2025年1月12日 主日礼拝
前奏
招詞 出エジプト記20章3節
賛美 新生讃美歌59番 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美 新生讃美歌261番 み霊なる聖き神
献金
聖句 フィリピの信徒への手紙1章12~21節
祈祷
宣教 「生きるとはキリストである」
祈祷
賛美 新生讃美歌 491番 信ぜよ み神を
頌栄 新生讃美歌 671番
祝祷
後奏
復活のイエス・キリストに出会い、それまではキリスト信者を激しく迫害していたパウロが、キリストの福音を熱心に伝道する者へと変えられました。
先週の礼拝メッセージで、私たちは、パウロの回心について、使徒言行録(Acts)から御言葉を共にお聞きしました。
しかしパウロはキリストの伝道者となったために、それ以来、大変に苦しい道を歩むことになります。
パウロはキリストを宣教したために何度も投獄され、そして(そのことは聖書にははっきりと書いてありませんが)パウロは最期は処刑されたのだろう、と言われています。
このフィリピの信徒への手紙も、パウロがローマで投獄されているときに牢獄から書かれた手紙であると言われます。
しかし、牢獄にあってもパウロから希望と力が奪われることはありませんでした。
今日の箇所の少し前の、フィリピの信徒への手紙1章3~4節に次のように書かれています。
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
獄中にあってパウロを支えたのは、何よりもイエス・キリスト、復活のイエス・キリストが彼といつも共にいてくださる、という確信でありその信仰でした。
そして、パウロにとっては、祈ることが大きな喜びであったことが分かります。何かのために、特に信仰の友のために祈ることができる喜びが、パウロを支えていたのです。
パウロにとっては、フィリピの信徒たちのことを思い起こし、神に感謝しながら彼らのために祈ることが喜びであったのです。
フィリピの教会は、パウロが伝道したことによって建てられました。フィリピの教会の信徒たちは、パウロがフィリピを離れてからも、物心両面でパウロを支えたようです。
フィリピの信徒への手紙4章15~16節に次のように書かれています。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
パウロは、天幕(テント)作りという専門職を持っており、自ら働いて生計を立てながら伝道をした、とパウロの他の手紙の箇所に書かれています。
しかし、フィリピの教会の信徒たちからは、パウロは物質的な援助(物やおそらく献金も)受け取っていたことが、今お読みした箇所から分かります。
そのことから、フィリピの教会の信徒たちとパウロの間には、特別な信頼関係と強い愛情がはぐくまれていたのだろうと想像できます。(他の教会からはそうしなかったけれども、フィリピの教会から援助を受け取った、ということから)
そしてパウロにとっては、自分を支えてくれたフィリピの信徒を覚えて、祈ることができることが、この上ない喜びであったのです。
信仰の友であり家族である人たちのために祈ることができるということは、神を信じる者に大きな喜びをもたらすのです。
私たちも自分以外の他者のことを覚えて(自分の家族であったり、特に教会の兄弟姉妹、友人知人)を覚えて祈ります。
パウロが喜びをもってフィリピの信徒たちを覚えて祈ったように、私達も、信仰によって誰かのために祈ることができる、そのこと自体が大きな喜びであることを知っていきたいと願います。
なぜ祈りが喜びとなるのでしょうか。それは、私たちの祈りを聞いてくださる神が確かにおられるからです。
イエス・キリストの名によって私たちが祈る時、キリストの名のゆえに、神は私たちの祈りを確かに聞いてくださるのです。
そのような聖書の約束を信じ、私たちは喜びをもって祈る者、祈る信仰者でありたいと願います。
今日の箇所の12節をお読みします。
12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
「わたしの身に起こったこと」とは、パウロがキリストの福音を伝えたために、彼が激しい妨害、迫害にあい、牢にまで閉じ込められた、などの経験のことです。
普通に考えれば、神のため、そして神の救いを人に伝えるために働いているのに、そのために捕まり投獄されるということは辛いことです。
自分が捕まってしまっては、キリストの福音を宣教することができなくなってしまう、と最初パウロは思ったかもしれません。
しかしパウロは、彼に起きたそれらの出来事を、自分の視点から見るのではなく、神の視点から、そして“キリストの福音が伝えられる”という視点から見ることができました。
パウロは牢獄に入れられましたが、彼がそのような境遇に置かれたことで、逆に福音が前進することに役立った、とパウロは言うのです。
『使徒言行録』の16章に、パウロがフィリピで投獄された時の様子が書かれています。
フィリピで宣教をしていたパウロと仲間のシラスに対して、人々から「彼らは町を混乱させている」という訴えが出されました。そのため彼ら二人は何度も鞭打たれ、そして投獄されました。
真夜中頃、パウロとシラスは賛美の歌を歌って神に祈っていました。そこで突然大きな地震が起こり、牢獄の土台までが揺れて、囚人たちが閉じ込められていた牢の扉がみな開き、囚人の鎖もはずれてしまいました。
そこで牢を見張っていた看守は、“囚人たちが逃げてしまった”、“自分の責任が問われる”と恐れて、彼は自殺しようとします(使徒言行録16章27節)。
しかしパウロは大声で叫びます。「自害してはいけいない。わたしたちは皆ここにいる“Don’t harm yourself! We are all here!”」(使徒16:28)。
その看守はパウロとシラスに聞きました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」
二人(パウロとシラス)は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
その看守は家族と共に洗礼(バプテスマ)を受け、そして看守は家族も一緒に神を信じる者になったことを、家族と一緒に喜んだと書かれています。
投獄という彼(パウロ)にとっては理不尽な(不当な)経験も、主なる神によってそのように大きく用いられて、キリストの福音が人々に伝わることに繋がる、ということをパウロは経験しました。
パウロは彼自身のことよりも、“福音の前進”という出来事に目をとめて、福音がいかに広がっていくかという視点から、彼に起きたことを振り返る(思い起こす)ことができたのです。
私たちも、自分自身の思いや願い、感情や満足(それらも大切であり、自分の願いや感情を捨てることは私たちにはできませんが)を基準にして私達の人生を見るのではなく、キリストの福音の前進という視点から、私達に起こる出来事を捉える(受け止める)必要を教えられます。
キリストが共におられ、私たちに起こる出来事を通して、キリストが、福音が前進するために働いてくださいます。
そのことを信じ、福音に生かされながら、福音の前進のために私たちも生きていきたいと私たちは願います。
今日の箇所の15節以降では、人々がキリストを述べ伝える動機について書かれています。
15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
そして16~17節には“パウロに対する愛の動機から、または逆にパウロを苦しめてやろうという動機で、キリストを広める者もいる”、と書かれています。
しかし18節にこう書かれています。
18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
これもすごい言葉です。“愛なるキリストを伝道するならば、その動機こそが重要だ”と私たちは考えないでしょうか。
キリストを伝えたい、という純粋な思いこそが大切であって、そこに妬みや争いが持ち込まれるならば、それでは福音の宣教にはならない、と私たちは思わないでしょうか。
ここでパウロが言いたいことは、私達人間の不純な動機さえも、キリストの福音はそれらよりも強く、福音はそれら(人の不純な動機や心)さえも凌駕(りょうが)する、ということです。
キリスト者も、またキリスト教会も、罪を抱えた人間であり、罪人の集まりであるので、妬みや争いというものが私たちの間にも、残念ながら起こることがあります。
それでも、キリストの福音は私たち人のそのような罪の性質をも包み込むのです。
むしろ、妬み、争いを引き起こす私達人間の自我、罪深い性質を、私たちが悔い改めて、それを正直に神の前に差し出す時、福音はそんな私たちを通しても広がっていくのではないでしょうか。
キリストの恵みが、罪深い私たちをキリストに似た者に変えてくださるようにと願いつつ、それでも罪ある私たちを通しても、キリストが(キリストだけが)そんな私たちの間で述べ伝えられ、あがめられますようにと私たちは願いたいと思います。
今日の箇所の最後の節である21節をお読みします。
21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
パウロにとって“生きることはキリスト”であったのです。パウロも一伝道者として、色々と大変な経験もし、また色々なことに悩みもしたと思います。
パウロも一人の人間ですから、多くの欠点も抱え、また彼は随分激しい性格でもあったようですから、彼は色々と教会内部でも不和や衝突を経験していたことが、聖書では伝えられています。
しかし、パウロにとって「生きることはキリスト」というその一点においては、何の迷いもありませんでした。
“キリストが生きておられるので、この私の命がある”。“キリストが生きておられるので、今日も私は生きる”。“キリストを伝える使命があるので、今日もまた生きることを許されている”とパウロは思っていたのでしょう。
私たちにとって、主イエス・キリストが生きておられるとは、何か漠然とした実態のない、考えや願い、理想ではありません。
それは、私たちのために十字架にかかり死に、そしてよみがえったお方が、今は聖霊によって私たちに神の力と生きる希望とを与えて続けてくださっている、という現実です。
そのようにして、確かにキリストは生きておられるのです。キリストが私たちを生かしておられるのですから、私たちにとって”生きることはキリスト“なのです。
私たちがもし、“私は何のために生きているのか”、“私が生きていることに何か意味があるのか”という疑問を持つ時があるのなら、その時はキリストを見上げましょう。
聖書の御言葉を通して語られるキリストの御言葉に私たちは耳を傾け続けましょう。そしてキリストによって生かされる真実を知って、私たちは喜びましょう。
私たちにとって、生きるとはキリスト、すなわちキリストが生きておられるので、私たちも生きるのです。
不完全で限りある、罪あるこの私たちが、完全で罪のないイエス・キリストによって贖われ、罪赦され罪から解放されたので、私たちは喜びの命を生きることができるのです。
そのような聖書の約束に信頼し、主と共に生きる、主キリストのために生きる日々を、私達これからも歩んでまいりましょう。