2025年8月2日土曜日

2025年8月3日 主日礼拝

前奏
招詞 エレミヤ書32章39節
賛美 新生讃美歌27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美 新生讃美歌510番 主の言葉の
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録4章32~5章11節
祈祷
宣教  「心も思いも一つにし」
祈祷
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
頌栄 新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたAll the believers were one in heart and mind. No one claimed
 イエス・キリストが死から復活し、天へと昇って行かれた後、神の霊である聖霊の力を受けた、初期の頃のキリスト信者たちは、そのように心と思いを一つにした信仰の群れを形成していました。
 「心も思いも一つにし」とは、どういうことでしょうか。
それは、彼らがどんなことに関しても、同じ意見や考え方を持っており、好みも一致していた、ということではありません。
 今の私たちと同じように、最初の頃のキリスト者たちも、色々な考え方や好みの違い、異なる立場や多様な背景を持った人々の集まりであったはずです。
 私たちの教会(別府国際バプテスト教会)は「多様性の中にある豊かさを喜ぶ」ことを大切にしています。特に私たちの教会には色々な国や地域の方々が集っています。
互いに違うという多様性の中にある豊かさを認め(見つけ)、そのことを喜ぶ、ということを私たちはいつも覚え、信仰的にそれを実践していきたいと願います。

私たちが互いに違いがありながらも、同じ心と思いによって一致することができる、そのことを可能にしてくださるお方が、おられます。
 それはイエス・キリストです。イエス・キリストが私達と共にいてくださるので、私たちはキリストによって思いと心を一つに結び合わされます。
 同じイエス・キリストの神を信じ、キリストによって導かれているので、私たちは一つの群れ、信仰の家族と言えるのです。
復活したキリストによって、霊的な生まれ変わりを経験した信者同士は、キリストによって神の子とされた一つの家族です。そのような意味で、確かに、「キリスト(主)にあって、私たちは一つ」です。

 今日の箇所で、最初の頃の教会の信者たちの群れは、「すべての持ち物を共有していた」と書かれています。
 彼らの中ではだれ一人、持ち物を自分のものだと言う者はなかった、とも書かれています。
 現在の私たちは、個人が物や財産を所有することは、大切な一つの権利だと思っています。しかし、やはりキリスト者は、色々なものを個人として所有しつつも、それらにあまりに執着はされないようにと、御言葉から教えられます。
何かに対して、“これは自分のもの”という執着が強すぎると、それが失われたりした時に、私たちは失望したり、憤ったりさえすることがあります。
しかし、キリスト者は、「全ては神から与えられたもの」という信仰を頂いています。
新約聖書の別の箇所、『コリントの信徒への手紙一』4章7節に、次のように書かれています。
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。

この言葉から、私たちは「これはわたしのもの。これは私が努力によって得たもの」とあまり強く思わないように、と促されます。
わたしたちに与えられた色々なもの、豊かな賜物、才能や色々な機会(チャンス)に恵まれるなどの幸運も、それらすべては主なる神から私たちに与えられるものです。
 それが自分のものだと思うと、私たちは高ぶって、傲慢になったりします。私たちは常に、恵みは全て神様から与えられたもの、という信仰に立ち続けたいと願います。

 今日の箇所の4章34~35節には、次のように書かれています。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである

 その時の信者たちを、そのように互いに助け合い、貧しい者が一人もないようにさせていたものは、何だったのでしょうか。
彼らをそのように互いに支え合う者としていたもの、それも彼らが証していた(述べ伝えていた)復活の主イエス・キリストでした。
彼らは“復活のキリストによって自分たちも生かされている”と、確信していたのでしょう。
復活する前にキリストは十字架の上で、御自身の命を捨ててくださいました。それはキリストが十字架の上で、私たち人に文字通り全てを与えてくださった、ということです。
「キリストが私達に全てを与えてくださった」という感謝と喜びが、彼らの原動力でした。
キリストによって新しい命を、全てのものをいただいたという喜びと感謝が、互いを支えるという生き方となっていたのです。
皆がキリストの愛で満たされ、一人も貧しい人がいないように、全ての人の命が支えられるように、皆が豊かであるように、という思いで彼らは一致し、その願いが実現していたのです。
それは素晴らしい信仰の家族の姿であり、そのような信仰の共同体を私たちも作り上げていきたいと願わされます。

