2024年10月25日金曜日

2024年10月27日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編107篇9節
賛美  新生讃美歌 124番この世はみな
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句 マルコによる福音書6章30~44節
祈祷
宣教 「すべての人が食べて満腹した」
祈祷
賛美  新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄  新生讃美歌674番
後奏

今日の聖書箇所は、イエス様の弟子たちが、それぞれの働きを終えてからイエス様のところへ戻ってきたという場面です。
弟子たちは、自分たちが人々に対して行(おこな)ったこと、人々に教えたことをイエス様に残らず報告した、と書かれています。
 彼らは「使徒apostles」と言われた、イエス様の12人の直弟子たちでした。
今日の箇所の前にあるマルコ6章7節以降の箇所で、イエス様が彼らを、働きのために送りだす(派遣する)様子が描かれています。

 イエス様が使徒たちを派遣したのは、彼らが人々に神様の御国について知らせ、教えて、そして悪霊を人々から追い出したり、病人を癒したりするためでした。
 使徒たちはイエス様に選ばれて弟子となり、そしてイエス様から力を受けて、それぞれの場へ行き、宣教と病の癒し、悪霊の追い出しなどの働きのために遣わされたのです。
 使徒たちのそのような働きを通して、人々に神の国の知らせ(福音)が伝えられるようにと、イエス様が望まれたのです。
“使徒(イエス様の直弟子)”と聞くと、彼らは、今の私達とは違った大変特別な人たちであると、私たちは想像するかもしれません。
 確かに、イエス様に選ばれて、イエス様と共に生活をしながら、イエス様と共に福音宣教活動をした彼ら使徒たちは、特別な人たちであったと言えます。

 しかし、“イエス様に選ばれたということ”、そして“イエス様から力を頂き、イエス様によって遣わされる”という点では、今の私たちキリスト者も同じなのです。
 私たちもイエス様から選ばれて教会へと導かれました。イエス様から選ばれて、私たちは“イエスは主”という告白へと導かれました。
 私たちキリスト者は、“ただ神の恵みによって、神から選ばれた”というその光栄を感謝して受けとめて、謙遜に信仰者としての歩みをしていきたいと願います。

 使徒たちはそれぞれの働きを終えて、イエス様のところへ戻ってきました。彼らはイエス様に「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告」しました。
 私は、この場面を想像しながら、キリスト者が礼拝からイエス様によって、それぞれの生活の場、働きの場へと遣わされ、そして再びイエス様のところ(礼拝)へと戻ってくる姿を思い浮かべました。
 キリスト者は、礼拝の場でイエス様とお会いし、イエス様のお言葉を聞きし、イエス様から力をいただき、そしてそれぞれの働きや生活の場へと遣わされていきます。
私たちそれぞれに神から与えられた賜物と、イエス・キリストの福音(良き知らせ)を携えて、私たちはここから毎週遣わされて行くのです。
 そして、使徒たちがそれぞれの働きの内容を全てイエス様に報告したように、私たちも過去一週間のそれぞれの生活や働きを振り返りながら、この礼拝の場で、私たちは自分たちがしたことをイエス様にご報告している、とも言えるのではないでしょうか。
 「先週一週間、こういうことがありました。あんなこともありました。上手くできたこともあれば、失敗したこともありました」などと、私たちは全てをありのままに、イエス様に申し上げることができる、ということです。
 毎日一日の終わりの時に、神への祈りの時間にそのようにしておられる方もおられるかと、思います。
 私たちが、私たちがしたことを全てイエス様にお伝えすると、イエス様は私たちの言うことを、ただ黙って、優しい眼差しをもって全て聞いてくださるのだと、わたしは想像します。

 今日の箇所で、イエス様は弟子たちからの報告を聞いた後、次のようにおっしゃいました。
 「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)
彼らの周りには、あまりに人が大勢いたので(イエス様や弟子たちから教えと癒しを受けたいと願って)、彼らは非常に忙しく、食事をする暇もそれまでなかったからだ、と今日の箇所は伝えます。
 このように、イエス様が私たちに与えてくださるものは休息です。心も体も、精神も魂も神の愛の中で憩い、休むことができる、そんな本当の休みをイエス様は私たちに与えてくださいます。
私たちは、イエス様からいただける真の休息の恵みを、まずこの礼拝でいただきます。
心身共に本当の休息を神を礼拝することから頂いて、またこの場から私たちは、それぞれが生きる場へと遣わされていくのです。

