2025年11月23日(日)主日礼拝
前奏
招詞 ペトロの手紙一 3章15節
賛美 新生讃美歌146番 み栄えとみ座を去り
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
献金
聖句 列王記一8章27~29、41~43節
祈祷
宣教 「地上のすべての民は御名を知る」
祈祷
賛美 新生讃美歌384番 語り伝えよ 神のみ言葉
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日は「バプテスト世界祈祷週間」と言う、日本バプテスト女性連合が推進する、祈りの週間を覚えながらの礼拝メッセージを、私はいたします。
正確には今年度は、来週の11月30日(日)~12月7日(日)までが、バプテスト世界祈祷週間です。
一週間早いのですが、今日のメッセージで、バプテスト世界祈祷週間を覚えながら、神のメッセージを私達は聞いていきたいと思います。
バプテスト世界祈祷週間では、日本バプテスト女性連合が推進、支援する国内外の様々な宣教の働き、その働きに仕える人たちを覚えて祈ります。
具体的なそれらの働きについては、来週の礼拝の中で、女性会の皆様によりご紹介を頂く予定になっています。
どんな宣教活動の働きも、その働きに先立つ、キリスト者の仲間たちによる祈り、継続した祈りによる支援が、どんな宣教(伝道)活動にも必要です。
幸い私たちの教会は、日本バプテスト連盟という全国的な宣教協力団体に加盟しています。私たちの教会は、連盟に連なる諸教会・伝道所の祈りによって、今も支えられているのです。
そして私たちは、自分たちが支えられるだけでなく、私たちも連盟に連なる諸教会、また連盟の働きなどを覚えて、祈りと支援とを捧げます。
バプテスト世界祈祷週間も、私たちが祈りによって支え合う(支え合っている)ことを確認し、またそうすることができることを本当に喜ぶ機会でもあると、私は理解しています。
今年度私たちは、新約聖書の『使徒言行録』から、神の言葉を礼拝メッセージとして聞いてきています。
今日は、新約聖書からではなく、旧約聖書の『列王記一』8章の中の、ある祈りの言葉から、神の言葉(メッセージ)を聞き、そして国内外で行われている宣教活動、またその働き人たちについても思いを巡らせる時を持ってまいりましょう。
列王記上8章は、父親のダビデ王の後を継いでイスラエルの王となったソロモンが、神殿の建築を完成させた後に捧げた祈りの言葉によって、その多くを占められています。
この章でのソロモンの祈りは、私たちに祈りについて、実の多くのことを教えてくれています。
皆さんは、祈りをどのように捉えていらっしゃるでしょうか。
祈りは難しい、なかなか出来ない、と思われている方もおられるでしょう。確かに、祈りは難しくもあります。しかし、やはり祈りは、キリスト者にとって、とても嬉しいものでもあります。
キリスト者が神からいただく賜物の一つ、もっとも尊い賜物といってもよいほどの恵み、それが祈りです。
祈りは、私たちを神に近づけ、そして私たちを自分以外の他者とも近づけるものであると、今日の箇所のソロモンの祈りから、私たちは教えられます。
キリスト者の歩みとは、神に祈ることへの喜びが増していく歩み、そして神と、また人とも親しくなっていく歩みである、と言ってよいと私は思います。
私自身は、“もっともっと私は祈りの喜びを身に着けたい”、”祈りの喜びを知りたい。祈りの喜びを教えてください“と神に祈っています。
以前、初めて教会に来てくださった方が、キリスト者が(私たちが)教会で祈る姿がとても印象的で感動した、というお話を私は聞いたことがあります。
その方がいらっしゃった日は、月の初めの日曜日で、私たちの礼拝の中で“祈りの時”がある日でした。
その方は、教会で私たちが、お互いのことや、また社会や世界のことをも覚えて一緒に祈っているという事実と、その私たちの祈りの姿が、とても印象的であって感動した、そうです。
もちろん祈りは、人に見せるためにするものではありません。しかし、私たちは祈ることで、神と私たち自身がつながります。
そして私たちの祈るその姿も、他の人たちに、神に祈ることができる喜び、神と繋がることの喜びという、信仰の一つの側面を伝えることにもなるのです。
私たちの祈りの姿が、神様の素晴らしさを、私たちの祈りを聞いてくださる神の素晴らしさを、少しでも人に伝えることができるとは、それは何とすばらしい、嬉しいことではないでしょうか。
