2018年4月15日日曜日

今週のスケジュール

◆1月16日(水)聖書の学びと祈り会
  午前の部(10時半~12時)、午後の部(午後7時30分~9時)
   旧約聖書の「サムエル記」から学び、祈りの時を持ちます。
◆1月18日(金)フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF)
  フライデー・ファミリー・フェローシップは、当教会を会場にして毎週金曜日の夜に開かれている超教派クリスチャンを中心にした国際交流の集まりです。歌やゲーム、信仰に関するディスカッションなどがあります。教会、国際交流に興味のある方、どなたでもご参加ください。


次週のスケジュール

◆1月20日(日)  
 第一礼拝 9:00~9:50  第二礼拝10時50分~12時 
 メッセージ「イエス様による癒し」  マルコによる福音書1章21~39節
                                                酒井朋宏牧師
*教会学校 10時~10時40分
 小中科、青年科、成人科、国際科、入門科があります。
2019年1月13日(日)主日礼拝 
ローマ13:1~7
「支配者への従順」
今日の聖書箇所、ローマの信徒への手紙13章1~7節で書かれている事は「支配者への従順(支配者に従う)」です。ここを読んで、私たちは最初に“え?本当に?”と思わなかったでしょうか?
1~2節
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」
 聖書は私たちの信仰の唯一の基準です。ですから、ここに書かれていることを私たちが文字通りに守らなくてはならないとしたら、例えば、教会のリーダーである牧師が言う事には、教会の皆さんは何でも従わなくてはいけないのでしょうか?
 会社などの組織で仕事をしている人は、自分よりも上の権限を持った上司の言うことであれば、たとえどんなに理不尽で無茶なことであっても従わなくてはならないのでしょうか?
 あるいは、政府の中で権限や権力を持った人達の言う事には、私たち国民(市民)は何でも従わなくてはいけないのでしょうか?
 かつてペトロとヨハネは、イエス・キリストの福音を宣教し始めた時、ユダヤ教の権威者たち(律法学者や議員たち)から“イエスの名前によって教えたり、話したりすることをやめるように”と言われたことがありました。(使途言行録4章)
しかしそう言われてもペトロとヨハネは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」“Which is right in God’s eyes: to listen to you, or to him (God)?”と答えました。それはつまり、“私たち(信仰者)はこの世の権力者ではなく神に従うべきだ”という事です。(使途言行録4章19節)。
 しかし今日の箇所で、このローマの信徒への手紙を書いたパウロは、“上に立つ権威(それは当時の状況の中では“国家の中で権限や権威を持った指導的な立場にある人達”のことです)に従え”と言うのです。
これは「人よりは神に従うべき」という私たちの信仰と矛盾するのではないでしょうか?
この箇所が書かれた当時、イスラエル・ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれていました。そして実はそのような中で、ユダヤ教徒またはイエス・キリストを信じたキリスト者の中にも、神を信じる信仰と思いがあまりに強くて、自分たちを支配する“国家”という政治体制そのものを完全に否定する人たちがいました。
“自分たちは、唯一の神様にだけ従うのだから、この世が定めた権威や制度などには一切従わない”とか“社会とは関わりもしない。社会など必要ない”というように、非常に過激で極端な考えを持ち、そのような生き方を実践していた人たちがいたようです。
 今日の箇所は、そのように極端な主張をする人達に向けてパウロが語った言葉であると、考えられています。パウロは“国家や政府など必要ない”という人に対して、“そうではない。私たちは社会の一員として、キリスト者であろうとなかろうと、社会の中で一緒に生きていくのだ”と言いたかったのです。
しかし、パウロはなぜ、“神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの” for there is no authority except that which God has established. The authorities that exist have been established by God.とまで言うことができたのでしょうか?彼はなぜそう信じることができたのでしょうか?
恐らくパウロは“ローマ皇帝を頂点とする国や社会の制度の中にも、唯一の神の守りと導きが働いている”と、聖霊の導きによって信じたのだと私は思います。“神が世界を支配しておられる”という神への信頼と信仰がパウロにはあったのです。
人間が作る制度ですから、どのような政治体制であっても、完全なものではありません。どんなに偉大で優れた王や指導者であっても人間ですから、いつでも間違いを犯す可能性があります。
しかし、たとえどのような社会体制であっても、そこには神の支配が及んでおり、たとえ彼らが自覚していないとしても、そのような神の支配の下に王やその他のローマの権力者たちも服しているのだ、ということがパウロに示されたのだと、私は思います。
 それでもやはり、“人に与えられた権限(力)が、本当に神に由来するものかどうか”―そのことは慎重にしっかりと吟味されなくてはなりません。
 ヨハネによる福音書19章10節からの場面では、イエス様が十字架につけられる前にピラトからの尋問を受けます。そこで「わたしにはお前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」Don’t you realize I have power either to free you or to crucify you?”というピラトに対して、イエス様は「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」“You would have no power over me if it were not given to you from above (God).と言います。
ここでのピラトの間違いは「権限を自分自身の中に持っている」と考えたことです。本当の権威や権限は、“自分の外から”与えられるもの、つまり神から与えられて、そしてそれが他の人たちからも認められてこそ、本当の権威と権限になるのです。