イエス様と使徒たちは、舟に乗って、人里離れたところへ行こうとしました。しかし、大勢の人たちがそれに気づいて、イエス様たちよりも先にその場所へ到着した、と今日の箇所に書かれています。
それほどまでに、多くの人々が神の癒しを必要としていたのです。神の恵みを誰もが必要としていたのです。そしてイエス様はその群衆を見て、深く憐れまれました。
憐れんだとは、ただ“可哀そうだ”と感情的に思うだけではありません。イエス様が大勢の群衆を憐れんだというのは、彼ら一人一人が抱える痛み、悲しみ、苦しみを、イエス様がご自身のこととして受け止めてくださったということです。
神が人となられたイエス様は、そのように私たちの痛み、苦しみ、悲しみを、まったくご自身のものとして引き受けることが、お出来になるお方なのです。
そのようなお方が私たちの神として、私たちと共にいてくださることを、私たちは喜び、感謝をしたいと願います。
 イエス様は彼らを深く憐れんで、そして“いろいろと教え始められた”と書かれています。イエス様はその時、ご自身の言葉(神の御言葉)を彼らに教えられました。
 イエス様は彼らを見て、彼らが“飼い主のいない羊のような有様”であるのを見て、深く憐れんだと書かれています。
 “飼い主のいない羊”とは、人生の指針を示してくれる人がいないので、どこへ向かって歩めばよいのかもわからず、たださまようだけの人です。
 そんな彼らにイエス様は、生き方のはっきりした指針と方向性を示すために、惜しみなく神の言葉を群衆に教えられました。

 神の言葉は、私たち人をその生涯にわたって支え、そして導く指針となります。私たちも、(特に今年度の教会標語は“主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord”です)主の御言葉を常に私たちの指針として、信仰の道を歩んでいきましょう。
 イエス様は人々を教え続けられましたが、かなり時間がたったので、弟子たちが次のようにイエス様に言いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」

 イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお応えになりました。
 弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。(37節)“そんなこと、どう考えても無理です”と彼らは思ったのでしょう。
 二百デナリオンは分かりやすく現在の例に例えれば、約200万円です。そこには男性だけで五千人いたと書かれていますので、女性や子どもも含めれば、その二倍、三倍の人がいたことになります。
 私たちは、何か難しい課題に直面すると、それまでの自分の経験や、あるいは常識から判断して“それぐらいなら可能だ”、あるいは“それは無理だ”と判断すると思います。
 今ここで、二百デナリオンものパンを買ってきて、これだけの人々に食べ物を与えるなんて、考えるまでもなく無理に決まっている、と人の常識は言うのです。(そんなお金はそもそもない、と常識は言うのです)
しかし、神を信じる信仰者は、人の常識(そもそも人の常識が必ず正しいとは限らないのです)ではなく、神の言葉に信頼して、“御心ならば実現する”という希望の信仰に生きることができます。
 イエス様は、今日の箇所で、何をなさったのでしょうか。イエス様は、彼ら(弟子たち)に、パンはいくつあるのかを確認させました。
 弟子たちが確かめてくると、パンが五つと魚も二匹ありました。人の目には、“こんなに大勢の群衆に対して、たったこれだけ”という量の食べ物です。
しかし、イエス様にとっては違いました。そこにあったパン五つと二匹の魚は、イエス様エス様にとっては、十分な量でした。
 イエス様は、差し出されたパンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えて、そしてパンを裂いて、魚も増やして、弟子たちにお渡しになりました。
弟子たちは、そのパンと魚とが、そこにいた全ての人々に行き渡るようにしました。百人、あるいは50人の組になって座った人々全員が食べて、全員が満腹しました。

