2024年7月19日金曜日

2024年7月21日 主日礼拝

前奏
招詞 ペトロの手紙一 1章5節
賛美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
賛美 新生讃美歌2番 来たれ全能の主
献金
聖句 エレミヤ書31章1~9節
祈祷
宣教  「彼らはわたしの民となる」
祈祷
賛美 新生讃美歌19番 くすしき主の愛
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏


 「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」という一文で今日の聖書箇所(エレミヤ書31章1~9節)は始まります。
 “そのとき at that time”というのは、旧新約聖書を通して伝えられる、“終わりの日、世の終わり”のことです。
 神が造られたこの世界はいずれ終わりの時を迎える、と聖書は伝えています。
“終わりの日、世の終わり”というと、“滅びの日”というような怖いイメージを私たちは持つかもしれません。
イエス様は、世の終わりについて何と言っているでしょうか。マタイ福音書13章36節以降の箇所で、イエス様は次のように言っています。

・世の終わりには、刈り入れの時に毒麦が集められて火で焼かれるように、“つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもは、燃え盛る炉の中に投げ込まれる”(マタイ13:41~42)

・世の終わりには、正しい人々の中にいる悪い者どもは、燃え盛る炉の中に投げ込まれる。(マタイ13:49~50)

 イエス様のそれらの話を聞くと、確かに世の終わりは恐ろしいものに思えます。“わたしは悪い者として、燃え盛る炉の中に入れられるのだろうか?”と思うと、怖くなります。
 しかし私たちは、イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、私たちの罪の赦しのためであったことをも知らされています。
 そして主イエス・キリストを信じる者は誰でも、その人もその人の家族も救われる、という聖書の言葉があることを、私たちは知っています。(使徒言行録 Acts 16章31節)
 終わりの日の裁きは、完全に神の領域です(神様が行うこと)。ですから、私たち人間が、“世の終わりに、誰が救われ、誰が救われないのか”を決めることはできません。
 私たちは、終わりの時の裁きが確かにくる、という聖書のメッセージを緊張感をもって受け止めながら、同時に、イエス・キリストへの信仰による救いがある、ということに確かな希望をもって生きていきたいと願います。

 今日の聖書箇所は、旧約聖書の中の『エレミヤ書』の31章の始めの部分です。エレミヤとは、預言者の一人の名前です。
エレミヤはエレミヤ書の最初の記述によると、ユダ王国の王ヨシヤの時代に、主に召されて(呼ばれて)預言者としての働きを始めました。
 エレミヤは、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、多くのイスラエルの民たちがバビロンへ捕囚として連れていかれるバビロン捕囚の時代まで、預言者として約40年間活動した、と言われます。
 エレミヤ書の1章には、神の言葉がエレミヤに臨み、エレミヤが預言者として立つ使命を神から授けられたことが書かれています。
 エレミヤ書1章4~5節に次のように書かれています。

4主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

 神はエレミヤに「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と言います。
 神は、私たち人が母の胎内で造られる前(生まれる前)から、わたしたちのことをご存じのお方です。
 私たちは誰も、自分が生まれる前のことは知りません。私たちは自分がいつの時代、どの場所、どの家庭に生まれるのかを自分で選ぶこともできません。
 しかし、神はそれらを全てご存じです。神はそれらをご存じというよりも、正確には、私たちはすべて、神のご計画にそって、この世界に(ある特定の時と場所に)生まれてきます。
 そのようなことは信じず、“人は、ただ偶然この世界のどこかに、たまたま生まれてくるだけだ”という人もいるでしょう。
 しかし、聖書を通して神の創造の業を知らされた者は、そのようには考えません。創造主なる神が、御子イエス・キリストを通して私たちに救いを与えてくださったことを知らされた者は、私たちがただ偶然この世に生まれてくる、とは信じません。
 私たちは、神がエレミヤを預言者(神の言葉を預かり、人々に神の言葉を伝える人)として特別に選んだように、神は今の私たち一人ひとりにも、特別なご計画をお持ちであると信じてよいのです。
私たち一人ひとりが神から与えられた使命があります。それが何かは人によって違います。
「いや、神様が、この私に何か特別な計画をお持ちだとは、思わない」と思われる方もおられるかもしれません。
 しかし、私たちがこの世界に生まれてきて、肉体と心(精神)をもって生きていることは、それ自体が驚きの出来事です。
 とても緻密な法則や仕組みによって運行されている世界や宇宙、また私たち生物の体が生きるためにいかに精密な機能を備えているかを知らされると、このような肉体を与えられ私たちが生きていること自体が大変な驚きです。
 世界や宇宙の仕組み、私たちの体の精密さ、それらいずれをとっても、創造主なる神がおられると考えることは大変理に適っている、と私は思います。
 そして御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったその神は、私たち一人ひとりに限りない愛と、また私たち一人ひとりの命に、特別なご計画(使命)をお持ちのお方であると、私たちは信じてよいと私は思います。

 エレミヤは、主の言葉に呼びかけられて預言者として立つように言われますが、神の言葉がエレミヤに最初に臨んだ時、エレミヤは最初とても躊躇しました。
 “わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから”と言って、神の呼びかけから逃れようとします。(エレミヤ1章6節)
 出エジプト記で、あのモーセも、最初神様に呼びかけられて、“あなたが、エジプトからイスラエルの民たちを導きだしなさい”と言われた時、何度も何度も躊躇いたしました。
 私たちは、たとえ神様から呼びかけられても、その呼びかけの内容が、自分に大きな責任を負わせるように感じられる時、やはり私たちは“それは私にはできません”と言って、躊躇してしまうものなのでしょう。
 しかし、わたしたちをお造りになった神ご自身が私たちを呼び出してくださるのであれば、私たちは神が示されたその働きの道へと勇気をもって歩みだしたいと願います。
 必要なことはすべて神が備えてくださるからです。そしてそれが神の御心ならば、私たちの力によってではなく、私たちの能力を超えたところで必ず神が働いてくださるからです。
そのようにして私たちが自分自身ではなく、神を信頼して、神の働きに仕えていくとき、そんな私たちの働きを通して、神のご栄光が世へと表されていくのです。
そのように神に用いられることを、私たちは喜びたいと思います。

 エレミヤは約40年間、預言者として神の言葉をイスラエルの人々(正確には、エレミヤが活動したのは、南ユダ王国)に伝えました。
 しかし、人々はエレミヤの言うことを聞かずに神に背き、神の戒めに従わず、異教の神々に仕える偶像崇拝をするなどして、神に背きました。
 結局、イスラエルの人々の罪のため、神に背いたそのことのために、国は滅ぼされ、多くの人々がバビロンへと連れていかれました。
 今日の31章はそのような背景のもとに書かれた箇所であると言われます。
 主なる神は、エレミヤを通して厳しい言葉をイスラエルの民たちに語り続けました。
エレミヤ書には主の言葉として、“わたしはお前たちをわたしの前から投げ捨てる”(7章15節)とか、“たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない”(15章1節)という言葉が記されています。
 イスラエルの民は、エレミヤの預言による神の忠告にも関わらず神に背いて、その結果国は滅ぼされ、人々は他国へ連れ去られました。
しかし神はそれで完全にイスラエルの民たちをお見捨てになったのではありませんでした。
今日の31章では、“そのときには、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らは私の民となる”と神は(エレミヤを通して)言って、“神の救いの希望は失われていない”と宣言されたのです。
 そのときには(終わりの時には)、神はイスラエルのすべての部族の神となる、とは、神は世界のすべての者の神となる、ということです。
 そして“彼らはわたしの民となる”の彼らとは、私たちすべての者、私たち一人ひとりのことです。
 神の定められた“終わりの日”には、神はあらゆる人にとっての神となり、あらゆる人が神の民となる、というのです。

 これは神の壮大なご計画、あるいは神ご自身の大きな幻(ビジョン)と言ってよいと思います。
神の言葉が世に告げられ、人々が神の言葉によって神を信じる時、神はすべての者の神となり、すべての者は神の民となるのです。
 そこでは、今わたしたちの世界にある国や地域、民族、人種の違いなどは、何の意味ももたなくなっているでしょう。それは、私たちすべての者が皆“神の民”として一つに結ばれている世界です。
 終わりの日にそのような世界が実現する根拠は、3節に描かれている神の愛です。しかもそれはとこしえの(永遠の)愛です。
 神の愛はとこしえ(永遠)の愛であり、いつまでも変わらない無条件のご愛です。
 私たち人がどれほどの愛を持っていたとしても、人の愛には必然的に条件がともないます。誰であっても文字通り無条件で愛する、ということは私たちにはできません。
 私たちが誰かを愛することができるのは、そこに何か理由があるからです。家族であるからとか、友達であるからとか、その人が良い人だから、などという理由や条件があるから、私たちは人を愛することができます。
 しかし、神様の愛はとこしえ(永遠)の無条件の愛です。それは私たち人の罪によってもなくなることのない愛です。
 聖書の伝える神は、イスラエルの民たちが、そして私たち人が、どれほど罪を犯しても、その罪を赦し、神のもとへと立ち返ることを望んでくださる、愛なる神です。
 私たちを赦し、私たちをご自分のもとへ呼んでくださる神の愛にお応えして、「神のご愛のもとへ、皆で立ち帰ろう」と人々が思う希望が、今日の箇所には書かれています。

6節
 見張りの者がエフライムの山に立ち 呼ばわる日が来る
 「立て、我らはシオンへ上ろう 
  我らの神、主のもとへ上ろう」

 この掛け声を、私たちも共に唱えながら、神が私たちの背き、罪を赦してくださったことを感謝して、共に神のもとへと上っていきましょう。
今私たちがこうして共に神を礼拝しているという行為が、“神のもとへ上っていく”という行為の一つです。
私たちが毎週心合わせて、共に聖書の御言葉を聞き、賛美し、神に感謝をし、祈りを合わせるとき、私たちは“神のもとへの上っている”と言ってよいと、わたしは思います。
 “終わりの日”は、神がお定めになった時に、必ず訪れます。そして終わりの日は、神の希望の実現の日でもあります。
 その意味で、御子イエス・キリストの救いがはっきりと私たちに示されている今は、わたしたちはすでに“終わりの日”の希望の実現の始まりを信仰的に経験していると言えます。
 イエス・キリストの救いを信じ、私たち共に神の御名を唱えて神を礼拝する今、神がご計画になった“終わりの日”の希望を、今私たちはすでに経験しているのです。
 私たちは、終わりの日に実現(完成)する神の国を信じ、神の民とされた幸いを覚えて、そして私たちを通してキリストの福音が世に伝えられていくようにと願いつつ、信仰生活を共に送ってまいりましょう。

2024年7月13日土曜日

2024年7月14日 主日礼拝

前奏
招詞 マタイによる福音書6章33節
讃美 新生讃美歌61番 さわやかな朝となり
主の祈り
讃美 新生讃美歌 120番 主をたたえよ 力みつる主を
献金
聖句 箴言30章7~9節
祈祷
宣教「わたしが願う二つのこと」
祈祷
讃美 新生讃美歌 103番 望みも消えゆくまでに
頌栄 新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所は『箴言』(Proverbs)の中の一部です。『箴言』には、人が生きていく上で非常に有益な教訓や知恵の言葉が多く書かれています。
 『箴言』の多くは、ソロモンによって残された言葉です。箴言1章1節は「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」という言葉で始まっています。
 ダビデに次いでイスラエルの王となったソロモンは、知恵と判断力に恵まれていました。それはソロモンが、王として聡明な知恵と判断力を神に願ったので、彼に与えられたのでした。
 ソロモンは、その晩年は心が他の神々(真の神でない異教の神々)へと向かい、主なる神に背いてしまいました。

しかし、王となった初めのころ、ソロモンは身を低くして、次のように神に願ったことが書かれています。

列王記上3章9節 1 Kings 3:9
 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましう。」
晩年は心が神から離れてしまったソロモンでしたが、王となった当初には、このように、とても謙虚な願いと祈りを神に捧げていました。
 ソロモンは、“わたしはダビデ王の息子なのだから、王になるのにふさわしい者であるし、またその能力もある”とは考えませんでした。
 いくらダビデの子であろうと、“民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように聞き分ける心”は、神から与えられる他はない、とソロモンは知っていたのです。
  神様を信じるとは、神が“必要なものを必ず与えてくださる”と信じ、そのように神を信頼し、そしてその必要を求めて神に祈る、ことです。
 そして聖書は、私たちが何を望んでいるのかを、自分で考えて、心から望むものを真剣に神に願い、祈りなさいと勧めています。

善悪を判断し、聞き分ける心を願ったソロモンの祈りも、ソロモンが「王として忠実に仕えるためには、私には何が必要なのか」ということを、彼が真剣に考えた結果の願いと祈りの言葉であったと、私は信じます。
私たちは何を望んでいるのでしょうか。私たちはどのように生きたいと願っているのでしょうか。
新約聖書の『フィリピの信徒への手紙』4章6節に次のように書かれています。
どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
何が欲しいのか、私はどのように生きたいのか、を真剣に考えることは、自分自身に真剣に向きあうということです。
私たちは自分の心を探り、何がほしいのか、どう生きたいのかを真剣に考え、そしてそのために必要なものを神に願うことが許されている幸いを覚えて感謝したいと思います。
 自分が何を望んでいるのかを真剣に考え、その願いを祈りとして、神にお捧げいたしましょう。

 箴言は、その多くがソロモンに帰せられるものであると私は申し上げました。しかし今日の箇所の第30章は、始めに「アグルの言葉」と書かれています。
このアグル(ヤケの子アグル、 30章1節)が誰であり、どのような人であったのかは、分かりません。
しかし、神を信じる一信仰者として、アグルという人が残した箴言の言葉を、今日私たちは分かち合い、ここから、私たちにとっても必要な願いと祈りについて、私たちは考えていきましょう。

今日の始めの7節に次のように書かれています。今日のメッセージのタイトルにもした言葉です。
7二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。

 この祈りの人(アグル)は、二つのことを神に願う、と言っています。“わたしが死ぬまで、それを拒まないでください”と彼は言っています。
 ですから、彼が願っている二つのこととは、ただ一時的な必要や願いではなく、彼が(人が)一生を生きる上で、常に神からいただきたい(いただかなくてはならない)ものであることが分かります。
 アグルが最初に願ったものは、次のことでした。
 8むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。
 
 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください、とアグルは祈っています。むなしいものとは、本物でないものとうことです。
 私たちは何かによって支えられ、何かを心の中心において、この世界で生きています。私たちの心の中心を支えるものが、本物でない、何かの偽物であるならば、私たちの心はいつか崩れてしまいます。
 本物でないものが、私たちを支え続ける、力を与えるということはできないからです。

 私たちは、神でないものを神のようにして(一番大切なものとして)崇拝したり、神の言葉(真理の言葉)ではない偽りの言葉に私たちの心が惹かれてしまうことがあります。
 神が作った最初の人であったアダムとエバにとって、蛇の誘惑の言葉「善悪の知識の木の実を食べても死にませんよ。それを食べると神様のようになれるのですよ」という(嘘の)言葉は、とても魅力的に聞こえたのでしょう。
 今の私たちにも、そのように、真の神から(信仰から)私たちを引き離そうとする巧妙な言葉や誘いが向けられることがあります。
  しかし、真の神の言葉でないものに、私たちを本当に支え私たちの人生を導く力はありません。また、私たちの欲や悪い思いに訴えかけるような誘いや言葉は、私たちを偽りの道、滅びの道へと誘い込みます。
 
 今年度私たちの教会は「主の御言葉に立つ」という主題を掲げています。

私たちは、与えられる主の御言葉(聖書の言葉)を、信仰の土台として、御言葉をこそ信頼していきましょう。
そして、どんなに魅力的に見えても、それが私たちを真の神から引き離そうとする偽りの言葉や誘いであるならば、そのような誘惑から私たちが守られますようにと、神の助けを祈り求めたいと願います。

8節後半~9節には次のように書かれています。

貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。
9飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。
 わたしのために定められたパンでわたしを養ってください、とはつまり、私たちの日々の食べ物、生活の必要を満たしてください、という願いです。
イエス様も主の祈りの中で、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさい、と弟子たちに教えられました。(マタイ6:11)
日ごと必要な食べ物、その他生活に必要なものが与えられるのは当たり前のことではありません。それらはすべて神の恵みです。

日々の食べ物やその他必要なものを、当たり前のものと思わずに“今日も、必要な糧を私(わたしたち)に与えてください”と神に祈り続けなさい、とイエス様も教えられました。
それは、私たちが日々いただているもの、手にしているものを、私たちが自分の力や能力で得ている(誰の助けも借りていない)と、間違って思わないように、ということです。
日々の食べ物やその他生活のために必要な色々なものは、毎日与えられるのが当たり前になってしまい、それらを“今日もお与えください”と心から感謝して祈ることを、私自身忘れてしまっていたことを、今日のメッセージを準備する中で、私は思わされました。
日々生かされていること、日々必要なものが与えられていることは、まさに奇跡であり神様の恵みです。その恵みをあたり前のものと思わず、感謝と喜びの祈りを、恵みの源である神に、私たちは捧げ続けたいと願います。

祈りというものは、“私たちは祈れば、あとは自分で何もしなくていい。祈れば、私たちが何もしなくても、神様は何でも自動的に与えてくださる”ということでは、もちろんありません。
「祈るということは、一歩間違えれば、それによって現実に向き合って必要な努力をするという姿勢を私たちから奪ってしまう危険がある」という言葉を私は聞いたことがあります。
私たちはもちろん、自分自身ですべきこと、日々の糧を得るために必要な(自分にできること:仕事など)をしなくてはなりません。
厳しい現実にもそれから目をそらすことなく向き合って、何か問題があれば、その問題解決のために自分にできることはしなくてはなりません。

 しかし、私たちが現実に向き合う力、そして日々の糧を得るためにすべきこと(たとえば仕事)をする力も、それらはすべて神から与えられるのです。
 そのように、日々必要なあらゆるものが与えられるのは、決して当たり前のことではなく、すべては神からの賜物なのですから、全てを神の恵みとして感謝し、日々の必要が満たされるようにと、私たちは常に神を覚えて神に感謝して祈るのです。
 そして「貧しくもせず、金持ちにもせず」という点がとても重要だと思います。続く9節をもう一度お読みします。

9飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。

 この箴言の著者(アグル)は、自分の弱さをよく知っていたようです。彼は「どんなに貧しくても、私には信仰があるから大丈夫だ」とは言わなかったのです。

 貧しければ、わたしは盗みを働いて、神の御名を汚してしまうかもしれない。

そして飽き足りるほど富が与えられれば、慢心して(傲慢になって)“わたしは自分自身の力でこれらの富も得たし、自分の力で生きている”と言ってしまうかもしれない、と彼は恐れたのです。
 彼は、自分自身の(人間の)弱さ、傲慢さを本当によく知っていました。貧しすぎても、また豊かすぎても、自分がそれによって神から離れてしまう弱さがあると、アグルグは知っていたので。
 私たちは、自分の弱さを認めるということには、やはり躊躇してしまうのではないでしょうか。私たちはできれば強くありたいと願い、他の人や、(正直に言えば、神様にも)頼りたくはない、と思ってしまうかもしれません。
 しかし、私たちは神の前に何も隠す必要はないのです。私たちが自分自身に正直に向き合うならば、私たちは必ず自分の弱さにどうしても向き合わされるでしょう。
 私たちは神の前に自分の弱さを認め、そして神がその弱い私たちを守ってくださるお方であるということを、今一度覚え、神を信頼し神に頼って生きるという決意をいたしましょう。

 私たちは弱くても、神は強いお方なのです。私たちを神の恵みから、また神の御言葉から引き離そうとする、いかなる悪の誘惑からも守られますようにと、私たちは祈ってよいのです。
 貧しくもせず、金持ちにもせず、傲慢にならず(卑屈にもならず)神の恵みに感謝をもってとどまり続けることができるように、私たちは祈りましょう。
あくまで主なる神に頼り、主の力、主の御言葉によって日々を生きていこうではありませんか。

 

2024年7月6日土曜日

2024年7月7日 主日礼拝

前奏
招詞  ローマの信徒への手紙11章32節
賛美  新生讃美歌 61番 さわやかな朝となり
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌134番 生命のみことば たえにくすし
献金
聖句  詩編51編3~11節
祈祷
宣教  「神よ、わたしを憐れんでください」
祈祷  
賛美  新生讃美歌 301番 いかなる恵みぞ
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

聖書は“人は神によって造られ、神に従い、神との豊かな関係の中に生きる者として造られた”ことを伝えています。
 新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」1章9節(1 Corinthians 1:9)に次のように書かれています。
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

神の子、主イエス・キリストとは、すなわち神ご自身です。ですから、私たちはイエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中で生きるようにと期待をされている、ということです。
しかし、人は自ら罪を犯して神様との関係を壊してしまいました。旧約聖書『創世記』の中で描かれる、最初の人アダムと妻エバが犯した罪により、神と人との間に、始めから大きな溝が生じてしまいました。
神はアダムに「善悪の知識の木からは、決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」と伝えました(創世記2章17節)。
しかし、蛇に誘惑されたエバ(アダムの妻)が最初に、その善悪の知識の木を食べてしまいました。アダムも同様にその実を食べてしまいました。
善悪の知識の木の実を食べるということは、人間が神のような力や能力を手にしようという欲望の表れでした。
 そして、アダムとエバが犯したその最初の罪を、私たち誰もが負っています。それをキリスト教では原罪(original sin)と言います。


 原罪を持った人間は、神に逆らって、神のようなものになろうという間違った欲望と考えを持ち、神から離れて自分中心に生きるようになってしまいました。
 そのように、人の罪が神と人とを遠ざけ大きく隔ててしまいました。罪が神と私たちを遠ざけているのですから、もし私たちが再び神に近くありたいと願うのならば、その罪が取り除けられなくてはなりません。
 私たちは、どうしたら自分の罪に気づき、そして私たちの罪は、どうしたら取り除かれるのでしょうか。

 今日の聖書箇所の詩編51篇は、自分が犯した罪に気づかされたダビデが罪を悔いて、神に赦しを必死に求めるという内容の詩です。
1~2節(英語訳では、1節の前の見出しの部分)をお読みします。

1【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

 この詩編はダビデによって作られ、告白された詩です。「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とは、旧約聖書『サムエル記下』11~12章で描かれる、ある出来事のことが言われています。
サムエル記下11~12章のその出来事を振り返ってみたいと思います。
 ダビデはイスラエルの王になっていました。その時ダビデは権力の頂点にあったと言ってよいでしょう。
 時にイスラエルは他国と戦争をしていました。王であるダビデは都エルサレムに留まっていました。
 そんなある日の夕暮れに、ダビデは王宮の屋上から、一人の女の人が水浴びをしている姿を見かけます。その女の人は大変美しい人でした。
 ダビデは人をやってその女の人を、自分のもとへ連れてこさせ、そして彼女と関係を持ちました。その女の人は、ヘト人ウリヤという兵士の妻で、バト・シェバという人でした。
 その出来事からしばらくたち、その女性から「わたしは子を宿しました」(サムエル下11:5)という知らせが、使いを通してダビデに知らされました。

 ダビデはどうしたでしょうか。ダビデは戦地にいた、バト・シェバの夫ウリヤを、自分のもとに呼び戻させました。
 そしてダビデは自分のもとに来たウリヤに戦地の状況を尋ねたうえで、家に帰って休むように(妻バト・シェバと過ごすように)と言います。
 つまり、ダビデは自分がバト・シェバを妊娠させた事実を隠蔽しようと試みたのです。
 しかしウリヤは、“他の兵士たちが戦地にいるのに、自分だけが家に帰って妻と過ごすことはできません”と言って、ダビデがどれほど勧めても自分の家へ帰ろうとはしませんでした。
 そこでダビデは、戦地にいる自分の司令官のヨアブに、ある命令を出しました。それは、“ウリヤを激しい戦いの最前線に出して、彼をそこに置き去りにし、全員退却して、ウリヤを戦死させろ”という命令でした。
 そしてウリヤは死にました。ウリヤの喪が明けると、ダビデはバト・シェバを自分の妻としました。そしてバト・シェバは一人の男の子(ダビデの子)を生みました。
 そのように聖書にはダビデのしたことが淡々と描かれます。ダビデは自分のしたことをどう思っていたのでしょうか。聖書に書かれている限りでは、ダビデは最初は自分の罪にまったく気づいていませんでした。
王という絶対的な権力を持つ立場にあったダビデは、「王ならば、これぐらいのことをしても許される。これは大したことではない」とさえ思っていた可能性も十分にあると、私は思います。
 しかしダビデは、自分がしたことの罪に気づかされることになります。預言者のナタン(ダビデにとってはアドバイザー(顧問)のような立場の人だったのでしょう)がダビデのもとにやって来たのです。

 ナタンは、次のような話をし始めました(サムエル記下12章)。
 二人の男がある町にいました。一人は豊かで、もう一人は貧しい人でした。貧しい男は、一匹の雌の小羊以外に、何も持っていませんでした。彼はその小羊を自分の娘のように大切に大切に育てていました。
 一方、豊かな男の方は、多くの羊や牛を持っていました。しかし、自分を訪ねてきた旅人をもてなすために、彼は自分の羊や牛を惜しみました。豊かなその男は、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振舞いました。

 その話を聞いて、ダビデは激怒しました。ダビデはナタンに「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」(サムエル下12:5)と言いました。
 その時ナタンはダビデに向かって言います。「その男はあなただ」。そこで初めてダビデは自分のした罪に気づかされました。詳しくは、皆さんぜひご自分でも、サムエル記下11~12章をお読みください。
ダビデに関するその話は、私たち人がいかに自分自身の罪には鈍感であるかを、明らかにしています。
そして同時に、私たち人が、自分以外の他人の罪については敏感で、いかに素早く裁いてしまうものであるかをその話は示しています。

 詩編51篇は、その出来事を背景にして、ダビデによって唄われた(祈られた)悔い改めの詩であり、罪の告白の詩です。

 ダビデは「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください」(3節、NIV 1節)と告白します。
 そしてこの詩編51篇を通して、ダビデは自分が神に背いて、神に対して罪を犯したことを認め、“その罪を清め、咎(とが)を拭い去ってくださるように”と、必死に神に願います。
 ダビデは、イスラエル史上で信仰的にも偉大な王として、ユダヤ人たち、そしてキリスト者の記憶にもずっと覚えられてきました。しかし聖書は、そのダビデが、こんな大罪を犯したことをはっきりと記しています。
 偉大だと言われたダビデ王が、こんな許されない罪を犯した、という事実を聖書ははっきりと記すことで、「いかなる人も神の前には罪人である。いかなる人も、その罪を神に赦してもらわねばならない」ことを私たちに伝えます。
 私たちは、自分自身を、罪を犯したダビデと重ね合わせることができるでしょうか。ダビデの犯した罪の内容を聞き、「これは私自身の話だ」と私たちは思うことができるでしょうか。
 私自身の正直な思いは、「私は、ここまで悪い(ひどい)ことはしていない」というものです。

