2025年12月27日土曜日

2025年12月28日 主日礼拝

前奏
招詞  ヨハネによる福音書14章15節
賛美  新生讃美歌 69番 日かげ静かに
主の祈り
賛美  新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
主の晩餐
献金
聖句  申命記11章8~12節
祈祷
宣教  「年の初めから年の終わりまで」
祈祷
賛美  新生讃美歌81 父なるわが神
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷

今日は2025年の最後の主日(日曜日)の礼拝です。今年も私たちが御言葉を共に聞き続けることができた恵みを神様に感謝したいと私は願います。
今日は、旧約聖書の『申命記』の中の御言葉から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
『申命記』は、イスラエルの民たちが約400年間奴隷生活を送ったエジプトから救い出され、その後約40年間荒野を旅した後に、いよいよ約束の土地カナンの地へと入って行く、その直前の期間について、記しています。
実は、エジプトを出たイスラエルの民たちの第一世代は、ほとんどが荒野での旅の途中で死にました。約束の地へ入って行くことができたのは、第二世代以降の人たちでした。

イスラエルの民たちをエジプトから導きだし、そして荒野での旅を率いたのはモーセでした。
そのモーセも、カナンの地へは入ることはできず、その直前に死にました。申命記の最後に、モーセが死ぬ場面が描かれています。
申命記は、そのモーセが神から与えられた言葉を、イスラエルの民たちが守るべき戒め、神の教えとして、イスラエルの民たちに伝え続けた言葉によって、その多くを占められています。
 指導者であるモーセはカナンの地に入る前に死にます。しかし、イスラエルの民たちはモーセ亡きあとも、別の指導者(ヨシュア)に率いられながら、カナンの地へ入って行くというその道程を続けます。
 モーセは、神の言葉、神の戒めをイスラエルの民たちに伝えました。それは、彼らがそれからの旅路を行くために、信仰の旅路を続けていくために、一番大切なものが神の言葉であったからです。

 モーセやヨシュアのような人間の指導者が民たちを導くのではないのです。指導者は、民たちが主なる神に従って生きることができるように、その補佐役をするに過ぎません。
 いかなる人間の指導者も、どれほどその人が霊的にも優れていようとも、人である以上、彼(彼女)は必ず間違いを犯します。人は、誰かが従って生きるという対象にはなりません。
人が常に聞き従うのは、あくまで主なる神のみ言葉です。
 私たち人は誰もが、立場や職分、役割の違いはあっても、神の前には一人の信徒、罪があり、その罪をイエス・キリストによって赦された罪人であることを覚えて、常に神の言葉を共に聞いて、神に聞き従っていくことを大切にしたいと願います。

 今日の箇所の初めの節である第8節に「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」と書かれています。
 ここで“わたし”とは、この言葉を語っているモーセですが、モーセは神から与えられた言葉をそのまま伝えていますから、この“わたし”は神と同じであると理解してよいです。
 “あなたたちは、わたし(神)が今日命じるすべての戒めを守りなさい”、“あなたたちは、神の言葉を聞いて守りなさい”という言葉は、申命記の中にも、また聖書の他の箇所にも何箇所も出てきます。
 神の言葉(戒め)を聞いて、それに従って生きるということが、私たちにとってとても大切なことであるので、聖書はそのことを何度も繰り返し伝えるのです。
私たちは教会の礼拝で、教会学校や祈祷会でも、共に神の言葉を聞き、分かち合います。わたしたちは一人でも聖書を読み、神の言葉を受け取ります。
私たちは何度も同じ箇所を、神の同じ言葉を繰り返し聞きます。同じ言葉ですが、聖書の言葉(神の言葉)は、その度に、私たちの置かれた状況に応じて、新しい響きと意味を持ちます。
私たちは何度も何度も、神の言葉を一生涯にわたって聞き続けます。それは神の言葉こそが永遠であり、私たちを常に生かす、私たちに生きる力を与えるからです。

今日の8節後半には次のように書かれています。
 こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。

 わたしたちそれぞれに行くべき道があります。個人として、家族として、私たちに行くべき道があります。また、私たちの教会が共に進むべき道があります。
 イスラエルの民たちがヨルダン川を渡って、カナンの地へ進んで行ったように、私たちにとってのヨルダン川、その先にある約束の土地というものが、あるのではないでしょうか。
 私たちがそれぞれ進もうとしている道は険しく見えるかもしれません。その先の土地でぇあどのような生活が待っているのだろうか、果たしてそこへ行くことができるのだろうか、と不安に思うようなこともあるでしょう。
 しかし、そのような時私たちはどうすればよいのか。神ははっきりとその答えを私たちにくださっています。それが「わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」です。
 主の言葉を私たちは聞きます。ただ聞くだけでなく、すべての戒めを聞いて守りなさい、と神は言われるのです。