 これはすごい奇跡です。しかし、そこにいた大勢の人たちは、男性だけで5000人、家族も含めたら、1万数千から2万人だったかもしれません。
それだけの群衆だったので、彼らのうちの多くは、自分たちが食べたパンと魚が、実はイエス様が祈りと祝福で増やしたものだとは気づいてなかったかもしれません。
ただ近くにいた使徒たち、その周りにいた人たちだけが、実はそれは、イエス様が賛美の祈りによって増やしてくださった、もとは5つのパンと二匹の魚だけだった、という真実を知っていたという可能性があります。
そのように想像する時、私たちも、普段私たちに与えられている多くの恵み(神からの恵み)を、神の恵みと気づかずに、ただ受け取っているということがあるのではないか、と思わされます。
私たちの周りには神の恵みが満ちていますが、私たちはイエス様が豊かに与えてくださっているその恵みに気づかず、ただ当たり前のようにそれを受け取っているということがないでしょうか。

私たちは、信仰の目を開いて、私たちに日々、この瞬間も与えられている多くの神の恵みに目を止めましょう。イエス様が賛美の祈りをもって、その恵みをますます増やしてくださっていることを信じましょう。
もしそのように信じるのならば、神の恵みは私たちのものとなります。そして神の恵みを、ただ私たちのうちにとどめておくのではなく、神の恵みは私たち一人ひとりの手を通して、他者へと受け渡されていくことを、神が望んでおられます。
イエス様から与えられる神の恵みに私たちは気づき、そしてその恵みを皆で分かち合い、そして私たちの隣人、他者へと、その恵みを受け渡していく、豊かに与えることのできる信仰者、そしてそのような教会として、私たちは歩んでいきたいと願います。

2024年10月19日土曜日

2024年10月20日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書25章6節
賛美  新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
転入会の証し
献金
聖句  ルカによる福音書14章15~24節
祈祷
宣教  「大宴会のたとえ」
祈祷
賛美  新生讃美歌 521番 キリストには替えられません
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書14章15~24節の、新共同訳聖書では「大宴会のたとえ」という小見出しがつけられている箇所です。
 この箇所と似た話が、マタイによる福音書22章1~20節にも書かれています。マタイ福音書のその箇所では、その宴会は、“ある王が王子のために催した結婚式”という設定になっています。
 マタイ福音書では、その結婚式への招待を受けた人たちが、その招待を無視したり、ひどい人は、招待状を持ってきた王の家来たちを捕まえ、乱暴し、殺してしまった、と書かれています。
 マタイとルカのこの箇所で共通する点は、まず宴会(あるいは結婚式)が王、あるいは主人によって用意された、ということ。そしてその宴会への招待を受けた人たちが、その招待を拒んだ、という点です。
 マタイ福音書、ルカ福音書の該当箇所で、宴会(あるいは結婚式)、そしてそれへの招待を拒んだ人々とは、一体何を表しているのでしょうか?この箇所を通して、私たちは神のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

 15節で、ある人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言っています。この人は「食事を共にしていた客の一人」であった、と書かれています。
 この時、イエス様は弟子たちや他の人たちと一緒に、誰かの家の食事の席に招かれていたようです。(14章の1節には、イエス様が食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった、と書かれています)
そこで、そのうちの客の一人が「いずれ私たちが入ることを許される神の国の食事は、本当に素晴らしいものなのでしょうね」と言ったというのです。
その客は、「今、私たちが実際に楽しんでいる食事や宴会も楽しいけれども、神様の国での食事や宴会はもっと凄いのでしょうね」と想像して言ったのかもしれません。

 15節を見ますと、“その人は「これを聞いて」heard thisそのように言った”と書かれています。
「これを聞いて」の“これ”とは、今日の箇所の前の7節から14節に書かれている、イエス様が言ったお言葉です。
 イエス様はそこで「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。むしろ末席に座りなさい」と言って、あくまで謙虚な信仰姿勢を保つことを人々に教えられました。
 それはもちろん見た目の行動だけのことではありません。それは、大きな罪を赦された者として、神の赦しへの感謝をもって、謙遜になってむしろ他者に仕えなさい、という神から私たちへの大切な教えです。

