2025年3月1日土曜日

2025年3月2日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書46章4節b
賛美  新生讃美歌 493番 み子イエス世人のため
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌388番 主よ わが心に
献金
聖句  テモテへの手紙一 1章12~17節
祈祷
宣教 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏


 今日私たちに与えられた聖書の御言葉は、新約聖書『テモテへの手紙一』の中の言葉です。
 「テモテへの手紙(一と二)」は、伝道者パウロが、彼の弟子のテモテに宛てて書いたとされる手紙です。
 テモテは、ガラテヤ(現在のトルコに位置します)と言われた地方の出身で、彼の母親はユダヤ人、父親はギリシア人であったと、「使徒言行録」の16章に書かれています。
  テモテへの手紙1章2節に「信仰によるまことの子テモテへ」と書かれています。この言葉から、パウロはテモテに対して、血縁関係はなくとも、特別な愛情をもっていたことが分かります。
 血縁の家族ではなくても、イエス・キリストの恵みによって、パウロとテモテは信仰を通しての父と子(親子)となっていたということです。
 私たちも教会で、血縁関係を超えた信仰による家族の関係へと招き入れられています。
 キリストの恵みによって、教会への交わりへと私たちは招かれました。キリストによって、私たちは神の子とされました。

 同じ神、主イエス・キリストの父なる神のもとで、神の子とされていることを私たちは喜びます。
同じ教会にキリストの恵みによって招き入れられた私たちが、お互いを信仰の家族として、互いを受け入れ合う特別な関係を育んでいきたいと願います。

 今日の箇所の初めの12節にこのように書かれています。

「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」

ここではまず、“人はイエス・キリストによって強くされる”ことが言われています。パウロ自身が、キリストから強さを与えられたことを、信仰生活を通して実感し、経験してきたのです。
イエス・キリストから与えられる強さは、私たち自身による強さではなく、私たちの内に住んでくださるキリストの力です。それはまた、キリストの愛でもあります。
 この私は弱くても、私たちの内に住んでくださるキリストのおかげで、私はどんなときにも強くあることができる、という安心です。
 「フィリピの信徒への手紙」の中で、同じパウロが次のように書いています。少し長くなりますが、フィリピの信徒の手紙4章11~13節まで引用いたします。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 いついかなる時にも、私に強さを与えてくださるお方(イエス・キリスト)によって、私にはすべてが可能です、とパウロは言っています。
 これは、どんな不遇な境遇にあっても文句も言わずに我慢しなさい、ということではありません。
 もし誰かが不当な扱いや、不当な差別や偏見などを受けているのならば、当然そのような状況は正されなくてはなりません。
  私たちキリストの教会は、そのような不当な扱いを受けている方々、弱い方々に寄り添うこと、支援をすること、そして祈ることを大切にせねばなりません。
  しかし、どう考えても誰も悪くない、私たちでは何ともしようのない状況の中で人が苦しむということが起こり得ます。例えば、突然の病や不測の事故に襲われる、ということもあります。
  そのような時、人は何を頼りに生きていけばよいのでしょうか。
  聖書は伝えるのです。「神は私に生きる力を与えてくださる。」聖書は伝えます。私たちが歩けないときも、キリストが私を背負って歩いてくださる、と言うのです。

 旧約聖書の『イザヤ書』の46章3~4節に次のように書かれています。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 これは、神から私たちに与えられた永遠なる約束です。“わたし(神)があなたたちを担い、背負い、救い出す”というこの約束は、救い主イエス・キリストにより実現しました。
  そして今も、キリストが私たちを担い、背負って、救い出してくださいます。
 いついかなる状況の中にも私たちと共に歩いてくださり、私たちが自分で歩けない時、倒れた時、私たちを背負ってくださる神がおられます。
そのことを信じ、そのお方に感謝をして、私たちは生きていこうではありませんか。

もう一度12節の(前半の)言葉に戻りましょう。
「私を強くしてくださった、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しています。

