2025年7月13日日曜日

2025年7月13日 主日礼拝

前奏
招詞  ナホム書1章7節
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
主の祈り
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
献金
聖句 使徒言行録3章17~26節
祈祷
宣教 「あなたがた一人一人を祝福にあずからせるために」
祈祷
賛美 新生讃美歌 104番 雨を降り注ぎ
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内


 今日の聖書箇所では、キリストの使徒(弟子)であったペトロが、人々に向かって話をしています。
今日の箇所の前までの場面で、生まれつき足の不自由だった人が癒されて、立ち上がり躍り上がって、神を賛美するようになりました。
神殿で、いつも人から施しを乞うていた、その足が不自由だった人は、ペトロから伝えられた“イエス・キリストの名”によって、足が癒されて立ちあがることができるようになりました。
その足の不自由な人を以前から知っていた人々は、まるでペトロが自分の力でその人を癒したかのように思いました。しかし、ペトロはそのことをはっきりと否定しました。
 その人にイエス様の名を伝えたのは自分だったのですから、ペトロは、少しは自分を誇ろうと思えばできたかもしれません。
 しかしペトロは、その足の不自由な人が立ち上がり、躍り上がるほどまでに変えられた出来事で、自分のことを誇ろうとはしませんでした。
 ペトロは人々に“自分の力や人の信心が、その足の不自由だった人を立ち上がらせたのではない(なぜそのように、わたしたちを見つめるのですか)”、と言いました。(12節)

 ペトロがそこではっきりと伝えたのは、“その人を立ち上がらせた、強くしたのは、イエス・キリストの名、キリストの力であり、恵みである”ということでした。
 キリストを信じ、キリストの力と恵によって生きている信仰者は、キリストの名こそが、本当の力の源泉であることを知っています。
そしてキリストの力と恵みによって生きている信仰者は、決して自分を誇ろうとはしないのです。
キリスト者は、神の名が崇められ、神の名だけが高められることを願うからです。神の名が崇められることこそが、キリスト者にとっての幸いであるからです。
 私たちの教会でも、神の名が高められるように、私たちの礼拝、賛美、祈りが、私たちの信仰が、自分自身を誇るものではなく、イエス・キリストの主なる神を崇め、神への信仰と感謝を表すものとなるようにと、私は願います。
 今日の箇所で、ペトロのメッセージ(説教)はその核心部分へと入っていきます。イエス・キリストがどのようなお方で、何をなさったのか、について彼は語るのです。
 ペトロは今日の前の箇所からすでに、「あなたがたは、命への導き手である方(キリスト)を殺してしまった(しかし、神はその方を復活させてくださった)」と言っています(15節)。

 “命への導き手であり神であるお方を、あなたがたが殺した”、というのです。
ペトロは、イエス様が捕らえられた時、イエス様のことを“あんな人のことは知らない”と言って、イエス様の一番弟子でありながら、イエス様のことを三度も否定しました。
 ですから、彼が言う“あなたがたが、そのお方を殺した”の中に、ペトロは自分自身のことも含めていたことは確かです。
 そのように、今の私たちも、十字架にかけられて死んだイエス・キリストの死を、私たち自身のこととして受け止めていくようにと、促されます。
 今日の箇所でペトロは次のように言っています。今日の箇所の最初の17節をお読みします。

17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。

 “あなたがたが(わたしたちが)キリストを十字架につけたのは、無知のためであった。知らなかったから、あなたがたはあのようなことをしたのだ”、とペトロは言います。
 彼らは何を知らなかったのでしょうか。
彼らは、イエス・キリストが神から遣わされたお方であったことを、知りませんでした。
そしてまた、彼ら自身の中に赦されねばならない深い罪がある、ということを知りませんでした(もしくは、それらを認めようとしませんでした)。
イエス様ご自身が、十字架につけられた時、十字架の上で、こうおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(ルカ福音書23章34節)

 イエス様を十字架につけた人たちは、また私たちすべての者は、そのお方にこそ真の命があり、そのお方こそが、私たちを罪の奴隷状態から解き放ち私たちを自由にしてくださるお方であることを、知りませんでした。
 そのような無知のために、その大切なことを知らずにいたために、イエス様を人々は十字架につけてしまいました。
 しかし、神は人のそのような悪をも、驚くほどの恵みの出来事へと変えてくださったのです。

 18節をお読みします。
 18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。

 旧約聖書の預言者(神の言葉を預かり伝えた人たち)の時代から、“メシア(キリスト、救い主)は苦しみを受ける”、ということが言われていました。
 旧約聖書『イザヤ書』53章には、”主の僕(しもべ)の苦難と死“について、詳しく書かれています。主の僕であるお方が、人々の病、痛みを背負って、苦しまれる、と言うのです。
 なぜ主の僕であるお方、すなわちイエス・キリストが十字架にかけられて死なねばならなかったのか、について知るには、イザヤ書53章の言葉を聞くことが欠かせません。

今日ここでは、イザヤ53章4~5節を共に聞きたいと思います。

彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

皆さんそれぞれ、イザヤ書53章全体の言葉と、キリストの十字架とを重ね合わせて、改めて心にとめる時を、持っていただきたいと私は願います。
イエス様が十字架にかかって死なれたのは、それは私たちすべての者の罪を背負い、また私たちの病と苦しみを、イエス様がその身に担ってくださるためでした。
 私たちの最大の無知とは、そのような憐れみ深い真の神を知らない、ということです。
または真の神が知らされてもそれを認めようとしない、神の主権と権威を認めないという、私たちの頑なさです。
 そして、私たちは、神の権威を認めようとしないその頑なさを、自分で解決することはできません。
わたしたちの頑なさ、傲慢さという罪は、神によって変えていただくしかしかないのです。

 旧約聖書の『エゼキエル書』11章19~20節で、エゼキエルという預言者(神の言葉を預かる人)を通して、神が次のように告げました。

19わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
20彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

これは、自分たちの国を追われ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民たちに、エゼキエルを通して語られた言葉です。
神がやがてイスラエルの民たちを、囚われの地から故国イスラエルへ連れ戻し、その時、神は彼らに新しい霊を授け、彼らの中から石の心(頑なな心)を除き、肉の心(やわらかい、愛の心という意味でしょう)を与える、と言うのです。
神が新しい霊を私たちに与えてくださる時、石の心(頑なな心)がキリストの御愛によって取り除かれ、肉の心、やわらかい愛の心がキリストによって私たちに与えられるのです。
 イエス・キリストを心の中にお迎えし、キリストを信じることにより、神は私たちの頑なな心を砕き、自分の罪を自覚させ、キリストによって罪赦されたことを感謝し喜ぶように、導いてくださいます。
私たちはキリストによって、頑なな石の心を変えていただき、砕かれて謙虚になり、主の言葉を守り、御言葉に従って生きる神の民となることができるのです。
キリストによる新しい霊をいただき、心が変えられ、神の民となることができる幸いを私たちは覚えたいと願います。

“あなたがたは無知のために、あのようなことをした(キリストを十字架につけた)”とペトロは言いました。
人々は、キリストが神から遣わされた方であること、そして彼ら自身の罪について知りませんでした。
そしてもう一つ、今日の箇所で伝えられる、彼らが知らなかったこと、無知であったことがあります。

25節をお読みします。旧約聖書『創世記』の中で、イスラエル民族の信仰の父と言われたアブラハムに与えられた言葉です。

『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』

続けて、今日の箇所最後の節の26節もお読みします。

26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

これらの言葉から分かることは、神が私たち“すべての民族に”、“あなたがた一人一人に”祝福を与えようとしてくださっている、ということです。
 25節の「あなたから生まれる者」とはキリストのことであり、26節の「御自分の僕」と言われるお方も、キリストのことです。
 神は、“キリストを通してこの地上のすべての民族が、祝福を受けるように、そして“あなたがた一人一人が祝福を受けるように”と願ってくださったのです。
神は、私たち一人一人のことを気にかけてくださっているお方です。”みんな一緒に、ざくっとまとめて“ではなく、私たち一人一人が神の前にかけがえのない存在とされていることを、聖書は伝えます。
神は私たち一人一人を祝福したいと願ってくださっています。私たちが生きていること、私たちの存在を神ご自身がそれほどまでに喜んでくださっている、ということです。
(神を知らない、認めない)悪の状態から離れさせ、神を認めて、キリストを信じることによって、神の豊かな祝福を頂くこと、それが神が私たち一人一人に持っておられるご計画です。
 神は天地のすべてをお造りになった創造者です。この広い世界、また大宇宙の中で、人間一人がどれほど小さな存在であるかは、私たちは簡単に想像することができます。
 しかし、そんなに小さな私たち一人一人を、神は祝福しようとしてくださっていることが分かれば、その時私たちを生きる力と希望を頂くことができます。

 次の聖書の言葉は、常に真実です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)

 私たちは、キリストを通して、神の祝福を豊かにいただいていきましょう。神の祝福の中で、私たちの命を喜びましょう。
私たちの痛み、苦しみを、キリストが十字架の上で担ってくださった(今も担ってくださっていることを)私たちは感謝いたしましょう。
 キリストによって支えられ、キリストを信じキリストに従う、祝福の信仰生活を私たちは送っていきたいと願います。