2026年1月11日 主日礼拝
前奏
招詞 エゼキエル書2章1節
賛美 新生讃美歌 16番 み栄えあれ 愛の神
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録9章32~43節
祈祷
宣教 「起きなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌134 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
新約聖書の『使徒言行録』の9章32節から、この章(9章)の終わりまでの箇所が、今日の聖書箇所です。
9章の前半では、サウロが復活のイエス・キリストと出会い、キリスト者を激しく迫害していたそれまでの彼から、キリストの熱心な伝道者へと変わる劇的な変化が描かれていました。
サウロ(後のパウロ)はキリストを信じる者となり、そして今度は自分が迫害され、命さえ奪われそうな危険にあいながらも、イエス・キリストを伝える伝道者へと変えられました。
サウロのような、聖書に登場する人物を通して、人は主イエス・キリストとの真の出会いを経験することによって本当に変えられる、ということを私たちは示されます。
主イエス・キリストと出会い、キリストを主と信じ、キリストを私たちの中心にお迎えすることによって、キリストにある力がこの私たちのものともなるのです。
ですから、私たちのうちに宿ってくださる復活のイエス・キリストの力によって、人は強くなれる、変えられるという希望を私たちは頂くことができるのです。
そしてサウロや、また今日の箇所で登場するペトロなど、キリストの弟子たち、使徒たちの姿を通して、彼らを通して働いたキリストの力は今の私たちにも与えられると、わたしたちは確信していきたいと願います。
今日の箇所では、キリストの弟子であり、そして使徒とも言われた、弟子たちの中でも指導的な立場にあったペトロ(Peter)が登場します。
イエス様が生きておられた時、ペトロはイエス様の最初の弟子の一人であり、イエス様の一番弟子といってもよい存在でした。
そのペトロが長年の病気であった人を癒した様子、そしてそのほかに、死んだ人をも生き返らせた時の話が今日の聖書箇所では伝えられています。
この箇所を通して、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
今日の最初の32節に、”ペトロは方々を巡り歩いた“と書かれています。”リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った“と書かれているリダとは、エルサレムから約40キロほど離れたところにあった町でした。
ペトロは、復活の主に出会って、また聖霊の導きを受けてからは、一箇所(エルサレム)に留まることなく、あちらこちらへと出かけ、”聖なる者“(英語では”主の者たち)のところへと出かけて行ったのです。
”聖なる者たち“(英語ではLord’s people”主の者たち“)とは、罪がなく汚れの無い清い人という意味ではありません。
“聖なる者たち”、あるいは“主の者たち”ですから、彼らはキリストを主と信じるクリスチャンのことが言われています。
キリスト者はどのような意味で“聖なる者”と言うことができるのでしょうか。それはキリストによって清い者としていただいた者、キリストによって罪赦された者、ということです。
自分の努力や功績によって、神に優秀だと認められた、ということではないのです。キリスト者とは、ただ神の憐れみによって選ばれて、キリストの者、神の子とされた、その大きな恵みを信じ、その恵みをただ受け取った者です。
神が私たちの心に働きかけてくださり、神がこの私を選んでくださった、神が私を呼んでくださった、神がキリストを通して私を聖なる者としてくださった、とキリスト者は信じるのです。
そう信じる者は、必然的に神に対して、また人に対してへりくだる(謙虚な)者とさせられるしかない、と私は信じます。
キリストの者とされた、神の者とされた恵みを覚え、私たちは自分を誇ることなく、いつも主なる神をこそ誇る者でありたいと願います。
ペトロはリダで、中風という病気(なんらかの理由で、体に麻痺があり、体の自由がきかない病気)のため、8年間病床にあったアイネアという男の人に出会いました。
ペトロはアイネアに「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言いました。
するとアイネアはすぐ起き上がりました。これが今日の箇所で起きている一つ目の、ペトロによる癒しの出来事です。
ペトロは“イエス・キリストがいやしてくださる”とアイネアに言いました。この言葉の重要性はどれほど強調してもしすぎることがありません。
ペトロは“わたしがあなたをいやす”とは言わなかったのです。“イエス・キリストがあなたをいやしてくださる。だから起きなさい。自分で床を整えなさい”とペトロは言ったのです。
ペトロは次の箇所の、ヤッファという別の町で出会ったタビタ(ドルカス(かもしか))、もう死んでいた彼女を蘇らせた場面でも、「タビタ、起きなさい」と言いました。
「タビタ、起きなさい」という言葉には、“イエス・キリストがあなたを生き返らせてくださる”というキリストへの信仰があります。
わたしたちの注目は、病気の人が奇跡的に癒された、一度死んだ人が生き返った、という方へ、どうしても向くと思います。
アイネアの病が癒されたこと、皆に慕われていたタビタが生き返ったこと、それらはいずれも素晴らしい出来事です。
重い病気、苦しい病気を患っている人が治りたいと思うのは当然ですし、わたしたちも自分や、あるいは自分の家族や親しい人が病気で苦しんでいたら、その癒しを願い、神に祈ります。
しかし、今日の箇所は“神様を信じたら、難しい病気でも治るような奇跡、死者が生き返る奇跡が必ず起こる”ということを伝えているのではありません。
もし私たちが目に見える具体的な奇跡が、わたしたちの願いと祈りに応じて必ず起こるのだ、と言うならば、それは自分を神様の地位に置くということになります。
では今日の箇所で私たちはどのような信仰のメッセージを聞くことができるでしょうか。
それは、人間である私が癒す(命、希望を与える)のではなく、“イエス・キリストがあなたを癒す”、“イエス・キリストこそが癒し主であり、命の源である”ということです。
そしてペトロが、一度死んだ人に向かって「タビタ、起きなさい」と言うほどに、そこまで主に信頼をし、主なる神にすべてを委ねるほどの信仰が人に与えられる、ということです。
ペトロは、そのような信仰姿勢を、すべて主であるイエス様から学んでいました。ペトロは地上で宣教活動をしておられた時のイエス様から、直接多くのことを学んでいたのです。
今日の箇所でのペトロの行動には、彼がイエス様から学んだこと、ペトロが実際に見ていたイエス様の姿が大変よく反映されています。
