2025年10月18日土曜日

2025年10月19日 主日礼拝

前奏
招詞 詩編31篇6節
賛美 新生讃美歌 327番 ゆく手をまもる永久の君よ
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章51~60節
祈祷
宣教 「神の栄光を見上げて」
祈祷
賛美 新生讃美歌21番 栄光と賛美を
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 新約聖書の中の『使徒言行録』の第7章で、ステファノと言うキリストの伝道者が、「神を冒瀆した」という理由で、ユダヤの最高法院(裁判所)で訴えられている場面の、最終箇所が、今日の聖書箇所です。
  ステファノは、キリスト教徒として最初の殉教者、すなわち、キリストを信じ、キリストの教えを伝道したために迫害を受けて命を落とした(殺された)人と言われます。
 今日の箇所で、ステファノは殉教します。人々(ユタヤ人たち)から石を投げられて、彼は死んでいきました。ステファノは、大変な痛み、苦しみの中で、悲惨に死んでいったと言えるでしょう。
今日の箇所で、ステファノが語った言葉、彼が死ぬ直前に語った言葉、そして彼のその時の姿から、神のメッセージを今日私たちは聞いていきましょう。
今日の最初の節の51節で、ステファノは自分のことを訴える人々(最高法院の議員たち)に向かって、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言っています。
そして彼らに「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」とステファノは続けて言います。聖霊とは神の霊であり、神様と同じ意味でここでは使われています。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない」とは、どういうことでしょうか。

 割礼は、男性の包皮を切り取ることですが、それはイスラエル人たちにとって、とても重要な意味がありました。
割礼は、イスラエル民族の“信仰の父”と言われたアブラハムが、神から命じられたものでした。
 旧約聖書『創世記』17章で、割礼に関する戒め(命令)をアブラハムが神から受け取ったことが書かれています。
 アブラハムはその時神から「あなたは多くの国民の父となる。あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」という約束を受けます。(創世記17章4~6節)
神はアブラハムを通して、イスラエルの民たちと永遠の契約を結ばれた、と創世記のその箇所では描かれます。
そして神はその時アブラハムに、イスラエルの民たちが神に選ばれた特別な人たちであることを表すしるしとして、生まれた男子に(生まれて八日目)に割礼をするように命じられました。
割礼は、イスラエル民族が神から特別に選ばれた民であること、彼らの祖先アブラハムを通して与えられた永遠の契約と祝福が彼らに与えられていることの、目に見えるしるしでした。
しかし、ステファノは言うのです。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」

 ステファノは、最高法院の議員たち(祭司や律法学者たち)の信仰の本質を指摘したのです。
割礼や、その他の宗教儀式や決まり事は、形の上ではしっかり守っていても、彼らの心はどうなbestowedのだ、とステファノは指摘したのです。
 イスラエルの民たちの中には、特に祭司や律法学者たちのような特権的な地位を与えられた人たちの中には、割礼を受けている、すなわちイスラエル人(ユダヤ人)である、ということだけで、特別に選ばれた者としての誇りを持っていた人がいたのでしょう。
そんな彼らは、イスラエル民族以外の他の民族や異邦人たち、または同じイスラエル人でも、彼らと同様に宗教規則をしっかりと守ることができない者たちを見下すようになったのです。
 しかし、割礼も、その他の宗教的規則なども、それには心の中で神を信じ、神の教えに従って実際に生きるということ、心の中での信仰が伴わなければなりません。
 形ばかりの割礼は意味がない、ということは、新約聖書時代よりもずっと前の旧約聖書の時代(預言者の時代)から、すでに何度も言われていました。

