2025年4月12日土曜日

2025年4月13日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書53章3節
賛美  新生讃美歌 232番  カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
賛美  新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  マルコによる福音書15章16~32節
祈祷  
宣教  「ののしられる救い主」
祈祷
賛美  新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 キリスト教では、天地と世界のすべてのものをお造りになった神が人なったこと、すなわち父なる神が御子イエス・キリストとして、この世界に生まれてこられたと、私たちは信じます。
 イエス・キリストが人としてお生まれになったことを記念し、お祝いするのがクリスマス(降誕節)です。プロテスタント教会の伝統では、私たちは毎年12月25日にクリスマスを記念します。
 イエス・キリストの誕生は、人々が待ちわびていた大きな希望の到来でした。
 神様からの真の希望、真の光であるお方が世に生まれたことを感謝し、喜ぶために、教会ではクリスマスをとても大切にしています。
 そしてキリスト教会は、イエス・キリストが死んだ後に復活したことを記念する「復活祭(イースター)」も、とても重要な記念日として、大切に守ってきました。

 今週(4月13日~19日)は「受難週」(Passion Week, or Holy Week)と呼ばれる一週間です。受難週は、復活祭(イースター)の日曜日の前の一週間を指します。
 クリスマスとは違い、イースターの日付は毎年変わります。春分の日とその後の満月の日の関係によって、イースターの日曜日が決定されるのです。今年は4月20日(日)がイースターです。
 キリストが復活したこと(死からよみがえられたということ)は、それは多くの人には、常識的にはとても信じられない、ばかばかしい話とさえ聞こえる出来事かもしれません。
しかし、キリストが死から復活したからこそ、イエス・キリストの福音は、大きな希望と喜びの知らせとして人々に信じられ、その知らせが世界中に伝えられるようになりました。
 主イエス・キリストは復活したのです。では、復活の前、イエス・キリストはどのように死んだのでしょうか。
皆さんご存じであると思いますが、イエス様は十字架刑という死刑(当時、約2000年前のローマ帝国の支配地域で最も残酷と言われた処刑方法)によって死にました。
  イエス様が、最も重い十字架刑を受けたということは、その刑に相当する重大な犯罪をイエス様が犯したのだ、と普通は考えられます。

では、イエス様はどのような罪を犯したので、十字架刑にかかったのでしょうか。
 結論から言えば、イエス様は十字架刑に処せられねばならないような、どのような罪をも犯されませんでした。
 聖書には、イエス様に十字架刑を最終的に宣告した権力者その人が、「わたしはこの人(イエス)には、何の罪も見いだせない」とはっきり述べた、ことが書かれています。
 今日の聖書箇所はマルコ福音書の15章の箇所です。マルコ15章14節で、当時ユダヤの総督だったピラトが、「彼(イエス様)を十字架につけろ」と要求するユダヤ人たちに、「いったい(彼が)どんな悪事を働いたというのか」と聞いています。
 イエス様を十字架につけろ、殺せ、と言って強く訴えたのは、当時のユダヤ教の指導者たち(祭司長や律法学者、ユダヤ議員の人たち)でした。
 彼らは、イエス様を“神を冒涜する者”として訴え、そして実は、“多くの人々が、イエス様を信じイエス様に従うこと”に彼らは嫉妬したので、“この男(イエス)を殺せ”と主張するようになったのです。

  そしてユダヤの指導者たちにつられて、段々と他の大勢の群衆も、“この男(イエス)を殺せ、十字架につけろ”という声に同調していった様子も、聖書に書かれた内容から想像することができます。
 先ほどもそれに言及しましたが、総督のピラトは、”この男(イエス)を十字架につけろ“という人々の声に対して、次のように言っています。
 「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」
(ルカによる福音書23章22節)

