2021年10月16日土曜日

2021年10月17日 主日礼拝

招詞 出エジプト記4章12節
賛美 新生讃美歌 105番 くしき主の光
主の祈り
聖書  マルコによる福音書13章1~13節
祈祷
宣教  「話すのはあなたがたではなく、聖霊」
https://youtu.be/bghdaTf6ydc
祈祷
賛美 新生讃美歌 59番 父の神よ 汝がまこと
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷

 今日の聖書の場面では、イエス様が神殿から出ていきます。それまでイエス様は神殿の境内の中で、信仰に関する色々な事柄について人々と議論したり、教えたりしていました。
例えば、“皇帝に税金を払うことは、信仰的に正しい行為かどうか?”(12:13~17)ということや、“復活に関すること”(12:18~27)について、ファリサイ派やヘロデ派と言われた人たち(12:13)、そしてサドカイ派の人たち(12:18)と、イエス様は話をしました。
マルコ12章28~34節では、“最も重要な掟”について、イエス様は一人の律法学者からの質問に答えました。
イエス様はそこで、「第一の掟は、“心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい”である」、そして「第二の掟は“隣人を自分のように愛しなさい”である。この二つにまさる掟はほかにない」と言いました。
またイエス様は、神殿で大勢の人が献金している中で、一人の貧しいやもめが献金を献げる姿に目を留めて「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」(12:43)と言って、“主への献げ物”について、非常に大切なことを弟子たちに教えました。

今日の箇所では、イエス様が捕まって十字架にかけられる時が、もう間近に近づいていました。ですからイエス様はその時、“私が神殿で人々に教えることができるのも、これが最後の機会かもしれない”という覚悟をもって、人々や弟子たちに大切なことを伝え、教えていたのではないかと私は想像します。
“自分が殺された後も、自分が伝えた神の言葉と、そして聖霊の力によって、弟子たちには力強く生きて、神の国を宣教し続けていって欲しい”と、イエス様は望んでおられたのでしょう。

ところが、神殿を出た時に、弟子の一人が言った言葉は、次の一言でした。
「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
イエス様はこの時どうお感じになったのでしょうか?それまでイエス様は神殿の中で、全身全霊を込めて、信仰に関する大切な事柄を人々に、また弟子たちにも教えていました。
ところが神殿を離れるやいなや、弟子の思いは主の御言葉にではなく、神殿の建物自体に向いていたのです。

華麗なエルサレム神殿は、ユダヤ人たちの希望と誇りの拠り所でした。しかしイエス様は、御自身を通して“目には見えない神の恵み”を弟子たちと人々に伝え続けました。
エルサレム神殿は確かに豪華で華麗ですけれども、人々が本当の希望を置くべきものは、目に見える建物である神殿ではないのです。人々が本当に希望を置くべきものは、その神殿を通して礼拝される、主なる神ご自身なのです。
ですからイエス様は「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」という弟子の言葉を聞いて、「あなたたちの関心は、まだそこにあるのか。。。」と、とても残念にそして悲しく思ったのではないでしょうか。

今の私たちはどうでしょうか?私たちは何を見上げて、何に本当に希望を置いているでしょうか。聖書の御言葉を本当に信頼して、聖書の御言葉から人生への希望と答えを頂いているでしょうか?
私たちが、祈りと神の言葉による礼拝を終えて教会を出ていくとき、何が私たちの心にあるでしょうか?
私たちは教会での礼拝を通して神と出会い、神の御言葉を聞きます。私たちは礼拝を通して神の御言葉を分かち合います。頂いた神の言葉が心に残り、聖霊の力で満たされながら、私たちは教会(礼拝)を後にしているでしょうか?

聖霊によって導かれて、信仰の兄弟姉妹と共に神を讃美、礼拝することの喜びを胸にして、私たちは教会を後にしているでしょうか?
もしそうではなく、教会を出た瞬間に、もう御言葉は忘れてしまって、すぐにこの世の華やかなものや自分の欲望に心が向いてしまうのであれば、“私の礼拝はどこか間違っているのかもしれない”と反省をしなくてはなりません。
そして“礼拝を通して与えられ、分かち合われた神の言葉(聖書の言葉)こそが私を生かし、支えている”ということを今一度私たちは強く確信しようではありませんか。
一週間に一回だけの共に集まる礼拝ですが、聖書の御言葉が直接語られ、主イエス・キリストの名によって祈り、主イエス・キリストの御名を讃美する礼拝は、この世の中でキリスト教会だけが守ることを許された、本当に特別な神の恵みなのです。
この“礼拝の(測り知れない)恵み”を私たちはしっかりと覚えて、私たちは心からの感謝を神に献げましょう。

