2018年4月15日日曜日

   今週のスケジュール
◆6月20日(水)聖書の学びと祈り会
 午前10時30分~12時、午後19時30分~21時
 ヨハネによる福音書から聖書を学び、祈りの時を持ちます。
◆フライデー・ファミリー・フェローシップ(FFF)  6月22日(金)19:00~  
   英語による、讃美、ゲーム、ディスカッション、国際交流の集会です。皆さん、
 ご参加ください。


◆次週予告
主日礼拝 6月24日(日)  




合同礼拝10時50分~12時15分
メッセージ「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」  マタイによる福音書23章1~12節 酒井朋宏牧師
*教会学校 10時~10時40分(第4日曜日は各会例会です)
 青年科、国際青年科、小中科、成人科、入門クラスがあります。どなたも
 ご参加ください。





2018617日(日)主日礼拝宣教

ローマの信徒への手紙9613
「神の約束に従って」
 
 今日は父の日です。礼拝後、父の日を感謝する時を私たちは持ちます。
私たちは誰もが、両親(父母)の子として生まれてきます。そして大抵の場合、私たちは生まれた家族/家系の“子”となります。
また、わたしたちは普通、自分の親と同じ国、または生まれた国の“国民”となります。
ところが、今日の聖書箇所ローマ9章で、パウロは少し不思議なことを書いています。6節~8節には次のように書かれています。
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
“イスラエル人から出た者が皆イスラエル人ではない”、“アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない”とは、どういうことでしょうか?
 
パウロはこの時、大きな悩みと悲しみを抱えていました。この箇所の少し前を読んでみますと、パウロが大きな悩みと悲しみの中にいることが分かります。92節~3節にこのように書かれています。
 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
 パウロは“同胞のためならば、神から見捨てられてもいい”と言うほどに、同じ民族であるユダヤ人たちのことを思い、彼らのために悲しんでいます。パウロは、ユダヤ人のために、何をそんなにも悲しんでいたのでしょうか?
それは “神に選ばれた民であるはずのユダヤ人が、イエス・キリストを受け入れず、救い主として信じない”という事でした。
 
 申命記の76節には、こう書かれています。
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
  ここで“あなた”、“主の聖なる民”と言われるのはユダヤ人のことです。主なる神は、イスラエルの民を“すべての民の中から選び”、そして“ご自分の宝の民”とされた、と聖書(旧約)の中で約束してくださっているのです。
 パウロは、最初はクリスチャンを激しく迫害していましたが、復活の主イエス・キリストに出会い、イエス・キリストこそが真の神であり、ユダヤ民族、そしてユダヤ民族だけではなく、全世界の民の救世主であることを、信じるようになりました。
ところが、パウロがこのローマの手紙を書いた時、パウロたちの働きにより、ユダヤ人でない異邦人(外国人)の多くが、続々とイエス・キリストの神を信じ始めていたのに、“神の宝の民”として選ばれているはずのユダヤ人への伝道はうまくいっていませんでした。
例えば使徒言行録の13章では、ピシディア州のアンティオキア(使徒1314~)でのパウロとバルナバの伝道の様子が次のように描かれています。
多くの異邦人たちはパウロの宣教を通してイエス・キリストを信じましたが、ユダヤ人たちは、パウロのもとに大勢の群衆が集まるのを見て、ひどく妬み、パウロを口汚くののしって反対したのです。
そこで、パウロとバルナバは次のように言っています。
(使徒13:4648
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
 “同胞であるあなたたちユダヤ人たちは信じないから、自分たちは異邦人のところへ伝道に行く!”とパウロは言います。しかし、同胞であるユダヤ人がイエス・キリストの神を受け入れないことは、パウロにとって大きな悲しみであり痛みだったのです。
神はイスラエルを愛してイスラエル民族をこそ“自分の宝の民”と呼んでくださったのに、その神の約束が実現せずにまるで無効になってしまっているような現実も、パウロを大いに悩ませたのでしょう。
 