私たちは、そのような祈りの喜び、また祈りのもつ力や効果(影響)を、さらに知っていきたいと願います。
ソロモンは、父ダビデ王の願いを継いで、荘厳な神殿を完成させました。7年の歳月をかけて、膨大な資材、材料、労働力を用いて、主なる神のための神殿をソロモン王が完成させたのです。
しかしそのような大事業を達成しても、その時のソロモンの心は、あくまで神の前に謙遜なものでした。今日の箇所の最初のソロモンの祈りの言葉をもう一度聞いてみましょう。
27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
ソロモンが完成させた神殿は、当時としてものすごく巨大で荘厳なものでした。
ですからソロモンが、“これは私が成し遂げたことだ”と言って、傲慢な思いに囚われてしまっていたとしても決して不思議ではない、と私は思います。
しかし、ソロモンは自分がなしとげた、その神殿造営の事業を誇ることをまったくしていません。なぜなら、彼は神がどれほど偉大なお方であるかを忘れることがなかったからです。
人々は、新しく建てられた巨大で荘厳な神殿、そしてまたソロモンの持つ莫大な富に驚いたでしょう。
しかしソロモン自身は“この神殿など、神の偉大さに比べれば、何物でもありません”ということを良くしっていたのです。
“神は地上にお住まいなることなどないのです。天の天もあなた(神)をお納めすることができません。”
“わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません”、とソロモンは祈っています。
ソロモンは、ここで卑屈になっているのではありません。
そうではなく、神との関係の中で、いかに自分が小さく何者でもないか、自分が地上で成し遂げることなど、神の前にどれほどの価値もない、ということを、ソロモンは良く知っていた(知らされていた)のです。
それは、それほどソロモンと神との関係が親密で豊かなものであった、ということです。
逆説的(一見、互いに反することを言っている)かもしれませんが、神様と豊かで親密な関係を築けば築くほど、私たちは自分自身や、自分がすることなどがいかに小さく、何物でもないか、を知らされるのです。
親密な、神への祈りは、神との豊かな関係は、神の前に自分自身を低くし、神の偉大さの前に、私たち自身をひれ伏せさせるものである、ということを私たちは覚えたいと願います。
また私たちは、誰が私たちの祈りを聞いてくださっているのか、ということを、今日あらためて確認したいと思います。
それは天地の造り主である神、私たちの救いのために、イエス・キリストを地上にお送りくださり、十字架の上でその命を捧げてくださった神です。
そのような神が、私たちの祈りを聞いてくださるのです。
ですから私たちは祈る時、「神が私の祈りを聞いてくださるのは当たり前」と前提するのではなく、今日の箇所でのソロモンの祈りのように、”この僕がささげる祈りを聞き届けてください“と、心から願い祈るような信仰者でありたいと願います。
繰り返しますが、神が私たちの祈りを聞いてくださること、それは決して当たり前のことではないのです。
今私たちは、イエス様のお名前によって何でも神に向かって申し上げ、祈ることができる、その法外な恵みに心を留めましょう。
今日の箇所の、8章41節からの箇所に目を向けたいと思います。そこからソロモンの祈りは、“あなたの民イスラエルに属さない異邦人foreigner who does not belong to your people Israel”へと及んでいきます。
イスラエルの民は、“自分たちは神に選ばれた特別な民”、“自分たちは、信仰の父アブラハムを抱く特別な民”という思いを強く持つ人たちでした。
しかし、すでにソロモンの時代から、主なる神の恵みが、イスラエルの民以外の異邦人、(ユダヤ人から見れば)外国人にも、また全ての民にも及ぶようにという、まさに神の思いが、ソロモンの祈りの中ではっきりと祈られているのです。
“神の御名が伝えられ、神を信じるようになった異邦人たちも、この神殿に来ることができますように、そして彼らが祈る時、彼らの祈りをもあなたが聞いてください”、と王であるソロモンが祈っているのです。
