2025年10月12日 主日礼拝
前奏
招詞 レビ記18:5
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章37~50節
祈祷
宣教 「命の言葉を受け、伝える」
祈祷
賛美 新生讃美歌521番 キリストには替えられません
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の中の『使徒言行録』7章で、伝道者ステファノが、最高法院(裁判所)で「神を冒瀆している」という容疑を受けて、尋問されている場面を、私たちは礼拝の中で続けて読んでおります。
ステファノは、ユダヤ人にとって”信仰の父“と言われたアブラハムから始めて、神がいかにしてイスラエル民族を選び、彼らを通して神の救いを表してくださったかを宣べ伝えます。
今日の箇所では、ステファノは、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したモーセに関する話を続けています。
今日の箇所の初めに、モーセの言葉として、ステファノが次のように言っています。
37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
モーセを通して、神は、“あなたがたのために、わたし(モーセ)のような預言者を神は立てられる”というメッセージをイスラエルの民たちに伝えました。
これは旧約聖書の『申命記』18章の中に記されている神の約束の言葉です。
ここで“わたし(モーセ)のような預言者”と言われるのは、モーセに続く他の旧約時代の預言者たちのことでもあります。
しかしイエス・キリストが既に人として世に来られ、人の罪の贖いのために十字架にかかって死んで復活した今、モーセによって言われたその“預言者”は、イエス・キリストのことだと、ここでステファノは意味しています。
神は、天地の造られるずっと前から、そしてアブラハムやモーセを通しても、“やがてイエス・キリストが来られ、神の言葉を伝える”、”イエス・キリストが世に来られ、人の罪を贖う“ということを伝え続けておられたと、私たちは聖書を通して信じることができます。
ステファノは、自分のことを訴えるユダヤ人たちに、“キリストは、モーセによって言われていた預言者であり、そして救い主なのだ”と何とか伝えたくて、モーセの言葉を引用したのです。
今日の38節で次のように書かれています。
38この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
ここで“この人” (He)と言われるのは、モーセのことです。しかしここでも、モーセの姿を通して、やがて来られるイエス・キリストと、キリストがしてくださることが予言されています。
それは“命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれる”ということです。モーセのような預言者は神の言葉を、人々を代表して受けて、それを人々に伝えました。
そのような意味で、今の牧師も預言者としての役目を持っています。しかし、人間の預言者は完全ではありません。人間の預言者は間違いもしますし、正しくないことを言ってしまうこともあります。
しかし、イエス・キリストは完全な預言者であり、決して間違うことなく完全に正しく、神の命の言葉を人々に伝えてくださいました。イエス・キリストご自身が、神の命の言葉そのものであるお方でした。
“命の言葉”とは、私たちを真の意味で生かす、私たちに命を与える言葉、という意味です。
言葉には本当に力があります。人間が考え出したような言葉でも、その言葉が人を大いに励ましたり、慰めたりする力を持ち得ます。
まして、神の言葉は、私たちにとって生きる命そのものである、と言ってもよいほどの力を持ちます。私たちは神の言葉によって生きるのです。
モーセの働きで最重要なことは、“その命の言葉を受け、人々に伝える”ということでした。命の言葉、すなわち神の言葉を神から授かって、モーセはそれをイスラエルの民たちに伝えたのです。
命の言葉である聖書の言葉は、それを受けて信じた人によって、また他の人たちに伝えられていきます。
私たちを生かす命の言葉は、人間が考え出したり造りだしたりしたものではありません。そんなことは不可能です。神の命の言葉は、賜物として神から私たちに与えられるものです。
そしてその命の言葉は、イエス・キリストによって完全な形となって世に伝えられた後、人から人へと伝えられることによって広まっていくようになりました。
命の言葉を受けて伝えること、それは神を信じ神によって罪赦され、神によって救われた者、教会の使命です。
人を生かす命の言葉を私たち自身が豊かに受けて、それを人にも伝えていく、そのための器として私たちは用いられたいと、私たちは願います。
39節で、先祖たち(モーセの時代のイスラエルの民たち)が、モーセに従おうとせず、モーセの兄のアロンに次のように言ったということが記されます。
39節~40節をお読みします。
39けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
40アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
