2024年10月27日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編107篇9節
賛美 新生讃美歌 124番この世はみな
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌 213番 われらに伝えよ
献金
聖句 マルコによる福音書6章30~44節
祈祷
宣教 「すべての人が食べて満腹した」
祈祷
賛美 新生讃美歌 21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌674番
後奏
今日の聖書箇所は、イエス様の弟子たちが、それぞれの働きを終えてからイエス様のところへ戻ってきたという場面です。
弟子たちは、自分たちが人々に対して行(おこな)ったこと、人々に教えたことをイエス様に残らず報告した、と書かれています。
彼らは「使徒apostles」と言われた、イエス様の12人の直弟子たちでした。
今日の箇所の前にあるマルコ6章7節以降の箇所で、イエス様が彼らを、働きのために送りだす(派遣する)様子が描かれています。
イエス様が使徒たちを派遣したのは、彼らが人々に神様の御国について知らせ、教えて、そして悪霊を人々から追い出したり、病人を癒したりするためでした。
使徒たちはイエス様に選ばれて弟子となり、そしてイエス様から力を受けて、それぞれの場へ行き、宣教と病の癒し、悪霊の追い出しなどの働きのために遣わされたのです。
使徒たちのそのような働きを通して、人々に神の国の知らせ(福音)が伝えられるようにと、イエス様が望まれたのです。
“使徒(イエス様の直弟子)”と聞くと、彼らは、今の私達とは違った大変特別な人たちであると、私たちは想像するかもしれません。
確かに、イエス様に選ばれて、イエス様と共に生活をしながら、イエス様と共に福音宣教活動をした彼ら使徒たちは、特別な人たちであったと言えます。
しかし、“イエス様に選ばれたということ”、そして“イエス様から力を頂き、イエス様によって遣わされる”という点では、今の私たちキリスト者も同じなのです。
私たちもイエス様から選ばれて教会へと導かれました。イエス様から選ばれて、私たちは“イエスは主”という告白へと導かれました。
私たちキリスト者は、“ただ神の恵みによって、神から選ばれた”というその光栄を感謝して受けとめて、謙遜に信仰者としての歩みをしていきたいと願います。
使徒たちはそれぞれの働きを終えて、イエス様のところへ戻ってきました。彼らはイエス様に「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告」しました。
私は、この場面を想像しながら、キリスト者が礼拝からイエス様によって、それぞれの生活の場、働きの場へと遣わされ、そして再びイエス様のところ(礼拝)へと戻ってくる姿を思い浮かべました。
キリスト者は、礼拝の場でイエス様とお会いし、イエス様のお言葉を聞きし、イエス様から力をいただき、そしてそれぞれの働きや生活の場へと遣わされていきます。
私たちそれぞれに神から与えられた賜物と、イエス・キリストの福音(良き知らせ)を携えて、私たちはここから毎週遣わされて行くのです。
そして、使徒たちがそれぞれの働きの内容を全てイエス様に報告したように、私たちも過去一週間のそれぞれの生活や働きを振り返りながら、この礼拝の場で、私たちは自分たちがしたことをイエス様にご報告している、とも言えるのではないでしょうか。
「先週一週間、こういうことがありました。あんなこともありました。上手くできたこともあれば、失敗したこともありました」などと、私たちは全てをありのままに、イエス様に申し上げることができる、ということです。
毎日一日の終わりの時に、神への祈りの時間にそのようにしておられる方もおられるかと、思います。
私たちが、私たちがしたことを全てイエス様にお伝えすると、イエス様は私たちの言うことを、ただ黙って、優しい眼差しをもって全て聞いてくださるのだと、わたしは想像します。
今日の箇所で、イエス様は弟子たちからの報告を聞いた後、次のようにおっしゃいました。
「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)
彼らの周りには、あまりに人が大勢いたので(イエス様や弟子たちから教えと癒しを受けたいと願って)、彼らは非常に忙しく、食事をする暇もそれまでなかったからだ、と今日の箇所は伝えます。
このように、イエス様が私たちに与えてくださるものは休息です。心も体も、精神も魂も神の愛の中で憩い、休むことができる、そんな本当の休みをイエス様は私たちに与えてくださいます。
私たちは、イエス様からいただける真の休息の恵みを、まずこの礼拝でいただきます。
心身共に本当の休息を神を礼拝することから頂いて、またこの場から私たちは、それぞれが生きる場へと遣わされていくのです。
イエス様と使徒たちは、舟に乗って、人里離れたところへ行こうとしました。しかし、大勢の人たちがそれに気づいて、イエス様たちよりも先にその場所へ到着した、と今日の箇所に書かれています。
それほどまでに、多くの人々が神の癒しを必要としていたのです。神の恵みを誰もが必要としていたのです。そしてイエス様はその群衆を見て、深く憐れまれました。
憐れんだとは、ただ“可哀そうだ”と感情的に思うだけではありません。イエス様が大勢の群衆を憐れんだというのは、彼ら一人一人が抱える痛み、悲しみ、苦しみを、イエス様がご自身のこととして受け止めてくださったということです。
神が人となられたイエス様は、そのように私たちの痛み、苦しみ、悲しみを、まったくご自身のものとして引き受けることが、お出来になるお方なのです。
そのようなお方が私たちの神として、私たちと共にいてくださることを、私たちは喜び、感謝をしたいと願います。
イエス様は彼らを深く憐れんで、そして“いろいろと教え始められた”と書かれています。イエス様はその時、ご自身の言葉(神の御言葉)を彼らに教えられました。
イエス様は彼らを見て、彼らが“飼い主のいない羊のような有様”であるのを見て、深く憐れんだと書かれています。
“飼い主のいない羊”とは、人生の指針を示してくれる人がいないので、どこへ向かって歩めばよいのかもわからず、たださまようだけの人です。
そんな彼らにイエス様は、生き方のはっきりした指針と方向性を示すために、惜しみなく神の言葉を群衆に教えられました。
神の言葉は、私たち人をその生涯にわたって支え、そして導く指針となります。私たちも、(特に今年度の教会標語は“主の御言葉に立つStanding on the Word of the Lord”です)主の御言葉を常に私たちの指針として、信仰の道を歩んでいきましょう。
イエス様は人々を教え続けられましたが、かなり時間がたったので、弟子たちが次のようにイエス様に言いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお応えになりました。
弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。(37節)“そんなこと、どう考えても無理です”と彼らは思ったのでしょう。
二百デナリオンは分かりやすく現在の例に例えれば、約200万円です。そこには男性だけで五千人いたと書かれていますので、女性や子どもも含めれば、その二倍、三倍の人がいたことになります。
私たちは、何か難しい課題に直面すると、それまでの自分の経験や、あるいは常識から判断して“それぐらいなら可能だ”、あるいは“それは無理だ”と判断すると思います。
今ここで、二百デナリオンものパンを買ってきて、これだけの人々に食べ物を与えるなんて、考えるまでもなく無理に決まっている、と人の常識は言うのです。(そんなお金はそもそもない、と常識は言うのです)
しかし、神を信じる信仰者は、人の常識(そもそも人の常識が必ず正しいとは限らないのです)ではなく、神の言葉に信頼して、“御心ならば実現する”という希望の信仰に生きることができます。
イエス様は、今日の箇所で、何をなさったのでしょうか。イエス様は、彼ら(弟子たち)に、パンはいくつあるのかを確認させました。
弟子たちが確かめてくると、パンが五つと魚も二匹ありました。人の目には、“こんなに大勢の群衆に対して、たったこれだけ”という量の食べ物です。
しかし、イエス様にとっては違いました。そこにあったパン五つと二匹の魚は、イエス様エス様にとっては、十分な量でした。
イエス様は、差し出されたパンと魚を手にとって、天を仰いで賛美の祈りを唱えて、そしてパンを裂いて、魚も増やして、弟子たちにお渡しになりました。
弟子たちは、そのパンと魚とが、そこにいた全ての人々に行き渡るようにしました。百人、あるいは50人の組になって座った人々全員が食べて、全員が満腹しました。
これはすごい奇跡です。しかし、そこにいた大勢の人たちは、男性だけで5000人、家族も含めたら、1万数千から2万人だったかもしれません。
それだけの群衆だったので、彼らのうちの多くは、自分たちが食べたパンと魚が、実はイエス様が祈りと祝福で増やしたものだとは気づいてなかったかもしれません。
ただ近くにいた使徒たち、その周りにいた人たちだけが、実はそれは、イエス様が賛美の祈りによって増やしてくださった、もとは5つのパンと二匹の魚だけだった、という真実を知っていたという可能性があります。
そのように想像する時、私たちも、普段私たちに与えられている多くの恵み(神からの恵み)を、神の恵みと気づかずに、ただ受け取っているということがあるのではないか、と思わされます。
私たちの周りには神の恵みが満ちていますが、私たちはイエス様が豊かに与えてくださっているその恵みに気づかず、ただ当たり前のようにそれを受け取っているということがないでしょうか。
私たちは、信仰の目を開いて、私たちに日々、この瞬間も与えられている多くの神の恵みに目を止めましょう。イエス様が賛美の祈りをもって、その恵みをますます増やしてくださっていることを信じましょう。
もしそのように信じるのならば、神の恵みは私たちのものとなります。そして神の恵みを、ただ私たちのうちにとどめておくのではなく、神の恵みは私たち一人ひとりの手を通して、他者へと受け渡されていくことを、神が望んでおられます。
イエス様から与えられる神の恵みに私たちは気づき、そしてその恵みを皆で分かち合い、そして私たちの隣人、他者へと、その恵みを受け渡していく、豊かに与えることのできる信仰者、そしてそのような教会として、私たちは歩んでいきたいと願います。