ソロモンは、“すべての民が、いろいろな国や地域の人が集う神殿を夢(ビジョン)として思い描く祈り”をここで捧げています。
全ての民が集い、共に祈り、礼拝を献げる、そんな神殿を思い描きつつ、そのような夢(ビジョン)に基づいて、ソロモンはここで祈りを捧げているのです。
多くの国や地域の方々があつまるここ別府の地で、宣教のビジョンを与えられ、キリスト教会として立つことを許された私たち別府国際バプテスト教会では、多くの国の人々が共に集うことが実現しています。
このように私たちを結びつけるのは、人の働きによるのではありません。それはイエス・キリストの恵み、キリストの福音の力です。
イエス様がこの私のために十字架の上で死んでくださった。その恵みに、キリスト者は生かされています。その恵みへの感謝と応答として、私たちは教会に集います。
尊いイエス・キリストの恵みが、キリストの恵みのみが、私たちを一つに結び付けてくれます。
そしてイエス・キリストの恵みによって造り上げられる私たちの間の連帯、キリスト者同士の連帯、教会同士の連帯が、私たちを互いに祈る者へと変えていくのです。
そして主なる神は、そのように、主の恵みによって結び付けられた私たちを、主の福音宣教の働きのために用いられます。
先日の教会組織記念礼拝で、私たちの教会の今までの歩み、歴史を振り返る時を私たちは持ちました。
私たちの信仰の先達たちの祈り、遠くは海外(特にアメリカのバプテスト教会)からの篤い祈りと献金が、ありました。
遠く日本まで、日本の福音宣教のために遣わされてきた宣教師たちの働きがあったことを私たちは知っています。
今のように、決して簡単には海外に行くということができなかった時代に、遠い日本での福音宣教を具体的に思い描いて祈り、宣教師を送り出し、そして尊い献金を捧げた信徒たちがいたことを私たちは改めて覚えて感謝したいと思います。
そして私たちが受けた恵みを、その恵みを、私たちはまた、主の福音を必要としている他の人々へ受け渡していきたいと願います。
私たちが生きる地域での福音宣教にも私たちは仕え、また、ここからは遠くの地で福音宣教のために仕えている働き人をも覚えて、私たちは祈りと献金を捧げたいと願います。
キリストの福音に生かされ、キリストの福音を伝える、その働きを共に担うことができることを、私たちは喜ぼうではありませんか。
別府国際バプテスト教会
Beppu International Baptist Church
2025年11月22日土曜日
2025年11月15日土曜日
2025年11月16日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ書64章7節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
献金
聖句 使徒言行録9章1~19a節
祈祷
宣教 「あなたのなすべきことが知らされる」
祈祷
賛美 新生讃美歌339番 教会の基
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の『使徒言行録』を礼拝メッセージの聖書箇所として、今年度の初めから私たちは聞いてきております。今日は、その第9章からの箇所です。
サウロ(後のパウロ)が、キリストに従う者たちを激しく迫害していた迫害者から、キリストを信じ、キリストを熱心に伝道する伝道者として変えられるという、彼の劇的な回心の場面が今日の箇所には書かれています。
クリスチャンはそれぞれ、回心、つまりキリストを信じていない状態から、キリストを信じる者へと変えられた経験を持っています。
ある人は、家族や保護者がクリスチャンであり、幼い頃から教会へ通っていたという場合もあります。
そのような場合は、キリストを信じるようになったという変化(経緯)が、必ずしもはっきりしたものではない、(少なくとも、そのような自覚はあまりない)ということもあります。
しかし、特に私たちバプテスト教会では、自らの明確な希望と決断によって、公に信仰を告白し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになるという儀式を、大切にしています。
バプテスマは、ただの儀式(形だけのこと)ではなく、一人の信仰者の新たな誕生(回心)という、とても大きな意味がある出来事です。
私の場合は、バプテスマを受けたのは、今から26年前のことでした。
