2025年3月8日土曜日

2025年3月9日 主日礼拝

前奏
招詞  箴言16章20節
賛美  新生讃美歌40番 わが喜び わが望み
主の祈り
賛美  新生讃美歌 388番 主よ わが心に
献金
聖句 ヘブライ人への手紙4章14~16節
祈祷
宣教 「大祭司イエス」
祈祷
賛美  新生讃美歌 297番 主によりてあがなわる
頌栄  新生讃美歌 673番
祝祷
後奏  


今日の聖書箇所(ヘブライ人への手紙4章14~16節)には、“イエス・キリストが偉大な大祭司である”と書かれています。
祭司とは、イスラエルの民の代表として、神に仕える働きを担った人たちでした。
人々に代わって、罪の赦しのための捧げものを神に捧げたり、神に代わって人々を祝福するなどの務めも祭司は果たしていました。
今日の箇所では、イエス・キリストが「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子」と描かれています。
 「もろもろの天を通過された」とは、イエス・キリストが十字架にかかり死んで、そして復活させられた後に、天の最も高 い所へ上っていかれ、そしてそこで今は神の右の座についておられる、ということを表します。

ローマの信徒への手紙8章34節に「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしてくださる」と書かれています。
人間の祭司は、神に直接お会いすることはできません。人間は誰も神と直接お会いすることはできないからです。
しかしイエス・キリストは、今や天の父なる神と共におられ、私たちの願いと祈りとを、私たちに代わって、今も父なる神に取り次いでくださっているのです。
キリストが今も天におられるので、私たちは”私たちの祈りは聞かれる“、”イエス様が私たちの祈りと願いを神に取り次いでくださる“と信じて、祈ることが許されています。
 神が人となったお方であるイエス・キリストは私たち人間が住むところ、人の間のもっとも低いところにまで、降りて来られました。
 なぜそのように神が人となられたのでしょうか。なぜ神が私たちの間の最も低い所へと降ってこられたのでしょうか。そして、なぜ神であるお方が十字架にかからねばならなかったのでしょうか。

聖書は、イエス・キリストが十字架におかかりになったことで、私たち人の罪が赦されたと伝えます。
キリスト者は常にそのことを覚え、感謝をし、私たちの罪を赦し、私たちに新しい命を与えてくださった神に感謝を捧げながら生きていきます。
神には私たちの罪を赦すために、イエス・キリストとなってこの世に来られる必要や義務はありませんでした。私たち人は自ら選んで、神から離れて生きていくことを選びとったからです。
神は私たちを救うことも、救わないこともできました。しかし愛なる神は、自ら人となり、私たちにそのお姿を現すことをなさいました。神はそれほどまでに私たち人を愛してくださったのです。
神が人となるとは、神の愛がはっきりと目に見える形で現わされた、まさに奇跡の出来事でした。「ここに愛がある。ここに救いがある」と神様は、イエス様を通して私たちに見せてくださったのです。

 イエス様は人として、ヨセフとマリアの子として生まれ、30歳ぐらいまで、イスラエルのガリラヤと言われた地方のナザレという村で生活されました。
イエス様は父ヨセフの仕事であった大工の仕事を継いで、自らも大工として働いたようです。そしてそのことは、イエス様が神の国を人々に宣教する時に、人々にとってはつまずきの原因となりました。
 マルコによる福音書6章に、イエス様が、ご自分がお育ちになった故郷の会堂で神の国について教え始められた時の話が記されています。人々はイエス様の教えに驚いたと、そこで書かれています。
しかしある人々は、イエス様が大工であり、そしてイエス様がマリアの息子で、その兄弟たちのことも自分たちは知っている、と言って、イエス様の偉大な教えを受け入れることを拒否しました。
「大工の子、自分たちもよく知っている家の出身である男に、こんな偉大な教えを語ることができるはずがない」と彼らは思ったのでしょう。
 その人自身がどのような人であるか、その人が何を語っている、行っているかよりも、その人の出身とか見た目とか、外見的で本質的ではない事柄のほうを重視してしまう私たちの姿が、その時イエス様につまづいた人々には表されています。

イエス様が、大工の子として、ガリラヤで労働者の一人としてお育ちになったことは、私たちにとって、非常に意味のあることです。
それはイエス様ご自身が、日々働くことの大変さ、辛さ、その苦労をご自身のこととしてご経験された、ということです。
働くことには生きがいを得る、社会に貢献するという喜びの面もあります。しかし、日々働いて生きる糧を得るというのは大変なことだと思います。
 日々働く中で、辛い思いをしておられる方々、思い通りにならないことや、打ちのめされるような思いをされている方もいらっしゃると私は思います。
私たちの主イエス・キリストも、そのように、日々の仕事、労働することの辛さをご経験されたのです。ですから、イエス様は、本当に私たちのことを、分かってくださる、理解してくださるのだと、私たちは信じることができます。

