2025年4月26日土曜日

2025年4月27日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編37篇7節a
賛美  新生讃美歌 27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
主の晩餐
賛美  新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  使徒言行録1章1~5節
祈祷
宣教  「父の約束を待ちなさい」
祈祷
賛美  新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 
今日から新約聖書の『使徒言行録』を初めから連続して、日曜日の礼拝メッセージとして、私たちは共に聞いていきます。(特別礼拝などでは、他の聖書箇所からも語られます)。
 新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書で始まります。福音書ではイエス・キリストが人として生きておられた間になさったこと、イエス様の教えたそのお言葉が記録されています。
 そして福音書は、イエス様が十字架にかかって死んだこと、そして復活したことまでを伝えます。
 イエス様の復活を記念しお祝いする、イースター(復活祭)礼拝を私たちは先週捧げました。
 私たちの主イエス・キリストは復活しました。世の何ものも、どんな悪の力も闇の力も、イエス様を完全に打ち倒すことはできませんでした。
 神の子イエス・キリストは死んだままではいなかったのです。イエス様は復活し、神の無限の力と希望とを私たちに示してくださいました。

 そして主の復活は、そこからイエス・キリストの福音宣教が新たな、世界的な広がりを見せる大きなきっかけともなりました。
 『使徒言行録』には、“使徒”と呼ばれたキリストの弟子たちが、イエス様が人として地上では彼らと共におられなくなって以降、主の復活後、いかにしてキリストの福音を伝道していったのかが、詳しく書かれています。
使徒たちは力強く、“イエス・キリストが神である”、という福音の知らせを人々に述べ伝えるようになりました。彼らは迫害の恐れの中でも、キリストの福音を述べ伝えることをやめませんでした。
 使徒言行録が伝える、(使徒たちを通して語られた)神の力あるメッセージを私たちは聞いていきましょう。
使徒言行録の筆者は、ルカによる福音書を書いたルカであると言われます。今日の最初の節に、『テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著わして』と書かれています。その第一巻が、ルカによる福音書なのです。

ですから「使徒言行録」は、「ルカによる福音書」の続編です。
使徒言行録は「テオフィロさまTheophilus,」という呼びかけで始まります。ルカによる福音書でも1章3節に「敬愛するテオフィロさま most excellent (NIV)」と書かれています。
 テオフィロという人について詳しいことは何も分かりません。一説には、テオフィロはローマ帝国の高官の一人であったと言われます。彼はイエス・キリストを信じる者となった人だったのだとも考えられます。
「テオフィロさま」と書かれることで、形式上は「ルカ福音書」や「使徒言行録」は、高官のテオフィロに個人的に充てて書かれた体裁となっています。
 しかしその内容は、一個人へ向けた使信という枠をはるかに超え、救い主イエス・キリストと、キリストの弟子たちによる福音宣教の働き全体を網羅した壮大な信仰物語であり伝道記録と言ってよい内容です。
テオフィロという名前は、「神の愛する者 whom God loves」、あるいは「神の友」a friend of Godという意味です。このことには、大きな意味があると私は思います。
 テオフィロに向けて書かれたということは、ルカ福音書や使徒言行録が、(そして実は聖書全体もが)、「神の愛する者」、そして「神の友」である全ての人々へ向けて書かれた書物である、ということをも意味するからです。
 「神の愛する者」、そして「神の友」とは、神を愛し神を信じるすべての人たちのことです。
ルカという福音書記者、そして他の多くの筆者たちの手を通して、神は御自身が愛する者へ向かって、ご自身の友に向かって、神様からの愛の書簡を聖書という形で書き残してくださったのです。
 神様が、どれほどの愛と慈しみを込めて、聖書の言葉を(人間の筆者たちを通して)書き残してくださったのか、を思うと、私たちは本当に嬉しく、また感謝の心が沸き上がってきます。
 聖書を通して今も神のメッセージを聞き、それを読むこともできる幸いを私たちは心から感謝したいと思います。

今日の3節に次のように書かれています。
3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

この3節には、復活のイエス様がなさったこと、そして今も私たちキリスト教会が託されている大切な務めが、凝縮されています。
それは、“主は生きておられる”ということを人々に示し、神の国について人々に語り続ける、という使命です。
十字架で死に、そして復活した主イエス・キリストは、数々の証拠をもって弟子たちに“わたしは生きている”ということをお示しになられました。
“主は生きておられる”のです。主は死んだままではおられなかったのです。これは今も決して変わることのない、神に関する真実です。私たちの主なる神は、“生きておられる神”なのです。
そして主が生きておられるので、その主が私たちと共にいてくださるので、私たちも生きることができるのです。
私たちは生きる上で様々な困難や苦しみがあります。しかし、私たちは決して一人ではないのです。
十字架の上で、またその十字架へと向かう道程でも、本当に苦しみぬかれた主が、私たちの困難や苦しみ、悲しみを共に担ってくださいます。
ですから私たちは、主が共におられると知っているので、その主は本当に今も生きておられる方だと信じるので、苦難の中でも生きる力が与えられます。