私はキリスト者の家庭で生まれ育ったわけではありません。
そんな私がキリスト者になり、牧師にまでなったという話を聞くと、多くの方が、「あなたがキリスト者になるきっかけ、牧師にまでなるきっかけは何だったのですか」と聞いてくださることがあります。
最初のきっかけは、やはり今の妻と出会って、クリスチャンであった彼女に教会に誘われ、聖書も読むように促されて、そして彼女によって熱心に祈られた、ということです。
ほかにも、教会の本当に多くの方々が私のために祈ってくださいました。
教会の交わりへと導かれ、聖書の御言葉に触れ、多くの方々に祈っていただくことを通して、私はキリストを信じる決心へと導かれました。
私の場合は、それは今日の箇所にあるように、ある時突然天から光が照らされ、復活のイエス様の声を直接聞くという劇的(瞬間的)な出来事ではありませんでした。
しかし、自分中心に歩んでいた自分の生き方が変えられ(方向転換させられ)、自分の中心に自分ではなく、イエス様をお迎えして生きようと、(少なくとも)決心をしたという意味で、私の場合も、それは大きな転機、回心であったと私は思います。
そしてそのように私が決断をすることができたのは、既にイエス・キリストが十字架にかかり私の罪を贖い、赦し、そして復活によって永遠の命と希望を与えてくださるという恵みの出来事が、神によってなされていたからです。
十字架と復活のイエス・キリストにより、私たちが救われるための道は既に用意されたのです。
そのことを私たちは信じて、神によって用意された救いの道、永遠の命へと続く希望の道を私たちは歩くことができる幸いを感謝したいと願います。
今日の箇所でサウロは、“この道に従う者”を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しよう“としていました。そのための許可を、彼は大祭司から受けたのです。
“この道に従う(あるいは、属する)者”とはイエス・キリストを信じ、キリストという道を歩んでいる人(信仰を実践している人)のことです。
男女を問わず、つまり誰であっても、とにかくその人がキリストを信じているというならばサウロは決して容赦しようとはしませんでした。
それぐらい徹底的な迫害の姿勢をサウロは持っていたということです。
サウロにとっては、キリストに従うという者は誰であっても許せない相手でした。その一人ひとりが実際にどんな人なのか、などは関係なかったのです。
この道に従う者、すなわちキリストに従うという人は誰であっても、彼にとっては全てが敵だったのです。
人間は怒りや憤りに駆られると、サウロが”クリスチャンは全員敵だ“と見なしたように、実際の(生身の)人間一人ひとりの存在や、それぞれの人柄や性格に心を向けるということができなくなります。
行き過ぎた怒りや憤りの感情は、そのように私たちから正常な判断を奪うのです。
私たちは、人間一人ひとりの存在、出会わされるひとり一人の心に、思いを寄せることができる、そのような心を大切にしたいと私は願います。
男女を問わず、とにかくキリストの道に従う者ならば誰でも捕まえる、という迫害の息を弾ませてダマスコへの道を急いでいたサウロに、天から光が照らされました。
サウロは地に倒れました。そして彼に語りかける声が聞こえました。
「サウル、サウル(サウロの呼び名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)
その声は、主イエス・キリストの声でした。主イエス・キリストが、“サウル、サウル”と彼の名前を読んでサウロに語りかけたのです。
サウロにとっては、すべてのクリスチャンが敵でした。クリスチャンは全員迫害すべき敵であり、彼らにはそれぞれ名前があることなど、サウロには関係なかったでしょう。
そんなサウロに、復活の主イエス・キリストは「サウル、サウル」と彼の名前で呼びかけたのです。名前を呼ぶ、ということは、その人の人格を認め、尊重するということです。
私たちの主なる神は、私たちひとり一人を名前で呼んでくださるお方です。神は私たちの名前を呼んでくださり、私たちひとり一人を神の前に特別な一人だと認めてくださるお方です。
神は私たちひとり一人を名前をもって読んでくださるお方であり、神は私たちの心の内までをすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方に知られている、大切なものとされていることを、私たちは大いに喜びましょう。
