自分たちに復讐するのではないかと言って彼らは恐れたのです。
 しかし、そのように恐れた兄たちにヨセフは次のように言いました。

創世記50章19~20節
 「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 自分のことだけを考えれば、ヨセフは兄たちに復讐できる立場にあり、また彼にはそうしてもよい理由もあったと言ってもよいでしょう。
しかしヨセフは自分のことよりも、神の大きな御計画、人がたくらむ悪をも善に変えることができる神の視点から、自分と兄たちの間に起きたことを見ることが出来るようになっていたのです。
 ヨセフは、兄たちが自分をエジプトに売り渡したことや、それを引き起こした自分にも原因があったことなどのすべてを神は用いて、それによって多くの民の命を救ってくださった、と言うことに気づいたのです。
ヨセフは自分中心ではなく、神の視点から自分の人生、そして自分の兄弟たちを、世界を見ることができるようになっていたのです。
 イエス・キリストが世に来られて、人を救う神の知らせ(福音)について人々に知らせました。しかし人々は妬みや恨みのため、キリストを十字架につけて殺してしまいました。
しかし、神はそんな人間の悪をも善に変えることができるお方です。キリストの十字架は、私たち人の罪を救う偉大な出来事となったのです。

ステファノは、自分たちの信仰の父であるアブラハムにまで立ちかえることによって、神が人間を救う救いのご計画は、自分たちが生まれるずっと以前から既に始まっていたことを、語りました。
その救いのご計画に、今の私たちも入れられています。
私たちには、とてもつらく、苦しい、困難な経験や出来事が与えられることがあります。
しかしたとえ何があっても、救いの神は今も私たちと共にいてくださり、これからも私たちを救ってくださる、私たちは信じることができるのです。
たとえ今はそう信じられなくても、後になって振り返ってみる時に、神は私と共におられ、神の守りは確かに私と共にあった、とイエス・キリストを通して振り返って信じることができる時が必ず来ます。
 そのような神の守りと恵みが与えられていることを、私たちは信じ、感謝を捧げて歩んでいこうではありませんか。

2025年9月20日土曜日

2025年9月21日 主日礼拝

前奏
招詞  列王記上10章8節
賛美  新生讃美歌2番 来たれ全能の主
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
信仰告白
献金
聖句  使徒言行録6章8~15節
祈祷
宣教  「知恵と霊とによって」
祈祷
賛美  新生讃美歌262番 み霊よくだりて
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所の初め(8節)に、“ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた” と書かれています。
 今日の箇所の前の箇所で、ステファノを含む7人が、キリストを信じる弟子たちの中から、“食事の分配”の働きのために選ばれました。
 7人が選ばれて、そして使徒たち(キリスト信者たちの中でリーダー的な存在であった人たち)が彼ら7人の上に手を置いて祈りました。
それは、彼ら(7人)に神の力と恵みが注がれ、彼らの働きの上に神の導きがありますようにという祈りでした。

 その祈りは聞かれ、ステファノは神の恵みと神の力に満たされて、イエス・キリストの福音を伝えるための業やしるしを行うようにまでなったのです。
  ステファノは、食事の分配と言う働きをするために教会の弟子たちの中から選ばれた7人の中の一人でした。
 そのステファノが、イエス様や、使徒たちのように、福音宣教のための働きをする伝道者として、今日の箇所では描かれています。
 ステファノは食事の分配という働きのために選ばれましたが、彼の働きや賜物は、その働きだけに限定されてはいなかったということです。

 あるいはステファノが、食事の分配という働きをしながら、だんだんと、御言葉を語り伝えるという彼に与えられていた別の賜物も活かされるようになった、ということかもしれません。
 いずれにしても、神の国、イエス・キリストの福音について語り伝える伝道の働きは、使徒のような、信者たちの中でのリーダーたちだけに限定されてはいなかったのです。
最初の頃の教会では、弟子たちひとり一人がその賜物に応じて御言葉を語ることができた、ということだと私は思います。
 先週は、わたしたちの教会の信徒の方(牧師ではない方)が礼拝での宣教を担ってくださいました。
 私たちの教会では、牧師でなくても、教会の委託と信認を受けた信徒の方に、礼拝での宣教(メッセージ)をお願いすることがあります。

