2026年1月3日土曜日

2026年1月4日 主日礼拝

前奏
招詞  ミカ書6章8節
賛美  新生讃美歌 19番 くすしき主の愛
主の祈り
賛美  新生讃美歌493番 み子イエス世人のため
祈りの時
献金
聖句  使徒言行録9章19b~31節
祈祷
宣教  「信仰の仲間として」
祈祷
賛美  新生讃美歌262 み霊よくだりて
頌栄  新生讃美歌671番
祝祷

新約聖書の『使徒言行録』を、昨年度のはじめ(2025年度4月)から続けて、私たちは礼拝メッセージの御言葉として読み、聞いてまいりました。
 アドベントとクリスマスの期間には、使徒言行録からではなく、クリスマスに関連する聖書の箇所から、私たちは礼拝で御言葉を聞いてきました。
今日からまた、使徒言行録で伝えられる神の御業から、礼拝の中で神のメッセージを私たちは聞いていきます。
 サウロ(後のパウロ)は、キリストに従う者たちを激しく迫害する者でした。
その彼が、今日の前の箇所で、エルサレムからダマスコという町へ(キリストを信じる者なら誰でも捕らえて連行するため)向かっている時、復活の主イエス・キリストに出会います。

 天から突然刺した光に照らされ、サウロは目が見えなくなり、そして人々に連れていかれた、ダマスコのある家に留まっていたました。
そこで、主(神)からの指示を受けたアナニアという人によって祈られて、サウロは再び視力を回復し、そしてバプテスマ(洗礼)を受けました。
 サウロは、元どおり目が見えるようになって、食事をして元気を取り戻しました。今日はその話の続きの箇所です。

それから数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒に過ごしたサウロは、今日の箇所20節によれば「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝え」ました。
 ほんの数日か一週間ほど前までは、イエス・キリストを信じる者たちを激しく迫害していた人が、キリストを信じるようになってから、すぐ(ほとんど間を置かずに)、「この人(イエス・キリスト)こそ神の子である」と人々に伝えるようになった、というのです。
 サウロのその姿から私たちが示されることは、キリスト者は誰でも、一旦イエス・キリストを信じ、キリスト者となった以上、イエス・キリストの福音を(すぐにでも)他者に伝えることができる、ということです。
 サウロは「自分はまだ信じたばかりだから、もう少し、しっかりと信仰を身につけてから、それから伝道を始めよう」とは考えなかったようです。
 キリスト者は、だれもが、バプテスマを受けてキリスト者となり、神の子とされたのならば、その瞬間から、サウロのようにキリストを宣べ伝えることができるし、またそうすべきだと、わたしたちは示されます。
 皆さんの中にも同様の経験をお持ちの方がおられるかと思います。わたしはバプテスマを受けて、すぐ次の年ぐらいから教会学校の小学科の教師を任されるようになりました。
「まだ私はバプテスマを受けたばかり。聖書の内容もそんなに分かっているわけではない」と躊躇する気持ちはあったと思いますが、子どもは好きでしたので、教会学校の教師をさせて頂くようになりました。
今振り返って考えましても、そのころの私の信仰や聖書に関する知識など、非常に初歩的なものでした。しかし、“イエスは主”、“イエスはキリスト、救い主”、肝心なことはそれだけなのです。

その肝心かなめの信仰があるのならば、信仰が強いとか弱いとか、聖書に関する知識が豊富だとか乏しいとかいうことは、少なくとも神様から見れば、大した差はないのではないか、と私は思います。
今私は牧師として、教会の霊的リーダーとしての務めを頂いています。信仰を持った最初の頃から比べれば色々と信仰的な経験も重ね、聖書に関する知識や、神学校で学ばせていただいたことなど知っていることは増えたかもしれません。
 しかし、“イエスは主”という信仰告白を聖霊によって与えられた、聖霊によって導かれ、励まされ、日々信仰を歩むことを許されているという点では、最初に頃と変わらないのです。
そして、他のキリスト者誰とも、それは変わらないのです。多少の経験や知識のあるなしは、大きな問題ではありません。
 また私たちそれぞれが異なる賜物を与えられています。それぞれに出来る方法があります。
誰もが、牧師のように、こうして講壇の上で聖書の話をしたり、牧会的な仕事をする必要があるのではありません。
自分に与えられた賜物を通して、自分が信じ教会で分かち合っているイエス・キリストの神について、わたしたちは機会があるごとに他者に伝えようではありませんか。
そのように伝道(宣教)をするキリスト者、キリスト教会に、わたしたちはなりたいと願います。

 サウロは、それまでキリスト者を激しく迫害する者でした。ですから、彼の急激な変化は多くの人々を、特にそれまで彼と一緒になってキリスト者を迫害していたユダヤ人たちを、戸惑わせたようです。
 やがて彼らはサウロを殺そうとまで思うようになりました。しかし、サウロには彼のことを助けてくれる弟子たちがいました。
今日の23~25節には、ユダヤ人たちがサウロを殺そうとしましたが、サウロは自分の弟子たちによって助けられ、彼は夜の間に町の城壁からつりおろされて逃げることができた様子が描かれています。
 また30節からの箇所では、エルサレムでユダヤ人たちに命を狙われたときにも、兄弟たちにより救われたことが書かれています。
サウロがそのように、他の人たちによって何度も助けられたことから、わたしたちも、きっと様々な局面で、多くの人たちによって助けられ、命が守られていることを思わされます。
 そして私たちの命が守られているその背後には、主なる神の守りと導きがあることを思わされます。日々生かされている、守られている幸いを私たちは神に感謝したいと思います。
パウロは、エルサレムに行ってから、そこでエルサレムの教会の弟子たちの仲間に加わろうとしました。

キリストの信仰を頂くということは、一人孤独に信仰者として生きるのではなく、他のキリスト者と仲間になる、信仰の群れに加わるということでもあるのです。
人がキリストを信じバプテスマ(洗礼)を受けることは、その人が主なる神を信じてキリスト者として生きるという信仰決心の告白であると同時に、その人が教会の一員となる、という意味もあります。
 自分自身を振り返っても、わたしのキリストにある信仰は、同じ信仰をいただくキリストの教会に繋がることで、信仰の家族(兄弟、姉妹)との信仰の交わりと繋がりの中で、本当に成長させられてきました。
私たちが教会の信仰の交わりの中で、それぞれの信仰が養われ、それぞれの信仰の働き、奉仕をすることを通して、これからも私たちの信仰が養われていきますようにと、私は願っております。
今日の箇所でサウロは、エルサレムの信徒たちが、なかなかサウロのことを信用しようとしないという困難を経験します。

そこでサウロを助けたのがバルナバと言う人でした。バルナバは、サウロが、いかにそれまでとは変えられたのかを、エルサレムの弟子たちに話して聞かせたのです。
サウロがイエスの名によって大胆に宣教した様子を、バルナバは説明しました。“この人は確かに以前とは違い、変わったのだ”とバルナバが一生懸命サウロのために、エルサレムの使徒たちを説得したのでしょう。
バルナバのそのような助けによって、サウロはエルサレムの使徒たちと仲間として関係を築き始めることができました。
このバルナバの助けがなければ、後の伝道者としてサウロの人生はなかった、と言えます。後にキリストの伝道者として大きな働きをするようになるサウロですが、本当に多くの人に彼は助けられたのだと、聖書は伝えるのです。
先ほども申し上げましたが、サウロを助けた多くの人の働きの背後には、主なる神の守りと導きがあったことを、そしてその守り導きは、今の私たちにも与えられていることを、わたしたちは改めて知らされます。

 今日の箇所の最初に戻りますが、サウロはすぐに「この人こそ神の子である」と述べ伝えました。そしてバルナバの言葉によれば、サウロは”イエスの名によって“宣教をしました。
 サウロは、彼自身にどんなことが起きたのか、ということを(少なくとも、そのことを中心的なこととして)話したのではありませんでした。
 激しくキリスト者を迫害していた自分に、キリストがあらわれて福音を伝えてくれたこと、視力を失い、そこからアナニアに祈られて、視力、力を回復したという、自分に起きたことをサウロは話したかもしれません。
 しかしサウロが伝えた中心的なこと、もっとも大切なことは、自分のことではなくて、「この人(イエス・キリスト)こそ神である」ということです。
私たち現在のキリスト者も、キリスト教会も、この人(イエス)こそ神の子である、神である、イエス様がキリスト、救世主であり神である、というメッセージを常に語り続けたいと願います。
 私たちは自分自身を語るのではありません。たとえ自分のことを語るにしても、この自分を通していかに主なる神が働いてくださった、という神の恵みを、神の偉大さを私たちは語るのです。
 キリスト者とは、いただいた神の恵み、自分が信じたイエス・キリストの恵みを語ることが許されているのです。
ですから私たちの教会も、常に「神は生きておられる。イエス様がキリストである。主の御言葉は素晴らしい」と、何よりもキリストの恵みが、それだけが語られる教会でありたいと願います。

 今日の箇所最後の31節をお読みします。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 ”教会は平和を保ち“とは、その時の彼らの間に何の問題もなかったということではないはずです。
実際、聖書の他の箇所で、初めのころの教会の内部に、信者同士の間で色々な問題や衝突が起きていたことが、はっきりと書かれています。
しかしその時の教会の信者たちは、彼らの真ん中に“キリストの平和”あることを願い、神の霊である聖霊により頼むことでは一致していたのでしょう。
そして彼らは主を畏れることを大事にし(それは、“自分は何も知らない”という謙遜な信仰を伴います)、そし聖霊の慰め(英語では“励まし”)を受けていた、というのです。
 “聖霊から常に力を受ける”とは、目には見えないけれども、確かに私たちを守り、導いてくださっている神の霊、聖霊がおられることを信じ、聖霊に依り頼む、ということです。
 主なる神を信じる集まり、信仰の家族である教会では、誰か優れた人の能力や経験によって導かれるのではなく、わたしたちの思いを超えて働いてくださる神の霊に、わたしたちひとり一人がより頼むことが大切なのです。
またそれが私たちにとっての恵みであるのです。
 新しい年、わたしたちの教会がより頼むものが、わたしたちが願うものが、常に神の霊である聖霊の導きでありますように。
わたしたちが自分自身の力や人の力により頼んで、それを誇ったりすることなく、謙虚に聖霊の導きを求めていけますように、と私たちは祈りましょう。
 目には見えない神の霊、聖霊によって常に励まされ、慰められ、信仰の道を歩んでいく私たちでありたいと願います。