 そしてイエス様は“宴会を催す時には、友人も兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたに招いてお返しをするかもしれないからである”とおっしゃいました(12節)。
 “宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ”ともイエス様はおっしゃいました(13~14節)。
 もしあなたたちが、他の人たちのために宴会を用意することができるほどに恵まれているのならば、あなたたちにお返し(お礼)をできないような人たちを招きなさい、というのです。
 “人に何かをしてあげる時、他者に与える時、その見返りを期待するな”ということです。
 私たちは、逆に自分が人から何かをしてもらう場合、“人に何かをしてもらったら、それ相応のお返し(お礼)をしなくてはならない”とも考えないでしょうか?
 それは、好意と善意からそのように考える場合もあります。しかし、「私は他の人に借りを作りたくない」という考えから、“お礼(お返し)をしなくてはならない”と考えることもあるのではないでしょうか。
 ですから神様は、聖書のこの箇所を通して、“あなたたちは人を宴会に招待する時、その見返りを期待してはいけない。
つまり“貸し借り”という考えから、あなたたちは自由になりなさい“と私たちに伝えておられるのだと、私は思います。
 それは、あなたたちは元々互いに支え合い、共に生きる存在である、というメッセージです。誰もが人から、そして誰よりも主なる神から支えられなければ、生きてはいけぬ存在である、ということです。
 通常の“貸し借り”ではなく、互いに支え合う(生きる)という意味で、誰もがお互いに、そもそも“借り”を、そして“貸し”も互いにいつも負っているのだ、ということを私たちは覚えていたいと願います。

 そして聖書は、神様が私たちのために用意してくださる宴会は、(それは神の国での交わりであり、そして信仰により与えられる、あらゆる喜びを含みます)あまりに大きく素晴らしいものであることを伝えます。
 神が私たちに、そこへ入ることを許してくださる神の国のすばらしさは、それに対して私たちが、それ相応のお返しをすることなど決してできないほどのものなのです。
 私たちが神を知り、神を信じ、そして神の国へ入ることを赦されたのは、イエス様が十字架の上でそのお命を捨ててくださったからです。
 イエス様が、私たちのために、私たちの救いの代価を全て支払ってくださいました。私たちが決して自分では払うことのできない、その救いの代価をイエス・キリストが払ったくださったことを私たちは覚えましょう。
 その神の国への招きが、私たちに与えられています。しかし、今日の箇所では、その宴会に招かれていた人たちは、宴会が実際に始まる段階になると、その招待を断ってしまいました。

 この当時のユダヤの宴会というのは、宴会の開催について事前に知らされ、具体的な日時はその直前まで知らされない、と言う習慣だったようです。
 ずいぶん大ざっばな習慣だな、と私たちに思えてしまいます。それぐらい、今の私たちが時間やスケジュールというものに縛られた生活を身に着けてしまっている、ということかもしれません。
 主人はすべてを用意して、宴会に招いておいた人たちが来てくれるのを待っていました。ところが、招待されていた人たちは、それぞれ理由を口にしながら、宴会に来るのを断りました。
 ある人は「私は畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」。他の人は「私は牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」。
 別の人は「わたしは妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」という理由を言いました。それぞれに理由があって、その宴会には行けません、と断ったのです。
 この人たちは、その盛大な宴会への誘いをなぜ断ったのでしょうか。畑や牛を新しく買った、つまり自分の生活や経済的な必要を満たすことのほうが、その宴会へ出席するよりも優先順位がその人たちには高かったからです。
 では、この箇所が私たちに伝える教訓は、“自分自身の事柄を第一とし、神の国での豊かな交わり、神の国へ入る招待を断ることの愚かさ”ということなのでしょうか。
 この箇所が伝える第一義的な教訓は、その通りだと私は思います。私たちは、自分自身の思いや計画、自分を中心とすることで、神の国の偉大さ、その豊かさを見失っているのです。
もう一つの教訓(メッセージ)は、“私たちは神の国への招きを、ひとつの義務のように理解している”ということです。

本来、神の国への招きは、無償の大きな賜物です。それは純粋な恵みであり、私たちの喜びです。
しかし、神様からの呼びかけ、宴会への招待を、“果たすべき何か一つの義務(重荷)”のように私たちキリスト者が理解している、ということも、今日の箇所が私たちに伝える内容の一つです。
 今日の箇所で、招待を断った三番目の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。
旧約聖書『申命記』Deuteronomyの24章5節に次のように書かれています。

