2025年4月27日 主日礼拝
前奏
招詞 詩編37篇7節a
賛美 新生讃美歌 27番 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
主の晩餐
賛美 新生讃美歌230番 丘の上に立てる十字架
献金
聖句 使徒言行録1章1~5節
祈祷
宣教 「父の約束を待ちなさい」
祈祷
賛美 新生讃美歌 81番 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌674番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今日から新約聖書の『使徒言行録』を初めから連続して、日曜日の礼拝メッセージとして、私たちは共に聞いていきます。(特別礼拝などでは、他の聖書箇所からも語られます)。
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書で始まります。福音書ではイエス・キリストが人として生きておられた間になさったこと、イエス様の教えたそのお言葉が記録されています。
そして福音書は、イエス様が十字架にかかって死んだこと、そして復活したことまでを伝えます。
イエス様の復活を記念しお祝いする、イースター(復活祭)礼拝を私たちは先週捧げました。
私たちの主イエス・キリストは復活しました。世の何ものも、どんな悪の力も闇の力も、イエス様を完全に打ち倒すことはできませんでした。
神の子イエス・キリストは死んだままではいなかったのです。イエス様は復活し、神の無限の力と希望とを私たちに示してくださいました。
そして主の復活は、そこからイエス・キリストの福音宣教が新たな、世界的な広がりを見せる大きなきっかけともなりました。
『使徒言行録』には、“使徒”と呼ばれたキリストの弟子たちが、イエス様が人として地上では彼らと共におられなくなって以降、主の復活後、いかにしてキリストの福音を伝道していったのかが、詳しく書かれています。
使徒たちは力強く、“イエス・キリストが神である”、という福音の知らせを人々に述べ伝えるようになりました。彼らは迫害の恐れの中でも、キリストの福音を述べ伝えることをやめませんでした。
使徒言行録が伝える、(使徒たちを通して語られた)神の力あるメッセージを私たちは聞いていきましょう。
使徒言行録の筆者は、ルカによる福音書を書いたルカであると言われます。今日の最初の節に、『テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著わして』と書かれています。その第一巻が、ルカによる福音書なのです。
ですから「使徒言行録」は、「ルカによる福音書」の続編です。
使徒言行録は「テオフィロさまTheophilus,」という呼びかけで始まります。ルカによる福音書でも1章3節に「敬愛するテオフィロさま most excellent (NIV)」と書かれています。
テオフィロという人について詳しいことは何も分かりません。一説には、テオフィロはローマ帝国の高官の一人であったと言われます。彼はイエス・キリストを信じる者となった人だったのだとも考えられます。
「テオフィロさま」と書かれることで、形式上は「ルカ福音書」や「使徒言行録」は、高官のテオフィロに個人的に充てて書かれた体裁となっています。
しかしその内容は、一個人へ向けた使信という枠をはるかに超え、救い主イエス・キリストと、キリストの弟子たちによる福音宣教の働き全体を網羅した壮大な信仰物語であり伝道記録と言ってよい内容です。
テオフィロという名前は、「神の愛する者 whom God loves」、あるいは「神の友」a friend of Godという意味です。このことには、大きな意味があると私は思います。
テオフィロに向けて書かれたということは、ルカ福音書や使徒言行録が、(そして実は聖書全体もが)、「神の愛する者」、そして「神の友」である全ての人々へ向けて書かれた書物である、ということをも意味するからです。
「神の愛する者」、そして「神の友」とは、神を愛し神を信じるすべての人たちのことです。
ルカという福音書記者、そして他の多くの筆者たちの手を通して、神は御自身が愛する者へ向かって、ご自身の友に向かって、神様からの愛の書簡を聖書という形で書き残してくださったのです。
神様が、どれほどの愛と慈しみを込めて、聖書の言葉を(人間の筆者たちを通して)書き残してくださったのか、を思うと、私たちは本当に嬉しく、また感謝の心が沸き上がってきます。
聖書を通して今も神のメッセージを聞き、それを読むこともできる幸いを私たちは心から感謝したいと思います。
今日の3節に次のように書かれています。
3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
この3節には、復活のイエス様がなさったこと、そして今も私たちキリスト教会が託されている大切な務めが、凝縮されています。
それは、“主は生きておられる”ということを人々に示し、神の国について人々に語り続ける、という使命です。
十字架で死に、そして復活した主イエス・キリストは、数々の証拠をもって弟子たちに“わたしは生きている”ということをお示しになられました。
“主は生きておられる”のです。主は死んだままではおられなかったのです。これは今も決して変わることのない、神に関する真実です。私たちの主なる神は、“生きておられる神”なのです。
そして主が生きておられるので、その主が私たちと共にいてくださるので、私たちも生きることができるのです。
