2025年2月23日 主日礼拝
前奏
招詞 ゼファニア書3章9節
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節
祈祷
宣教 「主は来られる」
祈祷
賛美 新生讃美歌216番 栄えの冠を
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所は、『テサロニケの信徒への手紙一』の4章の中の一部です。
今日の箇所の4章14節前半に、『イエスは死んで復活されたと、わたしたちは信じています』と書かれています。
キリスト者とは、イエス・キリストが人となって生まれ、十字架の上で死に、そして復活したことを信じる者です。
そしてまたキリスト者とは、十字架と復活のキリストによって、自分自身が生かされていることを知っている者です。
キリストが死んで復活したので、そしてそのキリストが今も生きておられるので、私たちは日々希望を頂いて生きることができます。
キリストの復活を信じる者が、キリストの力によって日々生きているその姿はまさに、主の復活を証します。
私たちはキリスト者として、またキリスト教会として、復活の主キリストこそが、私たちを本当に生かし、力と喜びを与えてくださることを日々証していきたいと願います。
復活したキリストはそのお姿を多くの人たちの前に現わし、そして天へと上って行かれました。『使徒言行録』の1章にそのことが書かれています。
イエス様は、再びこの地上においでになるという約束と共に、天に上っていかれました。
その出来事を目撃した人々、またその出来事を伝え聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちは、イエス様は自分たちが生きている間にお戻りになる、と信じていました。
ところがイエス様が天から地上へと戻ってこられる前に、イエス様を信じながらこの地上での生を終える人たちが出てきました。
主を信じつつも、イエス様が戻ってくる前に世を去った(死んだ)人たちは、イエス様が戻ってくるときにどうなるのだろうか(もうその人たちは地上にはいないのだから)、というのが当時のキリストの弟子たちに突き付けられた大変大きな問題の一つでした。
実際に、次のように言って、キリスト教信仰とイエス様が再び来られるということを嘲って言う人たちがいました。
ペトロの手紙二3章4節
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。
主は再び来る、と言いながら、いつまでたっても主はやってこないではないか。世の中何一つ変わっていないではないか。そもそも神など本当におられるのか、という声が、最初のキリスト者たちにも既に投げかけられていたのです。
しかし、同じペトロの手紙二3章8~9節には次のように書かれています。
8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
人間の感覚から言えば、”主イエスは再び来られると約束しておられるのに、いつまでたっても来られない。その約束はまやかしだったのではないか。キリスト信仰そのものも、真実ではないのではないか“という疑いが生じます。
しかし、主のもとでは(With the Lord)“一日は千年のようで、千年は一日のよう”なのです。
主なる神は永遠なるお方ですから、私たちは信仰によって神の永遠という観点から、主の約束を理解しなくてはなりません。
私たちは限りがある人間ですので、永遠であるお方(神)のこと、神のご計画を完全に理解することはできません。
しかし、主は約束を必ず果たしてくださる誠実なお方、と私たちは聖書の御言葉を通して信じることができます。
神の永遠を完全に理解することはできなくても、永遠なる神を信じ、その方の誠実さに信頼をして、生きることはできます。
私達は、私たちを永遠の中に生かしてくださる神の偉大さ、また主は必ず約束を果たしてくださる誠実なお方、ということを常に信じ、生きていきたいと願います。
そして永遠なる主を信じ、主を信頼して生きる生き方を私たちは選び、信仰者同士共に歩むことができる幸いを覚えて感謝をしたいとも願います。
このテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の15節で次のように書いています。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。(15節)
「主の言葉に基づいて According to the Lord’s word」とパウロはここで言います。それは、彼は自分自身で勝手に考え出したことを言っているのではない、と言うことです。
主イエス・キリストが残されたお言葉に基づいて、そして祈り求めた結果自分に与えられたこととして、パウロはここでそのように言うのです。
信仰者であるパウロ自身が信仰の先達たちから伝え聞いた言葉、そして主なる神からの啓示(神から示されたこと)によって彼に主の言葉として知らされたことに基づいて、”先に召された者が復活し、そして生き残っている者も共に天に引き上げられる“とパウロはここで言っています。
