2025年2月22日土曜日

2025年2月23日 主日礼拝

前奏
招詞 ゼファニア書3章9節
賛美 新生讃美歌260番 み言葉もて霊の火を
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句  テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節
祈祷
宣教  「主は来られる」
祈祷
賛美 新生讃美歌216番 栄えの冠を
頌栄 新生讃美歌672番 
祝祷
後奏


今日の聖書箇所は、『テサロニケの信徒への手紙一』の4章の中の一部です。
今日の箇所の4章14節前半に、『イエスは死んで復活されたと、わたしたちは信じています』と書かれています。
キリスト者とは、イエス・キリストが人となって生まれ、十字架の上で死に、そして復活したことを信じる者です。
そしてまたキリスト者とは、十字架と復活のキリストによって、自分自身が生かされていることを知っている者です。
キリストが死んで復活したので、そしてそのキリストが今も生きておられるので、私たちは日々希望を頂いて生きることができます。

キリストの復活を信じる者が、キリストの力によって日々生きているその姿はまさに、主の復活を証します。
私たちはキリスト者として、またキリスト教会として、復活の主キリストこそが、私たちを本当に生かし、力と喜びを与えてくださることを日々証していきたいと願います。
 復活したキリストはそのお姿を多くの人たちの前に現わし、そして天へと上って行かれました。『使徒言行録』の1章にそのことが書かれています。
 イエス様は、再びこの地上においでになるという約束と共に、天に上っていかれました。
 その出来事を目撃した人々、またその出来事を伝え聞いてイエス・キリストを信じるようになった人たちは、イエス様は自分たちが生きている間にお戻りになる、と信じていました。
 ところがイエス様が天から地上へと戻ってこられる前に、イエス様を信じながらこの地上での生を終える人たちが出てきました。
 主を信じつつも、イエス様が戻ってくる前に世を去った(死んだ)人たちは、イエス様が戻ってくるときにどうなるのだろうか(もうその人たちは地上にはいないのだから)、というのが当時のキリストの弟子たちに突き付けられた大変大きな問題の一つでした。

 実際に、次のように言って、キリスト教信仰とイエス様が再び来られるということを嘲って言う人たちがいました。

ペトロの手紙二3章4節
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。

 主は再び来る、と言いながら、いつまでたっても主はやってこないではないか。世の中何一つ変わっていないではないか。そもそも神など本当におられるのか、という声が、最初のキリスト者たちにも既に投げかけられていたのです。
 しかし、同じペトロの手紙二3章8~9節には次のように書かれています。

8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

人間の感覚から言えば、”主イエスは再び来られると約束しておられるのに、いつまでたっても来られない。その約束はまやかしだったのではないか。キリスト信仰そのものも、真実ではないのではないか“という疑いが生じます。
しかし、主のもとでは(With the Lord)“一日は千年のようで、千年は一日のよう”なのです。
主なる神は永遠なるお方ですから、私たちは信仰によって神の永遠という観点から、主の約束を理解しなくてはなりません。
私たちは限りがある人間ですので、永遠であるお方(神)のこと、神のご計画を完全に理解することはできません。
しかし、主は約束を必ず果たしてくださる誠実なお方、と私たちは聖書の御言葉を通して信じることができます。

神の永遠を完全に理解することはできなくても、永遠なる神を信じ、その方の誠実さに信頼をして、生きることはできます。
私達は、私たちを永遠の中に生かしてくださる神の偉大さ、また主は必ず約束を果たしてくださる誠実なお方、ということを常に信じ、生きていきたいと願います。
そして永遠なる主を信じ、主を信頼して生きる生き方を私たちは選び、信仰者同士共に歩むことができる幸いを覚えて感謝をしたいとも願います。
このテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の15節で次のように書いています。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。(15節)