 パウロのこの悩み(葛藤)と悲しみは、今のキリスト者であるわたしたちも、共感できるのではないでしょうか?“真の神、主イエス・キリストを知らされて私は救われた”という喜びが大きいほど、“なぜこの救いのメッセージが、他の人たちには受け入れられないのか?”とわたしたちは思わないでしょうか?
“なぜ神は、私の家族の心を、そして他のもっと多くの人の心を開いてくださらないのか?”という思いも私たちは抱かないでしょうか?
 私たちはそのように、喜びと悲しみ、また悩みと悟り(何かが分かる)というものを、いつも両方抱えて生きていくのではないかと、私は思います。
 パウロは悩み苦しみながらも、おそらく神に祈り求めた結果、聖霊の示しを受けて、次のように考えて、そして理解するようになりました。
  神は確かに“イスラエルをご自分の宝の民とする”と言われたーでは、イスラエル人とは誰なのか?―アブラハムの子孫とは誰なのか?
イスラエルから出た者、つまりイスラエル人の家系に生まれた者が全員自動的に“神の子としての”イスラエル人となるのではなく、アブラハムの子が自動的にアブラハムの子となるのでもないー
人が神の子、神の民とされるのは、人間の血のつながりや国や民族によってではなく、あくまでも、“その時々の神の自由な選びと招きによって決まるのだ”ということがパウロに示されたのです。
 神はご自分が愛そうとする者を愛し、ご自分が恵もうとされる者を恵み、憐れもうとされる者を憐れまれるお方だ、ということがパウロに示されたのです。
ローマ91113
その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
ここでは旧約聖書に出てくる、イサクの子供であるエサウとヤコブについて書かれています。兄がエサウ、弟がヤコブでしたが、神はヤコブを祝福され、ヤコブのこども達を通して後のイエスラエル民族が生まれました。
“わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ”―なぜ、神はヤコブを愛したのでしょうか?ヤコブが優れた人物であったからでしょうか?
母親のリベカの助言を受けて、ヤコブは兄エサウのふりをして、目の見えない父親のイサクを欺くことによって、父イサクの祝福をだまし取りました。そのために、ヤコブはエサウから殺意を抱かれ、エサウのもとから逃亡します。
こういう人が神に愛されて、騙されたエサウが神に憎まれる、ということがあってよいのでしょうか?神はもっと公平なお方であるべきではないのでしょうか?人間的に見れば、これは不公平です。
しかし、このヤコブのようなずるさ、“人を押しのけてでも”という思いが、私たちの心の中にもないでしょうか?自分に正直になれば、私たちは誰もがヤコブと全く変わるところのない者だと、私は思います。
しかしそれでも私たちは、イエス・キリストの十字架と復活を通して真の神を知らされ、神を信じることを許されました。聖霊が私たちに働きかけて、わたしたちに信仰を与えてくださったのです。
ヤコブが神に愛されたように(ヤコブ自身の行いや人格によらず)、私たちは、“自分の優れた点とか、行いにはよらない全く無条件で無償の神の愛を受けている”ということが、イエス・キリストを通して、分かるのです。
 
神は、ただ神の憐みのゆえに、自分勝手で自分中心の、この私をも救おうと決心してくださったのです。
 私たちの周りを見回せば、自分よりも立派な人、優れた人格者でありキリスト者ではない人は沢山いるはずです。
この私が神の愛を知らされているのに、他の多くの人々が、真の主の愛を知らされていないーこのことは私たちにとって悩みであり悲しみとなると思います。
ですから、今日の箇所のパウロの悩みと悲しみを、私たちも共有するのです。私たちの同胞、家族や友人への愛情が私たちにあるならば、私たちはそう感じるはずではないでしょうか?
 