旧約聖書『エレミヤ書』6章10節には次のように、神の言葉として書かれています。
誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。
形ばかりの宗教規則は守っているようでも、心と耳を主なる神に向かって開いていない、自分を神の前に低くしていないので、聖霊の導きを受けることができないのです。
私たちは、何が神の御心か分からない、聖霊の導きがどのように与えられるのか分からない、という場合があります。
そのような時、それは自分自身の頑なな心が原因でないのか、心の耳を自分で閉じてしまって聖霊の声が聞こえないように、自分でしてしまっているのではないか、と点検をする必要があるかもしれません。
私たちは頑なな者です。私たちは自分の聞きたいことだけを聞き、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じようとする者です。
そのような時、“かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人!”という、自分に向けられた声に、謙虚に耳を傾ける者でありたいと、私たちは願います。

 そして私たちは神に、私たちの心と、心の目と耳を開いてくださるように、厳しくも真実である神の言葉に耳を傾け、神から離れた自らの罪に気づき、神に立ちかえらせてくださるようにと、祈りたいと願います。
 ステファノは、議員たちに向かって“あなたがたの先祖が多くの預言者たちを迫害したように、あなたがたも、救い主(52節の”正しい方 the Righteous One)を殺してしまった、と言います。
“あなた方は上辺だけの信仰があり、心の中では神の霊である聖霊にいつも逆らっている。あなたがたは、真の救い主を殺した”と言われて、穏やかでいられる人がいるでしょうか。
 ステファノにそのように言われた人々は激しく怒りました。彼らはステファノに向かって歯ぎしりしたと書かれています(54節)。彼らはまるで猛獣のように、ステファノに向かおうとしたのです。
 人々(ユダヤの議員たち、権力者たち)の怒りは頂点に達していました。それに対してステファノはどのように反応したのでしょうか。

55節~56節お読みします。

55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

 恐ろしいほどの人間の怒り、敵意、悪意、殺意に対してさえも、私たちは神の霊である聖霊で満たされることが可能だ、ということをステファノの姿は教えてくれます。
 そして、自分に向けられた敵意や怒りに対して敵意、怒りをもってやり返すのではなく、ステファノの目は天を見つめました。
  ステファノは天を見つめ(見上げ)、そこに神の栄光と神の右にたっておられるイエス(イエス・キリスト)を見たのです。
 この地上では、人同士が悪意をぶつけ合って憎み合ったり、いがみ合ったりしている。人や国同士が深刻に互いを傷つけあっていても、私たちが信仰の目をもって天を見上げるならば、そこには神のご栄光と神の右に立っておられるイエス様がおられることが分かります。
 私たちのために十字架にかかり、そして今は天の父なる神の右に座っておられ、私たちのためにとりなし(仲介)の祈りを捧げてくださっているイエス様がおられるのです。
 ステファノを訴える人たちは大声で叫びながら耳を手でふさぎ(ステファノの声を聞こうとせず)、ステファノに襲いかかり、彼を都の外に引きずり出しました。
  58節には、そこにサウロという若者がいて、人々が自分の着ているものをサウロの足元においた、と書かれています。
 サウロは後のパウロです。パウロは最初は激しくクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス・キリストに出会った後、熱心なキリストの伝道者へと彼は変えられました。
 ステファノが殉教するその場に、後にキリストのための大きな働きをすることになるサウロがいて、その場を目撃していたということは、サウロのそれからの生き方(信仰)に大きな影響を与えた、と言えます。
 ステファノは死にながらも、多くの人々に、サウロ(パウロ)に、信仰のかけがえのない遺産を残した、と言ってもよいと思います。
 ステファノが、人々から石を投げられながら、死ぬ直前に言った二つの言葉、今日の箇所に記されているそれらの言葉を聞いてみましょう。