 私たちひとり一人がキリスト者として、専任の伝道者であるないに関わらず、神の言葉をそれぞれの賜物に応じて語ることができるのです。
 そのように、一人ひとりに与えられた色々な賜物が、聖霊の導きによって、生き生きと活かされるような教会になりたいと、私たちは願います。
しかし、今日の箇所で、その時のステファノの伝道の働きに反対する人たちがいました。
彼らはキレネとアレクサンドリア(北アフリカの都市)出身で「解放された奴隷の会堂」(ローマ帝国によって奴隷にされていた人たちで解放されたユダヤ人たちの会堂)に属する人、そしてキリキア州とアジア州(今のトルコ地方)の人たちでした。
彼らはユダヤ人でしたが、イスラエル以外の国、地域の出身で、イスラエルに移り住むようになった、おそらく今日の前の箇所で描かれる“ギリシア語を話すユダヤ人”たちでした。
 彼らはユダヤ教の教えと慣習に従っていたので、ステファノの語るイエス・キリストの福音に反対するため、ステファノと議論しました。
しステファノが知恵と霊とによって語るので、彼らはステファノに歯が立たなかった、と10節に書かれています。
 ステファノに反対する人たちは、理屈や力によって、ステファノを言い負かそうとしたのでしょう。

しかし、議論や理屈ではなく、神から与えられた知恵と霊によって語られる神の言葉は、どんな議論や理屈よりも強いのです。それは神の言葉が真実であるからです。
 聖書に伝えられるイエス様のお言葉、また聖書の言葉全体がなぜ私たちを捉え、心に響くのでしょうか。
それは聖書の言葉は神の霊感によって心を動かされた人たちが、神の知恵と霊をもって書き記した真実の神の言葉であるからです。
人間の理屈や議論の結果の言葉ではなく、知恵と霊とによって伝えられた神の言葉、聖書の言葉にこそ、私たちの心を震わせ、感動させる力があるのです。
そのような真実の聖書の言葉を土台として私たちは自分自身の信仰、また私たちの教会の信仰を建て上げていきましょう。
ステファノに反対する人たちは他の人々を、ユダヤ教の長老や律法学者たちまで扇動して、ステファノを捕まえて最高法院(裁判所)へ引いて行きました。
彼らに扇動された人々の姿を想像すると、私たち人が、いかに簡単に扇動されてしまう者であるか、感情や心を簡単に操作されてしまう者であるかを考えさせられます。

私たちも、今日の箇所で扇動されて、嘘の証言までするようにそそのかされた人たちと同じようになってしまう可能性が十分にあるのです。
私たちは弱く、罪深い存在であるからです。私たちは、自分と異なる意見や立場の人たちに反対し、その人たちを力づくでも押さえつけてしまいたいと思うことがあるからです。
そのように、扇動されたり、嘘の証言までしてしまうことを避けるため、私たちはどうすればよいのでしょうか。
それは、いつも聖書の御言葉に聞いて、御言葉に根ざして、神様の真実に触れ続けることです。
イエス・キリストの愛と恵みに触れて、罪赦されたことに感謝をし、神と人の前に謙虚であり続けることです。
御言葉に繋がり続け、御言葉を通して私たちをつかんでいてくださる神様の手を、私たちの側から離すことを決してしないことです。
信仰生活の習慣としては、聖書を読み(神の声を聞き続ける)、教会の礼拝に参加し(神の体の一部として、その体に留まり、繋がりつづける)、そして祈り(神に語りかけ)続けることです。

 そして私たちは神の家族として互いに繋がりあって、悪しき力に屈したり、真実でないものに惑わされたりしないように、互いに励まし、支え合おうこともとても大切です。
 私たちは弱くとも、強く、優しい、真実なる神が御言葉をもって常に必要なことを教えてくださいます。神の言葉に従って、私たちは歩んでいきましょう。
 今日の聖書箇所で人々は、「この男は聖なる場所(神殿)と律法をけなしている」、「ナザレの人イエスは、神殿を破壊して、モーセの伝えた慣習を変えようとしている」などと言ってステファノを訴えました。
 それらは嘘の証言でした。ステファノが伝えていたことは、イエス・キリストの神の真実であり、イエス様が伝えた真の神の愛でした。
 悪意に満ちた反対者たちの中に立たされても、“ステファノの顔はさながら天使のようであった”、と今日の箇所の最後の節に書かれています。
それは、イエス・キリストを信じ、キリストが内に住まわる人はだれでもキリストのような光を放つことができる、ということです。

