2024年4月13日土曜日

2024年4月14日主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章8節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
主の祈り
讃美 新生讃美歌 124番 この世はみな
献金
聖句 創世記12章1~7節
祈祷
宣教 「主の言葉に従って旅立つ」
祈祷
讃美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

2024年度の新しい年度の歩みを私たちはスタートしています。今年度、私たちの教会は、礼拝メッセージの中で、聖書の初めから終りまで1年間かけて改めて学んでいこうとしています。
先週は、旧約聖書『創世記』の1章の初め、まさに聖書全体の冒頭の御言葉から、神による創造の御業の言葉を私たちは聞きました。
「初めに、神は天地を創造された」。神のこの言葉が世界のすべてを造り、そして今もわたしたちの世界を動かす力となっています。
神の言葉こそがすべての力、そして希望の源であると、私たちは信仰によって信じることができます。

本日は『創世記』12章から、イスラエルの民たちから“信仰の父”と言われ称えられたアブラハムが、神の言葉に従って生まれ故郷を旅立つという場面から、神のメッセージを私たちは共に聴いていきたいと思います。

今日の箇所の1~3節をもう一度お読みします。
1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 ここでの主からアブラハムへ向けて語られた言葉の中で繰り返されている言葉は、「祝福blessing」です。
主はアブラハムに(12章では彼の名前はまだ“アブラムAbram”です。彼は後に神から新しい名前“アブラハム”をいただきます。今日は“アブラハム”という呼び方で統一します)、“生まれ育った故郷を離れ、神が示す地へ行きなさい”と命令します。
実際にどこへ行くのか、具体的な目的地は示されないまま、とにかく主はアブラハムに“私が示す地へ行きなさい”と命じたのです。

それは大変厳しい命令だったと思います。その命令に従うことはアブラハムにとっても、決して簡単に決断できることではなかったのではないか、と私は想像します。
なぜなら慣れ親しんだ場所(故郷)に留まっているほうが、快適であり、安心であったであろうからです。しかし、主はアブラハムに“行きなさい”と命じました。
そしてアブラハムも、主のその言葉に従い、彼は彼の生まれ故郷を離れ旅立ちました。
アブラハムが、具体的な目的地が示されないまま、それでも主の言葉に従い旅立つことができたのは、彼が主の命令の中に、彼に向けた主なる神からの“祝福”を確信できたからだと、私は信じます。
彼にとって安定して慣れ親しんだ、心地よい生活よりも、たとえ厳しい旅路、道程であっても、主の祝福を確信し、主の祝福をいただきながら生きるのが、信仰者が生きる道です。
 主はアブラハムに祝福を与えると約束してくださっています。主ご自身がアブラハムを祝福する、そしてやがてアブラハムが祝福の源となる、というこれ以上ないほどの希望の言葉がアブラハムに主から与えられたのです。

 祝福とは、神が私たちと共に歩んでくださるということ、そして私たちの命、わたしたちの存在を、神ご自身がとても大切に思ってくださっている、ということです。
 主の御言葉(聖書の言葉)を通して、私たちは神からの祝福をいただくことができます。それは“この私の存在を、天地の造り主なる神がとても大切に思ってくださっている”という確信であり、喜びなのです。
私たちの礼拝の最後に“祝祷”があります。“祝祷”は、神の祝福があるということを、宣教者が皆さんを代表して宣言することです。
礼拝の最後に、私たちひとり一人が神の祝福をいただき、神に祝福され、“今週も神が私と共に歩んでくださる。神はこの私をとても大切におもってくださっている”と確信しつつ、喜び溢れて、私たちは教会を後にすることができるのです。

主なる神は、なぜそれほどまでにアブラハムを、そしてまた今の私たちを祝福してくださるのでしょうか。神はなぜそれほどまでに、私たちの事を大切にしてくださっているのでしょうか。
後に、聖書の民であるイスラエルの民たちは、自分たちだけが神に選ばれた特別な存在だと思うようになりました。

旧約聖書の物語を読むと、神は確かにイスラエル民族を選び、彼らにご自身のお姿と名を表わし、彼らを導いておられます。
しかし、イスラエル民族が神に選ばれたのは、イスラエル民族が特別優れていたからではないのです。
そして今の私たちキリスト者も、キリストに選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰者とされたのは、それは何も私たちが優秀であったとか、人格的に優れていたから、ということではないのです。
少し長くなりますが、旧約聖書『申命記』の7章6~8節を以下に引用いたします。
 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

主がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが他の民よりも数が多かった、すなわち彼らが他の民より強かった、優秀だった、優れた資質を持っていたから、ということではない、と神ははっきりと言っているのです。

それは”ただ、あなたに対する主の愛のゆえit was because the Lord loved you”です。天地を造り、そして私たちをお造りになった神が、私たちを神の側からただ愛してくださったからです。
その希望と約束は、イエス・キリストというお方を通して、より一層私たちに確かなものとされました。
イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を赦し、私たちに救いと永遠の命を与えてくださったのは、私たちが優れていたからではありません。
それは主なる神の私たちに対する無条件で限りない愛に拠ります。私たちが自分では拭う事のできない罪を、神はイエス・キリストを通して赦して下さいました。
罪とは、“私は人よりも優れている”思い優越感に浸ったりすることも含まれます。また逆に、人との比較によって、神が愛して下さった自分の尊さを認めることができず、劣等感に凝り固まることも、それは含むでしょう。

しかし、あなたの価値は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、御自分がお持ちの栄光も全てを、あなたのために捨ててくださった、という一点にあるのです。
“罪人の私たちもイエス様によって罪赦されて、神の祝福に入ることができる”という希望の内に、私たちは生きることができるのです。これほど大きな祝福と喜びがあるでしょうか。
 私たちは神様の祝福、イエス・キリストを通して与えられる限りない祝福を、共に喜ぼうではありませんか。
先程私は、アブラハムにとって、住み慣れた生まれ故郷を離れることは、それも具体的な行先を知らずに旅立つことは、簡単にできる決意ではなかったのでは、と申し上げました。

私たちは時に、神の言葉に従って、私たちにとって心地よく安心な場所、そのような場所を後にして、神が示す場所へ行くことを要求されることがあり、
その時にはやはり私たちは神の言葉と祝福に信頼して先に進んでいかねばならないのだ、私たちは教えられます。
 私たちは、ある人は死ぬまで生まれ育った地域で生活してそこで生涯を終える、またある人は生まれ育った場所を離れて生活し、そこで生涯を終えるという人もおります。
しかし主の言葉に従うことは、誰にとっても、私たちが今いるところを離れて、別のところへ行くという決断と行動を伴うものなのです。

それは何も物理的に本当に遠いところへ行くことだけを指すのではありません。私たちが、神の御声を聴いて私たちが新たな行動をする時、それは今の自分から離れ、今の自分以上に成長し、主が示すことに従う生き方をする、ということです。
私たちは聖書の御言葉に立ち、その御言葉に聴き従って生きるという決断を新たにするとき、いつでも文字通りの旅立ちではなくても、霊的な旅立ちをそのたびに私たちは実行することになるのです。
 私たちがそのように一歩を踏み出し旅立つその先には、主が用意してくださった祝福が私たちを待っている、そのような希望を私たちは持って日々を歩み、旅立つことができるのです。

そして私たちが覚えたいもう一つことは、御言葉に従って旅立つその歩みは、決して一人の孤独な歩みではない、ということです。
主が先に直接語りかけてくださって、それに応えて旅立つという決心をしたのはアブラハムですが、アブラハムと共に旅立った人達がいました。
アブラハムの妻サライ、甥のロト、また5節にある「ハランで加わった人々」です。
 アブラハムの甥のロトについては、12章の前で、アブラハムの父テラには3人の息子がいたことが記されています。

11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラハム、ナホル、ハランが生まれた」。27節~28節「。。。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
27節で書かれた順番通りであったら、アブラハムが長男、ナホルが次男、ハランが三男であり、このハランの息子がロトですから、アブラハムにとってロトは、末の弟の息子、つまり甥です。
アブラハムにとっては、自分の息子同然の存在であって、長兄であるアブラハムにはロトを育てる義務があったのでしょう。
 アブラハムは甥のロト、妻サライ、そしてハランで加わった人々と共に旅立ちました。
そのように、アブラハムが家族や一族と一緒に旅立ったということは、旅の中で、アブラハムには彼の家族や一族による支えと協力もあったということです。
アブラハム一族、この家族のグループは、きっと共に祈り合ってハランから出発をし、支え合って旅路を続けたのでしょう。