 イエス様は、
「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」とおっしゃいました(2節)。‟目に見えるもの、形あるものは、必ず朽ちる(壊れる)”ということを、ここでイエス様は教えたのです。

歴史的には、紀元70年(イエス様が死んで40年ほど後)に、ユダヤ戦争という戦争でエルサレム神殿は、ローマ帝国によって破壊されます。ですから2節のイエス様の言葉は、歴史的事実である“エルサレム神殿の破壊”を予言しているとも言われています。

イエス様のその言葉を聞いて、4人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)がイエス様に質問します。
 彼らは
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と言いました。(4節)
彼らは“そんなことが本当に起こるのだろうか”と思って不安になったので(恐くなったので)、イエス様にそう尋ねたのでしょう。ですから“いつそういうことが起こるのですか?教えてください。”と彼らは言ったのです。

イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)と言いました。色々な人たちがイエス様の名を名乗って「わたしがそれだ」と言って多くの人を惑わす、と言うのです。
“私がイエス・キリストだ”、“わたしが神だ”と主張する人は歴史上確かにいましたし、今でもいるでしょう。しかし、私たちはそのような人に惑わされてはいけない、とイエス様ははっきりと言っています。
また、それほど極端ではなくても(”自分が神だ”とまでは言ったりしなくても)、自分の中心に神ではなく自分自身を置いたり、“いつも自分が正しい”と私たちが思ったりするのならば、それも“自分を神にする”という罪を犯すことと同じです。
私たちは聖書の御言葉と聖霊の導きによって、イエス・キリストだけに従っていくことができるように、心から共に祈りましょう。神でないものに惑わされず、人に惑わされずに、イエス・キリストだけに従っていこうではありませんか。

9節でイエス様は次のように言います。
「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」
これは、やがてイエス様の弟子たちが経験する迫害についての予言です。イエス様が死んで復活をして、そして天に昇っていかれた後、弟子たちは聖霊を受けて力強く福音宣教の働きを始めました。
そしてイエス様の予言通り、迫害の時代がやってきて、弟子たちはユダヤ人議会で尋問されます。(使徒言行録4~7章など)

イエス様は今日の箇所で次のように言っています。
11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

使徒言行録4章の中では、イエス様がこのように言っていた通りのことが、起こりました。
議会で取り調べを受けたペトロとヨハネは、“決してイエスの名によって話したり、教えたりしてはいけない”と議会から命じられました。

しかし彼らは「神に従わないであなたがに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章19~20節)と堂々と答えたのです。

 それはまさにペトロとヨハネを通して“聖霊が語った”瞬間でした。
“教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ”(11節)~イエス様のこの言葉は真実なのです。そしてこの言葉は、今の私たちにも与えられた神の約束の言葉です。

私たちは、将来起こるかもしれない困難な時に、“その時何を話せばよいのか”、そして“どのように行動すればよいのか”と言って、今から心配する必要はないのです。それは、必ず聖霊によって示されるからです。それがイエス様の約束です。ですから私たちは将来のことを心配しなくてよいのです。
 しかし、それは“私たちが普段から何もしなくてもいい”ということではありません。いざという時(重要な時)に聖霊の導きを受けるためには、私たちは日頃から、イエス・キリストを信じる信仰生活を誠実に送っていなくてはなりません。
 そこで大切になるのは、やはり礼拝です。主日礼拝を通して御言葉を頂き、礼拝を通して神と(そして人と)信仰の交わりを続けることが大切です。
礼拝を通して育まれた神様と(人と)の豊かな関係の中で、いざという時(重要な時)には、聖霊の導きによって、“語るべき言葉、取るべき行動”が私たちに示されます。
ですから、私たちは常日頃から、祈りと御言葉を大切にして、私たちの祈りに応えてくださる神との豊かな関係の中に生きていきましょう。

 今日のお話では触れることができませんでしたが、イエス様は戦争や地震などについても今日の箇所で言及しています。甚大な自然災害や戦争などについて聞くと、”世の終わりか?”と思って私たちは不安になる時があります。
 しかしイエス様は“そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない”とはっきりと言っています(7節)。
その時(終わりの時)は神だけがご存じなのですから、私たちは“いつ世が終わるのか?”を知ろうとするのではなく、“今、この時に私たちに与えられている神の恵み”に目を留めて、神を信じて日々を生きていくことが大切なのです。
救い主、イエス・キリストが私たちと常に共にて私たちを、いつまでも守り導いて下さいます。聖霊の守りと導きに私たちを委ねながら、これからも誠実な信仰生活を日々送るように、努力をしていこうではありませんか。