イエス様が、私たちにいつも寄り添ってくださっています。働くことの大変さも、日々生きることの大変さも、それを神ご自身がご経験なさったからです。

今日の15節に次のように書かれています。
15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

イエス様は私たちの心の奥底までも、私たちの辛さ、悲しみに、同情することがおできになります。
ここでの同情とは、“心から、自分以外の他者と共に悩み、その人の悲しみ、苦しみを自分の事として受け止める”、ということです。
 私たち人間は、自分以外の他者に、そこまで同情することは出来ません。しかし、イエス様は、それがおできになります。

 ルカによる福音書10章に、「善いサマリア人の例え」の話があります。
イエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねた、ある律法の専門家に、イエス様は次のような例え話をされました。
ある人が旅をしている間に、追いはぎ(強盗)に襲われて、半殺しにされて、倒れていました。
そこへ、祭司、またレビ人(レビ人も祭司の役割を果たしていた人たちです)が通りましたが、彼らはおいはぎに襲われて倒れているその人を見ても、道の向こう側を通って、何もせずに行ってしまいます。
 そこへユダヤ人からは蔑まれていたサマリア人が通りがかります。
そのサマリア人はその人の傷を手当てして、自分のろばに乗せて、宿屋にまで連れて行き、その人を介抱してくれるようにと言って、宿屋にお金まで渡しました。
 強盗に襲われた人はユダヤ人であって、本来なら同胞である祭司やレビ人がその人を助けるべきでした。しかし、彼らはそうはしませんでした。
祭司やレビ人が、その人を助けなかった理由は色々と考えられます。死人(死にかかった人)に触れると汚れる、と彼らは考えたかもしれません。しかし一番の理由は、他者の苦しみに共感することが(完全には)出来なかったということではないでしょうか。
私たちは、自分以外の他者の苦しみを完全に自分のものとすることはできないのです。

 しかしイエス様は、人の苦しみに、完全にご自分を重ね合わせることがおできになります。
追いはぎに襲われていて倒れていた人の境遇と、その人の痛みを自分のことして受けとめ、助けの手を差し伸べたサマリヤ人は、まさにイエス・キリストのお姿を現しています。
 なぜイエス様は私たちにそこまで同情することがおできになるのでしょうか。なぜそこまで人の痛みと悲しみに、心からの共感をすることがおできになるのでしょうか。
 その理由も15節に書かれています。それはイエス様が、「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたからです」(15節)
 神の子イエス・キリストは私たちと同様に試練に会われたのです。私たち以上に、最も苦しい試練を神の子がお受けになったのです。
まったく罪のない完全に清いお方が、試練を受けたのですから、その苦しみは私たちの想像を絶するものです。
 神と等しいお方、神の子が、ご自身は全く罪がなかったのに、私たちのために十字架におかかりになり、最後は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マルコ15:34)。
 私たちも「神様、なぜですか」と言って、苦しみの中から叫ぶしかないような経験をする時があると思います。神の子イエス・キリストも、苦しみの中から、そのような叫びの声を上げたのです。
 ですから、イエス・キリストは、私たち人間が経験するすべての苦しみ、悲しみ、辛さにおいて、完全に同情することがおできになるのです。
 そのようなお方が私たちの救い主であり、罪の贖い主であるという信仰を私たちはいただき、そのような信仰を今も私たちは言葉と行いとで、告白し続けます。

 全く罪のないお方、神のイエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、十字架におかかりになりました。
そして「キリストは、あらゆることにおいて、わたしたち人の苦しみに同情することがお出来になるお方」という信仰にも、私たちはこれからも立ち続けましょう。

今日の箇所の最後の節である16節をお読みします。

16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 “私たちは、神の恵みの御座に大胆に(自信をもって)近づこう”、と言って今日の箇所は終わります。
なぜ私たちは神のおられるところへ、神へ向かって自信を持って近づくことができるのでしょうか。
それは、神が決して私たちを拒絶なさらないということを、私たちはイエス・キリストによって信じることができるからです。
イエス・キリストが神と共におられ、私たちのためにとりなして、くださっておられると、私たちは信じることができるからです。
私たちが神のおられる、神が座っておられるその場へ行けるためのその道を、イエス様が用意してくださったのです。
 イエス様がその道そのものなのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました(ヨハネ14章6節)。
イエス・キリストを信じるとは、イエス様という道を通って神のもとへ行く、ということです。キリストを通れば神のもとへ行くことができ、キリストを信じる者を、神は決して拒絶なさらないのです。
 神のもとで私たちは神の憐れみと恵みとを頂くことができます。

私たちが差し出す何かと引き換えに、神の憐れみと恵みが頂ける、というのではありません。
 そうではなく、私たちがキリストをただ信じて、私たちがキリストを心にお迎えするならば、そしてキリストを通して神に近づくならば、神は憐れみと恵みとを、無償で与えてくださるのです。
そのような恵みを前にして、一体私たちは何を躊躇することがあるでしょうか。
 偉大な大祭司、神の子イエス・キリストを通して私たちに与えられる神の憐れみと恵みの中で私たちも安心して憩い(休息し)、喜びと感謝をもって、生きて行こうではありませんか。
私たちの痛み、悲しみ、苦しみを、ご自身のこととして受けられ、いつも私たちと共に泣き、悲しんでくださる、神のそのような憐れみに感謝をいたしましょう。