 イエス・キリストを主と信じ、共に聖書の言葉に聴いてそれに従い、イエス様の教えを実現していこうとする私たち教会の歩みも、私たち一人一人がばらばらで歩むものではなく、私たちは“共に”信仰の旅路を歩むべく主に召された神の家族です。
私たちは、主の御言葉に立ち、主の御言葉によって旅立ちます。その歩みは一人の孤独な歩みではなく、共にイエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰の仲間との共なる歩みです。
普段別々の場所で生活している私たちが毎週主の日に教会に集まって、共に礼拝を捧げること、共に神を礼拝することを決してやめずに、主を讃美しつづけていきましょう。
主なる神が、御言葉により、大きな祝福を私たちに与えると約束してくださっています。その約束を信じ、希望の新年度を私たちは共に歩んでいきたいと願います。

2024年4月6日土曜日

2024年4月7日 主日礼拝

前奏
招詞 ヘブライ人への手紙11章3節
讃美 新生讃美歌 10番 主のみ名により
祈りの時
主の祈り
讃美 新生讃美歌 125番 造られしものよ
献金
聖句 創世記1章1~5節
祈祷
宣教 「初めに、神は天地を創造された」
祈祷
讃美 新生讃美歌 121番 み神の力をほめたたえよ
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏

 今日私たちは、2024年度最初の主日礼拝を献げています。日本では一般に、この4月から、新しい年度が始まります。
 学生の方は、新しい学校へ進学、または進級された方もいらっしゃると、私は想像します。皆さんの新しい学年が、実り多い、神様に祝された学年になりますようにと私は祈ります。
 私たちの教会も、4月から新しい年度に入り、今年度私たちは「主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord」という年間標語を掲げ、教会生活を共に歩んでいきます。
  キリスト者とは、イエス・キリストが神(人となった神、人であると同時に神でもあるお方)と信じ、キリストを自分の主(Lord)として従いながら、生涯を生きる決意をした人です。
 先週の3月31日の日曜日には、十字架にかけられて死んだ、私たちの主イエス・キリストが、三日目に復活をした出来事を記念し、お祝いするイースター(復活祭)礼拝を私たちは献げました。
  主イエス・キリストが復活し、そのお姿を弟子たち始め、多くの人々に現わされたことで、イエス様が確かに神の子であったこと、そしてイエス様のお言葉と行いは、まさに神ご自身のお言葉と行いであったことが確証されました。
 復活したイエス様は天へ戻って行かれました。今、神のお姿、イエス様のお姿は私たちの目には見えません。しかし、神は聖書の言葉を神のお言葉として私たちに残して下さいました。
ですから私たちは今も、聖書の言葉を通して、神の御声を聞くことができ、神の御心を知ることができます。
ただ聖書は一人だけで読んでいると、自分に都合のよい読み方、自分の好みに合わせた読み方をしてしまう危険性があります。なにより、やはり一人だけで読んでいては分からないという箇所も聖書には沢山あると思います。

もともと聖書の御言葉は、その言葉が読まれて、そして読み上げられた言葉を人々が共に聞いて、分かち合うために、纏められた言葉です。
ですから私たちは、一人で聖書を読むことも大切ですが、他の信仰者と一緒に聖書の言葉を読み、分ち合う、そして教会の礼拝の中で御言葉を共に聴くことも大切にしていきましょう。
そうすることで、自分一人だけで読んでいては決して分からなかったような、多様で豊かな御言葉の解釈に触れることもできます。
そのようにして今年度、私たちは御言葉中心に、御言葉を拠り所として歩むという信仰を建て上げていきたいと私たちは願います。

 今年度は一年間をかけて、聖書全体を旧約聖書から新約聖書まで通して、礼拝のメッセージの中で私たちは取り上げていきます。
  新年度最初の主日礼拝の今日は、旧約聖書の最初の書物である『創世記』の冒頭、1章1節から5節の言葉を中心にして、主の御言葉を私たちは聞いていきます。
 1節の「初めに、神は天地を創造された」という文から創世記、そして聖書全体が始まります。神が天地の造り主である、と聖書は冒頭からはっきりと宣言するのです。
「初めに、神は天地を創造された」。この一文は非常に簡潔であり明瞭な文です。そしてこの文ほど、力強く、美しく、圧倒的な力を持って人間に迫って来る言葉はないのでは、と私には思われます。

