2025年9月7日 主日礼拝
前奏
招詞 歴代誌上17章26~27節
賛美 新生讃美歌4番 来たりて歌え
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
祈りの時
証し
献金
聖句 使徒言行録6章1~7節
祈祷
宣教 「御言葉の奉仕」
祈祷
賛美 新生讃美歌506番 主と主のことばに
頌栄 新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内
本日の聖書箇所である使徒言行録6章1節から7節までの箇所には、キリスト者として、またキリスト教会として考えさせられること、教えられることが、実に多く語られています。
約2000年前の初期のキリスト教会の内部で、どのような問題が起きていたのかを、今日の箇所ははっきりと描き出しています。
初期のキリスト教会の信者たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害を受けていました。
ペトロをはじめとする、使徒と言われた12人のキリストの弟子たちは、イエス・キリストの名によって神の国の福音と救いを伝え始めました。
そして彼らを信じ、キリストを信じる弟子となる人たちが増えていきました。
それに対してユダヤ教の祭司や議員たち、権力者たちは、使徒たちに伝道活動をやめさせようとして、彼らを牢に入れたり、鞭打ったりして、なんとかして彼らの働きを妨害しようとしました。
しかし使徒たちはそれにも屈しないで、今日の箇所の直前の箇所では、彼らは鞭を打たれ宣教を禁じられながらも、使徒たちは“イエスの名のために、辱めを受けるほどの者となったことを喜んだ”と書かれています(使徒5章41節)。
イエス・キリストのために、神の働きをすることによって迫害されるのならば、それは十字架の上で人の罪のために死なれたイエス様に少しでも近づけるということだ、と彼らは思って、そのことを彼らは喜んだのです。
それは、この世界の普通の価値観とは全く違う生き方です。それは、困難や苦しみの中に、キリストと共にある幸いを見い出すという、信仰を通した新しい生き方です。
それはまた、自分を迫害する者を憎んだり反撃したりするのではなくて、キリストによる愛と憐れみによって、自分を迫害する者のためにさえ祈り、彼らの救いをも願って福音を語り続ける、という生き方でもあったと私は考えます。
使徒たち、他の弟子たちの働きによって、キリストに従う弟子の数は増えていきました。
今日の箇所では、弟子の数が増えてきたことによって、ある問題が起こったことが書かれています。
弟子の数が増えることで、迫害という外部からの問題だけでなく、彼ら教会の内部からも問題が起きたことを、今日の箇所は伝えているのです。
キリスト教会は人間の集まりです。罪のない人は誰もいない以上、教会も罪ある人間の集まりです。
人が集まるところには必ず何らかの問題や軋轢、衝突が起こります。それは避けられないということを、聖書ははっきりと伝えます。
今日の箇所で、“ギリシア語を話すユダヤ人”と“ヘブライ語を話すユダヤ人”と言われる人たちが登場します。
彼らはどちらもユダヤ人でしたが、ギリシア語を話すユダヤ人とは、イスラエル以外の国や地域で育ち、当時の地中海世界の共通語であったギリシア語を母語として身につけたユダヤ人たちでした。
古くはアッシリア帝国や、バビロン帝国、そしてイエス様の時代にはローマ帝国にイスラエルは支配されたことで、多くのユダヤ人たちがイスラエルを離れて外国に住むように(住まわされるように)なっていました。
そのように離散させられて諸外国に住むようになった彼らの中から、祖先の故国であるイスラエルに戻ってきた人たちがいました。それがギリシア語を話すユダヤ人と今日の箇所で言及されている人たちです。
一方ヘブライ語を話すユダヤ人とは、イスラエルの地で生まれ育ったユダヤ人であり、彼らの母語はヘブライ語でした。いわば、彼らは生粋のユダヤ人であったと言ってよいでしょう。
彼らは同じユダヤ人でしたが、第一言語が異なること、生まれ育った文化や環境も異なることから、彼らの間には色々な問題などが起きていたようです。
今日の箇所では、ギリシア語を話すユダヤ人たちのやもめ(夫をなくした女性たち)が、日々の食べ物の分配のことで不利益を受けていた、と描かれます。
立場的にはヘブライ語を話すユダヤ人たちのほうが優位な立場にあったのではないかと思われます。
彼らは同じユダヤ人でしたが、母語や生まれ育った文化、環境が違う、という違いのほうに彼らの関心は向けられていたのかもしれません。それが原因となって問題が生じたのでしょう。
私たちも、お互いの間の共通点を見いだすよりも、互いに違う部分、相容れない部分のほうに目が行きやすく、それが原因で他者との間に問題や軋轢が生じることも多いと思います。
私たちは、互いの間の共通点、互いの良い点を見いだすことによって(違いに目を向け、それを非難することよりも)、互いにより良い関係を築いていきたいと願います。
しかし、今日の箇所で描かれるように、苦情が表明されるということは決して悪いことばかりではありません。
誰かが不平や不満を感じている、実際に不利益があるのならば、それらが明らかにされることは、問題の解決のために必要なことです。
不満や疑問があっても、それを口にすることができず、力の弱い人たちが我慢し続けなければならないことが教会にあるのならば、それは決して良いことではありません。
あくまで互いに配慮と礼儀が求められますが、問題があれば、それを隠したり見ぬふりをしたりするのではなく、問題を明るみにだして、問題に向き合い解決を目指して、正直に共に祈り合える教会を私たちは目指したと思います。
弟子たちはその時、その問題にどのように対処したのでしょうか。12人の弟子、使徒たちが言った言葉を聞いてみましょう。
2~3節の言葉です。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊“と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」
12人の使徒たちは、自分たち(12使徒たち)が一番大切にすべき務めは何か、についてまず思いを巡らせました。
そして彼らが一番大切にしなくてはならない務め、使徒たちが神と教会から託された務めは、“神の言葉への奉仕”、“祈りと御言葉の奉仕”だと、彼らは思い至ったのです。
食事の分配も信者たちの生活に関わる大切な務めでした。しかし使徒たちがそのような職務に専念して、祈りと御言葉の奉仕という彼らの最も大切な働きが犠牲になるのならば、それは教会全体にとってよいことではない、ということです。
神は、私たちひとり一人に、それぞれ異なる賜物を与えてくださいました。その賜物に優劣はありません。
祈りと御言葉への奉仕も、信者の集まりの中での食事の分配と言う働きも、どちらもイエス・キリストへの信仰を土台としている限り、神の国のための尊い働きです。
私たちも教会で、互いに与えられた賜物を認め合い、尊重し合いながら、また自分一人で色々なことができるわけではないことも認めつつ、互いに支え合って、互いの賜物が生かされながら主の教会を建て上げていきたいと願います。
2節に、“12人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めた”と書かれています。弟子がすべて集められたとは、今の私たちの教会で言えば、言わば“教会総会”が開かれたということです。
その事柄が教会全体に関係する大切なことであったので、弟子が全員集められ、全員参加による話し合いがもたれたのです。
私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会では、教会にとって大切なことは、教会員全員による祈りと話し合いによって決めるということを、とても大切にしています。
早く決めようと思えば、あるいはより効果的な決断を下そうと思えば、誰か優秀な人、あるいその事柄に専門的に通じた人だけで決めたほうが早いでしょう。
皆の意見を聞いて話し合って、異なる意見を纏めていくのは大変忍耐を要する過程であり、時間もかかります。
しかしそのような方法を通して、一人ひとりの思いや考えができるだけ尊重されること、その過程を通して神の御心を見い出すことを、私たちは大切にしています。
使徒たちは、集まった弟子たちに“あなたがたが7人を選び、霊と知恵に満ちた評判の人を選びなさい”と言いました。
一同はその提案に賛成し、そして彼ら弟子たち自身によって、信仰と聖霊に満ちている人々が7人選ばれました。
使徒たちは祈って彼ら7人の上に手を置きました。選ばれた7人が、誠実な信仰をもって、託された務めを果たしていくことができるように、使徒たちは彼らのために祈ったのです。
選んであとは彼らに任せておしまい、ではなく、使徒たちは選ばれた者たちのために祈り、それからも彼らを励まし続け、彼らのために祈り続けたと私は思います。
私(酒井)も別府国際バプテスト教会の牧師に就任した時、就任式で教会の皆さんに私の上に手を置いて祈っていただきました。
その祈りは、私が牧師としての務め、教会の皆様から託された御言葉の取り次ぎという働きに、聖霊の導きが豊かに与えられ、私がその働きに専念することができるように、という皆さんの願いが表された祈りでした。
今日の箇所を通して、私は私自身が皆さんに手をおいて祈っていただいた、あの時のことを鮮明に思い出します。
御言葉の宣教、また祈りという牧師にとっての第一義的な働きの大切さを改めて私は思い起こしています。御言葉の取り次ぎに私が専念できますように、皆さんには祈っていただきたいと願います。
先ほど申し上げたように、人が集まる以上、教会であっても(むしろ教会だからこそ)常に問題は起きます。しかし、問題が起きないことが大切なのではありません。
大切なことは、問題が起きたとき、それに対してどのように向き合うのか、教会に連なる一人ひとりが信仰をもって互いに祈り、互いに配慮しあって、愛をもって、その問題に向き合うことができるかが大切です。
今日の箇所では、食事の配給での公平さが保たれるため、その働きのために7人の“知恵と聖霊に満ちた人”が選ばれました。
彼らは私たちとは違う、何か特別な人たちだったのでしょうか。そうではありません。神は、今の私たちにも、聖霊と知恵とを豊かに与えてくださいます。
私たちが聖霊と知恵を与えてくださるように神に願うならば、その時神は必ず聖霊と知恵とを私たちに豊かに与えてくださいます。
私たちはキリストの弟子として、それぞれが与えられた果たすべき務めがあります。その務めに私たちが忠実であることができるように、イエス様に願い求めてまいりましょう。
そして祈りと御言葉、この二つは使徒や、現在で言えば牧師や伝道者だけでなく、全てのキリスト者とキリスト教会にとって最も大切な働きです。
祈りとは心を打ち明けて神と霊的に会話をすること、そして御言葉とは聖書の言葉であり、礼拝で語られる宣教メッセージです。
祈りと御言葉こそが、私たちの本当の霊の糧であり、祈りと御言葉への奉仕こそはキリスト教会だけに託された尊い務めです。
祈りと御言葉という、キリスト教会だけが頂いている宝物であり、また賜物を大切にしながら、その務めに専念をする、御言葉に奉仕するキリスト教会で私たちはあり続けましょう。