2025年9月20日土曜日

2025年9月21日 主日礼拝

前奏
招詞  列王記上10章8節
賛美  新生讃美歌2番 来たれ全能の主
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
信仰告白
献金
聖句  使徒言行録6章8~15節
祈祷
宣教  「知恵と霊とによって」
祈祷
賛美  新生讃美歌262番 み霊よくだりて
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所の初め(8節)に、“ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた” と書かれています。
 今日の箇所の前の箇所で、ステファノを含む7人が、キリストを信じる弟子たちの中から、“食事の分配”の働きのために選ばれました。
 7人が選ばれて、そして使徒たち(キリスト信者たちの中でリーダー的な存在であった人たち)が彼ら7人の上に手を置いて祈りました。
それは、彼ら(7人)に神の力と恵みが注がれ、彼らの働きの上に神の導きがありますようにという祈りでした。

 その祈りは聞かれ、ステファノは神の恵みと神の力に満たされて、イエス・キリストの福音を伝えるための業やしるしを行うようにまでなったのです。
  ステファノは、食事の分配と言う働きをするために教会の弟子たちの中から選ばれた7人の中の一人でした。
 そのステファノが、イエス様や、使徒たちのように、福音宣教のための働きをする伝道者として、今日の箇所では描かれています。
 ステファノは食事の分配という働きのために選ばれましたが、彼の働きや賜物は、その働きだけに限定されてはいなかったということです。

 あるいはステファノが、食事の分配という働きをしながら、だんだんと、御言葉を語り伝えるという彼に与えられていた別の賜物も活かされるようになった、ということかもしれません。
 いずれにしても、神の国、イエス・キリストの福音について語り伝える伝道の働きは、使徒のような、信者たちの中でのリーダーたちだけに限定されてはいなかったのです。
最初の頃の教会では、弟子たちひとり一人がその賜物に応じて御言葉を語ることができた、ということだと私は思います。
 先週は、わたしたちの教会の信徒の方(牧師ではない方)が礼拝での宣教を担ってくださいました。
 私たちの教会では、牧師でなくても、教会の委託と信認を受けた信徒の方に、礼拝での宣教(メッセージ)をお願いすることがあります。

 私たちひとり一人がキリスト者として、専任の伝道者であるないに関わらず、神の言葉をそれぞれの賜物に応じて語ることができるのです。
 そのように、一人ひとりに与えられた色々な賜物が、聖霊の導きによって、生き生きと活かされるような教会になりたいと、私たちは願います。
しかし、今日の箇所で、その時のステファノの伝道の働きに反対する人たちがいました。
彼らはキレネとアレクサンドリア(北アフリカの都市)出身で「解放された奴隷の会堂」(ローマ帝国によって奴隷にされていた人たちで解放されたユダヤ人たちの会堂)に属する人、そしてキリキア州とアジア州(今のトルコ地方)の人たちでした。
彼らはユダヤ人でしたが、イスラエル以外の国、地域の出身で、イスラエルに移り住むようになった、おそらく今日の前の箇所で描かれる“ギリシア語を話すユダヤ人”たちでした。
 彼らはユダヤ教の教えと慣習に従っていたので、ステファノの語るイエス・キリストの福音に反対するため、ステファノと議論しました。
しステファノが知恵と霊とによって語るので、彼らはステファノに歯が立たなかった、と10節に書かれています。
 ステファノに反対する人たちは、理屈や力によって、ステファノを言い負かそうとしたのでしょう。