特に、タビタを生き返らせた時のペトロの振舞いは、マルコ福音書5章40節からの箇所で、イエス様がヤイロという会堂長の娘を生き返らせた時のイエス様の行動を、とてもよく反映しています。
ペトロは、その時イエス様がどのようになさったかをよく覚えており、できるだけ忠実にその行動をまねた、と言えるでしょう。
最初は模倣(まね)から入る、ということにも意味があると私は思います。模倣がやがて、その実態と意味を伴い、中身を伴った信仰へと育っていく、ということがあるのではないでしょうか。
例えば、私たちが祈る、ということも、人前で祈ることは、最初はなかなか出来いかもしれません。長年のクリスチャンでも人前で祈ってくださいと急に言われると、躊躇することは多いと思います。
そんな時、最初はだれかほかの人の祈りを真似する、用意された祈りの見本のような言葉をそのまま祈る、ということも意味のあることです。
その祈りの意味を考え、求めつつ、真剣に祈るならば、最初は模倣(真似)であったとしても、信仰の実体を伴った祈りへと変えられていくことは可能なのです。
私たちは、参考にできる信仰の姿勢は、どんどん真似をしていきましょう。
ヤイロの娘を生き返らせた時、イエス様は会堂長の家に着く前に、“その娘はなくなりました。だからもう来ていただかなくて結構です”と言う知らせを聞きました。
しかしイエス様は言いました”恐れることはない。信じなさい“。そう言って、イエス様はヤイロの家へ向かっていくことを止めずに、ヤイロの家の中に入りました。
イエス様は皆を家から外に出して、そして子どもの手を取って、“少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい”と言いました。そしてその子は生き返ったのです。
ペトロは、イエス様のその時の様子を思い出して、“主は、少女が死んだという知らせを聞いても、決して(もう終わりだ、私がそこへ行ってももう意味はない)とはおっしゃらなかった”と、その時のことを思い出したのでしょう。
だからペトロもあきらめなかったのです。彼(ペトロ)自身が、主の癒し、死者さえ生き返らせた主の御業を直接目撃していたので、彼は主に倣って、決してあきらめなかったのです。
“タビタは死んだけれども、これですべてが終わり、あらゆる希望が打ち砕かれた、ということではないのだ。神の御業は必ず起こる”という信仰の思いが、ペトロにその時一層強く与えられたのです。
それでペトロはイエス様がしたように、皆を外へ出して、そして彼はひざまづいて祈りました。
“神の御業が起こされますように。神の御心の通りになりますように”とペトロは真剣に願い、へりくだって、神に祈りを捧げたのでしょう。
ペトロは「タビタ起きなさい」と、イエス・キリストがヤイロの死んだ娘に言ったのとほぼ同じ言葉を発しました。その言葉を発する信仰がペトロに与えられたのです。
そのことが主の御心ならば、その通りになるという信仰がペトロに与えられたのです。私たちは、この奇跡の出来事の表面的なことに囚われるのではなく、これほどの信仰をペトロにお与えになった主なる神の偉大さに、心を留めたいと願います。
わたしたちも信仰の経験を重ねていく毎に、イエス・キリストの恵みを経験していく毎に、主への信頼が深まっていきます。
主なる神は真実であり、常に誠実なお方だ、ご自身の約束を守ってくださるお方だと、私たちはますます神を信頼し、神により頼むようになっていきます。
そして、教会には多くの疲れた人、傷ついた人、打ち倒された人たちやってきます。今私たちの中にも、そのように疲れ切った人、傷ついた人たちがおられるでしょう。
多くの人たちが神の癒しを求めています。この私も神の癒しを求めています。自分で立ちあがる力を私も求めています。
そのような時、わたしたちは疲れて神の恵み、神の力と癒しを求める人たちに、“イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。(なぜなら、キリストがあなたに立ち上がる力をくださるから)”というメッセージを伝えていきたいと願います。
死んだと思っても、決してそれですべてが終わりではない。神の御業は必ず起こる。神の恵みは私たちに与えられ続ける、という希望を私たちはイエス様から常にいただけるのです。
また私たちは、お互いに、そのような信仰の言葉で、励まし合っていける教会になりたいとも願います。
キリストが私たちを日々立ち上がらせてくださいます。キリストが私たちに日々命を与え、一歩一歩と前へ進ませてくださいます。キリストにより頼み、そのように信仰の日々を私たちは歩んでいこうではありませんか。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2026年1月10日土曜日
2026年1月3日土曜日
2026年1月4日 主日礼拝
前奏
招詞 ミカ書6章8節
賛美 新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録9章19b~31節
祈祷
宣教 「信仰の仲間として」
祈祷
賛美 新生讃美歌262 み霊よくだりて
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
新約聖書の『使徒言行録』を、昨年度のはじめ(2025年度4月)から続けて、私たちは礼拝メッセージの御言葉として読み、聞いてまいりました。
アドベントとクリスマスの期間には、使徒言行録からではなく、クリスマスに関連する聖書の箇所から、私たちは礼拝で御言葉を聞いてきました。
今日からまた、使徒言行録で伝えられる神の御業から、礼拝の中で神のメッセージを私たちは聞いていきます。
サウロ(後のパウロ)は、キリストに従う者たちを激しく迫害する者でした。
その彼が、今日の前の箇所で、エルサレムからダマスコという町へ(キリストを信じる者なら誰でも捕らえて連行するため)向かっている時、復活の主イエス・キリストに出会います。
天から突然刺した光に照らされ、サウロは目が見えなくなり、そして人々に連れていかれた、ダマスコのある家に留まっていたました。
そこで、主(神)からの指示を受けたアナニアという人によって祈られて、サウロは再び視力を回復し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けました。
サウロは、元どおり目が見えるようになって、食事をして元気を取り戻しました。今日はその話の続きの箇所です。
それから数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒に過ごしたサウロは、今日の箇所20節によれば「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝え」ました。
ほんの数日か一週間ほど前までは、イエス・キリストを信じる者たちを激しく迫害していた人が、キリストを信じるようになってから、すぐ(ほとんど間を置かずに)、「この人(イエス・キリスト)こそ神の子である」と人々に伝えるようになった、というのです。