 ピラト自身は、イエスという人に、どんな罪をも見出すことはできませんでした。
 しかしピラトは、イエス様を十字架につけることを最後は認めてしまいます。大勢の人々の声(要求)に最後は屈したのです。
ピラトは、何の罪もないとピラト自身信じている人に対して、死刑を宣告してしまったのです。
「この人は何も悪いことをしていない」とピラトは思い、そのように彼は言葉でも言いました。何がピラトにそのように言わせたのでしょうか。
人間には良心というものがあります。正しく物事を判断しようとする理性もあります。公正を求める心が私たちには備えられています。
それらは、いずれも神様から私たち人に与えられたものです。物事は正しくあるべきだ、という心、悪を憎み悪に対抗しようとするそのような心(良心)は、神様から私たちに与えられました。
そして、神から与えられたその良心が、ピラトに「この人(イエス)は何も悪いことはしていないのだ」と正しく判断をさせました。

しかし、「この人は何も悪いことをしていない」と、良心は人に伝えても、その良心、神の声に従って実際に行動できるかどうかは、また別の問題となります。
なぜなら、神から与えられた良心から私たちを引き放そうとする、悪の力と誘惑があるからです。私たち人間の弱さも、そこにはあります。
パウロという信仰者は、聖書の中で次のように言いました。
ローマの信徒への手紙7章15節
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

17節には、こう書かれています。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

何が正しいのか、どう行動すべきか、それは神から与えられた良心と、また神の愛の心によって、私たちに知らされます。
しかし、私たち自身の内に住む罪の性質のせいで、どうしてもそれに従うことができない、という葛藤が私たちにはあるのです。
ピラトは、良心という神からの声に聞きしたがうよりも、民衆の声に聞き従い、それによって総督としての自分の立場を無難に守ることをも優先して、無実の人を死刑にしてしまいました。
ピラトの行動が示すそのような弱さと罪、そしてローマの信徒への手紙でパウロが呻くようにして書き綴った人間の罪と悪の性質を、私たち自身も持っていることに、私たちは向き合わねばなりません。
その罪を私たちは、自分でなくすこと、処理することはできないのです。この罪は、私たち以外の、本当に強力で、しかも全く罪のないお方によって赦してもらわなくてはならないのです。
そのような私たちの罪を赦すために、イエス・キリストは十字架へと向かい、十字架の上で命を捨ててくださった、と聖書は伝えています。

 16節からの今日の箇所には、兵士たちが総督官邸の中にイエス様を引いて行き、そこへ部隊全員が呼び集められたことが描かれています。
  多くの兵士たちが集まった理由は何だったのでしょうか?それは、一緒になってイエス様をからかって、侮辱して楽しもうということでした。
 彼らはイエス様に紫の服を着せた、と書かれています。紫の服は、王様としての威厳を表すものでした。そして金の冠の代わりに、彼らはイエス様に茨の冠を被せて侮辱しました。
紫の服を着せ、しかし金ではなくて茨の冠を被せて「こいつは偽物の王様なのだ!」と言って彼らはイエス様をからかったのです。
彼らは「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエス様に敬礼(するふりを)して、葦の棒でイエス様の頭をたたき、つばを吐きかけて、ひざまづいてイエス様を拝みさえしました。
イエス様を侮辱した兵士たちの姿から、”自分よりも立場の弱い人を侮辱したり攻撃したりして、その人よりも自分が優位であることを確認しようとする“という、私たち人の悪の性質と感情を、私たちは示されます。
 真の神であるお方が、ここまで徹底的に人々からの侮辱とあざけりをお受けになりました。神が私たちの悪の性質、罪を一身になって受けてくださったということです。最後まで。

そして今日の箇所には、イエス様と一緒に二人の強盗も十字架にかけられたと、書かれています。
「彼は罪人のひとりに数えられた」と旧約聖書イザヤ書53章12節に書かれています。イエス様が他の犯罪人たちと一緒に十字架にかけられたのは、まさにその聖書の預言の成就であり、神の御心でした。
 十字架にかけられたても、なお人々はイエス様を罵り続けました。今日の箇所の31~32節をお読みします。