2021年10月9日土曜日

2021年10月10日 主日礼拝

招詞  エフェソの信徒への手紙4章4節
賛美  新生讃美歌 510番 主の言葉の
主の祈り
聖書朗読  創世記37章1~11節
祈祷
宣教   「ヨセフの夢の意味」
https://youtu.be/MBMjzmJdgHA
祈祷
賛美  新生讃美歌 102番 罪にみてる世界
頌栄  新生讃美歌 671番
祝祷


今日の箇所は創世記37章の始めの部分です。1節に次のように書かれています。

1ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。
これは短い一文ですが、この一文には、かつてヤコブの祖父であるアブラハムが75歳の時に、主の声に従ってハランの土地を離れて、カナン地方へ向かって旅立ってからの長い信仰の歴史が込められています。
創世記12章で、主はアブラハムに「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」と言いました。(創世記12章1~2節)
主の言葉に従って旅立ったアブラハムは、それから色々な試練の出来事を経験しました。
アブラハム、そしてアブラハムの息子のイサク(ヤコブの父)にとっても、最大の試練であったと言ってもよい出来事が、創世記22章に描かれています。
主なる神はアブラハムに「あなたの愛する独り子イサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命令したのです。神はそれを通して、アブラハムの信仰を試そうとしたのです。
アブラハムはその時、主への揺るぎない信仰を見せて、彼の信仰は主に認められました。アブラハムとイサクは、その試練を共に乗り越えたのです。アブラハム、イサクは信仰の道(人生)を歩み続けました。

そしてイサクの息子のヤコブも彼の人生の中で試練を経験しました。兄エサウの怒りを買ったために(その原因はヤコブ自身にもありましたが)、ヤコブはエサウを逃れて生まれ故郷を離れなくてはならなくなりました。
しかしヤコブには主からの約束の言葉が与えられていました。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28章15節)
主のその約束の言葉に支えられ、ヤコブは伯父のラバンのもとで合計20年間働きました。そこで自分の家族をヤコブは持つようになりました。
やがてヤコブは、主の約束通り、故郷(カナンの地)に帰ってきて、兄エサウとの再会と和解を果たし、ヤコブは息子たちと共にその土地で暮らせるようになったのです。
長い経緯を、非常に簡単に短くまとめましたが、それが「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。」~今日のこの短い一文の背景にある歴史です。

それは“主の言葉を信じ、困難な時にも主のみ言葉に従って歩む”とう信仰の歴史でした。
私たちの教会にも、そのような信仰の歴史があります。今私たちが、こうして共に礼拝をささげることができる背後には、私たちの先達たちによる長い信仰の歴史があるのです。
私たちは、過去のことを細かく全て知ることはできません。伝え聞いた話や、残されている資料などから想像するしかない部分もあります。しかし、私たちは、私たちの教会に今まで連なってきた多くの方々の祈りと、献身的な働きの歴史の上に、今こうして立っているのです。
 私たちは、私たちの先達たちから受け継いだ信仰の恵みを感謝して、この同じ恵みを他の人々(そして次の世代)へと受け渡していきたいと願います。

今日の箇所では、ヤコブの家族(ヤコブと息子たち)に、ある問題が起こります。
今日の2~3節をお読みします。
2ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。
3イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。

 ヤコブには12人の息子がいました。ヨセフは下から二番目の息子であり、ヤコブが愛したラケルによる子でしたので、ヤコブはヨセフを特にかわいがりました。しかも「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した」(2節)とも書かれています。

自分たちのことを悪く父親に言いつける下の弟、しかも父親(ヤコブ)はその弟を自分たちよりもかわいがるのですから、他の兄弟たちがヨセフを憎んだのも無理はないでしょう。
 ヤコブがヨセフを他の兄弟よりもかわいがった~これは私たちが持っている罪の性質の一部を表していると私は思います。私たちは、全ての人を平等に無条件に愛せるのではない”ということです。
私たちは、(たとえ家族であっても)“全く同じ愛情を全ての人に注ぐことができるのか”と言えば、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。息子たちの中で、ヨセフを特別に可愛がったヤコブの姿は、決して私たちと無関係ではないと私は思います。
ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着」(3節)を着せました。裾の長い晴れ着は特別な愛情の表現です。ヤコブは、一人だけを偏愛するという、(私たちも犯す可能性のある)罪の一つを犯していたのです。