サウロのその姿から私たちが示されることは、キリスト者は誰でも、一旦イエス・キリストを信じ、キリスト者となった以上、イエス・キリストの福音を(すぐにでも)他者に伝えることができる、ということです。
サウロは「自分はまだ信じたばかりだから、もう少し、しっかりと信仰を身につけてから、それから伝道を始めよう」とは考えなかったようです。
キリスト者は、だれもが、バプテスマを受けてキリスト者となり、神の子とされたのならば、その瞬間から、サウロのようにキリストを宣べ伝えることができるし、またそうすべきだと、わたしたちは示されます。
皆さんの中にも同様の経験をお持ちの方がおられるかと思います。わたしはバプテスマを受けて、すぐ次の年ぐらいから教会学校の小学科の教師を任されるようになりました。
「まだ私はバプテスマを受けたばかり。聖書の内容もそんなに分かっているわけではない」と躊躇する気持ちはあったと思いますが、子どもは好きでしたので、教会学校の教師をさせて頂くようになりました。
今振り返って考えましても、そのころの私の信仰や聖書に関する知識など、非常に初歩的なものでした。しかし、“イエスは主”、“イエスはキリスト、救い主”、肝心なことはそれだけなのです。
その肝心かなめの信仰があるのならば、信仰が強いとか弱いとか、聖書に関する知識が豊富だとか乏しいとかいうことは、少なくとも神様から見れば、大した差はないのではないか、と私は思います。
今私は牧師として、教会の霊的リーダーとしての務めを頂いています。信仰を持った最初の頃から比べれば色々と信仰的な経験も重ね、聖書に関する知識や、神学校で学ばせていただいたことなど知っていることは増えたかもしれません。
しかし、“イエスは主”という信仰告白を聖霊によって与えられた、聖霊によって導かれ、励まされ、日々信仰を歩むことを許されているという点では、最初に頃と変わらないのです。
そして、他のキリスト者誰とも、それは変わらないのです。多少の経験や知識のあるなしは、大きな問題ではありません。
また私たちそれぞれが異なる賜物を与えられています。それぞれに出来る方法があります。
誰もが、牧師のように、こうして講壇の上で聖書の話をしたり、牧会的な仕事をする必要があるのではありません。
自分に与えられた賜物を通して、自分が信じ教会で分かち合っているイエス・キリストの神について、わたしたちは機会があるごとに他者に伝えようではありませんか。
そのように伝道(宣教)をするキリスト者、キリスト教会に、わたしたちはなりたいと願います。
サウロは、それまでキリスト者を激しく迫害する者でした。ですから、彼の急激な変化は多くの人々を、特にそれまで彼と一緒になってキリスト者を迫害していたユダヤ人たちを、戸惑わせたようです。
やがて彼らはサウロを殺そうとまで思うようになりました。しかし、サウロには彼のことを助けてくれる弟子たちがいました。
今日の23~25節には、ユダヤ人たちがサウロを殺そうとしましたが、サウロは自分の弟子たちによって助けられ、彼は夜の間に町の城壁からつりおろされて逃げることができた様子が描かれています。
また30節からの箇所では、エルサレムでユダヤ人たちに命を狙われたときにも、兄弟たちにより救われたことが書かれています。
サウロがそのように、他の人たちによって何度も助けられたことから、わたしたちも、きっと様々な局面で、多くの人たちによって助けられ、命が守られていることを思わされます。
そして私たちの命が守られているその背後には、主なる神の守りと導きがあることを思わされます。日々生かされている、守られている幸いを私たちは神に感謝したいと思います。
パウロは、エルサレムに行ってから、そこでエルサレムの教会の弟子たちの仲間に加わろうとしました。
キリストの信仰を頂くということは、一人孤独に信仰者として生きるのではなく、他のキリスト者と仲間になる、信仰の群れに加わるということでもあるのです。
人がキリストを信じバプテスマ(洗礼)を受けることは、その人が主なる神を信じてキリスト者として生きるという信仰決心の告白であると同時に、その人が教会の一員となる、という意味もあります。
自分自身を振り返っても、わたしのキリストにある信仰は、同じ信仰をいただくキリストの教会に繋がることで、信仰の家族(兄弟、姉妹)との信仰の交わりと繋がりの中で、本当に成長させられてきました。
私たちが教会の信仰の交わりの中で、それぞれの信仰が養われ、それぞれの信仰の働き、奉仕をすることを通して、これからも私たちの信仰が養われていきますようにと、私は願っております。
今日の箇所でサウロは、エルサレムの信徒たちが、なかなかサウロのことを信用しようとしないという困難を経験します。
そこでサウロを助けたのがバルナバと言う人でした。バルナバは、サウロが、いかにそれまでとは変えられたのかを、エルサレムの弟子たちに話して聞かせたのです。
サウロがイエスの名によって大胆に宣教した様子を、バルナバは説明しました。“この人は確かに以前とは違い、変わったのだ”とバルナバが一生懸命サウロのために、エルサレムの使徒たちを説得したのでしょう。
バルナバのそのような助けによって、サウロはエルサレムの使徒たちと仲間として関係を築き始めることができました。
このバルナバの助けがなければ、後の伝道者としてサウロの人生はなかった、と言えます。後にキリストの伝道者として大きな働きをするようになるサウロですが、本当に多くの人に彼は助けられたのだと、聖書は伝えるのです。
先ほども申し上げましたが、サウロを助けた多くの人の働きの背後には、主なる神の守りと導きがあったことを、そしてその守り導きは、今の私たちにも与えられていることを、わたしたちは改めて知らされます。
今日の箇所の最初に戻りますが、サウロはすぐに「この人こそ神の子である」と述べ伝えました。そしてバルナバの言葉によれば、サウロは”イエスの名によって“宣教をしました。
サウロは、彼自身にどんなことが起きたのか、ということを(少なくとも、そのことを中心的なこととして)話したのではありませんでした。
激しくキリスト者を迫害していた自分に、キリストがあらわれて福音を伝えてくれたこと、視力を失い、そこからアナニアに祈られて、視力、力を回復したという、自分に起きたことをサウロは話したかもしれません。
しかしサウロが伝えた中心的なこと、もっとも大切なことは、自分のことではなくて、「この人(イエス・キリスト)こそ神である」ということです。
私たち現在のキリスト者も、キリスト教会も、この人(イエス)こそ神の子である、神である、イエス様がキリスト、救世主であり神である、というメッセージを常に語り続けたいと願います。
私たちは自分自身を語るのではありません。たとえ自分のことを語るにしても、この自分を通していかに主なる神が働いてくださった、という神の恵みを、神の偉大さを私たちは語るのです。
キリスト者とは、いただいた神の恵み、自分が信じたイエス・キリストの恵みを語ることが許されているのです。
ですから私たちの教会も、常に「神は生きておられる。イエス様がキリストである。主の御言葉は素晴らしい」と、何よりもキリストの恵みが、それだけが語られる教会でありたいと願います。
今日の箇所最後の31節をお読みします。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
”教会は平和を保ち“とは、その時の彼らの間に何の問題もなかったということではないはずです。
実際、聖書の他の箇所で、初めのころの教会の内部に、信者同士の間で色々な問題や衝突が起きていたことが、はっきりと書かれています。
しかしその時の教会の信者たちは、彼らの真ん中に“キリストの平和”あることを願い、神の霊である聖霊により頼むことでは一致していたのでしょう。
そして彼らは主を畏れることを大事にし(それは、“自分は何も知らない”という謙遜な信仰を伴います)、そし聖霊の慰め(英語では“励まし”)を受けていた、というのです。
“聖霊から常に力を受ける”とは、目には見えないけれども、確かに私たちを守り、導いてくださっている神の霊、聖霊がおられることを信じ、聖霊に依り頼む、ということです。
主なる神を信じる集まり、信仰の家族である教会では、誰か優れた人の能力や経験によって導かれるのではなく、わたしたちの思いを超えて働いてくださる神の霊に、わたしたちひとり一人がより頼むことが大切なのです。
またそれが私たちにとっての恵みであるのです。
新しい年、わたしたちの教会がより頼むものが、わたしたちが願うものが、常に神の霊である聖霊の導きでありますように。
わたしたちが自分自身の力や人の力により頼んで、それを誇ったりすることなく、謙虚に聖霊の導きを求めていけますように、と私たちは祈りましょう。
目には見えない神の霊、聖霊によって常に励まされ、慰められ、信仰の道を歩んでいく私たちでありたいと願います。
前奏
招詞 ミカ書6章8節
賛美 新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
主の祈り
賛美 新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句 使徒言行録9章19b~31節
祈祷
宣教 「信仰の仲間として」
祈祷
賛美 新生讃美歌262 み霊よくだりて
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
新約聖書の『使徒言行録』を、昨年度のはじめ(2025年度4月)から続けて、私たちは礼拝メッセージの御言葉として読み、聞いてまいりました。
アドベントとクリスマスの期間には、使徒言行録からではなく、クリスマスに関連する聖書の箇所から、私たちは礼拝で御言葉を聞いてきました。
今日からまた、使徒言行録で伝えられる神の御業から、礼拝の中で神のメッセージを私たちは聞いていきます。
サウロ(後のパウロ)は、キリストに従う者たちを激しく迫害する者でした。
その彼が、今日の前の箇所で、エルサレムからダマスコという町へ(キリストを信じる者なら誰でも捕らえて連行するため)向かっている時、復活の主イエス・キリストに出会います。
天から突然刺した光に照らされ、サウロは目が見えなくなり、そして人々に連れていかれた、ダマスコのある家に留まっていたました。
そこで、主(神)からの指示を受けたアナニアという人によって祈られて、サウロは再び視力を回復し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けました。
サウロは、元どおり目が見えるようになって、食事をして元気を取り戻しました。今日はその話の続きの箇所です。
それから数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒に過ごしたサウロは、今日の箇所20節によれば「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝え」ました。
ほんの数日か一週間ほど前までは、イエス・キリストを信じる者たちを激しく迫害していた人が、キリストを信じるようになってから、すぐ(ほとんど間を置かずに)、「この人(イエス・キリスト)こそ神の子である」と人々に伝えるようになった、というのです。
サウロのその姿から私たちが示されることは、キリスト者は誰でも、一旦イエス・キリストを信じ、キリスト者となった以上、イエス・キリストの福音を(すぐにでも)他者に伝えることができる、ということです。
サウロは「自分はまだ信じたばかりだから、もう少し、しっかりと信仰を身につけてから、それから伝道を始めよう」とは考えなかったようです。
キリスト者は、だれもが、バプテスマを受けてキリスト者となり、神の子とされたのならば、その瞬間から、サウロのようにキリストを宣べ伝えることができるし、またそうすべきだと、わたしたちは示されます。
皆さんの中にも同様の経験をお持ちの方がおられるかと思います。わたしはバプテスマを受けて、すぐ次の年ぐらいから教会学校の小学科の教師を任されるようになりました。
「まだ私はバプテスマを受けたばかり。聖書の内容もそんなに分かっているわけではない」と躊躇する気持ちはあったと思いますが、子どもは好きでしたので、教会学校の教師をさせて頂くようになりました。
今振り返って考えましても、そのころの私の信仰や聖書に関する知識など、非常に初歩的なものでした。しかし、“イエスは主”、“イエスはキリスト、救い主”、肝心なことはそれだけなのです。
その肝心かなめの信仰があるのならば、信仰が強いとか弱いとか、聖書に関する知識が豊富だとか乏しいとかいうことは、少なくとも神様から見れば、大した差はないのではないか、と私は思います。
今私は牧師として、教会の霊的リーダーとしての務めを頂いています。信仰を持った最初の頃から比べれば色々と信仰的な経験も重ね、聖書に関する知識や、神学校で学ばせていただいたことなど知っていることは増えたかもしれません。
しかし、“イエスは主”という信仰告白を聖霊によって与えられた、聖霊によって導かれ、励まされ、日々信仰を歩むことを許されているという点では、最初に頃と変わらないのです。
そして、他のキリスト者誰とも、それは変わらないのです。多少の経験や知識のあるなしは、大きな問題ではありません。
また私たちそれぞれが異なる賜物を与えられています。それぞれに出来る方法があります。
誰もが、牧師のように、こうして講壇の上で聖書の話をしたり、牧会的な仕事をする必要があるのではありません。
自分に与えられた賜物を通して、自分が信じ教会で分かち合っているイエス・キリストの神について、わたしたちは機会があるごとに他者に伝えようではありませんか。
そのように伝道(宣教)をするキリスト者、キリスト教会に、わたしたちはなりたいと願います。
サウロは、それまでキリスト者を激しく迫害する者でした。ですから、彼の急激な変化は多くの人々を、特にそれまで彼と一緒になってキリスト者を迫害していたユダヤ人たちを、戸惑わせたようです。
やがて彼らはサウロを殺そうとまで思うようになりました。しかし、サウロには彼のことを助けてくれる弟子たちがいました。
今日の23~25節には、ユダヤ人たちがサウロを殺そうとしましたが、サウロは自分の弟子たちによって助けられ、彼は夜の間に町の城壁からつりおろされて逃げることができた様子が描かれています。
また30節からの箇所では、エルサレムでユダヤ人たちに命を狙われたときにも、兄弟たちにより救われたことが書かれています。
サウロがそのように、他の人たちによって何度も助けられたことから、わたしたちも、きっと様々な局面で、多くの人たちによって助けられ、命が守られていることを思わされます。
そして私たちの命が守られているその背後には、主なる神の守りと導きがあることを思わされます。日々生かされている、守られている幸いを私たちは神に感謝したいと思います。
パウロは、エルサレムに行ってから、そこでエルサレムの教会の弟子たちの仲間に加わろうとしました。
キリストの信仰を頂くということは、一人孤独に信仰者として生きるのではなく、他のキリスト者と仲間になる、信仰の群れに加わるということでもあるのです。
人がキリストを信じバプテスマ(洗礼)を受けることは、その人が主なる神を信じてキリスト者として生きるという信仰決心の告白であると同時に、その人が教会の一員となる、という意味もあります。
自分自身を振り返っても、わたしのキリストにある信仰は、同じ信仰をいただくキリストの教会に繋がることで、信仰の家族(兄弟、姉妹)との信仰の交わりと繋がりの中で、本当に成長させられてきました。
私たちが教会の信仰の交わりの中で、それぞれの信仰が養われ、それぞれの信仰の働き、奉仕をすることを通して、これからも私たちの信仰が養われていきますようにと、私は願っております。
今日の箇所でサウロは、エルサレムの信徒たちが、なかなかサウロのことを信用しようとしないという困難を経験します。
そこでサウロを助けたのがバルナバと言う人でした。バルナバは、サウロが、いかにそれまでとは変えられたのかを、エルサレムの弟子たちに話して聞かせたのです。
サウロがイエスの名によって大胆に宣教した様子を、バルナバは説明しました。“この人は確かに以前とは違い、変わったのだ”とバルナバが一生懸命サウロのために、エルサレムの使徒たちを説得したのでしょう。
バルナバのそのような助けによって、サウロはエルサレムの使徒たちと仲間として関係を築き始めることができました。
このバルナバの助けがなければ、後の伝道者としてサウロの人生はなかった、と言えます。後にキリストの伝道者として大きな働きをするようになるサウロですが、本当に多くの人に彼は助けられたのだと、聖書は伝えるのです。
先ほども申し上げましたが、サウロを助けた多くの人の働きの背後には、主なる神の守りと導きがあったことを、そしてその守り導きは、今の私たちにも与えられていることを、わたしたちは改めて知らされます。
今日の箇所の最初に戻りますが、サウロはすぐに「この人こそ神の子である」と述べ伝えました。そしてバルナバの言葉によれば、サウロは”イエスの名によって“宣教をしました。
サウロは、彼自身にどんなことが起きたのか、ということを(少なくとも、そのことを中心的なこととして)話したのではありませんでした。
激しくキリスト者を迫害していた自分に、キリストがあらわれて福音を伝えてくれたこと、視力を失い、そこからアナニアに祈られて、視力、力を回復したという、自分に起きたことをサウロは話したかもしれません。
しかしサウロが伝えた中心的なこと、もっとも大切なことは、自分のことではなくて、「この人(イエス・キリスト)こそ神である」ということです。
私たち現在のキリスト者も、キリスト教会も、この人(イエス)こそ神の子である、神である、イエス様がキリスト、救世主であり神である、というメッセージを常に語り続けたいと願います。
私たちは自分自身を語るのではありません。たとえ自分のことを語るにしても、この自分を通していかに主なる神が働いてくださった、という神の恵みを、神の偉大さを私たちは語るのです。
キリスト者とは、いただいた神の恵み、自分が信じたイエス・キリストの恵みを語ることが許されているのです。
ですから私たちの教会も、常に「神は生きておられる。イエス様がキリストである。主の御言葉は素晴らしい」と、何よりもキリストの恵みが、それだけが語られる教会でありたいと願います。
今日の箇所最後の31節をお読みします。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
”教会は平和を保ち“とは、その時の彼らの間に何の問題もなかったということではないはずです。
実際、聖書の他の箇所で、初めのころの教会の内部に、信者同士の間で色々な問題や衝突が起きていたことが、はっきりと書かれています。
しかしその時の教会の信者たちは、彼らの真ん中に“キリストの平和”あることを願い、神の霊である聖霊により頼むことでは一致していたのでしょう。
そして彼らは主を畏れることを大事にし(それは、“自分は何も知らない”という謙遜な信仰を伴います)、そし聖霊の慰め(英語では“励まし”)を受けていた、というのです。
“聖霊から常に力を受ける”とは、目には見えないけれども、確かに私たちを守り、導いてくださっている神の霊、聖霊がおられることを信じ、聖霊に依り頼む、ということです。
主なる神を信じる集まり、信仰の家族である教会では、誰か優れた人の能力や経験によって導かれるのではなく、わたしたちの思いを超えて働いてくださる神の霊に、わたしたちひとり一人がより頼むことが大切なのです。
またそれが私たちにとっての恵みであるのです。
新しい年、わたしたちの教会がより頼むものが、わたしたちが願うものが、常に神の霊である聖霊の導きでありますように。
わたしたちが自分自身の力や人の力により頼んで、それを誇ったりすることなく、謙虚に聖霊の導きを求めていけますように、と私たちは祈りましょう。
目には見えない神の霊、聖霊によって常に励まされ、慰められ、信仰の道を歩んでいく私たちでありたいと願います。
2025年12月27日土曜日
2025年12月28日 主日礼拝
前奏
招詞 ヨハネによる福音書14章15節
賛美 新生讃美歌 69番 日かげ静かに
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
主の晩餐
献金
聖句 申命記11章8~12節
祈祷
宣教 「年の初めから年の終わりまで」
祈祷
賛美 新生讃美歌81 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
今日は2025年の最後の主日(日曜日)の礼拝です。今年も私たちが御言葉を共に聞き続けることができた恵みを神様に感謝したいと私は願います。
今日は、旧約聖書の『申命記』の中の御言葉から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
『申命記』は、イスラエルの民たちが約400年間奴隷生活を送ったエジプトから救い出され、その後約40年間荒野を旅した後に、いよいよ約束の土地カナンの地へと入って行く、その直前の期間について、記しています。
実は、エジプトを出たイスラエルの民たちの第一世代は、ほとんどが荒野での旅の途中で死にました。約束の地へ入って行くことができたのは、第二世代以降の人たちでした。
イスラエルの民たちをエジプトから導きだし、そして荒野での旅を率いたのはモーセでした。
そのモーセも、カナンの地へは入ることはできず、その直前に死にました。申命記の最後に、モーセが死ぬ場面が描かれています。
申命記は、そのモーセが神から与えられた言葉を、イスラエルの民たちが守るべき戒め、神の教えとして、イスラエルの民たちに伝え続けた言葉によって、その多くを占められています。
指導者であるモーセはカナンの地に入る前に死にます。しかし、イスラエルの民たちはモーセ亡きあとも、別の指導者(ヨシュア)に率いられながら、カナンの地へ入って行くというその道程を続けます。
モーセは、神の言葉、神の戒めをイスラエルの民たちに伝えました。それは、彼らがそれからの旅路を行くために、信仰の旅路を続けていくために、一番大切なものが神の言葉であったからです。
モーセやヨシュアのような人間の指導者が民たちを導くのではないのです。指導者は、民たちが主なる神に従って生きることができるように、その補佐役をするに過ぎません。
いかなる人間の指導者も、どれほどその人が霊的にも優れていようとも、人である以上、彼(彼女)は必ず間違いを犯します。人は、誰かが従って生きるという対象にはなりません。
人が常に聞き従うのは、あくまで主なる神のみ言葉です。
私たち人は誰もが、立場や職分、役割の違いはあっても、神の前には一人の信徒、罪があり、その罪をイエス・キリストによって赦された罪人であることを覚えて、常に神の言葉を共に聞いて、神に聞き従っていくことを大切にしたいと願います。
今日の箇所の初めの節である第8節に「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」と書かれています。
ここで“わたし”とは、この言葉を語っているモーセですが、モーセは神から与えられた言葉をそのまま伝えていますから、この“わたし”は神と同じであると理解してよいです。
“あなたたちは、わたし(神)が今日命じるすべての戒めを守りなさい”、“あなたたちは、神の言葉を聞いて守りなさい”という言葉は、申命記の中にも、また聖書の他の箇所にも何箇所も出てきます。
神の言葉(戒め)を聞いて、それに従って生きるということが、私たちにとってとても大切なことであるので、聖書はそのことを何度も繰り返し伝えるのです。
私たちは教会の礼拝で、教会学校や祈祷会でも、共に神の言葉を聞き、分かち合います。わたしたちは一人でも聖書を読み、神の言葉を受け取ります。
私たちは何度も同じ箇所を、神の同じ言葉を繰り返し聞きます。同じ言葉ですが、聖書の言葉(神の言葉)は、その度に、私たちの置かれた状況に応じて、新しい響きと意味を持ちます。
私たちは何度も何度も、神の言葉を一生涯にわたって聞き続けます。それは神の言葉こそが永遠であり、私たちを常に生かす、私たちに生きる力を与えるからです。
今日の8節後半には次のように書かれています。
こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。
わたしたちそれぞれに行くべき道があります。個人として、家族として、私たちに行くべき道があります。また、私たちの教会が共に進むべき道があります。
イスラエルの民たちがヨルダン川を渡って、カナンの地へ進んで行ったように、私たちにとってのヨルダン川、その先にある約束の土地というものが、あるのではないでしょうか。
私たちがそれぞれ進もうとしている道は険しく見えるかもしれません。その先の土地でぇあどのような生活が待っているのだろうか、果たしてそこへ行くことができるのだろうか、と不安に思うようなこともあるでしょう。
しかし、そのような時私たちはどうすればよいのか。神ははっきりとその答えを私たちにくださっています。それが「わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」です。
主の言葉を私たちは聞きます。ただ聞くだけでなく、すべての戒めを聞いて守りなさい、と神は言われるのです。
そうすることで私たちは、これから進んで行く信仰の旅路を、力と勇気を御言葉から得て進むことができるのです。
9節にはこう書かれています。
こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。
私たちは、主の御言葉(戒め)に従うことによって、これから先向かっていくその土地で私たちは長く生きることができる、と言うのです。
神の言葉は私たちに命を与えるものです。神の言葉は私たちを生かします。
神の戒めは、暴君や独裁者のような神が私たち人間を自分の思うように勝手に支配したり、私たちを自分の利益のために仕えさせるためにあるのではありません。
神の戒めは、それを私たちが受けて、聞き従うことで、私たちが真の命をこの地上で生きることができるために、神から私たちに与えられた、まさに賜物なのです。
神の言葉は、イエス・キリストと言うお方によって、人の目にも見えるお方となって世に現われました。それがクリスマスに起こった出来事でした。
私たちは、聖書の言葉、神の戒め(言葉)を、イエス・キリストの光に照らされ、神の霊である聖霊によって照らされて、受け止めて、その御言葉に従って生きる信仰の道を、共に歩んでいきたいと願います。
イスラエルの民たちは400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。そして今や彼らは神の約束の地へ入っていこうとしています。
かつて彼らが住んでいたエジプトが彼らにとってどのような土地であったのか、そしてこれから行こうとしている土地はどのような土地なのか、について10~11節に次のように書かれています。
10あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。
11あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
10節に書かれている、“エジプトでは、あなたたちは種を蒔いて、畑に自分の足で水をやる必要があった”ということは、彼らがその土地で強制的に働かされていた、ということも表しているでしょう。
それと同時に、“エジプトでは、あなたたちは自分の足で水をやる必要があった”というのは、このような意味もあると私は思います。
それは、人が生きるのに、自分自身の力や技術に頼み、自分の力で生きようとしている(あるいは、人が自分の力で生きることができると思っている)ことです。
本来人は神の助け、神からの恵み無くしては決して生きていくことはできません。それを知らずに、人が自分自身の力を過信して、自分の力で生きていると信じて(錯覚して)生きる生活が、エジプトでの生活です。
それは真の神の恵みを知る前の私たちの生き方、とも言えます。
しかし、信仰者にとって、その人が生きる場所は、11節に書かれている通り“山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている”土地です。
信仰者が歩む道は、信仰者が住む場所は、神が必要なものを備えてくださる場所です。しかし、それは自分で何もしなくてよい、ということでは、もちろんありません。
神様を信じれば、自分で何も努力しなくても、働かなくても、豊かに生きることができるし、苦しいことも何もない、ということでは全くありません。
そうではなく、信仰者はこの地上にあって、生きる上で様々な困難や苦難があっても、“神が私たちと共にいてくださり、そして必要なものは必ず与えてくださる”、と信じて生きることができる、ということです。
私たちが、先が見えずに不安に思うような時も、その道を進んで行く力が神から与えられ、御言葉から知恵と勇気とを頂くことが出来るのです。
“その土地は天から降る雨で潤されている”とは、私たち信仰者が、天の父なる神は私たちのことを常に心にかけ、必要なものを必ず与え、私たちの命を守ってくださるお方である、と信じることを表します。
それは私たちが信じている、と言う夢物語ではありません。神が私たちに与え、私たちを守っていてくださることは、聖書の言葉、そしてイエス様によって確実であることが、既に保証されている真実なのです。
今日の箇所の最後の12節には次のように書かれています。
12それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
私たちが歩む信仰の道は、常に神がその目を注ぎ、私たちを守り導いてくださっている道です。
私たちが主の御言葉に従って進むその土地は、神が私たちを常に心がけ、”年の初めから年の終わりまで“、いつまでも神が私たちと共にいてくださる土地です。
モーセを通して、神はイスラエルの民たちに、ご自分の御言葉(戒め)に聞いて、神の戒めに従って生きることを繰り返し繰り返し伝え、彼らを神の道へと導こうとされました。
私たちも新しい日々、また新しい年を迎えようとしている今、改めて、神の御言葉と戒めを聞き、その言葉に従って生きるという決意を新たにいたしましょう。
私たちが歩む道、私たちが行こうとしているその土地は、いつも主なる神が私たちのことを心にかけてくださり、主なる神が、年の初めから終わりまで、常にその御目を注いてくださっている土地です。
主の守り、導きが私たちには与えられている、主なる神の愛の眼差しが私たちにいつも注がれていることを覚え、安心して、私たちは歩み続けてまいりましょう。
前奏
招詞 ヨハネによる福音書14章15節
賛美 新生讃美歌 69番 日かげ静かに
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
主の晩餐
献金
聖句 申命記11章8~12節
祈祷
宣教 「年の初めから年の終わりまで」
祈祷
賛美 新生讃美歌81 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
今日は2025年の最後の主日(日曜日)の礼拝です。今年も私たちが御言葉を共に聞き続けることができた恵みを神様に感謝したいと私は願います。
今日は、旧約聖書の『申命記』の中の御言葉から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
『申命記』は、イスラエルの民たちが約400年間奴隷生活を送ったエジプトから救い出され、その後約40年間荒野を旅した後に、いよいよ約束の土地カナンの地へと入って行く、その直前の期間について、記しています。
実は、エジプトを出たイスラエルの民たちの第一世代は、ほとんどが荒野での旅の途中で死にました。約束の地へ入って行くことができたのは、第二世代以降の人たちでした。
イスラエルの民たちをエジプトから導きだし、そして荒野での旅を率いたのはモーセでした。
そのモーセも、カナンの地へは入ることはできず、その直前に死にました。申命記の最後に、モーセが死ぬ場面が描かれています。
申命記は、そのモーセが神から与えられた言葉を、イスラエルの民たちが守るべき戒め、神の教えとして、イスラエルの民たちに伝え続けた言葉によって、その多くを占められています。
指導者であるモーセはカナンの地に入る前に死にます。しかし、イスラエルの民たちはモーセ亡きあとも、別の指導者(ヨシュア)に率いられながら、カナンの地へ入って行くというその道程を続けます。
モーセは、神の言葉、神の戒めをイスラエルの民たちに伝えました。それは、彼らがそれからの旅路を行くために、信仰の旅路を続けていくために、一番大切なものが神の言葉であったからです。
モーセやヨシュアのような人間の指導者が民たちを導くのではないのです。指導者は、民たちが主なる神に従って生きることができるように、その補佐役をするに過ぎません。
いかなる人間の指導者も、どれほどその人が霊的にも優れていようとも、人である以上、彼(彼女)は必ず間違いを犯します。人は、誰かが従って生きるという対象にはなりません。
人が常に聞き従うのは、あくまで主なる神のみ言葉です。
私たち人は誰もが、立場や職分、役割の違いはあっても、神の前には一人の信徒、罪があり、その罪をイエス・キリストによって赦された罪人であることを覚えて、常に神の言葉を共に聞いて、神に聞き従っていくことを大切にしたいと願います。
今日の箇所の初めの節である第8節に「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」と書かれています。
ここで“わたし”とは、この言葉を語っているモーセですが、モーセは神から与えられた言葉をそのまま伝えていますから、この“わたし”は神と同じであると理解してよいです。
“あなたたちは、わたし(神)が今日命じるすべての戒めを守りなさい”、“あなたたちは、神の言葉を聞いて守りなさい”という言葉は、申命記の中にも、また聖書の他の箇所にも何箇所も出てきます。
神の言葉(戒め)を聞いて、それに従って生きるということが、私たちにとってとても大切なことであるので、聖書はそのことを何度も繰り返し伝えるのです。
私たちは教会の礼拝で、教会学校や祈祷会でも、共に神の言葉を聞き、分かち合います。わたしたちは一人でも聖書を読み、神の言葉を受け取ります。
私たちは何度も同じ箇所を、神の同じ言葉を繰り返し聞きます。同じ言葉ですが、聖書の言葉(神の言葉)は、その度に、私たちの置かれた状況に応じて、新しい響きと意味を持ちます。
私たちは何度も何度も、神の言葉を一生涯にわたって聞き続けます。それは神の言葉こそが永遠であり、私たちを常に生かす、私たちに生きる力を与えるからです。
今日の8節後半には次のように書かれています。
こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。
わたしたちそれぞれに行くべき道があります。個人として、家族として、私たちに行くべき道があります。また、私たちの教会が共に進むべき道があります。
イスラエルの民たちがヨルダン川を渡って、カナンの地へ進んで行ったように、私たちにとってのヨルダン川、その先にある約束の土地というものが、あるのではないでしょうか。
私たちがそれぞれ進もうとしている道は険しく見えるかもしれません。その先の土地でぇあどのような生活が待っているのだろうか、果たしてそこへ行くことができるのだろうか、と不安に思うようなこともあるでしょう。
しかし、そのような時私たちはどうすればよいのか。神ははっきりとその答えを私たちにくださっています。それが「わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」です。
主の言葉を私たちは聞きます。ただ聞くだけでなく、すべての戒めを聞いて守りなさい、と神は言われるのです。
そうすることで私たちは、これから進んで行く信仰の旅路を、力と勇気を御言葉から得て進むことができるのです。
9節にはこう書かれています。
こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。
私たちは、主の御言葉(戒め)に従うことによって、これから先向かっていくその土地で私たちは長く生きることができる、と言うのです。
神の言葉は私たちに命を与えるものです。神の言葉は私たちを生かします。
神の戒めは、暴君や独裁者のような神が私たち人間を自分の思うように勝手に支配したり、私たちを自分の利益のために仕えさせるためにあるのではありません。
神の戒めは、それを私たちが受けて、聞き従うことで、私たちが真の命をこの地上で生きることができるために、神から私たちに与えられた、まさに賜物なのです。
神の言葉は、イエス・キリストと言うお方によって、人の目にも見えるお方となって世に現われました。それがクリスマスに起こった出来事でした。
私たちは、聖書の言葉、神の戒め(言葉)を、イエス・キリストの光に照らされ、神の霊である聖霊によって照らされて、受け止めて、その御言葉に従って生きる信仰の道を、共に歩んでいきたいと願います。
イスラエルの民たちは400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。そして今や彼らは神の約束の地へ入っていこうとしています。
かつて彼らが住んでいたエジプトが彼らにとってどのような土地であったのか、そしてこれから行こうとしている土地はどのような土地なのか、について10~11節に次のように書かれています。
10あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。
11あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
10節に書かれている、“エジプトでは、あなたたちは種を蒔いて、畑に自分の足で水をやる必要があった”ということは、彼らがその土地で強制的に働かされていた、ということも表しているでしょう。
それと同時に、“エジプトでは、あなたたちは自分の足で水をやる必要があった”というのは、このような意味もあると私は思います。
それは、人が生きるのに、自分自身の力や技術に頼み、自分の力で生きようとしている(あるいは、人が自分の力で生きることができると思っている)ことです。
本来人は神の助け、神からの恵み無くしては決して生きていくことはできません。それを知らずに、人が自分自身の力を過信して、自分の力で生きていると信じて(錯覚して)生きる生活が、エジプトでの生活です。
それは真の神の恵みを知る前の私たちの生き方、とも言えます。
しかし、信仰者にとって、その人が生きる場所は、11節に書かれている通り“山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている”土地です。
信仰者が歩む道は、信仰者が住む場所は、神が必要なものを備えてくださる場所です。しかし、それは自分で何もしなくてよい、ということでは、もちろんありません。
神様を信じれば、自分で何も努力しなくても、働かなくても、豊かに生きることができるし、苦しいことも何もない、ということでは全くありません。
そうではなく、信仰者はこの地上にあって、生きる上で様々な困難や苦難があっても、“神が私たちと共にいてくださり、そして必要なものは必ず与えてくださる”、と信じて生きることができる、ということです。
私たちが、先が見えずに不安に思うような時も、その道を進んで行く力が神から与えられ、御言葉から知恵と勇気とを頂くことが出来るのです。
“その土地は天から降る雨で潤されている”とは、私たち信仰者が、天の父なる神は私たちのことを常に心にかけ、必要なものを必ず与え、私たちの命を守ってくださるお方である、と信じることを表します。
それは私たちが信じている、と言う夢物語ではありません。神が私たちに与え、私たちを守っていてくださることは、聖書の言葉、そしてイエス様によって確実であることが、既に保証されている真実なのです。
今日の箇所の最後の12節には次のように書かれています。
12それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
私たちが歩む信仰の道は、常に神がその目を注ぎ、私たちを守り導いてくださっている道です。
私たちが主の御言葉に従って進むその土地は、神が私たちを常に心がけ、”年の初めから年の終わりまで“、いつまでも神が私たちと共にいてくださる土地です。
モーセを通して、神はイスラエルの民たちに、ご自分の御言葉(戒め)に聞いて、神の戒めに従って生きることを繰り返し繰り返し伝え、彼らを神の道へと導こうとされました。
私たちも新しい日々、また新しい年を迎えようとしている今、改めて、神の御言葉と戒めを聞き、その言葉に従って生きるという決意を新たにいたしましょう。
私たちが歩む道、私たちが行こうとしているその土地は、いつも主なる神が私たちのことを心にかけてくださり、主なる神が、年の初めから終わりまで、常にその御目を注いてくださっている土地です。
主の守り、導きが私たちには与えられている、主なる神の愛の眼差しが私たちにいつも注がれていることを覚え、安心して、私たちは歩み続けてまいりましょう。
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