 イエス・キリストが私たちの中心におられるならば、私たちは不完全な者であっても、私たちはキリストの光を、まるで天使のように、放つことができるようになるのです。

 コリントの信徒への手紙二の3章18節(2 Corinthians 3:18)に次のように書かれています。
 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 主の霊によって、私たちはキリストの光、神の栄光を映し出すことができるようになる、と言うのです。
キリストを信じ、キリストが私たちの内に住まわることで、キリストの光を私たちは放ち、キリストの栄光を映し出す者となることができるのです。
 神に造られた者として、キリストの栄光、神の栄光を表すことができる、それ以上の光栄が他にあるでしょうか。
 今日はお二人の方が、キリストへの信仰を新たに告白し、バプテスマ(洗礼)を受けられます。私たちの教会にとって、それは大きな喜びです。
信仰の新たな家族をお迎えして、私たちは神の言葉を、私たちの生き方と言葉と両方において実践し、世にキリストの光を放つ信仰者として、共に成長してまいりましょう。
 キリストが私たちの内に住んでくださり、私たちがキリストの光を放ち、世がその光を認めることができますように。

2025年9月12日金曜日

 2025年9月14日 主日(敬老)礼拝


前奏
招詞  詩編90篇12節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
献金
聖句  ペトロの手紙一 4章7~11節
祈祷
宣教  「万物の終わりが迫っています」
祈祷
賛美  新生讃美歌336番 世の終わりのラッパ鳴りわたる時
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

*本日メッセージ原稿の公開はありません。    

2025年9月6日土曜日

2025年9月7日 主日礼拝

前奏
招詞  歴代誌上17章26~27節
賛美  新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
祈りの時
証し
献金
聖句  使徒言行録6章1~7節
祈祷
宣教  「御言葉の奉仕」
祈祷
賛美  新生讃美歌506番 主と主のことばに
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節から7節までの箇所には、キリスト者として、またキリスト教会として考えさせられること、教えられることが、実に多く語られています。
 約2000年前の初期のキリスト教会の内部で、どのような問題が起きていたのかを、今日の箇所ははっきりと描き出しています。
初期のキリスト教会の信者たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害を受けていました。
 ペトロをはじめとする、使徒と言われた12人のキリストの弟子たちは、イエス・キリストの名によって神の国の福音と救いを伝え始めました。
そして彼らを信じ、キリストを信じる弟子となる人たちが増えていきました。
それに対してユダヤ教の祭司や議員たち、権力者たちは、使徒たちに伝道活動をやめさせようとして、彼らを牢に入れたり、鞭打ったりして、なんとかして彼らの働きを妨害しようとしました。

しかし使徒たちはそれにも屈しないで、今日の箇所の直前の箇所では、彼らは鞭を打たれ宣教を禁じられながらも、使徒たちは“イエスの名のために、辱めを受けるほどの者となったことを喜んだ”と書かれています(使徒5章41節)。
イエス・キリストのために、神の働きをすることによって迫害されるのならば、それは十字架の上で人の罪のために死なれたイエス様に少しでも近づけるということだ、と彼らは思って、そのことを彼らは喜んだのです。
それは、この世界の普通の価値観とは全く違う生き方です。それは、困難や苦しみの中に、キリストと共にある幸いを見い出すという、信仰を通した新しい生き方です。
 それはまた、自分を迫害する者を憎んだり反撃したりするのではなくて、キリストによる愛と憐れみによって、自分を迫害する者のためにさえ祈り、彼らの救いをも願って福音を語り続ける、という生き方でもあったと私は考えます。