今日の箇所で言われていることは、どこか幻想的と言いますか、現実の事として受け取るのが私たちにとっては困難な箇所かもしれません。
しかし、私たちは誰もがいつか必ず、この地上での生を終える者です。
ですから、“この地上での命が尽きても、私たちにはイエス・キリストによって復活の命が与えられている”という希望の信仰を持つことは、大きな恵みであると、私は信じます。
たとえ私たちにははっきりとは分からなくても、私たちの思いや考えをはるかに超えた神の永遠の命に、私たちも生かされるという希望が、イエス・キリストによって私たちには与えられています。
私たちには、今自分たちが生きているこの地上の世界のことしかわかりません。それどころか、目に見えているこの世界のことであっても、分からないことが沢山あるくらいです。
不安定なことが多い世界、どこに確かな希望があると言えばよいのか分からないこと、も多く起きる世界に私は生きています。
しかし、聖書を通して伝えられるイエス・キリストを通してこの世界を見るとき、キリストの復活の力を通してこの世界を見るとき、私たちはそこに確かな希望と生きる力を見い出すことができます。
今日の17節の最後に、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と書かれています。
”わたしたちはいつまでも主とともにいるようになります“~これは、将来私たちに与えられる、将来完全な形で実現する約束です。
そうであるとともに、“主はいつまでも私たちと共にいる”という約束は、既に今実現している約束でもあります。(矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、そうなのです)
主は私たちの目には見えませんが、聖霊を通して私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているからです。
主は聖霊によって、聖書に書かれた言葉が、神から私たちへ今も語りかけられる言葉であるという信仰を与えてくださいます。
主は聖霊によって、聖書の御言葉を霊の糧として、その糧を私たちが分かち合って生きるようにと、今も私たちを導いてくださっています。
主の言葉によって、また主の言葉が分かち合われることによって、私たちは心を震わされ、また大きな励ましと喜びが与えられます。
そのような意味でも、主はいつまでも私たちと共におられる、という約束は今既に実現している約束である、と言ってもよいのです。
今日の箇所最後の18節にこのように書かれています。
ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
今述べた言葉(あるいは、“これらの言葉)とは、主の言葉に基づいて、信仰者であるパウロが語った言葉です。
つまり、主の言葉が、一人の信仰者の生き方を通して、別の言葉、言い方で語られたということです。
そのように、私たちは他の信仰者の言葉を通しても、主なる神の御言葉が確かに私たちを生かし力を与えるものであることを、確信させられます。
先日の礼拝では、二人の姉妹と一人の兄弟が、証と宣教とを担ってくださいました。私はその日、別の教会での礼拝に参加して、直接それらをお聞きすることはできませんでした。
しかし、事前に原稿を通じて、そのお証とメッセージを読むことができました。
実際に声によって届けられるときには、それらはどのように響くのだろうか、などとも想像しながら、私は原稿を読ませていただきました。
それらの証と宣教では、それを語った方々それぞれの信仰の生き方を通して、主の言葉が確かに語られていました。
そして私たちの思いを超えた聖霊の導きがあって、語られたお一人お一人の言葉が、最終的には一つとなって、その日の礼拝全体の恵みとなったと私は信じます。
私たちの主なる神は、み言葉を、信仰者の生き方と言葉を通して世に伝える、と願われました。
福音を世に伝え、また私たちが互いに語られる主の言葉によって生かされ合うように、私たちはキリスト者とされ、そして私達は一つの教会として立てられたのです。
これからも私たちは、主の言葉によって、互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送ってまいりましょう。
主の復活による確かな希望に生かされて、キリストの福音宣教の業にも、私たちは仕えていきたいと願います。
2025年2月22日土曜日
2025年2月15日土曜日
2025年2月16日主日礼拝
前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏
今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。
誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。
”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。