すでにイエス・キリストを主と信じ、信仰を告白しておられるお方にとっては、ご自分が信じておられる神とは、天地を(万物を)お造りになった、まさに創造主なのだ、とうことを改めて思い起こさせるのが、この一文です。
聖書にまだそれほど馴染みのないお方にとっても、創世記冒頭のこの一文は、“世界のすべてを、宇宙を含む天地万物を造られた唯一のお方が確かにおられる”という真実を告げる言葉です。
この一文を繰り返し読み(聞き)、心の中で黙想(思いめぐらすこと)するならば、この一文が、人間の考えや感情から生み出された言葉ではない、ということが明らかになります。
創世記の最初のこの一文から、私たちは「聖書を通して、私たちは神の創造の物語(真実)を聞き、それを体験することになる」ということをも教えられます。
 神が天地を創造されたということを、いきなり聞くと、どのように受け止めてよいか分からず、戸惑うというお方もおられるかもしれません。
「天地を創造したという、その神ってどんな存在?」という疑問が浮かぶかもしれません。その疑問に対する答えは、聖書全体が、特に新約聖書の福音書と言われる書物を中心にして、答えを提供してくれています。

ですから私たちが聖書を読む(聖書の言葉を聞く)ということは、「神とはどのようなお方か」ということを、私たちが繰り返し聞き、学ぶという過程でもあります。
わたしたちが聖書の言葉、すなわち主なる神の言葉に立って生きていこうとするとき、私たちに求められるのは、私たちが心を開く、ということです。
私たちは人生経験を重ねるほどに、自分なりの経験や考え、また自分の実力や能力といったものも段々と身につけていきます。
時には、聖書が言うことが、その自分の考えや経験、自分の感覚とは相いれない、ということがあるかもしれません。
そのような時に、心を閉じてしまうのではなく、一旦心の扉は開けた状態にしておいて、「この言葉はどんな意味があり、私とどんな関係があるのですか」と言って、素直に神に尋ねる、また他の信仰者に聞いてみる、という姿勢を持つとよいと私は思います。
最終的に、神を信じ、神の創造の御業を信じることは、信仰によって与えられるものです。そして信仰は、私たちが自分自身の思いや考えに固執せず、ある意味自分を捨て、心開き、神を心の中に受け入れることによって、私たちに与えられます。

新約聖書のヘブライ人への手紙という書物の11章3節に次のように書かれています。

ヘブライ人への手紙11章3節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 信仰によって、神の創造の業を私たちは信じ、そして神が創造したこの世界の中に私たちは生かされているということの驚きと、その喜びを分かちあっていきましょう。
 創世記の冒頭である今日の箇所には、神が最初に言われた言葉が記されています。記念すべき神の第一声(私たち人間に伝えられている、という意味での第一声)は、「光あれ」let there be lightでした。

 3節「光あれ」

神の言葉によって光が現れました。神の光がない状態が2節に書かれています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神の光が無い状態は混沌(形なく、虚しい、秩序の無い状態)であり、闇です。しかし神はこの世界に神の光が輝くようにしてくださいました。
  混沌とした闇の中で私たちは生きていくことができません。秩序のない暗闇のなかで、私たちはどこへ進んでいけばよいのかが分かりません。
 しかし神は光をお造りになり、私たちに神の光に従って、その光の中を歩んで生きるようにしてくださいました。

  新約聖書では、この光について、次のように言われている箇所があります。
コリントの信徒への手紙二 4章6節です。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 光とはすなわちイエス・キリストの光だ、イエス・キリストの栄光(神の栄光)の光だと、言うのです。
神は混沌と闇ではなく、光がある世界を創造されました。そして神は私たちひとり一人も、その光、すなわちイエス・キリストという光を心の中に頂いて生きる者となるように創造されました。
 イエス・キリストという光が、私たちに先立って進み、私たちがどこへ行けばよいのか、どう生きればよいのかを指し示してくださいます。
 キリストによって示される道を私たちが見ることができるため、私たちは聖書の御言葉を読んで、祈るのです。
祈りとみ言葉を通して、神すなわちキリストの光によって照らされる道を私たちが選び、その道を私たち共に歩んでまいりましょう。

 今日の箇所は創世記1章1~5節までですが、1章全体を通して神が世界のあらゆるもの、人を含む生きる物をも、神の定めた順序に従って創造されたことが描かれています。
  1章31節の前半に次のように書かれています。