ですから今日の聖書の箇所を根拠にして、権威を持つ人が自分から“私の言うことには何でも従え”などと言うのは明らかに間違いです。
そのように自分で強く言わなくてはならないような権威であれば、本当に神様から与えられた権威であるかどうか疑わしいと思ったほうがよいでしょう。
  牧師としての私に、神から与えられた権威があるとすれば、それは私を牧師として立ててくださる教会の皆さんの祈りと信頼、そして私が神から受けた召命(calling)が一致しなくてはなりません。
もしそのような祈りと信頼関係、そして神から私への召命―それらの一致が無いならば、もしくは私が自分から“権威”を振りかざすようならば、“それは神から与えられた権威ではない”と、断言してよいと私は思います。
3節
3:実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
ここでは“権威者を恐れずに善を行うこと”が勧められます。“善を行う”とは、普通の“善い行いをする”ということ以上に、“私たち信仰者が神の御心を求めて、イエス・キリストへの信仰を実践して生きる”、“イエス様に従って生きる”ということを意味します。
私たちがイエス・キリストを信じ、そしてイエス様への信仰を実際の生き方で実践しながら生きるならば、“この世の権威や支配者と言われる人たちを私たちは怖れなくなる”と言うのです。
イエス様も「人を恐れるな」と言いました。
マタイによる福音書10章26節からの箇所で、
「人々を恐れてはならない。。(中略)。。。。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とイエス様はおっしゃっています。
“魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい”という言葉は、厳しい言い方に聞こえますが、イエス様が一番おっしゃりたいことは、“私たちは人を恐れなくよい”ということです。なぜなら、本当に恐れるべきお方は誰かということを、私たちは知らされているからです。
 私たちは人の目を気にしたり、人の力や人からの脅威、人からの影響を恐れたりします。しかし、最も恐るべき力を持つお方である神を私たちは知らされて、しかも“その神にこの私は愛されて守られている”ということが分かれば、私たちは人を恐れなくなるのです。
 私たちがイエス様に従って生き、歩み続けるならば、どんな人をも恐れないどころか、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われたイエス様の教えさえも、私たちの生き方の中で実践することができるのだと思います。
 私たちの中にはそのような愛はありませんが、私たちはイエス様の愛を頂くことができます。イエス様から頂く愛によって、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という、信じられないようなことさえも可能になる、と聖書は私たちに教えているのです。
6~7節を見てみましょう。
6:あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
7:すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
今日の箇所は元々、“神だけを信じる”と言って、社会との関わりや社会や国家の存在さえも否定した信仰者へ向けられたパウロの言葉だった、と最初に私は申し上げました。
その締めくくりとして、“社会の一員としての義務を信仰者も果たすこと”の例としての“納税”と“権威ある者へ敬意を示すこと”をパウロは挙げます。
 “税を納めて、そして敬うべき人は敬いなさい”とは、ただ表面的な行いとして社会の義務を果たすのではなくて、“心から行いなさい。人には尊敬の念をもって行いなさい”、“信仰(心)と行いを一致させなさい”ということだと思います。
今日の前の章の12章10節には“兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい”と書かれています。
誰かに対して何かをするのならば、“愛と敬意をもって行いなさい”、つまり信仰と行いを一致させて生きることが、私たちには求められているのです。
  今年度の私たちの教会の目標は“互いを尊敬する”です。この信仰の目標を、行動と心と両方で実践するならば、そして教会の中だけでなく、私たちが普段生きている社会の現場、生活の場においても実践していければ、私たち一人一人の信仰は、きっと成長していきます。そして福音も前進していくと私は信じます。
 最後に“私たちは社会の一員である”ということを、私たちの教会のこととして少し考えてみて、宣教を終りたいと思います。
私たちはこの別府市中須賀東町(Nakasuka-Higashimachi)という地に20年以上立てられています(別の場所にあった集会時代も含めればもっと長い年月です)。私たちの教会はこの地域の救いと福音伝道のために働き続けてきましたし、これからもその働きに仕えていきます。
 そして実は私たちが仕えるだけではなくて、私たちの教会は、地域の皆さんによっても支えられています。
私たちの教会も、この周りの地区の皆さんの理解と好意によって支えられて、信仰生活を送り礼拝を守ることが許されているのです。そのことを私たちは感謝したいと思います。
 この地に立てられた教会として、この地域で共に生きる一員として私たちが果たすべき役割・義務があります。それは何でしょうか?私たちは教会ですから、イエス・キリストの福音を地域へ伝えていくことが最も大切な務めです。教会の役割、そして使命はこれ以外にはあり得ません。
 教会として最も大切な宣教の務めを果たしつつ、出来る限りのこの地域への関わりと貢献も、これからぜひ考えていければと私は願っています。
 私たちの信仰の良心、信仰の根幹に関わることで私たちが決して社会とは妥協できないこともあります。イエス・キリストへの私たちの信仰を守ることが脅かされるような世の力には、私たちは対抗せねばなりません。
しかし、どのような時にも私たちは、“イエス・キリストの神は今も生きて、私たちの救いのために働いておられる。主が世を支配しておられ、そして主は既に世に勝っておられる”と信じることができるのです。
私たちが生きる地域の中で、イエス・キリストの福音が前進することを期待し願っていきましょう。そして私たちが他者を敬いながら、福音宣教のための働きを日々の生活の中で喜んで担っていくことができるようにと祈りつつ、今日もここから遣わされていきましょう。

