2013年5月26日日曜日

見つけられた一匹の羊

2013/5/26宣教より
ルカ15:1~7
さきほど主の晩餐をいたしました。その晩餐にあずかりながら、「えっ、あの人が一緒なの。いやだわー。牧師はなぜ、あの人を私たちと一緒に扱われるのかしら」と考えた人はいないでしょう。けれど、この場面では、まさにそういう不平、非難の言葉が出て来たのです。◆食事を共にするということは、これは他者と共に生きる時の基本です。一緒に食事をするということは、互いが仲間として受け容れあうということです。つまり、主イエスは、徴税人や罪人の仲間入りをされたのです。◆しかしそれを見て、それが許せない人がいたのです。罪人の仲間入りをすることがどうしても許せない人々がいたのです。それは「自分はあいつらとは違う」と考え、自分の正しさを誇っていたからです。主イエスは、そんな彼らの傲慢を打ち壊すために、このたとえ話をなさった、ということです。◆おそらく、この話をなさった時、そこには非難の原因となった徴税人や罪人たちも一緒にいたでしょう。彼らにとって、この主イエスのたとえは、喜び(福音)以外の何ものでもなかったでしょう。それまで聞いたことのない、愛と憐みに富んだ言葉だったでしょう。◆このように、たとえ話というのは、どの立場で聞くかによって、それが裁きにもなれば、救いにもなるのです。さあ、私たちは一体、どちらの立場に身を置いて、このたとえを聴いているでしょうか。律法学者でしょうか、それとも罪人でしょうか。◆私たち一人一人が、それぞれの立ち位置を確認しましょう。一人一人が「見つけられた一匹の羊」として自分を見つめ、そして周りの一人一人に対してもそのように考えることができるなら、そこに主イエスの開始された「神の国」が現されるでしょう。

すべての民を主イエスの弟子に

2013/5/19宣教より

マタイ28:18~20/使徒言行録2:1-11

聖霊は、「炎のような舌」のように「一人一人の上に」とどまりました。この「一人一人の上に」というのが重大です。そこにいた誰一人として傍観者ではありません。一同すべてが世界伝道の担い手となって行く、それがペンテコステの出来事です。◆「家中に響いた」(2:2)というのも注目したい言葉です。聖書では時折「家」(オイコス)は「世界」(コスモス)を暗示します。聖霊の風音が「家中(オイコス中)に響いた」ということは、全世界が聖霊によって御言葉の伝道で満たされる、その福音の喜びが世界中に響き渡ることの予兆なのです。◆幸いに、私たちの教会には、世界のあちらこちらからの人々が集まっています。そしてこの教会から、世界各地に押し出されていきます。なんと素晴らしい、福音の広がりの可能性を秘めている教会だと思います◆そのために私たちは弟子となって行く訓練をしなければなりません。告げ知らせる福音の内容をよく学び、証しする言葉を整え、伝える相手に伝わる言葉を獲得して行かねばなりません。◆私は願っています。この教会の一人一人が主イエスの弟子となって福音を伝える者となることを。◆私は願っています。この教会から牧師や宣教師などの伝道者が起こされることを。そしてこの日本のキリスト教宣教の働きを担う者となっていくことを。いや、日本だけではありません。世界中です。

2013年5月19日日曜日

大牧者・主イエスと共に

2013/5/12宣教より

ヘブライ 13:20~21

私は牧師という務めに召されて16年になりますが、この務めの責任の大きさに今も尚、おそれを感じます。教会という羊の群れを牧する責任、信徒(羊)一人一人への手厚い配慮と関わり、その足りなさに自分の至らなさを思います。◆しかしその自分の小ささを思えば思うほど、主イエス・キリストの偉大さを痛感いたします。主イエス・キリストは私たち(羊たち)の「大牧者」です。◆主イエスは言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」 (ヨハネ10:10-11)と。◆この「大牧者」主イエスは、その言葉の通り、御自身の命を捨てて(十字架に死んで)、私たち(羊たち)の命を救って下さいました。それによって父なる神との契約(救いの約束)を、一時的なものではなく、永遠なる確かなものとしてくださったのです。◆この世にあって、「永遠」に存続することってあるでしょうか?・・・「否」です。私たちの肉体の健康も、国家という形も、地球環境も、すべて変わりゆくもの、形を失うものです。◆けれども、「大牧者」主イエスによって果された契約は、いつまでも新しく、変わりません。それは不変の真理です。ですから、この方と共に歩むとき、私たちは安心できるのです。◆私たちがこの『祝祷』を聞く時に、その「大牧者」主イエスの臨在を強く確信できるなら幸いです。そしてその確信は、ここから出かけて行く先々で出会うどんな局面におかれても、私たちを励まし、平安に満たし、強くするでしょう。

2013年5月12日日曜日

恵みによって強められて

2013/5/5宣教より

ヘブライ13:7~9

信仰者の強みは、神の恵みによって生かされていることに気付いていることです。◆「恵み」というのは、一方的に神が下さるものです。それは「無条件の愛」と言い換えても良いでしょう。私たちが愛したから、神は愛してくれる―――そのような条件付きではありません。私たちが神を愛する前から、神は私たちを愛して下さっています。私たちが神のために何かをしたから、ではなく、神は無条件に私たちを愛して下さっています。それが恵みです。◆私たちはみな、行いによってではなく、神の恵みのゆえに救われた者たちです。そのことを忘れ、何か自分の力で生きているかのように錯覚してはなりません。◆主は言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)と。◆自分の弱さに落ち込む悩むとき、この御言葉を思い出しましょう。そして神の恵みによる強めを願い求めましょう。
イエス・キリストの十字架の死によって、罪深い私たちに救いの道を開いて下さった主よ、その大いなる恵みに心から感謝しつつ、賛美いたします。どうぞこの弱き小さな私たちですが、その欠け多き器の中からこぼれ出るあなたの豊かな恵みを、世に証しさせてください。

2013年5月6日月曜日

祈りの課題


このところ国外・国内各地で地震が頻発しています。中国四川省で再び起きた地震の被害は深刻です。被災された方々のために祈りましょう。また、私たちも日々の生活の中で、非常時に備える生活を整えてまいりましょう。別府市が作成した「津波ハザードマップ」を玄関ホールに掲示しています。それぞれの生活の場における避難場所を確認しておきましょう。

2013年5月5日日曜日

追い求めよ

2013/4/28宣教より

ヘブライ 12:14~15

「すべての人との平和」「聖なる生活」この二つが、クリスチャンとして「追い求める」ものです。◆聖なる生活とは、何も私たちの周りに壁を作る事ではありません。むしろ私たちの心にある「神第一」の生き方が、周りに良い証しとなって広がるように期待されているのです。◆「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(12:14)と言われている様に、私たちが神のものを第一に取り分ける生き方をしていると、それを通して周りの人が主なる神を知るのです。◆私は信じます。聖なる生活、すなわち神を神をする生き方こそが、この世(人と人との関係)にまことの平和を実現する、と。逆もまた真です。人との間に平和を追い求めない生活は、聖なる生活ではない、と。
主なる神様、私たちは折に触れ、選ぶべき帰路に立たされます。神か人か、教会か地域か、そのはざまで悩みます。その悩みもまた、「すべての人との平和」を希求するがゆえのものです。どうぞ、その折々になす私たちの決断と姿勢が、主あなたを証しするものとなりますように。地の塩、世の光として私たちを用いてください。アーメン