2025年8月10日 主日(平和)礼拝
前奏
招詞 詩編36編10節
賛美 新生讃美歌 26番 ほめたたえよ造り主を
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句 イザヤ書2章1~5節
祈祷
宣教 「主の光の中を歩もう」
祈祷
賛美 新生讃美歌 330番 み使いの歌はひびけり
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日私たちは、平和を覚える礼拝を捧げています。
先の大戦(第二次世界大戦)が1945年8月に、日本の敗戦をもって終了したことから、わたしたちは特に8月に平和への思いを強く致します。
今年2025年は、第二次大戦の終結から80年と言う節目の年です。しかし、その大戦以前にも、古来よりずっと人類には戦い、争いの歴史がありました。
そしてその大戦以後もさまざまな紛争、戦争が世界では起きましたし、今も各地で争いが続いています。
平和は本当に実現するのか、それは無理ではないのか、と私たちはあきらめたくなるかもしれません。
しかし私たちは、私たちに与えられた聖書の御言葉から、あらためて平和について思いを巡らし、どのようにして主の平和が私達の世界で(私たちの身近で)実現されるのか、今日私たちは共に考えたいと願います。
今日の聖書の箇所は旧約聖書『イザヤ書』の御言葉です。イザヤは旧約時代の預言者の一人でした。彼のことは「アモツの子イザヤ」と、イザヤ書1章1節に書かれています。
イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に南ユダ王国(イスラエル人たちの国は当時、北イスラエルと南ユダに分かれていました)で活動した預言者でした。
イザヤの時代は、だいたい紀元前8世紀後半から7世紀前半です。
預言者とは、神の言葉を預かり、それを人々に伝える務めを担った人たちでした。預言者は一人だけではなく大勢いました。同じ時代にも大勢の人が預言者として立てられました。
神の言葉は、ただ一人の人間だけを通して語られるのではなかったのです。
神は多くの人をお選びになり、彼ら複数の人々の言葉を通して、それぞれの時代と場所で、神の御言葉が伝えられるようにされました。
私は別府国際バプテスト教会で牧師としての職を任されて、聖書の御言葉をメッセージとして語るという務めを主な職務として担っています。
牧師の職を担っている人は他にも大勢(日本中、世界中に)いますし、キリスト教会も沢山あります。
それぞれの教会が、そして牧師が、また信徒も一人ひとりも、自分に伝えられた御言葉に生き、その御言葉を他の人に伝える務めを担っています。
だれか一人だけ、一つの教会だけが正解(真理)を握っているのではないのです。
もし「自分の言っていることだけが真理だ」という牧師や、「自分たちの教会が言っていることだけが真理だ」という教会があれば、そのような牧師や教会は信頼しないでください。
人間である限り、どの牧師も、またどの教会も、いつも正しく完全ということはあり得ません。私たち誰もが不完全で、いつでも間違いを犯す可能性があるのです。
しかし「どうせ人間は不完全だから、神さまのことも何も分からない」と私たちはあきらめてしまうのではありません。
私たち人間は不完全でも、私たちの父なる神は完全なお方であり、その神は御子イエス・キリストを通して、御自身のことを私たちに現わしてくださったのです。
そして今、私たちは、唯一完全なお方である神の御言葉(聖書の言葉)を頂いていると言う点で私たちは迷う必要はないのです。
神の御言葉を私たちは聞き間違え、正しく受け取ることができないこともあるかもしれません。
しかし、完全に正しいお方、絶対的な真理であるイエス・キリストの神がおられる、という点で私たちは安心してよいのです。
神は聖書の言葉を通して、私たちが神のメッセージと神の真理に触れることができるようにしてくださいました。
キリストはいつまでも変わらず私たちと共におられ、キリストを伝える聖書の御言葉はいつも私たちの身近にあります。
ですから私たちは常に聖書の言葉を通して、私たちに語られる神の声、メッセージを共に聞きとってまいりましょう。
今日の箇所の2節に「終わりの日に In the last days」という言葉があります。
今日の箇所の言葉は、預言者イザヤが見た幻でした。それは、彼(イザヤ)の時代よりも後に(将来に)起こることを幻としてイザヤが見た光景です。
「終わりの日」は、キリスト教にとってとても重要な事柄です。それは神の国が完成する時、でもあります。
聖書は、「初めに、神は天地を創造されたIn the beginning God created the heavens and the earth.」と『創世記』1章1節(聖書の一番初めの言葉)で伝えています。
神が初めに天と地を、私たちの世界のすべてをお造りになったのです。
“はじめとか、終わりとかはない、世界は偶然に出来て、人もただ偶然に生まれて、ただ生き、そして死んでいくのだ”という考え方もあります。
しかし聖書ははっきりと、初めに神が世界を創造なさったと伝えます。しかも神は目的と意志とをもって、この世界を創造なさったのです。
神はお造りになったこの世界を、「良きもの」としてお造りになりました。そして神は私たち人に、この良き世界を支配するようにお命じになりました(創世記1章28節)。
支配するとは、自分たちの好きなように自分たちの利益や楽しみのためだけに自然や他の動植物を利用する、というのではありません。
そうではなく、世界の善き管理者として、神が造られたこの世界の調和と平和を保つ使命を、私たち人は神から託されています。