「主の言葉に基づいて According to the Lord’s word」とパウロはここで言います。それは、彼は自分自身で勝手に考え出したことを言っているのではない、と言うことです。
 主イエス・キリストが残されたお言葉に基づいて、そして祈り求めた結果自分に与えられたこととして、パウロはここでそのように言うのです。
 信仰者であるパウロ自身が信仰の先達たちから伝え聞いた言葉、そして主なる神からの啓示(神から示されたこと)によって彼に主の言葉として知らされたことに基づいて、”先に召された者が復活し、そして生き残っている者も共に天に引き上げられる“とパウロはここで言っています。
  今日の箇所で言われていることは、どこか幻想的と言いますか、現実の事として受け取るのが私たちにとっては困難な箇所かもしれません。
 しかし、私たちは誰もがいつか必ず、この地上での生を終える者です。

ですから、“この地上での命が尽きても、私たちにはイエス・キリストによって復活の命が与えられている”という希望の信仰を持つことは、大きな恵みであると、私は信じます。
 たとえ私たちにははっきりとは分からなくても、私たちの思いや考えをはるかに超えた神の永遠の命に、私たちも生かされるという希望が、イエス・キリストによって私たちには与えられています。
私たちには、今自分たちが生きているこの地上の世界のことしかわかりません。それどころか、目に見えているこの世界のことであっても、分からないことが沢山あるくらいです。
 不安定なことが多い世界、どこに確かな希望があると言えばよいのか分からないこと、も多く起きる世界に私は生きています。
 しかし、聖書を通して伝えられるイエス・キリストを通してこの世界を見るとき、キリストの復活の力を通してこの世界を見るとき、私たちはそこに確かな希望と生きる力を見い出すことができます。

  今日の17節の最後に、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と書かれています。
 ”わたしたちはいつまでも主とともにいるようになります“~これは、将来私たちに与えられる、将来完全な形で実現する約束です。
 そうであるとともに、“主はいつまでも私たちと共にいる”という約束は、既に今実現している約束でもあります。(矛盾した言い方に聞こえるかもしれませんが、そうなのです)
 主は私たちの目には見えませんが、聖霊を通して私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださっているからです。
  主は聖霊によって、聖書に書かれた言葉が、神から私たちへ今も語りかけられる言葉であるという信仰を与えてくださいます。
  主は聖霊によって、聖書の御言葉を霊の糧として、その糧を私たちが分かち合って生きるようにと、今も私たちを導いてくださっています。
  主の言葉によって、また主の言葉が分かち合われることによって、私たちは心を震わされ、また大きな励ましと喜びが与えられます。

 そのような意味でも、主はいつまでも私たちと共におられる、という約束は今既に実現している約束である、と言ってもよいのです。

 今日の箇所最後の18節にこのように書かれています。
  ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
 今述べた言葉(あるいは、“これらの言葉)とは、主の言葉に基づいて、信仰者であるパウロが語った言葉です。
 つまり、主の言葉が、一人の信仰者の生き方を通して、別の言葉、言い方で語られたということです。
 そのように、私たちは他の信仰者の言葉を通しても、主なる神の御言葉が確かに私たちを生かし力を与えるものであることを、確信させられます。
先日の礼拝では、二人の姉妹と一人の兄弟が、証と宣教とを担ってくださいました。私はその日、別の教会での礼拝に参加して、直接それらをお聞きすることはできませんでした。
しかし、事前に原稿を通じて、そのお証とメッセージを読むことができました。
実際に声によって届けられるときには、それらはどのように響くのだろうか、などとも想像しながら、私は原稿を読ませていただきました。
 それらの証と宣教では、それを語った方々それぞれの信仰の生き方を通して、主の言葉が確かに語られていました。
 そして私たちの思いを超えた聖霊の導きがあって、語られたお一人お一人の言葉が、最終的には一つとなって、その日の礼拝全体の恵みとなったと私は信じます。
 私たちの主なる神は、み言葉を、信仰者の生き方と言葉を通して世に伝える、と願われました。
福音を世に伝え、また私たちが互いに語られる主の言葉によって生かされ合うように、私たちはキリスト者とされ、そして私達は一つの教会として立てられたのです。
これからも私たちは、主の言葉によって、互いに励まし合いながら、信仰生活を共に送ってまいりましょう。
主の復活による確かな希望に生かされて、キリストの福音宣教の業にも、私たちは仕えていきたいと願います。