パウロは「わたしを強くしてくださったお方」のことを「わたしたちの主イエス・キリスト」であると言っています。
この私を強くしてくださった神は、私だけの神ではなく、私たち(すべての人間の)主である、ということです。
 “信仰とは個人的なものだ”、という考えがあります。それはある意味で正しいです。神は私たち一人ひとりと個人的な関係を結んでくださるお方です。
しかし、イエス・キリストへの信仰は、信仰者一人ひとりの中だけに留めておくことはできません。イエス・キリストは“わたしの主”であると同時に、“わたしたちの主”でもあるのです。
 私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に祈ります。主の祈りでは「天にましますわれらの父よ」と言って祈ります。
 「天にましますわれらの父よ」と祈り、宣言することで、私たちは、イエス・キリストが“わたしたちの主”であることを宣言します。
すなわち、キリストは、今ここにいる私たち以外の人たちにとっても、世の全ての人にとっての主であり、救い主であるという信仰を私たちは主の祈りを通して表明しているのです。
 「天にましますわれらの父よ」と祈ることで、“わたしの父”が、“わたしたちの父でもある”という信仰へと導かれ、私たちは自分を超えて他者のためにも祈る者へと変えられ、成長していきます。
“われらの父、全ての者にとっての父がおられる”と信じ、そのように祈ることができる喜びを、私たちは教会で分かち合います。
そして“私たちの父”に共に祈ることを通して、私たち一人ひとりが、この信仰の共同体(家族)の一員である、ということが喜びとして実感できる教会で私たちはありたいとも、願います。

今日の15節の言葉をお読みします。今日の宣教題でもある節です。
 15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

 ここに、その言葉をそのまま私たちが受け入れるべき真実が語られています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のです。
 イエス様自身が、地上で生きておられた時に、次のようにおっしゃっています。イエス様は、罪人と言われた人たちと一緒に食事をなさいました。
  ある人々が「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」とイエス様に聞きました。皆さん、よく考えてください。「あなたはなぜ罪人と一緒に食事をするのか」と聞いた人は、自分自身が罪人だとは思っていないのです。
  イエス様はこうお答えになりました。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節)

 イエス・キリストが罪人を招くため、罪人を救うために、この世界に来てくださいました。神であるお方が、人となって、罪人の救いのために、私たちの世界に来てくださったのです。
 聖書はまた、「正しい人はいない、一人もいない」とも伝えます(ローマの信徒への手紙3章10節)
 聖書は”罪人、罪人“と言って人を責めるから嫌だな、と私たちは思うかもしれません。しかし、やはり私たちは自分自身に本当に正直に向き合う時、自分の罪に向き合わされるのです。
 自分では取り除くことのできない、自分自身の罪を抱えて、私たちは生きています。しかし、聖書は言うのです、“キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた”と。
 罪を取り除いてくださる方、喜びの生きる道を与えてくださるお方が確かにおられる、と聖書は伝えるのです。
 イエス・キリストに救いの道があり、その方の救いから漏れている人は誰もいません。その知らせを信じて、キリストにある救いの道を歩んで生きていくかどうか、は私たち自身です。
  人は皆罪人である、しかし罪の赦しがある、という聖書の知らせは、やはり私たちにとって本当の喜びの知らせ、まさに“福音”なのです。
  また、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という真実の言葉から、私たちが受け入れなくてはならないもう一つことは、”イエス・キリスト以外に救いはない“ということです。

 『使徒言行録』4章12節に、次のように書かれています。復活のイエス様について述べ伝えていたペトロが、議会で取り調べられている時に言った言葉です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 「ほかの誰によっても、救いは得られません」。イエス・キリスト以外の誰によっても、何によっても救いは得られません。
 今日の聖書の箇所は、そして聖書全体は私たちに、その言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と言います。
  キリストによる救いと、そのお方以外に人の救いはない、という点において、キリスト者は、またキリスト教会は決して妥協することが許されていない、そうすることはできないのです。
  もし私たちがその点で少しでも妥協するのならば、それは私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の死を意味のないものとします。
またそうすることで、十字架によって私たちに与えられた恵みを、私たちは自ら手放すことにもなる、と私は信じます。
 神の御子イエス・キリストが、そのお命と引き換えに与えてくださった救いの恵みを、私たちが手放すとしたら、それほど天の父なる神を悲しませることが他にあるでしょうか。
  イエス様によって私たちに与えられた救い、永遠の恵みを、私たちが自ら手放すことは決してせず、私たちに与えられた救いの道を私たちは共に歩み、その道を世に伝え続けていきましょう。
 イエス・キリストの言葉、聖書の言葉、み言葉の上に、その真実の上に私たちは立ち続け、互いに御言葉によって励まし合い、信仰の命を生きていこうではありませんか。