 しかし、神は私たちの思いを越えたご計画に従って、わたしたち全ての者を守り、導いてくださるお方であることも、私たちは信じてよいのです。
なぜなら神は、わたしたち全ての者のためにイエス・キリストを私たちの世界に罪の贖いとして贈ってくださったからです。
テモテへの手紙1 25~6節をお読みします。
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
 
イエス様の恵みの力、救いの力にわたしたちは信頼をして、わたしたちの周りの人々の救いを諦めずに祈り、そして機会があるごとに、自分にできるだけの方法で、イエス・キリストを他者に宣べ伝えていきましょう。
 私たちは神の恵みよって選ばれました。しかし、この“選ばれた”という思いが、同じ信仰を持たない他者を排除する“特権意識”のようにならないようにも、私たちは注意したいと思います。
ずるくて、自分中心とも言えるヤコブが神に愛されたように、わたしたちは、人間的にいえばまさに“不公平”なまでに、神の愛を受けたのです。
 
“相応しい”というならば、私たちよりも、もっと神の救いに相応しい優れた人は、他に沢山いるにも関わらず、私たちは救われたのです。
 
そして、自分には救われる資格とか優れた点があったわけではないのに、神がただ私を憐れんでくださった、ふさわしくない私がイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを受けた、という信仰は、私たちを謙虚にします。
イエス様に愛されて、罪赦されたことを本当に知るキリスト者は、常に謙虚で他者を敬うようになるはずなのです。今年度の私たちの教会の目標“互いを尊敬する”を実現するには、先ず、“相応しくない”自分がどれほど神様に愛されたかを知ることから始まると、私は思います。
 
最後にヨハネによる福音書1516節前半をお読みします。
 ヨハネ1516 
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
 
神が選びます。神が私たちを選んでくださいました。選ばれた私たちは、与えられた神の恵み、イエス・キリストの救いの知らせを携えて、今週の一日一日も生きていくことを決心し、今日もここから遣わされていきましょう。
 

2017年1月30日月曜日

「私にとって難病は恵みです」


1月29日 主日礼拝の宣教に神戸在住のデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えている保田広輝兄を迎えての礼拝を行いました。素晴らしいメッセージだったので、保田広輝兄の了承を得て、当教会のホームページで公開することにしました。

「私にとって難病は恵みです」
聖書:ヨハネによる福音書1515~16
保田 広輝兄


私は保田広輝と言います。生まれた時から、不治の難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。この難病は、遺伝子の異常のせいで、どんどん体の筋肉が壊れていきます。筋肉が壊れると、身体を動かしたり、呼吸したり、食事ができなくなる病気です。

今の私は呼吸することができないので、24時間ずっと、人工呼吸器で生きています。あと、手の親指だけしか動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは身の回りのことが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。

いま私は25歳ですが、4歳の時に、この難病を診断されて、当時は20歳までの命だと宣告されました。でも、私は難病だと知らずに、育てられたんですね。

幼い頃は、走ることができなかったし、手すりをしっかりつかまないと、階段を上ることはできなかったけど、自分はただ、運動神経がない、と思っていたんです。その気持ちは、9歳の時に車椅子生活になっても、変わりませんでした。大人になって、なぜ難病だと教えてくれなかったの?と両親に尋ねると、「20歳で死ぬなんて伝えられなかった…」と答えてくれました。

そして、両親はクリスチャンだったので、私は、生まれた時から教会に通っています。13歳の時に、神様を信じる決心の信仰告白をしたんですね。難病の現実を痛感したのは、大学の受験勉強に頑張っていた18歳の春からでした。私も主治医も、難病が悪化していることが分からず、1年間で5回も入院したんですね。

一日中、内臓の痛みと、嘔吐が止まらず、ものすごい息苦しさと、激しい頭痛のせいで、ほとんど眠れないので、毎日、意識がボーとなって、本当に死ぬかと思う日々を過ごしました。そのあいだも、受験勉強を頑張りましたが、息苦しさと頭痛のせいで、勉強したことを次から次に忘れていき、試験の点数はどんどん下がっていくので、努力が無駄になるのは辛かったですね。

このように苦しみながら、神様、助けてくださいと祈り続けました。ずっと苦しみながら、1年が経ってから、神様のお導きと母の努力のおかげで、スーパードクターがいる四国の病院のことを知って、その病院で、人工呼吸器を導入してもらってから、死にそうな状態から助けられました。いま振り返ると、本当に命の危険ギリギリのところだったので、神様が救ってくださったと思います。