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 聖書はこのように、神がこの世界のあらゆるものをお造りになり、そして神から見て、それらは全て“極めて良かった”と言うのです。
 神が造られたこの世界と、そしてその世界にあるもの、そこに住むものはすべて神が造られたのであり、それらはすべて神の目から見て“極めて良い”ということです。
 私たちの目には、私たちの住む社会や世界が、またそこで起きていることが良いものだとは思えないことも沢山あります。
 特に、人と人とが集団同士で、あるいは国同士や組織同士で争う悲惨な戦争が世界で絶え間なく続いている現実を見ると、そんな世界が極めて良い、とは信じられないこともあるとわたしは思います。
 ここで、今年度の私たちの教会の標語、そして関連聖句の詩編19篇8~9 (7~8 NIV)の言葉を聞いてみましょう。

「主の御言葉に立つ」
詩編19篇8~9
主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

 詩編19編の該当箇所で、主の律法、定め、命令、戒めと書かれているのは、すなわち主の御言葉です。
 神の光はどこにあるのでしょうか。悲惨で残酷な現実で溢れているように私たちの目には映る世界の一体どこに、神の光と希望があるのでしょうか。
 それは、私たちが、私たち自身の考えや自分の目に見えることだけを通して世界を見るのではなく、主の御言葉(聖書の御言葉)を通して世界を見る時に、そこに神の光と希望があることを私たちは認めることができるようになります。
 私たちが主の御言葉に依り頼み、御言葉を頂く時、神の光が確かに世に輝いており、神の創造の業が“極めて良い”ものであることを認めることができるようになるのです。
 私たちが信仰によって、神の創造の良き業の一つ一つを認めることができるとき、その度に私たちの身の回りから、混沌ではない神の平和が造りだされていくのです。
 「初めに、神は天地を創造された」。この言葉は真実であり、希望です。
神が創造された天地、世界は“極めて良い”ものです。神が創造された世界に生きる喜びを、御言葉の光を通して私たちはいつも豊かに頂いてまいりましょう。

2024年3月30日土曜日

2024年3月31日 主日イースター礼拝

前奏
招詞 創世記2章7節
讃美 新生讃美歌 232番 カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
讃美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
献金
聖句  ヨハネによる福音書2019~23
祈祷
宣教 「聖霊を受けなさい」
祈祷
讃美 新生讃美歌 241番 この日主イエスは復活された
頌栄 新生讃美歌 674番 
祝祷
後奏

 イエス・キリストの復活を記念し、お祝いするイースター(復活祭)の礼拝を今日私たちは献げています。
 イエス様は、人間の罪を背負い、その罪を赦すために、十字架に架かって死んでくださいました。
 それは神の子イエス・キリストにとっても、大変厳しく、苦しいことでした。
 「イエス様は神の子だったのだから、そして死んで復活することを知っていたのだから、十字架にかけられても怖くはなかったはずだ」という意見があります。

 しかし、わたしにはとてもそうは思えません。確かにイエス様はご自分が捕まり、十字架にかけられて死ぬこと、そしてその後に復活することを弟子たちにも前もって予告しておられました。
 しかし、それでもイエス様は、人々に捕らえられる前、ゲッセマネという所で必死に祈られました。マルコ福音書14章32節から42節までで描かれるその場面でイエス様は次のように祈っています。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)

イエス様は人となられた神です。イエス様は神でしたが、同時に完全に人間にもなられたのです。それはどう考えても、私たち人間では完全に理解することはできない不思議な出来事ですが、真実なのです。
 そのように、イエス様は神であると同時に完全に人でもありましたから、全ての人の罪を背負う(全く罪のない清いお方が、罪を背負うという経験をされる)という、その使命は、私たちが想像できないほどに辛く、苦しく、悲しい、重いものであったはずです。
 ご自分に課せられたその使命をイエス様は全うして、十字架の上では「成し遂げられた It is finished (NIV)」と言って、息を引き取られました。(ヨハネ福音書19章30節)

 聖書は、イエス様が十字架の上で、無残に殺されたその出来事をはっきりと伝えています。キリスト教会は、今現在にいたるまで、ずっと十字架を私たちの信仰を表わすものとして掲げ続けています。
 それは、「十字架の上で成し遂げられた、主イエス・キリストによる私たちの罪の贖いと赦しの業によって、私たちは罪赦され、生きるものとされた」という信仰を私たちがいつも思い起こすためです。
 イエス様が十字架にかけられたのは金曜日でした。それから三日目の日曜日の朝、主イエスは復活されました。