もう一方で(息子たちの中で一人だけを特別にかわいがる、ということの是非は別にして)、親として“自分の子には良いものを与えたい”という願い自体を持つことは、私たちにも理解できることだと思います。
しかし問題は、“何が良いものであるか?”ということです。信仰者としてこの話を読むと、‟私たちが、自分の子(あるいは次世代の人たち)に与えるべき一番大切なものは何だろうか?”ということを考えさせられます。
私たちが自分の子ども達(次世代の人たち)へ受け渡すべきもの/伝えるべきものは、綺麗な晴れ着(物)よりも、“最も善きものを私たちに与えて下さる主なる神がおられる”という信仰です。

イエス様は、野の花を指して「栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった」とおっしゃいました(マタイ6章29節)。最高の栄華を誇ったソロモンン(おそらく着ていた物も最上級のものだったのでしょう)よりも、天の父なる神は、一つの野の花のほうを、美しく作ってくださるのです。
ヤコブが、神に関するそのような真実を知っていたならば、“ヨセフだけに、上等な着物を与える”という過ちは避けることができたのではないか、と私は思います。
そして他の兄弟たちが、神のそのような恵みを知っていたならば、“彼らがヨセフを憎む”ということも避けることができたのではないか、と私は想像します。
野の花を、どんなに裕福で栄華を極めた人よりも、神は美しく装ってくださるのです。神のそのような恵みを知っていれば、私たちは、たとえ自分以外の誰かが自分よりもずっと恵まれているように見えたりしても、私たちはその人を羨んだり、まして憎んだりする必要はないのです。
「神は人を分け隔てなさらない」お方なのです(使徒言行録10章34節Acts 10:34)。私たちは、“決して人を分け隔てなさらない”神の愛が、私たちには注がれていることを信じ、神に信頼して信仰の道を歩んでいこうではありませんか。

今日の箇所でヨセフは、兄たちを(父親のヤコブをも)さらに怒らせるようなことを言います。

6~8節をお読みします。

6ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。
7畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 ヨセフは9節でも、“父と母も、兄弟たちと一緒に、自分を拝む”という夢を見た、と言って、父のヤコブをも怒らせます。
ヨセフの夢は、実際に未来に起こることを予見していました。実はこれからヨセフは(兄弟たちによって)エジプトへ売られてしまいます。そしてヨセフは“夢を説き明かす”賜物を活かして、エジプトで非常に高い地位にまで上り詰めました。
“その時カナンの地で飢饉が起こり、兄たちが食料をもらうためにエジプトへ行き、ヨセフに再会する”と言う話が創世記のこれから後の章に出てきます。

“夢により未来を予知する能力/夢を解釈する能力”は、神からヨセフに与えられた特殊な能力でした。問題は、その能力の使い方です。いきなり「兄さんたちが、(お父さんやお母さんも)私にひれ伏す夢を見ました」と言ってしまっては、他の兄弟や父のヤコブが怒るのは当然でしょう。

ヨセフには(まだ若かかった、という理由もあったのでしょう)“自分に与えられた賜物を、自分のためではなく、自分以外の他者の益のために用いる”という考えがありませんでした。
 私たちは、自分に与えられた賜物を、自分の満足や自分の利益のためではなく、人のため(全体のため)に用いることを心がけなくてはなりません。それが、神が私たちにそれぞれの賜物を与えて下さる理由だからです。

 私たちはそのことを、次の聖書の言葉によって知らされています。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章6~7節に次のように書かれています。

働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

自分に与えられた賜物は全体の益になるために与えられているのです。ですから、私たちは自分の賜物を誇示したりするのではなく、全体の益のために、喜んで献げようではありませんか。
私たちに与えられた賜物は、自分自身のためだけに用いるのではなく、全体の益に用いられる時にこそ、実は私たちの魂は本当の喜びで満たされるのです。私たちは互いのために生きる者であるからです。
 決して人を分け隔てなさらない神が、私たちそれぞれに与えて下さった賜物を、私たちは全体の益のために喜んで献げていきたい~私たちはそのような思いと決意を、(今日の聖書箇所を通して)新たにしたいと願います。

2021年10月2日土曜日

2021年10月3日 主日礼拝

招詞 列王記上 8章28節
賛美 新生讃美歌 92番 喜びたたえよ
主の祈り
聖書  マルコによる福音書12章41~44節
祈祷
宣教  「主への献げ物」
https://youtu.be/Jei3zZSdU7Q    
祈祷
賛美 新生讃美歌 628番 われは主にみな捧ぐ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷


今日の聖書箇所では、“一人の貧しいやもめ(夫を亡くした女性)が、わずかな額の献金を献げたこと”について書かれています。
イエス様と弟子たちは神殿にいました。神殿の庭の中には人々が献金を入れる賽銭箱(献金箱)が置かれていました。イエス様は、その賽銭箱の向かいに座って、群衆が賽銭箱にお金を入れる様子を見ていました。
大勢の人が献金をしている中で、(大勢のお金持ちがたくさん献金している中で)、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げました。レプトンはギリシアの貨幣で最小の貨幣単位です。1レプトン=約1円と考えてよいです。
そのやもめが2レプトンを献げる様子を見たイエス様は、弟子たちを呼んでこうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
 この話の中心的な話題は献げ物(献金)です。キリスト者にとって献金は大切なことです。献金は信仰者にとって、決して軽く考えてよいことではありません。この“献げる”ことについて、今日の聖書箇所を通して、神のメッセージを共に聞いていきましょう。

まず“イエス様が賽銭箱の向いに座って、人々が献金する様子を見ておられた”ということに注目したいと思います。イエス様はそこに座って、人々が献金する様子を監視か何かしておられたということでしょうか?
人々が献金している様子をじっと見て、「この人は、多く献金している」とか「あの人は、少ししか献金していない。けしからん!」などと思いながら、人々の献金を確認(チェック)していたのでしょうか?
そうではなく、イエス様が賽銭箱の向かいに座っていたというのは、“イエス・キリストは神の御子として(神と同じ権威を持つお方として)、人々の献げ物をする様子を全て見ておられた”ということを表わしています。

それは、イエス様は神として、人(私たち)が献げ物をする様子を、今もご覧になっている、ということです。ですから、この話を聞く今の私たちは、“私たちの献げ物は(私たちの献げる態度も)、イエス様がいつも見ておられるのだ”ということを教えられるのです。
そして“私たち信仰者が献げるものは、あくまで主なる神に献げているのだ”ということを、私たちはここから改めて教えられます。献金は教会に献げるのではありません。まして献金は牧師に献げるものではないのです。
実際的には私たちの献金は教会が受け取り、福音宣教の働きのために教会で用いられます。(そのために、特に教会員の皆さんは、教会財政に関心を持ち、教会財政が満たされるように祈り、そして福音宣教のために適正に献金が使われているかどうかについても知って、祈っていただきたいと私は思います)
献金はあくまで神に献げるものです。“イエス様が賽銭箱の向かいに座って、人々が献金する様子を見ていた”ということから、私たちは“私たちは神様に献金しているのだ”という思いを、新たに強く持ちたいと願います。

 イエス様は、一人のやもめが二レプトン献金するのをご覧になりました。イエス様はそこで弟子たちを呼んで、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。他の人は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から、自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからだ」と言いました。
2レプトンは2円です。2円だったら、おそらく道に落ちていても、私はわざわざ拾おうとしないぐらいの金額だと思います。しかし、イエス様は “この人は誰よりも沢山献げた”と言ったのです。
今日の箇所の前の箇所の12章40節では、“律法学者がやもめの家を食い物にする”と書かれ、律法学者が非難されていました。具体的に律法学者がどのようにして、やもめの家を食い物にしていたのかは、はっきりとは分かりません。
想像すると“やもめのような貧しい立場の人たちが、立場の強い律法学者のような人たちから、色々と不利な扱いを受けていた/搾取されていた”のかもしれません。
 しかし、それでもこのやもめは献げ物をしました。2レプトンでも、それは彼女が持っていた全てでした。なぜ彼女はそのような献げ物が出来たのでしょうか?
それは、“神様に全てを献げたい”という願いと思いを、この一人の貧しいやもめから奪うことは誰にもできなかったからです。
この貧しいやもめが主に献げものをしたということは、“どのような状態であっても、私たちは主に献げることができる、それを妨げるものは何もない”ということを表わします。
“たとえどれほど貧しくなろうとも、どんな状況に置かれようとも、主に献げたいという願いと思いを私たちから奪うことができるものは何もない”~私たちはこの事を確信してよいのです。
きっとこのやもめには、“わたしは神に愛されている”、“わたしは神に守られている”という確信があったのでしょう。貧しかったけれども、辛い経験もしたけれども、このやもめの心は、(感謝の思いと共に)真っすぐに神様に向かっていたのだと私は信じます。
 彼女は、喜びと感謝で溢れて、そして“神様にささげている”という確信がありました。ですから彼女は、周りの他人の目は気にしていなかったでしょう。
  キリスト者として献金を、心からの喜びと感謝をもって精一杯献げることができれば、“人はどのくらい献金しているのだろうか”と気にしたり、“わたしはこれだけしかできない”と思ったりすることはなく、また逆に“わたしはこんなに献げている”と言って誇ることもなくなるはずです。

