2026年2月27日金曜日

2026年3月1日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編37篇4節
賛美  新生讃美歌278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美  新生讃美歌515番 静けき河の岸辺を
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録11章19~30節
祈祷
宣教  「それぞれの力に応じて」
祈祷
賛美  新生讃美歌656 きみの賜物と
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日の箇所のはじめに、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害」と書かれています。
これは、使徒言行録7章で描かれていた、ステファノという、キリストを信じる者であり伝道者であった者が、神を冒瀆しているという理由で殺された(殉教した)出来事のことです。
ステファノは神を冒瀆などしていませんでした。彼が殺されたのは、当時のユダヤ教の権力者たちの邪悪な心のためでした。
権力者たちは、イエス・キリストを通して示された真の神を認めることができず、イエス・キリストを主として述べ伝えるステファノを殺してしまったのです。
 ステファノはキリスト教徒として最初の殉教者と言われています。
 そのステファノの殉教をきっかけにし、キリストを信じる者たちへの大きな迫害が起こったことが、第8章の初めにも書かれていました。今日の箇所は、それに続いています。
 ステファノの殉教は大変痛ましく悲しい出来事でした。そしてそれによって、多くのキリスト信者たちが、都のエルサレムにはとどまることができなくなり、各地に散らされていきました。
 しかし、そのこと(キリストを信じる者が迫害のため各地に散らされたこと)は一方で、イエス・キリストの福音がイスラエル各地、そしてやがてイスラエルを超えて、世界へと広がって行く契機ともなりました。

 今日の箇所によれば、各地に散らされた人々(キリストを信じる信者たち)は、最初はユダヤ人たちだけに御言葉を語った、と書かれています。
私たちは既に、ペトロと異邦人のコルネリウスの出会いを通して起きた、異邦人コルネリスと彼の家族や友人たちの回心の出来事を、先週までの箇所で読みました。
しかし、ユダヤ人以外の異邦人(外国人)へも福音が拡がる働きは、教会の指導者であったペトロ以外の、また、後に異邦人伝道の立役者ともなるパウロ以外の、多くの信者たちによっても、進められていったことが今日の箇所には書かれています。
今日の20節に、「彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへいき、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた 」と書かれています。

「彼らの中のキプロス島やキレネから来た者」とは、イスラエル以外の外国で生まれ、外国で育ったユダヤ人たちのことです。
旧約聖書に描かれるように、アッシリアやバビロン帝国によるイスラエルの支配などによって、ユダヤ人の中の多くの人たちが、遠く外国の各地にまで散らされ、そこで生活するようになっていました。
そのような背景を持つユダヤ人(かつ、キリストを信じるようになった人たち)が、ギリシア語を話す人(つまり、ユダヤ人ではない異邦人、外国人)にも、イエス・キリストの福音を語るようにった、と今日の箇所は言うのです。
 彼らはイスラエルから離れた海外出身でしたから、異邦人(外国人)に対する見方や彼らとの付き合いかたも、生粋のユダヤ人たち(異邦人とは交際してはいけない、と信じていた)とは違ったのでしょう。
元々彼らは海外の文化で育ちましたから、より開放的な感覚や考えを持っていたのだと思われます。そのような違いは、時に人々の間では問題や摩擦の原因ともなります。
もしかしたらユダヤ育ちのユダヤ人たちは、彼ら海外出身のユダヤ人たちは、生粋のユダヤ人ではない、と見なされていた可能性もあります。
しかし、今日の場面において、彼ら(海外出身のユダヤ人たち)は、イエス・キリストの福音を広く世界に広めるための、重要な最初の一歩を踏み出した人々として描かれています。

異邦人にも神の御言葉を語ろうという願いが、彼らの間から起きて来たのです。
そしてこれは、イエス・キリストの福音の本質から言えば、自然のことでした。神の御言葉、またイエス・キリストの救いの喜びは、一個人、一民族の中にだけとどめて置けるものではないのです。
キリストの信仰は溢れる喜びを人にもたらします。溢れ出る喜びは自然と拡がって行き、遠くへ伝えられていくのです。
キリストの福音は全ての人を生かす命の言葉です。
キリストの福音が、イスラエル以外の海外出身のユダヤ人たちによって、世界へと広げられていったように、私たちもキリストの福音を広めるための働きの器として、用いられたいと私たちは願います。

ここでさらに重要なことは21節に書かれていることです。

21主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。

 彼らの伝道によって、多くの人々が主に立ちかえった(神を信じるようになった)と書かれています。
そしてそのことは、彼ら(伝道した者たち)が優れて、すばらしい信者だったから、熱心に伝道したから、ということが理由ではない、というのです。
もちろん彼らは熱意をもって、イエス様のことを熱心に人々に伝えたでしょう。彼らの熱意は人を動かしたと、私は信じます。
しかし聖書は、そこで神を信じる者、主に立ちかえった人が沢山起こされたのは、それは、主がその人々を助けられたから(主の助けの手が彼らと共にあったから)、信じて主なる神に立ちかえる者が多く起こされた、と伝えます。
 私たちの信仰生活、伝道活動でも、また生きる上で私たちが行う様々なことも、私たちはいつも目に見える結果に囚われます。

