2025年8月30日土曜日

2025年8月31日 主日礼拝

前奏
招詞  コヘレトの言葉3章14節
賛美  新生讃美歌618番  主のためにわれは生く
主の祈り
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句  使徒言行録5章27~42節
祈祷
宣教  「神から出たものであれば」
祈祷
賛美  新生讃美歌520番 人生の海のあらしに
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

キリスト者(クリスチャン)とは、キリストに従う者です。いつもキリストに従って生きることはできないとしても、キリスト者は、神であるキリストに従って生きることを決意している者です。
私たちは何かに従って生きていきます。それを私たちが意識しているか、していないかに関わらず、私たちは何らかの考え、自分の経験、自分の希望、他の人からの指示や助言といったものに従って、生きています。
キリスト者も、自分自身の考えや希望、また他の人からの助言などにも、もちろん耳を傾けます。
しかしキリスト者は、神であるキリストの教え、聖書の御言葉を最も大切な指針と基準として生きていきます。
 もし自分自身の指針、あるいは希望と、神が言われることが違う場合には、キリスト者は神に従って生きます。

キリスト者はそう決意しているはずです。しかし、それは簡単なことではありません。
 今日の聖書箇所で、ペトロと他のキリストの弟子たち(使徒と言われた、初期の教会の中心的メンバーたち)が「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(29節)。
 彼らのその姿から、神に従って生きること、神の御心を求めて生きること、について今日私たちは共に考えたいと思います。
今日の前の箇所(先週の礼拝メッセージで私たちが聞いた場面)で、使徒たちは捕らえられて牢に入れられていました。
イエス・キリストの名によって話してはならない、と命じられていたのに、彼らはキリストの福音を宣教し続けていたので、彼らは捕まってしまったのです。
しかし主の天使が来て牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出しました。その時、主の天使が彼らに言いました。

「行って、神殿の境内に立ち、命の言葉(神の言葉)を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
その声に従い、使徒たちは神殿の境内で、再び人々を教えていました。
そして彼らは再び捕らえられ、最高法院(当時のユダヤ社会の最高裁判所のようなもの)の中に立たされた、というのが今日の聖書箇所です。
最高法院は、当時のユダヤ社会の最高の権威であり、最も力のある機関(組織)であったと言ってよいでしょう。
大祭司が使徒たちに言います。

「あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと、厳しく命じたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28節)

そこでペトロと他の使徒たちは答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません

相当な力と権威をもった最高法院で、しかも大祭司という宗教的に一番高い地位にある人から尋問されても、ペトロ達はそのように堂々と答えることができました。
ペトロたちをそのように堂々と振舞わせたのは、彼ら自身の強さだったのでしょうか。そうではなく、それは十字架と復活のイエス・キリストでした。

31節をお読みします。ペトロたちの言葉です。

31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

“この方(him)”とは、イエス・キリストです。なぜキリストが十字架で死に、そして復活したのか。
それは、イスラエル全体、最後にはすべての人々に罪を自覚させ、神に立ち返って、人々が罪赦されて、救われるためだ、とペトロは言うのです。
その確信が、大祭司を前にしても、ペトロに堂々と語らせる力となっていたのです。
十字架と復活のキリストに救われた者は、“人間に従うよりは、神に従わねばならない”という確信をもって、何とかその通りに生きようと努力をする者になるのです。
人間に従うのではなく神に従う、とは、人のことを軽視したり無視したりすることではありません。それは、人間よりも主、神を恐れるということです。
“私たちの命の源であり、この世界のすべてをお造りになったお方である神をこそ、神のみを私たちは恐れなさい”、と聖書は私たちに命じます。
神への恐れを正しく持つと、私たちは人に従うのではなく神に従う、という生き方がだんだんとできるようになると、私は信じます。

 私たちは神を恐れ敬うことを知ると、自分以外の他者をも敬って、大切な存在として向き合うことができるようになります。
そして、もし神が私たちに指し示すことと、人や、私たちの周りの社会が私たちに指し示すことが異なる場合には、キリスト者として神に従うことができますようにと、私たちは願います。
私たち信仰者一人ひとりが、そして教会が、“人間に聞き従うよりも、神に聞き従うこと”の意味を考え続け、それを実践していくことができるようにと私たちは願います。

 今日の箇所で、そのような使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました(33節)。
しかし、その時本当に思わぬところ(人)から、使徒たちへの助けの手が差し伸べられたのです。
その時、最高法院の中で立ち上がって、議員たち全員に冷静な判断を呼び掛けたのは、外ならぬその最高法院のメンバーの一人でした。
彼は、”民衆全体から尊敬されていた律法の教師“で、ファリサイ派に属するガマリエルという教師でした。
普通に考えれば、彼(ガマリエル)は最高法院の議員たちの側の人であり、使徒たちとは対立する立場の人であったはずです。
しかしガマリエルは、大祭司や他の議員たちとは違い、非常に公平な、知恵のある判断をして、“あの者たち(使徒)の取り扱いは慎重にすべきだ”と主張しました。
 ガマリエルは過去にあった出来事を議員たちに思い起こさせて、それらを教訓として、冷静に判断をしよう、と呼びかけます。
最初の出来事は、“かつてテウダという人が自分のことを何か偉い者のように言って立ち上がり、400人ぐらいの人が彼に従った”という騒乱のことでした。
その時テウダは殺され、従っていた者たちも皆散り散りになった、と言います。
次の出来事は、ガリラヤのユダという人が民衆を率いて起こした反乱です。結局、彼(ユダ)も滅び、彼につき従った者たちも皆、ちりぢりにさせられた、という出来事でした。
 そしてガマリエルは、最高法院の議員たちに、“今回、彼ら(ペトロと使徒たち)からは手を引きなさい。何もするな”と言いました。