2017年1月30日月曜日

「私にとって難病は恵みです」


1月29日 主日礼拝の宣教に神戸在住のデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えている保田広輝兄を迎えての礼拝を行いました。素晴らしいメッセージだったので、保田広輝兄の了承を得て、当教会のホームページで公開することにしました。

「私にとって難病は恵みです」
聖書:ヨハネによる福音書1515~16
保田 広輝兄


私は保田広輝と言います。生まれた時から、不治の難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。この難病は、遺伝子の異常のせいで、どんどん体の筋肉が壊れていきます。筋肉が壊れると、身体を動かしたり、呼吸したり、食事ができなくなる病気です。

今の私は呼吸することができないので、24時間ずっと、人工呼吸器で生きています。あと、手の親指だけしか動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは身の回りのことが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。

いま私は25歳ですが、4歳の時に、この難病を診断されて、当時は20歳までの命だと宣告されました。でも、私は難病だと知らずに、育てられたんですね。

幼い頃は、走ることができなかったし、手すりをしっかりつかまないと、階段を上ることはできなかったけど、自分はただ、運動神経がない、と思っていたんです。その気持ちは、9歳の時に車椅子生活になっても、変わりませんでした。大人になって、なぜ難病だと教えてくれなかったの?と両親に尋ねると、「20歳で死ぬなんて伝えられなかった…」と答えてくれました。

そして、両親はクリスチャンだったので、私は、生まれた時から教会に通っています。13歳の時に、神様を信じる決心の信仰告白をしたんですね。難病の現実を痛感したのは、大学の受験勉強に頑張っていた18歳の春からでした。私も主治医も、難病が悪化していることが分からず、1年間で5回も入院したんですね。

一日中、内臓の痛みと、嘔吐が止まらず、ものすごい息苦しさと、激しい頭痛のせいで、ほとんど眠れないので、毎日、意識がボーとなって、本当に死ぬかと思う日々を過ごしました。そのあいだも、受験勉強を頑張りましたが、息苦しさと頭痛のせいで、勉強したことを次から次に忘れていき、試験の点数はどんどん下がっていくので、努力が無駄になるのは辛かったですね。

このように苦しみながら、神様、助けてくださいと祈り続けました。ずっと苦しみながら、1年が経ってから、神様のお導きと母の努力のおかげで、スーパードクターがいる四国の病院のことを知って、その病院で、人工呼吸器を導入してもらってから、死にそうな状態から助けられました。いま振り返ると、本当に命の危険ギリギリのところだったので、神様が救ってくださったと思います。

ただ、人工呼吸器で生活するには、毎月診察を受けて、ドクターの管理が必要なんですね。そうするために、地元福岡の専門病院で、検査入院したときに、そこのドクターから、「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と余命宣告を受けました。心が引き裂かれる宣告でした。この時に、難病の現実を痛感したんですね。

その後、合格した大学に入学したけど、体調不良で、たった半年で、中退することになりました。それからは、自分を見つめ直す日々でした。人工呼吸器を使う体になったこと、余命宣告を受けたこと、体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったことが、大きなストレスとなって、すごく暗い気持ちになったんですね。

毎日お祈りしていく中で、神様に叫びながら本音をぶつけました。なぜ35歳で死ぬ難病になったのですか!若くして死にたくないです!神様、お願いですから、難病を治してください、こんな苦しい状態で生きても、意味がありません!このまま死を待つだけの人生なんですか!と叫びながら祈り続けたんですね。
この時は生きている意味が分からなくて、人生に絶望していました。どうして私は健康になれないのか、35歳で死ぬのか、こんな難病では仕事も結婚もできない、神様、こんな難病だと何もできません、と絶望していました。

体が動かなくなって、若く死ぬ難病を抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。 人工呼吸器を使わないと、命を維持できないから、明日死ぬかもしれない。大きな不安に支配される毎日を過ごしていました。

私には生きる意味が必要だったんですね。でも、神様に祈り続けていても、生きる意味が分からなかったので、苦しかったです。それでも、いつも聖書を読んで祈り、日曜日はいつも礼拝に行くことはやめなかったけど、神様の沈黙を感じる日々だったので、辛かったですね。

そんな中で、オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本を読んで、あることを学んだんですね。

それは、意味がない苦しみが絶望である、苦しみに意味を見つけられなければ絶望となる、苦しみに意味を見つけられたら希望となる。苦しみがあるから、不幸だって簡単に考えるのではなくて、苦しみに意味を見つけられたら、人生が希望に変わる、ということを学びました。

そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、生きていける、と思えるようになったんですね。それからは、神様が生きる意味を与えてくださる、と確信して、神様の語りかけを待ち続けました。

それから、余命宣告から10ヶ月が経って、次の聖書の言葉が心に響いたんですね。

【エゼキエル書 2章8節】
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。

あなたは反逆の家のようにそむいてはならない。

口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

このみ言葉を通して、いつも神様の言葉である聖書を読んで、いつも神様にお祈りしていれば、神様は、私の心に語りかけてくださる、私の心を変えてくださる、絶望から救ってくださる、と信じられるようになりました。

そして、余命宣告から1年半が経って、次の聖書の言葉を通して心が変えられたんですね。

【ヨハネによる福音書 15章15、16節】
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。」

私は望んで、難病に生まれた訳ではないけど、神様から任命を受けて、生まれつきの難病に選ばれた、と感じたんですね。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きなさい、と神様に任命されたからこそ、私は生まれた時から、難病の人生にチャレンジしているんですね。

先ほどの聖書の言葉を通して、私は難病の自分を受け入れることができました。それまでの私は自分を土台にして生きていたんです。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分はダメな人間だ、何もできない自分は生きる意味もない、と自分の価値を自分で決めていました。だから、ずっと辛かったんですね。

でも、先ほどのみ言葉を通して、神様の愛を実感できました。神様が生まれつき難病の私を造ってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様の愛を感じることができました。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、み言葉を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、神様から愛されていることを感じられるから、どんな人生でも、生きる喜びが湧いてくるんですよね。