31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

「こいつは他人は救ったが、自分は救えない」と言う言葉がイエス様に投げつけられました。
 イエス様は、ご自分を救おうと思えば、ご自分を救えたはずです。十字架から降りることなど、神がそう望むならば、イエス様には簡単にできたはずです。
 しかし、“他人は救ったが、自分は救えない(救わない)”というお姿で、イエス様が何もいわずに十字架にかかり続けることが、私たち人の救いのためには必要であったのです。

 私たちを救うため、イエス様は人々からの侮辱の限りの中に最後までとどまり続けてくださいました。
 ご自分を救おうとはせず、私たち人のためにすべてを捨てて、全てを忍びとおし、私たち人を最後まで愛し通し、私たちを救おうとしてくださった方のお姿が、ここにあります。
 「今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう」~このような人々からの声を聞きながら、それでも主イエス・キリストは、十字架の上で、罪人の救いのためにその命をささげてくださいました。
 そのお姿には、当時ユダヤの人々がずっと期待して待っていた救い主の姿はありませんでした。自分たちの国を支配している帝国を強い武力で打ち倒す英雄の姿はありませんでした。
 そこには、十字架の上から自らおりて、兵士たちを打ち倒す強い男の姿はありませんでした。ただ何も言わず、十字架の上で苦しみ続ける人の姿だけがそこにありました。
 私たちは、“救い主を十字架をつけ、そのお方をののしり続けた人々の姿”の中に、私たち自身の姿を重ね合わせなくてはなりません。
”イエス様を十字架につけたのは、この私だ、私たちだ“という思いと悔い改めに私たちは導かれていくのです。
そして神によって造られた人は、本来そのように行動すべきではない(すべきではなかった)、とも教えられるのです。
  救い主キリストを私たちは十字架につけ、そのお方を侮辱してはならなかった、今もしてはならないのです。
 受難週の今週、主イエス・キリストが十字架にかけられたその出来事に、そしてそこで人々から侮辱の限りをお受けになったことに、私たちは思いを向け続けましょう。
 すべてに耐え、十字架の上で命を捨ててくださった主イエス・キリストによって、私たちは自分では処理することのできない罪を赦されたのです。

  私たちの罪の赦しと救いの達成のために、主イエス・キリストが歩まれた苦難の、最後の一週間を心に刻み、今週の日々を私たちは歩んでまいりましょう。ss

2025年4月5日土曜日

2025年4月6日 主日礼拝

前奏
招詞  ルカによる福音書2章14節
賛美  新生讃美歌227番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  詩編21篇14節
祈祷
宣教  「主なる神に栄光を」
祈祷
賛美  新生讃美歌213番 われらに伝えよ
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


4月から始まる新しい年度(2025年度)最初の主日礼拝を、こうして私たち共に捧げることができる恵みを、私たちは感謝いたします。
 本日の聖書の言葉は、次の詩編21篇14節(英語訳NIVでは13節)の御言葉です。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
 この聖句を、私たちの教会は、今年度(2025年度)の年間聖句として選びました。そして、この聖句と共に選ばれた年間主題は「全て主なる神の栄光のためにAll for the glory of the Lord God.」です。
私たちの祈りと話し合いによって、この聖句と主題が私たちに与えられたことの意義を、私たちは吟味したいと願います。
神をあがめること、私たちの主であるお方の御名をあがめ、賛美することは、信仰者の生きる目的そのものです。
私たちは何かを崇(あが)めて生きていく者です。自分自身の中で何かが一番大切なもの、すなわち生きる目的となり、それを求めて(あがめて)私たちは生きていきます。
様々なものが、私たちによってあがめられる対象となります。色々なものが、私たちが日々生きる目的となり得ます。

