2025年2月1日土曜日

2025年2月2日 主日礼拝

前奏
招詞 出エジプト記29章45~46節
賛美 新生讃美歌102番 罪にみてる世界
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句  エフェソの信徒への手紙3章14~20節
祈祷
宣教 「わたしたちの心の内にキリストが住む」
祈祷
賛美  新生讃美歌94番 われらは主の民
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏

 今日の箇所(エフェソの信徒への手紙3章14~20節)は、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまづいて祈ります」という言葉で始まります。
 この手紙を書いたとされるパウロは、御父、すなわち神の前にひざまづいて祈る、と言うのです。
続く15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と彼は書いています。
 これらの二節は、このパウロが、キリストを信じる前と後とで、一体どれほど変えられたのかを表しています。
 パウロは復活のイエス・キリストと出会ってキリスト者となる前は、自他共に認める熱心なユダヤ教徒でした。

最近の私たちの礼拝メッセージでも、何度かそのことを私たちは分かち合いましたが、パウロはキリストを信じる者たちを、激しく迫害さえしていました。
 そのような彼が、どのように変えられたか、そしてそのことが今日の箇所の最初の二節の言葉から、いかにして明らかになるのでしょうか。
まず、当時ユダヤ教の祈りでは、立って祈るのが、通常の祈りの姿勢だったようです。
ルカによる福音書18章9~14節に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という話が記されています。
聖書の律法を厳格に守ることで知られていたファリサイ派の人は、“立って”、心の中で次のように祈りました。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
(ルカ18:11~12)

一方、徴税人は遠くに“(彼も)立って”、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら次のように言ったと書かれています。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様は、“義とされて(神様によって正しいと認められ)、家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ人の方ではなかった”とおっしゃいました。
そこでは、ファリサイ派の人も、徴税人も“立って”祈っていました。
 パウロは、律法学者のもとで学んだほど、ユダヤ教の厳格な教育を受けた人でした。
ですから、イエス様を信じる前のパウロも、きっと今読んだ、ルカ福音書の中で描かれたファリサイ派の人のような祈りを、”立って“(心の中でも誇り高く)捧げていた、と想像されます。
 しかしイエス・キリストに出会い、キリストによって変えられたパウロは、今や神の前にひざまづいて祈る者となりました。

キリストに出会うとは、“私自身の中に、神の前に自信満々に誇るものなど、何もない”と知らされることです。
神の前に誇るものなど何もないと知り、そしてイエス様の話の中の徴税人のように、“神様、罪人のわたしを憐れんでください”としか言えずに、ただ神の憐れみと赦しを求めることが、私たちが神に捧げることができる本当の祈りなのではないでしょうか。
そして、ひざまずいて祈るという姿勢は、神の前にへりくだり、「あなたに何かを願ったり、祈ったりする資格は私にはありませんが、キリストの恵みによって、わたしはあなたに祈ることが許される者となりました」という感謝をも表すと私は思います。
パウロは、キリストを信じることによって、そのようなへりくだった心で祈る者へと変えられ、そしてそのような彼の打ち砕かれた心は神に受け入れられたのです。

15節の「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という言葉も、パウロの信仰に起きた大きな変化を表します。
当時イスラエルの民たちは、神の救いはユダヤ人だけに与えられる、と考えていました。
その考えからすると、「天と地にあるすべての家族が、その名(イエス・キリストの名)を与えられています」という考えは、大きな変化です。
 神は、ユダヤ人だけでなく、自分の罪を悔い改めて、神様のもとへ立ち返ろうとする人ならば、ユダヤ人であってもなくても、誰でも救われる、ということが、イエス様を通してはっきりと示された信仰でした。
 “イエス・キリストの御名によって、この私が救われた。そしてイエス・キリストの御名による救いは、ユダヤ人だけでなく、全ての民、あらゆる国の信じる人々にも与えられる”という信仰が、パウロをそれまでの彼から大きく変えたのです。
 神の救いは、この罪深い私にも与えられた、そして神の救いは私以外の人々にも、ユダヤ人以外の全ての民にも与えられる、という信仰が、パウロをユダヤ人以外の異邦人(外国人)への伝道者としました。
 私たちも、罪赦された者として、神の前にへりくだり(実際に祈りの時に、ひざまづくかどうかは別として)、打ち砕かれた心で、救われたことへの感謝と共に、自分以外の他者のためにも熱心に祈る者になりたいと願います。

パウロがエフェソの信徒たちを覚えて祈った内容は次のようなものでした。(16~17節)