19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。
そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
そして今日の15節には次のように書かれています。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。
キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。
そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。
イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。
キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。
前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏
今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。
誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。
”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。
19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。
そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
そして今日の15節には次のように書かれています。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。
キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。
そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。
イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。
キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。
2025年2月1日土曜日
2025年2月2日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記29章45~46節
賛美 新生讃美歌102番 罪にみてる世界
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 エフェソの信徒への手紙3章14~20節
祈祷
宣教 「わたしたちの心の内にキリストが住む」
祈祷
賛美 新生讃美歌94番 われらは主の民
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の箇所(エフェソの信徒への手紙3章14~20節)は、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまづいて祈ります」という言葉で始まります。
この手紙を書いたとされるパウロは、御父、すなわち神の前にひざまづいて祈る、と言うのです。
続く15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と彼は書いています。
これらの二節は、このパウロが、キリストを信じる前と後とで、一体どれほど変えられたのかを表しています。
パウロは復活のイエス・キリストと出会ってキリスト者となる前は、自他共に認める熱心なユダヤ教徒でした。
最近の私たちの礼拝メッセージでも、何度かそのことを私たちは分かち合いましたが、パウロはキリストを信じる者たちを、激しく迫害さえしていました。
そのような彼が、どのように変えられたか、そしてそのことが今日の箇所の最初の二節の言葉から、いかにして明らかになるのでしょうか。
まず、当時ユダヤ教の祈りでは、立って祈るのが、通常の祈りの姿勢だったようです。
ルカによる福音書18章9~14節に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という話が記されています。
聖書の律法を厳格に守ることで知られていたファリサイ派の人は、“立って”、心の中で次のように祈りました。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
(ルカ18:11~12)
一方、徴税人は遠くに“(彼も)立って”、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら次のように言ったと書かれています。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様は、“義とされて(神様によって正しいと認められ)、家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ人の方ではなかった”とおっしゃいました。
そこでは、ファリサイ派の人も、徴税人も“立って”祈っていました。
パウロは、律法学者のもとで学んだほど、ユダヤ教の厳格な教育を受けた人でした。
ですから、イエス様を信じる前のパウロも、きっと今読んだ、ルカ福音書の中で描かれたファリサイ派の人のような祈りを、”立って“(心の中でも誇り高く)捧げていた、と想像されます。
しかしイエス・キリストに出会い、キリストによって変えられたパウロは、今や神の前にひざまづいて祈る者となりました。
キリストに出会うとは、“私自身の中に、神の前に自信満々に誇るものなど、何もない”と知らされることです。
神の前に誇るものなど何もないと知り、そしてイエス様の話の中の徴税人のように、“神様、罪人のわたしを憐れんでください”としか言えずに、ただ神の憐れみと赦しを求めることが、私たちが神に捧げることができる本当の祈りなのではないでしょうか。
そして、ひざまずいて祈るという姿勢は、神の前にへりくだり、「あなたに何かを願ったり、祈ったりする資格は私にはありませんが、キリストの恵みによって、わたしはあなたに祈ることが許される者となりました」という感謝をも表すと私は思います。
パウロは、キリストを信じることによって、そのようなへりくだった心で祈る者へと変えられ、そしてそのような彼の打ち砕かれた心は神に受け入れられたのです。
15節の「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉も、パウロの信仰に起きた大きな変化を表します。
当時イスラエルの民たちは、神の救いはユダヤ人だけに与えられる、と考えていました。
その考えからすると、「天と地にあるすべての家族が、その名(イエス・キリストの名)を与えられています」という考えは、大きな変化です。
神は、ユダヤ人だけでなく、自分の罪を悔い改めて、神様のもとへ立ち返ろうとする人ならば、ユダヤ人であってもなくても、誰でも救われる、ということが、イエス様を通してはっきりと示された信仰でした。
“イエス・キリストの御名によって、この私が救われた。そしてイエス・キリストの御名による救いは、ユダヤ人だけでなく、全ての民、あらゆる国の信じる人々にも与えられる”という信仰が、パウロをそれまでの彼から大きく変えたのです。
神の救いは、この罪深い私にも与えられた、そして神の救いは私以外の人々にも、ユダヤ人以外の全ての民にも与えられる、という信仰が、パウロをユダヤ人以外の異邦人(外国人)への伝道者としました。
私たちも、罪赦された者として、神の前にへりくだり(実際に祈りの時に、ひざまづくかどうかは別として)、打ち砕かれた心で、救われたことへの感謝と共に、自分以外の他者のためにも熱心に祈る者になりたいと願います。
パウロがエフェソの信徒たちを覚えて祈った内容は次のようなものでした。(16~17節)
16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
私たち人が本当の意味で強くなるのは、神の霊によって私たちの“内なる人”が強められる時です。
“内なる人が強められる”とは“外見の強さや美しさ、外見(見かけ上)の信仰深さとは関係なく、神様との霊的な関係によって、人の心と魂の中に与えられる霊的で新しい命”と言ってよいと私は思います。
真の神様との関係によってこそ、私たち人は本当に強くなることができます。自分の経験とか、自分で自分を鍛錬して強くなる、というのではありません。
神の御言葉によって養われ、祈りによって常に神と会話をさせて頂き、そして聖霊の力が与えられることで、私たちは強くなることができるのです。
そして神への信仰によって、神はキリストを私たちの心の内に住まわせてくださいます。そして私たちをキリストの愛の上にしっかりと立たせてくださるのです。
この私は弱くても、神の強さ、キリストの愛が、愛のないこの私をも土台から支えてくださるので、私はそのキリストの愛によって揺るがない、というのがキリスト者に与えられる平安です。
パウロは、”(御父:父なる神が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように“と祈っています。
キリストが私たちの心に“住む”ようにと、ここでは祈られています。“住む”というのは、“一時的に滞在する”という意味ではありません。
ここでは、キリストがあなた方の心の内に“ずっと住んでくださいますように(定住してくださいますように)”という意味です。
また、“信仰によって”キリストを住まわせ、とは神が私たちの心の扉を無理やり開けて、強引に私たちの心にキリストを住まわせるというのではない、ということです。
そうではなく、私たちが神の呼びかけに応え、自らの決心によって心の扉を開き、キリストを自分の心の中に迎え入れるということ、それが”信仰により“という言葉の意味です。
キリスト者であるとは、そのようにして(神からの呼びかけ、招きに応えて)イエス・キリストが常に心の内に住んでくださっている者なのです。
教会に来て、こうして礼拝している時だけでなく、もちろん教会を出て、私たちが普段の生活を送る中でも、イエス・キリストは信仰によって私たちの心の内に住んでくださっています。
私たちが心を開き、イエス様を自分の中にお迎えする限り、常にイエス様は私たちの心の中に住んでくださり、私たちをそのご愛の上に立たせてくださるのです。
このような信仰を、私たちは決して手放すことなく、神の前に身を低くして、常にキリストに心の内に住んでいただくように、と互いに祈り合わせたいと願います。
そして、いつも私たちの心の中にキリストが住んでいてくださるのですから、私たちは恐れることなく、また愛を失うことなく、日々を歩いて行けるのだと確信をいたしましょう。
18~19節をお読みします。
18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、あまりに偉大でそれを完全に知ることは私たちにはできません。
しかし、偉大な神のご愛が確かにあり、その愛が私たちに注がれている、ということは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったという事実にはっきり示されています。
そしてキリストの十字架による救いの事実が、大きな希望と喜びとなって今も私たちを支えている、という事からも、”神の偉大な愛は(それを私たちは完全に理解することはできなくても)確かにある“と私たちは信じることができます。
そのような神の愛を私たちは”共に”知り、神の満ち溢れる豊かさに私たちは”共に“あずかり、そしてそのような神の愛に私たちは”共に”満たされるのです。
パウロは今日の箇所で、エフェソの教会の信徒たち“あなたがた(複数形)”に向けて祈っています。誰か個人にだけ彼は祈っているのではありません。
イエス・キリストの愛と救いは、教会の交わりの中で、まず同じ神を信じる信徒同士の信仰の交わりの中で、分かち合われるものなのです。
私たちはキリストの身体である教会として、“神の溢れる愛に、私たちが共に満たされるように”と言う祈りが、私たちお互いの間で共通の、そして共同の祈りとなるようにと願います。
神の愛で私たちが共に満たされる、神の愛が分かち合われる、という恵みは、まさに教会だけが与えられている恵みの特権であると、私は信じます。
今日の20節に、パウロは神を“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方”と言っています。
私たちの神はイエス・キリストを通して私たちの祈りと願いを聞いてくださるお方です。
そして神は、私たちが祈り、また求め思ったりすることを、“わたしたちの内に働く御力によって”はるかに超えてかなえることがおできになる方、なのです。
今私たちがこうして礼拝を捧げている対象であるそのお方は、私たち(人間)のうちに、神の力を働かせてくださり、それを通して私たちが願い、思うことをはるかに超える偉大な御業を成し遂げてくださるお方なのです。
私たちは、イエス・キリストを通して、それほどまでに偉大なお方、そして御子イエス・キリストの命を私たちの救いのためにお与えくださったほどに愛に溢れた真の神を、知らされている、ということです。
そして私たち一人ひとりは、また私たちの教会は、イエス・キリストの身体として、そのような偉大な神の御力がその内に働いてくださる器としても用いられるのです。
そのような尊い、また驚きの働きを私たちキリストにある信仰者、そして教会は委ねられています。なんと光栄な、また力と喜びを私たちにもたらす働きでしょうか。
ですから私たちは、一日一日を、神の力がますます表され、また神に全てのご栄光が返されることのために、歩んでいこうではありませんか。
前奏
招詞 出エジプト記29章45~46節
賛美 新生讃美歌102番 罪にみてる世界
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 エフェソの信徒への手紙3章14~20節
祈祷
宣教 「わたしたちの心の内にキリストが住む」
祈祷
賛美 新生讃美歌94番 われらは主の民
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
今日の箇所(エフェソの信徒への手紙3章14~20節)は、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまづいて祈ります」という言葉で始まります。
この手紙を書いたとされるパウロは、御父、すなわち神の前にひざまづいて祈る、と言うのです。
続く15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と彼は書いています。
これらの二節は、このパウロが、キリストを信じる前と後とで、一体どれほど変えられたのかを表しています。
パウロは復活のイエス・キリストと出会ってキリスト者となる前は、自他共に認める熱心なユダヤ教徒でした。
最近の私たちの礼拝メッセージでも、何度かそのことを私たちは分かち合いましたが、パウロはキリストを信じる者たちを、激しく迫害さえしていました。
そのような彼が、どのように変えられたか、そしてそのことが今日の箇所の最初の二節の言葉から、いかにして明らかになるのでしょうか。
まず、当時ユダヤ教の祈りでは、立って祈るのが、通常の祈りの姿勢だったようです。
ルカによる福音書18章9~14節に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という話が記されています。
聖書の律法を厳格に守ることで知られていたファリサイ派の人は、“立って”、心の中で次のように祈りました。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
(ルカ18:11~12)
一方、徴税人は遠くに“(彼も)立って”、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら次のように言ったと書かれています。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様は、“義とされて(神様によって正しいと認められ)、家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ人の方ではなかった”とおっしゃいました。
そこでは、ファリサイ派の人も、徴税人も“立って”祈っていました。
パウロは、律法学者のもとで学んだほど、ユダヤ教の厳格な教育を受けた人でした。
ですから、イエス様を信じる前のパウロも、きっと今読んだ、ルカ福音書の中で描かれたファリサイ派の人のような祈りを、”立って“(心の中でも誇り高く)捧げていた、と想像されます。
しかしイエス・キリストに出会い、キリストによって変えられたパウロは、今や神の前にひざまづいて祈る者となりました。
キリストに出会うとは、“私自身の中に、神の前に自信満々に誇るものなど、何もない”と知らされることです。
神の前に誇るものなど何もないと知り、そしてイエス様の話の中の徴税人のように、“神様、罪人のわたしを憐れんでください”としか言えずに、ただ神の憐れみと赦しを求めることが、私たちが神に捧げることができる本当の祈りなのではないでしょうか。
そして、ひざまずいて祈るという姿勢は、神の前にへりくだり、「あなたに何かを願ったり、祈ったりする資格は私にはありませんが、キリストの恵みによって、わたしはあなたに祈ることが許される者となりました」という感謝をも表すと私は思います。
パウロは、キリストを信じることによって、そのようなへりくだった心で祈る者へと変えられ、そしてそのような彼の打ち砕かれた心は神に受け入れられたのです。
15節の「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉も、パウロの信仰に起きた大きな変化を表します。
当時イスラエルの民たちは、神の救いはユダヤ人だけに与えられる、と考えていました。
その考えからすると、「天と地にあるすべての家族が、その名(イエス・キリストの名)を与えられています」という考えは、大きな変化です。
神は、ユダヤ人だけでなく、自分の罪を悔い改めて、神様のもとへ立ち返ろうとする人ならば、ユダヤ人であってもなくても、誰でも救われる、ということが、イエス様を通してはっきりと示された信仰でした。
“イエス・キリストの御名によって、この私が救われた。そしてイエス・キリストの御名による救いは、ユダヤ人だけでなく、全ての民、あらゆる国の信じる人々にも与えられる”という信仰が、パウロをそれまでの彼から大きく変えたのです。
神の救いは、この罪深い私にも与えられた、そして神の救いは私以外の人々にも、ユダヤ人以外の全ての民にも与えられる、という信仰が、パウロをユダヤ人以外の異邦人(外国人)への伝道者としました。
私たちも、罪赦された者として、神の前にへりくだり(実際に祈りの時に、ひざまづくかどうかは別として)、打ち砕かれた心で、救われたことへの感謝と共に、自分以外の他者のためにも熱心に祈る者になりたいと願います。
パウロがエフェソの信徒たちを覚えて祈った内容は次のようなものでした。(16~17節)
16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
私たち人が本当の意味で強くなるのは、神の霊によって私たちの“内なる人”が強められる時です。
“内なる人が強められる”とは“外見の強さや美しさ、外見(見かけ上)の信仰深さとは関係なく、神様との霊的な関係によって、人の心と魂の中に与えられる霊的で新しい命”と言ってよいと私は思います。
真の神様との関係によってこそ、私たち人は本当に強くなることができます。自分の経験とか、自分で自分を鍛錬して強くなる、というのではありません。
神の御言葉によって養われ、祈りによって常に神と会話をさせて頂き、そして聖霊の力が与えられることで、私たちは強くなることができるのです。
そして神への信仰によって、神はキリストを私たちの心の内に住まわせてくださいます。そして私たちをキリストの愛の上にしっかりと立たせてくださるのです。