 使徒たち、他の弟子たちの働きによって、キリストに従う弟子の数は増えていきました。
今日の箇所では、弟子の数が増えてきたことによって、ある問題が起こったことが書かれています。
弟子の数が増えることで、迫害という外部からの問題だけでなく、彼ら教会の内部からも問題が起きたことを、今日の箇所は伝えているのです。
 キリスト教会は人間の集まりです。罪のない人は誰もいない以上、教会も罪ある人間の集まりです。
人が集まるところには必ず何らかの問題や軋轢、衝突が起こります。それは避けられないということを、聖書ははっきりと伝えます。
今日の箇所で、“ギリシア語を話すユダヤ人”と“ヘブライ語を話すユダヤ人”と言われる人たちが登場します。
 彼らはどちらもユダヤ人でしたが、ギリシア語を話すユダヤ人とは、イスラエル以外の国や地域で育ち、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語を母語として身につけたユダヤ人たちでした。

古くはアッシリア帝国や、バビロン帝国、そしてイエス様の時代にはローマ帝国にイスラエルは支配されたことで、多くのユダヤ人たちがイスラエルを離れて外国に住むように(住まわされるように)なっていました。
 そのように離散させられて諸外国に住むようになった彼らの中から、祖先の故国であるイスラエルに戻ってきた人たちがいました。それがギリシア語を話すユダヤ人と今日の箇所で言及されている人たちです。
 一方ヘブライ語を話すユダヤ人とは、イスラエルの地で生まれ育ったユダヤ人であり、彼らの母語はヘブライ語でした。いわば、彼らは生粋のユダヤ人であったと言ってよいでしょう。
彼らは同じユダヤ人でしたが、第一言語が異なること、生まれ育った文化や環境も異なることから、彼らの間には色々な問題などが起きていたようです。
 今日の箇所では、ギリシア語を話すユダヤ人たちのやもめ(夫をなくした女性たち)が、日々の食べ物の分配のことで不利益を受けていた、と描かれます。

 立場的にはヘブライ語を話すユダヤ人たちのほうが優位な立場にあったのではないかと思われます。
彼らは同じユダヤ人でしたが、母語や生まれ育った文化、環境が違う、という違いのほうに彼らの関心は向けられていたのかもしれません。それが原因となって問題が生じたのでしょう。
 私たちも、お互いの間の共通点を見いだすよりも、互いに違う部分、相容れない部分のほうに目が行きやすく、それが原因で他者との間に問題や軋轢が生じることも多いと思います。
  私たちは、互いの間の共通点、互いの良い点を見いだすことによって(違いに目を向け、それを非難することよりも)、互いにより良い関係を築いていきたいと願います。
 しかし、今日の箇所で描かれるように、苦情が表明されるということは決して悪いことばかりではありません。
誰かが不平や不満を感じている、実際に不利益があるのならば、それらが明らかにされることは、問題の解決のために必要なことです。
 不満や疑問があっても、それを口にすることができず、力の弱い人たちが我慢し続けなければならないことが教会にあるのならば、それは決して良いことではありません。
 あくまで互いに配慮と礼儀が求められますが、問題があれば、それを隠したり見ぬふりをしたりするのではなく、問題を明るみにだして、問題に向き合い解決を目指して、正直に共に祈り合える教会を私たちは目指したと思います。

 弟子たちはその時、その問題にどのように対処したのでしょうか。12人の弟子、使徒たちが言った言葉を聞いてみましょう。

2~3節の言葉です。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊“と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」

 12人の使徒たちは、自分たち(12使徒たち)が一番大切にすべき務めは何か、についてまず思いを巡らせました。
そして彼らが一番大切にしなくてはならない務め、使徒たちが神と教会から託された務めは、“神の言葉への奉仕”、“祈りと御言葉の奉仕”だと、彼らは思い至ったのです。
 食事の分配も信者たちの生活に関わる大切な務めでした。しかし使徒たちがそのような職務に専念して、祈りと御言葉の奉仕という彼らの最も大切な働きが犠牲になるのならば、それは教会全体にとってよいことではない、ということです。
 神は、私たちひとり一人に、それぞれ異なる賜物を与えてくださいました。その賜物に優劣はありません。
祈りと御言葉への奉仕も、信者の集まりの中での食事の分配と言う働きも、どちらもイエス・キリストへの信仰を土台としている限り、神の国のための尊い働きです。