16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

 私たち人が本当の意味で強くなるのは、神の霊によって私たちの“内なる人”が強められる時です。
“内なる人が強められる”とは“外見の強さや美しさ、外見(見かけ上)の信仰深さとは関係なく、神様との霊的な関係によって、人の心と魂の中に与えられる霊的で新しい命”と言ってよいと私は思います。
真の神様との関係によってこそ、私たち人は本当に強くなることができます。自分の経験とか、自分で自分を鍛錬して強くなる、というのではありません。
神の御言葉によって養われ、祈りによって常に神と会話をさせて頂き、そして聖霊の力が与えられることで、私たちは強くなることができるのです。
そして神への信仰によって、神はキリストを私たちの心の内に住まわせてくださいます。そして私たちをキリストの愛の上にしっかりと立たせてくださるのです。
この私は弱くても、神の強さ、キリストの愛が、愛のないこの私をも土台から支えてくださるので、私はそのキリストの愛によって揺るがない、というのがキリスト者に与えられる平安です。

パウロは、”(御父:父なる神が)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように“と祈っています。
キリストが私たちの心に“住む”ようにと、ここでは祈られています。“住む”というのは、“一時的に滞在する”という意味ではありません。
ここでは、キリストがあなた方の心の内に“ずっと住んでくださいますように(定住してくださいますように)”という意味です。
 また、“信仰によって”キリストを住まわせ、とは神が私たちの心の扉を無理やり開けて、強引に私たちの心にキリストを住まわせるというのではない、ということです。

 そうではなく、私たちが神の呼びかけに応え、自らの決心によって心の扉を開き、キリストを自分の心の中に迎え入れるということ、それが”信仰により“という言葉の意味です。
キリスト者であるとは、そのようにして(神からの呼びかけ、招きに応えて)イエス・キリストが常に心の内に住んでくださっている者なのです。
教会に来て、こうして礼拝している時だけでなく、もちろん教会を出て、私たちが普段の生活を送る中でも、イエス・キリストは信仰によって私たちの心の内に住んでくださっています。
 私たちが心を開き、イエス様を自分の中にお迎えする限り、常にイエス様は私たちの心の中に住んでくださり、私たちをそのご愛の上に立たせてくださるのです。
 このような信仰を、私たちは決して手放すことなく、神の前に身を低くして、常にキリストに心の内に住んでいただくように、と互いに祈り合わせたいと願います。
 そして、いつも私たちの心の中にキリストが住んでいてくださるのですから、私たちは恐れることなく、また愛を失うことなく、日々を歩いて行けるのだと確信をいたしましょう。

18~19節をお読みします。
18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、あまりに偉大でそれを完全に知ることは私たちにはできません。
しかし、偉大な神のご愛が確かにあり、その愛が私たちに注がれている、ということは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったという事実にはっきり示されています。
そしてキリストの十字架による救いの事実が、大きな希望と喜びとなって今も私たちを支えている、という事からも、”神の偉大な愛は(それを私たちは完全に理解することはできなくても)確かにある“と私たちは信じることができます。
そのような神の愛を私たちは”共に”知り、神の満ち溢れる豊かさに私たちは”共に“あずかり、そしてそのような神の愛に私たちは”共に”満たされるのです。
パウロは今日の箇所で、エフェソの教会の信徒たち“あなたがた(複数形)”に向けて祈っています。誰か個人にだけ彼は祈っているのではありません。
イエス・キリストの愛と救いは、教会の交わりの中で、まず同じ神を信じる信徒同士の信仰の交わりの中で、分かち合われるものなのです。

私たちはキリストの身体である教会として、“神の溢れる愛に、私たちが共に満たされるように”と言う祈りが、私たちお互いの間で共通の、そして共同の祈りとなるようにと願います。
神の愛で私たちが共に満たされる、神の愛が分かち合われる、という恵みは、まさに教会だけが与えられている恵みの特権であると、私は信じます。
今日の20節に、パウロは神を“わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方”と言っています。
私たちの神はイエス・キリストを通して私たちの祈りと願いを聞いてくださるお方です。
そして神は、私たちが祈り、また求め思ったりすることを、“わたしたちの内に働く御力によって”はるかに超えてかなえることがおできになる方、なのです。
 今私たちがこうして礼拝を捧げている対象であるそのお方は、私たち(人間)のうちに、神の力を働かせてくださり、それを通して私たちが願い、思うことをはるかに超える偉大な御業を成し遂げてくださるお方なのです。
 私たちは、イエス・キリストを通して、それほどまでに偉大なお方、そして御子イエス・キリストの命を私たちの救いのためにお与えくださったほどに愛に溢れた真の神を、知らされている、ということです。
 そして私たち一人ひとりは、また私たちの教会は、イエス・キリストの身体として、そのような偉大な神の御力がその内に働いてくださる器としても用いられるのです。
 そのような尊い、また驚きの働きを私たちキリストにある信仰者、そして教会は委ねられています。なんと光栄な、また力と喜びを私たちにもたらす働きでしょうか。
ですから私たちは、一日一日を、神の力がますます表され、また神に全てのご栄光が返されることのために、歩んでいこうではありませんか。