 38節~39節の彼の言葉を聞きましょう。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

 このような判断をすることができたガマリエルと言う人はすごい人物であったと、私は思います。
 ガマリエルにこのような知恵ある判断と言葉を与えたのは、まさに神であったと言ってよいと思います。
 ガマリエルの言葉は、神から私たちへの大切な教えをいくつも含んでいると私は考えます。私が思わされた、その中の二つを申し上げます。
 一つは、やはり大切なことは何事も慎重に、神の御心を求めて祈り、決して早急に判断したり行動したりしない、ということです。
 「何とかしなくては」という焦りや、自分自身の感情(怒りの感情など)だけに大きく突き動かされて行動しない、ということです。
 重要であればあるほど、慎重に、感情的な判断をするのではなく、祈り、考え、神の御心を求めることによって最適な判断をくだすことができるように、私たちは務めましょう。
そしてもう一つは、“それが人間から出たものならば自滅する。それが神から出たものならば、それを滅ぼすことはできない”ということです。
ガマリエルには、ペトロたちの働きが神から出たものだ、という思いがあったのかもしれません。

いずれにしても彼は、“もしそれが人間から出たものであれば、自滅する。決してそれは成功することはない。しかし、もしそれが神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは決してできない。神が彼らと共におられるのだから”と考えたのです。
 このような知恵の言葉、冷静で信仰的な判断が、使徒たちとは本来反対の立場の者の中から出たとは、驚きです。
この時ペトロと他の使徒たちは、敵の側によって助けられた、と言ってよいと私は思います。これも、神のなさる不思議な業です。
神はこのように様々な人を用いて、ご自身のご計画を進められることがあります。神は色々な人を通して語ることがあるのです。
ですから私たちは、自分以外の色々な人の声や意見、自分とは異なる考えや意見を持つ人々の声、互いの声に耳を傾け合うことを大切にいたしましょう。
 ガマリエルの意見は聞き入れられましたが、しかし使徒たちは釈放される前に、鞭で打たれて、そして“イエスの名によって話してはならない”と再び命令されました。

 40節を見ますと、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
 そして彼らはそれからも境内で、またあちらこちらの家でメシア(救い主)・イエスについて、その福音を告げ知らせ続けた、という描写で今日の箇所は終わります。
鞭打たれたことは彼らには痛く、またそれは屈辱でもあったはずです。
しかし、体の痛みや屈辱を上回る喜びが彼らには与えられました。それはキリストの福音を告げ知らせる、という喜びでした。
今、直接的な迫害は受けていない私たちには、この箇所は理解しにくいかと、思います。
しかし、現代の信仰者である私たちも、キリスト者としての信仰と、私たちが生きる社会、世の中の風潮や考え方が対立することで、辱めとまでは言えなくても、不都合な思いや、嫌な思いをすることがあるかもしれません。
 私たちは、私たちが生きる社会、世界のためにも祈ります。
そしてキリストによって救われた私たちは、やはり“神からでたもの”を大切にした信仰に根ざした生き方を、世が求める風潮や常識よりも大切にしていきたいと願います。
 初期の頃のキリスト信者たち、ペトロや他の使徒たちが、迫害の中でも、神や他の人々の助けを得ながら福音を語り続けたその歴史の上に、今の私たちも生かされています。
 信仰を持っていることで経験する困難や苦難があっても、そのために嫌な思いをすることがあっても、“それが神から出たものであれば、決して滅ぼされない”という希望と確信をもって、私たちは信仰を生きていきたいと願います。

2025年8月23日土曜日

2025年8月24日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編33篇6節
賛美 新生讃美歌 495番 主よ み手もて
主の祈り
賛美 新生讃美歌 510番 主の言葉の
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録5章12~26節
祈祷
宣教 「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」という一文で今日の聖書箇所は始まります。
 使徒と言われた、キリストの弟子たちの中でも中心的な役割を担った弟子たちによって、多くのしるしと不思議な業が行われていました。
それは、人々の病気を癒したり、悪霊につかれた人たちから悪霊を追い出したりといった働きでした。
 使徒たちによってそのような働きがなされていたのですが、それを可能にしたのは、彼ら自身の力ではありませんでした。
それは、主なる神の力でした。
そして、使徒たちの手によって、多くのしるしや不思議な業がなされていたことは、彼らの祈りに神が答えてくださったという証拠でも、ありました。
彼らは、今日の箇所よりも前の箇所で、次のように祈ったことがありました。

使徒言行録4章29~30節

29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

 使徒たちは、自分たちの伝道活動を妨害しようとする者たちからの迫害にあっても、大胆に神の言葉を語ることができるように、と祈りました。
そして厳しい状況の中でも、神が差し伸べてくださる手によって、そしてイエス・キリストの名によって病気が癒され、苦しむ人々が助けられますように、と彼らは祈ったのです。
それはすなわち“神の働きがなされますように。そのために、私たちは自分を捧げ、あなた(主なる神)の手足となって働きます”という、使徒たちの決意でもありました。
神は、私たちが自分を神に捧げ、“神のために働きます”と願い、そう祈るときに、きっとその祈りに応えてくださいます。
神が私たちの祈りを聞いてくださるかどうかは、それはキリストを信じ祈る者が、自分を神に献げるという決意をするかどうかにかかっているのです。
私たちが自分自身を捧げ、そして神の業が自分たちを通して行われるという信仰の経験を重ねる度毎に、私たちの信仰は強くされ、そして成長していきます。
自分自身を神に委ね、神に捧げて、そして神の業が実現していく、そのような信仰経験を私たちは共に積み重ねたいと願います。

今日の箇所で、使徒たちは心を一つにして「ソロモンの回廊に集まっていた、とも書かれています。「ソロモンの回廊とは、エルサレムの神殿の外の庭にあった長い廊下のことです。
ソロモンの回廊は、かつてイエス様が御自分のことを“わたしはメシア”だとユダヤ人たちにはっきりと言った場所でした。
ヨハネによる福音書10章22節からの箇所で、イエス様がソロモンの回廊を歩いておられた時のことが書かれています。
そこでユダヤ人たちがイエス様を囲んで、「もしあなたがメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めました(ヨハネ10:24)
 イエス様はそこで「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている“とお答えになりました(ヨハネ10:25)。

