2025年9月27日土曜日

2025年9月28日 主日礼拝

前奏
招詞  詩編105篇7節
賛美  新生讃美歌507番 主の手に委ねて
主の祈り
賛美 新生讃美歌321番 あだに世をば過ごし
主の晩餐
献金
聖句  使徒言行録7章1~16節
祈祷
宣教  「私たちの父アブラハム」
祈祷
賛美  新生讃美歌255番 わが罪のために
頌栄  新生讃美歌673番
祝祷
後奏
歓迎・案内

 古代の人たちは、地球を中心にして、他の星や宇宙が地球の周りを回転していると考えていました。それは“天動説”と言われます。
私たちは科学的発見や研究の結果、天動説ではなく地動説(地球が太陽の周りをまわって動いている)が正しいということを知るようになりました。
しかし、私たち人の生き方においては、私たちは依然として天動説(自分の周りを世界が動いている)、あるいは”天動説であるべきだ“という考え方に留まっているのではないか、と私は思います。
 私たちは普通、自分に起こる出来事を自分中心の視点から見ます。それは、周りの状況を、自分を基準として、自分が望む通り(正しいと思う通り)に進行しているかどうかによって判断するということです。

しかしもし、この私は世界の中心ではないということを知れば(認めれば)、私たちが私たちの身の周りの出来事、また周りの人を見る目や、人への接し方も大きく変わってくるのではないかと思います。
自分が世界の中心ではないとすれば、何が世界の中心であるのでしょうか。聖書は、この世界のすべては、あるお方によって目的をもって創造された(作られた)と伝えます。
そうであれば、世界を目的をもってお造りになったそのお方、創造主である神が世界の中心である、と考えるのが自然です。
聖書は、世界をお造りになった創造主である神が、人となって生まれて来られたと伝えます。神が人となって来られたお方がイエス・キリストです。

イエス・キリストは、罪を犯して神から離れて、神のことが分からなくなってしまった私たち人間に、神を示すために世に生まれてきてくださいました。
キリストを通して私たちが神の深い御愛を知ることができるように、キリストは世に来てくださったのです。
聖書は私たちに、わたしたちの世界はまさに神中心であること、神が人となったイエス・キリストが中心であることを認めて、キリストの神を信じて生きる生き方へと私たちを招き入れます。
自分が自分の中心でなく、神を中心にして私たちの周りの状況や世界を見ることができるようになると、ある変化が生まれます。
それは、どんな状況も、それが自分にとって不利な、たとえ危機的な状況であっても、より大きな善い目的(神の目的)のために、その機会を用いることができるようになるということです。
 
今日の聖書箇所は使徒言行録7章の初めの部分です。キリストを信じ、キリストを伝道して生きる者となったステファノが、ユダヤの最高法院で訴えられています。
今日の箇所から私たちは、自分にとって危機的であり不利な状況、大勢の敵に囲まれている状況の中でも、神の希望に生きる人の姿を知らされます。
今日の聖書箇所でステファノの語った言葉から、神の言葉を私たちは共に聞いてまいりましょう。
大祭司が、ステファノに尋ねました。「訴えのとおりか」。ステファノは「神を冒瀆している」という容疑で、ユダヤ人たちから訴えられていたのです。
「この男は、偉大な預言者であるモーセと、神をも冒涜している」、「聖なる場所(神殿)と律法(聖書の言葉)を冒瀆している」と言って、他のユダヤ人たちはステファノを訴えていました。
しかし、彼らの訴えは偽証(うそ)でした。それは根拠のない訴えでした。ユダヤ人たちはとにかくステファノのことが憎くて、嘘を言ってでも彼を訴えて有罪判決を下そうとしていたのです。

ステファノにとってはまさに危機的な状況です。自分の無実を証明しなければ命が危うくなるのです。
しかしステファノは「訴えの通りか」と聞かれて、どのように答えたのでしょうか。そこでステファノは自分自身を弁護しようとは全くしませんでした。
ステファノは、その危機的な状況を「神を述べ伝える絶好の機会」と考えたのです。
 ステファノは、神が自分と共にいてくださることを確信していたのでしょう。だから、(自分が望むよりも)神が自分に望まれるように語りたいと、ステファノは願ったのです。
 自分を訴える大祭司や他の人たちに、ステファノは「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と呼びかけました。
自分を訴える者たちを自分の“敵”と見なすのではなく、ステファノは彼らを“わたしの兄弟であり父”と呼びました。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は言われました。そんなことが可能なのか(無理ではないか)、と私たちは思うと思います。
しかし、イエス様のそのお言葉を確かに実践して生きた信仰者の姿が、今日の箇所でのステファノを通して描かれています。
 自分の命を狙う敵である人々を、イエス・キリストへの信仰によって“わたしの兄弟であり、またわたしの父である皆さん”とみなすことがステファノにはできたのです。
 “信仰を通して、他者同士が神の家族になることができる、敵さえも神の家族同士になることができる”という信仰の恵みを、ステファノの言葉と姿は表しています。
 いきなり“敵を愛せ”と言われても、私たちはたじろくでしょう。しかし、その言葉を信じ、その通りに生きた信仰者が確かにいたし、きっと今この時代にもいる、と私たちは信じてよいと私は思います。

 そして私たちも、少しでもそのような者になるように、少なくとも努力をすることは可能であると、私たちは思わされます。
 ステファノは、聖書が伝える神の物語、神がいかにしてイスラエル民族を選び救われたのかを、旧約聖書『創世記』に記されているアブラハムの物語から語り始めます。
 ユダヤ人たちにとって“信仰の父”と言われたアブラハムに、最初に与えられた主の言葉(命令)は、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」というものでした。
 『創世記』12章に、主なる神がアブラハムに現われて、そのように言われたことが書かれています。
自分の慣れ親しんだ土地や家族を離れ、わたし(神)が示す土地に行きなさい。あなたが行くべき道を示す、あなたの主は私だ、と主はアブラハムに言われたのです。
生きるということは、確かに、先の見えない、行先不明の旅を続けるようなものです。時には自分にとって慣れた場所、家族を離れなくてはならない時もあります。
しかし、これから先どうなるのか分からなくても、またどこへ行くのかその場所や方向がはっきりとは分からなくても、その度に道を指し示してくださる神が私たちにはおられます。
それが神がアブラハムに与えた約束であり、同じ神を信じる者に今も与えられている約束なのです。

 私たちが聖書の御言葉を読み(御言葉に聞き)、祈り、神を信頼して心を開くことによって、私たちが行くべき道を指し示してくださる神がおられることを、私たちは聖書の御言葉を通して信じていきましょう。
 9節からは、アブラハムからみればひ孫であるヨセフのことが語られます。
 創世記の中でも多くの章が、このヨセフに関する物語に費やされています。
 ヨセフは、父のヤコブに溺愛され、そのために兄たちから疎まれました。(ヨセフ自身にも、兄たちから疎まれるような問題がありました)9節の“この族長たち”とは、ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちのことです。
 ヨセフの兄たちは、ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしてしまいます。弟を売り飛ばすとは、彼らがどれほどヨセフを憎んでいたのかが、分かります。
しかし神はそれからもヨセフを離れず、ヨセフはエジプトで王のファラオに用いられて、エジプトの国全体を司る大臣にまで上り詰めました。
 ヨセフに関する話は『創世記』に詳しく記されていますので、ぜひ皆さんご自分でも創世記をお読みいただければと願います。
 ヨセフが兄たちからの妬みを買ったのには、ヨセフ自身の未熟で傲慢な性格や行動にも原因がありました。しかしそれでもヨセフが辿った道には多くの苦難がありました。

しかし、9節に書かれている通り、神はヨセフを離れることはありませんでした。
 そのように、聖書が伝える神、天地創造の神は、私たちを決して離れない、私たちを見放すことがない神です。イエス・キリストの神は、“いつも私たちとともにいてくださる神”です。
神がおられるので、私たちは苦難、困難、悩みの中にあっても、平安をもって生きることができるのです。
どんな苦難や困難、悩みよりも、はるかに大きな神が私たちと共におられるので、私たちは神に信頼することで、安心できるのです。
 ヨセフはやがて兄たちと、父ヤコブとも再会を果たすことになります。父と兄弟たちと、その他親族一同がカナンの地からエジプトへ来て、そこで住むようになりました。
 しかし、父ヤコブが死ぬと、兄たちは恐れました。自分のことを売りとばしたことに、まだ恨みを持ったヨセフが自分たちに復讐するのではないかと言って彼らは恐れたのです。
 しかし、そのように恐れた兄たちにヨセフは次のように言いました。

創世記50章19~20節
 「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 自分のことだけを考えれば、ヨセフは兄たちに復讐できる立場にあり、また彼にはそうしてもよい理由もあったと言ってもよいでしょう。
しかしヨセフは自分のことよりも、神の大きな御計画、人がたくらむ悪をも善に変えることができる神の視点から、自分と兄たちの間に起きたことを見ることが出来るようになっていたのです。
 ヨセフは、兄たちが自分をエジプトに売り渡したことや、それを引き起こした自分にも原因があったことなどのすべてを神は用いて、それによって多くの民の命を救ってくださった、と言うことに気づいたのです。
ヨセフは自分中心ではなく、神の視点から自分の人生、そして自分の兄弟たちを、世界を見ることができるようになっていたのです。
 イエス・キリストが世に来られて、人を救う神の知らせ(福音)について人々に知らせました。しかし人々は妬みや恨みのため、キリストを十字架につけて殺してしまいました。
しかし、神はそんな人間の悪をも善に変えることができるお方です。キリストの十字架は、私たち人の罪を救う偉大な出来事となったのです。

ステファノは、自分たちの信仰の父であるアブラハムにまで立ちかえることによって、神が人間を救う救いのご計画は、自分たちが生まれるずっと以前から既に始まっていたことを、語りました。
その救いのご計画に、今の私たちも入れられています。
私たちには、とてもつらく、苦しい、困難な経験や出来事が与えられることがあります。
しかしたとえ何があっても、救いの神は今も私たちと共にいてくださり、これからも私たちを救ってくださる、私たちは信じることができるのです。
たとえ今はそう信じられなくても、後になって振り返ってみる時に、神は私と共におられ、神の守りは確かに私と共にあった、とイエス・キリストを通して振り返って信じることができる時が必ず来ます。
 そのような神の守りと恵みが与えられていることを、私たちは信じ、感謝を捧げて歩んでいこうではありませんか。