ただ、人工呼吸器で生活するには、毎月診察を受けて、ドクターの管理が必要なんですね。そうするために、地元福岡の専門病院で、検査入院したときに、そこのドクターから、「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と余命宣告を受けました。心が引き裂かれる宣告でした。この時に、難病の現実を痛感したんですね。

その後、合格した大学に入学したけど、体調不良で、たった半年で、中退することになりました。それからは、自分を見つめ直す日々でした。人工呼吸器を使う体になったこと、余命宣告を受けたこと、体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったことが、大きなストレスとなって、すごく暗い気持ちになったんですね。

毎日お祈りしていく中で、神様に叫びながら本音をぶつけました。なぜ35歳で死ぬ難病になったのですか!若くして死にたくないです!神様、お願いですから、難病を治してください、こんな苦しい状態で生きても、意味がありません!このまま死を待つだけの人生なんですか!と叫びながら祈り続けたんですね。
この時は生きている意味が分からなくて、人生に絶望していました。どうして私は健康になれないのか、35歳で死ぬのか、こんな難病では仕事も結婚もできない、神様、こんな難病だと何もできません、と絶望していました。

体が動かなくなって、若く死ぬ難病を抱えて、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。 人工呼吸器を使わないと、命を維持できないから、明日死ぬかもしれない。大きな不安に支配される毎日を過ごしていました。

私には生きる意味が必要だったんですね。でも、神様に祈り続けていても、生きる意味が分からなかったので、苦しかったです。それでも、いつも聖書を読んで祈り、日曜日はいつも礼拝に行くことはやめなかったけど、神様の沈黙を感じる日々だったので、辛かったですね。

そんな中で、オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本を読んで、あることを学んだんですね。

それは、意味がない苦しみが絶望である、苦しみに意味を見つけられなければ絶望となる、苦しみに意味を見つけられたら希望となる。苦しみがあるから、不幸だって簡単に考えるのではなくて、苦しみに意味を見つけられたら、人生が希望に変わる、ということを学びました。

そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、希望を失うことなく、生きていける、と思えるようになったんですね。それからは、神様が生きる意味を与えてくださる、と確信して、神様の語りかけを待ち続けました。

それから、余命宣告から10ヶ月が経って、次の聖書の言葉が心に響いたんですね。

【エゼキエル書 2章8節】
「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。

あなたは反逆の家のようにそむいてはならない。

口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

このみ言葉を通して、いつも神様の言葉である聖書を読んで、いつも神様にお祈りしていれば、神様は、私の心に語りかけてくださる、私の心を変えてくださる、絶望から救ってくださる、と信じられるようになりました。

そして、余命宣告から1年半が経って、次の聖書の言葉を通して心が変えられたんですね。

【ヨハネによる福音書 15章15、16節】
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。」

私は望んで、難病に生まれた訳ではないけど、神様から任命を受けて、生まれつきの難病に選ばれた、と感じたんですね。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きなさい、と神様に任命されたからこそ、私は生まれた時から、難病の人生にチャレンジしているんですね。

先ほどの聖書の言葉を通して、私は難病の自分を受け入れることができました。それまでの私は自分を土台にして生きていたんです。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分はダメな人間だ、何もできない自分は生きる意味もない、と自分の価値を自分で決めていました。だから、ずっと辛かったんですね。

でも、先ほどのみ言葉を通して、神様の愛を実感できました。神様が生まれつき難病の私を造ってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様の愛を感じることができました。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、み言葉を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、神様から愛されていることを感じられるから、どんな人生でも、生きる喜びが湧いてくるんですよね。

そして、難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思ってました。でも、気付かされたんですね。 私にも神様から大切な命が与えられているって。命だけじゃないって。神様から私たちに与えられている最高のプレゼントは、イエス・キリストの愛だって。十字架で命を犠牲にしてまで、罪人の私たちを、救ってくださったイエス・キリストの愛が最高のプレゼントなんだって、気付かされたんですね。

