2026年1月31日土曜日

2026年2月1日 主日礼拝

前奏
招詞  創世記2章7節
賛美  新生讃美歌3番 あがめまつれ うるわしき主
主の祈り
賛美  新生讃美歌514番 めぐみの主は
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録10章23b~33節
祈祷
宣教  「わたしもただの人間です」
祈祷
賛美  新生讃美歌278番 わが心は歌わん
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

今日の聖書箇所で、ペトロが、彼が滞在していたヤッファという町を発って、カイサリアという町へ向かったことが書かれています。
ヤッファもカイサリアも、イスラエルの地中海沿岸にある町でした。南側のヤッファから北側のカイサリアへは、60キロほどの距離でした。
ペトロは一人ではなく、彼の兄弟も何人か一緒に行ったと書かれています。兄弟とは、血縁の家族ではなく、同じイエス・キリストを信じる信仰の兄弟たちのことです。
ペトロは、ヤッファに滞在している間に、祈りの中で、ある幻を見ていました。
それは、先週の礼拝メッセージで私たちが分かち合った、今日の聖書箇所の前の部分に書かれています。
その幻とは、ペトロが昼の祈りの時間に祈っている時、彼が空腹を覚えた中で見たという幻でした。
それは、天が開いて大きな布のようなものが地上に降りて来た、という幻でした。その布の中には地上のあらゆる獣、地を這う生き物や空の鳥が入っていました。(12節)

そこでペトロに、ある声が聞こえまたのです。「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」とその声は言いました。
その時ペトロは空腹でしたが、その声が言ったことはペトロにとって、驚くべきことでした。
なぜなら、それらの生き物は、聖書の律法で定められていたように、ユダヤ人たちが決して食べてはいけないものばかりだったからです。ペトロもそれらのものを食べたことは、それまで一度もないものでした。
ですからペトロは、“これらは今まで私が決して口にしたことがない汚れた食べ物です”と言って、幻の中で聞こえた、その声の言ったことを拒絶しました。

それを食べてしまったら、今までペトロが大切にしてきた何か(ユダヤ人として誇り、あるいは自分自身への誇りや自信)が失われるようにも、彼は感じたのかもしれません。
しかし神は今や新しいことが起ころうとしていることをペトロに告げます。その声は 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」 (15節)と言いました。
その出来事が三回も繰り返されました。

そしてその出来事の前には、カイサリアにいたローマの軍隊の長(百人隊長)だったコルネリウスが、神の天使からのお告げを受けていました。
コルネリウスはユダヤ人ではない異邦人(外国人)でしたが、イスラエルの真の神を信じる人で、誠実な信仰生活を送り、人々に多くの施しをしていました。そして、その彼の生き方は彼の家族にも及び、彼の一家はみな神を畏れていました。
コルネリウスへのお告げは「ヤッファへ人を送って、そこにいるペトロという人を招きなさい」という内容でした。
神を信じる人であったコルネリウスは、神の(天使の)言葉を信じて、彼の信頼できる召使二人と一人の部下を、ペトロがいるヤッファへ送りました。
コルネリウスとペトロの二人に、それぞれ起きたことは、彼らが出会うために、神がそのようにお膳立てをなさったことでした。
神が彼らに(天使や幻を通して)メッセージを伝えることで、神はコルネリウスとペトロの双方に働きかけて、彼らが出会うようにしてくださったのです。
私たちのあいだで起こされる出会いというものも、けっしてそれらは偶然ではなく、神がそのご計画に沿って、色々な方法によって、私たちを互いに出会わせてくださっているのだな、と私は思います。
私たち人と人とが出会わされる中で、そしてそこで起こされる交わりを通して神が働き、神がそのご計画を推進しておられるのです。
人の出会いは不思議ですが、きっとそこに神のご計画と、神が私たちに伝えようとしてくださっていることがあると、私たちは信じることができるのです。

コルネリウスは自分の親類や友人たちも集めて、ペトロを待っていました。
コルネリウスが、自分だけではなく、彼の親類や友人たちも集めてペトロを待っていたことは、これから起きようとしていることが、彼個人だけの事柄ではない、という思いが彼に与えられていたからでしょう。
ペトロがコルネリウスと出会った時に、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝んだ、と書かれています(25節)。
コルネリウスにとっては、神のお告げによって“その人を呼びなさい”と示された人がやってきたのです。
ペトロがまるで神の使いか、あるいは神ご自身のようにさえ、コルネリウスには見えたのでしょう。

そこでペトロはコルネリウスを起こして言いました。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」(26節)

