2025年7月27日 主日礼拝
前奏
招詞 イザヤ6:3~4
賛美 新生讃美歌 538番 神はわがやぐら
主の祈り
賛美 新生讃美歌 278番 わが心は歌わん
主の晩餐
献金
聖句 使徒言行録4章23~31節
祈祷
宣教 「大胆に神の御言葉を語る」
祈祷
賛美 新生讃美歌 134番 生命のみことば たえにくすし
頌栄 新生讃美歌671番
祝祷
後奏
歓迎・案内
今お読みいただきました今日の聖書箇所(『使徒言行録』4章23~31節)には、“キリスト教会とは、このような場所なのだな”と、私たちに改めて思い起こさせることが書かれています。
ペトロとヨハネの二人が、釈放されて、彼らの仲間のところへ行く(戻る)、というところから今日の箇所は始まります。
イエス・キリストが十字架にかけられて死に、そして復活し、そして“弟子たちに聖霊が降って彼らは力を受ける”ことを約束してくださった後、イエス・キリストは天へと上って行かれました。
そしてその後、イエス様の弟子であったペトロとヨハネの二人がエルサレムの神殿で、「イエスの名」によって、生まれつき足の不自由だった人を癒すという出来事がおきました。
その出来事がきっかけとなり、ペトロとヨハネはユダヤの権力者たちによって捕らえられ、牢に入れられ、そして尋問されることになりました。
ペトロとヨハネは、「イエスの名が、その足の不自由だった人を癒した。イエス・キリストは殺されたが、復活した。そしてキリストの名によってのみ、人は救われる」と言って、彼らはイエス・キリストの救いを伝え始めました。
イエス・キリストの復活や、イエス・キリストの名による救いなどは、ユダヤ教の権力者たち(議員や祭司、長老、律法学者たちなど)にしてみれば、到底認めることが出来ないことでした。
彼らユダヤの権力者たちから見れば、イエスというその男は“神を冒涜した者”でした。だからこそ、彼らは、そのイエスをローマの当局に訴えて、十字架刑によってイエス様を亡き者にしたのです。
今日の最初の23節をもう一度お読みします。
23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。
ペトロとヨハネの二人は、釈放されて、彼らの仲間のところへ行きました。彼らには、帰る場所がありました。
彼らにとって、“自分の仲間”(英語の聖書では“彼ら自身の人々”)と言える人たちがいたのです。
ペトロとヨハネが、釈放された後に自分たちの仲間のところへ、最初に行ったという様子から、私たちは、私たちの教会を思い起こすことができます。
私達も、それぞれの場所での日常の生活を送り、そして教会へと戻ってきます。
教会で私たちは神にお会いし(祈りと御言葉を通して私たちは神に出会います)、そして私たちの信仰の仲間とも、私たちは教会で顔を合わせます(出会います)。
日常の生活で苦しいことがあった時も、帰ってくることができる場所、自分にとって「仲間(自分自身の人たち)」に会うことができる場所、それが教会です。
私たちの教会が、皆さんひとり一人にとって「戻ってくることができる場所」、そして「自分の仲間、家族がいる場所」となればと私は願います。
自分たちの仲間のところへ戻ったペトロとヨハネは、“祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した”と書かれています。
「今後、イエスの名によって教えたり、キリストが復活したとか言ったりすることは許さない」と権力者たちから厳しく命じられた現実を、ペトロとヨハネは全て彼らに話したのです。
彼らは、彼らに降りかかった厳しい現実の状況、迫害されるほどの危険が自分たちに迫っていることを、仲間たちに全て話し、皆で一緒にその厳しい現実に向き合おうとしました。
そこで彼らは、まず何をしたのでしょうか。
24節をお読みします。
24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。
彼らは、厳しい現実の状況を聞き、まず“心を一つにして、神に向かって声を上げて祈った”のです。困難な状況を、彼らはまず神に委ねようとしたのです。
急いで何らかの解決策を自分たちで考えよう、とする前に、“まず祈ろう”という思いが彼らには与えられていたのです。
私たちも、もちろん自分たちでも最善を尽くすために努力をしますが、“まず祈ろう”、“神に状況を委ねよう”、“御心を、私たちで一緒に求めてみよう”という信仰姿勢を、大切にしたいと願います。
そして、彼らは“声をあげて言った(祈った)”と書かれています。
彼らは皆で一斉に声に出して祈ったかもしれませんが、ここではおそらく、ペトロかヨハネが、彼らを代表して声に出して祈っていたのではないかと、思われます。
キリスト教会では、声に出して他の人に聞こえるようにして祈ることがあります。
誰かが代表して祈る時は、その人が声に出して祈り、そしてその祈りに合わせて他の人も一緒に祈ります。
祈りは個人的に心の中で祈ることもできます。個人としての祈りも大切です。
しかし、代表の人が祈る祈りを聞くことで、そこにいる私たちは一緒に、同じことについて、祈ることができます。
そのようにして皆で一緒に祈ることも、とても大切であり、またそのためには、私たちの信仰が本当に一致することが求められます。
イエス様が次のようにおっしゃっておられます。マタイによる福音書18章19~20節です。
19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
私たちは、イエス様のこのお言葉を、今こそ強く信じなくてはなりません。どんな願い事であれ、わたしたちのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父なる神はそれをかなえてくださるのです。
これは、“どんな願い事でもかなう”という途方もない約束の言葉です。しかし、私たちは「あなたがたちのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」という部分を、真剣に聞く必要があります。
キリストを信じる者同士、信仰の家族、兄弟姉妹同士が、一緒になって心を一つにして何かを求めるなら、父なる神はそれをかなえてくださるのです。
そのように、私たちが、自分以外の他者と祈りにおいて(信仰において)本当に一つになることは、言うほど簡単ではないでしょう。私たちそれぞれ願うことや、信仰的な立場や考えも違う場合があるからです。
それでも私たちは、特に同じ教会に集わされた私たちは“心を一つにした共通の祈り”を献げることができるような、信仰による関係性を作っていかねばなりません。
そうしてこそ、“どんな願い事でも、天の父なる神がかなえてくださる”という約束が成就するからです。
イエス様の約束が実現するために、私たちは一致して祈ることができる信仰の関係性と絆を作っていきたいと私たちは願います。
今日の箇所での祈りの最初の言葉に目を留めましょう。
「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。(24節)
聖書が伝える神は、この世界のすべてのものをお造りになった神です。
この世のすべてのもの、そこに生きる命あるもの全ては神によって造られ、神はすべてを治めておられる(支配しておられる)お方です。
そのようなお方に私たちは祈ることが出来る、ということを今日の箇所の祈りは伝えています。
そしてそれほど偉大な神にできないことは何もない、神はすべてをご存じである、という信頼をもって神に祈ることへと、今日の箇所の祈りの言葉は私たちを促します。
この世界のすべてのものの造り主、真の創造者へ私たちは祈ることができる、と言う驚きの恵みを私たちは改めて確信いたしましょう。
今日の箇所の29節の言葉をお読みします。
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
祭司長や長老たちからの脅しは大変厳しいものでした。それはまさに迫害の訪れでした。今後キリストの名を宣教することは、本当に命がけになる、という状況でした。
ペトロ達は、その厳しい状況を神に委ねました。“今こそ彼らの脅しに目を留めてください”とは、“権力者たちからの脅し(脅威)も、すべて神であるあなたの支配の下にあるのです”という確信の表明です。
それは“いくら彼ら(権力者)が脅そうとも、彼らもあなた(神の)の支配のもとにあるのですから、私たちが彼らを恐れることがないように、お守りください”という祈りでしょう。
そして厳しい現実の中でも、権力者たちの脅しの中でも、大胆に御言葉を語ることができる強さをあなたが私達に与えてください、と彼らは神に祈ったのです。
困難な中でも、大胆に御言葉を語ることができる力、その勇気は神から与えられなければ、他の何ものからも得られるものではない(自分たち自身の内から出て来る力ではない)、と彼らは分かっていたのです。
私達も、大胆に御言葉を語ることができる力、イエス様の教えに従って生きる力、信仰者として神に信頼して生きる力、それらいずれも神ご自身から私たちに与えられますように、と心から祈り求めてまいりましょう。
神から与えられた大胆な力によって御言葉を教会が語る時、その御言葉は確かな力をもって、人を励まし、人を動かすものとなっていくのです。
今日の箇所の最後の31節をお読みします。
31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
彼らの祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動きました。
彼らが集まっていた場所が揺れ動いたということは、祈りに参加していた一人ひとりの心が、彼らの信仰が大きく揺れ動かされた(感動した)ということでもあるでしょう。
彼らは聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り始めました。彼らは祈り求める心で一致し、その祈りが神に聞かれたのです。そして彼らが願った通り、大胆に神の言葉を彼らは語りだしました。
彼らは力を受けて、その場所から遣わされていったはずです。そしてそれぞれの場で、神の言葉を大胆に語った(語り続けた)のでしょう。
私達の生活、信仰生活の中でも、様々な危機が訪れることがあります。
そのような危機的な時にも(むしろ危機的な時こそ)私たちは祈りをもって一致し、互いに支え合い、励まし合いましょう。そのような信仰の絆を私達は築いていきましょう。
心合わせて祈り合うことができる信仰の仲間と出会うことができる教会として、そんな仲間が教会で増えていくことを私たちは期待しつつ、祈りつつ私たちは信仰生活を送ってまいりましょう。