私たちは生きる上で様々な困難や苦しみがあります。しかし、私たちは決して一人ではないのです。
十字架の上で、またその十字架へと向かう道程でも、本当に苦しみぬかれた主が、私たちの困難や苦しみ、悲しみを共に担ってくださいます。
ですから私たちは、主が共におられると知っているので、その主は本当に今も生きておられる方だと信じるので、苦難の中でも生きる力が与えられます。
イエス様が私たちと共にいてくださるとは、具体的には、主は今もそのお言葉をもって私たちと共にいてくださり、お言葉をもって私たちを励ましてくださる、ということです。
復活したイエス様は40日にわたって使徒たちに現われ、御自分が生きておられることを示し、そして神の国について彼らに語り続けられました。
イエス様は十字架にかけられて死ぬ前までと同じように、神の国について使徒たちに、そして人々に語り続けられたのです。
イエス様は、大切なことはきっと何度も繰り返して使徒たち語り続けられたのでしょう。紙に書き留めるということも簡単には出来なかった時代に、使徒たちは必死になってイエス様の話を聞き続けたと思います。
語り続けること、そしてまた聞き続けること、必死になって主の言葉をいただこうとすること、これは今の私たちにはその熱心さが欠けているものかもしれません。
なぜなら、今はいつでも聖書が読めますし、インターネットなどを通して聖書メッセージを聞こうと思えば、いつでも多くのメッセージに触れること、聞くことができるからです。
しかし、そのような今の時代だからこそ、私たちは神の言葉を熱心に、必死に聞く、“神が今語っておられる”という緊張感をもって御言葉を聞くことを大切にしたいと願います。
聖書の御言葉全体を、私たちは必死になって聞く、神が与えてくださるメッセージを私たちは喜びつつ、緊張感を持ちつつ、頂いていこうではありませんか。
私たちが体のために食べる食べ物の場合、バランスよく栄養のある食事をすることが大切です。同様に、聖書の御言葉もバランスよく頂くことが大切です。
自分の好きな食べ物ばかり、甘い食べ物ばかり、あるいは塩辛い食べ物ばかり食べる、と言った偏った食生活は健康を害します。
聖書の御言葉を私たちが頂くときも、耳に心地の良い言葉、自分にとって理解しやすい言葉、すぐに同意できる言葉だけを選んで聞いたりしていては、霊的な栄養が偏ってしまいます。
聖書の御言葉全体を、自分にとっては難しい箇所や厳しい箇所、“納得できない”と思われる箇所も含めて、私たちは神の言葉としていただいていきましょう。
そして私たちは聖書を、独りよがりの方法で読むのでなく、教会での御言葉の分かち合いと祈り合いの中で読み続けること、聞き続けることも大切にしていきましょう。
今日の4節~5節で、イエス様はこう言っておられます。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
これから弟子たちは、イエス・キリストの福音を世に伝える大切な働きをしていこうという時に立っていました。
そこでイエス様は使徒たちに「エルサレムに留まって、父が約束されたものを待ちなさい」と言われたのです。
“父の約束されたもの”とは、神の霊である聖霊のことです。
ルカによる福音書24章49節で、復活したイエス様が弟子たちにこう言っています。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
復活した主を見て、弟子たちは力づけられ、彼らはその時自分たちの力で伝道に出かけよう、と熱い気持ちになっていたかもしれません。
しかしそこでイエス様は“父の約束された聖霊が降るまで待て”と言ったのです。彼らの福音宣教の働きは聖霊の力と導きがなければ、けっしてなすことができない働きであったからです。
イエス様は、「福音宣教の働きは、決して人間が自分だけの能力や経験だけで行うものではない。聖霊の導きがまずなければ、それは決してできないことなのだ」ということを、今の私たちにも伝えているのはないでしょうか。
イエス様は「ヨハネは水でバプテスマを授けた。しかし、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言っています。
ヨハネとは、バプテスマの(洗礼者)ヨハネという人のことで、彼はイエス様にもバプテスマを授けた人でした。ヨハネは水を用いて、人々にバプテスマを授けました。
しかしバプテスマを通して、その信仰者に本当に信仰が与えられる働きをしてくださるのは、神の送ってくださる聖霊なのです。
バプテスマを授ける人間や、あるいはバプテスマに用いられる水や、バプテスマの儀式そのものに何か神秘的な力があるのではありません。
バプテスマを通して本当に働かれるのは、神の霊である聖霊であり、聖霊こそが、人に“イエスは主”という信仰告白をさせ、そして聖霊こそが、福音宣教の働きの真の原動力となるのです。
私たちの信仰のあらゆる面において、今は目には見えないキリストが、聖霊を通して私たちを導いてくださいます。
信仰生活の大切な局面で、私たちは常に聖霊の導きを共に祈り求め、聖霊に従うという決意を新たにいたしましょう。
神の霊に信頼をし、神の霊である聖霊が豊かに私たちの教会の中で、その働きを豊かになしてくださいますように、とも私たちは祈りを合わせましょう。
神が“留まれ”というのならば留まります、そして神が“行け”と言われるのならば参ります、そのような、神に聞き従う従順な信仰をも持ちたいと、私たちは改めて願い、祈りましょう。