これは、旧約聖書『出エジプト記』の32章に書かれている話が元になっています。
そこでは、モーセがシナイ山に登って、そこで神から戒めの言葉を受けていました。
モーセは神から受け取った戒めの言葉をイスラエルの民たちに伝えるように、神から命じられました。
モーセはその時40日間シナイ山にいた、と言われます。そしてイスラエルの民たちは、モーセがなかなか降りてこないので、だんだんモーセを待っていられなくなりました。
忍耐を失った民たちは、モーセの兄であるアロンに、「モーセはどうなったか分からないから、私たちのために神々を造ってください」と願ったのです。
アロンはそこで、イスラエルの民たちに応えて、金の子牛の像を造って、彼らはそれを神として拝みました。
その時イスラエルの民たちが、モーセが山から降りてくるのを待っていられなくなって、神ではないもの(人間の手が作り出したもの)を神として拝む、偶像崇拝をするようになったとは、何とも愚かなことのように私たちには思えます。
しかし、私たちも忍耐をもって神の御心を求めて待つ、ということができない時があるのではないでしょうか。
待つことができず、あるいは、とにかく早く問題を解決したかったり、状況を打開したいと願うあまり、自分で早急に判断して「これが神の御心だ」と安易に決めてしまうことが私たちにもあると思います。
私たちはなかなか待つ、ということができません。静まって祈って、神の言葉、神からの示し、そして他者からの意見やアドバイスに謙虚に聞くということもなかなかできない時があります。
イスラエルの民たちが犯したような、人の手によって造られたものを神として拝むという、過ちを私たちも十分に犯し得る、ということを私たちは心に留めたいと思います。
そのような間違いを繰り返さないため、落ち着いて静まって謙虚に神と、また人の声にも耳を傾けることができるように、日ごろからそのような信仰を養っていきたいと願います。
44節をお読みします。
44わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
証しの幕屋、あるいは幕屋とは、イスラエルの民たちが荒野を旅する間に、そこで彼らが礼拝するために建てられた移動式のテントの礼拝所でした。
神は荒野をイスラエルの民たちが移動中にも、彼らが礼拝できるように、モーセやアロン、祭司たちを通して神の言葉を聞くことができるように、“幕屋”を作ることを教えてくださり彼らが礼拝できるように整えてくださったのです。
やがてイスラエルの民はカナンの地に定住するようになり、ダビデがイスラエル全体の王となりました。
ダビデは、神のための神殿、テント式の幕屋ではなく、しっかりとした土台、基礎を持つ神殿を神のために建てたい、礼拝のために建てたいと願いました。
神の命令によって、実際に神殿を完成させたのはダビデの息子のソロモン王でした。
完成した神殿はイスラエルの民たちにとって霊的、信仰的な拠り所だったでしょう。今の私たちにとっても、教会は信仰的にとても大切な場所です。
教会は私たちが集い、共に礼拝を献げることができる場所です。
しかし、今日の箇所でステファノが言う次の言葉に私たちは耳を傾けたいと思います。
48~50節の言葉です。
48けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
49『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』
神殿、今でいえば私たちの教会は、そこで神によって心動かされた人々が集まり、霊と真(真実)の礼拝を心から献げる時、特別な場所となります。
しかし同時に私たちは、自分自身について傲慢にならないようにと、いつも気をつけていなくてはなりません。私たちは今日の箇所のステファノの言葉から戒められます。
私たち人間が、神がお住みになる場所を造るのではないのです。そんなことは私たちにはできるはずがないのです。
私たちが神のために何かをお造りするのではなく、神が、私たちに必要なものを全て用意してくださるのです。
神が私たちのために必要なもの、場所、教会もすべてお造りくださるのです。
私たちは、神の許しと憐れみ、恵みによって、色々な物を与えられ、物や材料、与えられた賜物を用いて色々なものを造ることができます。
何一つとして、私たちがその最初から造り出すことができるものなど、ありません。
しかし、私たちは気をつけていないとつい、自分自身の力や信仰さえも誇り、“わたし(たち)が、これだけのことを(神様のために)している”と高ぶってしまうことがあります。
すべては天地を創造された神が与えてくださったものですから、すべて良い物は神がお造りになって、私たちに与えてくださるものです。
そしてその信仰は私たちに、“神が全て善きもの、必要なものを必ず私たちに与えてくださり、神が命の言葉をもって私たちを生かしてくださる”という希望と平安をも与えてくれます。
あらゆる恵みが、また私たちを生かす命の言葉が神から私たちに与えられていることを覚え、感謝をして、謙虚に、私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。