前奏
招詞 ヨハネによる福音書14章15節
賛美 新生讃美歌 69番 日かげ静かに
主の祈り
賛美 新生讃美歌263番 満たしめたまえ み霊よ
主の晩餐
献金
聖句 申命記11章8~12節
祈祷
宣教 「年の初めから年の終わりまで」
祈祷
賛美 新生讃美歌81 父なるわが神
頌栄 新生讃美歌679番
祝祷
今日は2025年の最後の主日(日曜日)の礼拝です。今年も私たちが御言葉を共に聞き続けることができた恵みを神様に感謝したいと私は願います。
今日は、旧約聖書の『申命記』の中の御言葉から、神のメッセージを私たちは共に聞いてまいりましょう。
『申命記』は、イスラエルの民たちが約400年間奴隷生活を送ったエジプトから救い出され、その後約40年間荒野を旅した後に、いよいよ約束の土地カナンの地へと入って行く、その直前の期間について、記しています。
実は、エジプトを出たイスラエルの民たちの第一世代は、ほとんどが荒野での旅の途中で死にました。約束の地へ入って行くことができたのは、第二世代以降の人たちでした。
イスラエルの民たちをエジプトから導きだし、そして荒野での旅を率いたのはモーセでした。
そのモーセも、カナンの地へは入ることはできず、その直前に死にました。申命記の最後に、モーセが死ぬ場面が描かれています。
申命記は、そのモーセが神から与えられた言葉を、イスラエルの民たちが守るべき戒め、神の教えとして、イスラエルの民たちに伝え続けた言葉によって、その多くを占められています。
指導者であるモーセはカナンの地に入る前に死にます。しかし、イスラエルの民たちはモーセ亡きあとも、別の指導者(ヨシュア)に率いられながら、カナンの地へ入って行くというその道程を続けます。
モーセは、神の言葉、神の戒めをイスラエルの民たちに伝えました。それは、彼らがそれからの旅路を行くために、信仰の旅路を続けていくために、一番大切なものが神の言葉であったからです。
モーセやヨシュアのような人間の指導者が民たちを導くのではないのです。指導者は、民たちが主なる神に従って生きることができるように、その補佐役をするに過ぎません。
いかなる人間の指導者も、どれほどその人が霊的にも優れていようとも、人である以上、彼(彼女)は必ず間違いを犯します。人は、誰かが従って生きるという対象にはなりません。
人が常に聞き従うのは、あくまで主なる神のみ言葉です。
私たち人は誰もが、立場や職分、役割の違いはあっても、神の前には一人の信徒、罪があり、その罪をイエス・キリストによって赦された罪人であることを覚えて、常に神の言葉を共に聞いて、神に聞き従っていくことを大切にしたいと願います。
今日の箇所の初めの節である第8節に「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」と書かれています。
ここで“わたし”とは、この言葉を語っているモーセですが、モーセは神から与えられた言葉をそのまま伝えていますから、この“わたし”は神と同じであると理解してよいです。
“あなたたちは、わたし(神)が今日命じるすべての戒めを守りなさい”、“あなたたちは、神の言葉を聞いて守りなさい”という言葉は、申命記の中にも、また聖書の他の箇所にも何箇所も出てきます。
神の言葉(戒め)を聞いて、それに従って生きるということが、私たちにとってとても大切なことであるので、聖書はそのことを何度も繰り返し伝えるのです。
私たちは教会の礼拝で、教会学校や祈祷会でも、共に神の言葉を聞き、分かち合います。わたしたちは一人でも聖書を読み、神の言葉を受け取ります。
私たちは何度も同じ箇所を、神の同じ言葉を繰り返し聞きます。同じ言葉ですが、聖書の言葉(神の言葉)は、その度に、私たちの置かれた状況に応じて、新しい響きと意味を持ちます。
私たちは何度も何度も、神の言葉を一生涯にわたって聞き続けます。それは神の言葉こそが永遠であり、私たちを常に生かす、私たちに生きる力を与えるからです。
今日の8節後半には次のように書かれています。
こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。
わたしたちそれぞれに行くべき道があります。個人として、家族として、私たちに行くべき道があります。また、私たちの教会が共に進むべき道があります。
イスラエルの民たちがヨルダン川を渡って、カナンの地へ進んで行ったように、私たちにとってのヨルダン川、その先にある約束の土地というものが、あるのではないでしょうか。
私たちがそれぞれ進もうとしている道は険しく見えるかもしれません。その先の土地でぇあどのような生活が待っているのだろうか、果たしてそこへ行くことができるのだろうか、と不安に思うようなこともあるでしょう。
しかし、そのような時私たちはどうすればよいのか。神ははっきりとその答えを私たちにくださっています。それが「わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」です。
主の言葉を私たちは聞きます。ただ聞くだけでなく、すべての戒めを聞いて守りなさい、と神は言われるのです。
そうすることで私たちは、これから進んで行く信仰の旅路を、力と勇気を御言葉から得て進むことができるのです。
9節にはこう書かれています。
こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。
私たちは、主の御言葉(戒め)に従うことによって、これから先向かっていくその土地で私たちは長く生きることができる、と言うのです。
神の言葉は私たちに命を与えるものです。神の言葉は私たちを生かします。
神の戒めは、暴君や独裁者のような神が私たち人間を自分の思うように勝手に支配したり、私たちを自分の利益のために仕えさせるためにあるのではありません。
神の戒めは、それを私たちが受けて、聞き従うことで、私たちが真の命をこの地上で生きることができるために、神から私たちに与えられた、まさに賜物なのです。
神の言葉は、イエス・キリストと言うお方によって、人の目にも見えるお方となって世に現われました。それがクリスマスに起こった出来事でした。
私たちは、聖書の言葉、神の戒め(言葉)を、イエス・キリストの光に照らされ、神の霊である聖霊によって照らされて、受け止めて、その御言葉に従って生きる信仰の道を、共に歩んでいきたいと願います。
イスラエルの民たちは400年間、エジプトで奴隷生活を送っていました。そして今や彼らは神の約束の地へ入っていこうとしています。
かつて彼らが住んでいたエジプトが彼らにとってどのような土地であったのか、そしてこれから行こうとしている土地はどのような土地なのか、について10~11節に次のように書かれています。
10あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。
11あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
10節に書かれている、“エジプトでは、あなたたちは種を蒔いて、畑に自分の足で水をやる必要があった”ということは、彼らがその土地で強制的に働かされていた、ということも表しているでしょう。
それと同時に、“エジプトでは、あなたたちは自分の足で水をやる必要があった”というのは、このような意味もあると私は思います。
それは、人が生きるのに、自分自身の力や技術に頼み、自分の力で生きようとしている(あるいは、人が自分の力で生きることができると思っている)ことです。
本来人は神の助け、神からの恵み無くしては決して生きていくことはできません。それを知らずに、人が自分自身の力を過信して、自分の力で生きていると信じて(錯覚して)生きる生活が、エジプトでの生活です。
それは真の神の恵みを知る前の私たちの生き方、とも言えます。
しかし、信仰者にとって、その人が生きる場所は、11節に書かれている通り“山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている”土地です。
信仰者が歩む道は、信仰者が住む場所は、神が必要なものを備えてくださる場所です。しかし、それは自分で何もしなくてよい、ということでは、もちろんありません。
神様を信じれば、自分で何も努力しなくても、働かなくても、豊かに生きることができるし、苦しいことも何もない、ということでは全くありません。
そうではなく、信仰者はこの地上にあって、生きる上で様々な困難や苦難があっても、“神が私たちと共にいてくださり、そして必要なものは必ず与えてくださる”、と信じて生きることができる、ということです。
私たちが、先が見えずに不安に思うような時も、その道を進んで行く力が神から与えられ、御言葉から知恵と勇気とを頂くことが出来るのです。
“その土地は天から降る雨で潤されている”とは、私たち信仰者が、天の父なる神は私たちのことを常に心にかけ、必要なものを必ず与え、私たちの命を守ってくださるお方である、と信じることを表します。
それは私たちが信じている、と言う夢物語ではありません。神が私たちに与え、私たちを守っていてくださることは、聖書の言葉、そしてイエス様によって確実であることが、既に保証されている真実なのです。
今日の箇所の最後の12節には次のように書かれています。
12それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
私たちが歩む信仰の道は、常に神がその目を注ぎ、私たちを守り導いてくださっている道です。
私たちが主の御言葉に従って進むその土地は、神が私たちを常に心がけ、”年の初めから年の終わりまで“、いつまでも神が私たちと共にいてくださる土地です。
モーセを通して、神はイスラエルの民たちに、ご自分の御言葉(戒め)に聞いて、神の戒めに従って生きることを繰り返し繰り返し伝え、彼らを神の道へと導こうとされました。
私たちも新しい日々、また新しい年を迎えようとしている今、改めて、神の御言葉と戒めを聞き、その言葉に従って生きるという決意を新たにいたしましょう。
私たちが歩む道、私たちが行こうとしているその土地は、いつも主なる神が私たちのことを心にかけてくださり、主なる神が、年の初めから終わりまで、常にその御目を注いてくださっている土地です。
主の守り、導きが私たちには与えられている、主なる神の愛の眼差しが私たちにいつも注がれていることを覚え、安心して、私たちは歩み続けてまいりましょう。