2025年11月22日土曜日

2025年11月23日(日)主日礼拝

前奏
招詞 ペトロの手紙一 3章15節
賛美 新生讃美歌146番  み栄えとみ座を去り
主の祈り
賛美 新生讃美歌554番   イエスに導かれ
献金
聖句  列王記一8章27~29、41~43節
祈祷
宣教  「地上のすべての民は御名を知る」
祈祷
賛美 新生讃美歌384番  語り伝えよ 神のみ言葉
頌栄 新生讃美歌676番  
祝祷
後奏
歓迎・案内


今日は「バプテスト世界祈祷週間」と言う、日本バプテスト女性連合が推進する、祈りの週間を覚えながらの礼拝メッセージを、私はいたします。
正確には今年度は、来週の11月30日(日)~12月7日(日)までが、バプテスト世界祈祷週間です。
一週間早いのですが、今日のメッセージで、バプテスト世界祈祷週間を覚えながら、神のメッセージを私達は聞いていきたいと思います。
バプテスト世界祈祷週間では、日本バプテスト女性連合が推進、支援する国内外の様々な宣教の働き、その働きに仕える人たちを覚えて祈ります。
具体的なそれらの働きについては、来週の礼拝の中で、女性会の皆様によりご紹介を頂く予定になっています。

どんな宣教活動の働きも、その働きに先立つ、キリスト者の仲間たちによる祈り、継続した祈りによる支援が、どんな宣教(伝道)活動にも必要です。
幸い私たちの教会は、日本バプテスト連盟という全国的な宣教協力団体に加盟しています。私たちの教会は、連盟に連なる諸教会・伝道所の祈りによって、今も支えられているのです。
そして私たちは、自分たちが支えられるだけでなく、私たちも連盟に連なる諸教会、また連盟の働きなどを覚えて、祈りと支援とを捧げます。
 バプテスト世界祈祷週間も、私たちが祈りによって支え合う(支え合っている)ことを確認し、またそうすることができることを本当に喜ぶ機会でもあると、私は理解しています。
今年度私たちは、新約聖書の『使徒言行録』から、神の言葉を礼拝メッセージとして聞いてきています。
今日は、新約聖書からではなく、旧約聖書の『列王記一』8章の中の、ある祈りの言葉から、神の言葉(メッセージ)を聞き、そして国内外で行われている宣教活動、またその働き人たちについても思いを巡らせる時を持ってまいりましょう。

列王記上8章は、父親のダビデ王の後を継いでイスラエルの王となったソロモンが、神殿の建築を完成させた後に捧げた祈りの言葉によって、その多くを占められています。
この章でのソロモンの祈りは、私たちに祈りについて、実の多くのことを教えてくれています。
皆さんは、祈りをどのように捉えていらっしゃるでしょうか。
祈りは難しい、なかなか出来ない、と思われている方もおられるでしょう。確かに、祈りは難しくもあります。しかし、やはり祈りは、キリスト者にとって、とても嬉しいものでもあります。
キリスト者が神からいただく賜物の一つ、もっとも尊い賜物といってもよいほどの恵み、それが祈りです。
祈りは、私たちを神に近づけ、そして私たちを自分以外の他者とも近づけるものであると、今日の箇所のソロモンの祈りから、私たちは教えられます。
キリスト者の歩みとは、神に祈ることへの喜びが増していく歩み、そして神と、また人とも親しくなっていく歩みである、と言ってよいと私は思います。
私自身は、“もっともっと私は祈りの喜びを身に着けたい”、”祈りの喜びを知りたい。祈りの喜びを教えてください“と神に祈っています。
以前、初めて教会に来てくださった方が、キリスト者が(私たちが)教会で祈る姿がとても印象的で感動した、というお話を私は聞いたことがあります。
その方がいらっしゃった日は、月の初めの日曜日で、私たちの礼拝の中で“祈りの時”がある日でした。
その方は、教会で私たちが、お互いのことや、また社会や世界のことをも覚えて一緒に祈っているという事実と、その私たちの祈りの姿が、とても印象的であって感動した、そうです。
 もちろん祈りは、人に見せるためにするものではありません。しかし、私たちは祈ることで、神と私たち自身がつながります。
そして私たちの祈るその姿も、他の人たちに、神に祈ることができる喜び、神と繋がることの喜びという、信仰の一つの側面を伝えることにもなるのです。
私たちの祈りの姿が、神様の素晴らしさを、私たちの祈りを聞いてくださる神の素晴らしさを、少しでも人に伝えることができるとは、それは何とすばらしい、嬉しいことではないでしょうか。
 私たちは、そのような祈りの喜び、また祈りのもつ力や効果(影響)を、さらに知っていきたいと願います。

 ソロモンは、父ダビデ王の願いを継いで、荘厳な神殿を完成させました。7年の歳月をかけて、膨大な資材、材料、労働力を用いて、主なる神のための神殿をソロモン王が完成させたのです。
 しかしそのような大事業を達成しても、その時のソロモンの心は、あくまで神の前に謙遜なものでした。今日の箇所の最初のソロモンの祈りの言葉をもう一度聞いてみましょう。

27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。

ソロモンが完成させた神殿は、当時としてものすごく巨大で荘厳なものでした。
ですからソロモンが、“これは私が成し遂げたことだ”と言って、傲慢な思いに囚われてしまっていたとしても決して不思議ではない、と私は思います。
 しかし、ソロモンは自分がなしとげた、その神殿造営の事業を誇ることをまったくしていません。なぜなら、彼は神がどれほど偉大なお方であるかを忘れることがなかったからです。
 人々は、新しく建てられた巨大で荘厳な神殿、そしてまたソロモンの持つ莫大な富に驚いたでしょう。
しかしソロモン自身は“この神殿など、神の偉大さに比べれば、何物でもありません”ということを良くしっていたのです。
 “神は地上にお住まいなることなどないのです。天の天もあなた(神)をお納めすることができません。”
 “わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません”、とソロモンは祈っています。
 ソロモンは、ここで卑屈になっているのではありません。
そうではなく、神との関係の中で、いかに自分が小さく何者でもないか、自分が地上で成し遂げることなど、神の前にどれほどの価値もない、ということを、ソロモンは良く知っていた(知らされていた)のです。
 それは、それほどソロモンと神との関係が親密で豊かなものであった、ということです。
逆説的(一見、互いに反することを言っている)かもしれませんが、神様と豊かで親密な関係を築けば築くほど、私たちは自分自身や、自分がすることなどがいかに小さく、何物でもないか、を知らされるのです。

 親密な、神への祈りは、神との豊かな関係は、神の前に自分自身を低くし、神の偉大さの前に、私たち自身をひれ伏せさせるものである、ということを私たちは覚えたいと願います。
 また私たちは、誰が私たちの祈りを聞いてくださっているのか、ということを、今日あらためて確認したいと思います。
それは天地の造り主である神、私たちの救いのために、イエス・キリストを地上にお送りくださり、十字架の上でその命を捧げてくださった神です。
そのような神が、私たちの祈りを聞いてくださるのです。
 ですから私たちは祈る時、「神が私の祈りを聞いてくださるのは当たり前」と前提するのではなく、今日の箇所でのソロモンの祈りのように、”この僕がささげる祈りを聞き届けてください“と、心から願い祈るような信仰者でありたいと願います。
 繰り返しますが、神が私たちの祈りを聞いてくださること、それは決して当たり前のことではないのです。
今私たちは、イエス様のお名前によって何でも神に向かって申し上げ、祈ることができる、その法外な恵みに心を留めましょう。
 今日の箇所の、8章41節からの箇所に目を向けたいと思います。そこからソロモンの祈りは、“あなたの民イスラエルに属さない異邦人foreigner who does not belong to your people Israel”へと及んでいきます。

 イスラエルの民は、“自分たちは神に選ばれた特別な民”、“自分たちは、信仰の父アブラハムを抱く特別な民”という思いを強く持つ人たちでした。
 しかし、すでにソロモンの時代から、主なる神の恵みが、イスラエルの民以外の異邦人、(ユダヤ人から見れば)外国人にも、また全ての民にも及ぶようにという、まさに神の思いが、ソロモンの祈りの中ではっきりと祈られているのです。
“神の御名が伝えられ、神を信じるようになった異邦人たちも、この神殿に来ることができますように、そして彼らが祈る時、彼らの祈りをもあなたが聞いてください”、と王であるソロモンが祈っているのです。
ソロモンは、“すべての民が、いろいろな国や地域の人が集う神殿を夢(ビジョン)として思い描く祈り”をここで捧げています。
全ての民が集い、共に祈り、礼拝を献げる、そんな神殿を思い描きつつ、そのような夢(ビジョン)に基づいて、ソロモンはここで祈りを捧げているのです。
多くの国や地域の方々があつまるここ別府の地で、宣教のビジョンを与えられ、キリスト教会として立つことを許された私たち別府国際バプテスト教会では、多くの国の人々が共に集うことが実現しています。

このように私たちを結びつけるのは、人の働きによるのではありません。それはイエス・キリストの恵み、キリストの福音の力です。
イエス様がこの私のために十字架の上で死んでくださった。その恵みに、キリスト者は生かされています。その恵みへの感謝と応答として、私たちは教会に集います。
尊いイエス・キリストの恵みが、キリストの恵みのみが、私たちを一つに結び付けてくれます。
そしてイエス・キリストの恵みによって造り上げられる私たちの間の連帯、キリスト者同士の連帯、教会同士の連帯が、私たちを互いに祈る者へと変えていくのです。
 そして主なる神は、そのように、主の恵みによって結び付けられた私たちを、主の福音宣教の働きのために用いられます。

先日の教会組織記念礼拝で、私たちの教会の今までの歩み、歴史を振り返る時を私たちは持ちました。
私たちの信仰の先達たちの祈り、遠くは海外(特にアメリカのバプテスト教会)からの篤い祈りと献金が、ありました。
遠く日本まで、日本の福音宣教のために遣わされてきた宣教師たちの働きがあったことを私たちは知っています。
今のように、決して簡単には海外に行くということができなかった時代に、遠い日本での福音宣教を具体的に思い描いて祈り、宣教師を送り出し、そして尊い献金を捧げた信徒たちがいたことを私たちは改めて覚えて感謝したいと思います。
そして私たちが受けた恵みを、その恵みを、私たちはまた、主の福音を必要としている他の人々へ受け渡していきたいと願います。
私たちが生きる地域での福音宣教にも私たちは仕え、また、ここからは遠くの地で福音宣教のために仕えている働き人をも覚えて、私たちは祈りと献金を捧げたいと願います。
キリストの福音に生かされ、キリストの福音を伝える、その働きを共に担うことができることを、私たちは喜ぼうではありませんか。