教会の活動でも、日曜日の礼拝以外にも、伝道集会などを企画して、多くの人たちに教会に来てほしいと願い、人を誘おうとしても、教会に来る人や、イエス様を信じる人々は、私たちが願うほどは増えない、という現実があります。
 しかし、福音を伝える働きの主体は神様、イエス様ですから、私たちは、私たちと共にきっと神が働いていてくださる、私たちには分からない方法やタイミングで、御言葉を信じる人がこれからもきっと起こされる、と私達は希望を持って良いのです。
 私たちは目に見える結果などに落胆することなく、まず私たち自身がイエス・キリストの福音を喜んで、福音を生きましょう。
そして私達は教会で礼拝を続けて、御言葉を分かち合って、そのようにして福音を伝える働きに、仕えてまいりましょう。

 今日の箇所で、アンティオキアという都市の教会で異邦人も福音を信じたと言う知らせが都エルサレムへ伝わりました。
 そこでエルサレムの教会は、バルナバと言う人をアンティオキアへ派遣しました。バルナバは、アンティオキア教会で、神の恵みが異邦人たちにも与えられた様子を見て喜びました。
バルナバの目にも、アンティオキア教会の信者たちが神を喜んでいる様子は、明らかだったのです。神の恵みが喜びをもって受け止められ、分かち合われるところでは、きっと人々のその喜びは目に見えるものなのでしょう。
 そしてバルナバは、神の恵みが与えられたアンティオキアの信者たちに、“固い決意をもって主から離れることのないようにto remain true to the Lord with all their hearts. ”と皆を勧めました。

バルナバがそのように彼らを励ました、ということはとても重要です。バルナバがアンティオキアの信者たちを見た時、彼らには神の恵みが確かに与えられていることが確認されました。
しかし、一旦そのように神様を信じて、恵みが与えられたらもう大丈夫、というのではないのです。
 どれほど神の恵みで満たされようとも、一旦神を信じる決意をしても、私たちの信仰を揺るがし、私たちを神の恵みから引き離そうとする様々な誘惑、あるいは試練は必ずやってくるからです。
ですからバルナバは、“信仰に留まり続けるように”、“信仰生活はいつも順調な時ばかりではない。苦難は来る。しかし、信仰に留まり続けるように”という教えと励ましをアンティオケアの教会の信者たちに与えたのです。
その励ましは、今の私たちにも常に必要です。私たちが教会に集い、教会で信仰生活を共にすることで、私たちはそのようにお互いを励まし合い、信仰に留まり続けることができるように、互いに力と祈りを合わせることができます。
ひとり一人は弱いので、私たちは一人だけでは、信仰を失ってしまいます。
しかし、たとえ弱って疲れた時でも、支えあい、励まし合うことのできる信仰の家族と仲間、教会の仲間がいれば、私たちは助け合うことができます。私たちは祈り合うことができます。
バルナバからアンティオキアの教会の群れに向けられた“固い決意をもって主から離れることのないように”という励ましの言葉を、私たちへも向けられた言葉として、心にとめていきましょう。

 今日の箇所の27節以降で、大きな飢饉が起きるという預言が、アガボという人によって“霊”によってなされたと書かれています。
実際に、エルサレムの教会の信者たちは、その飢饉に大きな影響を受け、大変困窮したようです。
 そこでアンティオキアの信者たちは、エルサレム教会の信徒たちを助けることを、自分たちがすべきこととして決めました。彼らは祈り、話し合ったうえでそのように決めたのでしょう。
 彼らは“それぞれの力に応じてas each one was able,”(29節)、ユダヤに住む兄弟たち(エルサレム教会の信者たち)を助けよう、と決めました。
“それぞれの力に応じて(各自のできるだけに応じて)助けよう”という、非常に平凡と言えば平凡、しかし温かく、また愛に溢れた決定がその時彼らの間でなされたのです。
先ほど、私たち一人ひとりの信仰は弱く、一人では信仰を失ってしまうこともある、と私は申し上げました。
しかし、そのような時も、私たちは、互いがそれぞれ与えられた力と賜物に応じて、できるだけのことを通して、互いを支え合うことができます。
 私たちひとり一人に、その人にしかない特別な賜物が与えられており、その賜物は他者のために、また神様に捧げられるときにこそ、最大限に用いられるのです。
 同じ神を信じ、同じ群れに連なる者同士の信仰は、私たち互いの重荷、痛みを分かち合うことへ導きます。
また自分の重荷、痛みを打ち明けて、信仰の家族に祈ってもらうこともできます。その時、私たちの信仰の実践として行われることは、非常に単純な“それぞれの力に応じて、助けの手を差し伸べる(差し伸べ合う)”ことです。
 それはある意味当然、単純ですが、しかし決していつも簡単にできることではないでしょう。私たちは、どうしたら、それぞれの力に応じて支え合う、ことを実践していけるのでしょうか。
それは、聖書の言葉によって、また祈りによって、御言葉と祈りによって、御言葉と祈りを中心にして、私たちが信仰の群れ(教会)に留まり続けることです。
神の言葉を常に一緒に受けて、分かち合い、互いに祈り合い続けることによって、神が私たちに促すことを私たちは実践していくことができるのでしょう。
 私たちの信仰の実践、成長、福音宣教の働きは常に、そのようにして少しずつ前進するものでしょう。時には、後退、衰退しているように見えることもあるでしょう。
 しかし、救い主、イエス・キリストの神の手が、神の助けが私たちと共にあります。神に助けと力を受けて、私たちも信仰の一歩一歩を歩んでいきましょう。