2025年4月19日土曜日

2025年4月20日 主日イースター礼拝 

前奏
招詞 詩編18篇17節
賛美 新生讃美歌240番
      救いの主はハレルヤ
主の祈り
賛美 新生讃美歌230番(月の讃美歌)
         丘の上に立てる十字架
献金
特別賛美
聖句 マルコによる福音書 16章1~8節
祈祷
宣教  “婦人たちの恐れ”
祈祷
賛美 新生讃美歌241番
       この日主イエスは復活された
頌栄  新生讃美歌 674番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 今日私たちは、イースター(復活祭)の礼拝をささげています。
イースターでは、イエス・キリストが死からよみがえったこと、キリストの復活を私たちは思い起こし、キリストの復活を記念し、お祝いします。
 イースター礼拝の今日の聖書箇所は、新約聖書の『マルコによる福音書』16章1~8節、マルコ福音書の最後の章です。キリストの復活について、聖書の御言葉から、私たちは共に聞いてまいりましょう。
 その日は安息日が終わった後でした。安息日は土曜日でした。
安息日は、神が「あなたがたは六日間働いて、週の七日目(土曜日)は、何の仕事もせず休みなさい。七日目を聖なる日としなさい」とイスラエルの人々に命令したことによって、定められました。
 その安息日が終わり、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという三人の女性たちが、イエス様が葬られた墓へ向かったということが、今日の箇所では描かれています。

 彼女たちは安息日が終わるのをずっと待っていました。なぜでしょうか。彼女たちは、死んで墓に葬られたイエス様の遺体に、油を塗りに行こうとしていたのです。
  イエス様の遺体に、油(香油ともいわれる、非常に高価な香水と考えてよいです)を塗って、イエス様のお体を綺麗にして差し上げたい、と彼女たちは心から願っていました。
 その日は安息日である土曜日の次の日の朝早く、つまりそれは日曜日の早朝でした。
 イエス様は金曜日に十字架の上で死んだので、今日の箇所のその日はイエス様が死んで葬られてから、既に三日目になっていました。
 なぜ彼女たちが、イエス様が死んで三日目に油を、その遺体に塗りに行こうとしたのでしょうか?
 それはイエス様が金曜日に死んだとき、安息日が近づいていたのでイエス様のお体が素早く葬られてしまい、丁寧な葬りをすることができなかったからです。
安息日は、いかなる仕事をすることも許されていなかったので、死体を埋葬することさえ、許されなかったようです。
 ですから、今日の箇所の婦人たちは、安息日が終わり、仕事をすることが許される日になった時、すぐにイエス様が葬られた墓へと行きました。

イエス様のお体に、二日前にはすることができなかった、高価な油でそのお体をふいて差し上げる、ということを彼女たちはしようとしたのです。
 ここで女性たちがイエス様の遺体に油を塗りに行こうとしたことは大変な勇気を必要とすることでした。
イエス様は、自らを神と言って神を冒涜した者として、また自らを王と名乗ってローマ帝国の権威に反抗した者として、十字架の上で処刑されました。
聖書は、イエス・キリストの弟子たち(男性たち)が、イエス様が捕まったときには、全員イエス様を見捨てて逃げてしまったことを伝えています。彼らは怖くて逃げだしてしまったのです。
 イエス様の一番弟子であったペトロは、“お前もあの人(イエス)の仲間だっただろう”と人から言われた時、“そんな人は知らない”と言って、はっきりとイエス様のことを(三度も)知らない、と言い切って否定しました。
 イエス様が葬られた後も、ペトロ達弟子たちは恐ろしくて、自分たちの家に閉じこもっていました。
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とヨハネ福音書20章19節には書かれています。

しかし、男性の弟子たちがそのように恐れの状態の中にあった時、今日の箇所の女性たちはイエス様の墓へと向かったのです。
 男性の弟子たち、イエス様と最も身近について仕えていた者たちは、皆逃げ去ってしまっていました。
 しかし、当時のユダヤ社会では男性よりも劣る存在と見なされ差別的な扱いを受けていた女性たちが、イエス様の墓へと急いだ、そのような勇気ある行動をとったことは、大変意義のあることです。
 人の社会では低い者とされていた女性たちが、主なる神には重んじられ、主の復活の知らせを最初に聞く者たちとして選ばれた、ということです。
 主なる神は、弱く小さくされた者に目をとめてくださり、そのような人たちをこそ大きくお用いになるのです。
 しかし「主のお体に、綺麗に香油を塗って差し上げたい。きちんとした葬りをして、主をお見送りしたい」と願っていた彼女たちに、一つ大きな問題がありました。
 それは、墓の入り口を、大きくて重い石がふさいでいたことです。
 当時のユダヤの墓は、岩をくり抜いて洞窟のようにした形のお墓が一般的でした。そして墓の入り口は、遺体が納められると、重い石でふさがれたのです。
 マリア達三人は、墓へ行く途中、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。
 彼女たちだけでは、決してその重い石を動かすことはできませんでした。そして彼女たちは、“誰が助けてくれるのか”、も分からないままでした。
しかし、彼女たちが目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。(4節)
 今日の箇所が最初に私たちに伝えることは、これです。イエス様の復活の出来事は、私たちに「神には何でもおできになる」ということを先ず伝えます、ということです。