そして、難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思ってました。でも、気付かされたんですね。 私にも神様から大切な命が与えられているって。命だけじゃないって。神様から私たちに与えられている最高のプレゼントは、イエス・キリストの愛だって。十字架で命を犠牲にしてまで、罪人の私たちを、救ってくださったイエス・キリストの愛が最高のプレゼントなんだって、気付かされたんですね。

神様のひとり子であるイエス・キリストは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。

イエス様が自分の罪のために死なれ、お墓に葬られて、三日目に復活されたことを信じる人たちは、罪と死の苦しみから救われます。罪ゆるされて、死んで復活し、神様と共に生きる永遠の命が与えられるのです。

神様は私たちを小さなものとは思っておられません。神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、神様が、何よりも大切なひとり子であるイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。

私たちは罪人であるにもかかわらず、イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。このイエス様の愛は、能力や行いに応じてではなく、イエス様を信じる人たちに、無条件に与えられています。

私はイエス様の愛に改めて気付かされてから、このように、神様に祈りました。「難病の私には何もありません。何もできません。神様におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思っていました。でも、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、自分が神様のために生きるのも、神様に人生をささげるのも、無条件だ、と教えられたんですね。

自分には何もない、何もできないと思っても、神様は人生をささげる決心を喜んでくださって、その人にしかできない使命と、すべての必要なものを与えてくださるんですね。

私は神様に人生をささげる決心をしてから、「難病の人生を通して神様を伝える、難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える」と、難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったんですね。

それからは、少しずつ人生が変えられていきました。まず神様のお導きで、私の難病では世界トップレベルの病院で治療できるようになってから、寝たきりの生活から解放されました。そして、神様の不思議なお導きにより、各地にある多くの教会で、礼拝に呼んでいただき、神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。本当に感謝です。

私はいまこう思います。人間が生きる意味は、自分や他人が決めるのではなく、自分を生かしておられる神様が決めてくださる、と。難病の私であっても、神様から使命を与えられているからこそ、私は生きる意味があるんですね。生きる喜びがあるんですね。

いま振り返れば、私の挫折も、難病の試練も、死にかけた経験も、神様のご計画だったんだ、と思います。私がイエス様を信じて、神様の子どもとして生まれ変わるために、神様から与えられた使命のために、神様がこの難病をプレゼントしてくれた、と感じています。だから、私にとって難病は、恵みの試練なんですね。私は難病だからこそ生きる意味があるんですね。

こうして、私は難病の人生でも、生きる意味を見つけることができました。でも、生きる意味を見つけることができたのは、イエス様が与えてくださる復活の希望があったからなんです。

私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていました。でも、聖書を読んで祈りながら過ごしていくことで、神様は私を復活させてくださいました。

【ヨハネによる福音書 11章25、26節】には、このようなみ言葉があります。
イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

イエス様は、死の力から復活された御方です。死の力に勝利された御方です。だから、イエス様が与えてくださる復活を信じている人たちは、どんなに人生に絶望しても、神様が必ず復活させてくださるから、絶望する勇気さえ持つことができるんですよね。絶望しても大丈夫。神様が必ず復活させてくださるから。

たとえ、私は若く死んでも、栄光の体に復活して、天国で、神様と共に、永遠に生きることができるから、大丈夫なんですよね。神様との永遠の交わりが、人間にとって、最高の幸せなのですから。

どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活は始まっているんですね。私の体は、死に向かって、ますます弱くなっているけど、私も永遠の命へと、復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれるところなんですね。

私は難病クリスチャンとして生きる使命があるので、これからも神様を信じる素晴らしさを伝えていきます。残り余命9年の短い人生で、どれだけのことができるか分かりません。でも、天に召される日まで、神様のご用に用いていただけるように祈っています。

最後に、クリスチャンの水野源三さんの詩をお読みします。水野源三さんは、重度の脳性麻痺で、手足を動かすことも、話すこともできなかったけど、唯一動かせる目をまばたきしながら、多くの信仰の詩を作られました。

水野源三さんの【苦しまなかったら】という詩をお読みして、終わります。
 「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛はあらわれなかった」