2018年4月15日日曜日

今週のスケジュール

◆9月26日(水)聖書の学びと祈り会
午前の部(10時半~12時)、午後の部(午後7時30分~9時)
ヨハネによる福音書から学んでいます。


*フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF)
 ★10月から始まります。お待ちください!
 フライデー・ファミリー・フェローシップは、当教会を会場にして毎週金曜日の夜に開かれている超教派クリスチャンを中心にした国際交流の集まりです。歌やゲーム、信仰に関するディスカッションなどがあります。教会、国際交流に興味のある方、どなたでもご参加ください。


次週のスケジュール

◆主日礼拝 9月30日(日)
メッセージ「(あなたは)私を愛しているかーイエス様の求めておられるもの」   
ヨハネによる福音書21章15~17節            宣教者 秋吉清隆兄


第一礼拝:午前9時~9時50分
第二礼拝:午前10時50分~12時15分


◆教会学校:午前10時~10時40分

2018年9月23日(日)主日宣教
ローマの信徒への手紙11章28~32節 
「神の賜物と招き」


 クリスチャン、特にプロテスタント教会に連なる私たちが、信仰の唯一の基盤としているものは「聖書」です。私たちは、聖書に記された言葉と物語を通して神を知ります。
そして聖書の中心はイエス・キリストです。イエス様は「聖書はわたしについて証をするものだ」(ヨハネ福音書5章39節)と言われました。聖書は、イエス・キリストこそが、私たちの唯一真の神であり救い主であることを伝えています。
 “教会での毎週の礼拝と、聖書の言葉を基にした宣教を通して、私たち一人一人がイエス・キリストと出会い、イエス様の御言葉を聞き、そしてイエス・キリストの霊、すなわち聖霊によって励まされる”、そのことを私はいつも願っています。
 聖書はご存知のように「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。旧約とは“旧い約束”、そして“新約”とは“新しい約束”です。この約束は“契約”とも言い換えられます。それは神と人との間の契約です。
“旧いold”というのは、イエス・キリストが世に生まれる前の時代を“旧い”と表現します。それは文字で書かれた神の律法と、そしてそれらの律法を伝える“人間の”預言者たちによって、神の言葉が人々(イスラエル人)に伝えられていた時代でした。
そして今から約2000年前、イエス・キリストが人となって世に生まれた後は、イエス・キリストによって、神の言葉が人々(すべての人)に伝えられるようになりました。イエス・キリストは、神から人に与えられた“新しい契約”です。
 “イエス・キリストを信じれば、私たちは永遠の神の国へ入れられる”という神による新しい契約であり、約束なのです。
ですからイエス・キリストを証しするという聖書自体が、神と人との間で結ばれた“契約書”とも言えます。しかし、普通私たちが社会一般で使う“契約書”と、“聖書が契約書である”という場合の“契約”では、その意味がだいぶ違います。
人間同士の普通の契約には、契約を結ぶ両者に権利と義務があります。“契約”というのは“お互いの権利と義務”がないと成立しないのです。どちらか一方が何かを一方的に約束するだけでは契約とは言えないのです。
モノやサービスの“売買契約”を例に考えてみましょう。売買契約とは、あるモノやサービスに対して、事前に合意した対価(お金)を払うという契約です。
もし契約書で約束した通りのサービスが、きちんと提供されない場合には、もう一方の側はそれに対してお金を払う義務はないのです。また逆に、購入する側が決められた通りのお金を払わないのならば、サービスやモノを提供する側も、それを渡す義務はなくなります。契約は、双方に義務と権利があるものです。
 そして契約には期限があります。永久の契約というものはありません。モノやサービスを作る側は、注文された通りのものを作って、それを引き渡せばそこで契約上の義務は完了するのです(製品を引き渡した後の、一定の保証期間はありますが)。
 では、聖書が神と人との間の契約だとすれば、神と人の側に、それぞれどのような権利・義務があるのでしょうか?そしてその契約期間はいつまでなのでしょうか?
 結論から言えば、驚くべきことに、神と人との間の契約に“人間の側の義務はない”のです。そして契約期間は無期限なのです!人間は“神の愛を受け取って、神に感謝をし、神を賛美して生きる”―そのような信仰の生き方が私たち人間の側の義務であるとは言えます。
しかし、神はたとえ私たち人間がその義務を果たさなくても、今日の聖書箇所にあるように、“神に敵対”(ローマ11:28)さえしていても、神の側からその契約を無効にはされないのです。
なぜなら神の契約は、神から私たち人間に対する一方的な恵みの契約、無条件の契約であるからです。神は私たちを愛し、私たちと共にいてくださる。私たちがどれほど神様に背いて、自分勝手に生きていても、神はその契約を決して破棄されないのです。
新約聖書マタイによる福音書の最後では、イエス様がこう言っています。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28章20節)
 “世の終わりまで、いつも”ですから、神であるイエス様はいつまでも、どんなときにも私たちと共にいてくださるのです。これはいかなる条件もない無期限の契約です。この変わることのない約束と、期限のない神の約束に希望を置いて、私たちは生きていくことが許されているのです。
 今日の聖書の箇所で、ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、
「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」と言います(28節)。
 “あなたがた”とはイスラエル人ではないキリスト者(異邦人、外国人)のことです。
“イスラエル人ではないあなたがたが神の福音を受け入れているという恵みに対して、神に最初に選ばれたはずのイスラエル人たちの多くが、イエス・キリストを拒否して、神の福音を拒絶している”という当時の状況のことが、ここでは言われています。
神は、旧約聖書のなかで、数ある民族の中からイスラエル民族を選び、彼らに大いなる祝福を約束してくださいました。神はアブラハムに、「あなたの子孫は星の数ほど増える」(創世記15章)と約束をしてくださいました。
申命記7章6節では、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とイスラエル民族について書かれています。
これらの旧約聖書の約束は、イエス・キリストがお生まれになった以降は、もう“旧い”ものとして、有効ではなくなってしまったのでしょうか?イスラエル人たちがイエス・キリストを信じないという現実は仕方がないことだったのでしょうか?
パウロは、多くのユダヤ人たちがイエス・キリストを受け入れないその現実を前にしても、“イスラエル民族を選び祝福するという昔からの神の約束は、今でも変わらず有効である”と今日の箇所で言うのです。
 
なぜなら、「神の賜物と招きとは取り消されないもの」(ローマ11:29節)であるからです。
この“賜物”という言葉はギリシア語で“カリスマkharisma”といいます。“カリスマ”といいますと“非常な才能”、“卓越した演説力”などの意味で今でも一般に使われます。もともとのギリシア語の意味は“神様からの恵み”です。
私たちにはいろいろな賜物が与えられています。私たちは、神からの賜物を“自分のものだ”と思うと、どうしてもそれを惜しむ気持ちになってしまいます。
しかし“ただで与えられたもの”という恵みが分かっていれば、私たちは自分に与えられた賜物を惜しみなく他者のために用いることができるようになります。
 賜物にはいろいろありますが、私たちが頂いている賜物の中でもっとも尊い賜物とは何でしょうか?目に見える色々な卓越した才能、人を愛する優しい心とか、色々な賜物があります。
最も尊い賜物、それは“イエスは主”と信じる、信仰そのものではないでしょうか?信仰はまさに賜物なのです。イエス様を救い主である神であると信じることができるのは、それ自体が神の賜物なのです。
そしてこの信仰の賜物も、決して“取り消されない”のです。無効になることがないのです。
 “神に選ばれたはずのイスラエル人が神に敵対している。パウロの同胞であるイスラエル人がイエス・キリストを信じようとしない”-このことにパウロは本当に苦悩していました。
同胞である彼らがイエス様を信じないので、その結果、パウロは異邦人(外国人)へ伝道する者となりました。結果福音は異邦人にまで広く伝えられていくことになりましたが、“異邦人へ伝道する”―それはパウロがもともと望んでいたことではなかったのです。
しかし、そのような状況であっても、パウロはイスラエル人に対する神の恵みは変わることがない、という希望を持つことが出来ました。なぜ彼はそう信じることができたのでしょうか?
パウロ自身がかつてはキリスト者を激しく迫害する者でした。彼自身がまさに神に“敵対”していたのです。そんなパウロが復活の主イエスに出会い、救われて、今はキリストを宣べ伝える者になっているのです。
同胞であるイスラエル人たちの不従順さを見ながら、パウロは自分自身がかつて神に不従順であった頃のことを思い出していたのでしょう。
そして“この私が復活の主によって救われたのだから、そのような神の恵みは、たとえ今神に敵対している者にも、変わらずに注がれているのだ”と彼は確信できたのだと私は思います。
私たちは将来に向かっていきています。しかし、以前の自分を振り返り、特に“この私がいかに神の恵みによって救われたのか”ということを思い起こし、それを証しすることは、私たちキリスト者にとって非常に大切なことです。
聖書の時代のイスラエル人たちは、(今でもユダヤ教の人達はそうですが)、かつて自分たちが奴隷であったエジプトから助け出された、出エジプトの出来事を、神の自分たちへの救いの出来事として、決して忘れないようにしていました。
申命記15章15節
エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。
この同じ言葉は申命記の中に三回繰り返し出てきます。私たちも、かつては自分中心で、神に逆らい、いわば罪の奴隷であった状態から、神の憐みによって救い出されたのです。
そしていかに神の恵みに自分たちは救われたのか、ということを忘れないで、いつも思い起こしていなさい、そのことを証ししなさい、と聖書は言うのです。
こうして私たちが礼拝をすることには、“主の救いと恵みを私たちが思い起こす”という大切な目的もあるのです。礼拝を通して、私たちは主がいかに私たちを救ってくださったのかを思い起こし、救いの神に心からの感謝を捧げましょう。
今日の箇所の最後の32節には、こう書かれています。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです
“神は全ての人を不従順の状態に閉じこめた”とは、“神が人間の心をコントロールして、神に従わない頑固さを意図的に与えた”ということではありません。そうではなく、神は人間の頑固さ、神に逆らう状態を、あえてそのままにしておかれた、ということです。
神は、イエス・キリストの言葉とイエス・キリストの十字架と復活によって、私たち自身が自ら悔い改めるように、神の方へ向かって生き方を方向転換するようにと、忍耐強くまっておられたのです。
そして今でも神は私たちが、すべての人が神の方向へ方向転換するように、ずっと忍耐強く待っておられます。それは、私たちが神の憐みを深く知ることができるようになるためです。
 “憐み”、“憐れむ”という言葉が今日の箇所には四回出てきます。憐みというと、何か非常に“上から目線”で、施しを受けるような感じがして、あまり良い印象を私たちは持たないかもしれません。
しかし神の憐みとは、そのように上から人を見降ろすような、見下すような同情や施しとは全く違います。そうではなくて、神が人となって、私たちの苦しみをと悲しみを共に担ってくださることです。
そしてまた私たちの罪を全てご自分のものとして背負ってくださる、私たちと共に生きてくださるー神の憐みとはそのようなものです。
それは人では決して与えることのできない憐み、本当の救いなのです。
今、私たちは神に従順でしょうか?イエス様に従って日々を歩んでいるでしょうか?神から与えられた豊かな賜物に感謝をして、その賜物を心から喜んで他者のために、そして神様のために捧げているでしょうか?私たちは、信仰の兄弟姉妹と、愛の交わりの中に生きているでしょうか?
 主から与えられた賜物に感謝をして、神と共に生きて、そして神と人とに仕えるという生き方への召し(call)に、私たちは日々応えながら、そして神の深い憐みに身を委ねながら、今週の日々も歩んでまいりましょう。

2017年1月30日月曜日

「私にとって難病は恵みです」


1月29日 主日礼拝の宣教に神戸在住のデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えている保田広輝兄を迎えての礼拝を行いました。素晴らしいメッセージだったので、保田広輝兄の了承を得て、当教会のホームページで公開することにしました。

「私にとって難病は恵みです」
聖書:ヨハネによる福音書1515~16
保田 広輝兄


私は保田広輝と言います。生まれた時から、不治の難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。この難病は、遺伝子の異常のせいで、どんどん体の筋肉が壊れていきます。筋肉が壊れると、身体を動かしたり、呼吸したり、食事ができなくなる病気です。

今の私は呼吸することができないので、24時間ずっと、人工呼吸器で生きています。あと、手の親指だけしか動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは身の回りのことが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。

いま私は25歳ですが、4歳の時に、この難病を診断されて、当時は20歳までの命だと宣告されました。でも、私は難病だと知らずに、育てられたんですね。

幼い頃は、走ることができなかったし、手すりをしっかりつかまないと、階段を上ることはできなかったけど、自分はただ、運動神経がない、と思っていたんです。その気持ちは、9歳の時に車椅子生活になっても、変わりませんでした。大人になって、なぜ難病だと教えてくれなかったの?と両親に尋ねると、「20歳で死ぬなんて伝えられなかった…」と答えてくれました。