 ダビデのしたことは、あの『十戒』(モーセが神から授けられた、旧約聖書の中での最も中心的で重要な神の戒め)の内、少なくとも4つの戒めを破るものでした。
それらは、十戒のうちの「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という戒めです。
 自分とダビデを比較して、“わたしも決して清く正しい、と言えるような者ではないが、わたしはこれほどの悪いことはしていない”と、私は自分のことを考えてしまいそうになります。
しかし、聖書を読み、福音書に記されたイエス様のお言葉を読む時、そんな私の罪の認識の無さ、鈍感さは見事に打ち砕かれるのです。

イエス様は次のように言われました。

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイによる福音書5:27~28)

この言葉を聞くならば私たちは「これは厳しすぎる。こんな基準を突きつけられたなら、誰もそんな基準を乗り越えることができる人などいない」と思うでしょう。
まさにそうなのです(誰も、そんな基準をクリアーできる人などいないのです)。しかし、それが神の善悪の基準です。
私たちは、イエス様の(神の)御言葉の前に、私自身が自分自身では取り除くことのできない罪を抱えた罪人であることを認めなくてはなりません。
 しかし、そのようにして自分の罪に気づかされた時に初めて、私たちは神の前に悔い改め、赦しを願うことができるのです。

自分の罪に向き合うとは辛いことですが、そうする時、ダビデが必死に祈ったように、「この私たちを憐れんでください。人に対して、そして誰よりも、あなたに対して犯した私の罪を赦してください」と私たちは神に向かって祈ることができるのです。
 神は、私たちの罪を赦す権威をお持ちのお方であるからです。

今日の詩編51篇の9節で(英語訳7節)で、ダビデは次のように願い祈っています。
9ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

「ヒソプの枝」とは、イスラエルの民たちがかつてエジプトを脱出する時、すべての家の初子が死ぬという災難が、イスラエルの家だけは過ぎ越していった「過越し」の出来事との関連を表しています。
 それは、その時イスラエルの民たちの家の門には、ヒソプに浸した小羊の血が塗られました。“その血が門に塗ってある家は、災いが過ぎ越していった”、という出エジプト記12章で描かれる神の救いの出来事のことです。
 そして、“ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください”というダビデの願いは、やがて救い主イエス・キリストが、十字架の上でご自身の命を捧げてくださった時に完全に成就しました。
 キリストの十字架の上での死によって、私たちの罪は清くされ、赦されたのです。
本来、私たちではとても償うことのできない罪がキリストの血(完全な過越しの小羊の血)によって洗われて、私たちは清いものとして、再び神様との関係の中に生きることができるようになったのです。
 そしてそのように神様との関係が回復され、神様に近く生きることができるようになった人は、自分以外の他者との関係も大切に、他者を大切にして敬いながら、生きることができるようになるのです。

 私たちが誰もが、神によって(神の愛によって)造られた尊い、かけがえのない存在なのですから、神の愛を知らされ、神によって罪赦されたことを自覚する者は、神と人との豊かな関係を再び取り戻すことができるようになるのです。
 自らの罪に気づかされ、必死に祈り願った、今日の箇所詩編51編のダビデのこの祈りに、私たちも心の思いを重ね合わせましょう。
 そしてイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪が清くされ、洗われたこと、私たちを雪のように白くしてくださった神の愛の御業に感謝をして、与えられた命の日々を私たちは歩んでまいりましょう。