そうすることで私たちは、これから進んで行く信仰の旅路を、力と勇気を御言葉から得て進むことができるのです。

9節にはこう書かれています。
こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。

私たちは、主の御言葉(戒め)に従うことによって、これから先向かっていくその土地で私たちは長く生きることができる、と言うのです。
神の言葉は私たちに命を与えるものです。神の言葉は私たちを生かします。
神の戒めは、暴君や独裁者のような神が私たち人間を自分の思うように勝手に支配したり、私たちを自分の利益のために仕えさせるためにあるのではありません。
神の戒めは、それを私たちが受けて、聞き従うことで、私たちが真の命をこの地上で生きることができるために、神から私たちに与えられた、まさに賜物なのです。
神の言葉は、イエス・キリストと言うお方によって、人の目にも見えるお方となって世に現われました。それがクリスマスに起こった出来事でした。
 私たちは、聖書の言葉、神の戒め(言葉)を、イエス・キリストの光に照らされ、神の霊である聖霊によって照らされて、受け止めて、その御言葉に従って生きる信仰の道を、共に歩んでいきたいと願います。

 イスラエルの民たちは400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。そして今や彼らは神の約束の地へ入っていこうとしています。
かつて彼らが住んでいたエジプトが彼らにとってどのような土地であったのか、そしてこれから行こうとしている土地はどのような土地なのか、について10~11節に次のように書かれています。
 
10あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。
11あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。

10節に書かれている、“エジプトでは、あなたたちは種を蒔いて、畑に自分の足で水をやる必要があった”ということは、彼らがその土地で強制的に働かされていた、ということも表しているでしょう。
 それと同時に、“エジプトでは、あなたたちは自分の足で水をやる必要があった”というのは、このような意味もあると私は思います。
それは、人が生きるのに、自分自身の力や技術に頼み、自分の力で生きようとしている(あるいは、人が自分の力で生きることができると思っている)ことです。
本来人は神の助け、神からの恵み無くしては決して生きていくことはできません。それを知らずに、人が自分自身の力を過信して、自分の力で生きていると信じて(錯覚して)生きる生活が、エジプトでの生活です。
それは真の神の恵みを知る前の私たちの生き方、とも言えます。
しかし、信仰者にとって、その人が生きる場所は、11節に書かれている通り“山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている”土地です。
信仰者が歩む道は、信仰者が住む場所は、神が必要なものを備えてくださる場所です。しかし、それは自分で何もしなくてよい、ということでは、もちろんありません。
神様を信じれば、自分で何も努力しなくても、働かなくても、豊かに生きることができるし、苦しいことも何もない、ということでは全くありません。

そうではなく、信仰者はこの地上にあって、生きる上で様々な困難や苦難があっても、“神が私たちと共にいてくださり、そして必要なものは必ず与えてくださる”、と信じて生きることができる、ということです。
私たちが、先が見えずに不安に思うような時も、その道を進んで行く力が神から与えられ、御言葉から知恵と勇気とを頂くことが出来るのです。
“その土地は天から降る雨で潤されている”とは、私たち信仰者が、天の父なる神は私たちのことを常に心にかけ、必要なものを必ず与え、私たちの命を守ってくださるお方である、と信じることを表します。
それは私たちが信じている、と言う夢物語ではありません。神が私たちに与え、私たちを守っていてくださることは、聖書の言葉、そしてイエス様によって確実であることが、既に保証されている真実なのです。

今日の箇所の最後の12節には次のように書かれています。

12それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。

 私たちが歩む信仰の道は、常に神がその目を注ぎ、私たちを守り導いてくださっている道です。
私たちが主の御言葉に従って進むその土地は、神が私たちを常に心がけ、”年の初めから年の終わりまで“、いつまでも神が私たちと共にいてくださる土地です。
 モーセを通して、神はイスラエルの民たちに、ご自分の御言葉(戒め)に聞いて、神の戒めに従って生きることを繰り返し繰り返し伝え、彼らを神の道へと導こうとされました。
 私たちも新しい日々、また新しい年を迎えようとしている今、改めて、神の御言葉と戒めを聞き、その言葉に従って生きるという決意を新たにいたしましょう。
 私たちが歩む道、私たちが行こうとしているその土地は、いつも主なる神が私たちのことを心にかけてくださり、主なる神が、年の初めから終わりまで、常にその御目を注いてくださっている土地です。
 主の守り、導きが私たちには与えられている、主なる神の愛の眼差しが私たちにいつも注がれていることを覚え、安心して、私たちは歩み続けてまいりましょう。

2025年12月20日土曜日

2025年12月21日 主日(アドベント第四 クリスマス)礼拝

前奏
招詞  エレミヤ書23章5節
アドベントキャンドルの点火(愛)
賛美  新生讃美歌 162番 天なる使いよ 地をめぐり行き
主の祈り
賛美  新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
信仰告白
献金
聖句  ヨハネの手紙一 3章11~18節
祈祷
宣教  「あなたがたの初めから聞いている教え」
祈祷
賛美  新生讃美歌157 来たれ 友よ 喜びもて
バプテスマ式
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷
後奏


12月25日のクリスマス(降誕節)前の約4週間の期間であるアドベント(待降節)の期間を今私たちは過ごしております。
 アドベントの間にある4回の日曜日ごとに、わたしたちは礼拝の初めに一本ずつ蝋燭(ろうそく)に火を灯してきました。
 キリスト教会の伝統で、それらの4本のろうそくの火にはそれぞれ、希望、平和、喜び、愛、という意味が込められています。
 それらは、イエス・キリストがこの世界にもたらしてくださった美徳、また賜物であり、それらによって私たちは、この世で生きることが許されています。
 今日は、アドベント第4日曜日です。今日の礼拝の初めに灯された蝋燭の火は“愛”を表します。
イエス・キリストは人として今から約2025年前にお生まれになりました。イエス様は、希望、平和、喜び、そして愛をこの世界にもたらすために世に来られました。

またイエス様は、私たち全ての人を救うという使命をもって、この世界にお生まれになりました。
私たちは何から救われなくてはならなかったのでしょうか。私たちは、わたしたち自身が犯した罪から救われなくてはなりませんでした。
 今日の聖書の箇所には、“兄弟を憎む”とか、“人殺し”などの、恐ろしい言葉が書かれています。
“クリスマスというお祝いの時に、なぜそのような御言葉を私たちは聞かねばならないのか”と思われた方もおられるかもしれません。

しかし、イエス様の愛と救いを私たちが本当に理解するためには、私たちが犯した罪について、聖書を通して私たちがしっかりと向き合うことが、どうしても必要なのです。
クリスマスが、なぜそれほど感謝と喜びの時であるのか、を理解するためには、私たちが一体何から救われたのかを、私たちが理解することが欠かせないのです。

今日の箇所の中の15節に次のように書かれています。
15兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 “兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しには永遠の命がとどまっていません”。この言葉は、この手紙を書いたヨハネが、自分の先生であるイエス様から直接聞いた教えがもとになっています。
イエス様は次のようにおっしゃいました。マタイによる福音書5章21~22節です。
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


だいたい私たちは、自分のことを完璧に正しい、善い人だとは思っていなくても、自分はそこそこましな方である、と思っていないでしょうか。
 自分よりもひどい人、悪い人は他に一杯いる。そんな人たちに比べれば、自分は努力して、正しくあろうと努めながら、生きていると、私などはどこか心の中でそう思っております。
しかし、イエス様のお言葉は容赦ありません。兄弟に腹を立てるものは裁きを受けるのです。兄弟に“ばか”と言って相手を見下す人は火の地獄に投げ込まれるのです。
それが神の正しさの基準です。その基準に、自分自身の努力や正しさで達することが出来る人はだれもいません。私たちは全員が罪の裁きに向き合わねばならない者なのです。

今日の箇所の中では、旧約聖書の『創世記』の初めに書かれている、兄カインによる弟アベル殺人の例が書かれています。
自分の行いが悪かった兄カインが、行いの正しかった弟アベルを殺した。
“そんな悪いこととは私は無関係だ”と私たちは思います。しかし、私たちの心の奥深くに潜む、罪の性質において、わたしたちは誰もがカインなのです。
 悪い者は、正しい者に反発し、悪い者は力づくで正しい者を亡き者にしようとする、ということです。
 私自身、いかに人を心から愛せない者であるか、人を赦せない者であるか、という自分自身に正直に向き合うとき、イエス様のお言葉は本当に真実であると、認めるしかないと思わされます。
 しかし、そのような私たちに、大きな、考えられないほどの希望の光が注がれました。希望、平和、喜び、そして愛、それらすべての美徳と賜物を、ご自身で完全に体現するお方が現れたのです。
そうです、御子イエス・キリストが、わたしたちのために、私たちを罪と悪とから救い出すために世に来てくださった、すなわち主イエス・キリストがお生まれになったのです。
それがクリスマスの出来事です。クリスマスは、その出来事の偉大さ、いかに私たちにとって重大な出来事であるかを、私たちの言葉によっては完全に説明しきれないほどの、恵みの出来事です。

今日の16節をお読みします。
16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。

 主イエスの直弟子の一人であったヨハネは、イエス様が十字架の上で死んだことを、“主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは、愛とは何か、愛するとは何かということを教えられた、と言うのです。
そしてヨハネは、またヨハネ以外の他のキリストの弟子たちも、“主イエス・キリストがわたしたちのために命を捨ててくださった、それによってわたしたちは愛ということを知った”、このことをずっと伝えていかなくてはならない、と示されたのです。
キリスト者、そしてキリスト教会は、その思いを今も引き継いで、“イエス・キリストは私たちのために命を捨ててくださった、それによって私たちは何が愛であるかを知った”という喜びの知らせを、世に伝え続けています。

 しかし、その16節には、まだ続きがあります。3章16節の言葉を改めて全部お読みします。

16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
 だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

”(わたしたちの命を)わたしたちの兄弟姉妹たちのために、私たちも捨てるべき、とは恐ろしい言葉です。
これは自分の命を粗末にしてよい、ということでは勿論ありません。むしろ、自分の命が尊く大切であるからこそ、私たちの命は、他者をも生かすほどの価値がある、ということです。
そして大切なことは、主イエス・キリストによって真の愛を知らされた者は、その生き方がそのような者として変えられるはずだ、ということです。
神の子、主イエス・キリストがこの私(わたしたち)のために死んでくださった。それによって私たちは真の愛を知らされた。
そうであるならばば、キリストによって真の愛を知らされた者、キリスト者はその生き方がキリストの愛によって必ず変わるはずだ、ということです。
もし、私たちの生き方が、キリストを信じる前と全く変わっていない、というならば、私たちは、本当にキリストの恵みのうちに生きているのだろうか、と自分自身に真剣に問う必要があります。
 “わたしたちも兄弟のために命を捨てるべき”という教えは、自分中心の生き方を悔い改めて自分の命が他者を生かすためにもあるのだ、このわたしの存在は他者の利益のためにあるのだ、と言う思いと生き方へと私たちが変えられることです。
 それは、今日の箇所の最後の17~18節にあるように、苦しむ身近な人々に心を合わせ、他者の苦しみに共感をし、他者の痛みを自分のこととして捉えて、何か具体的な一つの(たとえ小さくても)行動へと踏み出すことです。
 主は私たちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは愛を知った。私は愛されている、大切な存在であることを知った、だから私も他者を愛する、主の愛は私たちをそのように変えていくのです。

 今日の箇所の初めの11節に次のように書かれています。
 11なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

 使徒ヨハネが、そしてキリスト教会がずっと受け継いできたこの教え、他者を尊重し、他者の利益、他者のために生き、そのような私たちが”互いに愛し合う“という信仰の生き方が、キリスト信者たちが初めから聞いてきた教えです。
この大切な教えは、今も、これからも変わらない教えとして、私たちの信仰の指針として私たちを導く教えであり、私たちの力であり続けます。
クリスマスを迎える今、私たちは、キリストの愛に基づいて、”互いに愛し合いなさい“。この尊い教え(御言葉)を私たちは心に納め、また自らの生き方として実践していきたいと願います。

2025年12月13日土曜日

2025年12月14日 主日(アドベント第三)礼拝

前奏
招詞  詩編47篇1節
アドベントキャンドルの点火(喜び)
賛美  新生讃美歌 153番 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
賛美  新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
献金
聖句  ヨハネによる福音書15章11~16節
祈祷
宣教  「キリストの喜び」
祈祷
賛美  新生讃美歌379番 行きて告げよあまねく
頌栄  新生讃美歌679番
祝祷
後奏
歓迎・案内


2025年のアドベント(待降節)の期間を今、私たちは過ごしています。2025年も間もなく終わろうとしています。あと半月で、新しい年を私たちは迎えます。
年は変わりますが、キリストにある希望に生かされている私たちは、新しい年にも、主なる神の祝福と希望は変わらず私たちと共にあり続けることを知っております。
それは、変わらぬ祝福と希望を、神はイエス様を通して約束してくださっており、そして私たちの主なる神はご自身のお言葉に忠実なお方、約束を必ず守り果たしてくださるお方であることを、私たちは確信しているからです。

新約聖書のテトスへの手紙二(2 Titus)の2章10~13節に次のように書かれています。

11実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

“すべての人々に救いをもたらす神の恵み”とは、イエス・キリストの恵みです。
そしてキリストの恵みは、わたしたちに“思慮深く”、”正しく(罪と悪を遠ざけ)“、”信心深く(神と共に)“生活するように教えます。
そして神は私たちに、祝福に満ちた希望、すなわちわたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むようにと、教えておられます。
神から私たちへ向けられた祝福と希望である、イエス・キリストのお誕生を、私たちは今年のクリスマスでも、大いに喜び、お祝いし、感謝を神に捧げたいと願います。
そしていずれまたこの地上に来られる主イエス・キリストの再臨を待ち望む、その希望をも新たにする、クリスマスを迎えたいと私たちは願います。
今日はアドベント第三の日曜日の礼拝です。三本目のアドベントキャンドルの火の意味は、“喜び”です。

今日の聖書箇所の言葉は、ヨハネ福音書15章の中の、イエス様ご自身のお言葉です。今日の11節で、“これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである”とイエス様は言われました。
イエス様は、私たちが喜びで満たされることを願い、またそのために必要なものを、全て与えてくださいました。
この世には色々な喜びの出来事があります。別に教会に来ていなくても、聖書を読んでいなくても、神様を信じていなくても、それでも充実した楽しい人生を送っているように見える人は多くいる、かもしれません。
しかし、消えることのない確かな希望により、私たちの喜びが完全に満たされるには、私たちには神の恵み、真の神の恵みの言葉がどうしても必要であると、イエス様は言われるのです。
神の言葉によってしか、また神に繋がることでしか、私たちの喜びが満たされ、満ち溢れ、そして決して変わらぬ満足が私たちに与えられることはありません。

この15章の初めでイエス様は、ご自身を“ぶどうの木”に例えられ、お話をされました。
わたしたちがぶどうの木であるイエス様にしっかりと繋がり続けることで、豊かな実を結ぶことが出来るようになる、とイエス様はおっしゃっています。
わたしたちが“ぶどうの木につながる”とは、キリストの体である教会に繋がる、その木の枝同士である互い(信仰の家族、仲間)に繋がる、そして聖書の御言葉と祈りによって霊的に神様と繋がり続けるということです。
そのようにキリストの体であるぶどうの木(教会)に繋がる人は皆、イエス様の御言葉によって養われ、互いに支え合い豊かな実を結び、喜びが満たされるのです。
私たちの喜びの源はイエス・キリストの恵みです。そしてイエス様は、実に色々なことを言葉によって話してくださいました。

先週の礼拝メッセージで私は、イエス様は生きておられる間に語るべきことを全て弟子たちに、また私たちに向けて全て語ってくださった(語りきってくださった)と私は申し上げました。
イエス様が、私たちが生きるために必要な、また私たちが喜びで満たされるために必要な言葉を全て語りきってくださったので、私たちは喜びと希望とで満たされるのです。
私たちの喜び、本当の喜び、喜びの源泉は、イエス様の御言葉にあります。御言葉を通してこそ、“神が私たちと共にいてくださること”を私たちは確信し、また神が共にいてくださることが私たちの無上の喜びとなります。

そしてイエス様の御言葉によって喜びで満たされた私たちもまた、お互いへの配慮と愛を、言葉をもって表します。もちろん、行いを伴わない言葉だけでは意味がありません。
しかしやはり私たちは与えられた言葉によって、他者への愛と配慮、感謝などを伝え愛、愛のある信仰の言葉によって、互いに励まし合うことができるのではないでしょうか。
思っていることを言葉にするのは難しいものです。言いたいこと、思っていること、感じていることを、言葉でどう表現してよいのか分からない、という時も私たちには多くあります。
あるいは、“どうせ言っても分かってもらえない”、と思って、私たちは自分の思いを人に伝えることをあきらめてしまうこともあります。
しかし、イエス様は、言葉によって弟子たちを教え、言葉を伝える続けることをあきらめになりませんでした。弟子たちがどんなに無理解でも、神の言葉(福音)をイエス様は語り続けてくださいました。
そのようにイエス様が語り続け、弟子たちに言葉を残してくださったのは、わたしの喜び、すなわちキリストの喜びが私に満ちるためであったのです。

イエス様の御言葉、イエス様があきらめずに語り続けてくださった御言葉によって、私たちは今も喜びで満たされるのです。その幸いを私たちは感謝いたしましょう。
また今日の箇所では、イエス様が弟子たちに、また私たちに向けて、本当に驚くべきことをおっしゃっています。

14~15節

14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

神は本当に高いところにおられるお方であり、本来私たちでは近づくこともできないお方です。神はあまりに偉大で、私たちがその偉大さを完全に理解することはできないお方です。
 そのようなお方が私たちのことを“友達だ”とおっしゃってくださっているのです。そんなことがあり得るのでしょうか?
 だれか有名な人、すばらしい人と友達であれば、それは私たちにとって自慢のたねとなります。
 すごく地位の高い人、例えば総理大臣や大統領、王様と知り合いや家族、あるいは友達だ、と言えば大抵の人は、それをとても栄誉なことであり、自慢したいと思うでしょう。
 神であるお方、神の子が私たちのことを“友達だ”と言ってくださっているのです。神と友達である、そんなあり得ない最高の栄誉と栄光を、私たちはイエス・キリストを通していただいているのです。
 私たちが神の友達となるような資質や素晴らしい美徳を持っていたから神が私たちを友だと言ってくださったのではありません。
 神はただ大きな、溢れる愛をもって、罪に満ちた私たちを選び、私たちを御言葉によって、喜びで満たされるようにと、神の友となるようにと、導き出してくださったのです。

 しかし、私たちが本当に神の友となるためには守られなくてはならないことがあります。それは14節に書かれています。それは「私(神、イエス様)の命じることを行うならば」です。
そして今日の箇所でイエス様が弟子たち(また私たち)に向けて命じられていることは、次のただ一つです。
17節
互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。

 私は、イエス様のこの命令、キリスト者に与えられた命令は、私たちにとって大きな祝福であると同時に、最も厳しい戒め(命令)」であると思います。
なぜなら、私たちは他者を愛せないからです。「いや、わたしは人を愛している」という方がおられるでしょうか。
すばらしい人、善き、愛すべき人であれば、当然私たちはそのような人を愛します。しかし、イエス様は“あなたがたが好きな人だけ、気の合う人だけを愛しなさい”とは言っておられないのです。
 イエス様がおっしゃったのは、無条件で”互いに愛し合いなさい“。あなたにとって決して愛せないと思える人でも、とても尊敬できないような人であっても、”互いに愛しなさい“、これがイエス様の命令です。

そしてその命令が守られるのならば、“わたし(イエス様)はあなたがたを友と呼ぶ”という、その最高の栄誉が私たちのものとなるのです。
 ここまで聞いて、「そんなこと、わたしには無理です。わたしにはできません」と思われる方がおられるのではないでしょうか。正直申し上げて、私自身がそう言いたいのです。

 しかし、13節のイエス様のお言葉を聞いてみましょう。

13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、このお言葉をイエス様ご自身が成し遂げてくださいました。
 イエス・キリストがクリスマスに生まれ来られたのには、大きな目的と使命とがありました。それはイエス様がご自身の命を、私たちのために捨ててくださる、ということでした。
 イエス様が、“あなたたちをわたしは友と呼ぶ。あなたたちは私の友達なんだ”と言って、そのことを証明し、また私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。
 クリスマスは、そのような私たちの救い主、唯一真、最高の神でありながら、私たちを“友”と呼んでくださり、その友のために、ご自身のお命を捨ててくださった神のお誕生を覚える時です。
 私たちの救い主、そして私たちを”友“と呼んでくださるイエス・キリストの神が、私たちのために世に生まれてこられました。
これ以上ない、この栄光をいただいて、私たちは今年のクリスマスを、大きな、最高の喜びをもって感謝をして迎えてまいりましょう。