 イエス様が私たちと共にいてくださるとは、具体的には、主は今もそのお言葉をもって私たちと共にいてくださり、お言葉をもって私たちを励ましてくださる、ということです。
復活したイエス様は40日にわたって使徒たちに現われ、御自分が生きておられることを示し、そして神の国について彼らに語り続けられました。
イエス様は十字架にかけられて死ぬ前までと同じように、神の国について使徒たちに、そして人々に語り続けられたのです。
イエス様は、大切なことはきっと何度も繰り返して使徒たち語り続けられたのでしょう。紙に書き留めるということも簡単には出来なかった時代に、使徒たちは必死になってイエス様の話を聞き続けたと思います。
語り続けること、そしてまた聞き続けること、必死になって主の言葉をいただこうとすること、これは今の私たちにはその熱心さが欠けているものかもしれません。
なぜなら、今はいつでも聖書が読めますし、インターネットなどを通して聖書メッセージを聞こうと思えば、いつでも多くのメッセージに触れること、聞くことができるからです。
しかし、そのような今の時代だからこそ、私たちは神の言葉を熱心に、必死に聞く、“神が今語っておられる”という緊張感をもって御言葉を聞くことを大切にしたいと願います。

聖書の御言葉全体を、私たちは必死になって聞く、神が与えてくださるメッセージを私たちは喜びつつ、緊張感を持ちつつ、頂いていこうではありませんか。
私たちが体のために食べる食べ物の場合、バランスよく栄養のある食事をすることが大切です。同様に、聖書の御言葉もバランスよく頂くことが大切です。
自分の好きな食べ物ばかり、甘い食べ物ばかり、あるいは塩辛い食べ物ばかり食べる、と言った偏った食生活は健康を害します。
聖書の御言葉を私たちが頂くときも、耳に心地の良い言葉、自分にとって理解しやすい言葉、すぐに同意できる言葉だけを選んで聞いたりしていては、霊的な栄養が偏ってしまいます。
聖書の御言葉全体を、自分にとっては難しい箇所や厳しい箇所、“納得できない”と思われる箇所も含めて、私たちは神の言葉としていただいていきましょう。
そして私たちは聖書を、独りよがりの方法で読むのでなく、教会での御言葉の分かち合いと祈り合いの中で読み続けること、聞き続けることも大切にしていきましょう。

今日の4節~5節で、イエス様はこう言っておられます。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

これから弟子たちは、イエス・キリストの福音を世に伝える大切な働きをしていこうという時に立っていました。
そこでイエス様は使徒たちに「エルサレムに留まって、父が約束されたものを待ちなさい」と言われたのです。
“父の約束されたもの”とは、神の霊である聖霊のことです。

ルカによる福音書24章49節で、復活したイエス様が弟子たちにこう言っています。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

復活した主を見て、弟子たちは力づけられ、彼らはその時自分たちの力で伝道に出かけよう、と熱い気持ちになっていたかもしれません。
しかしそこでイエス様は“父の約束された聖霊が降るまで待て”と言ったのです。彼らの福音宣教の働きは聖霊の力と導きがなければ、けっしてなすことができない働きであったからです。
イエス様は、「福音宣教の働きは、決して人間が自分だけの能力や経験だけで行うものではない。聖霊の導きがまずなければ、それは決してできないことなのだ」ということを、今の私たちにも伝えているのはないでしょうか。
イエス様は「ヨハネは水でバプテスマを授けた。しかし、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言っています。
ヨハネとは、バプテスマの(洗礼者)ヨハネという人のことで、彼はイエス様にもバプテスマを授けた人でした。ヨハネは水を用いて、人々にバプテスマを授けました。
しかしバプテスマを通して、その信仰者に本当に信仰が与えられる働きをしてくださるのは、神の送ってくださる聖霊なのです。
バプテスマを授ける人間や、あるいはバプテスマに用いられる水や、バプテスマの儀式そのものに何か神秘的な力があるのではありません。

バプテスマを通して本当に働かれるのは、神の霊である聖霊であり、聖霊こそが、人に“イエスは主”という信仰告白をさせ、そして聖霊こそが、福音宣教の働きの真の原動力となるのです。
 私たちの信仰のあらゆる面において、今は目には見えないキリストが、聖霊を通して私たちを導いてくださいます。
信仰生活の大切な局面で、私たちは常に聖霊の導きを共に祈り求め、聖霊に従うという決意を新たにいたしましょう。
神の霊に信頼をし、神の霊である聖霊が豊かに私たちの教会の中で、その働きを豊かになしてくださいますように、とも私たちは祈りを合わせましょう。
神が“留まれ”というのならば留まります、そして神が“行け”と言われるのならば参ります、そのような、神に聞き従う従順な信仰をも持ちたいと、私たちは改めて願い、祈りましょう。