 今日私たちはイエス様の復活を心に思い起こして、復活の力と希望によって、新たに生かされる経験を、頂いていきたいと願います。
 今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられて死んでから三日目の夕方でした。弟子たちがユダヤ人を恐れて、彼らは家の中にこもって戸には鍵をかけていた、と書かれています。

彼らがユダヤ人たちを恐れた、というのは、自分たちが先生として従っていたイエス様が十字架刑で処刑されたので、「自分たちも捕まってしまうのでは?」という恐れの中にいたのでしょう。
それは一体、どれほどの恐怖であったでしょうか。彼らは正に自分の命が奪われるかもしれない、という恐怖の中にいたのです。
そしてまた、彼らは自分たちがそれまで信じてきたことが、完全に打ち砕かれるという衝撃の中にもいました。肉体的な死も恐ろしいですが、大切にしていた精神や理想が死ぬ、ということも大変恐ろしいことだと私は思います。
彼らはイエス様の教えを信じ、そしてイエス様がいずれ彼らにもたらしてくださるもの(と彼らが信じていたもの)に全てを(命を)懸けていました。

それはイエス様が、やがてその圧倒的な力で、ユダヤを支配しているローマ帝国を打ち倒し、神の国を打ち立て、その時には、イエス様に従ってきた自分たちも高い地位に引き上げていただける、ということでした。
しかし、そのように信じてきたことは全て打ち砕かれ、もはや何の望みも彼らには残っていなかったのです。
「一体、私たちは今まで何を信じて生きて来たのだろう。これから、どうすればよいのだろう」と途方に暮れながら彼らは集まり、戸には鍵をかけて家の中で怯えていることしかできなかったのでしょう。
彼らが戸に鍵をかけていた、というのは、彼らの心が閉ざされてしまっていた状態をも表すと私は思います。
「もう何も信じられない」、あるいは「何も信じたくない」という思いで彼らの心の戸は閉じられ、自分の中に完全に閉じこもってしまっていたのです。
 今、私たちはどうでしょうか。こうして教会に集う私たちの心は開かれているでしょうか。私たちの心は主に対して、そして共に集う私たちお互い同士の間で心は開かれているでしょうか。
私たちはそうでありたいと願います。私たちは、どうしたら心を神に開き、また人に対しても開くことができるのでしょうか。
それは復活の主イエス・キリストを信じ、復活の主を私たちの只中にお迎えすることによって可能になります。わたしたちは、どのようにイエス様をお迎えしますか?

今日の聖書箇所では、戸を閉じていた彼ら弟子たちの真ん中にイエス様が来て、立たれました。
戸は閉まっていましたが、復活のイエス様は、全く新しい体に復活していたので、この世の物理的な障害には制限されずに行動することができたのでしょう。
 イエス様は彼らの真ん中に立たれました。本来、神は、私たち人に対して信じて信仰を持つようにと促すため、私たちの心の中に無理やり入ってくることは、なさいません。
 ヨハネの黙示録3章20節に、戸口に立って戸を叩くイエス様のことが次のように書かれています。
 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 イエス様は私たちの心の戸の前に立たれ、戸を叩いて、私たちが内側からその戸を開くのを待っておられるのです。イエス様は無理やり私たちの心の中に入って来ることはなさいません。
 キリストが私のために死んでくださった、ということを信じて生きていくか、その真実を拒絶して生きていくか、を選択するのは私たち自身です。神はその選択を私たちに強制はされません。

 しかし復活日の夕方、イエス様は、言わば無理やり、弟子たちが鍵をかけていた戸をも通り越えて、弟子たちの前に復活したそのお姿を現されました。
 それは、主の復活が、弟子たちや人々の想像を全く越えた、神の御計画によることをはっきりと表わすためでした。
“主の復活から全く新しいことが始まる”、“神の主導権によってそれが始まる”ということが示されるため、イエス様は閉じられた戸を通って、弟子たちの前に姿を現されたのです。