そして、両親はクリスチャンだったので、私は、生まれた時から教会に通っています。13歳の時に、神様を信じる決心の信仰告白をしたんですね。難病の現実を痛感したのは、大学の受験勉強に頑張っていた18歳の春からでした。私も主治医も、難病が悪化していることが分からず、1年間で5回も入院したんですね。

一日中、内臓の痛みと、嘔吐が止まらず、ものすごい息苦しさと、激しい頭痛のせいで、ほとんど眠れないので、毎日、意識がボーとなって、本当に死ぬかと思う日々を過ごしました。そのあいだも、受験勉強を頑張りましたが、息苦しさと頭痛のせいで、勉強したことを次から次に忘れていき、試験の点数はどんどん下がっていくので、努力が無駄になるのは辛かったですね。

このように苦しみながら、神様、助けてくださいと祈り続けました。ずっと苦しみながら、1年が経ってから、神様のお導きと母の努力のおかげで、スーパードクターがいる四国の病院のことを知って、その病院で、人工呼吸器を導入してもらってから、死にそうな状態から助けられました。いま振り返ると、本当に命の危険ギリギリのところだったので、神様が救ってくださったと思います。

ただ、人工呼吸器で生活するには、毎月診察を受けて、ドクターの管理が必要なんですね。そうするために、地元福岡の専門病院で、検査入院したときに、そこのドクターから、「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と余命宣告を受けました。心が引き裂かれる宣告でした。この時に、難病の現実を痛感したんですね。

その後、合格した大学に入学したけど、体調不良で、たった半年で、中退することになりました。それからは、自分を見つめ直す日々でした。人工呼吸器を使う体になったこと、余命宣告を受けたこと、体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったことが、大きなストレスとなって、すごく暗い気持ちになったんですね。

毎日お祈りしていく中で、神様に叫びながら本音をぶつけました。なぜ35歳で死ぬ難病になったのですか!若くして死にたくないです!神様、お願いですから、難病を治してください、こんな苦しい状態で生きても、意味がありません!このまま死を待つだけの人生なんですか!と叫びながら祈り続けたんですね。
この時は生きている意味が分からなくて、人生に絶望していました。どうして私は健康になれないのか、35歳で死ぬのか、こんな難病では仕事も結婚もできない、神様、こんな難病だと何もできません、と絶望していました。

体が動かなくなって、若く死ぬ難病を抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。 人工呼吸器を使わないと、命を維持できないから、明日死ぬかもしれない。大きな不安に支配される毎日を過ごしていました。

私には生きる意味が必要だったんですね。でも、神様に祈り続けていても、生きる意味が分からなかったので、苦しかったです。それでも、いつも聖書を読んで祈り、日曜日はいつも礼拝に行くことはやめなかったけど、神様の沈黙を感じる日々だったので、辛かったですね。

そんな中で、オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本を読んで、あることを学んだんですね。

それは、意味がない苦しみが絶望である、苦しみに意味を見つけられなければ絶望となる、苦しみに意味を見つけられたら希望となる。苦しみがあるから、不幸だって簡単に考えるのではなくて、苦しみに意味を見つけられたら、人生が希望に変わる、ということを学びました。

そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、生きていける、と思えるようになったんですね。それからは、神様が生きる意味を与えてくださる、と確信して、神様の語りかけを待ち続けました。

それから、余命宣告から10ヶ月が経って、次の聖書の言葉が心に響いたんですね。

【エゼキエル書 2章8節】
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。

あなたは反逆の家のようにそむいてはならない。

口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

このみ言葉を通して、いつも神様の言葉である聖書を読んで、いつも神様にお祈りしていれば、神様は、私の心に語りかけてくださる、私の心を変えてくださる、絶望から救ってくださる、と信じられるようになりました。

そして、余命宣告から1年半が経って、次の聖書の言葉を通して心が変えられたんですね。

【ヨハネによる福音書 15章15、16節】
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。」

私は望んで、難病に生まれた訳ではないけど、神様から任命を受けて、生まれつきの難病に選ばれた、と感じたんですね。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きなさい、と神様に任命されたからこそ、私は生まれた時から、難病の人生にチャレンジしているんですね。

先ほどの聖書の言葉を通して、私は難病の自分を受け入れることができました。それまでの私は自分を土台にして生きていたんです。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分はダメな人間だ、何もできない自分は生きる意味もない、と自分の価値を自分で決めていました。だから、ずっと辛かったんですね。