主の声は、サウロに、“起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる“Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”と告げました。(6節)
「あなたのなすべきことが知らされる」という主の言葉を、私は今日のメッセージの題ともいたしました。
それまでサウロは、自分の意志で、自分の怒りに基づいて、クリスチャンを激しく迫害していました。彼は自分ではそれを神に対して正しいことだ、とさえ思っていたでしょう。
しかし、そんなサウロに主は、“自分の考えや信念を中心にして生きることをやめ、自分に示される外からの声、神の御声に聞き従って生きる者になれ”と今日の箇所で、主は言われたのだと私は信じます。
それは、自分が中心ではなく、神は私に何をお望みなのか、神から示される、そして周りの人々を通しても示される神のみ旨を求めて、それに聞き従って生きる者になりなさい、と言う、私たちも向けられたメッセージです。
キリスト者は、自分の中心に自分をおくことを止めようと決心した者です。
自分中心ではなく、自分の心の中心に神に入ってきていただき、神に示されることに従って生きる者に、私達はなりたいと願います。
その時サウロが向かっていたダマスコに、アナニアというキリストの弟子がいました。彼に幻の中で主が現れて、サウロがいる家をたずねるように、と告げました。
アナニアにとって(アナニアだけでなく、多くのキリスト者にとって)サウロは、とんでもない人間でした。
サウロがキリストに従う者たちを激しく迫害していることは、広く知れ渡っていたのです。アナニアも当然そのことを知っていました。
13~14節のアナニアの言葉は、“あんな人のところへ行くのは絶対いやです”という彼の思いの表れだと私は思います。
しかし主は、サウロのことを、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにわたしが選んだ器であるThis man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 」と言われました。
この”器“(英語訳ではinstrument(道具))という言葉もとても大切です。私たちは神に選ばれた器(道具)です。神の言葉、神の愛、福音を頂き、そして他者に福音を伝える”器“です。
神は、私たちを神の福音を告げ広めるための器(道具)として用いられるのです。
私たちは神の”器“として、主導権をその器を用いられる神に明け渡して生きることを、神から期待されています。
私たちはそのような”器“として生きる用意があるでしょうか。神が私たちをお用いになって、神の福音、その良き知らせが伝えられるための器として、神に従って生きる用意があるでしょうか。
それとも自分自身に固執して、私たちは自分中心に生き続けるのでしょうか。
私たちは、神によって造られたものです。神によって造られた私たちは、神のご計画に基づいて、神のお定めになった大きな目的のために仕える”器“として生きる時に、最もその人らしく生きることができるのです。
ですから私たちは、神の”器“として生きる、そのような信仰者となる思いと決意を新たにしようではありませんか。
アナニアは、主の声に従い、主に言われた通りに、サウロのいる家にまで行きました。アナニアがサウロの上に手を置いて、彼は「兄弟サウル」と呼びかけました。
主に導かれて出会ったのでなければ、アナニアにとってサウロは“兄弟”(仲間)と呼びかけることができる相手ではありませんでした。
しかし主によって出会わされたサウロは、アナニアにとって今や自分の”兄弟“であったのです。私たちも、特に神によって出会わされた信仰の家族(友)者同士を”兄弟姉妹“と呼び合います。
私たちが同じ神を信じ、神によって互いに出会わされ、信仰の家族とされ、互いを”兄弟姉妹“と呼び合うことができるのは、何と幸いなことではないでしょうか。
最初に、わたしたちそれぞれがキリスト者になるきっかけ、ということを私はお話いたしました。私の場合は、申し上げましたように最初の直接のきっかけは妻との出会いでした。
そしてそれからも、導かれた教会で受け入れられて、そこで支えられて、愛されて、わがままで生意気だった私に教会の人たちの厚い祈りが注がれました。
神は私のために祈ってくれる、本当に多くの人たちと私を出会わせてくださいました。
その方々の祈りと願いが私をキリストを信じて生きる決心に導き、そして牧師として仕える決心へと導いてくれたと、私は信じています。
私たち教会が神から頂いた大きな祝福の恵み(賜物)であり、同時に重要な責務でもあることは、“祈り”です。
私たちは真の神に向かって祈ることができます。そして私たちは互いを覚えて、お互いのためにも祈り合うことができます。また、そうすることがキリスト者として責務でもあるのです。
サウロは今日の箇所で、劇的な回心を経験しますが、自分の上に手をおいて祈ってくれたアナニアは、それからもサウロにとって特別な人、信仰の友であり続けたでしょう。
私たちも、それぞれに信仰の友をいただき、また新たに誰かの信仰の友となりながら、他者のために祈る者となり、また互いに祈り合う関係の中にも生かされてまいりましょう。
私たちは、信仰による出会いの中で、互いに関わり、名前を呼び合い、祈り合うという神の家族同士であることを喜びながら生きることができます
そのような幸いな信仰を、私たちは生きていきたいと願います。
前奏
招詞 イザヤ書64章7節
賛美 新生讃美歌105番 くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番 イエスに導かれ
献金
聖句 使徒言行録9章1~19a節
祈祷
宣教 「あなたのなすべきことが知らされる」
祈祷
賛美 新生讃美歌339番 教会の基
頌栄 新生讃美歌676番
祝祷
後奏
歓迎・案内
新約聖書の『使徒言行録』を礼拝メッセージの聖書箇所として、今年度の初めから私たちは聞いてきております。今日は、その第9章からの箇所です。
サウロ(後のパウロ)が、キリストに従う者たちを激しく迫害していた迫害者から、キリストを信じ、キリストを熱心に伝道する伝道者として変えられるという、彼の劇的な回心の場面が今日の箇所には書かれています。
クリスチャンはそれぞれ、回心、つまりキリストを信じていない状態から、キリストを信じる者へと変えられた経験を持っています。
ある人は、家族や保護者がクリスチャンであり、幼い頃から教会へ通っていたという場合もあります。
そのような場合は、キリストを信じるようになったという変化(経緯)が、必ずしもはっきりしたものではない、(少なくとも、そのような自覚はあまりない)ということもあります。
しかし、特に私たちバプテスト教会では、自らの明確な希望と決断によって、公に信仰を告白し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになるという儀式を、大切にしています。
バプテスマは、ただの儀式(形だけのこと)ではなく、一人の信仰者の新たな誕生(回心)という、とても大きな意味がある出来事です。
私の場合は、バプテスマを受けたのは、今から26年前のことでした。
私はキリスト者の家庭で生まれ育ったわけではありません。
そんな私がキリスト者になり、牧師にまでなったという話を聞くと、多くの方が、「あなたがキリスト者になるきっかけ、牧師にまでなるきっかけは何だったのですか」と聞いてくださることがあります。
最初のきっかけは、やはり今の妻と出会って、クリスチャンであった彼女に教会に誘われ、聖書も読むように促されて、そして彼女によって熱心に祈られた、ということです。
ほかにも、教会の本当に多くの方々が私のために祈ってくださいました。
教会の交わりへと導かれ、聖書の御言葉に触れ、多くの方々に祈っていただくことを通して、私はキリストを信じる決心へと導かれました。
私の場合は、それは今日の箇所にあるように、ある時突然天から光が照らされ、復活のイエス様の声を直接聞くという劇的(瞬間的)な出来事ではありませんでした。
しかし、自分中心に歩んでいた自分の生き方が変えられ(方向転換させられ)、自分の中心に自分ではなく、イエス様をお迎えして生きようと、(少なくとも)決心をしたという意味で、私の場合も、それは大きな転機、回心であったと私は思います。
そしてそのように私が決断をすることができたのは、既にイエス・キリストが十字架にかかり私の罪を贖い、赦し、そして復活によって永遠の命と希望を与えてくださるという恵みの出来事が、神によってなされていたからです。
十字架と復活のイエス・キリストにより、私たちが救われるための道は既に用意されたのです。
そのことを私たちは信じて、神によって用意された救いの道、永遠の命へと続く希望の道を私たちは歩くことができる幸いを感謝したいと願います。
今日の箇所でサウロは、“この道に従う者”を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しよう“としていました。そのための許可を、彼は大祭司から受けたのです。
“この道に従う(あるいは、属する)者”とはイエス・キリストを信じ、キリストという道を歩んでいる人(信仰を実践している人)のことです。
男女を問わず、つまり誰であっても、とにかくその人がキリストを信じているというならばサウロは決して容赦しようとはしませんでした。
それぐらい徹底的な迫害の姿勢をサウロは持っていたということです。
サウロにとっては、キリストに従うという者は誰であっても許せない相手でした。その一人ひとりが実際にどんな人なのか、などは関係なかったのです。
この道に従う者、すなわちキリストに従うという人は誰であっても、彼にとっては全てが敵だったのです。
人間は怒りや憤りに駆られると、サウロが”クリスチャンは全員敵だ“と見なしたように、実際の(生身の)人間一人ひとりの存在や、それぞれの人柄や性格に心を向けるということができなくなります。
行き過ぎた怒りや憤りの感情は、そのように私たちから正常な判断を奪うのです。
私たちは、人間一人ひとりの存在、出会わされるひとり一人の心に、思いを寄せることができる、そのような心を大切にしたいと私は願います。
男女を問わず、とにかくキリストの道に従う者ならば誰でも捕まえる、という迫害の息を弾ませてダマスコへの道を急いでいたサウロに、天から光が照らされました。
サウロは地に倒れました。そして彼に語りかける声が聞こえました。
「サウル、サウル(サウロの呼び名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)
その声は、主イエス・キリストの声でした。主イエス・キリストが、“サウル、サウル”と彼の名前を読んでサウロに語りかけたのです。
サウロにとっては、すべてのクリスチャンが敵でした。クリスチャンは全員迫害すべき敵であり、彼らにはそれぞれ名前があることなど、サウロには関係なかったでしょう。
そんなサウロに、復活の主イエス・キリストは「サウル、サウル」と彼の名前で呼びかけたのです。名前を呼ぶ、ということは、その人の人格を認め、尊重するということです。
私たちの主なる神は、私たちひとり一人を名前で呼んでくださるお方です。神は私たちの名前を呼んでくださり、私たちひとり一人を神の前に特別な一人だと認めてくださるお方です。
神は私たちひとり一人を名前をもって読んでくださるお方であり、神は私たちの心の内までをすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方に知られている、大切なものとされていることを、私たちは大いに喜びましょう。
主の声は、サウロに、“起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる“Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”と告げました。(6節)
「あなたのなすべきことが知らされる」という主の言葉を、私は今日のメッセージの題ともいたしました。
それまでサウロは、自分の意志で、自分の怒りに基づいて、クリスチャンを激しく迫害していました。彼は自分ではそれを神に対して正しいことだ、とさえ思っていたでしょう。
しかし、そんなサウロに主は、“自分の考えや信念を中心にして生きることをやめ、自分に示される外からの声、神の御声に聞き従って生きる者になれ”と今日の箇所で、主は言われたのだと私は信じます。
それは、自分が中心ではなく、神は私に何をお望みなのか、神から示される、そして周りの人々を通しても示される神のみ旨を求めて、それに聞き従って生きる者になりなさい、と言う、私たちも向けられたメッセージです。
キリスト者は、自分の中心に自分をおくことを止めようと決心した者です。
自分中心ではなく、自分の心の中心に神に入ってきていただき、神に示されることに従って生きる者に、私達はなりたいと願います。
その時サウロが向かっていたダマスコに、アナニアというキリストの弟子がいました。彼に幻の中で主が現れて、サウロがいる家をたずねるように、と告げました。
アナニアにとって(アナニアだけでなく、多くのキリスト者にとって)サウロは、とんでもない人間でした。
サウロがキリストに従う者たちを激しく迫害していることは、広く知れ渡っていたのです。アナニアも当然そのことを知っていました。
13~14節のアナニアの言葉は、“あんな人のところへ行くのは絶対いやです”という彼の思いの表れだと私は思います。
しかし主は、サウロのことを、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにわたしが選んだ器であるThis man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 」と言われました。
この”器“(英語訳ではinstrument(道具))という言葉もとても大切です。私たちは神に選ばれた器(道具)です。神の言葉、神の愛、福音を頂き、そして他者に福音を伝える”器“です。
神は、私たちを神の福音を告げ広めるための器(道具)として用いられるのです。
私たちは神の”器“として、主導権をその器を用いられる神に明け渡して生きることを、神から期待されています。
私たちはそのような”器“として生きる用意があるでしょうか。神が私たちをお用いになって、神の福音、その良き知らせが伝えられるための器として、神に従って生きる用意があるでしょうか。
それとも自分自身に固執して、私たちは自分中心に生き続けるのでしょうか。
私たちは、神によって造られたものです。神によって造られた私たちは、神のご計画に基づいて、神のお定めになった大きな目的のために仕える”器“として生きる時に、最もその人らしく生きることができるのです。
ですから私たちは、神の”器“として生きる、そのような信仰者となる思いと決意を新たにしようではありませんか。
アナニアは、主の声に従い、主に言われた通りに、サウロのいる家にまで行きました。アナニアがサウロの上に手を置いて、彼は「兄弟サウル」と呼びかけました。
主に導かれて出会ったのでなければ、アナニアにとってサウロは“兄弟”(仲間)と呼びかけることができる相手ではありませんでした。
しかし主によって出会わされたサウロは、アナニアにとって今や自分の”兄弟“であったのです。私たちも、特に神によって出会わされた信仰の家族(友)者同士を”兄弟姉妹“と呼び合います。
私たちが同じ神を信じ、神によって互いに出会わされ、信仰の家族とされ、互いを”兄弟姉妹“と呼び合うことができるのは、何と幸いなことではないでしょうか。
最初に、わたしたちそれぞれがキリスト者になるきっかけ、ということを私はお話いたしました。私の場合は、申し上げましたように最初の直接のきっかけは妻との出会いでした。
そしてそれからも、導かれた教会で受け入れられて、そこで支えられて、愛されて、わがままで生意気だった私に教会の人たちの厚い祈りが注がれました。
神は私のために祈ってくれる、本当に多くの人たちと私を出会わせてくださいました。
その方々の祈りと願いが私をキリストを信じて生きる決心に導き、そして牧師として仕える決心へと導いてくれたと、私は信じています。
私たち教会が神から頂いた大きな祝福の恵み(賜物)であり、同時に重要な責務でもあることは、“祈り”です。
私たちは真の神に向かって祈ることができます。そして私たちは互いを覚えて、お互いのためにも祈り合うことができます。また、そうすることがキリスト者として責務でもあるのです。
サウロは今日の箇所で、劇的な回心を経験しますが、自分の上に手をおいて祈ってくれたアナニアは、それからもサウロにとって特別な人、信仰の友であり続けたでしょう。
私たちも、それぞれに信仰の友をいただき、また新たに誰かの信仰の友となりながら、他者のために祈る者となり、また互いに祈り合う関係の中にも生かされてまいりましょう。
私たちは、信仰による出会いの中で、互いに関わり、名前を呼び合い、祈り合うという神の家族同士であることを喜びながら生きることができます
そのような幸いな信仰を、私たちは生きていきたいと願います。
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