今日の箇所で、イエス様は目に見える人としては使徒たちとはもう共におられませんでしたが、使徒たちはかつてソロモンの回廊でイエス様がおっしゃったことを思い出していたのだと私は想像します。
イエス様は、ご自分がメシア(人の罪を救う救い主)であることを言葉でも述べました。イエス・キリストこそがメシアである、それは使徒たちがその上に立つ真実そのものでした。
そしてイエス様は、“信じない人たちもいるが、ご自身がなさる色々な業(行い)が、ご自身について証しをする”とも言ったのでした。
使徒たちはイエス様の、そのお言葉と行いを思い起こしながら、彼らの言葉だけでなく、彼らの実際の働きを通しても、神のご栄光が明らかになりますようにと願っていたのでしょう。
彼らのその願いと祈りは神に聞かれました。様々な力ある業が使徒たちによってなされながら、それらを通して神の国が人々に伝えられていきました。
 15節以降の箇所には、“人々が病人を大通りに運び出して、ペトロが通りがかる時に、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした”と書かれています。
 16節には、多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々が使徒たちのもとへ連れて来られ、一人残らずいやされた、と書かれています。
 “一人残らずいやされた”とは、誰もが自分が本当に望んでいたものを得た、ということです。

 私はこのことから、現在の教会が“だれもが自分が本当に望むものを得る”ことができる場所であればいいな、と思わされました。
私たちが本当に望むものとは、何でしょうか。
 人はそれぞれ、満たされない心を抱えていると私は思います。なぜか満たされないその心を何かによって満たしたいという願いを私たちは持っています。
それは霊的な渇望であり魂の欲求です。それは、私たちは色々なものでとにかく満たそうとします。
 しかし、私たちの魂と霊の渇きを本当に満たしてくださるお方は主なる神のみです。キリストを通して現わされた神の愛のみが私たちの心を満たします。
 教会で、私たちの心と魂を本当に満たしてくださるお方、神によって、教会に連なる一人ひとりが、全て満たされますように、一人残らず私たちが癒されますようにと私は願います。
 一時的なものではなく、永続的で確実、真実であるお方、神の愛で私たちひとり一人が、満たされますように。教会がそのような神の愛で常に満たされますようにと、私は心より願っています。

 今日の箇所の後半で、大祭司と仲間のサドカイ派たちから使徒たちへのねたみが起こったことが書かれています。彼らは使徒たちを捕まえて牢にいれてしまいました。
“ねたみ”は人の罪の性質の中でも最たるものの一つです。人々がイエス・キリストを十字架につけたのも、ユダヤの権力者たちの妬みのためだったと、聖書には書かれています。
 大祭司やサドカイ派という、ユダヤ教の主要な派を形成する彼らにとって、使徒たちの手によって力ある業が行われ、そして彼らが人々から賞賛されていたことは、我慢ならないことだったのです。
 大祭司もサドカイ派も神を信じ、神の御心を人々に伝え、神に仕えることへと人を促すような働きをすべき人たちでした。
彼らが彼らの職務に本当に忠実であったならば、キリストの使徒たちにねたみを起こすような必要はなかったはずです。神の業が彼らによって行われていたからです。
しかし彼らは、使徒たちの手によって素晴らしい業が行われていることを認めるよりも、自分たちが受けるべき(と彼が思っていた)人々からの称賛が、使徒たちに向けられていることにねたみを感じ、そのねたみが彼らの心を燃やしました。
そして彼らは使徒たちを牢に入れたのです。しかし、主は天使を遣わして使徒たちを助けられました。
 私たちも危機的な状況に陥ることがあり得ます。しかし主なる神は、私たちがもう助からないと思う時にも、神のご計画に基づいて、必要な助け、そして助け手を私たちに送ってくださいます。
 イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られた後、三日目に婦人たちがイエス様のお身体に香料を塗ろうと思って墓へ行きました。イースター(復活日)の朝でした。
 墓の入り口は大きな石で覆われていましたが、婦人たちは誰がその岩を転がしてくれるのかは分からないまま、墓へと急ぎました。(マルコ16章)しかし婦人たちが墓へ到着すると石はわきへ転がしてあったのです。
大きな障害物であったキリストの墓の入り口の石が動かされていたように、私たちも、“どうすればよいのだろう”と迷い、悩む時、その時神が必ず助けを与えてくださいます。
神は神のご計画に沿って、必要な助けと導きを必ず私たちに与えてくださいますから、神を信頼して困難な中でも私たちは、少しづつでも歩み続けようではありませんか。

主の天使が、使徒たちが入れられていた牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、次のように言いました。

20節「行って、神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」
 「この命の言葉を残らず民衆(人々)に告げなさい」~これは今も私たちに与えられているキリスト者としての使命です。

教会では神の言葉(聖書の言葉)が聞かれ、分かち合われます。そして神の言葉は命の言葉なのです。私たち人は神の言葉によってこそ生きる者であるからです。
 神の言葉は、“人が生きる上で役に立つから、聞かないよりは聞いておいたほうがよい”という程度の言葉ではありません。神の言葉は私たちが生きるための命の言葉です。
 その言葉がそれを信じる者たちによって守られ、また教会によって守られ、聞かれ、世に伝えられていくようにと、神はお定めになりました。
 今日の箇所で、主なる神が天使を遣わして使徒たちを助けたのは、それはその時彼ら使徒だけが助かるためではありませんでした。
それは、命の言葉、すなわち神の言葉が多くの人々へ、やがて世界中へと伝えられていくためでした。
神の言葉に聞き、神の言葉に生き、そして神の言葉を世に伝えると言う働きは、約2000年前の最初のキリスト教会の時代から今に至るまでずっと続けられてきました。
 ”命の言葉を残らず全て語る“~それは一人のキリスト者、一つの教会、一つの時代だけで完成させることができるものではありません。
 しかし、その完成を目指して、キリスト者は、神の言葉を残らず語り続けるのです。そのような働きを通しても、私たちは神の言葉によって生きる、生かされることになるのです。
 神は、私たちへ向けられた命の言葉である神の言葉を、イエス・キリストを通して私たちに与えてくださいました。
命の言葉である神の言葉を、どこかに隠して閉じ込めたままにしておくことは決してできません。
 イエス・キリストが生涯をかけて語ってくださった御言葉を、私たちは残らず聞き取ってまいりましょう。
神の言葉によって満たされて、その溢れる恵みを他者と分かち合い、世にも伝えていこうではありませんか。

2025年8月16日土曜日

2025年8月17日 召天者記念礼拝

前奏
招詞 ペトロの手紙二 1章3節
賛美 新生讃美歌 240番 救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
召天者を覚えて
聖句 哀歌3章22~33節
祈祷
宣教 「主の慈しみは決して絶えない」
祈祷
賛美 新生讃美歌 601番 やがて天にて
頌栄 新生讃美歌 672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 本日は、「召天者記念礼拝」として、主日(日曜)礼拝を、私たちは捧げています。
  皆さんの前に、私たちの教会の召天者の方々のお写真が飾られています。先ほど、その方たちのお名前を私が読み上げさせていただきました。
召天者の方々は、私たちの教会の教会員であった方、あるいは教会員のご家族の方、あるいは教会の会員ではなくても、教会や牧師がその方の召天に関わり、教会で告別式をさせていただいた方々などです。
 私が直接関わりを持たせていただいた方の中には、ご自身の死期が迫っていることを自覚され、死への準備をしておられる方もおられました。

  また、本当に思いがけず、突然という状況で、天へ召された方もおられました。
 死は私たちに必ずやってきます。死がいつ、どのような形で訪れるのかは、誰にも分かりません。分からないので、死というものは私たちに不安をもたらします。
また、特に愛する人を亡くすことは、私たちに大きな悲しみをもたらします。
愛する人を亡くす悲しみ、またそのほかにも、私たちの人生には私たちを辛く、悲しく、時に絶望さえも感じさせる、苦しいことが起こることがあります。
 私たちはそのような悲しみに、あるいは絶望ともいえる状況に、どのように向き合えばよいのでしょうか。今日の聖書箇所である旧約聖書の『哀歌』の一部から、聞いていきたいと思います。

 哀歌は、エレミヤという預言者(神様からの言葉を預かり、人々に伝えた人)の嘆きの言葉を伝えています。
エレミヤの預言の言葉は、『哀歌』の前の『エレミヤ書』に記されています。
エレミヤは、この『哀歌』で、ある一つの死について嘆いています。それは彼自身の国の死でした。彼の国(南ユダ王国)が、隣の帝国(バビロン帝国)に滅ぼされたのです。
なぜ彼の国は滅ぼされてしまったのか。そのことにエレミヤは大きな疑問、悲しみ、そして苦しみを感じていたのだと私は信じます。
エレミヤが最初に、どのようにして神様から呼びかけられて、預言者として立てられたのかは、『エレミヤ書』の初めに記されています。
『エレミヤ書』1章4~5節の言葉をお読みします。

4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

これは、紀元前7世紀から6世紀ごろ、場所は現在のイスラエルでの話です。
その時イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれており、北イスラエルはアッシリアという帝国によって既に滅ぼされていました。
主なる神に“私はあなたを生まれる前から預言者として選んでいたのだ”と言われても、エレミヤは「私は若者にすぎません。語る言葉を知りません」と言って、主の呼びかけに応えることを躊躇しました。
しかし神は「あなたは自分のことを若者にすぎないと言ってはならない」と言ってエレミヤを力づけました。
神はエレミヤに次のようにもおっしゃいました。エレミヤ書1章9節をお読みします。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。

“あなたが人々に語るべき言葉は、私があなたに与えるから、あなたは心配しなくてよい”と、神はエレミヤに約束してくださったのです。
 そしてエレミヤは預言者として、神の言葉をイスラエルの人々に伝え続け、“神を信じて、罪から離れて神に立ち返るように”と呼びかけ続けました。
預言者エレミヤは、預言者としての、その働きを成功させたのでしょうか。
最初に私が申し上げましたように、結局彼の国(南ユダ王国)は滅び、神殿は破壊され、彼らを征服したバビロン帝国へ、多くのユダヤの民が捕囚として連れ去られることになりました。
国の滅亡を目の当たりにして、エレミヤは、自分の預言者としての働きは失敗だった、と思って失望したでしょう。
エレミヤは大変苦しく、そして悲しかったはずです。その嘆きの思いが「哀歌」として残されました。
 どんな人の人生にも、悲しみがあると思います。どんな人の人生にも苦しみがあると思います。悲しみ、苦しみのない人生はないでしょう。
エレミヤの悲しみ、苦しみの原因は、”一生懸命、神の言葉を自分の国(イスラエル)の人々に伝え続けたのに、多くの人たちは彼の言葉に耳を傾けず、結局国は滅んだ“ことでした。
エレミヤは自分自身にも絶望したようです。「自分のしてきたことは無駄だった。私の人生、働きには何か意味があったのだろうか」と彼は思ったのではないでしょうか。
確かにエレミヤは、自分自身の限界にぶち当たりました。

 それは、今日の箇所の前の18節前半に、次のように書かれていることからも分かります。
わたしは言う 「わたしの生きる力を絶えた」
エレミヤは、“わたしの生きる力は絶えた”と言います。それは自分自身の力で生きることはもう無理だ、とうことです。
 しかし、そのように“もう無理だ、自分の力では何もできない”ということが分かったエレミヤに、大切な真理が示されました。
それが今日の聖書箇所の言葉“主(神様)の慈しみは決して絶えない”、“主の憐れみは決して尽きない”ということです。
 エレミヤは、「わたしの生きる力は絶えた」と、自分自身の力のなさ、弱さ、無力さをはっきりと自覚しました。
 しかし、主なる神の慈しみ(愛)は絶えない、なくならない、主なる神の憐れみは私たちに決して尽きることはない、ということが、自分の無力さを知ったエレミヤにはっきりと示されたのです。
  聖書全体を通して伝えられることは、“神に選ばれたイスラエル民族が、どれほど神に背き続けても、それでも神は御自分の民である彼らへの愛をお諦めにはならなかった”、ということです。
現在の私たちも、どれほど神に背き続けて、罪人であっても、神が私たちを完全に見放すということはない、とエレミヤの言葉は私たちに伝えます。

 国が滅びて、もう何の希望もなくなったように見えても、自分の力では生きていけないと思えても、実はむしろそのような時こそが、新しい始まりなのです。
  キリスト教会では毎週礼拝をしています。礼拝の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストの御言葉、すなわち聖書の言葉です。
  聖書の言葉は、まさに今日の箇所に書かれている通り、「主の慈しみは決して絶えず、それは朝ごとに新しい」という希望を私たちに伝えます。
私たちが心を開いて、主なる神の前に謙虚になって(自分の無力さを認めて)神の御言葉に向き合うのならば、その度に聖書の御言葉は新しい響きと力をもって私たちに迫ってきます。
十字架の上で、そのお命を私たちのために捨ててくださったイエス・キリストが、今も私たちに向かって「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決してあきらめない」と言い続けてくださっています。
そのような尽きることのない主の慈しみ(愛)と憐れみが聖書の言葉を通して私たちに知らされます。ですから私たちは聖書の言葉を聞き続け、聖書の言葉を中心とした礼拝を続けるのです。
 聖書の中で、イエス・キリストが、5つのパンと二匹の魚を祈りによって増やし、それを何千人もの群衆に与えると、皆が満腹したという話が記されています。キリストによる偉大な奇跡の業です。

  キリストはそのように、今も御言葉の力によって、私たちの霊、魂、心の飢え渇きを満たし、生きる力を与えてくださいます。
 私たち自身の力が絶えても、むしろ私たちたち自身の力が絶えて、すべてを神に委ねる時に、“神の愛は決して絶えず、なくなることがない”という真実を、私たちは確信するようになるのです。
  絶えることのない(尽きない)主のご愛を、私たちは御言葉から、礼拝を通して、常に頂けることの幸いを、心から感謝したいと願います。

今日の箇所の27~28節をお読みします。

27~28節
27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
28軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。

 軛(くびき)yokeとは、農作業のために(畑を耕すために)牛や馬などの首にかけられる道具です。軛をかけられると、牛や馬は自分の自由には動くことができなくなります。
  そのことから、軛とは、私たちが生きていく上で負わされる重荷、苦難や苦しみの例えです。
 誰の人生にも、まるで首に軛をかけられるような、重荷を背負わされることがあり得ます。その時、“黙して黙って座る”とは、“何もするな”、“ただ我慢しろ”ということではありません。
それは、”自分の力を捨てて、主に委ねよ。神のもとへ立ち返れ“、ということです。
イエス・キリストが次のようにおっしゃっています。

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28~30節)

 私たちは色々な“軛”と言えるものを、生きる上で背負うことがあると思います。
 そんな私たちにイエス様は「わたしのもとに来て、わたしの(キリストの)軛を負いなさい。そうすれば安らぎを得られる」と言われます。
 イエス様の軛はなぜ“負いやすい”のでしょうか。それはイエス様が私たちと一緒にその軛を負ってくださっているからです。
  私たちが一人で背負っているように思う軛(重荷)もい、イエス様が共にいてその軛を私たちと共に担ってくださっています。
 私たちの軛(重荷)を共に担ってくださっているイエス様、イエス・キリストを、私たちは信じて生きて行こうではありませんか。
 今日私たちが覚えている召天者の方々も、それぞれの生き方の中で、軛(重荷)と言えるような、苦しさ、悲しみをそれぞれ抱えることが、きっとあったはずです。
  その苦しみ、悲しみを覚えると、特に親しい方々や近いご家族の方々は、いまだに胸を痛める、締めつけられるように悲しく思われる方もおられるかもしれません。
 しかし、イエス様が、召天者の方々の苦しみ、悲しみに寄り添い、その軛を共に担ってくださっていたと、私達は信じることができます。
そしてイエス様は、この私たちの今の軛をも、共に担ってくださっています。自分の力だけでは担えずとも、共に軛を負ってくださるイエス様にお委ねし、私たちは生きていくことができます。
 生きることには痛み、悲しみが伴います。
 
しかし悲しみはやがて、私たちが、その愛は決して絶えることのない神様を知ることへつながる、神へ導く、と聖書は伝えています。
いかなる悲しみ、苦しみの中にも、私たちが神を礼拝し、祈り、賛美(神様をたたえる、人間をたたえるのではない)することを妨げるものはありません。
召天者の方々を覚える今日の礼拝の中で、私たちは、朝毎に新しい主の慈しみ、御愛、そして憐れみの中に生かされていることを改めて信じ、そのことを喜び、感謝をし、これからの日々を歩む決意を致しましょう。

2025年8月9日土曜日

2025年8月10日 主日(平和)礼拝

前奏
招詞 詩編36編10節
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 イザヤ書2章1~5節
祈祷
宣教  「主の光の中を歩もう」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日私たちは、平和を覚える礼拝を捧げています。
 先の大戦(第二次世界大戦)が1945年8月に、日本の敗戦をもって終了したことから、わたしたちは特に8月に平和への思いを強く致します。
今年2025年は、第二次大戦の終結から80年と言う節目の年です。しかし、その大戦以前にも、古来よりずっと人類には戦い、争いの歴史がありました。
 そしてその大戦以後もさまざまな紛争、戦争が世界では起きましたし、今も各地で争いが続いています。
 平和は本当に実現するのか、それは無理ではないのか、と私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし私たちは、私たちに与えられた聖書の御言葉から、あらためて平和について思いを巡らし、どのようにして主の平和が私達の世界で(私たちの身近で)実現されるのか、今日私たちは共に考えたいと願います。

 今日の聖書の箇所は旧約聖書『イザヤ書』の御言葉です。イザヤは旧約時代の預言者の一人でした。彼のことは「アモツの子イザヤ」と、イザヤ書1章1節に書かれています。
 イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に南ユダ王国(イスラエル人たちの国は当時、北イスラエルと南ユダに分かれていました)で活動した預言者でした。
イザヤの時代は、だいたい紀元前8世紀後半から7世紀前半です。
 預言者とは、神の言葉を預かり、それを人々に伝える務めを担った人たちでした。預言者は一人だけではなく大勢いました。同じ時代にも大勢の人が預言者として立てられました。
 神の言葉は、ただ一人の人間だけを通して語られるのではなかったのです。
神は多くの人をお選びになり、彼ら複数の人々の言葉を通して、それぞれの時代と場所で、神の御言葉が伝えられるようにされました。

 私は別府国際バプテスト教会で牧師としての職を任されて、聖書の御言葉をメッセージとして語るという務めを主な職務として担っています。
牧師の職を担っている人は他にも大勢(日本中、世界中に)いますし、キリスト教会も沢山あります。
それぞれの教会が、そして牧師が、また信徒も一人ひとりも、自分に伝えられた御言葉に生き、その御言葉を他の人に伝える務めを担っています。
だれか一人だけ、一つの教会だけが正解(真理)を握っているのではないのです。
 もし「自分の言っていることだけが真理だ」という牧師や、「自分たちの教会が言っていることだけが真理だ」という教会があれば、そのような牧師や教会は信頼しないでください。
人間である限り、どの牧師も、またどの教会も、いつも正しく完全ということはあり得ません。私たち誰もが不完全で、いつでも間違いを犯す可能性があるのです。
 しかし「どうせ人間は不完全だから、神さまのことも何も分からない」と私たちはあきらめてしまうのではありません。
 私たち人間は不完全でも、私たちの父なる神は完全なお方であり、その神は御子イエス・キリストを通して、御自身のことを私たちに現わしてくださったのです。
 そして今、私たちは、唯一完全なお方である神の御言葉(聖書の言葉)を頂いていると言う点で私たちは迷う必要はないのです。
 神の御言葉を私たちは聞き間違え、正しく受け取ることができないこともあるかもしれません。
しかし、完全に正しいお方、絶対的な真理であるイエス・キリストの神がおられる、という点で私たちは安心してよいのです。
神は聖書の言葉を通して、私たちが神のメッセージと神の真理に触れることができるようにしてくださいました。
キリストはいつまでも変わらず私たちと共におられ、キリストを伝える聖書の御言葉はいつも私たちの身近にあります。
ですから私たちは常に聖書の言葉を通して、私たちに語られる神の声、メッセージを共に聞きとってまいりましょう。

 今日の箇所の2節に「終わりの日に In the last days」という言葉があります。
 今日の箇所の言葉は、預言者イザヤが見た幻でした。それは、彼(イザヤ)の時代よりも後に(将来に)起こることを幻としてイザヤが見た光景です。
「終わりの日」は、キリスト教にとってとても重要な事柄です。それは神の国が完成する時、でもあります。
聖書は、「初めに、神は天地を創造されたIn the beginning God created the heavens and the earth.」と『創世記』1章1節(聖書の一番初めの言葉)で伝えています。
神が初めに天と地を、私たちの世界のすべてをお造りになったのです。
 “はじめとか、終わりとかはない、世界は偶然に出来て、人もただ偶然に生まれて、ただ生き、そして死んでいくのだ”という考え方もあります。
 しかし聖書ははっきりと、初めに神が世界を創造なさったと伝えます。しかも神は目的と意志とをもって、この世界を創造なさったのです。
 神はお造りになったこの世界を、「良きもの」としてお造りになりました。そして神は私たち人に、この良き世界を支配するようにお命じになりました(創世記1章28節)。

 支配するとは、自分たちの好きなように自分たちの利益や楽しみのためだけに自然や他の動植物を利用する、というのではありません。
そうではなく、世界の善き管理者として、神が造られたこの世界の調和と平和を保つ使命を、私たち人は神から託されています。
 私たちがその使命を果たすためには、私たちは常に私たちの造り主であるお方の御意志と声に従うことが、必要です。そうしてこそ、私たちに与えられた使命を私たちは果たすことができます。
 私たちの創造主であり、私たちを目的をもってお造りになった方のお言葉である聖書の言葉を、私たちの生き方の指針としても、私たちは謙虚に聞いてまいりましょう。
 神によって始まったこの世界は、やがて終わりの日、完成の日を迎えます。
その日にどのようなことが起こるのでしょうか。今日の箇所の2~3節をもう一度お読みします。

2終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

”その終わりの日には、主の神殿の山が、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえ、そして国々はこぞって大河のようにそこに向かう“と書かれています。
 あらゆる国々、多くの民が、主の神殿の山という同じ目標地点に向かって上って行く、というのです。
 “その主の山で、主は私たちに(人々に)道を示してくださるので、私たちはその道を歩もう”と書かれています。
今私たちの世界に平和がないのは、あるいは平和が完成しないのは、互いが(国々と人々が)ばらばらで別々の方向へ向かって歩んでいるからではないでしょうか。
そしてお互いに、自分が進んでいる道が正しい道だ、正しい方向だと主張し、互いに裁き合っていることが、私たちの周りの争いの原因だと私は思います。
私たちはどうすれば一致して、同じ道を歩むことができるのでしょうか。
「主はわたしたちに道を示される わたしたちはその道を歩もうHe will teach us his ways, so that we may walk in his paths.」と、イザヤが見た幻の中で言われるその道とは、イエス・キリストです。
 あらゆる国々が、あらゆる人々がイエス・キリストという唯一の真理である道を歩む時、そのお方の前にへりくだる時、その時真の平和が私たちの世界に訪れます。
 なぜなら、私たちが、イエス・キリストというその真理の道を歩むとき、今日の箇所の中の次の預言の言葉が実現するからです。

4節をお読みします。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

主が国々の争いを裁き、多くの民を戒められると書かれています。私たち人間が裁くのではなく、神こそが私たちの真の裁き主です。
神こそが善悪とは何かを完全にご存じのお方であるからです。そして主なる神が私たちの間の争いを解決してくださる、というのです。
私たちが主の御言葉を真剣に聞き、主の教えに従って生き、そして他者と向き合う時、その時次のようなことが起こる、と書かれています。4節の後半をもう一度お読みします。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

同じ材料(鉄や木材など)から、私たちは他者に危害を加える剣や槍という武器を作ることもできるし、その同じ材料から、食物を収穫するため(共に生きるため)の道具を作ることもできるのです。
 私たちはいかにして、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことができるのでしょうか。
そのために、私たちは常に、イエス様が私たちのために成し遂げてくださったことを思い起こす必要があります。
 キリストは、本来私たちが受けるべき裁き(罰)を、私たちに代わって十字架の上で受けてくださいました。
天の父なる神は、私たちに代わって、ご自分の独り子であるイエス・キリスト、全く罪のなかったそのお方を十字架の上でお裁きになりました。
 イエス様は、私たち人が互いに争いあうことの原因である、私たちの中の敵意、憎悪、そねみ、妬み、蔑み、それらすべてのものを、一身に十字架の上で受けてくださいました。
 そのようにして、イエス様が、すべての悪を、私たち人の罪の性質をお受けになってくださいました。
私たちがイエス様の御言葉に聞き従って生きる時、十字架の上でイエス様が成し遂げてくださったことを思い起こす時、私たちは自分自身の剣や槍を、鋤や鎌に変えることがきっとできるようになります。
平和に敵対する、私たちの中の罪の性質を、イエス様が全てその身に引き受けてくださったからです。それが聖書の約束です。

今日の箇所の最後の言葉(本日のメッセージ題)をお読みします。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 ”ヤコブの家(英語では“ヤコブの子孫”)とは、イスラエル民族全体のことであり、そして現在のキリスト者すべての者を指します。
神から離れた暗闇、自分の罪の中に閉じこもる暗闇でなく、私たちはイエス・キリストの光の中、御言葉の光の中を私たちは歩んでまいりましょう。
 その道は、人同士が傷つけあう道ではなく、互いにいたわり合い、助け合って共に生きる道です。それは、共に生きるための食べ物を皆で収穫しあう平和の道であり、神の国へと至る道です。
 そしてこれは遥か遠い将来に起こる、遠い未来の夢物語でありません。
そうではなく、それはイエス・キリストが一度私たちの救いのために世に来られた今、すでに実現しつつある出来事だと、私たちは信じてよいのです。

最後に詩編36編10節の御言葉をお読みします。
詩編36篇10節 (v.9 NIV)
 命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。

キリストの光の中を、私たち共に歩んでまいりましょう。

2025年8月2日土曜日

2025年8月3日 主日礼拝

前奏
招詞 エレミヤ書32章39節
賛美 新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録4章32~5章11節
祈祷
宣教  「心も思いも一つにし」
祈祷
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたAll the believers were one in heart and mind. No one claimed
 イエス・キリストが死から復活し、天へと昇って行かれた後、神の霊である聖霊の力を受けた、初期の頃のキリスト信者たちは、そのように心と思いを一つにした信仰の群れを形成していました。
 「心も思いも一つにし」とは、どういうことでしょうか。
それは、彼らがどんなことに関しても、同じ意見や考え方を持っており、好みも一致していた、ということではありません。
 今の私たちと同じように、最初の頃のキリスト者たちも、色々な考え方や好みの違い、異なる立場や多様な背景を持った人々の集まりであったはずです。
 私たちの教会(別府国際バプテスト教会)は「多様性の中にある豊かさを喜ぶ」ことを大切にしています。特に私たちの教会には色々な国や地域の方々が集っています。
互いに違うという多様性の中にある豊かさを認め(見つけ)、そのことを喜ぶ、ということを私たちはいつも覚え、信仰的にそれを実践していきたいと願います。

私たちが互いに違いがありながらも、同じ心と思いによって一致することができる、そのことを可能にしてくださるお方が、おられます。
 それはイエス・キリストです。イエス・キリストが私達と共にいてくださるので、私たちはキリストによって思いと心を一つに結び合わされます。
 同じイエス・キリストの神を信じ、キリストによって導かれているので、私たちは一つの群れ、信仰の家族と言えるのです。
復活したキリストによって、霊的な生まれ変わりを経験した信者同士は、キリストによって神の子とされた一つの家族です。そのような意味で、確かに、「キリスト(主)にあって、私たちは一つ」です。

 今日の箇所で、最初の頃の教会の信者たちの群れは、「すべての持ち物を共有していた」と書かれています。
 彼らの中ではだれ一人、持ち物を自分のものだと言う者はなかった、とも書かれています。
 現在の私たちは、個人が物や財産を所有することは、大切な一つの権利だと思っています。しかし、やはりキリスト者は、色々なものを個人として所有しつつも、それらにあまりに執着はされないようにと、御言葉から教えられます。
何かに対して、“これは自分のもの”という執着が強すぎると、それが失われたりした時に、私たちは失望したり、憤ったりさえすることがあります。
しかし、キリスト者は、「全ては神から与えられたもの」という信仰を頂いています。
新約聖書の別の箇所、『コリントの信徒への手紙一』4章7節に、次のように書かれています。
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。

この言葉から、私たちは「これはわたしのもの。これは私が努力によって得たもの」とあまり強く思わないように、と促されます。
わたしたちに与えられた色々なもの、豊かな賜物、才能や色々な機会(チャンス)に恵まれるなどの幸運も、それらすべては主なる神から私たちに与えられるものです。
 それが自分のものだと思うと、私たちは高ぶって、傲慢になったりします。私たちは常に、恵みは全て神様から与えられたもの、という信仰に立ち続けたいと願います。