しかし、議論や理屈ではなく、神から与えられた知恵と霊によって語られる神の言葉は、どんな議論や理屈よりも強いのです。それは神の言葉が真実であるからです。
 聖書に伝えられるイエス様のお言葉、また聖書の言葉全体がなぜ私たちを捉え、心に響くのでしょうか。
それは聖書の言葉は神の霊感によって心を動かされた人たちが、神の知恵と霊をもって書き記した真実の神の言葉であるからです。
人間の理屈や議論の結果の言葉ではなく、知恵と霊とによって伝えられた神の言葉、聖書の言葉にこそ、私たちの心を震わせ、感動させる力があるのです。
そのような真実の聖書の言葉を土台として私たちは自分自身の信仰、また私たちの教会の信仰を建て上げていきましょう。
ステファノに反対する人たちは他の人々を、ユダヤ教の長老や律法学者たちまで扇動して、ステファノを捕まえて最高法院(裁判所)へ引いて行きました。
彼らに扇動された人々の姿を想像すると、私たち人が、いかに簡単に扇動されてしまう者であるか、感情や心を簡単に操作されてしまう者であるかを考えさせられます。

私たちも、今日の箇所で扇動されて、嘘の証言までするようにそそのかされた人たちと同じようになってしまう可能性が十分にあるのです。
私たちは弱く、罪深い存在であるからです。私たちは、自分と異なる意見や立場の人たちに反対し、その人たちを力づくでも押さえつけてしまいたいと思うことがあるからです。
そのように、扇動されたり、嘘の証言までしてしまうことを避けるため、私たちはどうすればよいのでしょうか。
それは、いつも聖書の御言葉に聞いて、御言葉に根ざして、神様の真実に触れ続けることです。
イエス・キリストの愛と恵みに触れて、罪赦されたことに感謝をし、神と人の前に謙虚であり続けることです。
御言葉に繋がり続け、御言葉を通して私たちをつかんでいてくださる神様の手を、私たちの側から離すことを決してしないことです。
信仰生活の習慣としては、聖書を読み(神の声を聞き続ける)、教会の礼拝に参加し(神の体の一部として、その体に留まり、繋がりつづける)、そして祈り(神に語りかけ)続けることです。

 そして私たちは神の家族として互いに繋がりあって、悪しき力に屈したり、真実でないものに惑わされたりしないように、互いに励まし、支え合おうこともとても大切です。
 私たちは弱くとも、強く、優しい、真実なる神が御言葉をもって常に必要なことを教えてくださいます。神の言葉に従って、私たちは歩んでいきましょう。
 今日の聖書箇所で人々は、「この男は聖なる場所(神殿)と律法をけなしている」、「ナザレの人イエスは、神殿を破壊して、モーセの伝えた慣習を変えようとしている」などと言ってステファノを訴えました。
 それらは嘘の証言でした。ステファノが伝えていたことは、イエス・キリストの神の真実であり、イエス様が伝えた真の神の愛でした。
 悪意に満ちた反対者たちの中に立たされても、“ステファノの顔はさながら天使のようであった”、と今日の箇所の最後の節に書かれています。
それは、イエス・キリストを信じ、キリストが内に住まわる人はだれでもキリストのような光を放つことができる、ということです。

 イエス・キリストが私たちの中心におられるならば、私たちは不完全な者であっても、私たちはキリストの光を、まるで天使のように、放つことができるようになるのです。

 コリントの信徒への手紙二の3章18節(2 Corinthians 3:18)に次のように書かれています。
 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 主の霊によって、私たちはキリストの光、神の栄光を映し出すことができるようになる、と言うのです。
キリストを信じ、キリストが私たちの内に住まわることで、キリストの光を私たちは放ち、キリストの栄光を映し出す者となることができるのです。
 神に造られた者として、キリストの栄光、神の栄光を表すことができる、それ以上の光栄が他にあるでしょうか。
 今日はお二人の方が、キリストへの信仰を新たに告白し、バプテスマ(洗礼)を受けられます。私たちの教会にとって、それは大きな喜びです。
信仰の新たな家族をお迎えして、私たちは神の言葉を、私たちの生き方と言葉と両方において実践し、世にキリストの光を放つ信仰者として、共に成長してまいりましょう。
 キリストが私たちの内に住んでくださり、私たちがキリストの光を放ち、世がその光を認めることができますように。