2025年3月9日 主日礼拝
前奏
招詞 箴言16章20節
賛美 新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
主の祈り
賛美 新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヘブライ人への手紙4章14~16節
祈祷
宣教 「大祭司イエス」
祈祷
賛美 新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄 新生讃美歌 673番
祝祷
後奏
今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙4章14~16節)には、“イエス・キリストが偉大な大祭司である”と書かれています。
祭司とは、イスラエルの民の代表として、神に仕える働きを担った人たちでした。
人々に代わって、罪の赦しのための捧げものを神に捧げたり、神に代わって人々を祝福するなどの務めも祭司は果たしていました。
今日の箇所では、イエス・キリストが「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子」と描かれています。
「もろもろの天を通過された」とは、イエス・キリストが十字架にかかり死んで、そして復活させられた後に、天の最も高 い所へ上っていかれ、そしてそこで今は神の右の座についておられる、ということを表します。
ローマの信徒への手紙8章34節に「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださる」と書かれています。
人間の祭司は、神に直接お会いすることはできません。人間は誰も神と直接お会いすることはできないからです。
しかしイエス・キリストは、今や天の父なる神と共におられ、私たちの願いと祈りとを、私たちに代わって、今も父なる神に取り次いでくださっているのです。
キリストが今も天におられるので、私たちは”私たちの祈りは聞かれる“、”イエス様が私たちの祈りと願いを神に取り次いでくださる“と信じて、祈ることが許されています。
神が人となったお方であるイエス・キリストは私たち人間が住むところ、人の間のもっとも低いところにまで、降りて来られました。
なぜそのように神が人となられたのでしょうか。なぜ神が私たちの間の最も低い所へと降ってこられたのでしょうか。そして、なぜ神であるお方が十字架にかからねばならなかったのでしょうか。
聖書は、イエス・キリストが十字架におかかりになったことで、私たち人の罪が赦されたと伝えます。
キリスト者は常にそのことを覚え、感謝をし、私たちの罪を赦し、私たちに新しい命を与えてくださった神に感謝を捧げながら生きていきます。
神には私たちの罪を赦すために、イエス・キリストとなってこの世に来られる必要や義務はありませんでした。私たち人は自ら選んで、神から離れて生きていくことを選びとったからです。
神は私たちを救うことも、救わないこともできました。しかし愛なる神は、自ら人となり、私たちにそのお姿を現すことをなさいました。神はそれほどまでに私たち人を愛してくださったのです。
神が人となるとは、神の愛がはっきりと目に見える形で現わされた、まさに奇跡の出来事でした。「ここに愛がある。ここに救いがある」と神様は、イエス様を通して私たちに見せてくださったのです。
イエス様は人として、ヨセフとマリアの子として生まれ、30歳ぐらいまで、イスラエルのガリラヤと言われた地方のナザレという村で生活されました。
イエス様は父ヨセフの仕事であった大工の仕事を継いで、自らも大工として働いたようです。そしてそのことは、イエス様が神の国を人々に宣教する時に、人々にとってはつまずきの原因となりました。
マルコによる福音書6章に、イエス様が、ご自分がお育ちになった故郷の会堂で神の国について教え始められた時の話が記されています。人々はイエス様の教えに驚いたと、そこで書かれています。
しかしある人々は、イエス様が大工であり、そしてイエス様がマリアの息子で、その兄弟たちのことも自分たちは知っている、と言って、イエス様の偉大な教えを受け入れることを拒否しました。
「大工の子、自分たちもよく知っている家の出身である男に、こんな偉大な教えを語ることができるはずがない」と彼らは思ったのでしょう。
その人自身がどのような人であるか、その人が何を語っている、行っているかよりも、その人の出身とか見た目とか、外見的で本質的ではない事柄のほうを重視してしまう私たちの姿が、その時イエス様につまづいた人々には表されています。
イエス様が、大工の子として、ガリラヤで労働者の一人としてお育ちになったことは、私たちにとって、非常に意味のあることです。
それはイエス様ご自身が、日々働くことの大変さ、辛さ、その苦労をご自身のこととしてご経験された、ということです。
働くことには生きがいを得る、社会に貢献するという喜びの面もあります。しかし、日々働いて生きる糧を得るというのは大変なことだと思います。
日々働く中で、辛い思いをしておられる方々、思い通りにならないことや、打ちのめされるような思いをされている方もいらっしゃると私は思います。
私たちの主イエス・キリストも、そのように、日々の仕事、労働することの辛さをご経験されたのです。ですから、イエス様は、本当に私たちのことを、分かってくださる、理解してくださるのだと、私たちは信じることができます。
イエス様が、私たちにいつも寄り添ってくださっています。働くことの大変さも、日々生きることの大変さも、それを神ご自身がご経験なさったからです。
今日の15節に次のように書かれています。
15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
イエス様は私たちの心の奥底までも、私たちの辛さ、悲しみに、同情することがおできになります。
ここでの同情とは、“心から、自分以外の他者と共に悩み、その人の悲しみ、苦しみを自分の事として受け止める”、ということです。
私たち人間は、自分以外の他者に、そこまで同情することは出来ません。しかし、イエス様は、それがおできになります。
ルカによる福音書10章に、「善いサマリア人の例え」の話があります。
イエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねた、ある律法の専門家に、イエス様は次のような例え話をされました。
ある人が旅をしている間に、追いはぎ(強盗)に襲われて、半殺しにされて、倒れていました。
そこへ、祭司、またレビ人(レビ人も祭司の役割を果たしていた人たちです)が通りましたが、彼らはおいはぎに襲われて倒れているその人を見ても、道の向こう側を通って、何もせずに行ってしまいます。
そこへユダヤ人からは蔑まれていたサマリア人が通りがかります。
そのサマリア人はその人の傷を手当てして、自分のろばに乗せて、宿屋にまで連れて行き、その人を介抱してくれるようにと言って、宿屋にお金まで渡しました。
強盗に襲われた人はユダヤ人であって、本来なら同胞である祭司やレビ人がその人を助けるべきでした。しかし、彼らはそうはしませんでした。
祭司やレビ人が、その人を助けなかった理由は色々と考えられます。死人(死にかかった人)に触れると汚れる、と彼らは考えたかもしれません。しかし一番の理由は、他者の苦しみに共感することが(完全には)出来なかったということではないでしょうか。
私たちは、自分以外の他者の苦しみを完全に自分のものとすることはできないのです。
しかしイエス様は、人の苦しみに、完全にご自分を重ね合わせることがおできになります。
追いはぎに襲われていて倒れていた人の境遇と、その人の痛みを自分のことして受けとめ、助けの手を差し伸べたサマリヤ人は、まさにイエス・キリストのお姿を現しています。