この私は弱くても、神の強さ、キリストの愛が、愛のないこの私をも土台から支えてくださるので、私はそのキリストの愛によって揺るがない、というのがキリスト者に与えられる平安です。
パウロは、”(御父:父なる神が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように“と祈っています。
キリストが私たちの心に“住む”ようにと、ここでは祈られています。“住む”というのは、“一時的に滞在する”という意味ではありません。
ここでは、キリストがあなた方の心の内に“ずっと住んでくださいますように(定住してくださいますように)”という意味です。
また、“信仰によって”キリストを住まわせ、とは神が私たちの心の扉を無理やり開けて、強引に私たちの心にキリストを住まわせるというのではない、ということです。
そうではなく、私たちが神の呼びかけに応え、自らの決心によって心の扉を開き、キリストを自分の心の中に迎え入れるということ、それが”信仰により“という言葉の意味です。
キリスト者であるとは、そのようにして(神からの呼びかけ、招きに応えて)イエス・キリストが常に心の内に住んでくださっている者なのです。
教会に来て、こうして礼拝している時だけでなく、もちろん教会を出て、私たちが普段の生活を送る中でも、イエス・キリストは信仰によって私たちの心の内に住んでくださっています。
私たちが心を開き、イエス様を自分の中にお迎えする限り、常にイエス様は私たちの心の中に住んでくださり、私たちをそのご愛の上に立たせてくださるのです。
このような信仰を、私たちは決して手放すことなく、神の前に身を低くして、常にキリストに心の内に住んでいただくように、と互いに祈り合わせたいと願います。
そして、いつも私たちの心の中にキリストが住んでいてくださるのですから、私たちは恐れることなく、また愛を失うことなく、日々を歩いて行けるのだと確信をいたしましょう。
18~19節をお読みします。
18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、あまりに偉大でそれを完全に知ることは私たちにはできません。
しかし、偉大な神のご愛が確かにあり、その愛が私たちに注がれている、ということは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったという事実にはっきり示されています。
そしてキリストの十字架による救いの事実が、大きな希望と喜びとなって今も私たちを支えている、という事からも、”神の偉大な愛は(それを私たちは完全に理解することはできなくても)確かにある“と私たちは信じることができます。
そのような神の愛を私たちは”共に”知り、神の満ち溢れる豊かさに私たちは”共に“あずかり、そしてそのような神の愛に私たちは”共に”満たされるのです。
パウロは今日の箇所で、エフェソの教会の信徒たち“あなたがた(複数形)”に向けて祈っています。誰か個人にだけ彼は祈っているのではありません。
イエス・キリストの愛と救いは、教会の交わりの中で、まず同じ神を信じる信徒同士の信仰の交わりの中で、分かち合われるものなのです。
私たちはキリストの身体である教会として、“神の溢れる愛に、私たちが共に満たされるように”と言う祈りが、私たちお互いの間で共通の、そして共同の祈りとなるようにと願います。
神の愛で私たちが共に満たされる、神の愛が分かち合われる、という恵みは、まさに教会だけが与えられている恵みの特権であると、私は信じます。
今日の20節に、パウロは神を“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方”と言っています。
私たちの神はイエス・キリストを通して私たちの祈りと願いを聞いてくださるお方です。
そして神は、私たちが祈り、また求め思ったりすることを、“わたしたちの内に働く御力によって”はるかに超えてかなえることがおできになる方、なのです。
今私たちがこうして礼拝を捧げている対象であるそのお方は、私たち(人間)のうちに、神の力を働かせてくださり、それを通して私たちが願い、思うことをはるかに超える偉大な御業を成し遂げてくださるお方なのです。
私たちは、イエス・キリストを通して、それほどまでに偉大なお方、そして御子イエス・キリストの命を私たちの救いのためにお与えくださったほどに愛に溢れた真の神を、知らされている、ということです。
そして私たち一人ひとりは、また私たちの教会は、イエス・キリストの身体として、そのような偉大な神の御力がその内に働いてくださる器としても用いられるのです。
そのような尊い、また驚きの働きを私たちキリストにある信仰者、そして教会は委ねられています。なんと光栄な、また力と喜びを私たちにもたらす働きでしょうか。
ですから私たちは、一日一日を、神の力がますます表され、また神に全てのご栄光が返されることのために、歩んでいこうではありませんか。
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