 しかし、今日の聖書箇所では、最初の頃のキリスト信者の群れが、信仰において決して完全な共同体ではなかった、という冷徹な事実を描き出しています。

 5章1節からのアナニアとサフィラに関する話は、一読すると恐ろしい箇所です。

捧げもの(献金)の額をごまかしたアナニアとサフィラ夫婦に起きた出来事から、私たちはどのような神のメッセージを聞くべきなのでしょうか。
 “信じた人々は、みな自分の持ち物を売り、必要に応じて互いに分配していた”、という中で、アナニアとサフィラという夫婦は、その金額について事実でないこと(嘘)を言いながら、それを使徒たちに差し出しました。
 ここで私たちは、献げものに関しては、今日の箇所においても、信者たちの自発的な意志に基づいていた(強制ではなかった)ということを知る必要があります。

5章4節のペトロの言葉を見てみましょう。
 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。

 このペトロの言葉から分かるように、誰も献金やささげものを強制されてはいなかったのです。神が信仰者に求めるものは、自発的な喜びの捧げものであるからです。
 しかしアナニアは妻のサフィラと相談して、土地を売ったのとは違う値段を、おそらく「これが私たちの土地を売った全額です」と言って差し出したようです。そしてそれは事実ではありませんでした。
 アナニアとサフィラはなぜ事実と異なる、そのような嘘を言ったのでしょうか。他の人たちの目が気になって、自分たちを誇りたい、という気持ちがあったのかもしれません。
 そのようなアナニアとサフィラの姿の中に、私たちは私たち自身の姿を見るようにと促されます。
 私たちはどうしても、人からの評価、人が自分をどう見るか、自分の信仰さえも、人からどう評価されるだろうか、ということが気になってしまうのではないでしょうか。
 しかし、信仰は人に見せるものではありません。他者から評価されるものでもありません。
信仰は神からいただいた賜物と恵みを、わたしたちがどれだけ認めることができているかにかかっています。そして、その恵みにどれほど自発的に応答しているか、ということが大切なのです。
 もし自分自身が、神の恵みで満たされていない、というのならば、私たちを恵みと喜びとで必ず満たしてくださるイエス・キリストと私たちは出会い直す必要があります。

 聖書の御言葉、祈り、そして神との人格的な交わりを通して、自分自身の心(特に自分の中の暗い、罪の部分)に正直に向き合うことで、キリストによって赦された者としての自分を私たちは見つけ直してまいりましょう。
 そして主キリストに赦された恵み、喜びで、わたしたちは満たされてまいりましょう。
アナニアとサフィラは夫婦でした。夫婦は、その親密な関係によって協力して、一致して神のための働きをすることができます。
しかし今日の箇所のように、夫婦のような親密な関係によって、私たちは神を欺くこともできてしまう、ということを私たちは教えられます。

 5章4節のペトロの言葉をもう一度見てみましょう。
 あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 アナニアとサフィラに、“神を欺いた”という自覚があったかどうかは、分かりません。おそらく、ペトロに指摘されるまでは、それほどまでの自覚はなかったのでしょう。
 「これぐらいのことは許されるはずだ」という思いが、アナニアとサフィラにはあったかもしれません。
 しかし、今日の箇所でのアナニアとサフィラのしたこと(彼らの生き方)は、人を欺いたのではなく、神を欺いたことになるのだ、というメッセージを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
もし私たちが人に対して誠実でない場合、それは神に対しても誠実ではない、ということであり神を欺くことになるのです。
私達は、多少の不誠実さは人に対してごまかせる、と思っているのではないでしょうか。
しかし、私たちの不誠実さを、神様の前にもごまかすことができる、と思うならば、それは大変大きな致命的な間違いなのだ、と今日の箇所は私たちに告げています。
 決して欺いてはいけないお方である神を欺く(神に対して誠実でない)のならば、それは私たちの命に係わる問題だということを、私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。
 神はなぜ私たち人間に、これほどまでの自由をお与えになったのでしょうか。あえていうなら、“神を欺いて生きる自由”(それを自由と呼ぶのは躊躇しますが)さえ、私たちには与えられているのです。

 それほどまでに神は私たちと、本当に人格的な関係を結び、私たちが神の愛への応答として自発的に生きる、自発的に喜び自らを捧げる者となることを願ってくださっているのです。
 そのような者として神は私たちひとり一人をお造りになりました。
 私たちひとり一人は弱く、欲ぶかく、不誠実な者です。そんな私がキリストの愛によって満たされて、思いも心も一つにされ、励まし合うことで、少しずつ、誠実な信仰者へと共に成長していくことができると、私は信じます。
 大変厳しい、今日の聖書の箇所のメッセージに心をとめつつ、命の支配者である神に対して正しく怖れを抱きつつ、しかし神から与えられている豊かな賜物に感謝をしながら、私たちは生きていきたいと願います。