より多くの物を所有すること、あるいは社会的地位やお金、成功、あるいはどれだけ自分に能力や才能があるかなど、それらも私たちが生きる目的となり得ます。
しかし、聖書は言うのです。「主こそが、あがめられますように」、「私たちは、主なる神をこそ、あがめて生きよう」
イエス・キリストはご自分の弟子たちに、祈りの言葉を教えてくださいました。
イエス様の弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願ったとき、イエス様は彼らに祈りの言葉を教えました。
その時イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉がもととなって、今私たちが礼拝で祈る「主の祈り」となっています。

主の祈りの最初の言葉は次の言葉です。

天にまします われらの父よ 御名をあがめさせたまえ

天におられるお方、この世界のすべてをお造りになったお方が、私たちの父(神)であることを、主の祈りの初めの言葉で私たちは確認します。
“父”とは、神が男性という意味ではありません。神は人間の性別を超越しておられるお方です。
それに続いて、“父なる神の御名があがめられます(聖なるものとされます)ように”、と主の祈りの言葉は続きます。
神様の御名があがめられますように、聖なるものとされますように、という言葉を祈りの言葉として最初に唱えなさい、とイエス様は弟子たちに最初に教えになりました。
それは、“神様の御名が私たちに与えられていることが、どれほど特別なことであるか認めて、私たちはそのお方(神)をほめたたえよう”、という促しです。
言葉には、内実(中身)が伴わなくてはなりません。今イエス・キリストを信じる信仰者であっても、神をあがめることをせず(聖なるものとせず)、自分が自分の中心に居座ったままで主の祈りを唱えることがあり得ます。
それでも、イエス様が教えてくださった祈りの言葉、聖書に基づいた私たちの祈りの言葉は、私たちの信仰を形作るのに、大変重要です。

 「主の御名があがめられますように」、「私たちは主をあがめよう」と言っても、心の奥底では、まだ私たちは自分が自分の王様であり主となっているかもしれません。
  しかし、そのような罪(神を神とせず、自分やそれ以外の何かを神とするような罪)を抱えつつ、私たちは“主があがめられますように”という言葉が、本当に私たちの本当の祈りの言葉となるように、と常に願って信仰生活を送っていきたいと願います。

  詩編21篇14節(NIV 21:13)では、 “御力を表される主をあがめよbe exalted in your strength, Lord”と言われ、主なる神が力あるお方であると書かれています。
 私たちの主なる神は、どのようにしてその力を表すお方でしょうか。

今私たちは、イエス・キリストが、私たち人の罪を赦すために十字架にかかって死ぬため、十字架への道を自ら歩まれたことを特に覚える受難節(レント)の時を過ごしています。
 イエス様はユダヤの地で生きて、伝道活動をしておられた時、数々の力ある業をなさいました。病気の人々を癒し、悪霊に憑(つ)かれた人たちから悪霊を追い出しました。
 イエス様は嵐を静めることさえなさいました。それらもイエス様がお示しになった力ある業です。

 しかし、イエス・キリストが私たちにお示しにあった究極の力ある業は、それは全ての人の罪を背負い、まったく罪のなかったご自身を十字架の上で捧げられた、その犠牲の御業でした。
 イエス様は、最期はもう何も言わずに、ただ黙って十字架を背負わされ、ご自分が処刑される場へと引かれていきました。
その十字架の主イエス・キリストは、私たちが普通に考える“強さ”の像(イメージ)とは、まったく相容れないお姿です。
 しかし、私たちが、自らを低くして、十字架の主イエス・キリストを信仰の目によって見上げるとき、そこにこそ神の真の力があることを私たちは知ります。
 イエス・キリストが、あらゆる悪の力、死の力に打ち勝った、究極の力の御業が十字架の上でこそ現わされたのです。
  十字架の上のイエス・キリストが、私たちの罪、私たちの弱さ、欠け、それらすべてを背負ってくださっています。
ですから、私たちは罪赦された者として、大きな喜びをもって、主なる神を崇める生き方へと導かれるのです。神を喜び、神を賛美する生き方へと私たちは招かれるのです。

 聖書は“いかなる人も神の前に自分で正しい人、義なる人はいない”と伝えます。私たち誰もが、欠けと弱さのある罪人だと伝えます。
そんな私たちが主イエス・キリストの名によって集まり、イエス・キリストを賛美、礼拝するという恵みを与えられています。
その点において、キリスト教会は本当に特別な宝を頂いている、と言うことができます。
 主をあがめることができる恵み、そのような宝を頂いていることを、私たちは共に喜ぼうではありませんか。

 詩編21編は、前の詩編20篇の続きであると考えられています。詩編20篇では、王が戦いで勝利することが願われています。
 そして続く21編は、その祈りと願いがかなえられたことを感謝し、神をほめたたえる内容となっている、と読むことができます。
  詩編20篇7節(6節 NIV)には、「主は油注がれた方に勝利を授け」The LORD gives victory to his anointed と書かれ、20篇10節(9 NIV)には、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」LORD, give victory to the king! Answer us when we callと書かれています。
そのように、王の勝利を願う内容でありながら、その勝利を王にお与えになるのは、主なる神であることが、これらの詩編では唄われています。

20編8節 (20:7 NIV)には次のように書かれています。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。

王が勝利することができるのは、王自身の力や、戦車や馬の力によってではない、というのです。“勝利を賜るのは、主なる神である”と、ここで告白されています。
そして21編2節(1節NIV)では、このように書かれています。

「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る」

21編8節(21:7NIV)では、このように書かれています。
王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。

私たちの主なる神は、私たちが常に依り頼むことができるお方です。主なる神は私たちに愛と慈しみを与えてくださるお方です。
 そして、自分たちの王に勝利(成功)が与えられても、その勝利(成功)の源は主なる神であり、“王が勝利に慢心することなく、常に主なる神を称えますように”という願いが、この詩編の言葉には表れています。
 そして王も民も、すべての者が主なる神の前にへりくだり、自分たちや自分たちの王を崇めるのではなく、主なる神のみを崇めることが出来ますように、と言う願いもここに現わされています。
  それは、勝利(成功)の栄光を、自分たちのものとしてしまうことなく、勝利の栄光を主なる神にお返しできますように、という彼らの信仰の願いです。
  主の力ある御業によって守られ、勝利を与えられた人が、自分自身を誇って自分に栄光を帰することなく、主なる神に全ての栄光をお返しできますように、という信仰を、私たちも大切にしていきたいと願います。
 そして今日の聖句、そして今年度の私たちの年間聖句は、「力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」we will sing and praise your might.と言って続いています。

 神の愛の御業によって励まされることで、私たちには主を賛美する歌が与えられるのだ、とここから示されます。
 通常、礼拝メッセージの後の讃美歌は、“応答讃美歌”と呼ばれます。それは直接的には、その日語られた神のメッセージ(恵み)への応答、という意味です。
 しかし、今日の聖句から、私たちの賛美は、私たちのために既に成し遂げられた神の偉大な御業への応答と言う意味で、私たちの賛美は全てが“応答賛美”であるのだと、私たちは教えられます。
 神をたたえる賛美の歌も、それは私たち自身の中から出て来るのではないのです。
 神の力ある御業、愛の御業が先にあって、それらへの感謝の応答という形でのみ、私たちは賛美の歌をささげることができるのです。
 私たちに、真の神の御名が、私たちが心からあがめ褒め称えるお方の名として与えられていることを、私たちは喜びましょう。
  そして神の力ある御業、愛と憐れみの御業、私たちが十字架の主イエス・キリストによって罪赦されたという純粋な喜びが、私たちが賛美する動機となりますように、と願いつつ、私たちは常に主の前にへりくだりましょう。
 私たちの語る言葉、私たちの行い、全てが主なる神への感謝となり、主なる神へ栄光をお返しするものとなりますように、私たちは願いつつ、新しい年度も信仰生活を共におくってまいりましょう。