私たちがその使命を果たすためには、私たちは常に私たちの造り主であるお方の御意志と声に従うことが、必要です。そうしてこそ、私たちに与えられた使命を私たちは果たすことができます。
私たちの創造主であり、私たちを目的をもってお造りになった方のお言葉である聖書の言葉を、私たちの生き方の指針としても、私たちは謙虚に聞いてまいりましょう。
神によって始まったこの世界は、やがて終わりの日、完成の日を迎えます。
その日にどのようなことが起こるのでしょうか。今日の箇所の2~3節をもう一度お読みします。
2終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
”その終わりの日には、主の神殿の山が、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえ、そして国々はこぞって大河のようにそこに向かう“と書かれています。
あらゆる国々、多くの民が、主の神殿の山という同じ目標地点に向かって上って行く、というのです。
“その主の山で、主は私たちに(人々に)道を示してくださるので、私たちはその道を歩もう”と書かれています。
今私たちの世界に平和がないのは、あるいは平和が完成しないのは、互いが(国々と人々が)ばらばらで別々の方向へ向かって歩んでいるからではないでしょうか。
そしてお互いに、自分が進んでいる道が正しい道だ、正しい方向だと主張し、互いに裁き合っていることが、私たちの周りの争いの原因だと私は思います。
私たちはどうすれば一致して、同じ道を歩むことができるのでしょうか。
「主はわたしたちに道を示される わたしたちはその道を歩もうHe will teach us his ways, so that we may walk in his paths.」と、イザヤが見た幻の中で言われるその道とは、イエス・キリストです。
あらゆる国々が、あらゆる人々がイエス・キリストという唯一の真理である道を歩む時、そのお方の前にへりくだる時、その時真の平和が私たちの世界に訪れます。
なぜなら、私たちが、イエス・キリストというその真理の道を歩むとき、今日の箇所の中の次の預言の言葉が実現するからです。
4節をお読みします。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
主が国々の争いを裁き、多くの民を戒められると書かれています。私たち人間が裁くのではなく、神こそが私たちの真の裁き主です。
神こそが善悪とは何かを完全にご存じのお方であるからです。そして主なる神が私たちの間の争いを解決してくださる、というのです。
私たちが主の御言葉を真剣に聞き、主の教えに従って生き、そして他者と向き合う時、その時次のようなことが起こる、と書かれています。4節の後半をもう一度お読みします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
同じ材料(鉄や木材など)から、私たちは他者に危害を加える剣や槍という武器を作ることもできるし、その同じ材料から、食物を収穫するため(共に生きるため)の道具を作ることもできるのです。
私たちはいかにして、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことができるのでしょうか。
そのために、私たちは常に、イエス様が私たちのために成し遂げてくださったことを思い起こす必要があります。
キリストは、本来私たちが受けるべき裁き(罰)を、私たちに代わって十字架の上で受けてくださいました。
天の父なる神は、私たちに代わって、ご自分の独り子であるイエス・キリスト、全く罪のなかったそのお方を十字架の上でお裁きになりました。
イエス様は、私たち人が互いに争いあうことの原因である、私たちの中の敵意、憎悪、そねみ、妬み、蔑み、それらすべてのものを、一身に十字架の上で受けてくださいました。
そのようにして、イエス様が、すべての悪を、私たち人の罪の性質をお受けになってくださいました。
私たちがイエス様の御言葉に聞き従って生きる時、十字架の上でイエス様が成し遂げてくださったことを思い起こす時、私たちは自分自身の剣や槍を、鋤や鎌に変えることがきっとできるようになります。
平和に敵対する、私たちの中の罪の性質を、イエス様が全てその身に引き受けてくださったからです。それが聖書の約束です。
今日の箇所の最後の言葉(本日のメッセージ題)をお読みします。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
”ヤコブの家(英語では“ヤコブの子孫”)とは、イスラエル民族全体のことであり、そして現在のキリスト者すべての者を指します。
神から離れた暗闇、自分の罪の中に閉じこもる暗闇でなく、私たちはイエス・キリストの光の中、御言葉の光の中を私たちは歩んでまいりましょう。
その道は、人同士が傷つけあう道ではなく、互いにいたわり合い、助け合って共に生きる道です。それは、共に生きるための食べ物を皆で収穫しあう平和の道であり、神の国へと至る道です。
そしてこれは遥か遠い将来に起こる、遠い未来の夢物語でありません。
そうではなく、それはイエス・キリストが一度私たちの救いのために世に来られた今、すでに実現しつつある出来事だと、私たちは信じてよいのです。
最後に詩編36編10節の御言葉をお読みします。
詩編36篇10節 (v.9 NIV)
命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。
キリストの光の中を、私たち共に歩んでまいりましょう。