2025年11月15日土曜日

2025年11月16日 主日礼拝

前奏
招詞 イザヤ書64章7節
賛美 新生讃美歌105番  くしき主の光
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番   イエスに導かれ
献金
聖句  使徒言行録9章1~19a節
祈祷
宣教  「あなたのなすべきことが知らされる」
祈祷
賛美 新生讃美歌339番    教会の基
頌栄 新生讃美歌676番  
祝祷
後奏
歓迎・案内


 新約聖書の『使徒言行録』を礼拝メッセージの聖書箇所として、今年度の初めから私たちは聞いてきております。今日は、その第9章からの箇所です。
サウロ(後のパウロ)が、キリストに従う者たちを激しく迫害していた迫害者から、キリストを信じ、キリストを熱心に伝道する伝道者として変えられるという、彼の劇的な回心の場面が今日の箇所には書かれています。
クリスチャンはそれぞれ、回心、つまりキリストを信じていない状態から、キリストを信じる者へと変えられた経験を持っています。
ある人は、家族や保護者がクリスチャンであり、幼い頃から教会へ通っていたという場合もあります。
そのような場合は、キリストを信じるようになったという変化(経緯)が、必ずしもはっきりしたものではない、(少なくとも、そのような自覚はあまりない)ということもあります。

しかし、特に私たちバプテスト教会では、自らの明確な希望と決断によって、公に信仰を告白し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになるという儀式を、大切にしています。
バプテスマは、ただの儀式(形だけのこと)ではなく、一人の信仰者の新たな誕生(回心)という、とても大きな意味がある出来事です。
私の場合は、バプテスマを受けたのは、今から26年前のことでした。
私はキリスト者の家庭で生まれ育ったわけではありません。
そんな私がキリスト者になり、牧師にまでなったという話を聞くと、多くの方が、「あなたがキリスト者になるきっかけ、牧師にまでなるきっかけは何だったのですか」と聞いてくださることがあります。
最初のきっかけは、やはり今の妻と出会って、クリスチャンであった彼女に教会に誘われ、聖書も読むように促されて、そして彼女によって熱心に祈られた、ということです。
ほかにも、教会の本当に多くの方々が私のために祈ってくださいました。
教会の交わりへと導かれ、聖書の御言葉に触れ、多くの方々に祈っていただくことを通して、私はキリストを信じる決心へと導かれました。

私の場合は、それは今日の箇所にあるように、ある時突然天から光が照らされ、復活のイエス様の声を直接聞くという劇的(瞬間的)な出来事ではありませんでした。
しかし、自分中心に歩んでいた自分の生き方が変えられ(方向転換させられ)、自分の中心に自分ではなく、イエス様をお迎えして生きようと、(少なくとも)決心をしたという意味で、私の場合も、それは大きな転機、回心であったと私は思います。
そしてそのように私が決断をすることができたのは、既にイエス・キリストが十字架にかかり私の罪を贖い、赦し、そして復活によって永遠の命と希望を与えてくださるという恵みの出来事が、神によってなされていたからです。
十字架と復活のイエス・キリストにより、私たちが救われるための道は既に用意されたのです。
そのことを私たちは信じて、神によって用意された救いの道、永遠の命へと続く希望の道を私たちは歩くことができる幸いを感謝したいと願います。

今日の箇所でサウロは、“この道に従う者”を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しよう“としていました。そのための許可を、彼は大祭司から受けたのです。
“この道に従う(あるいは、属する)者”とはイエス・キリストを信じ、キリストという道を歩んでいる人(信仰を実践している人)のことです。
男女を問わず、つまり誰であっても、とにかくその人がキリストを信じているというならばサウロは決して容赦しようとはしませんでした。
それぐらい徹底的な迫害の姿勢をサウロは持っていたということです。
サウロにとっては、キリストに従うという者は誰であっても許せない相手でした。その一人ひとりが実際にどんな人なのか、などは関係なかったのです。
この道に従う者、すなわちキリストに従うという人は誰であっても、彼にとっては全てが敵だったのです。
人間は怒りや憤りに駆られると、サウロが”クリスチャンは全員敵だ“と見なしたように、実際の(生身の)人間一人ひとりの存在や、それぞれの人柄や性格に心を向けるということができなくなります。
行き過ぎた怒りや憤りの感情は、そのように私たちから正常な判断を奪うのです。
私たちは、人間一人ひとりの存在、出会わされるひとり一人の心に、思いを寄せることができる、そのような心を大切にしたいと私は願います。

男女を問わず、とにかくキリストの道に従う者ならば誰でも捕まえる、という迫害の息を弾ませてダマスコへの道を急いでいたサウロに、天から光が照らされました。
サウロは地に倒れました。そして彼に語りかける声が聞こえました。
「サウル、サウル(サウロの呼び名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)
その声は、主イエス・キリストの声でした。主イエス・キリストが、“サウル、サウル”と彼の名前を読んでサウロに語りかけたのです。
サウロにとっては、すべてのクリスチャンが敵でした。クリスチャンは全員迫害すべき敵であり、彼らにはそれぞれ名前があることなど、サウロには関係なかったでしょう。
そんなサウロに、復活の主イエス・キリストは「サウル、サウル」と彼の名前で呼びかけたのです。名前を呼ぶ、ということは、その人の人格を認め、尊重するということです。
私たちの主なる神は、私たちひとり一人を名前で呼んでくださるお方です。神は私たちの名前を呼んでくださり、私たちひとり一人を神の前に特別な一人だと認めてくださるお方です。
神は私たちひとり一人を名前をもって読んでくださるお方であり、神は私たちの心の内までをすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方に知られている、大切なものとされていることを、私たちは大いに喜びましょう。
主の声は、サウロに、“起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる“Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”と告げました。(6節)

 「あなたのなすべきことが知らされる」という主の言葉を、私は今日のメッセージの題ともいたしました。
 それまでサウロは、自分の意志で、自分の怒りに基づいて、クリスチャンを激しく迫害していました。彼は自分ではそれを神に対して正しいことだ、とさえ思っていたでしょう。
 しかし、そんなサウロに主は、“自分の考えや信念を中心にして生きることをやめ、自分に示される外からの声、神の御声に聞き従って生きる者になれ”と今日の箇所で、主は言われたのだと私は信じます。
それは、自分が中心ではなく、神は私に何をお望みなのか、神から示される、そして周りの人々を通しても示される神のみ旨を求めて、それに聞き従って生きる者になりなさい、と言う、私たちも向けられたメッセージです。
 キリスト者は、自分の中心に自分をおくことを止めようと決心した者です。
自分中心ではなく、自分の心の中心に神に入ってきていただき、神に示されることに従って生きる者に、私達はなりたいと願います。
 その時サウロが向かっていたダマスコに、アナニアというキリストの弟子がいました。彼に幻の中で主が現れて、サウロがいる家をたずねるように、と告げました。

 アナニアにとって(アナニアだけでなく、多くのキリスト者にとって)サウロは、とんでもない人間でした。
 サウロがキリストに従う者たちを激しく迫害していることは、広く知れ渡っていたのです。アナニアも当然そのことを知っていました。
 13~14節のアナニアの言葉は、“あんな人のところへ行くのは絶対いやです”という彼の思いの表れだと私は思います。
 しかし主は、サウロのことを、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるためにわたしが選んだ器であるThis man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 」と言われました。
 この”器“(英語訳ではinstrument(道具))という言葉もとても大切です。私たちは神に選ばれた器(道具)です。神の言葉、神の愛、福音を頂き、そして他者に福音を伝える”器“です。
 神は、私たちを神の福音を告げ広めるための器(道具)として用いられるのです。
私たちは神の”器“として、主導権をその器を用いられる神に明け渡して生きることを、神から期待されています。
 私たちはそのような”器“として生きる用意があるでしょうか。神が私たちをお用いになって、神の福音、その良き知らせが伝えられるための器として、神に従って生きる用意があるでしょうか。
 それとも自分自身に固執して、私たちは自分中心に生き続けるのでしょうか。
私たちは、神によって造られたものです。神によって造られた私たちは、神のご計画に基づいて、神のお定めになった大きな目的のために仕える”器“として生きる時に、最もその人らしく生きることができるのです。
 ですから私たちは、神の”器“として生きる、そのような信仰者となる思いと決意を新たにしようではありませんか。
 アナニアは、主の声に従い、主に言われた通りに、サウロのいる家にまで行きました。アナニアがサウロの上に手を置いて、彼は「兄弟サウル」と呼びかけました。
主に導かれて出会ったのでなければ、アナニアにとってサウロは“兄弟”(仲間)と呼びかけることができる相手ではありませんでした。
 しかし主によって出会わされたサウロは、アナニアにとって今や自分の”兄弟“であったのです。私たちも、特に神によって出会わされた信仰の家族(友)者同士を”兄弟姉妹“と呼び合います。
 私たちが同じ神を信じ、神によって互いに出会わされ、信仰の家族とされ、互いを”兄弟姉妹“と呼び合うことができるのは、何と幸いなことではないでしょうか。
 最初に、わたしたちそれぞれがキリスト者になるきっかけ、ということを私はお話いたしました。私の場合は、申し上げましたように最初の直接のきっかけは妻との出会いでした。

 そしてそれからも、導かれた教会で受け入れられて、そこで支えられて、愛されて、わがままで生意気だった私に教会の人たちの厚い祈りが注がれました。
 神は私のために祈ってくれる、本当に多くの人たちと私を出会わせてくださいました。
その方々の祈りと願いが私をキリストを信じて生きる決心に導き、そして牧師として仕える決心へと導いてくれたと、私は信じています。
 私たち教会が神から頂いた大きな祝福の恵み(賜物)であり、同時に重要な責務でもあることは、“祈り”です。
私たちは真の神に向かって祈ることができます。そして私たちは互いを覚えて、お互いのためにも祈り合うことができます。また、そうすることがキリスト者として責務でもあるのです。
 サウロは今日の箇所で、劇的な回心を経験しますが、自分の上に手をおいて祈ってくれたアナニアは、それからもサウロにとって特別な人、信仰の友であり続けたでしょう。
 私たちも、それぞれに信仰の友をいただき、また新たに誰かの信仰の友となりながら、他者のために祈る者となり、また互いに祈り合う関係の中にも生かされてまいりましょう。
 私たちは、信仰による出会いの中で、互いに関わり、名前を呼び合い、祈り合うという神の家族同士であることを喜びながら生きることができます
そのような幸いな信仰を、私たちは生きていきたいと願います。