神様のひとり子であるイエス・キリストは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、十字架で死んでくださいました。そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。

イエス様が自分の罪のために死なれ、お墓に葬られて、三日目に復活されたことを信じる人たちは、罪と死の苦しみから救われます。罪ゆるされて、死んで復活し、神様と共に生きる永遠の命が与えられるのです。

神様は私たちを小さなものとは思っておられません。神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、私たちを罪と死の苦しみから救うために、神様が、何よりも大切なひとり子であるイエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。

私たちは罪人であるにもかかわらず、イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。このイエス様の愛は、能力や行いに応じてではなく、イエス様を信じる人たちに、無条件に与えられています。

私はイエス様の愛に改めて気付かされてから、このように、神様に祈りました。「難病の私には何もありません。何もできません。神様におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

難病の私は、何も持ってない、何もできない、と思っていました。でも、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、自分が神様のために生きるのも、神様に人生をささげるのも、無条件だ、と教えられたんですね。

自分には何もない、何もできないと思っても、神様は人生をささげる決心を喜んでくださって、その人にしかできない使命と、すべての必要なものを与えてくださるんですね。

私は神様に人生をささげる決心をしてから、「難病の人生を通して神様を伝える、難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える」と、難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったんですね。

それからは、少しずつ人生が変えられていきました。まず神様のお導きで、私の難病では世界トップレベルの病院で治療できるようになってから、寝たきりの生活から解放されました。そして、神様の不思議なお導きにより、各地にある多くの教会で、礼拝に呼んでいただき、神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。本当に感謝です。

私はいまこう思います。人間が生きる意味は、自分や他人が決めるのではなく、自分を生かしておられる神様が決めてくださる、と。難病の私であっても、神様から使命を与えられているからこそ、私は生きる意味があるんですね。生きる喜びがあるんですね。

いま振り返れば、私の挫折も、難病の試練も、死にかけた経験も、神様のご計画だったんだ、と思います。私がイエス様を信じて、神様の子どもとして生まれ変わるために、神様から与えられた使命のために、神様がこの難病をプレゼントしてくれた、と感じています。だから、私にとって難病は、恵みの試練なんですね。私は難病だからこそ生きる意味があるんですね。

こうして、私は難病の人生でも、生きる意味を見つけることができました。でも、生きる意味を見つけることができたのは、イエス様が与えてくださる復活の希望があったからなんです。

私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていました。でも、聖書を読んで祈りながら過ごしていくことで、神様は私を復活させてくださいました。

【ヨハネによる福音書 11章25、26節】には、このようなみ言葉があります。
イエスは言われた。

「わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

イエス様は、死の力から復活された御方です。死の力に勝利された御方です。だから、イエス様が与えてくださる復活を信じている人たちは、どんなに人生に絶望しても、神様が必ず復活させてくださるから、絶望する勇気さえ持つことができるんですよね。絶望しても大丈夫。神様が必ず復活させてくださるから。

たとえ、私は若く死んでも、栄光の体に復活して、天国で、神様と共に、永遠に生きることができるから、大丈夫なんですよね。神様との永遠の交わりが、人間にとって、最高の幸せなのですから。

どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活は始まっているんですね。私の体は、死に向かって、ますます弱くなっているけど、私も永遠の命へと、復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれるところなんですね。

私は難病クリスチャンとして生きる使命があるので、これからも神様を信じる素晴らしさを伝えていきます。残り余命9年の短い人生で、どれだけのことができるか分かりません。でも、天に召される日まで、神様のご用に用いていただけるように祈っています。

最後に、クリスチャンの水野源三さんの詩をお読みします。水野源三さんは、重度の脳性麻痺で、手足を動かすことも、話すこともできなかったけど、唯一動かせる目をまばたきしながら、多くの信仰の詩を作られました。

水野源三さんの【苦しまなかったら】という詩をお読みして、終わります。
 「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛はあらわれなかった」