2025年9月12日金曜日

 2025年9月14日 主日(敬老)礼拝


前奏
招詞  詩編90篇12節
賛美  新生讃美歌80番 父の神 われらたたえる
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
献金
聖句  ペトロの手紙一 4章7~11節
祈祷
宣教  「万物の終わりが迫っています」
祈祷
賛美  新生讃美歌336番 世の終わりのラッパ鳴りわたる時
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

*本日メッセージ原稿の公開はありません。    

2025年9月6日土曜日

2025年9月7日 主日礼拝

前奏
招詞  歴代誌上17章26~27節
賛美  新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
祈りの時
証し
献金
聖句  使徒言行録6章1~7節
祈祷
宣教  「御言葉の奉仕」
祈祷
賛美  新生讃美歌506番 主と主のことばに
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節から7節までの箇所には、キリスト者として、またキリスト教会として考えさせられること、教えられることが、実に多く語られています。
 約2000年前の初期のキリスト教会の内部で、どのような問題が起きていたのかを、今日の箇所ははっきりと描き出しています。
初期のキリスト教会の信者たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害を受けていました。
 ペトロをはじめとする、使徒と言われた12人のキリストの弟子たちは、イエス・キリストの名によって神の国の福音と救いを伝え始めました。
そして彼らを信じ、キリストを信じる弟子となる人たちが増えていきました。
それに対してユダヤ教の祭司や議員たち、権力者たちは、使徒たちに伝道活動をやめさせようとして、彼らを牢に入れたり、鞭打ったりして、なんとかして彼らの働きを妨害しようとしました。

しかし使徒たちはそれにも屈しないで、今日の箇所の直前の箇所では、彼らは鞭を打たれ宣教を禁じられながらも、使徒たちは“イエスの名のために、辱めを受けるほどの者となったことを喜んだ”と書かれています(使徒5章41節)。
イエス・キリストのために、神の働きをすることによって迫害されるのならば、それは十字架の上で人の罪のために死なれたイエス様に少しでも近づけるということだ、と彼らは思って、そのことを彼らは喜んだのです。
それは、この世界の普通の価値観とは全く違う生き方です。それは、困難や苦しみの中に、キリストと共にある幸いを見い出すという、信仰を通した新しい生き方です。
 それはまた、自分を迫害する者を憎んだり反撃したりするのではなくて、キリストによる愛と憐れみによって、自分を迫害する者のためにさえ祈り、彼らの救いをも願って福音を語り続ける、という生き方でもあったと私は考えます。

 使徒たち、他の弟子たちの働きによって、キリストに従う弟子の数は増えていきました。
今日の箇所では、弟子の数が増えてきたことによって、ある問題が起こったことが書かれています。
弟子の数が増えることで、迫害という外部からの問題だけでなく、彼ら教会の内部からも問題が起きたことを、今日の箇所は伝えているのです。
 キリスト教会は人間の集まりです。罪のない人は誰もいない以上、教会も罪ある人間の集まりです。
人が集まるところには必ず何らかの問題や軋轢、衝突が起こります。それは避けられないということを、聖書ははっきりと伝えます。
今日の箇所で、“ギリシア語を話すユダヤ人”と“ヘブライ語を話すユダヤ人”と言われる人たちが登場します。
 彼らはどちらもユダヤ人でしたが、ギリシア語を話すユダヤ人とは、イスラエル以外の国や地域で育ち、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語を母語として身につけたユダヤ人たちでした。

古くはアッシリア帝国や、バビロン帝国、そしてイエス様の時代にはローマ帝国にイスラエルは支配されたことで、多くのユダヤ人たちがイスラエルを離れて外国に住むように(住まわされるように)なっていました。
 そのように離散させられて諸外国に住むようになった彼らの中から、祖先の故国であるイスラエルに戻ってきた人たちがいました。それがギリシア語を話すユダヤ人と今日の箇所で言及されている人たちです。
 一方ヘブライ語を話すユダヤ人とは、イスラエルの地で生まれ育ったユダヤ人であり、彼らの母語はヘブライ語でした。いわば、彼らは生粋のユダヤ人であったと言ってよいでしょう。
彼らは同じユダヤ人でしたが、第一言語が異なること、生まれ育った文化や環境も異なることから、彼らの間には色々な問題などが起きていたようです。
 今日の箇所では、ギリシア語を話すユダヤ人たちのやもめ(夫をなくした女性たち)が、日々の食べ物の分配のことで不利益を受けていた、と描かれます。

 立場的にはヘブライ語を話すユダヤ人たちのほうが優位な立場にあったのではないかと思われます。
彼らは同じユダヤ人でしたが、母語や生まれ育った文化、環境が違う、という違いのほうに彼らの関心は向けられていたのかもしれません。それが原因となって問題が生じたのでしょう。
 私たちも、お互いの間の共通点を見いだすよりも、互いに違う部分、相容れない部分のほうに目が行きやすく、それが原因で他者との間に問題や軋轢が生じることも多いと思います。
  私たちは、互いの間の共通点、互いの良い点を見いだすことによって(違いに目を向け、それを非難することよりも)、互いにより良い関係を築いていきたいと願います。
 しかし、今日の箇所で描かれるように、苦情が表明されるということは決して悪いことばかりではありません。
誰かが不平や不満を感じている、実際に不利益があるのならば、それらが明らかにされることは、問題の解決のために必要なことです。
 不満や疑問があっても、それを口にすることができず、力の弱い人たちが我慢し続けなければならないことが教会にあるのならば、それは決して良いことではありません。
 あくまで互いに配慮と礼儀が求められますが、問題があれば、それを隠したり見ぬふりをしたりするのではなく、問題を明るみにだして、問題に向き合い解決を目指して、正直に共に祈り合える教会を私たちは目指したと思います。

 弟子たちはその時、その問題にどのように対処したのでしょうか。12人の弟子、使徒たちが言った言葉を聞いてみましょう。

2~3節の言葉です。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊“と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」

 12人の使徒たちは、自分たち(12使徒たち)が一番大切にすべき務めは何か、についてまず思いを巡らせました。
そして彼らが一番大切にしなくてはならない務め、使徒たちが神と教会から託された務めは、“神の言葉への奉仕”、“祈りと御言葉の奉仕”だと、彼らは思い至ったのです。
 食事の分配も信者たちの生活に関わる大切な務めでした。しかし使徒たちがそのような職務に専念して、祈りと御言葉の奉仕という彼らの最も大切な働きが犠牲になるのならば、それは教会全体にとってよいことではない、ということです。
 神は、私たちひとり一人に、それぞれ異なる賜物を与えてくださいました。その賜物に優劣はありません。
祈りと御言葉への奉仕も、信者の集まりの中での食事の分配と言う働きも、どちらもイエス・キリストへの信仰を土台としている限り、神の国のための尊い働きです。

私たちも教会で、互いに与えられた賜物を認め合い、尊重し合いながら、また自分一人で色々なことができるわけではないことも認めつつ、互いに支え合って、互いの賜物が生かされながら主の教会を建て上げていきたいと願います。
 2節に、“12人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めた”と書かれています。弟子がすべて集められたとは、今の私たちの教会で言えば、言わば“教会総会”が開かれたということです。
 その事柄が教会全体に関係する大切なことであったので、弟子が全員集められ、全員参加による話し合いがもたれたのです。
 私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会では、教会にとって大切なことは、教会員全員による祈りと話し合いによって決めるということを、とても大切にしています。
 早く決めようと思えば、あるいはより効果的な決断を下そうと思えば、誰か優秀な人、あるいその事柄に専門的に通じた人だけで決めたほうが早いでしょう。
皆の意見を聞いて話し合って、異なる意見を纏めていくのは大変忍耐を要する過程であり、時間もかかります。
しかしそのような方法を通して、一人ひとりの思いや考えができるだけ尊重されること、その過程を通して神の御心を見い出すことを、私たちは大切にしています。
 使徒たちは、集まった弟子たちに“あなたがたが7人を選び、霊と知恵に満ちた評判の人を選びなさい”と言いました。

 一同はその提案に賛成し、そして彼ら弟子たち自身によって、信仰と聖霊に満ちている人々が7人選ばれました。
使徒たちは祈って彼ら7人の上に手を置きました。選ばれた7人が、誠実な信仰をもって、託された務めを果たしていくことができるように、使徒たちは彼らのために祈ったのです。
選んであとは彼らに任せておしまい、ではなく、使徒たちは選ばれた者たちのために祈り、それからも彼らを励まし続け、彼らのために祈り続けたと私は思います。
私(酒井)も別府国際バプテスト教会の牧師に就任した時、就任式で教会の皆さんに私の上に手を置いて祈っていただきました。
 その祈りは、私が牧師としての務め、教会の皆様から託された御言葉の取り次ぎという働きに、聖霊の導きが豊かに与えられ、私がその働きに専念することができるように、という皆さんの願いが表された祈りでした。

 今日の箇所を通して、私は私自身が皆さんに手をおいて祈っていただいた、あの時のことを鮮明に思い出します。
御言葉の宣教、また祈りという牧師にとっての第一義的な働きの大切さを改めて私は思い起こしています。御言葉の取り次ぎに私が専念できますように、皆さんには祈っていただきたいと願います。
 先ほど申し上げたように、人が集まる以上、教会であっても(むしろ教会だからこそ)常に問題は起きます。しかし、問題が起きないことが大切なのではありません。
大切なことは、問題が起きたとき、それに対してどのように向き合うのか、教会に連なる一人ひとりが信仰をもって互いに祈り、互いに配慮しあって、愛をもって、その問題に向き合うことができるかが大切です。
今日の箇所では、食事の配給での公平さが保たれるため、その働きのために7人の“知恵と聖霊に満ちた人”が選ばれました。
彼らは私たちとは違う、何か特別な人たちだったのでしょうか。そうではありません。神は、今の私たちにも、聖霊と知恵とを豊かに与えてくださいます。

私たちが聖霊と知恵を与えてくださるように神に願うならば、その時神は必ず聖霊と知恵とを私たちに豊かに与えてくださいます。
私たちはキリストの弟子として、それぞれが与えられた果たすべき務めがあります。その務めに私たちが忠実であることができるように、イエス様に願い求めてまいりましょう。
そして祈りと御言葉、この二つは使徒や、現在で言えば牧師や伝道者だけでなく、全てのキリスト者とキリスト教会にとって最も大切な働きです。
祈りとは心を打ち明けて神と霊的に会話をすること、そして御言葉とは聖書の言葉であり、礼拝で語られる宣教メッセージです。
祈りと御言葉こそが、私たちの本当の霊の糧であり、祈りと御言葉への奉仕こそはキリスト教会だけに託された尊い務めです。
祈りと御言葉という、キリスト教会だけが頂いている宝物であり、また賜物を大切にしながら、その務めに専念をする、御言葉に奉仕するキリスト教会で私たちはあり続けましょう。

2025年8月30日土曜日

2025年8月31日 主日礼拝

前奏
招詞  コヘレトの言葉3章14節
賛美  新生讃美歌618番  主のためにわれは生く
主の祈り
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句  使徒言行録5章27~42節
祈祷
宣教  「神から出たものであれば」
祈祷
賛美  新生讃美歌520番 人生の海のあらしに
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

キリスト者(クリスチャン)とは、キリストに従う者です。いつもキリストに従って生きることはできないとしても、キリスト者は、神であるキリストに従って生きることを決意している者です。
私たちは何かに従って生きていきます。それを私たちが意識しているか、していないかに関わらず、私たちは何らかの考え、自分の経験、自分の希望、他の人からの指示や助言といったものに従って、生きています。
キリスト者も、自分自身の考えや希望、また他の人からの助言などにも、もちろん耳を傾けます。
しかしキリスト者は、神であるキリストの教え、聖書の御言葉を最も大切な指針と基準として生きていきます。
 もし自分自身の指針、あるいは希望と、神が言われることが違う場合には、キリスト者は神に従って生きます。

キリスト者はそう決意しているはずです。しかし、それは簡単なことではありません。
 今日の聖書箇所で、ペトロと他のキリストの弟子たち(使徒と言われた、初期の教会の中心的メンバーたち)が「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(29節)。
 彼らのその姿から、神に従って生きること、神の御心を求めて生きること、について今日私たちは共に考えたいと思います。
今日の前の箇所(先週の礼拝メッセージで私たちが聞いた場面)で、使徒たちは捕らえられて牢に入れられていました。
イエス・キリストの名によって話してはならない、と命じられていたのに、彼らはキリストの福音を宣教し続けていたので、彼らは捕まってしまったのです。
しかし主の天使が来て牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出しました。その時、主の天使が彼らに言いました。

「行って、神殿の境内に立ち、命の言葉(神の言葉)を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
その声に従い、使徒たちは神殿の境内で、再び人々を教えていました。
そして彼らは再び捕らえられ、最高法院(当時のユダヤ社会の最高裁判所のようなもの)の中に立たされた、というのが今日の聖書箇所です。
最高法院は、当時のユダヤ社会の最高の権威であり、最も力のある機関(組織)であったと言ってよいでしょう。
大祭司が使徒たちに言います。

「あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと、厳しく命じたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28節)

そこでペトロと他の使徒たちは答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません

相当な力と権威をもった最高法院で、しかも大祭司という宗教的に一番高い地位にある人から尋問されても、ペトロ達はそのように堂々と答えることができました。
ペトロたちをそのように堂々と振舞わせたのは、彼ら自身の強さだったのでしょうか。そうではなく、それは十字架と復活のイエス・キリストでした。

31節をお読みします。ペトロたちの言葉です。

31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

“この方(him)”とは、イエス・キリストです。なぜキリストが十字架で死に、そして復活したのか。
それは、イスラエル全体、最後にはすべての人々に罪を自覚させ、神に立ち返って、人々が罪赦されて、救われるためだ、とペトロは言うのです。
その確信が、大祭司を前にしても、ペトロに堂々と語らせる力となっていたのです。
十字架と復活のキリストに救われた者は、“人間に従うよりは、神に従わねばならない”という確信をもって、何とかその通りに生きようと努力をする者になるのです。
人間に従うのではなく神に従う、とは、人のことを軽視したり無視したりすることではありません。それは、人間よりも主、神を恐れるということです。
“私たちの命の源であり、この世界のすべてをお造りになったお方である神をこそ、神のみを私たちは恐れなさい”、と聖書は私たちに命じます。
神への恐れを正しく持つと、私たちは人に従うのではなく神に従う、という生き方がだんだんとできるようになると、私は信じます。

 私たちは神を恐れ敬うことを知ると、自分以外の他者をも敬って、大切な存在として向き合うことができるようになります。
そして、もし神が私たちに指し示すことと、人や、私たちの周りの社会が私たちに指し示すことが異なる場合には、キリスト者として神に従うことができますようにと、私たちは願います。
私たち信仰者一人ひとりが、そして教会が、“人間に聞き従うよりも、神に聞き従うこと”の意味を考え続け、それを実践していくことができるようにと私たちは願います。

 今日の箇所で、そのような使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました(33節)。
しかし、その時本当に思わぬところ(人)から、使徒たちへの助けの手が差し伸べられたのです。
その時、最高法院の中で立ち上がって、議員たち全員に冷静な判断を呼び掛けたのは、外ならぬその最高法院のメンバーの一人でした。
彼は、”民衆全体から尊敬されていた律法の教師“で、ファリサイ派に属するガマリエルという教師でした。
普通に考えれば、彼(ガマリエル)は最高法院の議員たちの側の人であり、使徒たちとは対立する立場の人であったはずです。
しかしガマリエルは、大祭司や他の議員たちとは違い、非常に公平な、知恵のある判断をして、“あの者たち(使徒)の取り扱いは慎重にすべきだ”と主張しました。
 ガマリエルは過去にあった出来事を議員たちに思い起こさせて、それらを教訓として、冷静に判断をしよう、と呼びかけます。
最初の出来事は、“かつてテウダという人が自分のことを何か偉い者のように言って立ち上がり、400人ぐらいの人が彼に従った”という騒乱のことでした。
その時テウダは殺され、従っていた者たちも皆散り散りになった、と言います。
次の出来事は、ガリラヤのユダという人が民衆を率いて起こした反乱です。結局、彼(ユダ)も滅び、彼につき従った者たちも皆、ちりぢりにさせられた、という出来事でした。
 そしてガマリエルは、最高法院の議員たちに、“今回、彼ら(ペトロと使徒たち)からは手を引きなさい。何もするな”と言いました。

 38節~39節の彼の言葉を聞きましょう。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

 このような判断をすることができたガマリエルと言う人はすごい人物であったと、私は思います。
 ガマリエルにこのような知恵ある判断と言葉を与えたのは、まさに神であったと言ってよいと思います。
 ガマリエルの言葉は、神から私たちへの大切な教えをいくつも含んでいると私は考えます。私が思わされた、その中の二つを申し上げます。
 一つは、やはり大切なことは何事も慎重に、神の御心を求めて祈り、決して早急に判断したり行動したりしない、ということです。
 「何とかしなくては」という焦りや、自分自身の感情(怒りの感情など)だけに大きく突き動かされて行動しない、ということです。
 重要であればあるほど、慎重に、感情的な判断をするのではなく、祈り、考え、神の御心を求めることによって最適な判断をくだすことができるように、私たちは務めましょう。
そしてもう一つは、“それが人間から出たものならば自滅する。それが神から出たものならば、それを滅ぼすことはできない”ということです。
ガマリエルには、ペトロたちの働きが神から出たものだ、という思いがあったのかもしれません。

いずれにしても彼は、“もしそれが人間から出たものであれば、自滅する。決してそれは成功することはない。しかし、もしそれが神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは決してできない。神が彼らと共におられるのだから”と考えたのです。
 このような知恵の言葉、冷静で信仰的な判断が、使徒たちとは本来反対の立場の者の中から出たとは、驚きです。
この時ペトロと他の使徒たちは、敵の側によって助けられた、と言ってよいと私は思います。これも、神のなさる不思議な業です。
神はこのように様々な人を用いて、ご自身のご計画を進められることがあります。神は色々な人を通して語ることがあるのです。
ですから私たちは、自分以外の色々な人の声や意見、自分とは異なる考えや意見を持つ人々の声、互いの声に耳を傾け合うことを大切にいたしましょう。
 ガマリエルの意見は聞き入れられましたが、しかし使徒たちは釈放される前に、鞭で打たれて、そして“イエスの名によって話してはならない”と再び命令されました。

 40節を見ますと、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
 そして彼らはそれからも境内で、またあちらこちらの家でメシア(救い主)・イエスについて、その福音を告げ知らせ続けた、という描写で今日の箇所は終わります。
鞭打たれたことは彼らには痛く、またそれは屈辱でもあったはずです。
しかし、体の痛みや屈辱を上回る喜びが彼らには与えられました。それはキリストの福音を告げ知らせる、という喜びでした。
今、直接的な迫害は受けていない私たちには、この箇所は理解しにくいかと、思います。
しかし、現代の信仰者である私たちも、キリスト者としての信仰と、私たちが生きる社会、世の中の風潮や考え方が対立することで、辱めとまでは言えなくても、不都合な思いや、嫌な思いをすることがあるかもしれません。
 私たちは、私たちが生きる社会、世界のためにも祈ります。
そしてキリストによって救われた私たちは、やはり“神からでたもの”を大切にした信仰に根ざした生き方を、世が求める風潮や常識よりも大切にしていきたいと願います。
 初期の頃のキリスト信者たち、ペトロや他の使徒たちが、迫害の中でも、神や他の人々の助けを得ながら福音を語り続けたその歴史の上に、今の私たちも生かされています。
 信仰を持っていることで経験する困難や苦難があっても、そのために嫌な思いをすることがあっても、“それが神から出たものであれば、決して滅ぼされない”という希望と確信をもって、私たちは信仰を生きていきたいと願います。