 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

 ステファノは、最後の最後まで、彼の魂を受け止めてくださる方がおられることを確信していました。それは主イエス・キリストです。
 たとえ自分がどれほど大変な、悲惨な、苦しい状況の中におかれても、自分の事を決して離すことなく、愛し、また受け止めてくださるイエス様がおられることをステファノは確信していたのです。
 その信仰の確信は、今の私たちにも与えられています。私たちが心と耳を開き、主イエス・キリストを受け入れるならば、イエス様はステファノの魂を受けてくださったように、私たちの魂をも受けてくださいます。
そしてステファノは「この罪を彼らに負わせないでください」と最後に言うことができました。自分を訴え、自分に石を投げ続けて自分を殺す人々のことを、彼はこのように祈ることができたのです。
 それは、イエス様が十字架の上から言われた言葉でもありました。イエス様は鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、十字架にかけられた時、次のようにおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)
神の子であるイエス・キリストはそのように言って、人のために、私たちのために天の父なる神に願ってくださいました。
 では、人間であるステファノが、なぜそのように祈ることができたのでしょうか。「この罪を彼らに負わせないでください」とステファノはなぜ最後に祈ることができたのでしょうか。
 それはステファノ自身が、自分がイエス様によって罪赦されたことを確信し、そのことへの感謝で溢れていたからだと、私は信じます。
 キリストによって罪赦された、だから私は生かされている、だから私は神によって深く愛されている、と言う確信がステファノに最後にそのように、他者のために祈ることができるようにさせたのです。
 そのような神様のご愛、イエス様の赦しの力が私たちにも与えられます。
私たちは、キリスト教最初の殉教者ステファノの生き方と彼の言葉から私たちに伝えられる、神の愛と赦しの力を頂いて、今を生きる信仰者としての自分自身を振り返ろうではありませんか。

2025年10月11日土曜日

2025年10月12日 主日礼拝

前奏
招詞 レビ記18:5
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の祈り
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
献金
聖句 使徒言行録7章37~50節
祈祷
宣教 「命の言葉を受け、伝える」
祈祷
賛美 新生讃美歌521番 キリストには替えられません
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


新約聖書の中の『使徒言行録』7章で、伝道者ステファノが、最高法院(裁判所)で「神を冒瀆している」という容疑を受けて、尋問されている場面を、私たちは礼拝の中で続けて読んでおります。
ステファノは、ユダヤ人にとって”信仰の父“と言われたアブラハムから始めて、神がいかにしてイスラエル民族を選び、彼らを通して神の救いを表してくださったかを宣べ伝えます。
今日の箇所では、ステファノは、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したモーセに関する話を続けています。
今日の箇所の初めに、モーセの言葉として、ステファノが次のように言っています。

37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』

モーセを通して、神は、“あなたがたのために、わたし(モーセ)のような預言者を神は立てられる”というメッセージをイスラエルの民たちに伝えました。
これは旧約聖書の『申命記』18章の中に記されている神の約束の言葉です。
ここで“わたし(モーセ)のような預言者”と言われるのは、モーセに続く他の旧約時代の預言者たちのことでもあります。
しかしイエス・キリストが既に人として世に来られ、人の罪の贖いのために十字架にかかって死んで復活した今、モーセによって言われたその“預言者”は、イエス・キリストのことだと、ここでステファノは意味しています。
神は、天地の造られるずっと前から、そしてアブラハムやモーセを通しても、“やがてイエス・キリストが来られ、神の言葉を伝える”、”イエス・キリストが世に来られ、人の罪を贖う“ということを伝え続けておられたと、私たちは聖書を通して信じることができます。

ステファノは、自分のことを訴えるユダヤ人たちに、“キリストは、モーセによって言われていた預言者であり、そして救い主なのだ”と何とか伝えたくて、モーセの言葉を引用したのです。

今日の38節で次のように書かれています。
38この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。

ここで“この人” (He)と言われるのは、モーセのことです。しかしここでも、モーセの姿を通して、やがて来られるイエス・キリストと、キリストがしてくださることが予言されています。
それは“命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれる”ということです。モーセのような預言者は神の言葉を、人々を代表して受けて、それを人々に伝えました。
そのような意味で、今の牧師も預言者としての役目を持っています。しかし、人間の預言者は完全ではありません。人間の預言者は間違いもしますし、正しくないことを言ってしまうこともあります。
しかし、イエス・キリストは完全な預言者であり、決して間違うことなく完全に正しく、神の命の言葉を人々に伝えてくださいました。イエス・キリストご自身が、神の命の言葉そのものであるお方でした。