 弟子たちの真ん中に立たれたイエス様が次のように言われました。
 「あなたがたに平和があるように」。イエス様が復活したのは、弟子たちに、そして私たちに平和を与えるためでした。
 平和とは、壊れた関係が回復(修復)されることです。心と心が結ばれた強い絆、豊かな関係性の中に再び迎え入れられるということです。
聖書は、最初の人であるアダムとエバが犯した罪のため、人は神から離れてしまったことを伝えています。原罪と言われるその罪を、私たちは皆背負っています。
しかし、その原罪を抱えたまま、神から離れたままで人が生きることを神は望まれませんでした。

神は、ご自分の独り子であるイエス・キリストを世に送り、御子の命に代えてでも、私たちを救いたい、と望まれたのです。
そのことは、何度でも、おそらく私が牧師でありキリスト者として生きる一生の間、繰り返し皆さんにお伝えし続けなくてはならないことです。
そして、弱く欠けのあるこの私でも、神のそれほどまでのご愛に少しでも応えて生きることができるように、そのように努力をしたいと私は願っています。その思いは、キリスト者である皆さんも同じはずです。

そして、まだイエス様を主と信じてはおられないお方も、やがて主を信じる告白へと導かれ、イエス様が十字架の上で死んでくださったので今の私の日々の命がある、という信仰へと導かれてほしいと、私たちは願っています。
復活したイエス様は私たちに、平和を与えてくださいました。もういちど、私たちから離れた(壊してしまった)神との関係に入るという平和です。
そしてもう一つ復活のイエス様が私たちに与えてくださったのは、喜びです。
イエス様は弟子たちにご自分の手と脇腹をお見せになりました。そこには釘と槍(やり)による傷跡が痛々しく残っていたはずです。その傷跡によって、弟子たちはそのお方が確かに彼らの主であることが分かったのです。
十字架にかけられて無残に死んだ(殺された)主が、確かに肉体をもって甦ったということが、その手と脇腹の生々しいその傷によって、弟子たちに確信されたのです。

弟子たちに、“人々は(自分たちも含む)イエス様を殺したけれども、この方の命を本当に奪うことは誰にもできない”ということが知らされたのです。
そこから大きな真の喜びが弟子たちに与えられました。主のお命を取ることは誰にもできなかった、そしてその主を信じる自分たちの命を取ることも、誰にもできないという喜びが沸き上がりました。

その喜びに、今の私たちも信仰によって与ることができるのです。

 イエス様は弟子たちに息を吹きかけて次のように言われました。
「聖霊を受けなさい。。。」

イエス様が彼らに息を吹きかけられたのは、新たな命が吹き込まれたことを表わします。
創世記で人が最初に神によって造られた時、人は神から神の息を吹き入れられて生きるものとなりました。(創世記2章7節)
復活のイエス様も、弟子たちに聖霊という命の息吹を与えてくださり、新たに生きる命を与えてくださったのです。
私たちも主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに真ん中にいて頂く信仰によって、神の息、命の息である聖霊をいつも頂くことができます。

 主は復活されました。そして主の復活を信じて生きる者も、やがて主と共に復活します。

それはただの夢物語でなく、その希望を元にして私たちが今この地上での生の現実、厳しい現実を精一杯生きることができる力なのです。
 主イエス・キリストは復活されました。人間のいかなる邪悪な思いや悪の力も、主を完全に無き者にすることはできませんでした。
 私たちは毎週の日曜日、主が復活した日曜日に礼拝を捧げます。今日は特別なイースター礼拝ですが、毎週毎週の日曜日が、主の復活に私たちが共に預かる特別な一時です。
私たちは、共に礼拝することを通して、主に心を開き、また信仰の家族や隣人に対しても心を開いていきたいと願います。
私たちは、復活の主を信じ、復活の主イエス・キリストをいつも私たちの心の中に、この礼拝の只中にお迎えいたしましょう。
 そして「平和があなたがたにあるように」と弟子たちに言われたイエス様のお言葉を、今の私たちにも向けられた言葉だと信じ、主の平和が私たちの間で、そして社会と世界でも実現していくことを祈り求めていきましょう。
一度はご自分を完全に裏切った、本当に弱々しい卑怯な弟子たちを、イエス様は見捨てることなく、再び彼らの前に現れて、聖霊を与えて再び生かし、主の赦しを告げる使者としてくださったのです。
私たちも、主の赦しの御業、復活のイエス・キリストを世に宣べ伝える現代の使者として召され、遣わされています。その召し(calling)に、私たちは喜びをもって応えて参りましょう。

 イースター、おめでとうございます!イエス様、感謝いたします!