人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。

 人が結婚したならば、兵役や公務を一年間免除され、夫婦生活を優先することが許される、という戒めです。
 しかし、この事情(新婚であること)が、神の国での宴会への参加を断る理由として用いられたのならば、この人は、神の国での宴会への出席を、“一つの義務、兵役や仕事”のように考えていた、ということになります。
 神の国での宴会は、それは完全な形では、私たちが天に召された時、そしてイエス・キリストが再びおいでになった時に実現されるものです。
 しかし、神の国での宴会は、その前触れが、私たちが今住むこの地上での生活においても、すでに始まっています。
 イエス様が人としてこの世界に来てくださり、そして十字架の上で死に、私たちの罪の贖いとなってくださいました。

そのようにして私たちの罪が赦され、私たちが再び神のもとへと行けるようになってから、神の国はこの地上でも実現しつつあるのです。
 そしてイエス・キリストとの交わり、キリストの体である教会での兄弟姉妹同士の交わり、私たちがキリストの神を礼拝するという形で、神の国での宴会の少なくともその“前触れ”を私たちは既に経験しているのです。
 しかし、もしその神の国での宴会に等しい、素晴らしい恵み(礼拝)を、何か“いやいやながら果たさなくてはならない一つの義務”のように感じるのならば、それは何かが間違っています。
礼拝やその他教会の集会に出席することも、もし私たちが、正直どこか億劫(する気になれないという気持ち)に感じているのならば、それは何かが間違っていると言わねばならないでしょう。
 その人が間違っているのではないかもしれません。教会が、あるいは教会の霊的リーダーである牧師の姿勢や資質に問題があるのかもしれません。
 それでも、私たちの主なる神は、イエス・キリストの恵みを通して、神の国での盛大な宴会へと私たちを招いておられることに、変わりはありません。
 その喜びは非常に大きいはずです。もし、神の国へ招かれていることへの喜びが、それほどには実感できないのならば、私たちは今一度キリストの福音、イエス様が共にいてくださるという聖書のメッセージに立ち帰りましょう。
 そして私たちに与えられたイエス・キリストへの信仰と、キリストへの信仰に基づいた礼拝、教会での交わりは、やがて完全な形で実現する神の国での盛大な宴会の、ひとつの“前触れ”である、ことを信じてまいりましょう。
神の国での盛大な宴会への招待状がすでに私たちのもとには届いています。それに対して何らお返しをする必要のない(お返しすることのできない)、神の国での宴会に招かれている喜びを覚え、感謝と希望の信仰を歩んでいこうではありませんか。

2024年10月12日土曜日

2024年10月13日 主日礼拝


前奏
招詞  ゼカリヤ書 1章3節
賛美  新生讃美歌 651番 イエスの愛にこたえ行く
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書15章11~24節
祈祷 
宣教 「放蕩息子のたとえから」
祈祷
賛美  新生讃美歌 550番  ひとたびは死にし身も
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

*本日、メッセージの掲載はありません。

2024年10月5日土曜日

2024年10月6日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編103篇8~9節
賛美  新生讃美歌 626番 主はいのちを与えませり
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句  ルカによる福音書13章6~9節
祈祷 
宣教 「実のならないいちじくの木」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏


 今日の聖書箇所で、イエス様はあるたとえ話をされました。それはたとえなので、実際に起きた出来事ではありません。この話を通してイエス様がご自分の弟子たちに伝えようとしたメッセージがあるということです。
 聖書の御言葉は時を超えて、神のメッセージを今の私たちにも伝えます。ですから、今日このイエス様のたとえ話を通して、神が私たちに伝えようとされているメッセージがあるのです。
 これはたとえですから、ある程度私たちの想像力も働かせながら、イエス様の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

初めの6節をもう一度お読みします。
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

 ある人がぶとう園にいちじくの木を植えました。その様子を少し考えると、「なぜ、いちじくをぶどう園に植えるのだろうか?」という疑問が皆さんには浮かばなかったでしょうか?
 なぜ、いちじくをぶどう園に植えたのでしょうか?実はこれは、当時のユダヤでは普通に行われていた果物栽培の方法だったようです。
 現代の果樹園ならば、ぶどうならぶどう、いちじくならいちじく、みかんならみかんと、同じ種類の果物を同じ場所に沢山植えて、効率よくその果物を育て、収穫すると思います。
しかし新約聖書の書かれたこの当時、約2000年前のイスラエルでは、ぶどう園(vineyard)にいちじく、またその他のいろいろな果物の木を植えることが普通のことであったようです。
ぶどうは、他の木に絡みつくことで、上に向かって伸びていくことができます。そのためにも、ぶどう園の中にいちじくの木が植えられる理由がありました。
いちじくは、実をならす以外にもぶどう園のなかでの役割があったということです。いちじくの木の存在が、ぶどうの成長を助けていたからです。

イスラエルのぶどう園の中に色々な果物の木が植えられていたという光景を想像すると、色彩豊かで、(多少雑然としていたとは思いますが)、色々な果物がそれぞれの個性と役割を発揮しながら互いに支え合って成長している様子が想像されます。
場所はぶどう園であっても、その中には色々な果物の木が植えられており、それぞれの役割を果たしているのです。そしてお互いがお互いを支え合っているのです。
その様子は、私たちの教会を思わせないでしょうか。教会がそのような場所であったらよいな、と私たちに希望を抱かせないでしょうか。
私たち信仰者も、特に神に呼び集められた教会の中で、お互いの個性を尊び、違いを認め合い、支え合い、一人ひとりが特別に神から愛された存在であることを喜びあうことができます。
ぶどう園の中に、主人(すなわち神様)は特別な思いで一本のいちじくの木を植えられました。

私たち一人ひとりが一本のいちじく、またはざくろ、りんごなど多様な木でありながら、神様のご計画によって、同じ場所に植えられた果物のように、互いに神に愛された等しい価値ある者として、私たちはお互いを大切にしたいと願います。

 そのぶどう園にいちじくを植えた主人は、当然のことながら、いちじくがやがて実を結ぶことを期待し、実が豊かになることをずっと待っていました。
ところが、三年間もの間、“まだ実はならないか”と期待しながら、ずっといちじくの木を、この主人は見に来続けたにも関わらず、そのいちじくの木は全く実をならせませんでした。
 いちじくが最初に植えられてから実をつけるまでには、だいたい3年ぐらいかかるそうです。
ですから、この主人が三年もの間、そのいちじくの木に実を探しに通い続けた、ということは、最初にそのいちじくが植えられてからは、実に6年の時がたった、ということだと私は想像します。

それは神がいかに忍耐強いお方であるか、神が私たちが信仰の実をならせることを、どれほど切実に願っておられるか、ということを表します。
 私たちの信仰の実とは、どのようなものでしょうか。新約聖書の別の箇所の『ガラテヤの信徒への手紙Galatians』5章22節~23節に、次のように書かれています。

ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制~これらが霊の結ぶ実、つまりイエス・キリストへの信仰によって信仰者が結ぶと言われる実です。
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらはいずれもイエス・キリストご自身が豊かに持っておられた神の御性質です。
私たちがイエス・キリストによる喜びと平和を頂いているのならば、私たちは他者への寛容や親切、善意、誠実、柔和(優しさ)、節制(自分の欲を制すること)をも身につけることができるということです。
 私たちは、信仰によるそのような果実を結んでいるでしょうか。神が私たちをご覧になって、そのような信仰の実を私たちの中に見つけることがおできになるでしょうか?
 “実”というものは、自身以外の他者に栄養(生きる糧)を提供します。ですから、私たちが結ぶべき信仰の実は、それが自分以外の他者をも潤し、生かすものであるはずです。
 私たちは、私たちの存在が、また私たちの教会が、キリストへの信仰による豊かな実を結ぶことによって、私たちの周りの人や、教会の周りの地域をも潤すことができるような存在となりたいと願います。
 私たちにはキリストによる喜びがあります。キリストによる平和が私たちには与えられています。それらを豊かな信仰の果実として、私たちは身につけ、それらを他者へも伝えていこうではありませんか。

 三年間、“実はなっていないか”と期待しながら、何度も何度も、見に来続けたぶどう園の主人でしたが、しかし、結局何の実も見つけることができませんでした。
 この主人は次のように言いました(7節)
 『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

“このいちじくの木は、まったく実をならせない。土地を無駄にふさいでいるだけだ。切り倒せ”~ここで、私たち信仰者のことが例えられていると思うと、神様は大変残酷な方であるようにも思えます。
しかし、神が“切り倒せ”の一言を発するまでに、それまでに、いったいどれほどの忍耐をもって、私たちが、悔い改めの実を結ぶのを待ち続けてくださったのか、を私たちは知らねばなりません。

旧約聖書のイザヤ書に次のような神の言葉が記されています。神がいかに深い愛をもって、ご自分の民(イスラエルの民)を愛されたのかが、ぶどうをたとえにして語られています。

イザヤ書5章4節 (Isaiah 5:4)
わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

 神は愛なるお方です。神は無限の愛をもって私たちを愛して、憐れんでくださるお方です。そして、本当の愛は、必要な時には厳しさをも伴うものです。
 神は真の愛なるお方ですから、私たちのために必要な厳しさをも併せ持ったお方なのです。神の大きな愛を頂く私たちは、神には私たちを厳しく裁かれる権威もお持ちのお方であることを、知らねばなりません。
 神が“このいちじくの木を切り倒せ”と言ったとき、そこで園丁が答えました。(8~9節)
『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

「今年もこのままにしておいてください。私が木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もう一年待ってください」と必死になって主人に願うこの園丁とは、イエス・キリストを表しています。
このようにイエス様は、私たちのために、私たちに代わって天の父なる神に、私たちの赦しのために、執り成しの祈りと願いを捧げてくださっているのです。
 この園丁の言っていることはこういうことです。「私にできることは全ていたします。ただ水をやるだけでなく、木の周りを掘って、肥やしをやります。そのように徹底的に私がこのいちじくの木が成長できるように、必要なものは全て与え、世話をします」

そのように、私たちのために(私たちがそれぞれの使命と役割を果たし、信仰を成長させるために)必要なものを、惜しみなく全て与えてくださる方がおられることを、私たちは信じているでしょうか。
 牧師として今の私自身のことを顧みますと、本当に必要なものは全て与えられ、今も与えられ続けていることを、私は痛感せずにはいられませんでした。
 私は牧師として献身すると決意した時に、「全てをなげうって、神様が行けと言われるところならば、どこへでも行きます。イエス・キリストの福音を人々に伝えます」という決意を、神からの召命に基づいて自分でしました。
 しかし、私が何かをなげうつ前に、実は神が私のために必要なものはすべて整えて、与えてくださっていたのです。
神は、私が牧師として仕えることの許される教会をすでに備えてくださっており、私を牧師として迎え、立ててくださる皆さんを神は私に与えてくださいました。
 素晴らしい教会堂が素晴らしい場所に、(わたしの来るずっと前に)すでに与えられていました。私が自分でしたことなど、何一つありません。
 世界には自由にキリスト信仰を持つことができない、伝道ができない国や地域も多くあります。それらの場所で、キリスト宣教の使命に命をかけて仕えている宣教師、伝道師たちもたくさんおられます。
 今の私には、宣教活動、牧会活動に関わるそのような深刻な制限や迫害はありません。これら一つ一つがどれほど恵まれたことであるか、多くの場合私は忘れてしまっていたことに気づきました。

 これほどの神の恵みの中で、必要なものは全て与えられている中で、私が一キリスト者として、そして牧師、伝道者として主が望まれる実を結ばないのならば、私は切り倒されても仕方がない、神様には当然そのようになさる権利がある、と思わされました。
 神は、限りない愛と忍耐をもって、また大きなご計画をもって私たちをそれぞれの場に置かれました。
私たちそれぞれが置かれた場において、私たちは主イエス・キリストから頂く愛と憐れみ、キリストの恵みによって、きっと豊かな信仰の実を結ぶことができます。
 そして私たちが結ぶ信仰の実・霊の実は、私たちが共に生きる他者をも霊的に潤し、生かし、その人たちへキリストを伝えるものともなるでしょう。
 すべての恵みを与えてくださる神に感謝をし、神に繋がり続け、信仰の豊かな実を私たちは結んでいこうではありませんか。