 神にできないことは何もないのです。信仰に突き動かされて、私たちが一歩を踏み出す時、私たちを妨げるものは何もない、ということです。
 今様々な、それぞれの事情や心配事で、不安を抱えた方々が皆さんの中にもいらっしゃると思います。
 「だれがあの重い石を転がしてくれるだろうか」というのと似た不安を抱えている方がいらっしゃるでしょうか。
 “もう自分の力ではどうにもならない。誰が助けてくれるのだろう”と心配で不安で、心細く思っておられる方がおられるでしょうか。
そのような不安を抱えた私たちに聖書は伝えます。「心配しなくてよい」。
復活の主イエス・キリストにとって不可能なことは何もないのです。キリストを復活させた天の父なる神には不可能なことは何もないのです。
死にさえも打ち勝ったキリストの御力が私たちに与えられているから大丈夫だ、とイースターの出来事は今も繰り返し私たちに伝えます。その力強い知らせを私たちは信じていきましょう。

 彼女たちが墓の中に入ると、そこには白い衣を着た若者が座っていました。その若者は、神の使い、天使であったと思われます。
その若者は次のようにいいました。6節から7節をお読みします。
6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

主イエス・キリストは復活されたのです。
“死んだ人は墓の中にずっといる”という常識を覆し、また“死んだあのお方に油を塗って差し上げよう”と願った女性たちの思いをも覆して、主は復活したのです。
イエス様の直弟子であった男性の弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまっていました。
イエス様と関係する者であることが知れたら、捕まるかもしれない、という恐れの中、イエス様の墓へ行った女性たちの勇気は大したものであったと言えます。
それでも彼女たちは、やはり人間の常識の範囲の中で行動していました。彼女たちにとってイエス様はもう死んだお方だったのです。

ですから彼女たちはイエス様に最後の葬りをしようと願いました。
“イエス様はもう死んだお方として、その方の死を受け入れよう、これからはイエス様なしで自分たちだけで生きて行こう”、という決心をも、彼女たちはするつもりだったと思います。
しかしイエス様は復活したのです。イエス様は死んだままではおられなかったのです。主の復活は神が定めた出来事であり、私たちに与えられる最大の希望の出来事です。
 イエス様は人の罪のため、私たち人の罪のために十字架にかかって死なれました。私たちのためにイエス様は死なれたのですから、イエス様を死に追いやったのは、今の私たち一人ひとりでもあると言えます。
 それは受け入れるには大変厳しく、苦しいことですが、キリスト者の信仰にとって大変重要なことです。

 後に、ペトロが、イエス様の死後、そしてイエス様の復活と昇天の後、聖霊により力を受けて次のように人々に伝えました。
 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
(使徒言行録2章23~24節)

 悪の力はイエス・キリストを死んだままにしておこうとしました。そして、私たち人間の諦(あきら)めの心、あるいは私たちの常識は、イエス・キリストを死んだままにしておこうとするでしょう。
 ”死んだ人が生き返るはずがない“、”そんな非常識な話のどこに希望があるのだ“と私たちの常識はまず反応するかもしれません。
 そのような否定的な思いでなくても、“イエス様は生きておられる間に、確かに素晴らしい数々の業をなさった。しかし、その人は死んだ。私たちは、キリストが死んだ事実を受け入れ、あとは自分自身で生きていくべきだ”と人は願うかもしれません。
しかし、神のご計画はそうではありませんでした。イエス様は死からよみがえり、弟子たちに先立ってガリラヤへ行き、そこで彼らを待っておられるのです。
主はよみがえりました。主は今も私たちに先立って行き、そしてまた私たちと一緒に歩み、生きてくださいます。
ですから、私たちはイエス様をただ普通の人間のように、既に死んだ者として死んだままにはしておかず、イエス様は復活した、主はよみがえられたと言う聖書が伝えるその真実を信じて、キリストに従っていきましょう。
“さあ行きなさい”、と女性たちに告げられたように、今の私たちも復活の主に出会うことによって、“行きなさい”と主が言われる道へ、私たちそれぞれが行くべき道へ遣わされていきましょう。

 しかし、今日の最後の節である8節を見ると、婦人たちは墓を出て逃げ去りました。
 彼女たちが目撃したことが、彼女たちのそれまでの経験をはるかに超える衝撃的なことであったので、彼女たちは大変な恐れに包まれたのです。
 彼女たちはあまりに恐ろしくて、誰にも何も言わなかった、と書かれています。
 しかし、彼女たちはその恐れを、やがて復活の主イエス・キリストの愛の力によって克服し、彼女たちは主の復活について弟子たちや他の人たちに伝えたと、私は信じます。
 そして彼女たちの恐れは、大きな喜び、信仰への希望へと後に変えられていったと私は信じます。
  復活の主イエス・キリストに出会う時、私たちはそれまでと違う新しい生き方、新しい道を歩みだすようにと促されます。

その行く道ははっきりと先までは見通すことができず、最初私たちは不安に思うかもしれません。これからどうなるのだろう。誰が助けてくれるのだろう、と色々なことが依然として心配になるかもしれません。
 しかし心配はいらないのです。主が復活されたからです。この世の何ものも、私たちを完全に挫き不安や絶望の中においたままにすることはできません。
 主イエス・キリストが死からよみがえり、復活のキリストが今も生きて私たちと共におられるからです。キリストが私たちに先立って進んでいかれるからです。
 復活の主が行かれるその道を、私たちもその信仰の道を復活の主と共に歩んでまいりましょう。