2024年10月19日土曜日

2024年10月20日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書25章6節
賛美  新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美  新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
転入会の証し
献金
聖句  ルカによる福音書14章15~24節
祈祷
宣教  「大宴会のたとえ」
祈祷
賛美  新生讃美歌 521番 キリストには替えられません
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏

 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書14章15~24節の、新共同訳聖書では「大宴会のたとえ」という小見出しがつけられている箇所です。
 この箇所と似た話が、マタイによる福音書22章1~20節にも書かれています。マタイ福音書のその箇所では、その宴会は、“ある王が王子のために催した結婚式”という設定になっています。
 マタイ福音書では、その結婚式への招待を受けた人たちが、その招待を無視したり、ひどい人は、招待状を持ってきた王の家来たちを捕まえ、乱暴し、殺してしまった、と書かれています。
 マタイとルカのこの箇所で共通する点は、まず宴会(あるいは結婚式)が王、あるいは主人によって用意された、ということ。そしてその宴会への招待を受けた人たちが、その招待を拒んだ、という点です。
 マタイ福音書、ルカ福音書の該当箇所で、宴会(あるいは結婚式)、そしてそれへの招待を拒んだ人々とは、一体何を表しているのでしょうか?この箇所を通して、私たちは神のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

 15節で、ある人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言っています。この人は「食事を共にしていた客の一人」であった、と書かれています。
 この時、イエス様は弟子たちや他の人たちと一緒に、誰かの家の食事の席に招かれていたようです。(14章の1節には、イエス様が食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった、と書かれています)
そこで、そのうちの客の一人が「いずれ私たちが入ることを許される神の国の食事は、本当に素晴らしいものなのでしょうね」と言ったというのです。
その客は、「今、私たちが実際に楽しんでいる食事や宴会も楽しいけれども、神様の国での食事や宴会はもっと凄いのでしょうね」と想像して言ったのかもしれません。

 15節を見ますと、“その人は「これを聞いて」heard thisそのように言った”と書かれています。
「これを聞いて」の“これ”とは、今日の箇所の前の7節から14節に書かれている、イエス様が言ったお言葉です。
 イエス様はそこで「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。むしろ末席に座りなさい」と言って、あくまで謙虚な信仰姿勢を保つことを人々に教えられました。
 それはもちろん見た目の行動だけのことではありません。それは、大きな罪を赦された者として、神の赦しへの感謝をもって、謙遜になってむしろ他者に仕えなさい、という神から私たちへの大切な教えです。

 そしてイエス様は“宴会を催す時には、友人も兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたに招いてお返しをするかもしれないからである”とおっしゃいました(12節)。
 “宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ”ともイエス様はおっしゃいました(13~14節)。
 もしあなたたちが、他の人たちのために宴会を用意することができるほどに恵まれているのならば、あなたたちにお返し(お礼)をできないような人たちを招きなさい、というのです。
 “人に何かをしてあげる時、他者に与える時、その見返りを期待するな”ということです。
 私たちは、逆に自分が人から何かをしてもらう場合、“人に何かをしてもらったら、それ相応のお返し(お礼)をしなくてはならない”とも考えないでしょうか?
 それは、好意と善意からそのように考える場合もあります。しかし、「私は他の人に借りを作りたくない」という考えから、“お礼(お返し)をしなくてはならない”と考えることもあるのではないでしょうか。
 ですから神様は、聖書のこの箇所を通して、“あなたたちは人を宴会に招待する時、その見返りを期待してはいけない。
つまり“貸し借り”という考えから、あなたたちは自由になりなさい“と私たちに伝えておられるのだと、私は思います。
 それは、あなたたちは元々互いに支え合い、共に生きる存在である、というメッセージです。誰もが人から、そして誰よりも主なる神から支えられなければ、生きてはいけぬ存在である、ということです。
 通常の“貸し借り”ではなく、互いに支え合う(生きる)という意味で、誰もがお互いに、そもそも“借り”を、そして“貸し”も互いにいつも負っているのだ、ということを私たちは覚えていたいと願います。

 そして聖書は、神様が私たちのために用意してくださる宴会は、(それは神の国での交わりであり、そして信仰により与えられる、あらゆる喜びを含みます)あまりに大きく素晴らしいものであることを伝えます。
 神が私たちに、そこへ入ることを許してくださる神の国のすばらしさは、それに対して私たちが、それ相応のお返しをすることなど決してできないほどのものなのです。
 私たちが神を知り、神を信じ、そして神の国へ入ることを赦されたのは、イエス様が十字架の上でそのお命を捨ててくださったからです。
 イエス様が、私たちのために、私たちの救いの代価を全て支払ってくださいました。私たちが決して自分では払うことのできない、その救いの代価をイエス・キリストが払ったくださったことを私たちは覚えましょう。
 その神の国への招きが、私たちに与えられています。しかし、今日の箇所では、その宴会に招かれていた人たちは、宴会が実際に始まる段階になると、その招待を断ってしまいました。

 この当時のユダヤの宴会というのは、宴会の開催について事前に知らされ、具体的な日時はその直前まで知らされない、と言う習慣だったようです。
 ずいぶん大ざっばな習慣だな、と私たちに思えてしまいます。それぐらい、今の私たちが時間やスケジュールというものに縛られた生活を身に着けてしまっている、ということかもしれません。
 主人はすべてを用意して、宴会に招いておいた人たちが来てくれるのを待っていました。ところが、招待されていた人たちは、それぞれ理由を口にしながら、宴会に来るのを断りました。
 ある人は「私は畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」。他の人は「私は牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」。
 別の人は「わたしは妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」という理由を言いました。それぞれに理由があって、その宴会には行けません、と断ったのです。
 この人たちは、その盛大な宴会への誘いをなぜ断ったのでしょうか。畑や牛を新しく買った、つまり自分の生活や経済的な必要を満たすことのほうが、その宴会へ出席するよりも優先順位がその人たちには高かったからです。
 では、この箇所が私たちに伝える教訓は、“自分自身の事柄を第一とし、神の国での豊かな交わり、神の国へ入る招待を断ることの愚かさ”ということなのでしょうか。
 この箇所が伝える第一義的な教訓は、その通りだと私は思います。私たちは、自分自身の思いや計画、自分を中心とすることで、神の国の偉大さ、その豊かさを見失っているのです。
もう一つの教訓(メッセージ)は、“私たちは神の国への招きを、ひとつの義務のように理解している”ということです。

本来、神の国への招きは、無償の大きな賜物です。それは純粋な恵みであり、私たちの喜びです。
しかし、神様からの呼びかけ、宴会への招待を、“果たすべき何か一つの義務(重荷)”のように私たちキリスト者が理解している、ということも、今日の箇所が私たちに伝える内容の一つです。
 今日の箇所で、招待を断った三番目の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。
旧約聖書『申命記』Deuteronomyの24章5節に次のように書かれています。

人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。

 人が結婚したならば、兵役や公務を一年間免除され、夫婦生活を優先することが許される、という戒めです。
 しかし、この事情(新婚であること)が、神の国での宴会への参加を断る理由として用いられたのならば、この人は、神の国での宴会への出席を、“一つの義務、兵役や仕事”のように考えていた、ということになります。
 神の国での宴会は、それは完全な形では、私たちが天に召された時、そしてイエス・キリストが再びおいでになった時に実現されるものです。
 しかし、神の国での宴会は、その前触れが、私たちが今住むこの地上での生活においても、すでに始まっています。
 イエス様が人としてこの世界に来てくださり、そして十字架の上で死に、私たちの罪の贖いとなってくださいました。

そのようにして私たちの罪が赦され、私たちが再び神のもとへと行けるようになってから、神の国はこの地上でも実現しつつあるのです。
 そしてイエス・キリストとの交わり、キリストの体である教会での兄弟姉妹同士の交わり、私たちがキリストの神を礼拝するという形で、神の国での宴会の少なくともその“前触れ”を私たちは既に経験しているのです。
 しかし、もしその神の国での宴会に等しい、素晴らしい恵み(礼拝)を、何か“いやいやながら果たさなくてはならない一つの義務”のように感じるのならば、それは何かが間違っています。
礼拝やその他教会の集会に出席することも、もし私たちが、正直どこか億劫(する気になれないという気持ち)に感じているのならば、それは何かが間違っていると言わねばならないでしょう。
 その人が間違っているのではないかもしれません。教会が、あるいは教会の霊的リーダーである牧師の姿勢や資質に問題があるのかもしれません。
 それでも、私たちの主なる神は、イエス・キリストの恵みを通して、神の国での盛大な宴会へと私たちを招いておられることに、変わりはありません。
 その喜びは非常に大きいはずです。もし、神の国へ招かれていることへの喜びが、それほどには実感できないのならば、私たちは今一度キリストの福音、イエス様が共にいてくださるという聖書のメッセージに立ち帰りましょう。
 そして私たちに与えられたイエス・キリストへの信仰と、キリストへの信仰に基づいた礼拝、教会での交わりは、やがて完全な形で実現する神の国での盛大な宴会の、ひとつの“前触れ”である、ことを信じてまいりましょう。
神の国での盛大な宴会への招待状がすでに私たちのもとには届いています。それに対して何らお返しをする必要のない(お返しすることのできない)、神の国での宴会に招かれている喜びを覚え、感謝と希望の信仰を歩んでいこうではありませんか。