でも、先ほどのみ言葉を通して、神様の愛を実感できました。神様が生まれつき難病の私を造ってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様の愛を感じることができました。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、み言葉を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、神様から愛されていることを感じられるから、どんな人生でも、生きる喜びが湧いてくるんですよね。

そして、難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思ってました。でも、気付かされたんですね。 私にも神様から大切な命が与えられているって。命だけじゃないって。神様から私たちに与えられている最高のプレゼントは、イエス・キリストの愛だって。十字架で命を犠牲にしてまで、罪人の私たちを、救ってくださったイエス・キリストの愛が最高のプレゼントなんだって、気付かされたんですね。

神様のひとり子であるイエス・キリストは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。

イエス様が自分の罪のために死なれ、お墓に葬られて、三日目に復活されたことを信じる人たちは、罪と死の苦しみから救われます。罪ゆるされて、死んで復活し、神様と共に生きる永遠の命が与えられるのです。

神様は私たちを小さなものとは思っておられません。神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、神様が、何よりも大切なひとり子であるイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。

私たちは罪人であるにもかかわらず、イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。このイエス様の愛は、能力や行いに応じてではなく、イエス様を信じる人たちに、無条件に与えられています。

私はイエス様の愛に改めて気付かされてから、このように、神様に祈りました。「難病の私には何もありません。何もできません。神様におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思っていました。でも、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、自分が神様のために生きるのも、神様に人生をささげるのも、無条件だ、と教えられたんですね。

自分には何もない、何もできないと思っても、神様は人生をささげる決心を喜んでくださって、その人にしかできない使命と、すべての必要なものを与えてくださるんですね。

私は神様に人生をささげる決心をしてから、「難病の人生を通して神様を伝える、難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える」と、難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったんですね。

それからは、少しずつ人生が変えられていきました。まず神様のお導きで、私の難病では世界トップレベルの病院で治療できるようになってから、寝たきりの生活から解放されました。そして、神様の不思議なお導きにより、各地にある多くの教会で、礼拝に呼んでいただき、神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。本当に感謝です。

私はいまこう思います。人間が生きる意味は、自分や他人が決めるのではなく、自分を生かしておられる神様が決めてくださる、と。難病の私であっても、神様から使命を与えられているからこそ、私は生きる意味があるんですね。生きる喜びがあるんですね。

いま振り返れば、私の挫折も、難病の試練も、死にかけた経験も、神様のご計画だったんだ、と思います。私がイエス様を信じて、神様の子どもとして生まれ変わるために、神様から与えられた使命のために、神様がこの難病をプレゼントしてくれた、と感じています。だから、私にとって難病は、恵みの試練なんですね。私は難病だからこそ生きる意味があるんですね。

こうして、私は難病の人生でも、生きる意味を見つけることができました。でも、生きる意味を見つけることができたのは、イエス様が与えてくださる復活の希望があったからなんです。

私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていました。でも、聖書を読んで祈りながら過ごしていくことで、神様は私を復活させてくださいました。

【ヨハネによる福音書 11章25、26節】には、このようなみ言葉があります。
イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

イエス様は、死の力から復活された御方です。死の力に勝利された御方です。だから、イエス様が与えてくださる復活を信じている人たちは、どんなに人生に絶望しても、神様が必ず復活させてくださるから、絶望する勇気さえ持つことができるんですよね。絶望しても大丈夫。神様が必ず復活させてくださるから。

たとえ、私は若く死んでも、栄光の体に復活して、天国で、神様と共に、永遠に生きることができるから、大丈夫なんですよね。神様との永遠の交わりが、人間にとって、最高の幸せなのですから。

どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活は始まっているんですね。私の体は、死に向かって、ますます弱くなっているけど、私も永遠の命へと、復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれるところなんですね。

私は難病クリスチャンとして生きる使命があるので、これからも神様を信じる素晴らしさを伝えていきます。残り余命9年の短い人生で、どれだけのことができるか分かりません。でも、天に召される日まで、神様のご用に用いていただけるように祈っています。

最後に、クリスチャンの水野源三さんの詩をお読みします。水野源三さんは、重度の脳性麻痺で、手足を動かすことも、話すこともできなかったけど、唯一動かせる目をまばたきしながら、多くの信仰の詩を作られました。

水野源三さんの【苦しまなかったら】という詩をお読みして、終わります。
 「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛はあらわれなかった」