2025年8月30日土曜日

2025年8月31日 主日礼拝

前奏
招詞  コヘレトの言葉3章14節
賛美  新生讃美歌618番  主のためにわれは生く
主の祈り
賛美  新生讃美歌510番 主の言葉の
献金
聖句  使徒言行録5章27~42節
祈祷
宣教  「神から出たものであれば」
祈祷
賛美  新生讃美歌520番 人生の海のあらしに
頌栄  新生讃美歌672番
祝祷
後奏
歓迎・案内

キリスト者(クリスチャン)とは、キリストに従う者です。いつもキリストに従って生きることはできないとしても、キリスト者は、神であるキリストに従って生きることを決意している者です。
私たちは何かに従って生きていきます。それを私たちが意識しているか、していないかに関わらず、私たちは何らかの考え、自分の経験、自分の希望、他の人からの指示や助言といったものに従って、生きています。
キリスト者も、自分自身の考えや希望、また他の人からの助言などにも、もちろん耳を傾けます。
しかしキリスト者は、神であるキリストの教え、聖書の御言葉を最も大切な指針と基準として生きていきます。
 もし自分自身の指針、あるいは希望と、神が言われることが違う場合には、キリスト者は神に従って生きます。

キリスト者はそう決意しているはずです。しかし、それは簡単なことではありません。
 今日の聖書箇所で、ペトロと他のキリストの弟子たち(使徒と言われた、初期の教会の中心的メンバーたち)が「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(29節)。
 彼らのその姿から、神に従って生きること、神の御心を求めて生きること、について今日私たちは共に考えたいと思います。
今日の前の箇所(先週の礼拝メッセージで私たちが聞いた場面)で、使徒たちは捕らえられて牢に入れられていました。
イエス・キリストの名によって話してはならない、と命じられていたのに、彼らはキリストの福音を宣教し続けていたので、彼らは捕まってしまったのです。
しかし主の天使が来て牢の戸を開け、彼らを外へ連れ出しました。その時、主の天使が彼らに言いました。

「行って、神殿の境内に立ち、命の言葉(神の言葉)を残らず民衆に告げなさい」(20節)。
その声に従い、使徒たちは神殿の境内で、再び人々を教えていました。
そして彼らは再び捕らえられ、最高法院(当時のユダヤ社会の最高裁判所のようなもの)の中に立たされた、というのが今日の聖書箇所です。
最高法院は、当時のユダヤ社会の最高の権威であり、最も力のある機関(組織)であったと言ってよいでしょう。
大祭司が使徒たちに言います。

「あの名(イエス・キリストの名)によって教えてはならないと、厳しく命じたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(28節)

そこでペトロと他の使徒たちは答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません

相当な力と権威をもった最高法院で、しかも大祭司という宗教的に一番高い地位にある人から尋問されても、ペトロ達はそのように堂々と答えることができました。
ペトロたちをそのように堂々と振舞わせたのは、彼ら自身の強さだったのでしょうか。そうではなく、それは十字架と復活のイエス・キリストでした。

31節をお読みします。ペトロたちの言葉です。

31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

“この方(him)”とは、イエス・キリストです。なぜキリストが十字架で死に、そして復活したのか。
それは、イスラエル全体、最後にはすべての人々に罪を自覚させ、神に立ち返って、人々が罪赦されて、救われるためだ、とペトロは言うのです。
その確信が、大祭司を前にしても、ペトロに堂々と語らせる力となっていたのです。
十字架と復活のキリストに救われた者は、“人間に従うよりは、神に従わねばならない”という確信をもって、何とかその通りに生きようと努力をする者になるのです。
人間に従うのではなく神に従う、とは、人のことを軽視したり無視したりすることではありません。それは、人間よりも主、神を恐れるということです。
“私たちの命の源であり、この世界のすべてをお造りになったお方である神をこそ、神のみを私たちは恐れなさい”、と聖書は私たちに命じます。
神への恐れを正しく持つと、私たちは人に従うのではなく神に従う、という生き方がだんだんとできるようになると、私は信じます。

 私たちは神を恐れ敬うことを知ると、自分以外の他者をも敬って、大切な存在として向き合うことができるようになります。
そして、もし神が私たちに指し示すことと、人や、私たちの周りの社会が私たちに指し示すことが異なる場合には、キリスト者として神に従うことができますようにと、私たちは願います。
私たち信仰者一人ひとりが、そして教会が、“人間に聞き従うよりも、神に聞き従うこと”の意味を考え続け、それを実践していくことができるようにと私たちは願います。

 今日の箇所で、そのような使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうとしました(33節)。
しかし、その時本当に思わぬところ(人)から、使徒たちへの助けの手が差し伸べられたのです。
その時、最高法院の中で立ち上がって、議員たち全員に冷静な判断を呼び掛けたのは、外ならぬその最高法院のメンバーの一人でした。
彼は、”民衆全体から尊敬されていた律法の教師“で、ファリサイ派に属するガマリエルという教師でした。
普通に考えれば、彼(ガマリエル)は最高法院の議員たちの側の人であり、使徒たちとは対立する立場の人であったはずです。
しかしガマリエルは、大祭司や他の議員たちとは違い、非常に公平な、知恵のある判断をして、“あの者たち(使徒)の取り扱いは慎重にすべきだ”と主張しました。
 ガマリエルは過去にあった出来事を議員たちに思い起こさせて、それらを教訓として、冷静に判断をしよう、と呼びかけます。
最初の出来事は、“かつてテウダという人が自分のことを何か偉い者のように言って立ち上がり、400人ぐらいの人が彼に従った”という騒乱のことでした。
その時テウダは殺され、従っていた者たちも皆散り散りになった、と言います。
次の出来事は、ガリラヤのユダという人が民衆を率いて起こした反乱です。結局、彼(ユダ)も滅び、彼につき従った者たちも皆、ちりぢりにさせられた、という出来事でした。
 そしてガマリエルは、最高法院の議員たちに、“今回、彼ら(ペトロと使徒たち)からは手を引きなさい。何もするな”と言いました。

 38節~39節の彼の言葉を聞きましょう。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

 このような判断をすることができたガマリエルと言う人はすごい人物であったと、私は思います。
 ガマリエルにこのような知恵ある判断と言葉を与えたのは、まさに神であったと言ってよいと思います。
 ガマリエルの言葉は、神から私たちへの大切な教えをいくつも含んでいると私は考えます。私が思わされた、その中の二つを申し上げます。
 一つは、やはり大切なことは何事も慎重に、神の御心を求めて祈り、決して早急に判断したり行動したりしない、ということです。
 「何とかしなくては」という焦りや、自分自身の感情(怒りの感情など)だけに大きく突き動かされて行動しない、ということです。
 重要であればあるほど、慎重に、感情的な判断をするのではなく、祈り、考え、神の御心を求めることによって最適な判断をくだすことができるように、私たちは務めましょう。
そしてもう一つは、“それが人間から出たものならば自滅する。それが神から出たものならば、それを滅ぼすことはできない”ということです。
ガマリエルには、ペトロたちの働きが神から出たものだ、という思いがあったのかもしれません。

いずれにしても彼は、“もしそれが人間から出たものであれば、自滅する。決してそれは成功することはない。しかし、もしそれが神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは決してできない。神が彼らと共におられるのだから”と考えたのです。
 このような知恵の言葉、冷静で信仰的な判断が、使徒たちとは本来反対の立場の者の中から出たとは、驚きです。
この時ペトロと他の使徒たちは、敵の側によって助けられた、と言ってよいと私は思います。これも、神のなさる不思議な業です。
神はこのように様々な人を用いて、ご自身のご計画を進められることがあります。神は色々な人を通して語ることがあるのです。
ですから私たちは、自分以外の色々な人の声や意見、自分とは異なる考えや意見を持つ人々の声、互いの声に耳を傾け合うことを大切にいたしましょう。
 ガマリエルの意見は聞き入れられましたが、しかし使徒たちは釈放される前に、鞭で打たれて、そして“イエスの名によって話してはならない”と再び命令されました。

 40節を見ますと、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
 そして彼らはそれからも境内で、またあちらこちらの家でメシア(救い主)・イエスについて、その福音を告げ知らせ続けた、という描写で今日の箇所は終わります。
鞭打たれたことは彼らには痛く、またそれは屈辱でもあったはずです。
しかし、体の痛みや屈辱を上回る喜びが彼らには与えられました。それはキリストの福音を告げ知らせる、という喜びでした。
今、直接的な迫害は受けていない私たちには、この箇所は理解しにくいかと、思います。
しかし、現代の信仰者である私たちも、キリスト者としての信仰と、私たちが生きる社会、世の中の風潮や考え方が対立することで、辱めとまでは言えなくても、不都合な思いや、嫌な思いをすることがあるかもしれません。
 私たちは、私たちが生きる社会、世界のためにも祈ります。
そしてキリストによって救われた私たちは、やはり“神からでたもの”を大切にした信仰に根ざした生き方を、世が求める風潮や常識よりも大切にしていきたいと願います。
 初期の頃のキリスト信者たち、ペトロや他の使徒たちが、迫害の中でも、神や他の人々の助けを得ながら福音を語り続けたその歴史の上に、今の私たちも生かされています。
 信仰を持っていることで経験する困難や苦難があっても、そのために嫌な思いをすることがあっても、“それが神から出たものであれば、決して滅ぼされない”という希望と確信をもって、私たちは信仰を生きていきたいと願います。