私たちも教会で、互いに与えられた賜物を認め合い、尊重し合いながら、また自分一人で色々なことができるわけではないことも認めつつ、互いに支え合って、互いの賜物が生かされながら主の教会を建て上げていきたいと願います。
 2節に、“12人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めた”と書かれています。弟子がすべて集められたとは、今の私たちの教会で言えば、言わば“教会総会”が開かれたということです。
 その事柄が教会全体に関係する大切なことであったので、弟子が全員集められ、全員参加による話し合いがもたれたのです。
 私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会では、教会にとって大切なことは、教会員全員による祈りと話し合いによって決めるということを、とても大切にしています。
 早く決めようと思えば、あるいはより効果的な決断を下そうと思えば、誰か優秀な人、あるいその事柄に専門的に通じた人だけで決めたほうが早いでしょう。
皆の意見を聞いて話し合って、異なる意見を纏めていくのは大変忍耐を要する過程であり、時間もかかります。
しかしそのような方法を通して、一人ひとりの思いや考えができるだけ尊重されること、その過程を通して神の御心を見い出すことを、私たちは大切にしています。
 使徒たちは、集まった弟子たちに“あなたがたが7人を選び、霊と知恵に満ちた評判の人を選びなさい”と言いました。

 一同はその提案に賛成し、そして彼ら弟子たち自身によって、信仰と聖霊に満ちている人々が7人選ばれました。
使徒たちは祈って彼ら7人の上に手を置きました。選ばれた7人が、誠実な信仰をもって、託された務めを果たしていくことができるように、使徒たちは彼らのために祈ったのです。
選んであとは彼らに任せておしまい、ではなく、使徒たちは選ばれた者たちのために祈り、それからも彼らを励まし続け、彼らのために祈り続けたと私は思います。
私(酒井)も別府国際バプテスト教会の牧師に就任した時、就任式で教会の皆さんに私の上に手を置いて祈っていただきました。
 その祈りは、私が牧師としての務め、教会の皆様から託された御言葉の取り次ぎという働きに、聖霊の導きが豊かに与えられ、私がその働きに専念することができるように、という皆さんの願いが表された祈りでした。

 今日の箇所を通して、私は私自身が皆さんに手をおいて祈っていただいた、あの時のことを鮮明に思い出します。
御言葉の宣教、また祈りという牧師にとっての第一義的な働きの大切さを改めて私は思い起こしています。御言葉の取り次ぎに私が専念できますように、皆さんには祈っていただきたいと願います。
 先ほど申し上げたように、人が集まる以上、教会であっても(むしろ教会だからこそ)常に問題は起きます。しかし、問題が起きないことが大切なのではありません。
大切なことは、問題が起きたとき、それに対してどのように向き合うのか、教会に連なる一人ひとりが信仰をもって互いに祈り、互いに配慮しあって、愛をもって、その問題に向き合うことができるかが大切です。
今日の箇所では、食事の配給での公平さが保たれるため、その働きのために7人の“知恵と聖霊に満ちた人”が選ばれました。
彼らは私たちとは違う、何か特別な人たちだったのでしょうか。そうではありません。神は、今の私たちにも、聖霊と知恵とを豊かに与えてくださいます。

私たちが聖霊と知恵を与えてくださるように神に願うならば、その時神は必ず聖霊と知恵とを私たちに豊かに与えてくださいます。
私たちはキリストの弟子として、それぞれが与えられた果たすべき務めがあります。その務めに私たちが忠実であることができるように、イエス様に願い求めてまいりましょう。
そして祈りと御言葉、この二つは使徒や、現在で言えば牧師や伝道者だけでなく、全てのキリスト者とキリスト教会にとって最も大切な働きです。
祈りとは心を打ち明けて神と霊的に会話をすること、そして御言葉とは聖書の言葉であり、礼拝で語られる宣教メッセージです。
祈りと御言葉こそが、私たちの本当の霊の糧であり、祈りと御言葉への奉仕こそはキリスト教会だけに託された尊い務めです。
祈りと御言葉という、キリスト教会だけが頂いている宝物であり、また賜物を大切にしながら、その務めに専念をする、御言葉に奉仕するキリスト教会で私たちはあり続けましょう。