ペトロが、この言葉を言った背景には、彼自身のそれまでの信仰の経験が大きく影響していました。
ペトロはなぜこの言葉を言うことができたのでしょうか。
それは彼がイエス・キリストと出会い、神の偉大さの前に自分がいかに小さく、弱く、罪深いものであるかを、はっきりと知らされる経験をしていたからです。
マタイによる福音書18章では、イエス様が地上で生きておられ弟子たちと一緒にいた時、弟子たちが“誰が一番偉いのか”と言って、自分たちの中で議論していた様子が描かれています。
ペトロもその弟子たちたちの一人でした。“自分たちの中で誰が一番偉いのか”、“それはきっとこの私だ”などと弟子たちは、ペトロを含めて言い合っていたのです。
ペトロはイエス様に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってきました。では、何がいただけるのですか」と聞いたこともありました。ペトロは相当、弟子としての自分に自信があったのでしょう。
“自分は何もかも捨てて主に従っている。そんなこの私が一番偉いに決まっている”という自信をペトロは持っていたのでしょう。

イエス様が、ご自分が捕まって十字架にかけられる前に、弟子たちに向かって「あなたがたは、皆わたしにつまづく(=あなたがたは私に挫折する。あなたがたは私を捨てて逃げる)」と言ったことがあります。
その時ペトロはイエス様に「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。
イエス様がさらにペトロに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言った時、ペトロは「たとえあなたと一緒に死ななくてはならなくなっても、決してあなたのことを知らないなどとは申しません」と断言していました。
しかし、そう言っていたペトロは(ペトロ以外の弟子も全員)、イエス様が捕まったとき、イエス様のおっしゃっていた通りに、逃げてしまったのです。
そして「あなたもあの人(イエス)と一緒にいた」と人から指摘されたとき、「あんな人のことは知らない」とペトロは三回はっきりとイエス様のことを知らないと言って否定しました。それは、イエス様が前もって言っていた通りでした。
それらはペトロにとっては、大変辛い、それ後もずっと、彼の胸に大きな痛みを覚えさせずにはいられない出来事であり続けたでしょう。
ペトロは自分自身の弱さ、罪深さを、それらの出来事を通して彼は嫌と言うほど知らされたはずです。
しかし、そんなペトロに復活したイエス様が現れて、彼と他の弟子たちをも励まし、彼らは神の前に覚えられ、罪が赦されている、ということを伝えてくださったのです。
嫌と言うほど自分の弱さ、醜さを知らされたペトロが、“こんな私を主は赦してくださった。主は憐れみによってこの私を再び生かし、いまや主の福音を伝える者として、新たに生かしてくださった”という大きな、大きな希望をイエス様からいただいたのです。
ですからペトロは、自分にひざまずくコルネリウスを見て、“お立ちください。わたしもただの(弱い、罪深い)人間です。”と言うことができたのです。彼は心から、そう言うしかなかったのです。
本当に自分はそのような弱い、罪深い者だ、という真実、そして私たち人間はみんなそうなんだ、という真実を、イエス様を通してペトロは与えられていたからです。

“人間は人間であり、神は神である”。これは聖書を貫く大切なメッセージです。
しかし、私たちは神でないものを神としてしまう罪を犯し得ます。神でないものを神とするのが偶像崇拝、偶像礼拝です。
私たちは人と人との間にも優劣や差をつけて、人としての価値にさえ差があるかのようにしてしまうことがあります。
けれども神は、幻を通してペトロに言われました。“どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない”と、神は言われたのです。 人は皆尊い、ということです。
人は罪を犯してしまい、神の栄光を受けられなくなってしまいました。しかし神は、そんな私たちをイエス様の十字架の死を通して贖い、赦してくださったのです。
私たちはイエス様のその尊い犠牲によって罪赦され、再び生かされた者です。神が私たちを赦し、わたしたちをイエス様によって清い者にしてくださったのです。
イエス様によって、私たちは神の前に、尊い者だと見なされる幸いを与えられたのです。
それは何と大きな、驚くべき幸い、恵みではありませんか。私たちはそのような神の恵みの前に、ただ感謝と謙遜な思いを抱くことしかできないのです。

今日の箇所の最後の節(33節)での、コルネリウスの言葉を聞いてみましょう。
よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
私たちがこうして教会に共にいるということは、私たちが神の御前にいる、ということです。
そしてそれは、私たちが神の御前にいることを許されて、神の御言葉を聞くことを許されている、ということです。
神の言葉を聞く機会が私たちに与えられたのです。ですから、その機会を決して逃すことなく、“神が今私たちに伝えようとしてくださっていることを、私たちは全て残らず聞きたい”と言う大きな期待を、私たちは持とうではありませんか。
神は様々なことを通して、私たちに語ってくださいます。特に神が私たち語ってくださるのは、聖書の御言葉を通して、そして聖書の御言葉が実際に語られ、説き明かされる、この礼拝を通してです。
礼拝を通して語られ、そして分かち合われる神の言葉が、私たちに常に新しい力を与え、私たちを生かします。
私たちが願うこと以上の、期待すること以上の素晴らしい恵みを神は特に御言葉を通して、この礼拝の場で、私たちに与えてくださるのです。
ですから私たちはいつも大きな感謝と、また大きな期待をもって礼拝に集いましょう。そして、礼拝を通して御言葉を聞き分かち合う恵みを心から感謝して、共にその幸いを頂いていこうではありませんか。