 今日の箇所の4章34~35節には、次のように書かれています。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである

 その時の信者たちを、そのように互いに助け合い、貧しい者が一人もないようにさせていたものは、何だったのでしょうか。
彼らをそのように互いに支え合う者としていたもの、それも彼らが証していた(述べ伝えていた)復活の主イエス・キリストでした。
彼らは“復活のキリストによって自分たちも生かされている”と、確信していたのでしょう。
復活する前にキリストは十字架の上で、御自身の命を捨ててくださいました。それはキリストが十字架の上で、私たち人に文字通り全てを与えてくださった、ということです。
「キリストが私達に全てを与えてくださった」という感謝と喜びが、彼らの原動力でした。
キリストによって新しい命を、全てのものをいただいたという喜びと感謝が、互いを支えるという生き方となっていたのです。
皆がキリストの愛で満たされ、一人も貧しい人がいないように、全ての人の命が支えられるように、皆が豊かであるように、という思いで彼らは一致し、その願いが実現していたのです。
それは素晴らしい信仰の家族の姿であり、そのような信仰の共同体を私たちも作り上げていきたいと願わされます。

 しかし、今日の聖書箇所では、最初の頃のキリスト信者の群れが、信仰において決して完全な共同体ではなかった、という冷徹な事実を描き出しています。

 5章1節からのアナニアとサフィラに関する話は、一読すると恐ろしい箇所です。

捧げもの(献金)の額をごまかしたアナニアとサフィラ夫婦に起きた出来事から、私たちはどのような神のメッセージを聞くべきなのでしょうか。
 “信じた人々は、みな自分の持ち物を売り、必要に応じて互いに分配していた”、という中で、アナニアとサフィラという夫婦は、その金額について事実でないこと(嘘)を言いながら、それを使徒たちに差し出しました。
 ここで私たちは、献げものに関しては、今日の箇所においても、信者たちの自発的な意志に基づいていた(強制ではなかった)ということを知る必要があります。

5章4節のペトロの言葉を見てみましょう。
 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。

 このペトロの言葉から分かるように、誰も献金やささげものを強制されてはいなかったのです。神が信仰者に求めるものは、自発的な喜びの捧げものであるからです。
 しかしアナニアは妻のサフィラと相談して、土地を売ったのとは違う値段を、おそらく「これが私たちの土地を売った全額です」と言って差し出したようです。そしてそれは事実ではありませんでした。
 アナニアとサフィラはなぜ事実と異なる、そのような嘘を言ったのでしょうか。他の人たちの目が気になって、自分たちを誇りたい、という気持ちがあったのかもしれません。
 そのようなアナニアとサフィラの姿の中に、私たちは私たち自身の姿を見るようにと促されます。
 私たちはどうしても、人からの評価、人が自分をどう見るか、自分の信仰さえも、人からどう評価されるだろうか、ということが気になってしまうのではないでしょうか。
 しかし、信仰は人に見せるものではありません。他者から評価されるものでもありません。
信仰は神からいただいた賜物と恵みを、わたしたちがどれだけ認めることができているかにかかっています。そして、その恵みにどれほど自発的に応答しているか、ということが大切なのです。
 もし自分自身が、神の恵みで満たされていない、というのならば、私たちを恵みと喜びとで必ず満たしてくださるイエス・キリストと私たちは出会い直す必要があります。

 聖書の御言葉、祈り、そして神との人格的な交わりを通して、自分自身の心(特に自分の中の暗い、罪の部分)に正直に向き合うことで、キリストによって赦された者としての自分を私たちは見つけ直してまいりましょう。
 そして主キリストに赦された恵み、喜びで、わたしたちは満たされてまいりましょう。
アナニアとサフィラは夫婦でした。夫婦は、その親密な関係によって協力して、一致して神のための働きをすることができます。
しかし今日の箇所のように、夫婦のような親密な関係によって、私たちは神を欺くこともできてしまう、ということを私たちは教えられます。

 5章4節のペトロの言葉をもう一度見てみましょう。
 あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 アナニアとサフィラに、“神を欺いた”という自覚があったかどうかは、分かりません。おそらく、ペトロに指摘されるまでは、それほどまでの自覚はなかったのでしょう。
 「これぐらいのことは許されるはずだ」という思いが、アナニアとサフィラにはあったかもしれません。
 しかし、今日の箇所でのアナニアとサフィラのしたこと(彼らの生き方)は、人を欺いたのではなく、神を欺いたことになるのだ、というメッセージを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
もし私たちが人に対して誠実でない場合、それは神に対しても誠実ではない、ということであり神を欺くことになるのです。
私達は、多少の不誠実さは人に対してごまかせる、と思っているのではないでしょうか。
しかし、私たちの不誠実さを、神様の前にもごまかすことができる、と思うならば、それは大変大きな致命的な間違いなのだ、と今日の箇所は私たちに告げています。
 決して欺いてはいけないお方である神を欺く(神に対して誠実でない)のならば、それは私たちの命に係わる問題だということを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
 神はなぜ私たち人間に、これほどまでの自由をお与えになったのでしょうか。あえていうなら、“神を欺いて生きる自由”(それを自由と呼ぶのは躊躇しますが)さえ、私たちには与えられているのです。

 それほどまでに神は私たちと、本当に人格的な関係を結び、私たちが神の愛への応答として自発的に生きる、自発的に喜び自らを捧げる者となることを願ってくださっているのです。
 そのような者として神は私たちひとり一人をお造りになりました。
 私たちひとり一人は弱く、欲ぶかく、不誠実な者です。そんな私がキリストの愛によって満たされて、思いも心も一つにされ、励まし合うことで、少しずつ、誠実な信仰者へと共に成長していくことができると、私は信じます。
 大変厳しい、今日の聖書の箇所のメッセージに心をとめつつ、命の支配者である神に対して正しく怖れを抱きつつ、しかし神から与えられている豊かな賜物に感謝をしながら、私たちは生きていきたいと願います。