なぜイエス様は私たちにそこまで同情することがおできになるのでしょうか。なぜそこまで人の痛みと悲しみに、心からの共感をすることがおできになるのでしょうか。
その理由も15節に書かれています。それはイエス様が、「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたからです」(15節)
神の子イエス・キリストは私たちと同様に試練に会われたのです。私たち以上に、最も苦しい試練を神の子がお受けになったのです。
まったく罪のない完全に清いお方が、試練を受けたのですから、その苦しみは私たちの想像を絶するものです。
神と等しいお方、神の子が、ご自身は全く罪がなかったのに、私たちのために十字架におかかりになり、最後は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マルコ15:34)。
私たちも「神様、なぜですか」と言って、苦しみの中から叫ぶしかないような経験をする時があると思います。神の子イエス・キリストも、苦しみの中から、そのような叫びの声を上げたのです。
ですから、イエス・キリストは、私たち人間が経験するすべての苦しみ、悲しみ、辛さにおいて、完全に同情することがおできになるのです。
そのようなお方が私たちの救い主であり、罪の贖い主であるという信仰を私たちはいただき、そのような信仰を今も私たちは言葉と行いとで、告白し続けます。
全く罪のないお方、神のイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、十字架におかかりになりました。
そして「キリストは、あらゆることにおいて、わたしたち人の苦しみに同情することがお出来になるお方」という信仰にも、私たちはこれからも立ち続けましょう。
今日の箇所の最後の節である16節をお読みします。
16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
“私たちは、神の恵みの御座に大胆に(自信をもって)近づこう”、と言って今日の箇所は終わります。
なぜ私たちは神のおられるところへ、神へ向かって自信を持って近づくことができるのでしょうか。
それは、神が決して私たちを拒絶なさらないということを、私たちはイエス・キリストによって信じることができるからです。
イエス・キリストが神と共におられ、私たちのためにとりなして、くださっておられると、私たちは信じることができるからです。
私たちが神のおられる、神が座っておられるその場へ行けるためのその道を、イエス様が用意してくださったのです。
イエス様がその道そのものなのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14章6節)。
イエス・キリストを信じるとは、イエス様という道を通って神のもとへ行く、ということです。キリストを通れば神のもとへ行くことができ、キリストを信じる者を、神は決して拒絶なさらないのです。
神のもとで私たちは神の憐れみと恵みとを頂くことができます。
私たちが差し出す何かと引き換えに、神の憐れみと恵みが頂ける、というのではありません。
そうではなく、私たちがキリストをただ信じて、私たちがキリストを心にお迎えするならば、そしてキリストを通して神に近づくならば、神は憐れみと恵みとを、無償で与えてくださるのです。
そのような恵みを前にして、一体私たちは何を躊躇することがあるでしょうか。
偉大な大祭司、神の子イエス・キリストを通して私たちに与えられる神の憐れみと恵みの中で私たちも安心して憩い(休息し)、喜びと感謝をもって、生きて行こうではありませんか。
私たちの痛み、悲しみ、苦しみを、ご自身のこととして受けられ、いつも私たちと共に泣き、悲しんでくださる、神のそのような憐れみに感謝をいたしましょう。
2025年3月8日土曜日
2025年3月1日土曜日
2025年3月2日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書46章4節b
賛美 新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。
同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。
今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」
ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。
旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。
もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。
パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
“信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。
今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
イエス様はこうお答えになりました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)
イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。
『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。
前奏
招詞 イザヤ書46章4節b
賛美 新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美 新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句 テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美 新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。
同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。
今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」
ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。
旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。
もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。
パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
“信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。
今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
イエス様はこうお答えになりました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)
イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。
『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。
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