“命の言葉”とは、私たちを真の意味で生かす、私たちに命を与える言葉、という意味です。
言葉には本当に力があります。人間が考え出したような言葉でも、その言葉が人を大いに励ましたり、慰めたりする力を持ち得ます。
まして、神の言葉は、私たちにとって生きる命そのものである、と言ってもよいほどの力を持ちます。私たちは神の言葉によって生きるのです。
モーセの働きで最重要なことは、“その命の言葉を受け、人々に伝える”ということでした。命の言葉、すなわち神の言葉を神から授かって、モーセはそれをイスラエルの民たちに伝えたのです。
命の言葉である聖書の言葉は、それを受けて信じた人によって、また他の人たちに伝えられていきます。
私たちを生かす命の言葉は、人間が考え出したり造りだしたりしたものではありません。そんなことは不可能です。神の命の言葉は、賜物として神から私たちに与えられるものです。
そしてその命の言葉は、イエス・キリストによって完全な形となって世に伝えられた後、人から人へと伝えられることによって広まっていくようになりました。

命の言葉を受けて伝えること、それは神を信じ神によって罪赦され、神によって救われた者、教会の使命です。
人を生かす命の言葉を私たち自身が豊かに受けて、それを人にも伝えていく、そのための器として私たちは用いられたいと、私たちは願います。
39節で、先祖たち(モーセの時代のイスラエルの民たち)が、モーセに従おうとせず、モーセの兄のアロンに次のように言ったということが記されます。
39節~40節をお読みします。

39けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
40アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』

これは、旧約聖書『出エジプト記』の32章に書かれている話が元になっています。
そこでは、モーセがシナイ山に登って、そこで神から戒めの言葉を受けていました。
モーセは神から受け取った戒めの言葉をイスラエルの民たちに伝えるように、神から命じられました。
モーセはその時40日間シナイ山にいた、と言われます。そしてイスラエルの民たちは、モーセがなかなか降りてこないので、だんだんモーセを待っていられなくなりました。
忍耐を失った民たちは、モーセの兄であるアロンに、「モーセはどうなったか分からないから、私たちのために神々を造ってください」と願ったのです。
アロンはそこで、イスラエルの民たちに応えて、金の子牛の像を造って、彼らはそれを神として拝みました。
その時イスラエルの民たちが、モーセが山から降りてくるのを待っていられなくなって、神ではないもの(人間の手が作り出したもの)を神として拝む、偶像崇拝をするようになったとは、何とも愚かなことのように私たちには思えます。
しかし、私たちも忍耐をもって神の御心を求めて待つ、ということができない時があるのではないでしょうか。

待つことができず、あるいは、とにかく早く問題を解決したかったり、状況を打開したいと願うあまり、自分で早急に判断して「これが神の御心だ」と安易に決めてしまうことが私たちにもあると思います。
私たちはなかなか待つ、ということができません。静まって祈って、神の言葉、神からの示し、そして他者からの意見やアドバイスに謙虚に聞くということもなかなかできない時があります。
イスラエルの民たちが犯したような、人の手によって造られたものを神として拝むという、過ちを私たちも十分に犯し得る、ということを私たちは心に留めたいと思います。
そのような間違いを繰り返さないため、落ち着いて静まって謙虚に神と、また人の声にも耳を傾けることができるように、日ごろからそのような信仰を養っていきたいと願います。

44節をお読みします。
44わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。

証しの幕屋、あるいは幕屋とは、イスラエルの民たちが荒野を旅する間に、そこで彼らが礼拝するために建てられた移動式のテントの礼拝所でした。
神は荒野をイスラエルの民たちが移動中にも、彼らが礼拝できるように、モーセやアロン、祭司たちを通して神の言葉を聞くことができるように、“幕屋”を作ることを教えてくださり彼らが礼拝できるように整えてくださったのです。
やがてイスラエルの民はカナンの地に定住するようになり、ダビデがイスラエル全体の王となりました。

ダビデは、神のための神殿、テント式の幕屋ではなく、しっかりとした土台、基礎を持つ神殿を神のために建てたい、礼拝のために建てたいと願いました。
神の命令によって、実際に神殿を完成させたのはダビデの息子のソロモン王でした。
 完成した神殿はイスラエルの民たちにとって霊的、信仰的な拠り所だったでしょう。今の私たちにとっても、教会は信仰的にとても大切な場所です。
教会は私たちが集い、共に礼拝を献げることができる場所です。
 しかし、今日の箇所でステファノが言う次の言葉に私たちは耳を傾けたいと思います。

48~50節の言葉です。

48けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
49『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』

 神殿、今でいえば私たちの教会は、そこで神によって心動かされた人々が集まり、霊と真(真実)の礼拝を心から献げる時、特別な場所となります。
 しかし同時に私たちは、自分自身について傲慢にならないようにと、いつも気をつけていなくてはなりません。私たちは今日の箇所のステファノの言葉から戒められます。
 私たち人間が、神がお住みになる場所を造るのではないのです。そんなことは私たちにはできるはずがないのです。
 私たちが神のために何かをお造りするのではなく、神が、私たちに必要なものを全て用意してくださるのです。

 神が私たちのために必要なもの、場所、教会もすべてお造りくださるのです。
私たちは、神の許しと憐れみ、恵みによって、色々な物を与えられ、物や材料、与えられた賜物を用いて色々なものを造ることができます。
 何一つとして、私たちがその最初から造り出すことができるものなど、ありません。
しかし、私たちは気をつけていないとつい、自分自身の力や信仰さえも誇り、“わたし(たち)が、これだけのことを(神様のために)している”と高ぶってしまうことがあります。
すべては天地を創造された神が与えてくださったものですから、すべて良い物は神がお造りになって、私たちに与えてくださるものです。
 そしてその信仰は私たちに、“神が全て善きもの、必要なものを必ず私たちに与えてくださり、神が命の言葉をもって私たちを生かしてくださる”という希望と平安をも与えてくれます。
あらゆる恵みが、また私たちを生かす命の言葉が神から私たちに与えられていることを覚え、感謝をして、謙虚に、私たちは信仰の日々を歩んでいきたいと願います。

2025年10月4日土曜日

2025年10月5日 主日礼拝
前奏
招詞  詩編32篇8節
賛美  新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌320番 輝いて生きる
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録7章17~36節
祈祷
宣教  「あなたをエジプトへ遣わそう」
祈祷
賛美  新生讃美歌544番 ああ嬉しわが身も
頌栄  新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日の聖書箇所である、新約聖書『使徒言行録』7章の中から、ステファノというキリストの伝道者による宣教の言葉を、私たちは聞いています。
 そこでステファノが語っているのは、モーセという人に関する物語、モーセの生涯についてです。
モーセは旧約聖書の中の『出エジプト記』に登場する人物で、イスラエル民族の信仰にとって、とても重要な人物の一人です。
聖書は、『旧約聖書』と『新約聖書』の二つがあり、旧約聖書と新約聖書を合わせて『聖書』です。

 旧約聖書は、神が天地を創造したことから語られる『創世記』から始まります。そして、神がイスラエル民族をお選びになり、彼らにご自身を現わされた歴史が伝えられます。
 旧約聖書には、多くの預言者の言葉も残されており、彼ら預言者を通して、神がどのような言葉や戒めをイスラエルの民に伝えたかを、私たちは知ることができます。
旧約聖書にはイエス・キリストは直接は登場しません。旧約聖書の時代は、キリストが人として生まれる、ずっと前の時代であるからです。
キリスト教はイエス・キリストを神として信じていますから、キリストの生涯とそのお言葉を中心として書かれた新約聖書を、私たちの信仰の中心として読みます。
しかし、キリストのことが直接は記録されていない旧約聖書も、クリスチャンにとって、神の言葉としてとても大切です。
なぜなら神が、天地創造と、イスラエル民族を選んだその出来事を通して、救い主キリストを世界に送るご計画と、その準備をされていたことを、旧約聖書は伝えているからです。

エフェソの信徒への手紙1章4節に次のように書かれています。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

この言葉から、旧約聖書を通しても、その全てを貫いているのは、神が私たちをキリストによって選び、私たちを愛し、私たちを神の前に聖なる者にしようとしてくださっている、ということであることが分かります。
 ステファノは、最高法院で、“神を冒瀆した”という容疑のために尋問されていました。
そこでステファノが聖書の話をした理由は、真の神のご計画、神の真実を、彼を非難している者たちに知らせたい、という強い願いがあったからでした。
 神の言葉は、聖書の言葉を通してこそ、最も力強く、人の心を捉える力をもって語られるからです。
 今日のステファノの話の中では、モーセという人の一生が、神が彼をどのように用いられたのかが、本当に短く凝縮されています。
 モーセは120歳まで生きた、イスラエル民族の指導者でした。その一生を短い言葉や内容で説明しきることはできません。
しかし、たとえ短い言葉の中にも、モーセと言う人が神に選ばれ、どのような働きをしたのか、という点については知ることができます。

 私たちはモーセ自身を知るというよりも、神がモーセを通して、どのようなことをしてくださったのか、むしろそのことを知らされます。
 モーセが生まれた時、イスラエル民族(彼らはヘブライ人とも言われた)の数がエジプト中に増えていました。
 そしてそれがエジプトの王には脅威に映ったのです。
出エジプト記1章8~10節に次のように書かれています。

8そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
9国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
10抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

ヨセフは神の助けによって、エジプトで大きな働きをしたイスラエル人でしたが、その新しい王は、そのように、かつてヨセフを通して現わされた神の御業を知らない王でした。
そんな王にとって、どんどん数を増していくイスラエル人たちは、ただ恐れの対象でしかありませんでした。
イスラエル人たちが増えることを恐れた王は、生まれてくるイスラエル人の男の子を殺害するように、助産婦たちに命じました。
後にイエス様が生まれた時にも、“ユダヤ人の新しい王が生まれた”という知らせを聞いて怒ったヘロデ王が、幼い男の子全員の殺害を命じた出来事が、新約聖書に記されています。
ですから聖書が(旧新約を通して)伝えていることの一つは、人間が、状況によってはどれほど残忍になれるのか、ということです。
そしてその人間の罪の性質は、時代を経ても決して変わっていない、ということを聖書は伝えています。
その罪を、私たち人間は自分自身で乗り越えて、罪を無くすことはできないのです。
その罪は、人間を超えた大いなるお方、すなわち創造主なる神様に赦していただくしか解決方法がないのです。
私たちが抱える、深刻で根深いその罪を赦すため、イエス・キリストがこの世界にお生まれになり、十字架にかかって死んでくださいました。
ですから私たちは、キリストの十字架によって罪赦されたというその一点において、辛く悲しい現実の中、私たちの罪の性質の中にも、希望をもって生きることができるのです。
時代が変わっても、人の世がどれほど移り変わっても、決して変わらない神の愛と罪の赦しが、キリストを通して私たちに与えられていることを私たちは喜び、そのことに感謝をささげようではありませんか。

今日の22節に、「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」と書かれています。
しかし実際には、神がモーセを、イスラエル人の指導者となるように呼び出した時、彼は“わたしは話しが上手ではありません。誰も私の話など聞きません”と言って、何度も神からの呼びかけを拒みました。
しかし神から見たモーセは、人々に神の言葉を伝えるために必要な賜物を、すばらしい話と行いができるその賜物を、エジプトで受けた教育を通して、既に与えられた人だったのです。
モーセは、不思議な運命(神の助け)により、エジプトの王室で育てられることになりました。そこで、後にイスラエルの偉大な指導者となるために必要な素養が授けられたのです。
モーセに、指導者となるために必要な教育を(エジプトを通して)神が与えてくださっていたように、神は今も私たちにも、様々な方法を通して、私たちが自分では気づいていないかもしれないよき賜物、素質を沢山与えてくださっています。
それは、私たちにとっては好ましくない、困難で苦しい経験を通して与えられることもあります。
ですから私たちは、自分にとって辛く、難しい状況の中でも、“今神はこのことを通して、わたしに何を教え、何を与えようとしてくださっているのか”という信仰を持ちたいと願います。
 23節以降で、モーセが同胞のイスラエル人たちを助けようと思い立った、ということが書かれています。
 モーセは、一人のイスラエル人がエジプト人に虐待されている場面を目撃します。それでモーセはそのエジプト人を殴り殺してしまうのです。出エジプト記2章にそのことが記されています。

 25節に次のように書かれています。
25モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。

モーセは、自分の手を通して神が兄弟たち(同胞のイスラエル人たち)を救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思っていました。
その時モーセはまだ、自分だけの正義感が先走って、強引に自分が正しいと思うことを衝動的にしてしまう、未熟な人だったのでしょう。
周りからも指導者と認められるほどに彼はまだ成熟していませんでした。そしてモーセは、そこからミディアンという地方に逃れて行って、そこに40年間滞在します。
ミディアン地方での40年間は、それはモーセがイスラエルの指導者としての役割を後に果たすための準備の期間であったと言えます。

イエス様は、人間としての年齢では30歳ぐらいの時に、公の伝道活動を始められたことが福音書で伝えられています。
 イエス様も、人としての生活と経験をそれまで積み重ねる中で、伝道者としての活動を始める準備をしておられたと言ってよいと私は思います。
そしてイエス様は公の伝道活動を始められたとき、その初めに荒野で40日間、悪魔からの試みを受けました。(マタイ4章、ルカ4章)

 信仰者として成長し、準備万端整えてスタートすれば、あとはもうどんな苦難も困難もない、ということではないのです。
むしろ信仰生活は、ずっと困難の連続であるとも言えます。
しかし信仰による苦難は、それを試練として、私たちが自分自身の弱さ、罪に気づき、それに向き合い、そして“神がこの私と共にいてくださるので、神によってこの私は力を得て生きていくことができる”と増々確信することができる過程でもあります。
 ですから、今試練のただなかにある方がおられましたら、神の助け、神が共におられることを信じ、イエス様に委ねて、歩まれますように、また私たちがお互いに支え、祈ることができますようにと私は心より願います。

 神はミディアン地方で40年間過ごしたモーセを呼び出して、彼をエジプトへ遣わそうとされました。
 モーセがそれまでに歩んできた道、彼が経験してきたすべてのことは、神によってエジプトへ遣わされ、奴隷状態にあるイスラエルの民をエジプトから救い出すためでした。
 かつて同胞を助けようとして、そして同胞もそれを理解してくれるはずだと独善的に思っていたモーセとは違い、その時には神がはっきりとモーセを召し出したのです。

今日の34節に、神の言葉が、記されています。
34わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』

 今日の箇所で、ステファノは、モーセの物語を語りながら、モーセと共におられ、モーセに使命をお与えになった主なる神が、ステファノ自身とも共におられることを確信していたのだと思います。
そしてその神の恵みが、今やイエス・キリストを通して完全に現わされたことを同胞のユダヤ人たちに何とか伝えたいと強く、強くステファノは望んでいたのでしょう。
 ステファノの宣教(メッセージ)の言葉を通して伝えられる神の業と神の愛を、私たちも一層確信し、神から力を受けて、信仰の日々を歩んでまいりましょう。
 私たちの日々の一歩一歩の歩み、そしてこれから進むべき道を、私たちは聖書の御言葉によって、聖霊によって示されていきたいと願います。
そして、神がわたしたちに“あなたがたを遣わす”と言われる、その方向へ向かって、私たちは歩んでいこうではありませんか。