2025年4月19日土曜日

2025年4月20日 主日イースター礼拝 

前奏
招詞 詩編18篇17節
賛美 新生讃美歌240番
      救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌230番(月の讃美歌)
         丘の上に立てる十字架
献金
特別賛美
聖句 マルコによる福音書 16章1~8節
祈祷
宣教  “婦人たちの恐れ”
祈祷
賛美 新生讃美歌241番
       この日主イエスは復活された
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日私たちは、イースター(復活祭)の礼拝をささげています。
イースターでは、イエス・キリストが死からよみがえったこと、キリストの復活を私たちは思い起こし、キリストの復活を記念し、お祝いします。
 イースター礼拝の今日の聖書箇所は、新約聖書の『マルコによる福音書』16章1~8節、マルコ福音書の最後の章です。キリストの復活について、聖書の御言葉から、私たちは共に聞いてまいりましょう。
 その日は安息日が終わった後でした。安息日は土曜日でした。
安息日は、神が「あなたがたは六日間働いて、週の七日目(土曜日)は、何の仕事もせず休みなさい。七日目を聖なる日としなさい」とイスラエルの人々に命令したことによって、定められました。
 その安息日が終わり、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという三人の女性たちが、イエス様が葬られた墓へ向かったということが、今日の箇所では描かれています。

 彼女たちは安息日が終わるのをずっと待っていました。なぜでしょうか。彼女たちは、死んで墓に葬られたイエス様の遺体に、油を塗りに行こうとしていたのです。
  イエス様の遺体に、油(香油ともいわれる、非常に高価な香水と考えてよいです)を塗って、イエス様のお体を綺麗にして差し上げたい、と彼女たちは心から願っていました。
 その日は安息日である土曜日の次の日の朝早く、つまりそれは日曜日の早朝でした。
 イエス様は金曜日に十字架の上で死んだので、今日の箇所のその日はイエス様が死んで葬られてから、既に三日目になっていました。
 なぜ彼女たちが、イエス様が死んで三日目に油を、その遺体に塗りに行こうとしたのでしょうか?
 それはイエス様が金曜日に死んだとき、安息日が近づいていたのでイエス様のお体が素早く葬られてしまい、丁寧な葬りをすることができなかったからです。
安息日は、いかなる仕事をすることも許されていなかったので、死体を埋葬することさえ、許されなかったようです。
 ですから、今日の箇所の婦人たちは、安息日が終わり、仕事をすることが許される日になった時、すぐにイエス様が葬られた墓へと行きました。

イエス様のお体に、二日前にはすることができなかった、高価な油でそのお体をふいて差し上げる、ということを彼女たちはしようとしたのです。
 ここで女性たちがイエス様の遺体に油を塗りに行こうとしたことは大変な勇気を必要とすることでした。
イエス様は、自らを神と言って神を冒涜した者として、また自らを王と名乗ってローマ帝国の権威に反抗した者として、十字架の上で処刑されました。
聖書は、イエス・キリストの弟子たち(男性たち)が、イエス様が捕まったときには、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったことを伝えています。彼らは怖くて逃げだしてしまったのです。
 イエス様の一番弟子であったペトロは、“お前もあの人(イエス)の仲間だっただろう”と人から言われた時、“そんな人は知らない”と言って、はっきりとイエス様のことを(三度も)知らない、と言い切って否定しました。
 イエス様が葬られた後も、ペトロ達弟子たちは恐ろしくて、自分たちの家に閉じこもっていました。
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とヨハネ福音書20章19節には書かれています。

しかし、男性の弟子たちがそのように恐れの状態の中にあった時、今日の箇所の女性たちはイエス様の墓へと向かったのです。
 男性の弟子たち、イエス様と最も身近について仕えていた者たちは、皆逃げ去ってしまっていました。
 しかし、当時のユダヤ社会では男性よりも劣る存在と見なされ差別的な扱いを受けていた女性たちが、イエス様の墓へと急いだ、そのような勇気ある行動をとったことは、大変意義のあることです。
 人の社会では低い者とされていた女性たちが、主なる神には重んじられ、主の復活の知らせを最初に聞く者たちとして選ばれた、ということです。
 主なる神は、弱く小さくされた者に目をとめてくださり、そのような人たちをこそ大きくお用いになるのです。
 しかし「主のお体に、綺麗に香油を塗って差し上げたい。きちんとした葬りをして、主をお見送りしたい」と願っていた彼女たちに、一つ大きな問題がありました。
 それは、墓の入り口を、大きくて重い石がふさいでいたことです。
 当時のユダヤの墓は、岩をくり抜いて洞窟のようにした形のお墓が一般的でした。そして墓の入り口は、遺体が納められると、重い石でふさがれたのです。
 マリア達三人は、墓へ行く途中、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。
 彼女たちだけでは、決してその重い石を動かすことはできませんでした。そして彼女たちは、“誰が助けてくれるのか”、も分からないままでした。
しかし、彼女たちが目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。(4節)
 今日の箇所が最初に私たちに伝えることは、これです。イエス様の復活の出来事は、私たちに「神には何でもおできになる」ということを先ず伝えます、ということです。