 以前私の出身教会で、会堂の屋根が築何十年かを経て老朽化したため張り替えが必要になりました。そのために800万円ほど必要でした。教会員で協議をして、半分の400万円は教会予算の中で貯金されていた「営繕積立金」から支出し、残り400万円は特別献金を募ることが決められました。
 ちょうどその時、私がバプテスマを受けたアメリカの教会では、新しい教育館を建築しようとしている、ということを私は知りました。そのために必要な金額200万ドル(約2億円)を、その教会は献金で募ろうとしていました。(教会の規模も、当然違いますが)
私はその時、自分の近況を知らせたいとも思って、わたしにバプテスマを授けてくれたその教会の牧師に久しぶりに手紙を書きました。手紙の中で、自分の近況に加えて、教会屋根の張替えについても私は書きました。
“私たちの教会では、会堂の屋根を張り替えするために特別献金をみんなで献げることになりました。しかし、先生の教会が教育館建築のために献げようとしている2億円に比べたら、私たちの400万円は非常に小さな金額に思えます”というように、私は書きました。

先生(牧師)から返事がきました。返事の中で先生は、“私(酒井)が、教会の執事として奉仕していることがとても嬉しい”と書いてくださっていました。そして私が言及した献金について、先生は大体次のようなことを書いていました。
「神様にとっては、いくら献げるかという金額自体は全く問題ではありません。大切なのは、神様のためにどれだけの心が献げられているか、ということです。

“神様がそれを必要としていているから、神様のご用のために精一杯献げたい”という願いをもって献げられるのならば、私たちの教会が必要としている200万ドル(2億円)も、君の教会が必要としている400万円も、神様の前には全く一緒です」と書かれていました。
その時私は、どうしても、他の人(あるいは‟他の教会と”)と自分(自分の教会)を、表面的に比べてしまっていた自分に、気づかされました。
私たちは、人と比べるのではなく、“神様に献げたい”という純粋な願いと喜びで満たされて、神様との関係の中で喜びをもって献げる人になりたいと願います。

イエス様は、神殿の中で大勢の人が沢山献金している中で、一人のやもめの2レプトンに目を留めました。その貧しいやもめの名前は記録されていません。その名前を私たちが知る必要はない、ということだと思います。
“誰がそういうことをしたのか”の“誰が”を私たちは知る必要はないのです。ただ私たちは、社会的には非常に苦しい立場に立たされ、決して楽ではない辛い生活をしていた一人の貧しいやもめに、“精一杯献げたい”という強い思い(献げる喜び)が与えられたことを、知ればよいのです。
“そのような豊かな信仰が一人の貧しいやもめに与えられた”。“彼女は神の愛の中に生きていた”、そして“彼女と同じ信仰が、私にもきっと与えられる”ということを信じることができれば、それで十分なのだと私は思います。(そのやもめの名前は知らなくてもよいのです)

それにしても、今日の箇所の“貧しいやもめが、その生活費全部を献金した”という部分には「そんなことは私には無理だ」と私たちは正直に言って思ってしまうかもしれません。
しかし“何が彼女にそのような献げ物をさせたのか?”という面に心を向ける時、私たちのそのような反応は変わると思います。そのやもめがそれだけの献げ物をしたのは、先程も申し上げましたように、“彼女が神の愛を確信して神に心から感謝していたから”です。
「生活の全てを主にささげる」~そのような生き方(私たちは“そんなこと無理!”と思ってしまうこと)が、名前も伝えられていない一人の貧しいやもめの信仰生活の中で実現していたという、聖書の知らせを、私たちは今日心を低くして共に聞こうではありませんか。
 そのような生き方と、またそのような生き方を可能にする神の愛と神の力とに目を向けて、私たちも信仰の道を歩んでいきましょう。
私たちがいただいている神様の豊かな愛と恵み、憐みへの感謝の心を、私たちができるだけの精一杯の形で表すならば、その献げ物がいかなるものであっても、天の父なる神は私たちのそのような献げ物を、きっと喜んで受け取ってくださいます。