2025年2月16日主日礼拝
前奏
招詞 ヨシュア記23章14節
賛美 新生讃美歌 124番 この世はみな
主の祈り
賛美 新生讃美歌 384番 語り伝えよ 神のみ言葉
献金
聖句 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
祈祷
宣教 「キリストの平和」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祈祷
後奏
今日の聖書箇所は、今お読みいただいた、新約聖書の中の『コロサイの信徒への手紙』3章からの御言葉です。
この箇所の中心となる言葉、そして私が今日のメッセージの題にもしました大切な言葉は、「キリストの平和」です。
神の御子(息子)イエス・キリストは、私たちに本当に多くの、数えきれないほどの恵みを与えてくださいました。
キリストによる恵みの一つが”平和“です。平和が尊い、大切なものであることは、私たち皆が理解している、分かっている(平和に反対する人はいない)と私は思います。
誰もが平和を望みながら、なぜ世界には、あるいはまた私たちの身の回りでも、とても平和とは言えない状況(戦争やその他大小の争い)が、絶えず起こり続けるのでしょうか。
私たちは、社会の中でおこる凶悪な犯罪や、また連日ニュースでも伝えられる激しく悲惨な戦争、それによって尊い多くの命が失われている事実を聞くたびに、ただ失望するしかないという思いにもとらわれます。
”平和など夢物語“だと言って、私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書の御言葉の中に、そして聖書を通して伝えられるイエス・キリストの中に、「決して平和は失われてはいない。平和はここにある」という希望の知らせを聞くことができます。
イエス様は、どのようにして、平和を私たちに与えてくださったのでしょうか。今日の箇所と同じコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。
19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
「神は御子(イエス・キリスト)の十字架の血によって、平和を打ち立てた」と、ここにはっきりと書かれています。
ですから、私たちの目には、平和はいまだに実現していない出来事のように見えますが、イエス・キリストの十字架の出来事から見れば、神はそれによって既に平和を打ち立て、成し遂げてくださった、と言えるのです。
キリストの十字架の血(すなわちキリストの死)は、私たち人間が、神と和解することが出来るための恵みの出来事でした。
わたしたちは神によって創造され、神の栄光のもとに、神との豊かな関係の中で、喜びを持って生きる者でした。
しかしそんな私たちに罪が入り込み、神から私たちは自ら離れてしまいました。聖書の言う人の罪は、そのように人間が神から離れて、神を避け、自分中心に生きるようになったことから始まりました。
そして本来神と共に、神との関係の中で生きるように造られた私たちが、神から離れて自分本位に生きようとし始めたので、本当の平和からも私たちは遠ざかるようになってしまいました。
神の言葉によって、また神の知恵によって養われて、私たちは霊的にも豊かな命を生きることができるのに、神以外のものに頼って生きるようとするならば、そこには本当の平安、平和はありません。
わたしたちは神の御子イエス・キリストの十字架の出来事によって、平和が打ち立てられた、という聖書の使信(メッセージ)に、今こそ確信と信頼を寄せたいと願います。
キリストの十字架によって、神が私たちを真の平和へと招いてくださっています。キリストにこそ真の平和がある、という真実を私たちは信じていきたいと願います。
そして今日の15節には次のように書かれています。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
キリストの平和が私たちの心を支配するように、と今日の箇所は促します。そしてこの平和(キリストの平和)にあずからせるために、人は招かれて一つの体とされた、ともこの箇所は言います。
ここで”一つの体“と言われているのは教会です。それはキリスト教会のことです。なぜ私たちは教会に繋がるのでしょうか。それはキリストの体である教会の一部(一員)となることで、私たちがキリストの平和を自分たちのものとして頂くためです。
十字架のイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事により打ち立てられた平和を信じるので、その平和にあずかるために、私たちは教会へと繋がり、教会の一部となって信仰生活を送るのです。
神は独り子のイエス様を私たちにお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。イエス様のその愛によって、私たちは自分がどれほど特別な者であるのかを知ることができます。
キリストを通して、キリストの御愛を通して、私たちが自分自身の特別さ、尊さを知るとき、その思いは、私たちを自分以外の他者をも愛する者へと変えていきます。
キリストがこの私の罪を赦し、神と和解して再び神との平和の中で生きることを赦してくださったことに私たちが感謝する時、私たちはきっと他者に対しても、愛と赦しの心を持てるようになる、というのが聖書の伝える希望のメッセージです。
キリストの愛と平和を信じ、それが実践されるのが、キリストの体なる教会です。
私自身が教会に受け入れられるようになり、教会の一員となることができた、その歩みを振り返るとき、確かに神からの愛と赦し、寛容、忍耐が教会の人々を通して私に与えられてきた、ということを私は認めなくてはなりません。
最初に教会に行き始めた頃の私は、教会の皆さんに対して本当に無礼で、ぶっきらぼうな態度を取っていました。なぜなら、私はキリスト教に対して大変な反感を持っていたからです。
当時交際していた女性(今の妻)が強く誘い、勧めるので、最初は仕方なく教会の礼拝に私は通っていたのです。よく言えば正直な私は、そんな自分の気持ちを隠すことができず、キリスト教への反感が私の態度にはっきりと表れていたのだと思います。
最初に妻に誘われて一緒に通った教会は、私たちが留学していたアメリカの教会でした。それから何年かたってから(私がクリスチャンになってから)、その時の牧師であった先生から「最初教会に来たころの君は、あまりにぶっきらぼうで、実は君のことを私はあきらめていたんだよ」とおっしゃいました。
そんな私を本当に忍耐強く受け入れてくれたのは、教会のその他の兄弟姉妹たちでした。アメリカの教会でも、そして日本に戻ってから通った教会でも、私のことを寛容と忍耐、赦しの心で私を受け入れてくれた兄弟姉妹がいました。
アメリカでは、私を自宅に招いてくれて、聖書を忍耐強く教えてくださる方々もいました。
名古屋の教会では、本当に生意気な青年だった私のために、私の目の前で「どうかこの青年に分かる方法で、あなたがイエス様を彼に伝えてあげてください」と本気で祈ってくださった方もいました。
私が導かれたそれらの教会には、キリストの愛と赦しを自分のものとしていただいて、そしてそのキリストの愛と赦しを他者に分け与える、分かち合うことを実践している兄弟姉妹たちが確かにいました。
そのことを今では私は心から神に、そしてその兄弟姉妹たちに感謝をせずにはいられません。
その方々の信仰の姿を今思い出しても、その方々はまず自分自身がイエス様に愛されていることを心から確信しておられた、ということが思い出されます。
イエス・キリストによって愛されていることを確信していたので、ご自分がキリストの愛によって豊かに生かされていたので、自分以外の他者にその愛があふれ出すのは、その人たちにとってはごくごく自然なことだったのだと、思います。
そして私の出身教会の兄弟姉妹は、愛と確信をもって、私を献身者として(牧師になるための道を進むため)自分たちの群れから祈りをもって送りだしてくれました。
そして今、別府国際教会の兄弟姉妹の皆様は、いまだに欠けの多い、足りないものの多いこの私を、教会の霊的リーダーとして立て続けてくださっています。
教会が、同じ人間である誰かを、群れの霊的なリーダーとして立てるという出来事は、主なる神への信頼へと、愛と赦しの信仰が教会の中で共有されていなくては、決して実現しない出来事であると、私は信じます。
イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を信じ、その愛によって結びつけられた者が霊的に一つの体を形成しているのが教会です。
私たちは、これからもキリストの体である教会の一員として、キリストの平和、キリストの言葉によって互いに結ばれて、神の愛と赦しによって一人ひとりが大切にされる共同体を作り上げていきましょう。
今日の箇所の最後の節である17節をお読みします。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
神からの大きな、法外な恵みと愛、赦しを受けた者には、それ相応の責任も与えられます。そしてその責任は大きな特権でもあります。
それが“わたしたちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行う”ということです。
つまり、私たちはキリストの名をこの身に負っている、私たちキリスト者はキリストから遣わされた大使として、キリストの名を代表して生きているということです。
キリスト者である私たちが発する言葉の一つ一つが、キリストを代表する言葉であるということです。キリスト者である私たちが取る行動の一つ一つが、キリストを代表する行いとなる、ということです。
それはとても恐ろしい事実でもあります。なぜなら、自分自身を振り返った時、私の言葉や行いが、イエス・キリストを代表したものだとは、とても思えないことのほうが多いからです。
しかし、私たちがどう思おうとも、天の神様はキリストへの信仰を通して、それほど大きな特権(同時に大きな責任)を私たちに与えておられるのです。
神は私たちにそれほど大きな期待を寄せてくださっている、ということです。
キリストによって愛され、赦されたこの私たちが、この地上での命を生きる時、私たちは日々キリストを代表しながら生きているのです。
“イエスさまなら、この時どんな風におっしゃるのだろうか”、“イエス様なら、この時どうなさるのだろう”と、私たちは考えながら、私たちはイエス・キリストを、私たちを導く指導者、指針として、そのお方に従って生きていきたいと願います。
十字架の救い主、キリストの平和が私たちの心を支配しますように。キリストの愛と赦しが、私たちを通して世に現わされますように。
私たちを通して、主イエス・キリストの御名がますますあがめられますように。キリストに仕えて生きることができる恵み、この光栄な生きる道を覚えて、私たちは心からの感謝をお捧げしましょう。