 神にできないことは何もないのです。信仰に突き動かされて、私たちが一歩を踏み出す時、私たちを妨げるものは何もない、ということです。
 今様々な、それぞれの事情や心配事で、不安を抱えた方々が皆さんの中にもいらっしゃると思います。
 「だれがあの重い石を転がしてくれるだろうか」というのと似た不安を抱えている方がいらっしゃるでしょうか。
 “もう自分の力ではどうにもならない。誰が助けてくれるのだろう”と心配で不安で、心細く思っておられる方がおられるでしょうか。
そのような不安を抱えた私たちに聖書は伝えます。「心配しなくてよい」。
復活の主イエス・キリストにとって不可能なことは何もないのです。キリストを復活させた天の父なる神には不可能なことは何もないのです。
死にさえも打ち勝ったキリストの御力が私たちに与えられているから大丈夫だ、とイースターの出来事は今も繰り返し私たちに伝えます。その力強い知らせを私たちは信じていきましょう。

 彼女たちが墓の中に入ると、そこには白い衣を着た若者が座っていました。その若者は、神の使い、天使であったと思われます。
その若者は次のようにいいました。6節から7節をお読みします。
6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

主イエス・キリストは復活されたのです。
“死んだ人は墓の中にずっといる”という常識を覆し、また“死んだあのお方に油を塗って差し上げよう”と願った女性たちの思いをも覆して、主は復活したのです。
イエス様の直弟子であった男性の弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまっていました。
イエス様と関係する者であることが知れたら、捕まるかもしれない、という恐れの中、イエス様の墓へ行った女性たちの勇気は大したものであったと言えます。
それでも彼女たちは、やはり人間の常識の範囲の中で行動していました。彼女たちにとってイエス様はもう死んだお方だったのです。

ですから彼女たちはイエス様に最後の葬りをしようと願いました。
“イエス様はもう死んだお方として、その方の死を受け入れよう、これからはイエス様なしで自分たちだけで生きて行こう”、という決心をも、彼女たちはするつもりだったと思います。
しかしイエス様は復活したのです。イエス様は死んだままではおられなかったのです。主の復活は神が定めた出来事であり、私たちに与えられる最大の希望の出来事です。
 イエス様は人の罪のため、私たち人の罪のために十字架にかかって死なれました。私たちのためにイエス様は死なれたのですから、イエス様を死に追いやったのは、今の私たち一人ひとりでもあると言えます。
 それは受け入れるには大変厳しく、苦しいことですが、キリスト者の信仰にとって大変重要なことです。

 後に、ペトロが、イエス様の死後、そしてイエス様の復活と昇天の後、聖霊により力を受けて次のように人々に伝えました。
 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
(使徒言行録2章23~24節)

 悪の力はイエス・キリストを死んだままにしておこうとしました。そして、私たち人間の諦(あきら)めの心、あるいは私たちの常識は、イエス・キリストを死んだままにしておこうとするでしょう。
 ”死んだ人が生き返るはずがない“、”そんな非常識な話のどこに希望があるのだ“と私たちの常識はまず反応するかもしれません。
 そのような否定的な思いでなくても、“イエス様は生きておられる間に、確かに素晴らしい数々の業をなさった。しかし、その人は死んだ。私たちは、キリストが死んだ事実を受け入れ、あとは自分自身で生きていくべきだ”と人は願うかもしれません。
しかし、神のご計画はそうではありませんでした。イエス様は死からよみがえり、弟子たちに先立ってガリラヤへ行き、そこで彼らを待っておられるのです。
主はよみがえりました。主は今も私たちに先立って行き、そしてまた私たちと一緒に歩み、生きてくださいます。
ですから、私たちはイエス様をただ普通の人間のように、既に死んだ者として死んだままにはしておかず、イエス様は復活した、主はよみがえられたと言う聖書が伝えるその真実を信じて、キリストに従っていきましょう。
“さあ行きなさい”、と女性たちに告げられたように、今の私たちも復活の主に出会うことによって、“行きなさい”と主が言われる道へ、私たちそれぞれが行くべき道へ遣わされていきましょう。

 しかし、今日の最後の節である8節を見ると、婦人たちは墓を出て逃げ去りました。
 彼女たちが目撃したことが、彼女たちのそれまでの経験をはるかに超える衝撃的なことであったので、彼女たちは大変な恐れに包まれたのです。
 彼女たちはあまりに恐ろしくて、誰にも何も言わなかった、と書かれています。
 しかし、彼女たちはその恐れを、やがて復活の主イエス・キリストの愛の力によって克服し、彼女たちは主の復活について弟子たちや他の人たちに伝えたと、私は信じます。
 そして彼女たちの恐れは、大きな喜び、信仰への希望へと後に変えられていったと私は信じます。
  復活の主イエス・キリストに出会う時、私たちはそれまでと違う新しい生き方、新しい道を歩みだすようにと促されます。

その行く道ははっきりと先までは見通すことができず、最初私たちは不安に思うかもしれません。これからどうなるのだろう。誰が助けてくれるのだろう、と色々なことが依然として心配になるかもしれません。
 しかし心配はいらないのです。主が復活されたからです。この世の何ものも、私たちを完全に挫き不安や絶望の中においたままにすることはできません。
 主イエス・キリストが死からよみがえり、復活のキリストが今も生きて私たちと共におられるからです。キリストが私たちに先立って進んでいかれるからです。
 復活の主が行かれるその道を、私たちもその信仰の道を復活の主と共に歩んでまいりましょう。

2025年4月12日土曜日

2025年4月13日 主日礼拝

前奏
招詞  イザヤ書53章3節
賛美  新生讃美歌 232番  カルバリ山の十字架につきて
主の祈り
賛美  新生讃美歌 230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  マルコによる福音書15章16~32節
祈祷  
宣教  「ののしられる救い主」
祈祷
賛美  新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 キリスト教では、天地と世界のすべてのものをお造りになった神が人なったこと、すなわち父なる神が御子イエス・キリストとして、この世界に生まれてこられたと、私たちは信じます。
 イエス・キリストが人としてお生まれになったことを記念し、お祝いするのがクリスマス(降誕節)です。プロテスタント教会の伝統では、私たちは毎年12月25日にクリスマスを記念します。
 イエス・キリストの誕生は、人々が待ちわびていた大きな希望の到来でした。
 神様からの真の希望、真の光であるお方が世に生まれたことを感謝し、喜ぶために、教会ではクリスマスをとても大切にしています。
 そしてキリスト教会は、イエス・キリストが死んだ後に復活したことを記念する「復活祭(イースター)」も、とても重要な記念日として、大切に守ってきました。

 今週(4月13日~19日)は「受難週」(Passion Week, or Holy Week)と呼ばれる一週間です。受難週は、復活祭(イースター)の日曜日の前の一週間を指します。
 クリスマスとは違い、イースターの日付は毎年変わります。春分の日とその後の満月の日の関係によって、イースターの日曜日が決定されるのです。今年は4月20日(日)がイースターです。
 キリストが復活したこと(死からよみがえられたということ)は、それは多くの人には、常識的にはとても信じられない、ばかばかしい話とさえ聞こえる出来事かもしれません。
しかし、キリストが死から復活したからこそ、イエス・キリストの福音は、大きな希望と喜びの知らせとして人々に信じられ、その知らせが世界中に伝えられるようになりました。
 主イエス・キリストは復活したのです。では、復活の前、イエス・キリストはどのように死んだのでしょうか。
皆さんご存じであると思いますが、イエス様は十字架刑という死刑(当時、約2000年前のローマ帝国の支配地域で最も残酷と言われた処刑方法)によって死にました。
  イエス様が、最も重い十字架刑を受けたということは、その刑に相当する重大な犯罪をイエス様が犯したのだ、と普通は考えられます。

では、イエス様はどのような罪を犯したので、十字架刑にかかったのでしょうか。
 結論から言えば、イエス様は十字架刑に処せられねばならないような、どのような罪をも犯されませんでした。
 聖書には、イエス様に十字架刑を最終的に宣告した権力者その人が、「わたしはこの人(イエス)には、何の罪も見いだせない」とはっきり述べた、ことが書かれています。
 今日の聖書箇所はマルコ福音書の15章の箇所です。マルコ15章14節で、当時ユダヤの総督だったピラトが、「彼(イエス様)を十字架につけろ」と要求するユダヤ人たちに、「いったい(彼が)どんな悪事を働いたというのか」と聞いています。
 イエス様を十字架につけろ、殺せ、と言って強く訴えたのは、当時のユダヤ教の指導者たち(祭司長や律法学者、ユダヤ議員の人たち)でした。
 彼らは、イエス様を“神を冒涜する者”として訴え、そして実は、“多くの人々が、イエス様を信じイエス様に従うこと”に彼らは嫉妬したので、“この男(イエス)を殺せ”と主張するようになったのです。

  そしてユダヤの指導者たちにつられて、段々と他の大勢の群衆も、“この男(イエス)を殺せ、十字架につけろ”という声に同調していった様子も、聖書に書かれた内容から想像することができます。
 先ほどもそれに言及しましたが、総督のピラトは、”この男(イエス)を十字架につけろ“という人々の声に対して、次のように言っています。
 「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」
(ルカによる福音書23章22節)

 ピラト自身は、イエスという人に、どんな罪をも見出すことはできませんでした。
 しかしピラトは、イエス様を十字架につけることを最後は認めてしまいます。大勢の人々の声(要求)に最後は屈したのです。
ピラトは、何の罪もないとピラト自身信じている人に対して、死刑を宣告してしまったのです。
「この人は何も悪いことをしていない」とピラトは思い、そのように彼は言葉でも言いました。何がピラトにそのように言わせたのでしょうか。
人間には良心というものがあります。正しく物事を判断しようとする理性もあります。公正を求める心が私たちには備えられています。
それらは、いずれも神様から私たち人に与えられたものです。物事は正しくあるべきだ、という心、悪を憎み悪に対抗しようとするそのような心(良心)は、神様から私たちに与えられました。
そして、神から与えられたその良心が、ピラトに「この人(イエス)は何も悪いことはしていないのだ」と正しく判断をさせました。

しかし、「この人は何も悪いことをしていない」と、良心は人に伝えても、その良心、神の声に従って実際に行動できるかどうかは、また別の問題となります。
なぜなら、神から与えられた良心から私たちを引き放そうとする、悪の力と誘惑があるからです。私たち人間の弱さも、そこにはあります。
パウロという信仰者は、聖書の中で次のように言いました。
ローマの信徒への手紙7章15節
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

17節には、こう書かれています。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

何が正しいのか、どう行動すべきか、それは神から与えられた良心と、また神の愛の心によって、私たちに知らされます。
しかし、私たち自身の内に住む罪の性質のせいで、どうしてもそれに従うことができない、という葛藤が私たちにはあるのです。
ピラトは、良心という神からの声に聞きしたがうよりも、民衆の声に聞き従い、それによって総督としての自分の立場を無難に守ることをも優先して、無実の人を死刑にしてしまいました。
ピラトの行動が示すそのような弱さと罪、そしてローマの信徒への手紙でパウロが呻くようにして書き綴った人間の罪と悪の性質を、私たち自身も持っていることに、私たちは向き合わねばなりません。
その罪を私たちは、自分でなくすこと、処理することはできないのです。この罪は、私たち以外の、本当に強力で、しかも全く罪のないお方によって赦してもらわなくてはならないのです。
そのような私たちの罪を赦すために、イエス・キリストは十字架へと向かい、十字架の上で命を捨ててくださった、と聖書は伝えています。

 16節からの今日の箇所には、兵士たちが総督官邸の中にイエス様を引いて行き、そこへ部隊全員が呼び集められたことが描かれています。
  多くの兵士たちが集まった理由は何だったのでしょうか?それは、一緒になってイエス様をからかって、侮辱して楽しもうということでした。
 彼らはイエス様に紫の服を着せた、と書かれています。紫の服は、王様としての威厳を表すものでした。そして金の冠の代わりに、彼らはイエス様に茨の冠を被せて侮辱しました。
紫の服を着せ、しかし金ではなくて茨の冠を被せて「こいつは偽物の王様なのだ!」と言って彼らはイエス様をからかったのです。
彼らは「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエス様に敬礼(するふりを)して、葦の棒でイエス様の頭をたたき、つばを吐きかけて、ひざまづいてイエス様を拝みさえしました。
イエス様を侮辱した兵士たちの姿から、”自分よりも立場の弱い人を侮辱したり攻撃したりして、その人よりも自分が優位であることを確認しようとする“という、私たち人の悪の性質と感情を、私たちは示されます。
 真の神であるお方が、ここまで徹底的に人々からの侮辱とあざけりをお受けになりました。神が私たちの悪の性質、罪を一身になって受けてくださったということです。最後まで。

そして今日の箇所には、イエス様と一緒に二人の強盗も十字架にかけられたと、書かれています。
「彼は罪人のひとりに数えられた」と旧約聖書イザヤ書53章12節に書かれています。イエス様が他の犯罪人たちと一緒に十字架にかけられたのは、まさにその聖書の預言の成就であり、神の御心でした。
 十字架にかけられたても、なお人々はイエス様を罵り続けました。今日の箇所の31~32節をお読みします。

31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

「こいつは他人は救ったが、自分は救えない」と言う言葉がイエス様に投げつけられました。
 イエス様は、ご自分を救おうと思えば、ご自分を救えたはずです。十字架から降りることなど、神がそう望むならば、イエス様には簡単にできたはずです。
 しかし、“他人は救ったが、自分は救えない(救わない)”というお姿で、イエス様が何もいわずに十字架にかかり続けることが、私たち人の救いのためには必要であったのです。

 私たちを救うため、イエス様は人々からの侮辱の限りの中に最後までとどまり続けてくださいました。
 ご自分を救おうとはせず、私たち人のためにすべてを捨てて、全てを忍びとおし、私たち人を最後まで愛し通し、私たちを救おうとしてくださった方のお姿が、ここにあります。
 「今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう」~このような人々からの声を聞きながら、それでも主イエス・キリストは、十字架の上で、罪人の救いのためにその命をささげてくださいました。
 そのお姿には、当時ユダヤの人々がずっと期待して待っていた救い主の姿はありませんでした。自分たちの国を支配している帝国を強い武力で打ち倒す英雄の姿はありませんでした。
 そこには、十字架の上から自らおりて、兵士たちを打ち倒す強い男の姿はありませんでした。ただ何も言わず、十字架の上で苦しみ続ける人の姿だけがそこにありました。
 私たちは、“救い主を十字架をつけ、そのお方をののしり続けた人々の姿”の中に、私たち自身の姿を重ね合わせなくてはなりません。
”イエス様を十字架につけたのは、この私だ、私たちだ“という思いと悔い改めに私たちは導かれていくのです。
そして神によって造られた人は、本来そのように行動すべきではない(すべきではなかった)、とも教えられるのです。
  救い主キリストを私たちは十字架につけ、そのお方を侮辱してはならなかった、今もしてはならないのです。
 受難週の今週、主イエス・キリストが十字架にかけられたその出来事に、そしてそこで人々から侮辱の限りをお受けになったことに、私たちは思いを向け続けましょう。
 すべてに耐え、十字架の上で命を捨ててくださった主イエス・キリストによって、私たちは自分では処理することのできない罪を赦されたのです。

  私たちの罪の赦しと救いの達成のために、主イエス・キリストが歩まれた苦難の、最後の一週間を心に刻み、今週の日々を私たちは歩んでまいりましょう。ss

2025年4月5日土曜日

2025年4月6日 主日礼拝

前奏
招詞  ルカによる福音書2章14節
賛美  新生讃美歌227番 カルバリの丘へと
祈りの時
主の祈り
賛美  新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句  詩編21篇14節
祈祷
宣教  「主なる神に栄光を」
祈祷
賛美  新生讃美歌213番 われらに伝えよ
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


4月から始まる新しい年度(2025年度)最初の主日礼拝を、こうして私たち共に捧げることができる恵みを、私たちは感謝いたします。
 本日の聖書の言葉は、次の詩編21篇14節(英語訳NIVでは13節)の御言葉です。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
 この聖句を、私たちの教会は、今年度(2025年度)の年間聖句として選びました。そして、この聖句と共に選ばれた年間主題は「全て主なる神の栄光のためにAll for the glory of the Lord God.」です。
私たちの祈りと話し合いによって、この聖句と主題が私たちに与えられたことの意義を、私たちは吟味したいと願います。
神をあがめること、私たちの主であるお方の御名をあがめ、賛美することは、信仰者の生きる目的そのものです。
私たちは何かを崇(あが)めて生きていく者です。自分自身の中で何かが一番大切なもの、すなわち生きる目的となり、それを求めて(あがめて)私たちは生きていきます。
様々なものが、私たちによってあがめられる対象となります。色々なものが、私たちが日々生きる目的となり得ます。

より多くの物を所有すること、あるいは社会的地位やお金、成功、あるいはどれだけ自分に能力や才能があるかなど、それらも私たちが生きる目的となり得ます。
しかし、聖書は言うのです。「主こそが、あがめられますように」、「私たちは、主なる神をこそ、あがめて生きよう」
イエス・キリストはご自分の弟子たちに、祈りの言葉を教えてくださいました。
イエス様の弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願ったとき、イエス様は彼らに祈りの言葉を教えました。
その時イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉がもととなって、今私たちが礼拝で祈る「主の祈り」となっています。

主の祈りの最初の言葉は次の言葉です。

天にまします われらの父よ 御名をあがめさせたまえ

天におられるお方、この世界のすべてをお造りになったお方が、私たちの父(神)であることを、主の祈りの初めの言葉で私たちは確認します。
“父”とは、神が男性という意味ではありません。神は人間の性別を超越しておられるお方です。
それに続いて、“父なる神の御名があがめられます(聖なるものとされます)ように”、と主の祈りの言葉は続きます。
神様の御名があがめられますように、聖なるものとされますように、という言葉を祈りの言葉として最初に唱えなさい、とイエス様は弟子たちに最初に教えになりました。
それは、“神様の御名が私たちに与えられていることが、どれほど特別なことであるか認めて、私たちはそのお方(神)をほめたたえよう”、という促しです。
言葉には、内実(中身)が伴わなくてはなりません。今イエス・キリストを信じる信仰者であっても、神をあがめることをせず(聖なるものとせず)、自分が自分の中心に居座ったままで主の祈りを唱えることがあり得ます。
それでも、イエス様が教えてくださった祈りの言葉、聖書に基づいた私たちの祈りの言葉は、私たちの信仰を形作るのに、大変重要です。

 「主の御名があがめられますように」、「私たちは主をあがめよう」と言っても、心の奥底では、まだ私たちは自分が自分の王様であり主となっているかもしれません。
  しかし、そのような罪(神を神とせず、自分やそれ以外の何かを神とするような罪)を抱えつつ、私たちは“主があがめられますように”という言葉が、本当に私たちの本当の祈りの言葉となるように、と常に願って信仰生活を送っていきたいと願います。

  詩編21篇14節(NIV 21:13)では、 “御力を表される主をあがめよbe exalted in your strength, Lord”と言われ、主なる神が力あるお方であると書かれています。
 私たちの主なる神は、どのようにしてその力を表すお方でしょうか。

今私たちは、イエス・キリストが、私たち人の罪を赦すために十字架にかかって死ぬため、十字架への道を自ら歩まれたことを特に覚える受難節(レント)の時を過ごしています。
 イエス様はユダヤの地で生きて、伝道活動をしておられた時、数々の力ある業をなさいました。病気の人々を癒し、悪霊に憑(つ)かれた人たちから悪霊を追い出しました。
 イエス様は嵐を静めることさえなさいました。それらもイエス様がお示しになった力ある業です。

 しかし、イエス・キリストが私たちにお示しにあった究極の力ある業は、それは全ての人の罪を背負い、まったく罪のなかったご自身を十字架の上で捧げられた、その犠牲の御業でした。
 イエス様は、最期はもう何も言わずに、ただ黙って十字架を背負わされ、ご自分が処刑される場へと引かれていきました。
その十字架の主イエス・キリストは、私たちが普通に考える“強さ”の像(イメージ)とは、まったく相容れないお姿です。
 しかし、私たちが、自らを低くして、十字架の主イエス・キリストを信仰の目によって見上げるとき、そこにこそ神の真の力があることを私たちは知ります。
 イエス・キリストが、あらゆる悪の力、死の力に打ち勝った、究極の力の御業が十字架の上でこそ現わされたのです。
  十字架の上のイエス・キリストが、私たちの罪、私たちの弱さ、欠け、それらすべてを背負ってくださっています。
ですから、私たちは罪赦された者として、大きな喜びをもって、主なる神を崇める生き方へと導かれるのです。神を喜び、神を賛美する生き方へと私たちは招かれるのです。

 聖書は“いかなる人も神の前に自分で正しい人、義なる人はいない”と伝えます。私たち誰もが、欠けと弱さのある罪人だと伝えます。
そんな私たちが主イエス・キリストの名によって集まり、イエス・キリストを賛美、礼拝するという恵みを与えられています。
その点において、キリスト教会は本当に特別な宝を頂いている、と言うことができます。
 主をあがめることができる恵み、そのような宝を頂いていることを、私たちは共に喜ぼうではありませんか。

 詩編21編は、前の詩編20篇の続きであると考えられています。詩編20篇では、王が戦いで勝利することが願われています。
 そして続く21編は、その祈りと願いがかなえられたことを感謝し、神をほめたたえる内容となっている、と読むことができます。
  詩編20篇7節(6節 NIV)には、「主は油注がれた方に勝利を授け」The LORD gives victory to his anointed と書かれ、20篇10節(9 NIV)には、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」LORD, give victory to the king! Answer us when we callと書かれています。
そのように、王の勝利を願う内容でありながら、その勝利を王にお与えになるのは、主なる神であることが、これらの詩編では唄われています。

20編8節 (20:7 NIV)には次のように書かれています。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。

王が勝利することができるのは、王自身の力や、戦車や馬の力によってではない、というのです。“勝利を賜るのは、主なる神である”と、ここで告白されています。
そして21編2節(1節NIV)では、このように書かれています。

「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る」

21編8節(21:7NIV)では、このように書かれています。
王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。

私たちの主なる神は、私たちが常に依り頼むことができるお方です。主なる神は私たちに愛と慈しみを与えてくださるお方です。
 そして、自分たちの王に勝利(成功)が与えられても、その勝利(成功)の源は主なる神であり、“王が勝利に慢心することなく、常に主なる神を称えますように”という願いが、この詩編の言葉には表れています。
 そして王も民も、すべての者が主なる神の前にへりくだり、自分たちや自分たちの王を崇めるのではなく、主なる神のみを崇めることが出来ますように、と言う願いもここに現わされています。
  それは、勝利(成功)の栄光を、自分たちのものとしてしまうことなく、勝利の栄光を主なる神にお返しできますように、という彼らの信仰の願いです。
  主の力ある御業によって守られ、勝利を与えられた人が、自分自身を誇って自分に栄光を帰することなく、主なる神に全ての栄光をお返しできますように、という信仰を、私たちも大切にしていきたいと願います。
 そして今日の聖句、そして今年度の私たちの年間聖句は、「力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」we will sing and praise your might.と言って続いています。

 神の愛の御業によって励まされることで、私たちには主を賛美する歌が与えられるのだ、とここから示されます。
 通常、礼拝メッセージの後の讃美歌は、“応答讃美歌”と呼ばれます。それは直接的には、その日語られた神のメッセージ(恵み)への応答、という意味です。
 しかし、今日の聖句から、私たちの賛美は、私たちのために既に成し遂げられた神の偉大な御業への応答と言う意味で、私たちの賛美は全てが“応答賛美”であるのだと、私たちは教えられます。
 神をたたえる賛美の歌も、それは私たち自身の中から出て来るのではないのです。
 神の力ある御業、愛の御業が先にあって、それらへの感謝の応答という形でのみ、私たちは賛美の歌をささげることができるのです。
 私たちに、真の神の御名が、私たちが心からあがめ褒め称えるお方の名として与えられていることを、私たちは喜びましょう。
  そして神の力ある御業、愛と憐れみの御業、私たちが十字架の主イエス・キリストによって罪赦されたという純粋な喜びが、私たちが賛美する動機となりますように、と願いつつ、私たちは常に主の前にへりくだりましょう。
 私たちの語る言葉、私たちの行い、全てが主なる神への感謝となり、主なる神へ栄光をお返しするものとなりますように、私たちは願いつつ、新しい年度も信仰生活を共におくってまいりましょう。